Episode-4 おれが戦わなくちゃ、意味がないんだ

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 橙色の落陽が町全体を染め上げる。役目を終えて地平線の彼方に落ちる太陽と同じように、一日の活動を終えて帰路に着く人々の姿も多い。ここからは闇の蔓延る時間。悪の組織が暗躍を始める時間。そして、カケル達が動きだす時間でもあった。
 今日という日付を除き、場所等の予告を受けていたわけでもない。目に見える異変が発生しているわけでもない。それはただの予感。ポケモンの姿になった事により敏感になった、野生の勘とも言えるものだった。己の感覚を信じるままにカケルが真っ先に足を運んだのは、高台の上にある学び舎だった。先日初めて白衣の女研究員と邂逅を果たした場所にこそ、何かが起こるに違いない。町中で一点絞りの、賭けに等しい勘頼みだった。
 生徒はおろか、先生たちもとっくに帰路に着いている。校舎は電気が消えて真っ暗で、不気味な静寂が敷地内に漂う。強襲を警戒して屋上などに視線を配るが、周囲に怪しい人影はない。ただ、空気が張り詰めている事は、カケルもソラも何とはなしに感じていた。
 学校に辿り着いて十分ほど経とうかという頃。真っ先に波動で感知したソラは、異変を感じた方へ素早く向き直る。カケルも遅れる形で振り向いてみれば、屋上に先程までは映らなかった影が視界に入り込んだ。
『ここを嗅ぎつけてやって来たのか、単なる偶然か。いずれにしろ、ようこそ、正義のヒーロー気取りの坊やたち』
 幸か不幸か。カケルの予感は見事に的中した。前回と同じ構図。屋上から見下ろしていた女性が、目の前に瞬間移動で現れる。
『本当はこんな学校なんてぶっ潰す勢いで暴れてもらっても良いんだけど、こっちの目的はあくまで君――そう、そこのエースバーンになった人間の坊やを試す事にあるからねえ。お誂え向きのフィールドを用意したから、そちらにご案内するよ。いかが?』
「カケル、これはあいつらの罠の可能性もあるよ。嘘を言ってる様子はないけど、信用ならないのは事実だ」
「それでも、あいつらが何かを目論んでいるのは違いない。乗っかってやろうじゃねーか! 罠だとわかっていても飛び込むのが正義のヒーローってものだぜ! さあ、かかってきやがれ!」
 凛とした眼差しで白衣の女を射貫き、拳を高く突き上げる。言葉が通じないと知った上での、手振りによる意思表示。カケルの元気な宣戦布告を見て、女性は口元に薄笑いを貼り付けた。
『そう。意思は充分って主張と受け取ろう。それでは、舞台の方に誘おう。――観察もさせてもらうけどね』
 白衣のポケットから光る小型の物体が飛び去り、カケルとソラの周囲を飛び回る。だが、二匹はそれには目もくれず、最重要の警戒態勢の人物を凝視する。女性はおもむろに手を掲げ、ぱちんと指を鳴らした。その合図でカケル達の背後にポケモンが現れた。気配を察知して振り向くより先に、“テレポート”による転移で景色が歪み、瞬時に移り変わった。

 女性の指示で飛ばされた先は、町から外れたところにある田園地帯だった。今の時期は刈田後で水稲などは全てなくなっており、休耕田を含めて一面ただの土が広がる区画となっていた。荒らすのが目的ならば、住宅地を選んだ方が妥当となる。周囲に人気も民家もない広い土地を敵側が選んできた事自体は、カケル達にとっては好都合だった。――あくまでも立地的な意味においては。
 思いきり戦えると安堵したのも束の間、カケル達の来訪を歓迎するかのごとく――本人達にとっては決して迎合しかねる変化が齎される。元より薄く蒼穹にかかっていた暗灰色の雲が徐々に厚みを帯びていき、頭上に乱層雲が広がっていく。雲を見て察するが早いか、体が感じるが早いか。到達直後、機を図ったかのようにして、空が泣きだした。
 水を苦手とする炎タイプにとって、雨そのものが痛手になる事こそないが、天候的には最悪の条件と言わざるを得ない。体に打ち付け、次々と流れ落ちていく滴の感覚に、カケルは表情を険しくする。不快感が滲むのは、何も水が苦手な体になったからだけではない。元より炎技を扱えるなどと期待はしていないが、本来主要な力の一部に先んじて弱体を加えられたと思うと、ますます手玉に取られたような気がした。
「お誂え向きってそういう事かよ。上等だ。悪天候なんて物ともせずに、ぶっ飛ばしてやる! 正義のヒーローをなめるんじゃねーぜ!」
 その気概は半分本物で、半分虚勢。ソラに手解きを受けたとはいえ、たった半日の短期間、それも実戦経験は皆無と来た。ポケモンに指示を出す立場だったのが、自らも戦う立場になって、不安に陥らないはずがない。だからこそ、自らを無理矢理にでも奮い立たせる必要があった。
 かつて師匠と慕うヒーローと遭遇した時の事を、図らずも思い出す。右も左もわからぬままに、好きな面影を倣うようにして、虚勢だけで立ち向かおうとした。あの頃よりは成長したが、初めてで不安に満ちた状況は変わらない。初心に立ち返った気分で、カケルは虚空を見据える。ポケモンになって感覚が研ぎ澄まされたからか、勘が働くようになったからか、そこに何かがあると直感が告げていた。
 視線の先、曇天を背景に一瞬の煌めきが見えた地点。紅の極光が、天を突き破った。大地を覆い尽くす柱の輝きに、吹き荒れる突風に、カケルとソラは目を開けていられなくなる。飛ばされそうになるのを堪え、風と光が止んだと同時に視界を確保する。眼前には先程までなかった巨大な影が現れていた。
