51杯目 強がり

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 階下へと向かったつばさは、カウンター席の椅子へと座る。
 ブラッキーはその隣の椅子へ飛び乗って、つばさの様子を見守る。

《どうするんだ?》

 ブラッキーの問いかけに。
 つばさがそっとスマートフォンを手にして、ひらひらとそれを示す。

「すばるに一応確認する」

 何を。とは、ブラッキーは問わなかった。
 朝の静寂の中。
 こっこっ、と。つばさがスマートフォンをタップする音だけが響いて。
 つばさがそれを耳に当てる。数回の呼び出し音。
 時間的に迷惑なものなのは理解している。分かっている。
 そして、彼がまだ寝ている時間なのも承知している。
 なのに。続く呼び出し音が焦燥を駆り立てて、苛立ちを募らせる。
 勝手な気持ちなのは分かっている。
 だから、そんな気持ちを抱く自分にも苛立つ。
 早く出てよ。それを幾度も内心で連呼して。
 ぷつっ、と。呼び出し音がやみ、眠そうな、だるそうな声がした。

『…………おい……何時だと』

 不機嫌な響きを持った電話向こうの声。
 ごめん。とは思うけれども。それでも。
 謝罪の言葉は飛び出しては来なかった。

「イチは昨日、本当にちょっと出かけてくるだけって言ってたの?」

 少しだけ、尖った声音だったと思う。

『あー? 確かにそう言ってた。てか、一体何時だとおも』

 電話向こうの声も、不機嫌増しな声だった。
 けれども、彼が言葉を言い終える前に。

「でも、イチが朝になっても帰って来ないんだけどっ」

『は? 夜遊びとかじゃねえの?』

「あの子はそんなことしないっ。すばるがイチに何か言ったとかないよね?」

『…………っ。んなのっ、ねーよっ!』

 一瞬の間のあと。
 電話向こうから怒鳴るような声がして。
 思わず耳からスマートフォンを離した。
 その際に、視界にブラッキーが入って。
 その金の瞳が、月みたいに静かにこちらを見据えていたから。
 すうと気持ちが冷えていくのを自覚した。
 これでは八つ当たりだ。
 彼が、ファイアローが。帰って来ない理由を探しても、今は仕方がない。

「――ごめん。八つ当たりした」

 再度、耳にスマートフォンを当てる。

『――いや、こっちも悪かった』

 電話向こうから深呼吸する音が聞こえた。

『帰って来ねえのか?』

「うん。朝になっても帰って来ないなんて初めて……」

 少しの間を置いて、もう一度訊ねる。

「何処に行くかとか、何か言ってた?」

『…………』

 記憶を手繰っているのか、電話向こうでは衣擦れの音だけがしていた。
 そんな向こうの間を待っている間だった。
 きー、と扉が開く音。次いで、からんからん、とドアベルの音。
 不意に聞こえたその音に、弾かれたように振り返った。
 開け放たれた扉。それが戻ってくる反動でぱたぱとゆれていて。予感が、した。

「りんっ!」

 鋭く喉から滑り出た声は反射だった。
 けれども、ブラッキーはその声が飛び出す前には。
 もう、椅子から飛び降りていて、勢いよく階段を駆け上がっていた。

『――さっ!つばさっ!どうしたっ!』

 電話向こうでは。
 こちらの様子に気付いたらしくて、何度もつばさの名を呼んでいた。
 それを聞きながらブラッキーを待つ。
 待っている時間はほんの数秒だったと思う。
 けれども、ものすごくゆっくりに感じて、長く感じて。
 彼が駆け降りてきた時。思わず立ち上がった。
 勘違いだろうかと、期待を滲ませた橙の瞳を見据えて。
 彼は首を横に振った。金の瞳には苛立ちの色。

《あの馬鹿毛玉》

 吐き捨てるような短い言葉。
 それだけでつばさは察した。予感が、当たった。
 ずっとつばさの名を呼ぶ電話向こうの彼へ。

「カフェラテがいない」

 発した声音は、やけに静かだった。

「たぶん、イチを探しに行ったんだ」

 しんっと静かになった電話向こう。

「探しに行ってくる」

 スマートフォンを持った手を降ろす。
 電話向こうで焦った声が聞こえた気がした。
 けれども、それには気付かないふりをして通話を切る。
 探さないと。探さなくちゃ。
 彼は帰って来ない。なんで。何かしただろうか。
 探さないと。探さなくちゃ。
 皆の帰る場所はここだよ。
 でも。やっぱり。そう思うのは自分の勝手、なのかな。
 探さないと。探さなくちゃ。
 あの子達はまだ幼い。自分が護らないと。
 あの子達まで帰って来なかったら――。
 彷徨う橙の瞳。それが一点で止まる。
 それを見上げる金の瞳。瞬いて、橙に捕らわれる。

