1話 名前って何か、説明するね

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

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「お母さん……」
「しっ、静かにしなさい。あなたはここにはいない、わかった?」
 少女は震えながら、けれど小さく頷く。母は小声で、「大丈夫だから」と笑った。少女の胸に、漠然とした不安がよぎる。けれど母のその笑顔を前にしては、何も言えなくなってしまった。
「お母さんが、悪い奴は懲らしめてあげるから」
 部屋の外で、激しい打撃音が響く。母は少女を藁布団用の藁の中に押し込めた。
「大丈夫だから。何があってもあなたのことは絶対に守る。だから、ここでいい子で待っててね」
 少女は頷く。母には見えなくても伝わると思って。
 母は小さく、泣きだしそうに微笑むと、自らの頬を張った。少女はその音を聞く。そして扉が開き、母が飛び出して行く音。
 少女は泣いていた。母の言いつけに従い、無言で。どこまでも"いい子"で。

  ○

「リオル、パース!」
 その声を聞いて、僕は足元のボールを蹴り上げた。ボールは綺麗な放物線を描き、マイナンの所に着地する。
「マイナン、任せたよ!」
「任された、いっけぇっ!」
 マイナンはボールを力強く蹴る。ボールはコーナーの隅に鋭く突き刺さった。
「ナイッシュー!」
 僕はマイナンに向けて叫ぶ。マイナンは大きな笑みを浮かべながら手を振っていた。
 そんな放課後の一幕は、あるひとつの声で終わりを告げる。
「こらマイナン! こんな時間まで遊んじゃ駄目でしょ!」
「えー! まだ空も明るいよ?!」
「もう私並みに真っ赤でしょ! 帰るよ!」
 プラスルが声を張り上げる。みんなのブーイングに、プラスルはてへっと言わんばかりに舌を出してみせる。
「ごめんね、うち少しだけど厳しいからさ。みんな弟と遊んでくれてありがとっ! それじゃ、みんなもそろそろ帰りなよ?」
「また明日なー!」
 マイナンたちはそう言って、なんだかんだ言って去って行く。僕も「そうだね、そろそろ帰ろっか」とみんなに言う。異論は出なかった。僕たちはてんでバラバラに、各々の家に帰って行く。

 そんな当たり前の光景、当たり前の夕暮れ。その当たり前に唐突なノイズが割り込んで来たのは、帰り道でのことだった。
 僕はうめき声を聞いて、茂みの方へ分け入る。
「……誰かいるの? 大丈夫?」
「う……ううん……」
 やっぱり、誰かが倒れている。僕はその声のする所へ駆けて行く。そこにいたのは、1匹の、傷だらけでボロボロのイーブイだった。

 この出会いをきっかけに、僕は世界を揺るがす大事件に巻き込まれて行くことになるのだけれど、今の僕にはそんなこと、知る由もなかった。

 僕はイーブイをおぶる。彼女の体温と重量が、僕の背中に伝わって来る。よし、と一言呟いて、僕は歩き出した。
 帰り道、額に汗をかきながら歩いていると、いつも明るく挨拶をしてくれる木の実屋のおじさんが声をかけてきた。
「リオル、その子どうしたんだ?!」
「わかんない……倒れてたの」
「……わかった。その子をどうするつもりだ?」
「えっと……と、とりあえず家に連れて帰るつもりだよ。ママならたぶん、どうすればいいかわかると思うし」
「なるほど。まあリオルの母ちゃんは警察だもんな。よし、おじさんも手伝うよ。こんなの見せられて、放ってはおけねえ」
「ありがとう!」

