昨日までの自分にさよならを

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気づけば朝になっていた。白んでいく空を仰いで、彼は小さくため息を吐いた。厚い雲が空を覆っていた。少しだけ雪が降った。……最期に見る雪になるだろうな、とか思った。
いやはや、困った。
グレースを探していたのだが、何故だか家にいなかった。彼はどうにも胸がざわついて、一晩中あちこち深夜の街を走り回ったのだが、結局会うことはできなかった。

『……』

まさか、愛想を尽かされてしまったのだろうか。そんなことを思った。

まあそれでも仕方がなかった。
それならそれで、この街ではないどこかに彼女がいるなら、悪くないなと思えた。……いや、職場に顔も出さずに、そんなことを考えるのはさすがに早計か。そう思い至って、ちょっと笑えた。
懐かしい雑居ビルが、もうすぐそこにあった。


『うおおおっ、ディット!! お前、おま、おっ、どこ行ってたんだ!!』

『二週間も顔出さないなんて一体どうしたんだお前は!! 連絡入れろ連絡を!!』

『グレースちゃん凄かったわよ!? 謝った!? まだ!?』

『……悪かった』

解りきっていた。罵声を浴びることなんて。むしろ、予想通りに詰られたことに安心感すらあった。上司やら同僚やらが目を剥いているのを見て、彼は反射的にコートの襟に口元を隠して、そのまま自分のデスクに向かった。
埃を被ったパソコンを、軽く叩く。もう、これに打ち込むことは何もない。

デスクから、職場を見回した。

『……グレースは』

『あの子、今は役所に突撃してるよ。道路工事を止めるだか何だか、大分怒った感じで。よっぽどストレス溜まってたんだろうねぇ誰かのせいで』

『……わかってる』

俺から電話掛けておくよ、と上司は言った。胸騒ぎがすっと引いていくのを感じた。どうやらグレースは、いつも通りにやっているらしかった。安心した。もう、その安心を恥じる必要はなかった。
もう一度、職場をゆっくりと見回した。ここにも大分世話になった。人間みたいな思い出が沢山あった。人間みたいに過ごせた場所だった。
まだ、橋が落ちるまでは間があった。彼は椅子に体重を任せて、懐かしい固さに目を閉じた。





最後の確認だ。
自問自答する。これでいいのかと。
まだボーダーラインは足元にあった。まだ、戻る選択肢はあった。

怖くないかといえば、嘘になる。
これからすることを、正しいとは思わない。
受け入れられるという推測は楽観的だ。
何も変えられないという諦念は悲観的だ。

それでも。何かを成してみせるという、決意じみた確信だけはあった。
一歩踏み出すだけの力が、彼にはあった。


ばたん、とドアが開く音がする。彼が目を開けば、そこには愛した人が立っていた。

『……お帰りなさい』

声を震わせて彼女は言った。色々思うところもあるようだった。ああ、そのしかめ面が、愛しくて、愛しくて、彼は知らないうちに笑っていた。

『何笑ってるんですかディットさん』

『ああ……ただいま』

会えて良かった。顔が見られて良かった。
心の底からため息が出た。暖かい息だった。別に寒くもない室内にほんのりとそれは白く曇って、自分にもこんな息が吐けたのかと彼は驚いた。


地鳴りがした。


『……来たか』

立ち上がった。もう猶予はなかった。彼は職場を飛び出して、雑居ビルを転がり出て、街道に立ち。
そこから、山を仰ぎ見た。
頂上の辺りから、砂煙が立ち上っていた。一瞬噴火でもしたのかと見紛うそれは、紛れもなく、橋が滑り落ちている証だった。
地鳴りは続いている。誰かの悲鳴が聞こえてきた。
彼を追いかけるようにして出てきたグレースも、その砂煙に気がついた。

『何ですか、あれ』

地鳴りは大きくなる。
砂煙は近づいてくる。

『何なんですか、あれは』

橋は転がり落ちる。
山を滑り、速度を増し、一直線に。
間違いない。彼の設計は成功していた。このまま進めば、今出てきた雑居ビルを轢き潰すだろう。それまであと一分か、二分か、三分か。