「りん、行こっ」

 短く一言。
 橙は瞬く金を真っ直ぐ見据えて。

《――ああ》

 ブラッキーも短く返す。
 青の輪模様が仄かな発光を繰り返す。
 引きずられる。気持ちが、引っ張られる。
 そんなことを自覚しながら、ブラッキーは頷いた。頷いてしまった。
 シンクロ。同調。気持ち。交ざる。
 自身の気持ちを見失ったわけではない。
 けれども。今は相手に同調する心地よさに。
 それに、溺れてみたくなった。
 だって。彼女の気持ちは。
 こんなにもあたたかくて、気持ちがいいのだから。
 喫茶シルベを飛び出したつばさ。
 ブラッキーも迷うことはなく、その後を追った。
 からんからん、と。
 閉まったドアがゆれて、ドアベルが響く。
 静まり返った店内。テーブル席。そのテーブルの下で。
 もぞもぞと動く毛玉が二つ。



   *



「あ、ちょっ!待てっ!電話切るなよっ!」

 自室のベッドで、上体だけ起き上がったすばる。
 つーつー、と。通話を切られたことを告げるスマートフォン。
 それを無言で睨み付けて、桔梗色の瞳が不機嫌に煌めいた。
 ちっ、と苛立ちに任せた舌打ちを一つ。
 わしゃわしゃと髪を掻き乱す。
 雑な動きでベッドから飛び出すと、適当に身支度を始める。
 流石に寝間着で外は歩けない。

《すばる》

 彼女が目覚めていることには気付いていた。

「ふうはどうする?」

 すばるのもとまで歩み寄ったエーフィ。
 彼を見上げて、一点に見つめる。紫の瞳が煌めく。

《ボクも行くに決まってるじゃん》

 当然だ、と。尾がひょんひょんとゆれる。

「状況分かってんのか?」

《イチくんが帰ってなくて、ラテちゃんとカフェくんが飛び出して行っちゃったんでしょ?》

「ああ、だから」

 すばるの言葉にエーフィが言葉を被せる。

《つばさちゃんに》

 ちらり。すばるが視線を落とした。
 エーフィは自分に向けられる桔梗色を受け止めながら。

《俺が探すから、お前はシルベに戻って待ってろ》

 澄ました様子で告げる。

《って、言いたかったんでしょ?》

「…………っ」

 エーフィを見下ろす桔梗色の瞳。
 それをすがめて、すばるは彼女を探ろうとした。
 エーフィの額を飾る珠。それが光を帯びていない。
 ということは、別段、特性であるシンクロは発動していない。
 と。突然、すばるを見上げる紫がによっと笑った。

《シンクロしなくたって、すばるんの気持ちは分かるよ》

 へへんっ、と彼女は得意気で。

《すっばるん、やっさしー》

 によによと笑う紫の瞳の奥に、楽しげなものを見つけたので。
 袖を通しかけていた上着。その動きをぴたりと止めると。
 気を引き締めるために、その上着を腰に結ぶ。
 よしっと、内心で気合いを入れたのは内緒だ。
 ちらり。によっている紫の瞳を軽く睨んで一言告げる。

「俺、もう行くから」

 そのまますばるはすたすたと歩き始めて、ドアノブに手をかけたところではたと思い出す。
 ベッドにスマートフォンを放り投げたままだ。
 だが、その瞬間を見逃すエーフィではなかった。
 すばるがベッドに戻るために身体の向きを変えたとき、エーフィも足を動かす。
 すばるがベッド脇に立ったとき、エーフィはすばるの肩に飛び乗ろうと跳躍を一つ。
 刹那。エーフィは確かに見た。すばるの桔梗色の瞳が笑ったのを。
 すばるの肩を目掛け、飛び上がったエーフィ。
 けれども、その目標はすいっと視界から消えることになる。
 驚きで瞬的に瞬く、紫。目標を失った彼女の目の前に迫るそれは。