 棘が生えた鋼の円盤型の体から、先端に金属の棘がある三本の触手が伸びている。宙に浮かぶその姿は“とげだまポケモン”に分類されるナットレイの姿に相違ない。ただし、本来エースバーンよりも小さいはずのその体は、近くの森の大樹をも越える巨体へと成り果てていた。カケルは突如出現した存在をまんじりともせず見上げる。
「こいつ、ナットレイ、だよな? それにしちゃさすがにでかすぎねーか?」
「これ、ダイマックスって現象だよ。ポケモンが一時的に巨大化するもののはずだけど、こんなところで発生するものじゃ――」
 ゆらゆらと不気味に揺れ動いていた触手が、敵意を持つ二つの影に伸びていく。カケルとソラは咄嗟に飛び退いた。ダイマックスによる大きさの変化もあって、辛うじて避けられたと言ったところ。ダイマックスしたナットレイの謎は気になるが、暢気に憶測を巡らせている暇は与えてはもらえそうにない事は確かだった。
「操られてるのか、単に暴れてるのか知らねーけど……こんなのが町まで行って暴れたら大変だ。ここで倒すっきゃないな!」
 相手が自分の何倍の大きさであろうと、カケルは怯まずに駆けていく。夢に見たヒーローの勇姿を投影させ、竦みそうになる足をひたすら前へと押し出す。ナットレイも触手を一本差し向けてくるが、カケルは脚力を遺憾なく発揮して高く跳び上がる。
 ただ避けるために跳び上がったわけではない。ナットレイよりも高い位置まで来たところで身を翻し、落下の勢いに乗せて標的に目掛けて踵落としを見舞った。目の近く、人間で言うなら眉間の辺りに、カケルの足技が炸裂する。脳天を捉える鈍い音が響き、初手の攻撃に確かな手応えはあった。
「ぐ、あぁあああっ!」
 だが、直後にカケルの絶叫が木霊する。攻撃を仕掛けた側のカケルが、苦悶に満ちた顔をしていた。バランスを失って落下する体を、下でソラが受け止めた。“とびはねる”攻撃を繰り出した方の足が、一度の攻防の間に酷く傷ついていた。
「カケル、しっかり!」
「くっそ……“てつのトゲ”だったよな、あいつの特性。厄介極まりないな」
 タイプ相性的には有利でも、雨の天候下だと炎技は半減する。加えて上手くコントロールしきれていない以上、余計に炎技に集中するのは無理だった。他にエースバーンとしてのカケルが使える技は、直接攻撃によるものばかり。触れた相手を傷つけるナットレイの特性を前に、炎技以外で戦うには旗色が悪かった。
「カケルは下がってて。ここはボクが戦うよ。これじゃナットレイを倒す前に、攻撃しているカケルの方が先に倒れちゃう」
 格闘タイプを持つルカリオならば、ナットレイ相手にも相性が良い。カケルを守るようにしてソラが前に出る。背丈が少し変わった今も、それでも自分より小さいはずの背中は、カケルにはとても頼もしく映る。同時に、その背中は見ているだけの自分とは、決別しなければならない。カケルは必死に追い縋り、その手を掴んで引き戻した。
「これはおれが試されてるんだ。おれが戦わなくちゃ、意味がないんだ。だから、ソラの方こそ下がって援護を頼むよ。危ないって時に手を貸してくれると助かる」
「何も相手の誘いに乗っかる必要なんてないよ! それこそ敵の思うつぼだよ!」
「それでも、おれは戦いたい。正義のヒーローだってかっこつけて、その癖自分は戦わないなんて、ポケモンになってまでそんなの嫌だ。たまには主人にもかっこつけさせてくれよな?」
 景色が小雨に煙る中、カケルは濡れた手でソラの両手を握った。そぼ降る雨でべたべたになった手から、互いに温もりを感じる。カケルの手から、力強さが伝わる。その顔は不安に満ちたものでも、痛みに歪んだものでもない。鬱屈した空模様さえ消し飛ばしてしまいそうな会心の笑顔を向けられては、ソラも根負けせざるを得なかった。
「わかった。だけど、本当にやばいって思ったら、引きずってでも離脱させるからね。無茶しないって約束を守ってくれるなら、極力サポートに徹するよ。……もう、本当に面倒見甲斐のある、仕方のない子だなあ」
「ごめ――ううん、ありがとう、ソラ。いっちょ暴れてくる!」
 後ろに下がるソラを見送り、カケルは前に出る。揃って動いていた敵が分かれた事で、ナットレイの標的は迫り来るカケルに絞られたらしい。触手を動かし、一斉に差し向けた。カケルは慣れきらない体で全速力と行かないまでも、ジグザグに動いてかわし続ける。
 人間の時は自身が戦う事こそ稀であったが、トレーナーとして敵の動きに気を配る目は養われていた。故に、巨大サイズの攻撃でも先に前フリや挙動を見極めて動く事が出来ていた。外れた攻撃が地面を叩く振動を感じつつも、掠るようなぎりぎりのところでの回避を成功させていく。
 だが、ここはあくまで田園地帯の中央。整備された道は決して広くはなく、逃げる場所は自ずと制限されていく。ましてや敵の攻撃は道を塞ぎうる程に大きい。三本ある触手の内の一つで道を塞がれ、カケルはより狭い場所での回避を余儀なくされた。
 先に配置された触手に加え、次なる触手によって挟まれ、完全に行き場を失う。立て続けに来る触手に、遂に俊足も追いつかれる。極太の鞭が、カケルの体を強かに打ち据えた。衝撃で跳ねる水と共に、カケルの足は道路を離れて田んぼの方へと落ちていく。雨で少しずつ柔らかくなっているのが幸いしてか、落下の衝撃はほとんどなかった。草タイプの攻撃は半減出来るのも追い風となり、まだまだ体は十全に動く。