『始まった』

『いや、あれ──』

グレースはどうすればいいのかわからないようだった。ただ震えていた。彼はそれを横目に感じながら、まだ雲の厚い空を見上げる。マメパトが、そして多くのレジスタンスの鳥ポケモンが、山の彼方に見え始めた。
時間はなかった。
だが、丁度良かった。
彼が考えていた中で、最も理想的なパターンだった。

灰色のコートに手をかけた。これとも長い付き合いだった。袖を抜き、また袖を抜く。左腕のワインレッドを指でなぞった。
地鳴りは大きくなる。
脱いだコートを、彼はグレースに押し付けた。

『……ディット、さん?』

『今まで、世話になったな』

言いたい言葉があった。

立ち竦む彼女の前に回り込んで、その瞳を覗き込んだ。
彼女の瞳に映るのが自分の姿だけになったのを確認した。瞳に映る人間みたいな顔は、心底、人間みたいに笑っていた。

『愛してる』

さて。愛し合う人間は何をするんだった?

──
──
──

……強引に、彼女の十秒を奪った。

もう、それで終わりだった。

山に向き直る。

地鳴り。

砂煙。

彼の作り上げた殺戮は、もう街に近い。

彼は駆け出した。
山へ、山へ。人間の脚を限界まで動かして、人間らしくない速度を出した。作り物の関節がミシミシと唸った。ああ、もうこれも限界か。
最後に作り物の指を見た。もう、恐れることはなかった。

足首の人間を脱ぎ捨てる。
脱げた靴が道に落ちた。

下半身の人間を脱ぎ捨てる。
脱げたズボンがぱさりと言った。

上半身の人間を脱ぎ捨てる。
脱げたシャツがはらりと揺れた。

全てを脱ぎ捨ててしまった。
もう、そこに人間はいない。
元から人間なんていなかった。
それが事実だ。
彼は、人間ではない。

非人間は空を仰ぐ。羽ばたく鳥ポケモンの中、力自慢のウォーグルを認識した。
へんしんする。
それは翼を生やし、脚を生やし、一思いに空へと羽ばたいた。山へと一直線、それは一本の矢となって、砂煙の中へと突き刺さる。何も見えてはいない。それでも、確信と共に。

がん、と音がした。
ウォーグルの姿が、橋の側面にぶち当たった音だった。

「っああああああっ!!」

咆哮する。掴んだ橋に力を込める。コンクリートがばきばきと音を立て、本来の進路からほんの少しずれる。それで十分だと、彼は知っていた。
融けかけの雪で覆われた、山の斜面はよく滑る。走る橋に角度が加われば、それだけで橋は傾き、ひび割れ、横転し、進路をずらし、地面に刺さり。

一分過ぎた。
山の麓には、斜面の大地を大きくひっぺがして、半分ほど土に埋もれた、横倒しの橋の姿があった。
街まで、あと30cmほどのところに埋もれていた。
街は、無傷だった。

「……ふぅ」

ウォーグルの翼を羽ばたかせ、彼は一つ息をついた。
安心して、しかし、まだ何も終わっていないと上を向く。幾つもの声が、降ってきていた。

「なんで」

「どうして」

「おかしいだろ」

「ありえない」

そんな声が降り注ぐことなんて、解っていた。
仰いだ空から、ポケモン達が襲い来る。何匹も、何匹も、嘴を光らせ、爪を剥き出し。そうなることは解っていた。彼は裏切り者だ。

ウォーグルの姿を取っていた彼は、へんしんを解く。一瞬彼は重力に従い自由落下し始めて、すぐに速さ自慢のヒノヤコマの姿にへんしんした。
大きく翼を広げて急旋回。真っ先に向かってきていたオリジナルのヒノヤコマのニトロチャージを間一髪で避けて、次に向かってきたココロモリの攻撃もまた避ける。
回り。
回り。
飛び続ける。
惹き付けるように。焚き付けるように。お前達の裏切り者はここにいるぞと翼をはためかせる。

