55杯目 スキ・キライ・スキ

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 日が昇り。日が傾きかけた頃。
 木陰。木漏れ日が揺れる中で。

《――分かった?》

 つりあがった紫の瞳が子イーブイ達を見下ろす。

―――でもね、だまってとびだそうって言ったのはボクなの

 少しだけ及び腰な茶イーブイが、白イーブイを庇うようにエーフィへ反論を試みる。

《けど、それについて行くって決めたのはラテちゃんだよね?》

 エーフィの返しに、茶イーブイは言葉を詰まらせる。

《そうだよね? ラテちゃん》

 隣の白イーブイに、エーフィが言葉を向ければ。
 彼女はその言葉に顔を上げて、誤魔化すようににこっと笑う。

《ラテ》

 けれども、エーフィの声で瞬時に笑顔が消える。
 普段とは違う呼び方に、母の真剣さを感じた。
 鋭く見下ろす紫の瞳に、彼女はしゅんっと耳を垂らしてしまう。

―――ごめん、なさい

 ぽとりと言葉を一つ落とせば。
 白イーブイの瞳に赤が映った。今は赤黒くなっているそれ。
 エーフィの四肢が裂かれた際に滴ったものだ。
 その傷は癒え、もうないと分かってはいても。
 不安になる気持ちは膨れる。膨れ上がる。
 たぶん、自分のせいだ。ううん。たぶんではない。自分のせいだ。
 ちらりと白イーブイは自分の隣を見やる。
 顔を俯かせて、しゅんっと耳を垂らす茶イーブイ。
 確かに、黙って飛び出せば抜け出せるよ、と提案したのは彼だ。
 それでも、それを良しとして一緒に飛び出したのは自分で。
 決めたのは他でもない、自分自身だ。
 彼はただ、どうすればいい、と問いかけた自分に、知恵を貸してくれただけで。
 どちらかと言えば、彼は自分に巻き込まれた立場だな、と今ならば思う。
 視線を足下に落として、白イーブイは俯く。
 思い返せば、いつもそうだ。
 気持ちがいつも先を走って、周りのことは後回し。
 その結果がこれなのだ。
 大好きな母と、そのパートナーのすばるは怪我を負った。
 黙っていなくなった自分達を探すために。
 それがなければ、怪我を負わなくて済んだのに。痛い思いをしなくてよかったのに。
 ただ自分は、つばさに笑っていてほしくて。
 みんなに笑っていて欲しくて。
 だから、ファイアローを迎えに行こうと思って。
 みんなが“あの場所”に帰れば、笑ってくれると思ったから。それだけだったのに。
 俯く先の自分の前足。それがぐっと力を込めて握っていることに気付く。
 気持ちだけで走っては駄目なときもあるのだな、と。
 ここで初めて、白イーブイは気付いた。
 そんな彼女を見下ろすエーフィ。
 紫の瞳がゆれて、それが横に動く。

《カフェちゃんも、自分がしたことは分かってる?》

 自分の名が呼ばれ、文字通りに茶イーブイの身体が跳ね上がる。

―――ひゃいっ

 彼から変な声が飛び出した。
 どっと噴き出す妙な汗。
 何だか焦りにも似た気持ちが沸き上がったのを、茶イーブイは自覚する。
 おそるおそる俯いていた顔を上げて、そろっと視線を持ち上がる。
 つり上がった紫の瞳を見つけて、今度はしっかりと顔を上げてしまった。
 はっと、目を見開いて。
 その瞳を。その奥を覗き込もうと、凝視する。

―――おこっ、て、る……?

 思わずもれ出た言葉。
 だって。純粋に怒りを向けてくれている。
 否。怒り、という表現もおかしいかもしれない。
 エーフィは自分を怒っているのでなく、叱ってくれている。
 本当に心配をしてくれたのだ。心配だから、探しに来てくれたのだ。
 自分に向けられている紫の瞳。
 先程、白イーブイに向けられていたのと同じ色をしている。
 エーフィが探しに来たのは、白イーブイだけではなくて。
 そこまで思って、茶イーブイの視界が滲んだ。
 目頭が熱い。彼がそう自覚したときには、その熱いものが目尻にたまっていて。

《え、あ、待って……ボクの言い方きつかった……?》

 エーフィが慌てた頃には、彼の瞳からぽろぽろとそれがこぼれていた。

《ご、ごめんね、カフェちゃん》

 エーフィの言葉に、ただ彼は。
 ふるふる、と首を横に振ることしか出来なかった。
 言葉がきつかったから泣いているわけじゃない。
 怒られたことが嫌で泣いているわけでもない。
 ただ、ただただ。叱ってくれた事実が嬉しかった。

―――ご、ごめん、な……っ……

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、茶イーブイはエーフィを見上げて。
 滲んで、歪む視界の中。自分を見下ろす紫の瞳を探して、見つけて。