 カケルは田んぼのど真ん中辺りまで飛ばされ、ナットレイも追うようにしてにじり寄っていく。その巨体は舗装された道へ向かうのを塞ぐような位置に陣取っており、土のピッチで戦う事を余儀なくされた。
 凸凹こそ激しいものの、まだ踏み締められる固さを維持している。足踏みして確認した後に、カケルは直線状に駆け出した。目標を完全にカケルに絞ったナットレイは、全身の棘の先から無数の針を放つ。カケルは愚直な突進からジグザグに動くように変更し、“ミサイルばり”の雨をかわしていく。舗装された道よりは広い事もあってか、波型になって走りにくい大地でありながら、広さを活かして縦横無尽に動き回る。針の矢は止めどなく狙い撃たれていくが、速度の乗ったカケルを捉えることは到底叶わない。その距離を徐々に詰め始めたところで、ナットレイは空中で体を回転させ始めた。
 巨体を伝っていた雨が、大量の水滴となって降り注ぐ。新たな攻撃態勢に神経を尖らせたカケルは、次なる危険を察知して足を止め、急ぎ踵を返した。高速回転を続ける巨体は、ゆっくりと降下する。咄嗟の回避で着地点から辛くも逃れ、ナットレイは粘土状の大地に深々と突き刺さった。落下の衝撃で、柔くなり始めた土が振動で耕起されていく。
 これを好機と見たカケルは、再度ナットレイに肉薄していく。土の塊を蹴り、素早く射程距離まで移動を終える。あと数歩のところで、カケルはまだ踏ん張りのつく地面から、持ち前の身体能力で高くジャンプする。中々抜け出せずに苦戦するナットレイの頭上を取った。
 隙だらけのところを狙い、満を持しての“とびはねる”。“てつのトゲ”を恐れてなどいられない。上空から落下速度を活かした蹴りが、地面に埋まったままのナットレイに直撃を果たす。巨体からすれば小さな一撃ではあるが、ナットレイ自身が苦悶の声を上げた事でダメージを与えている実感を得る。着地の衝撃で、今しがた受けた傷が疼き、歓喜の感情もカケル自身の苦しみの声に掻き消されていく。
しかし、苦しい戦いであろうと、自分が戦うと覚悟を決めた。足を止める事など許されない。カケルは切創を刻まれながら、続けざまに“にどげり”を繰り出す。痛みに悲鳴を上げそうになるのを堪え、二撃目で鋭く突き上げる。その衝撃でナットレイは宙に浮き、泥の束縛から脱出に成功する。
 浮いて距離を取ったナットレイは、攻守交替とばかりに無数の針を投下していった。カケルは即座に離脱し、次々と迫る“ミサイルばり”を後退しながら避けていく。針の大群が止んだところでカケルは一気に前進を試みるが、阻むようにして触手が次々と襲来する。しかし、うねるような触手の動きは、エースバーンとなったカケルを捉えるには至らなかった。どれだけ連続で振り下ろそうとも、“パワーウィップ”は連続で田を耕して地面を解すに終わる。
「大振りの攻撃なら避けられるぜ! 素早さ対決ならこっちに分があるっての。このまま――」
 特性には翻弄されつつも、相性的な優位性は大きい。本格的なポケモンバトルの舞台に立ったカケルにも、いくらか余裕があった。戦闘時特有の高揚感からか、緊張で動きが鈍る事もない。――それが、状況把握の慢心を突く形となる。
 無駄に場所の移動をせず、その場での回避を繰り返していた。幾度目かになろうか、空気を切り裂く鞭が上空から落ちてくる。速度は見切れない程ではない。着弾点を見極め、華麗に避けるつもりで動かしていた足が、地面にずぼっとはまった。予想外のところでバランスを崩され、カケルの足は不意に止まる。急いで引き抜き、なりふり構わずヘッドスライディングのように飛び込んだ事で、あわや直撃しかけた鞭の軌道から逃れた。
 昨日の土砂降り、今も降りしきる雨の吸収に加え、カケルの足踏みやナットレイの巨体の衝突、触手の衝撃も相まって、本来水田として機能する大地は緩くなってどろどろになりつつあった。刻一刻と変化する戦況に考えを巡らす余裕は、全力で駆け続けていたカケルにはない。今はただ、動きを鈍らせるフィールドに足を取られないようにするので精一杯となっていた。人間時代にソラと戦っていた時も、戦場の変化に出くわした事はない。敵の攻撃よりも、足場の変化に翻弄される。自慢の脚力を封じる完全な盲点に、“お誂え向き”の真の意味をようやく突きつけられた。
「少しずつ動きにくくなってきた……けど、ここで足を止めるわけには……っ!」
 足元で撥ねる泥の飛沫は、どんどん激しさを増していく。足を飲み込まれそうになる現状に歯噛みしている間にも、雨に紛れるようにして針が撃ち出される。次々と迫る攻撃をカケルはかわし続けるが、その間にも徐々に足元は悪化しつつあった。少し滑る程度だった状態から、足先が沈むようになり、くるぶしが埋まるくらいまでになっていく。次第にエースバーンとしての素早さを以ってしても動きは鈍っていき、無理して速度を上げると今度は体力の消耗が激しくなる。
 何度目かになる“ミサイルばり”の照射をやり過ごした辺りで、カケルの息は上がっていた。回避に集中するあまり、接近して得意の足での攻撃を繰り出す暇すらなくなっていた。ぜえぜえと詰まる息を整える間にも、鈍い光を宿す触手が接近する。体力的に辛くとも、直撃を喰らうよりはましだと体に鞭を打つ。だが、カケルの周囲は既に、俊敏さを殺す最悪な状況になっていた。
 逃れようと伸ばした紺色の足の半分以上が、ずぶずぶと深くまで沈む。泥の圧力に絡みつかれ、さらに深みに誘う泥濘が捕えて離さなかった。力任せにしても藻掻こうとも一向に抜けない。焦りの色を濃くするカケルの体を、極大の鞭が轟音と共に打ち据えた。激しい飛沫を上げながら、身軽なカケルの体は沼へと成り果てたぬかるみへと落ちる。