「なんで、なんでですか、メタモンさん!!」

マメパトの声がした。コアルヒーの姿からハトーボーの姿にへんしんを切り替えながら、彼は全方位に目を向ける。マメパトの姿は、他のポケモンに入り交じって区別がつかなかった。

「貴方は!! 僕たちの、ヒーローだったのに!!」

違う。
違う。
そうじゃない。
だが、詰りを受け止めた。言い返すことはない。どれだけ事実と違っても、そう思われていたことは事実だから。
誰かの撃ち込んできたエアカッターを躱す。誰かの振り抜いた翼を避ける。誰かの体当たりが背中を掠める。

「どうして!! どうして人間なんかに!!」

彼は反撃しなかった。ただ避け続けた。誰の命も奪いたくはなかったし、誰の命も奪わせたくなかった。
ただ、自分だけを見ていればいい。

「僕は信じてたのに!!」

ハトーボーの姿をピジョンに切り替える。ピジョンをグライガーに、グライガーをバルジーナに、バルジーナをウォーグルに。
切り替えて、避ける。切り替えて、躱す。切り替えて、捌く。切り替えて、受け止める。

「こんな……こんな、こんなのって!!」

……ふと、視界が明滅した。何も見えなくなって、すぐ後に鈍い痛みを感じた。誰かがフラッシュを使ったのか、久々にメタモンらしく戦ったことに己の体が耐えられなかったのか、彼には判別がつかない。
だがどちらにせよ、こうなることは解っていた。そのつもりだった。やるべきことではなく、やりたいことを優先したのだから、当然の報いだと。
吹き飛ばされる。風を感じる。コンクリートの臭いがして、衝撃を感じた。
どうやら、街中の地面に叩きつけられているようだった。

へんしんを解除する。もう、避ける気力はない。
滲む視界が明るくなれば、灰色の空に幾つもの影。
これで終わりだ。彼は認識した。
さすがに、ここまで粘り続けたのだから、グレースも、同僚達も、人間達が逃げ仰せるだけの時間は稼げたはずだ。
よかった。
誰も死ななかった。
誰も失わなかった。
よかった。
何とかなって、本当によかった。

ばさりと羽音がした。
ぼんやり世界を埋める影は、マメパトの形をしていた。

「こんなのってないですよメタモンさん!!」

「……お前達が死ぬよりは、マシだと俺は思ったよ」

そして、彼の視界は黒に染まった。









『左に転がって!!』

「──な」

はずだった。
それなのに。
耳に届いた言葉に、身体は勝手に動いていた。
よく通る声。耳に馴染む声。愛しい声。
なんで。

彼は頭を振る。纏わりつく黒を振り払う。攻撃を外したマメパトをしっかりと捉える。
その向こう側に。

グレースが立っている。

「お前、なんで──」

『右の方向から攻撃!! 後ろに避けてマメパトにへんしん!!』

身体が動く。目の前をヤナップのタネマシンガンが掠めていった。マメパトにへんしんする。

『後ろから攻撃!! 飛び上がって四時方向のダンゴロにへんしん!!』

身体が動く。地面をハーデリアが凪ぎ払うのが見えた。ダンゴロにへんしんする。質量の変化と共にその身体は急降下して、着地の衝撃はハーデリアを転がした。上をちらと見れば、空中を狙ったヒノヤコマのニトロチャージが空ぶったところだった。

『八時方向から攻撃!! へんしん解除して伏せて!!』

へんしんを解除する。ぐいと地面に身体を伸ばせば、すれすれをガマゲロゲのハイドロポンプが掠めていった。
疲れていたはずの身体がすいすい動く。限界だったはずの意識が繋ぎ止められている。それも不思議だった。だったが。

グレースを見る。どうどうと地面を踏みしめ、彼をじっと見つめる人間を。そんな目を見るのは初めてだ。……不思議と気分が昂った。

『頭上のポワルンにへんしん!! ウェザーボールで地面を凍らせて!!』

空に舞い上がり、地面にエネルギーを叩きつけた。ハイドロポンプで濡れた地面は鏡のように凍りつき、駆け寄ってきていたポケモン達を転ばせる。

『もう一回ダンゴロにへんしん!!』

指示通りにダンゴロになって地面の氷を叩き割れば、辺りに氷の破片が散らばった。近くにいたポケモンたちは軒並み吹き飛ばされたのを確認して、彼はまたメタモンに戻る。
横目に、転んでいるホイーガを捉えた。