―――……さ、い……っ……

 嗚咽混じりに、最後まで言葉にする。
 それを最後に、茶イーブイは堪えきれなくなって俯いた。
 小さく震える彼の身体。その隣の白イーブイも、小さな身体を縮こまらせていて。
 エーフィはそっと、一つ息をもらした。
 ちょっと言い方はきつかったかもしれないな、と。こちらも反省。
 向き合い方が分からない。というのは、たぶん、言い訳だ。
 俯く子イーブイ二匹に。

《ラテちゃん、カフェちゃん》

 そっと呼び掛けた。
 先程とは違う響きの声音。
 ぴくっと、二匹の両耳が立ち上がって。
 エーフィの様子を伺おうとする。

《一つだけ、きかせてくれるかな?》

 二匹を見下ろす紫の瞳に、優しげな光が宿る。

《後悔、してる……?》

 白イーブイが顔を上げた。

―――こう、かい……?

《やらなければよかったなあって、思う……?》

 言い直したエーフィに、白イーブイはふるふると首を横に振った。

―――ラテ、そんなことはおもわないもんっ!

《…………カフェちゃんは?》

 名を呼ばれ、顔をくちゃくちゃにした茶イーブイが顔を上げる。
 そんな彼も、答えは同じだった。
 ゆっくりと顔を横に振って。

―――ボクも、こうかいはしてないよ

 ただ、と言葉を置いて。ぐすっと鼻を鳴らす。

―――ほかにほうほうはあったのかなって、おもうだけだよ

 涙を含んだ瞳が、真っ直ぐにエーフィを見上げた。

《ん》

 エーフィがふわりと笑う。

《そっか》

 エーフィが嬉しそうに笑う。

《じゃあ、その気持ちは大切にしなさい》

 子イーブイ達が目を丸くした。

―――おこ、ら、ないの……?

 白イーブイの口からぽつりともれ出た言葉。

《どうして? 誰かを想う気持ちは大切なことだよ?》

 エーフィが小首を傾げれば。
 目を丸くしていた白イーブイの瞳が、だんだんと涙を含み始めて。
 堪らずに彼女はエーフィの懐へ飛び込んだ。勢いよく。
 エーフィは咄嗟に後ろ足に力を込め、踏みとどまることに成功。けれども。

《…………ぅ》

 呻き声に近いものが口からもれ出た。
 が、すんでのところで飲み込んだ。
 懐に飛び込んで来た彼女。
 一つ、息を吐いて。前足でその背を引き寄せれば。
 彼女はエーフィの毛並みに顔を埋めた。
 それから。

《――――》

 エーフィが何かを発した。
 言葉かもしれないし、違うかもしれない。
 それが何なのかは分からなかったけれども。
 確かに呼んだのだと思う。彼を。
 エーフィがそっと前足を持ち上げて示した。
 少し離れた所で、ぼんやりと彼女達を眺めていた彼――茶イーブイを。
 彼がぼんやりと紫の瞳を見つめた。
 瞬間。それがふわりと笑んで。

《おいで》

 一言、発した。その、たった一言。
 けれども、彼にはそれだけでよかった。

―――……っ……

 彼の口からは吐息がもれて。
 気付いたら、駆けていた。飛び込んでいた。
 そうしたら、そっとエーフィが前足を背に回して、引き寄せてくれた。
 白イーブイと同じように。
 だから、気持ちのままに、勢いのままに。
 エーフィの毛並みに、白イーブイと同じように顔を埋めた。
 そこで、彼ははたと気付く。
 ああ、自分はこのあたたかさを知っている。
 自分はこの気持ちを知っている。
 ぽとりと小さな声で言葉を落とす。

―――あおいおねえさんとおなじだぁ

 その姿が浮かんで、弾けた。
 途端にじわりと気持ちが滲んで、目からこぼれ落ちた。
 それをエーフィの柔らかな体毛が吸い込む。
 きゅっ、と。エーフィはさらに茶イーブイを引き寄せて。
 二又の尾はその小さな背を撫でた。
 と、茶イーブイの隣。白イーブイがちらりと視線を投じた。
 あおいおねえさん。彼がこぼしたその言葉に、少しだけむっとして。
 彼女の尾が何かを探すように動き出す。
 やがて、目的のものを見つけた尾は、それを放さないようにきゅっと結び付いた。
 白と茶。小さなふわふわとした尾が絡まる。
 そこに、藤色の二又の尾も絡み付いて。
 そっと幼子の耳元に顔を寄せたのはエーフィ。

《これだけは忘れないで欲しいんだけど》

 エーフィを見やる幼子の瞳。
 それを視界に認めながら、彼女は続けた。

《キミ達がみんなを大好きなようにね》

 何も、この子達だけではない。
 そう、これはみんなに向けたもの。
 離れたところ。それでも、この“声”が届く距離で耳を傾けている“彼”も含まれる。
 そんな“みんな”へ向けたもの。