「ごほっ、いってえ……ろくに走れないのはきっついな……」
「カケル、次が来てる!」
 体を起こす間にも、容赦なく触手は迫る。ソラは波動を収束して骨の形に留め、跳び上がって一本を打ち払う。往なした直後に、武器にしていた波動の棍棒――“ボーンラッシュ”の形態を変化させ、槍状に変える。すかさず空中で投擲し、二本目の触手を弾いた。だが、ソラはこれ以上手も時間も足りない。攻撃は残り一本。カケルも急いで離れようとするが、ダメージと足場の悪さから足がもつれ、後ろに仰け反ってしまう。振り下ろされた鞭は、僅かに動いた分逸れた場所に落ちる。
 雷鳴のような衝撃音が響き、泥が噴火のように激しく舞う。直撃こそ免れたものの、カケルの体は粘土質の足場もろとも吹き飛ばされた。こねたあんこのようになった大地に、泥の飛沫を上げながら叩きつけられる。
 幸い今の一撃で受けた痛手は軽微なものだった。だが、着地した先は不運にも、他に比べて水気の多い地帯。急いで立ち上がろうとした左足は、一気に深いところまで持っていかれる。その間にも弾かれていた触手の一本を戻していて、カケルの頭上から落下させる準備に入っていた。
 差し迫る追い討ち。ずるずると沈む足。のんびり引き抜いている暇はない。まだ完全にははまっていない右足を前に出し、先に進むつもりで勢い任せに引き抜こうとする。咄嗟の抵抗はしかし、あえなく不発に終わった。勢いだけ付いて前のめりになった体に反して、沈んだ片足は抜ける事なく、前進に用いるはずの力の行き場を奪う。結果、根元から折れた樹木のごとく、カケルは顔から地面にダイブを決めた。
 不格好な姿をさらすところに、到達した鞭が鋭く叩きつけられた。ずどん、という衝突の音と、ぐちゃっ、と粘り気の強い音が入り混じる。ただでさえ粘っこい地面に、カケルの体はさらに沈んでいった。泥が緩衝材になって衝撃を和らげたのがせめてもの救い。泥の中に両手を突っ込んで起き上がるが、真っ白だった体毛は、既に元の色が見る影もなくなっていた。
「ぶはっ! ぺっ、ぺっ……全身べとべとして気持ち悪いったらないな……。このやろっ、好き勝手やりやがって!」
 全身から茶色の雫を滴らせ、口に入った泥を吐き出しながら、カケルはよろよろと立ち上がる。泥がへばりつく重い体で、沈む前に足を必死に動かす。走ろうと藻掻いて何とか早歩きくらいの速度だが、地道にナットレイとの距離を詰めていく。不安定な足場ではあるが、僅かに残る固い足場を見つけて、踏み台にする。反撃の一手に移ろうと、カケルは三度跳び上がった。横薙ぎに振るわれる触手は、脇からの蒼の光弾に弾かれた。生まれた隙に乗じて、滞空する鋼の円盤にカケルの蹴りが炸裂する。
 振り下ろしのこうかばつぐんのキックに、ナットレイは苦悶の声を上げる。だが、ダメージを負ったのは受け手のみならず。“てつのトゲ”に触れ、カケルの足にまたしても激痛が走る。度重なる被弾に、一撃目で足の負傷。決まるはずの“にどげり”の二度目は、惜しくも打てなかった。空中でカケルの体は体勢を崩し、そのまま真っ逆さまに泥田の中に落ちた。

 不利な足場の唯一の利点は、落下に対応しやすい事だった。意識も戦意も残っている。カケルはがばっと起き上がって体を振るう。泥水が新たに出来た傷に染みる。泣き言は言っていられないと、歯を食い縛ってぐっと堪えてすぐに追撃にかかる。しかし、着地で思いの外深みにはまってしまい、ぬかるみに足を取られて思うように動けない。動きの鈍った状態では格好の餌食で、ナットレイの巨体が迫る。カケルは回避を諦め、辛うじて抜けた片足を振り上げる。たった今放てなかった代わりに、鋭い蹴りで対抗する。
 横に高速回転していた体が、苦し紛れの“にどげり”を物ともせず進む。身動きの出来ないカケルに、重い“ジャイロボール”が直撃した。宙を舞う体は無様に落下し、ソラの叫び声が遠くから木霊する。瞬間、一体の空気が一瞬にして張り詰める。
 蒼い光の奔流は、ソラの手元に集まって球体となっていく。掌大まで膨れ上がったところで、手を突き出して上空の敵目掛けて放った。高速で撃ち出される“はどうだん”は、滞空していたナットレイを的確に吹き飛ばし、ソラはその隙に駆け寄ろうとする。
「カケル、ダメだっ! いくらポケモンの体になったからって、攻撃を受け続けちゃ体がもたない! いい加減交代を――」
「げほ、げほっ! ま、だだ」
 カケルはゆっくりと体を起こし、手を伸ばして制止する。地面に同化しそうな程に茶色く染まった体だが、遠目に見ても体中の痛々しい傷は見える。何より波動で生命力も感じ取れるソラは、なおの事表情を曇らせていた。しかし、カケルは薄目でソラの姿を捉え、静かに首を横に振る。
「この戦いは町を守るためでもあるんだけど、それ以上に他でもない“おれ自身”がやりたいと、戦いたいと思ったんだ。正義のヒーローなんだから、おれがやらなきゃって……。自分が本気になれる事に、最後の最後まで足掻いて、全力でぶつかりたいんだ。中途半端で諦めたらそれこそ、きっと後悔する。そんなの、正義のヒーローらしくないだろ?」
「カケルの気持ちも尊重したいのは山々だよ。だけど、それで命を落とす事があったらもっと後悔するよ。カケル以上に、ボクが! だから、何ともしてでも止めたいんだ! だから――」