『九時方向のホイーガにへんしん!! ──来て、ディットさん!!』

「……ああ!!」

へんしんする。タイヤ状になった体をその場で二、三度回してから、彼は一気に駆け出した。大地を踏みしめ、体躯を唸らせ、街道を一気に駆け抜けて。
ブレーキをかける。ぎぎ、とコンクリートが擦れる音がした。がんがんと意識が軋んでいたが、まだ彼は立っていた。へんしんを解除する。

見上げる人間の顔は、信じられないくらい高かった。本当は、それが普通の高さだった。
この角度も中々いいな、なんて思った。
グレースは彼と自分の手を見比べて、半ば呆然としている様子だった。

『……私、こんなにやれたんですね』

……ああ、そうか。彼は思い出す。
お前は元々、トレーナーだったっけ。

前を見た。着陸したポケモン達、道路からのポケモン達、昨日まで彼を信頼していたレジスタンスのポケモン達の視線が、鋭く彼を射抜いていた。
それに、心が痛まないわけではない。それでも。
清々しさの方が、ずっとずっと勝っている。

『何がなんだか、上手く読めないんですけど。多分、これ、前に見たザングースみたいなポケモン達なんですよね』

「そうだ」

上からの言葉に頷いた。もう、人間の声帯は崩してしまった。それでも彼女の言葉は解ったし──何となく、通じ合えるような期待もあった。

『きっと、あのポケモン達も、辛いことがいっぱいあったんでしょうね』

「そうだ」

『でも。……だからといって、こんなのは、間違ってます』

「お前も、そう思ってくれるのか」

『まだ行けますか、ディットさん』

当然だ。
彼は身体を震わせる。

……刹那。
全身の力が、急に抜けた。
意識ばかりが逸って、身体が言うことを聞いてくれない。勝手に地面に倒れ込む。動かない。何処も、言うことを聞いてくれない。
確か、この現象は──

『っ……PP切れ……!!』

駄目だ。ここで立てなきゃ、駄目だ。彼は目を見開く。だがそれだけ。意識はこんなにはっきりしているのに、指の一本も動かない。重力が全身を押さえつける。忘れていた。ポケモンとして生きるのは、こんなにキツいものだったか。

動かない。瞼すら、重力に耐えられない。視界が薄れていく。不味い。このままだと、彼女を守れない。
レジスタンスは牙を剥き出しにしている。人間を殺そうと、裏切り者を殺そうと。駄目だ、絶対に、絶対に。それでも。

風を切る音がする。
もう、何も見えない。耳を澄ませる。足音は聞こえなかった。空を飛んでいるのだろうか。彼は考えて、それでも身体は動かない。不味い。不味い。何も出来ない。守れない。守れない。守れない。

音が迫ってくる。
容赦なく。遠慮なく。瞬く間に。
……そして。

「……ん?」

頭に何か当たる感覚を、彼は覚えた。
何だ、今のは。ポケモンの攻撃じゃない?

一瞬遅れて、ぷしゅ、と音がした。

たちまち体の疲れが癒えて、彼は再び立ち上がる。一体今何が起こった?
見上げてみれば。
グレースの手にPPエイダーが握られていた。

まさか、誰かが投げて寄越した音だったのか。しかし、誰が? 辺りを見回す。もう人らしい人の姿は近くにはグレース以外──いた。
少年の姿があった。大きな台車に段ボールを幾つも積んで、それを押す少年の姿が。
少年はにやりと笑って、また段ボールの中から道具を幾つか投げ渡してくる。彼はその少年の尻の辺りに、確かに黒い尻尾を見た。
ゾロアだ。

「そいつは僕からの餞別だ!!」

「お前……」

どうやらどさくさに乗じて、近くの店から道具を根こそぎ盗んできたらしかった。
……お前は、始めからそれが目的だったのか。
乾いた笑いが口から漏れた。何てやつだ。どうやら彼は、ゾロアの計略に一枚噛まされていたようだった。
だが、別に悪い気はしなかった。