「おっ、あったスマフォ」

 わざとらしい、明るい響きを持ったすばるの声。
 スマートフォンを拾い上げるために上体を屈めたのだ。
 次いで。ごっちーんっ。と、星が散る音が響き渡った。
 すばるが上体を起こした時には。
 ちょうど顔面から壁に突っ込んだエーフィが、ずるずると落ちるところで。
 彼女の下はベッドだったので、数度弾んで沈んだ。

「あれ? ふうさん、どうしたんですか?」

《――――っ!》

 むくりと起き上がったエーフィが、きっとすばるを睨む。

《こんな近距離じゃ、体勢取り直すのなんて無理だよっ!!》

 鼻面を赤くしながら、潤む紫の瞳で一生懸命に睨む。

「そんなの始めから承知だった」

 今度はすばるが澄ました顔で答える。
 瞬間。紫の瞳に怒りの色が滲んだのをすばるは見た。
 やべっ。と、本能で危機を察知したすばる。
 無造作にスマートフォンをズボンのポケットに突っ込んで。
 ハンガーにかけていたボールの腰ホルダーを掴んで。

「んじゃっ」

 手短に言葉を置いて、慌てて部屋から、家から飛び出した。
 そして。家の外に飛び出して、玄関の扉を閉めたとき。
 どかんっ、と。家の中から何だか物凄い音が響いて。
 それは外にいてもはっきりと聞こえる音で。
 おそるおそる、後ろを振り返った。
 そしたら、きいっとゆっくりと玄関の扉が開いた。
 ひとりでに開く扉には、別段驚かない。
 エーフィの“サイコキネシス”で開いただけなのだから。
 すばるが驚いたというより、恐ろしかったのは。

《すばるんっ、おまたせっ》

 にこりと笑う。満面の笑みのエーフィが現れたことだった。

「お、おう……」

 思わず後ずさるすばる。
 街を包む、朝の静寂の中。
 一人と一匹に流れる痛いくらいの張り詰めた空気。
 朝の静寂には不似合いの空気だ。
 けれども、それはすぐに破られる。
 スマートフォンのバイブの音。
 はっと我に返ったすばるが、通知相手を確認して、すぐに通話ボタンをタップした。

「つばさ、お前すぐ

『すばる、すぐにシルベに行ってっ!』

「は?」

『いいからっ!! 私達が戻るより、すばるに向かってもらった方が早いっ!!』

 電話向こうの焦燥が滲みきった声音。
 それがすばるの足を突き動かす。
 瞬時に真剣のそれをうかべたエーフィも、すばると共に駆け出した。
 喫茶シルベに向かいながらも、電話向こうとの会話は続いている。

「今、外に出てたところだ。すぐにシルベへ向かうっ!」

 言葉を言い終わらないうちに、スマートフォンを持つ手とは逆の手が腰へと向かう。
 三つのモンスターボールのうちの一つに触れ、中空へと投げる。
 飛び出したのは光。
 その光を伴って並走するそれへ飛び乗ると。
 電話向こう。息を弾ませた中でつばさは言う。

『あの子達、シルベなんて出てなかったのっ!』

 すばるが彼女の手綱を手にした瞬間。
 纏っていた光を振り払うように、その中から姿を現した。
 次いで、その背にエーフィが跳躍し、ギャロップは一層速度を上げる。
 その中でも、電話向こうのつばさの言葉は続いていた。