 いつになく取り乱すソラに対して、カケルは酷く汚れた顔で取り繕って笑う。幾度となく攻撃を受け、攻撃する時さえ特性で傷ついてぼろぼろの体に、悪条件下の戦場で被った泥が伝う。もはや元の姿は見る影もない。それでも気丈に振る舞う姿に、ソラは喉まで出かかった言葉を飲み込まざるを得なかった。
「わがまま言ってごめんな。ソラの気持ちはもちろん嬉しいんだぜ? だけど、おれは今、なりたい自分になれる分岐点に立てている、そんな気がするんだ。もちろん支援なしじゃすぐにぶっ倒れちゃうくらい弱っちいのは自覚してるけど、自分から降りるつもりはない。これはおれの戦いだ。ナットレイだけじゃなく、自分との。だから、ソラは引き続き見守ってくれねーか? お前が見ててくれると思うと、頑張れるんだ」
「わかった。でも、さっきも言った通り、いざとなったらカケルの意思よりも命を優先するからね」
「大丈夫。どんなにやられようと、死ぬのなんか怖くなんかないぜ! こんなんでへばってちゃ、かっこわりーもんな……っ!」
 命すらも惜しまないような宣言に、ソラは胸を締め付けられる。そうじゃないと言いたい気持ちでいっぱいだったが、ここでカケルの意思を削ぐのは憚れた。口を噤んだソラには一抹の不安が残る。だが、それを決しておくびに出さぬようにしつつ、ソラは再び支援の道を選んだ。
 ソラが離れたのを見届けたカケルは、不安定な地を蹴る。体の感覚が適合しきらないだけで、ドロドロのフィールド自体はサッカーを嗜んでいた事もあって、少しずつ慣れてきていた。戦闘中に磨かれつつあるセンスのお陰で、ようやくエースバーンの体にも慣れ、より俊敏な動きが出来るようになっていく。覚悟を新たにした動きは、疲労しているとは思えない程に見違えるものになる。
 足を持っていかれるぐちゃぐちゃの地面であっても、意に介さず駆け抜ける。動きが目に見えて良くなったカケルは、ナットレイが放つ攻撃を正確にかわし始めていた。視界を塞ぐ泥飛沫も、深みに誘う土壌も気にせず、迫り来る触手や巨体を機敏な動きで回避していく。
 ナットレイの“ジャイロボール”が不発に終わったのを絶好の機会と見てか、カケルは意を決して肉薄する。相手の動きは鈍く、追いすがるのは容易だった。今度は敵も黙って地面に埋まっているつもりは毛頭ないらしい。伸ばせる触手がカケルを狙って動く。攻撃の意思を利用し、カケルは“ふいうち”で先手を取る。触手の軌道を変えるように、蹴りで僅かにナットレイの体をずらした。“パワーウィップ”が空振りに終わったところで、速度を乗せて“にどげり”を打ち込んでいく。
 鋭い棘は変わらずカケルの足を抉り、体力を奪っていく。対処できない特性を前にしても、カケルは不敵に笑っていた。痛みは決して無視できるものではない。むしろ思考を蝕み、隙あらば意識を刈り取るようなものだった。ポケモンの体になって多少人間の頃より頑丈になったとはいえ、それはあくまで多少の耐久性の向上の話。元人間である事と、体のベースは人間である事もあって、痛みへの耐性自体は決して緩和されたわけでもない。
「いつつ……けど、この戦いは、負けるわけにはいかねーんだっ!」
 痛みに抗うのも限界がある。それでもなお、棘に体を次々と傷つけられながら立ち上がるのは、カケル自身の強い根性が主だった。負けたくないのは、敗北が町の破壊に繋がるからだけではない。ここで折れては自分の努力も、想いも、全て無に帰すというプレッシャーからだった。それは一部負の感情でありながら、原動力となっていた。人間の頃には体験した事のない苦痛に苛まれようと、傍に手を伸ばせば届く安楽が待ち受けていようと、カケルは自分の体を無理くりにでも動かす事しか頭になかった。それが、自身を納得させる唯一の道だと信じて、正義のヒーローとしての大事な一歩だと信じて、泥の中を這いつくばる。

 カケルの内なる闘志が燃え上がる。人間の頃は燻っていただけの想いが、ポケモンになる事で自身が叶えうる希望へと変わった。燃える闘志に、摩耗した体力に呼応するように、体の芯から薪をくべた様に熱い力が湧いてくる。
 この機を逃す手はない。全力の“にどげり”で巨体を押し倒し、時間を稼ぐ。その間に燃え滾る己の感覚を信じ、足の裏に意識を集中し始めた。内側から沸騰するような力を感じ、水田の手頃な石を見つけて蹴り上げる。一回、二回とリフティングする中で、心に応えた炎を足裏の肉球から吹き出し、纏わせていく。蹴り続ける石は徐々に大きな炎に包まれ、サッカーボールのような炎の球にまで変わった。
「よし、これなら初めての炎技、試せそうだ。まずはその邪魔な天候。ずっとこの時を待ってたんだ。ぶっ飛ばせえぇええええっ!」
 咆哮に乗せて意思を託し、燃え盛るボールを高く蹴り上げた。その目標は遥か上空。度重なる負傷でカケルは特性の“もうか”を発動していた。内から噴き出る炎は自ずと強くなる。その炎を乗せた“かえんボール”が、天を渦巻く曇天を貫いた。暗雲に囚われた炎の球は、到達と同時に疾く爆ぜた。威力の上がったエースバーンの専用技は、鬱屈と立ち込める曇天を尽く吹き飛ばし、久しく見えなかった蒼穹の姿を顕わにした。自分の特性を把握し、自身を犠牲した上での一撃は、全てカケルの思惑通りに功を奏した。
「よっしゃ! これで炎タイプの技は半減されずに済む。となれば――ソラ、おれと対極の位置に回って、決め技のスタンバイを頼んだ!」