《キミ達を大好きな存在がいることは、忘れないでいて》

 はっと。息を呑む音。呑んだ音。
 それは、エーフィのすぐ傍から二つ。
 そして、そこから離れたところからもで。

《いつも在るものがないだけで、落ち着かない存在もいるってことは、覚えていて》

 それを認めて、エーフィは瞑目した。
 そっと幼子達から顔を離して。目を開ける。
 自分を凝視する幼子達の顔が可愛くて、愛しくて。ふわりと笑む。

《ボクと約束、出来るかな?》

 こてん、と小首を傾げれば。
 幼子達は返事の代わりに、今度こそひっしとエーフィへしがみついた。
 そんな幼子達を抱き寄せて、吐息を一つもらしたところで。
 エーフィは不意に天を仰ぐ。
 瞬間。風が吹き渡った。鼻をひくつかせて。感じた。

《雨の、気配だ》

 風に溶けるように呟いた。



    *



 エーフィ達から少し離れた別の木陰。
 こちらも木漏れ日がゆれる中。

「――だってよ、イチさん」

 幹に寄りかかり腕を組むすばる。
 片目をすがめた先には。
 すばるから距離を取り、さらに背を向けたファイアロー。
 雲の隙間からもれた光が彼を照らす。
 そんな彼が半目で振り返った。

―――分かってるよ

 少しだけ苛立ちがみえた。

「んじゃ、俺からも一つ」

 こつん、と頭も幹に預けて。瞑目。
 まぶたの裏に焼きついた姿。

「つばさがないてた」

 ファイアローが身体を震わせた。

―――っ……分かってるよっ

「本当にか?」

 まぶたを持ち上げて、すばるは視線だけをファイアローへ投じる。

「お前、もう帰って来ないつもりだったんじゃねーの?」

 少しだけ、険をはらんだ響き。声音。
 その言葉に、ファイアローは弾かれたようにすばるを凝視した。

―――それは違うよっ!!

 ファイアローの瞳が歪む。
 そこに見え隠れする感情の渦。

―――僕の帰る場所はあそこだから

 確かに、一度は拗ねた。
 目の前の彼が定めたから。
 居場所を。繋がりを。想いを。
 そこにもう、自分の場所はないんだと。確かに思って、拗ねた。
 拗ねたってことは、それだけ彼女が大切だってことで。
 それに改めて気付いた時。
 やっぱり帰る場所はあそこしかないと思った。
 どんなにカタチが変わったって、この想いは変わらない。変えられない。変えたくない。

―――どうしようもないくらいに、あそこじゃないと

 瞳がゆれる。
 そうだ。そうなのだ。
 今にも泣きそうな面持ちで、彼はゆっくり言葉にする。

―――つばさちゃんじゃないと、僕が嫌だから

 大好きだから――彼女が。
 それはもう、どうしようもないくらいに。

「…………」

 そんな彼を無言で暫く見つめた後。
 すばるは重い息を吐き出した。

「なら、それをつばさに直接言えよ。言ってやれよ」

 それから、と。
 組んでいた腕をほどいて、ファイアローの方をしっかりと向く。

「それから、つばさにきちんと謝れよっ」

 その場に座り込こめば。

「あいつ、イチがいなくなった理由探してたからな」

 桔梗色の瞳が鋭く睨んだ。
 沈んだ面持ちのファイアローが、ゆっくりと頷くのを確認すると。

「それと」

―――何……? まだあるの?

 上目遣い気味にすばるを睨むファイアロー。
 その奥に少しだけ、身構えるような色が滲んでいた。

「俺がお前を探しに来た理由は、つばさがないてたからとか、カフェラテ達を探しに来たからって、だけじゃないからな?」

―――………………は?

 それがもれ出たファイアローの言葉。
 目を丸くして、少しだけ呆けた顔。
 ゆっくりとすばるの言葉を噛み砕いて、飲み込んで――理解する――瞬間、小さく目を見開いた。

―――なに、それ

 ファイアローを見つめるすばるの表情は、ずっと真剣のそれだ。
 それがまた、ファイアローの感情をゆさぶる。
 ああ、もう。本当に。だから、だから自分は――。
 少しだけ諦めの息をもらして。ファイアローはふにゃりと笑った。
 どんな顔をすればいいのか、もう、分からなかったから。

―――やっぱり僕は、すばるが嫌いだよ

 それはもう、どうしようもないくらいに。
 やっぱり、彼が嫌いだ――。

「俺は、好きなんだけどなあ……」

 そんな彼、ファイアローを。
 すばるは困ったように笑って、眩しそうに眺めた。



 ぽつぽつ。雨粒達が葉を打ち鳴らす音が、聴こえ始めた。

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