『スマートなお姉さんに会ったの』

「スマートなお姉さんに?」

『朝の散歩中みたいだったんだけど、シルベの前を通りかかったんだって』

 何だか嫌な予感がした。

『ちょうど私とりんが飛び出したところで』

 そこで言葉をきったつばさ。

「で?」

 急かすような声を発したら。

『飛び出す私達を、窓から眺めてるカフェラテ達を見たって』

 電話向こうの声が、震えていた気がした。

「つばさ……?」

『私のせい、だよね……私が、よく考えずに――』

「――先ずは落ち着け」

 はっと息を呑む気配がした。

「もうすぐで俺達は着く。だから、お前も先ずは戻れ。話はそれからだ」

『……うん、そうだね』

 そう言って、通話は切れた。
 すばるはしばらくスマートフォンを見つめていたが、それを無造作にポケットに突っ込んで。

「ほたる、急いでくれ」

 ギャロップの脇腹を軽く足で小突いて合図を送れば。
 それを受けた彼女は速度を上げる。
 強さを増した風圧に目を細めながら、思わず呻き声が口からもれた。

《ラテちゃん達がどうかしたの?》

 背後から問いかけの声。
 簡単に先程の通話の内容を話して、最後に自分の考えを足す。

「――カフェの知恵だな」

《ラテちゃんは考えるの苦手だからね》

 苦笑混じりのエーフィの言葉に一つ頷いて。

「まさか、飛び出したと見せかけて、つばさ達を追い出すとは思わねえだろ」

《うん。そのまま居てくれたらいいんだけど……》

「それは……たぶん、ねえよな?」

《つばさちゃんとりっくんが飛び出したあとに、あの子達も飛び出したって考えた方がいいと、ボクは思う》

 少しだけ硬くて、緊張した声音。
 でも、その裏では、違って欲しいと願う響きもあって。

「変なところで成長しやがって」

 呻きにも近い声がすばるの口からもれる。
 子イーブイ達のことは、つばさ達の話からしか知らない。
 けれども、たぶん。少し前の彼ならば、こんな行動は起こせなかったのだと思う。
 やはり、あの出来事は彼に変化をもたらせたのかもしれない。
 それがいい意味か悪い意味かは、これからの展開によって決まる。
 それでも、一つだけ言えることは。

「つばさに心配はさせちゃ駄目だろ?」

 ぽつりと呟いて。
 すばるは一つのモンスターボールを中空に放る。
 放たれた光から姿を現した龍に告げる。

「あるば、状況は分かるな?」

 主の問いかけに、ハクリューは一つ頷く。
 それでも、ギャロップに並行して空を駆けることは忘れない。
 ボールの中に居ても、外の状況は思ったよりも聞こえるものだ。

「お前は先に、空からカフェラテ達を探してくれ。俺もあとから探す」

 きゅいっと一鳴き。了承の意を伝える。

「よしっ。行けっ!」

 短く一言。
 それを合図に、ハクリューは翼のような両耳を広げると。
 澄んだ朝の空気を裂くように上昇した。

「頼むぞ」

 家屋の影に消えた彼女を見上げながら、すばるはそっと呟いた。



 そして、この騒動ですっかり忘れていたのだけれども。
 この騒動が落ち着き、すばるが家へ帰った時。
 自室の部屋。そこへ通じる扉が、吹き飛んだ状態で彼を迎えた。
 ああ、そうか。
 そこですばるは思い出す。朝方、エーフィを怒らせたことに。
 彼女を怒らせると、飛んでもないことになる。
 それを改めて痛感する。
 そして、その日。
 エーフィは喫茶シルベに泊まるからと、すばると共に帰宅しなかった。
 帰って来るまでは、親子で過ごしたいのかな、と呑気に思っていたのだが。
 本当の理由は、この、吹き飛ばした扉だったらしい。
 あはは、と乾いた笑みがもれて。
 どうやって修繕しようかと、彼は暫く頭を抱えた。



   *   *   *



「すばるっ!!」

 息を弾ませながら、つばさが勢いよく扉を開け放つ。
 滑り込むように入って来た彼女は、開口一番にすばるの名を呼んだ。
 喫茶シルベの一階。
 カウンター席に座っていたすばるは、くるりと椅子事振り返って、ゆっくりと首を横に振った。

「下には居なかった。今はふうに二階を探してもらってる」

 つばさの自室もある二階。
 流石にすばるが足を踏み入れることははばかれた。
 瞬間。弾む呼吸を整えることに努めていたブラッキーが、二階へ駆け上がって行った。
 探すのを手伝うつもりなのだろう。二階はつばさ以外の部屋も幾つかある。
 その場に残されたすばるとつばさ。
 すばるが隣の椅子を促すと、つばさもおずおずとそこに腰かける。
 それからも、二人は黙ったままだった。
 つばさは手を握ったり、開いたりを繰り返して、落ち着かないようで。
 二匹分の階段を駆け降りる音に、弾かれるように振り向いた。
 どうだったか、と問いかける、必死な色を滲ませた橙の瞳を向けられて。
 二匹はその場で固まり、やがて、ブラッキーが首を横に振った。
 途端。橙の瞳が伏せられる。
 顔も伏せられてしまえば、髪に隠され、その表情は周りにも分からない。
 そっと駆け寄ったブラッキーが、つばさの顔を覗き込もうと。
 彼女の膝に前足をかけて、そっとその目元を舌で舐めた。
 けれども、予想に反してその舌にしょっぱい味は広がらなかった。
 瞬間。顔を上げたつばさが、ブラッキーに力なく笑う。