 元主人らしく指示を出しながら、カケルは再度手頃な石を見つけて“かえんボール”を作り出した。雨も上がった事で、カケルが手繰るボールの火力は目に見えて大きくなっていた。しかし、それは敵も警戒のレベルを上げる事にも繋がる。
 最も苦手な攻撃を懸念したナットレイは、触手を三本同時に振るう。順番に追い詰めるのではなく、一気に片をつけるつもりだった。伸びてくる“パワーウィップ”を前にしても、カケルは狼狽する様子は見せない。渾身の力を込めて、“かえんボール”を蹴り上げた。その目標はナットレイへの対抗手段としてのシュートではない。あらかじめ回り込んでもらったソラへのパスに他ならなかった。
 着地点は逸れたが、ソラが追い付ける距離に落ちそうな事は見えた。蹴り上げの際に仰け反っていたところに、しなる鞭は落ちる。偶然にも直撃だけは免れるが、激しい大地の揺れと共にカケルの体は吹き飛ばされた。だが、攻撃の矛先がカケルに向かった事で、ソラの方は完全にフリーになっていた。
「こうなる事を見越してたのは、勘かセンスか……。まったく、カケルらしいや」
「ソラっ! “ブレイズキック”、決めろっ!」
 カケルが受け身を取りつつ、弾かれたように飛び起きたところで、空中の“かえんボール”の位置までソラが辿り着いた。その足に炎を纏わせ、業火となった球体を撃ち出す。カケルが作った隙とワザを、ソラが活かす。――少なくとも、カケルの算段ではそうなるはずだった。
「でもさ、この戦いの主人公はカケルでしょ。だったら、君が決めないでどうするのさ!」
 ソラは託されたボールを標的に撃ち込む事はなかった。代わりに贈られる、キラーパスとも言える鋭い蹴り返し。“ブレイズキック”によってさらなる炎の力を帯び、カケルの手前に落ちる軌道で向かう。疲弊しきった体はもちろん、心の方も準備もしていなかった。だが、ここで応えないわけにはいかない。最後の力を振り絞り、カケルはさらに肥大した炎の球に追い縋る。
 鉛のように重い体も、引きずり込もうとする足元の泥も、今のカケルを止めるには力不足だった。力の入りにくい足場で、定まらない体勢ながらもカケルは跳躍を決める。足の裏に意識を集中させ、目いっぱい炎を吹き出す。必殺の一撃は既に決まっていた。
 ジャンプ中に体勢を整え、飛んでくるボールにタイミングを合わせる。残った力を振り絞り、蹴りに、炎に、全てを賭ける。渾身のジャンピングボレーが、ボールを再度捉えた。炎の三連がけで火球はカケルの体長以上に膨張し、鋭い蹴りで撃ち出される。初めてながらに息の合った連携の一撃は、ナットレイに真っ直ぐ突き刺さった。着弾と共に炎がナットレイを包む。悲鳴を上げる巨体は、一瞬にして燃え上がった。カケルは背中から落ち、ナットレイも地に落ちる。戦いの終わりを告げる水飛沫が二つ、晴天の下に盛大に巻き上がった。

 泥に沈んだままのカケルが気がかりだったが、直後に起き上がり、体を振って水滴を振り払う。自慢げに見せる歯も茶色くなって、満足に目も開けられないくらい、頭から爪先まで泥んこの姿には違いない。色違いのベトベターと見紛う酷い様相は、お世辞にも鮮やかな終わり方とは言い難く、文字通り泥臭い戦いだった。だが、当の本人は肩で息をしながらも、満足げに顔を綻ばせていた。泥の中でも輝きを見せる少年の眩しさに、ソラも思わず笑みが零れる。
「カケル、本当にお疲れさま! 傷だらけになっても、泥だらけになっても、何度だって立ち向かう君の姿は輝いていたよ。かっこよかったよ!」
「そっか。おれ、勝ったんだ、もんな。かっこ、よかった、か」
 勇ましく戦う背中にずっと憧れていた。一生自分には手の届かない世界なのだと心のどこかで諦めていた。だけど、もう届かないと途方に暮れる自分に別れを告げた。念願が思わぬ形で叶って、憧れた背中がこちらを向いて、自分の事を褒めてくれる。それがどこかくすぐったくて、照れくさくて、カケルは隠すようにはにかんだ。
 喘ぐように呼吸を繰り返す少年が、ようやく息を整えた頃。道路に上がってきたカケルを出迎え、ソラは労いのハグをしようとする。一度は歩み寄りかけたカケルだったが、今の自分の姿を一瞥したところで、開きかけた手も伸ばしかけた足も行き場を失ってぴたりと止まる。
「たはは……今のおれ、泥まみれですっげー汚いよな。気持ちは嬉しいんだけど、せっかく綺麗なお前まで汚れちゃうから――」
 勝利の立役者は、貪欲さよりも遠慮が先行する。愚直に頑張る姿は真っ直ぐでも、こういうところでは素直じゃない。ソラはカケルの振る舞いにいじらしさすら感じる。その様子を見かねて、ソラは汚れるのを厭わずカケルに抱き着いていた。水を浴び続けて冷え切った体に、温もりが伝わっていく。カケルもすぐにでも引き剥がしたかったが、優しい抱擁を離したくないという思いとせめぎ合っていた。しばらく躊躇って宙を彷徨っていたカケルの腕が、しっかりとソラの背中に回される。
「そんな事、気にするもんか。カケルが傷だらけになって、全身茶色く染まるまで頑張ったんだ。ちょっと汚れるくらいなんだ」
「ありがとな、ソラ。おれ、お前にかっこいいところ、見てて欲しかったから。ソラに見守ってもらって、ちゃんと戦えて嬉しいんだ。……ちょっとだけ、褒めてもらえるの楽しみにしてたの、ここだけの秘密だぜ?」
「うん。カケル、ごめんじゃなくて、ちゃんとありがとうを先に言えるようになったね。嬉しいよ。正直、ほんといっぱいひやひやしたけど、よく頑張ったね。手助けしたとは言え、他でもないカケル自身が戦って勝ったのは間違いないんだ。胸を張って良いよ」