「じゃあ、よい人生を!!」

少年は手を振って、また急ぎ足で台車を押していく。ガラガラと車輪の鳴る音が遠ざかっていく。彼は動くようになった体で、再びレジスタンスを見据えた。
……よい人生を、ときたか。もう、人間の姿は捨ててしまったのに。

また、ぷしゅと何かがかけられた。キズぐすりだったのだろうか、彼は痛みが引いていくのを感じた。戦える。

痺れを切らしたのか、誰かがエアカッターを撃ち出して来ていた。彼は遠くに見えたイワークにへんしんしてその刃を体で受け止め、ヒノヤコマに切り替えてポケモン達の最中に突撃していく。

『五時方向から攻撃!! ニトロチャージで振り切って!!』

声に応える。

『ほうでんが来ます!! 十二時方向のマッギョにへんしん!!』

声に応える。

『跳ねて!! そのままヒノヤコマに戻して!!』

声に応える。
どうして人間と共に戦うポケモンが強いのか。彼はそれを少し理解した。ああ、後ろに立ってくれる誰かがいること、指針を示してくれる誰かがいることの何と心強いことか。
笑っていた。
百のポケモンを前にして、千の恨みを前にして、知らぬ間に彼は笑っていた。


「何でだ」

……そんな声が聞こえた。

「どうしてこんなことをしているんだ、メタ!!」

瞬間、彼を取り囲んでいたポケモンの群れが裂ける。生まれた隙間をぶち抜いて、ヒノヤコマの姿にとびひざげりが叩き込まれた。

「どうしてっ!!」

「っ──!!」

地面に転がりながら、彼はへんしんを解除する。前を向けば、ぜえぜえと息を切らしながら、コジョンドが身構えているのが見えた。指先まで怒りで震えていた。その姿にへんしんする。

「忘れたのか!? 人間が私達にしたことを。家族を奪い、仲間を奪い、大地を奪い!! 人間は私達から全部を奪い去った!! それを忘れたって言うのか、メタ!!」

その言葉に、ゆっくりと首を横に振った。忘れてなどいない。それはれっきとした事実であって、変えられるものではない。
しかし。
彼はもうずっと、長い間人間の中にいた。人間を知り、人間を演じ、人間と共にいた。そして認識した。人間もポケモンと同じように、日々を必死に生きている。あの山でかつて起こしたことも、その必死に生きる中の過程だったのだと。仕方なかったと。

恐怖は知識が薄れさせた。もう彼は、よくわからないからと人間を恐れたりしない。怒りは時間が忘れさせた。もう彼は、仲間を失った義憤を抱くことはできない。憎しみは愛に塗り潰された。恐れも怒りも失えば、そうなることは明らかだった。
もう解っていた。彼は、レジスタンスと同じものは見られない。

「こんな、人間に、人間なんかに──」

「それでも」

どれだけ言葉を積まれようと。
どれだけ汚点を語られようと。
それでも。

「……俺は人間を好きになったんだ!!」

「お前って奴は──!!」

コジョンドは叫び、同時に姿勢を低くする。跳び膝蹴りの構えだ。彼はそれを見据えて考える。どうする。応戦するか、回避に徹するか、それとも──
……そこまで考えて、ふと気づいた。そうだ。今、自分だけで考える必要はない。後ろに、彼女がいるじゃないか。
コジョンドが走り出す。そのまま身体を振り上げて、とびひざげりの姿勢に移行する。

ちら、と視線を後ろにやった。グレースと目が合った。彼女は頷いていた。
彼は動かない。コジョンドの姿のまま、迫り来る膝を見つめている。今度当たってしまえば一撃で意識を刈り取られかねないそれは、あとどれだけでぶつかるだろうか。十秒? 五秒? それとも?
だが、どれでも良かった。

『……へんしん解除!!』

耳に声が届く。同時に、彼は地面に突っ伏した。

頭上の空間を、コジョンドの一撃が突き抜けていった。遅れて、地面に何かがぶつかる音。
今だ。彼は再びコジョンドの姿にへんしんし、立ち上がりかけのコジョンドの首筋に脚を添える。いつでもローキックを放てるような、そんな構えで。
……勝負はついた。