「りん、ありがと。でも、泣いてないから大丈夫」

 金の瞳が心配気に瞬く。
 そんなブラッキーの頬をそっとと撫でて。

「それよりも、ごめん」

《何故、謝る?》

「私の気持ちが、りんを引っ張っている覚えはあったのに、それを制さなかった」

 つばさの膝からそっと前足を降ろしたブラッキーが、真っ直ぐに彼女を見上げる。

《なら、俺も謝る》

「どうして?」

《その自覚はあったのに、俺も身を委ねたままだった》

 橙と金の瞳。互いの瞳が交差する。
 静観していたエーフィが、すばるの傍まで歩み寄る。
 ちらりと紫の瞳がすばるに向けられて。
 桔梗色の瞳がそれを受け止め、一つ頷く。

「よしっ」

 声と共に立ち上がったすばる。
 橙と金の瞳。隣の紫の瞳がすばるに向けられる。

「俺とふうとであいつらを探しに行く」

 すばるの発した言葉に、間髪を容れずに言葉を発したのはつばさ。

「待ってっ!私も行くっ!」

 思わず立ち上がりかけたつばさを、額を弾いて座らせる。
 小さな痛みに呻く彼女に、すばるは視線を合わせて。

「つばさはここに居ろ。もしかしたら、あいつらが帰って来るかもしんねーし」

 桔梗色の瞳が穏やかに笑う。

「――イチも、帰って来るかもしんねーだろ?」

 イチ――。その名に、つばさの肩がぴくりと跳ねた。

「だから、お前はここにいろ」

 ぽんぽん、と。すばるがつばさの頭に手を置く。
 少し雑だけれども、それでも、優しい手付きで頭を撫でる。
 そのまま、すばるの手が頬に移動しかけて。撫でそうになって。慌てて引っ込める。
 暫く沈黙が落ちたが、桔梗色の瞳が泳いで。
 再びつばさを見詰めてから。
 最後にすばるは、ふっと笑んで、視線をエーフィへ落とす。

「ふう、行くぞ」

《りょーかいっ、すばるんっ》

 によっと笑う紫の瞳に。半目になるすばる。
 衝動的に手が動いた自覚があるだけに。
 すばるの頬に仄かな熱が灯った。
 それを隠すためなのか。彼は駆け足気味にシルベを飛び出した。
 からんからん、と。からかうように響くドアベル。
 によによと笑んでそれを見送ったエーフィは。
 それでは自分も行きますか、と。腰を浮かせた時。
 少しだけ不安な色を滲ませた金の瞳。
 それが自分に向けられているのに気付いて。

《…………》

《…………》

 そっと。ブラッキーへ歩み寄る。

《ラテちゃん達のことは大丈夫だよ。ボクとすばるに任せて》

《だが、俺の不注意でもある》

 ブラッキーの。その胸中に在るのは。
 あの頃の寒さ。白に覆われた気色に。舞い散った鮮やかな赤。
 思い出すのは。まだ遠くない、ほんの少し前の記憶。
 まだ過去の痛みを抱き抱えたままだった頃。
 冬の寒さが肌を覆っていた頃。
 過去の感傷を理由に、あの子達から目を離した。
 あの時は何事もなかったけれども。
 否。危険が手を伸ばしていた。
 一歩遅ければ、あの手はあの子を捕らえていたかもしれなかった。
 危険は。何時でも、何処でもあるもので。
 あの子に、あの幼子に。
 その危険が手を伸ばしているところを目にした時。
 その後。懐に潜り込んできた幼子の震えを感じた時。
 初めて、自分の中にその激情が在ることを知った。
 無意識だったと思う。人に向けて技を放っていた。
 制する気持ちはなかった。
 それだけ、あの子は自分の中で大きな存在なのだ。

《すまない。お前からの預かりものなのに》

 金の瞳が伏せられる。
 また、目を離してしまった。
 目の前の彼女から預かった、大切な存在なのに。
 刹那。こめかみ付近に柔らかなものが触れた。
 弾かれたように顔を上げれば。
 ふわりと笑むエーフィがいて。
 ぺろっと、その口元を舐める彼女がいて。