「へへ、全部ソラのお陰だ。お前がいなかったらきっと、挫けてたと思う。口ばっかりで、体の方がついていかなかったはずだ。改めて、ありがとう。お前の“はどうだん”や“ボーンラッシュ”だって、羨ましいくらいかっこよかったんだぜ!」
 初めての本格的なポケモンバトル。ソラに手を貸してもらった時こそあれど、勝利をもぎ取ったのは間違いなくカケル自身だった。一度は死にかけた体が、ポケモンに変異して、命懸けのバトルを制した。カケルにとって恐怖以上に、自分の力で達成出来た事の喜びの方が大きかった。惜しみなく称賛の声をあげ合う中で、カケルは自分が抱いてきた葛藤に思い至り、それを打ち明けようと記憶を紐解いていく。
「聞いてて気持ちのいいもんじゃねーけど、伝えさせて。ずっとソラが称賛される事に嫉妬していたのはある。けど、実はおれ自身、これで良いのかって不安でもあったんだ。大事な戦いはソラばかりで、おれはただ指示を出してるだけ。正義のヒーローなんて名乗っておきながら、自分は本当は何もしてないんじゃないかって。だから、今回ばかりは自分で片をつけたかったんだ。そうじゃないと、おれ、正義のヒーローどころか、このまま何者にもなれない気がしてさ。ただでさえ人間なのかポケモンなのかあやふやな奴が、何かっこつけてんだって話だけどね」
「そんな事ない。カケルは正義のヒーローである前に、ボクの大事な友達だからさ。いつだってボクに光を照らしてくれる、かけがえのない友達に違いないよ。それは今だって変わらない」
「おれにとっては、お前の方が光だってーの。ほんとさ、こうやって一緒に戦えるのが誇らしいって思えるくらいに」
 眩しさを感じるのは、お互い様だった。きっと、トレーナーとポケモンという立場のままだったら、相手の思いにすら気づく事はなかった。仮にソラの方は波動で感知が出来たとしても、カケルの方は遠くない内に嫉妬が膨れ上がって、関係の悪化を招いたであろう事は想像に難くない。
 こうして抱いていた想いをぶつけ合い、確認しながら触れ合える事には、有意義さを感じていた。ポケモン同士として言葉を交わし、肩を並べて戦える事に、カケルもソラは図らずも喜びと充実感と言う共通の感覚を見出していた。カケルにとって大きな戦いを終えた事で、その感覚はより強いものへとなっていた。今はただ、孕んでいる危険性や不安よりも、目先のプラスの感情に目を向けつつ。ただ、今のカケルの具合は勝利の余韻に浸ってもいられない状態で、ソラは真面目な目つきでカケルを見据える。
「それはそれとして、帰ったら徹底的に傷の手当てをしないとね」
「このくらいなんて事ないっての! ほら、全然ぴんぴんしてるし、走るのだって――いててっ」
「本当は立ってるのだって辛いはずなのに。無理しないの。まったく、ポケモンになった途端に手当てを嫌がるようになるなんて、カケルもボクに似てきたんじゃない?」
「ソラはいつもこんな戦いをしてたんだなって思うとさ、本当尊敬するよ。無茶させてた時もあったのかなあって思うと余計に、さ」
 戦いの厳しさとはいろんな形があるが、一概には言えない。人間の時は指示を出すだけでわからなかった。ポケモンになって初めて実感する――主に傷や疲労に関しての苦しさを、カケルは身を以って体験して、感慨に浸っていた。理解してもらえるのを拒むつもりはソラにもないが、それとこれとは話が違う。無傷だったソラと違い、何よりもカケルの体が最優先だった。
「無茶をするのはカケルの方でしょ? でも、何だか面白いね。ボクはカケルが人間の頃にボクを心配していた時の気持ちが、カケルはボクが戦っていた時の気持ちが、お互いわかるようになるなんてね。やっぱりボク達――」
「似た者同士ってか? なんたって、おれはソラにーちゃんの弟だからなっ! なんて」
 面と向かうソラは、愛嬌のある微笑を口元に湛えていた。馬鹿にしているわけでも、ごまかしているわけでもない。ルビーのように輝く澄んだ瞳は、同じく濁りのない赤い瞳を真っ直ぐに見つめていた。慈愛の篭った眼差しに、仕掛けたはずのカケルが先にうろたえ気味に視線を泳がせる。
「って、おい! そこは否定するか茶化すところじゃねーのかよ!?」
「いやあ、うん。こうやって可愛がるのも存外悪くないなって思っちゃってね。それとも、カケルが嫌なら別にどっちでも良いけどねー」
 波動で大体読み取れる癖に、もったいぶってくる。悪戯っぽい笑みを浮かべている時点で、カケルに波動は見えなくても、何となくの推測はつく。意地悪な物言いに、カケルはジト目で口を真一文字に閉ざしていたが、遂には観念する。茶色に染まった体毛の上からでも、頬が赤くなってるのがばれやしないかと、少しばかり気恥ずかしさに胸を支配されていく。このまま支配されてしまっては、大事な思いを言えずじまいに終わってしまう。蔓延る羞恥心を、後悔したくない気持ちで振り払い、カケルは意を決した。
「おれ、戦うソラのかっこいい姿にずっと憧れて、その背中を追いかけたかったんだ。ポケモンになって、自分も戦ってみて、その想いはますます強くなった。ファンとかってよりは、近しくて寄り添いたい身内みたいな感覚でさ。だから、その……たまには、にーちゃんって呼んだりしても良いか? へ、変かもしれねーけど、おれっ、この姿になってから妙にソラに甘えるのが心地良くて……嫌だったら、今言った事全部無視してくれて良いんだぜっ」