「まだだ、私達は復讐する」

「いいや、もう終わりだ、コジョ」

「憎しみを人間の血で洗い、大地をこの手に取り戻す。そのためなら……ために、なら……!!」

「終わったんだ、もう」

脚を添えたまま、コジョンドを見下ろす。何だか彼女を押し倒しているように錯覚して、彼は何ともいえない気分になった。

「私達の憎しみはこんなものじゃない」

「それでもだ」

コジョンドも彼と同じくらい、苦い顔をしていた。自分と同じ顔を、同じ姿をしている彼を、本当はずっと待ち望んでいて、今見ても少しは思うところもあって、しかしその全てに裏切りへの怒りでもやが掛かっていた。

「なあ、メタ」

彼女は言う。

「あの人間が好きなのか」

「……そうだ」

「お前はポケモンだぞ」

「ああ」

「……最初から、こうやって……裏切るつもり、だったのか」

「まさか──」

その言葉を否定しかけて、彼は口をつぐんだ。ただ否定するだけでは、目の前のポケモンに嘘をつくことになる気がした。彼女とは道を違えることになったが、彼女を愛することはできなかったが、それでも彼女に嘘はつきたくなかった。

「──いや。本当は、ずっと、こうしたいと思っていた」

だから、そう答えた。
コジョンドは何も言わない。ただ沈黙だけがあった。彼はその沈黙を見つめて、見つめて。呑み込まれるような心地すら覚えた。


『──て!! 避けて!! ディットさん!! 避けて!!』


……そのせいか。飛んできていた警告に、気づくのが遅れた。
何かが勢いよく、彼の背中にめり込んだ。彼はコジョンドの上から吹き飛ばされて、グレースの手前1mのところに転がる。

「ッかハぁっ……!?」

そんな声が漏れて、へんしんが解けた。

顔を上げれば、ガントルがコジョンドの横にいた。背中をずきずきと苛む痛みは、うちおとすによるものだったらしい。狙い澄まされた一撃だったのだろう、彼は急所を射抜かれて、また動くこともままならなくなっていた。

『ディットさん!!』

駆け寄ってくる足音がする。キズぐすりを使うつもりだろう。

……駄目だ。

彼の目は、ガントルに釘付けになっていた。一言も発さずに、次のうちおとすを構えているガントルに。今度は……グレースを狙っているガントルに。
そして、岩の弾丸が撃ち出される。

「グレースっ……!!」





グレースの眼前で、星が弾けた。


下から彼は仰ぎ見る。咄嗟に顔を腕で庇ったグレースを。その手前で爆発した弾丸を。
上空に見える、レディアンを。

「……おっ、間に合ったぞ!!」

レディアンはそう言いながら、彼の真横に着地した。すぐ後に、キズぐすりが吹き掛けられるのを感じる。痛みは引いて、また彼は立ち上がった。
横を見た。そのレディアンには見覚えがあった。あのバーで、バーテンダーをしていた、あのレディアン。

「それが、本当の姿かい、お客さん」

「……まあ、な」

まじまじとレディアンを見つめれば、その指先にはまださっき放ったらしいスピードスターの残り香が燻っていた。
逃げなかったのか。彼は言った。そうすればレディアンは愉快そうに笑って、逃げる必要なんてなかったぞと返した。何だそれ、と彼は言いかけて。
少し、地面が揺れるのを感じた。
ポケモンのわざではない。橋が落ちるときの地鳴りでもない、もっと別のもの。