《もう、りっくんの預かりものじゃないよ? ボクとりっくんの欠片だよ?》

 くすりと一つ笑って立ち上がった彼女。

《帰った時に、ちゃんと“パパ”をやってくれれば、それでいいよ》

 彼に背を向けて。
 先が二つに分かれた尾が、さらりと彼の顎をなぞった。

《ボクも“ママ”をやってくるね》

 そう言い残して、彼女もすばるに続いて飛び出して行った。
 からん、と鳴り響くドアベル。
 見えなくなっても、しばらくその背を見送っていたブラッキーは。
 先程の感触を思い出して、仄かに青の輪模様を明滅させた。

「知ってる?」

《知らんっ》

 唐突なつばさの声。
 何かを問われる前にそっぽを向く。
 くすくすと小さく笑うつばさの声に、仄かに頬が朱に染まった。

「こめかみへの口付けは、“慰め”の意味があるんだって」

《だから、知らんっ》

「照れちゃって」

 少しだけ小馬鹿にした響きに。
 反射的に振り仰いで、つばさを睨み付ける。

《――……っ?》

 けれども、そこで動きを止めた。
 ブラッキーを見下ろす橙の瞳が、涙で揺れていた。
 瞬くとこぼれてしまいそうなそれ。
 涙で濡れた声が言葉を紡ぐ。

「泣かないって、決めた筈なのにさ。泣くのは、終わってからのつもりだったのにさ」

 それでもつばさは、瞬くのは堪えていた。

「すばるにあんなことされたら、堪えてるものがあふれて、こぼれちゃうよ」

 まだ残る。頭に乗せられたすばるの手の感触。
 あの時。塞き止めていたものに、亀裂の入る音がした。そんな、気がした。
 そうでないと困る。だって、決壊してしまいそうだから。
 色んなことを考えた。
 ファイアローが帰って来ないのは。
 自分に何か、至らないところがあったのかなとか。
 自分のせい、なのかなとか。
 彼にそんな素振りはなかったから、他に理由はないのかなとか。
 理由探しばかりして、彼のことでいっぱいいっぱいで。
 他にまで注意が向かなくて。
 それで、あの子達が居なくなってしまって。
 あの子達が前に居なくなってしまった時のことも思い出して。
 その時には彼が傍に居てくれて、心強かったな、とかも思い出して。
 でも、今はその彼も居なくて。
 どうして居ないのかな、とかも思っちゃって。
 それは彼が帰って来ないからで。
 じゃあ、何で帰って来ないのかなと思って。
 自分に至らないところがあったのかとか。
 自分のせい、なのかなとか。
 色んなことを考えて。
 結局、それを繰り返していることに気が付いて。
 それで、泣いてしまいそうになって。
 そんなときに、すばるの優しさに触れてしまったから。
 堪えられていたものが、難しくなってしまって。
 でも、強くならなきゃって想いは前から在って。
 だから、今はまだ泣かないって決めてて。
 泣くのは全部終わってからって決めてて。
 なのに。なのに、さ。

「私の強がりを、壊さないでよ――」

 そんなとき、不意に。

《…………》

 つばさを見上げていたブラッキーが、彼女の膝に前足をかけた。
 目を見開いてブラッキーを凝視する橙の瞳。
 涙で濡れるその瞳に、彼の姿が次第に大きくなって映り込む。

「――――っ」

 つばさの口からもれた吐息。
 ざりっとした感触が、目元に触れた。
 瞬く橙の瞳。けれども、そこからこぼれ落ちるものはない。――否。

《あ》

 もう片方の瞳からはこぼれ落ちた。

《悪い》

 一言謝り、ブラッキーは前足を下ろして。
 ばつが悪そうに尾を振ってそれを誤魔化す。
 つばさの目元に溜まったものを拭いきれなかった。

「…………」

 暫し、橙の瞳がブラッキーを見詰めた。
 そして、不意に。

「……ははっ」

 つばさの口から笑う声がもれて。
 その肩が小さく揺れ始める。
 金の瞳が瞬く前で、彼女の肩は揺れ続けて。
 ひとしきり笑ったあと、そっとその目元を拭った。
 そして、視線を落としてくしゃりと笑う。

「これは笑い泣きだから」

 少しだけ赤い目をしたつばさ。
 金の瞳が丸くなって。それから、柔らかなそれになる。
 見上げたブラッキーはふっと小さく笑えば。

《そうか》

 と、一言だけ言葉にした。
 たぶん、これは彼女なりの強がりなのだ。

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