「ボクを懐かせて進化させてくれたのはカケルでしょ? 立場が逆になるだけで、嫌なわけないじゃん。カケルはポケモンになって、ある意味生まれ変わったんだ。それならボクの弟になってたって変じゃない。うん。他に誰もそんな事知る由もないし、気にしない気にしない」
「無茶苦茶な理論だな、それ。でも、悪くない。ソラにーちゃん、ソラにーちゃんかあ。えへへ」
 ふにゃっと笑うカケルは、喜びを噛み締めるように繰り返す。口角を上げて顔いっぱいに花が咲く。浮かれてはいけないと自制が入りかけるが、ソラが優しく頬を撫でた事で、抑制の意思はあっさりと崩れた。もう一トレーナーと一ポケモンではない。ただそこにある姿は、本物の兄弟以上に仲睦まじく触れ合うエースバーンとルカリオに他ならなかった。
 束の間の和やかな一時は、遠雷のようなけたたましい音で引き裂かれる。カケルとソラにも緊張の糸が走る。何事かと振り返った先で、巨大化したナットレイの体が激しく発光していた。光が強さを増すにつれて、ナットレイから光の粒子が剥がれていき、その体が徐々に縮小を始めた。体長が元の種族平均の大きさまで縮んだところで、その姿は目の前で忽然と消えた。
 ダイマックス状態が解け、鎮静化したのは上々だが、手掛かりとなりうるナットレイを見失ったのは喜ばしい事態ではない。収束こそすれ、好転したとは言い難い。肩を落とす二匹は、さらに目を疑う光景を目撃する事となった。
 ダイマックスのエネルギーの残滓と思われる紅の光は、霧散する事なく漂っていた。その粒子全てが、あまねくカケルの体に吸収されていったのだ。体全体が淡い光を宿したのもほんの一瞬。直後には、何事もなかったかのように光は消失していた。
「今の、なんだ!? ナットレイから出た光、全部おれの体に吸い込まれていったぜ!?」
「カケル、大丈夫なんだよね? 体、何ともないよね?」
「うん。さっきまでと同じく、どろどろでぼろぼろになってる以外は」
「そう。それなら良いんだけど……いやまあ、そっちは良くないから、すぐに手当てして綺麗にするとして。ナットレイの対処に精一杯になってて、あの女の人の姿が消えてるのに気づかなかったね」
「ああ。でも、あいつはおれを試すって事を言ってた。だから、これからもきっとおれ達の前に現れるし、何か仕掛けてくるのは間違いない。次こそとっ捕まえて全部吐かせてやろうぜ!」
「うん、その意気だ。そのためにも、次に向けて傷を治して英気を養わないとね。と言うかその前に、どこかで泥を洗い流さないと」
「それもそうだ。このままじゃ家に上がれないどころか、町で不審なポケモンがいるとかで保護とかされたら、目も当てられねーからな。あと、さすがに体が重いし、ぐちゃぐちゃ音を立てながら歩くのも気持ち悪いからやだ……」
 意地を張って人間の時のように服を着て来なかっただけましだと、カケルは半ばやけくそ気味に言い聞かせる事にした。服もパンツも靴も汚れるよりかは、体一つで済んだだけ良かった。とは言うものの、依然として纏わりつく泥の重さには辟易とせざるを得ない。何よりヒーローのトレードマークとして巻いたままのマフラーは、もはや体と色が同化して、どこまでが体のパーツかわからないレベルになっている。げんなりしたように溜め息を吐くカケルを見て、ソラは苦笑交じりで肩を叩いていた。
「さっきまでの威勢とかっこよさはどこ行ったのさ」
「うるせーっ。全身泥まみれの時点で元々台無しだっつーの! 正義のヒーローとして、ポケモンとしての初バトルがこの醜態って、さすがに前途多難って感じするぜ」
「ふふっ。それだけ余裕があるなら大丈夫そう。心配しなくても、君はまだまだこれからさ」
「ああ。あの白衣のやつを見つけるのはもちろんだけど、これからも今まで以上に活動を頑張っていかないとだからな! どんどん成長してやるっての!」
 体の節々は痛み、傷は疼き、汚れきった体は疲弊している。決して満足のいく勝利とは言えないが、今は充足の方が勝っていた。たった一戦、試練のような刺客との戦闘を終えただけで、やる事は山積みである事に変わりない。それでも、これから歩む事になる険しい道のりの、その一歩目を自分の足で踏み出せた事は、大いに意味のある事だった。
 雲が晴れて光が降り注ぐ。青空に七色の橋が架かった。明るく照らされた道を、カケルとソラは並んで歩く。その行き着く先が光に満ちたものでなかろうとも。待ち受けるものが楽観すべき状況ではなくとも。己の意志で真っ直ぐ突き進むと決めた。その歩みはふらふらとしていてゆっくりでも、居場所を刻むように確かなもので。べったりと茶色の足跡を残しながら、今はただ一時の安息を求めて、正義のヒーローは日常へと戻りゆくのだった。

読み切り短編を意識した4話構成の短期集中連載、いかがでしたでしょうか。これにて大枠の1話は終了となります。週刊少年誌とかでもありますよね、こういう形式の読み切り。今回はそれを意識して、初めてこういう形を取って連載をしてみました。
6万字という長いのか短いのかわからない中に、続編と繋がるような要素は散りばめておきました。ただ、ここで終わっても一つの短編としておかしくない締め方にはしました。つまり、続きがあってもなくても良い、都合の良い連載となっております。
続きがあるのかは作者自身にも未定です。続くかどうかは読者の方次第かも?というのはさておき。あったらある、なかったらない、くらいの気持ちで読み終えていただけると幸いですね。

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