人間の足音。
一つではない。十重二十重に折り重なった、人間達の足音の響き。街の喧騒。

「これは」

「大変だったんだぞ? ……と、言いたいけど。皆、何か起こるだろうことは察してたからね」

振り向けば。

人間が、並んでいた。何人も、何人も、何人も。
ポケモンを連れて、何人も、何人も、何人も。
傷一つなく、何人も、何人も、何人も。

「……まさか、北側道路からの増援が来ないのは」

「全員、食い止めてるぞ? 人間と、そのポケモンが」

レディアンは言った。不思議なことではなかった。誰もがレジスタンスを怪しんでいて、誰もが何かが起こると察していて。そしてその日付がはっきりと分かったからには、団結するのに障害はなかった。
彼は地平を見渡した。人間が並んでいる。何人も、何人も、ポケモンと共に。グレースが、彼と共に戦ってくれたように。
コジョンドもまた、それを見渡していた。どこまでも人間がいる姿は肝が冷えたが、しかし同時に、どこか感心すら覚えていた。

「……撤退だ」

彼女は言った。
横で岩の弾丸を用意していたガントルが、攻撃を中止して彼女を見上げる。

「……リーダー」

「撤退するぞ」

レジスタンスの首魁は、もう一度そう言った。
憎しみが消えたわけではない。悲しみがどうでもよくなったわけではない。ただ、彼女達の、完敗だった。

「怪我をしたもの、戦死したものは近くにいるか。いるなら余裕があるものが背負ってくれ」

続けてそう言う。言いながら、彼女の視線は、愛した彼に注がれていた。たった一人で戦い続けて、人間のために立ち続けた、愛した者に。
どうして。
やはり思わずにはいられなかった。私達の切り開く世界にこそ、お前の居場所はあるのに、と。

「……いない」

……思考が、ガントルの言葉に断ち切られた。

「……ガントル?」

「誰も、死んでない。誰も、怪我をしていない」

負傷者が、いない?
信じられなくて、コジョンドは辺りを見回す。……本当に、その通りだった。ずっと、彼と戦っていたレジスタンスのポケモン達は、疲れきってこそいたが、誰も傷を負ってはいなかったのだ。

「そうか──」

そして、はたと気づいた。また彼を見た。

「──良かった」

彼は、ポケモンも守りたかったのだと。
レジスタンスが命を賭けて切り開く未来に、全員が揃うことはない。誰かは死ぬだろうし、誰かは帰らないだろう。
その方が嫌だったのだと。自分が居場所を失うよりも。

「……メタ」

許したわけではない。
納得したわけではない。
それでも、理解した。

「私はお前を許さない」

「だろうな」

「お前を憎む。きっと、人間よりも。何よりも」

「解ってる」

「……それでも」

踵を返した。
レジスタンスは撤退する。山へと向かって撤退する。一匹たりとも、欠けることなく。

「お前のことが好きだと思う気持ちを、棄てきれないのは、なんでなんだろうな」

戦いは終わった。





「……」

彼は、成し遂げた。
やりたいと望んだことを、成し遂げた。見上げれば、分厚い雲の切れ間に青空が覗いていた。清々しい気分だった。

それにしても。彼は自分の体を見る。メタモンのそれに戻してしまった己の体。何とも物寂しいな、なんて思った。
本来なら、途中で力尽きる心づもりだった。こうしてただのポケモンに戻った自分をまじまじと見ることなんてないはずだった。
しかし彼は生きている。

「困ったな」

後ろに目をやれば、山を眺めて立ち尽くすグレースがいた。

まあ、元のようには戻れないことはわかっている。ディットと名乗って振る舞っていたあの人間擬きの身体は作り直せない。あの人間擬きの声帯も作り直せない。いや、直せたとて、メタモンだと知られたからにはもう人間の中には戻れまい。
一歩、踏み出した。ひび割れたコンクリートを往く。
これからどこに行こうか。そんなことを考えた。あの山ではないどこか、この街ではないどこか。ゾロアのことを思い出す。あのこそ泥はどこに行くのだろうか。あるいは探しに行くのも悪くないかもしれない。
ポケモンとして踏みしめるコンクリートは新鮮だった。これからは、この感触に慣れていこう。

また空を見上げた。
もう雲はどこにもない、澄みきった青空が目に眩しかった。





刹那。

その視界は闇に包まれる。

狭い。何故か最初にそう感じた。彼は両肩が圧迫される心地がして顔をしかめる。しかしそのすぐ後に、正体不明の心地よさが襲ってきた。
まるで暖められた布団のような、ぬくぬくとした柔らかさを感じる。
何だこれ。
何だこれは。

そして彼は思い至った。

……モンスターボールだこれ。

「いやいやいやいやいやいや」

全力でのたうち回る。キズぐすりのおかげか、拘束を振り払うのは簡単だった。再び青空の下に飛び出して、辺りを見回す。
こちらを向いているグレースと目が合った。ゾロアが投げてきた道具のなかに、モンスターボールもあったのだろう。彼はそんなことを考える。
いや、だからってここで投げるか?

「お前っ!! お前、それは……お前……ないだろう!!」

『あっ、なんか怒ってるっぽい。まあ怒りますよね』

彼女は歩いてくる。たった数歩で彼の前までやって来た彼女は、ひょいとその場にしゃがみこんだ。
照れ臭くってちょっと笑えた。頭上からも同じような照れ笑いが聞こえてきた。

『ディットさん』

彼女は切り出す。見上げれば、彼女の顔は本当にすぐそばにあった。目頭がいつもより赤いように見えた。
ああ。やっぱり、飽きない顔だ。

『私、思ったんですよ。こんなにディットさんのことが好きだったのに、私全然貴方のこと知らなかった。私、ずっと私だったはずなのに、自分のことも全然わかってなかった』

そう言いながら、彼女は掌にあったモンスターボールを見せた。今度は半ば恐る恐るといった様子で、彼の前まで差し出した。
彼女がこれを握るのはどれだけぶりなんだろう。そんなことを思った。そして、彼女にそれを握らせたことに、ちょっとだけ優越感を覚えたりした。

『これからも私に付き合ってください。私達に本当は何ができるのか、わかるまで』

「……ああ」

仕方ないな、と彼は笑った。
紅白のボールの真ん中を軽く小突いて、一匹のポケモンは光になった。
一揺れ。
二揺れ。
三揺れ。
……カチ、と音がして。

すぐに彼は、ボールから外に戻ってきた。愛しい人間を見上げて、何だか可笑しくて身を竦めた。


『にしても、やっぱり元のディットさんには戻れない感じですかね』

「……やってみるか」

昨日までの己の姿を思い出そうとした。取り敢えず体を捻って造形を試みる。確か、手があって、脚があって、頭はこうで、胴体はこうで、指先はこうで──

『んー、なんか違う』

「俺もそう思う」

人間っぽい何かは、出来たと思った。伊達に演じていたわけじゃない、割りと人間に似せられたと彼自身考える。しかし、絶対に顔も、背格好も、違うような自信もあった。
第一、関節とか筋肉の作りはめちゃくちゃだから立っているだけで中々疲れる。多分顔もこわばっているだろう。

『やっぱ思い出しながらじゃダメかぁ。写真あったかな……』

グレースは彼の横でうんうんと唸っていた。
ああ、やっぱりこの位の角度で見る方がいいな、なんて彼は考えて、らしくないなと自分を恥じた。
……そうだ、と突然閃いた。彼は人間っぽい身体をへんしんさせて、目の前のグレースを真似てみる。体を一回り小さく、手足を細く、髪を伸ばして──彼がへんしんを終えた辺りで、彼女もそれに気がついたようだった。

『ん、私の真似ですか? あー、大分似てますけど。まあずっと私のこと見てたでしょうしね!! というかちょっと美化されてません?』

「そうか?」

彼女は己そっくりの体をぐるりと全身見回して、やはり似ていると微笑んだ。彼も笑おうとした。胸が熱を帯びるのを感じた。そういう笑い顔を見るのが幸せなんだと、もうとっくに気づいていた。

『でも、まーだ笑顔がぎこちないですねぇ。私はこんな風に笑いません』

「……そうか」

『うーん、どうしよっか……そうだ』

グレースは微笑んだまま、一瞬いたずらっぽく首を傾げて。
そして二歩くらい、自分そっくりの彼へと踏み込んだ。

──
──
──

たっぷり三十秒、持っていかれた。


『うん、ばっちり私になりました』


ディットの人生は、まだ始まったばかりだった。



【SS】チョコレートカラー・ボーダーライン 完

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