 そこからは、おじさんの手伝いもあってすぐだった。おじさんが言う。
「母ちゃん、今家にいるのか?」
「あっ」
 思わず僕は声を出す。そうだ、相談しようとしても、今ここにママはいない。
「やれやれ、仕方ないな。とりあえず布団か何かに寝かしてやれ。それからこれ、オレンの実だ。目を覚ましたら食わしてやってくれ」
「え、くれるの?!」
「あたぼうよ! 小学校も低学年の子どもがこんな大怪我してて、ほっとける訳ねえだろ? 俺も仕事があるからずっとはついてやれねえが、このぐらいはさせてくれや」
「ありがとう!」
「いいってことよ。早くよくなるといいな、このイーブイ」
「だね」
「んじゃ、とりあえず休めるようにしてやれよ。明日、この子がどうなったか教えてくれよ」
「わかった! ありがとう!」
 おじさんは笑みを浮かべて去って行った。その笑顔のお陰か、このイーブイは大丈夫だとなんとなく安心できた。僕は扉を開く。それからまたイーブイをおぶり、家に運び込んで、僕の藁布団に寝かせた。それで僕は、ようやく一息つく。
 さすがに僕と同い年ぐらいのイーブイをおぶって歩くのは、いくら手伝いがあったと言ってもしんどい。僕は水を1杯だけ飲んだ。汗を拭うと、またイーブイの眠る僕の寝室に戻る。僕は少し、イーブイを観察してみた。
 茶色い耳は、元気なく垂れさがっている。傷だらけではあるけれど、その寝顔に浮かぶ表情は痛みによる苦痛ではなくてむしろ、怯えだった。そしてこの子は♀だ。僕は彼女の頭をそっと撫でる。反応はなかった。何があったんだろう。考えてはみるけれど、全く何もわからなかった。まずは、と思う。
 まずは、しっかり元気になってね。
 そんなことを考えていると、扉の開く音がした。
「ただいま」
「あ、ママ大変なんだ! 早くこっちに来て!」
「どうしたんだい?」
「イーブイが傷だらけで倒れてて!」
 反応は速かった。
「すぐ行くよっ!」
 の言葉と共に、ママはもう僕の部屋に来ていた。と思う間に、僕の傍に置いてあったオレンをひっつかみ、すぐに台所へと駆けて行く。見る間に潰されたオレンのエキスが溜まったコップを持って戻って来て、イーブイに強引に、けれど優しく丁寧に飲ませる。
「このイーブイ、どうしたんだい?」
「わかんない、たまたま見付けたんだ」
「……まあ、この子に訊けばわかることか。そろそろ起きると思うよ」
 イーブイの傷はすぐに癒え、小さな声と共にイーブイは目を覚ます。
「あ、気が付いた!」
「おはようさん」
 しばらくの後に、イーブイは「うわあっ!」と素っ頓狂な声を出す。それにビックリして、僕とママはイーブイのことを見詰めていた。イーブイは戸惑ったように辺りを見回して、それからママに向けておそるおそるの体で尋ねた。
「あの、こ、ここは?」
「あたしたちの家だよ。あんたがケガしてたから、リオルがここまで運んで来たんだ」
「……重くなかったですか?」
「重かったけど……とにかく、よかったよ、無事で」
「あ、ありがとうございます」
 イーブイがお辞儀をする。その丁寧な口調が僕に向けられたものだとは思えなくて、だからママが僕の背中を叩いてようやく僕が何かを答えないといけないことに気付き、どもりながら答える。
「ど、どういたしまして……」
「まったく、一丁前に照れちゃって!」
「そ、そんなんじゃないよママ!」
 思わず叫び返す。それにイーブイがクスリと笑った。彼女はあっという表情を浮かべ、それが面白くて僕も小さく笑う。それから2匹見合わせ、大爆笑した。
 気付けばママはいなかった。笑いで滲んだ涙を拭い、僕はイーブイに自己紹介する。
「僕、リオル。2年だよ」
「え? ああ、自己紹介か」
 大笑いのお陰か、イーブイの声は起きてすぐよりもかなり大きくなっていた。それでも僕からするとかなり大人しいのだけれど、打ち解けてくれたようでなんとなく嬉しかった。
「私はイブです。今日はありがとうございました」
「どういたしまして……って、イブ? それ何?」
「えっ? ……もしかしてだけど、名前、知らないの?」
「ナマエ? 何それわかんない。まあ僕がバカなだけかもしれないけどさ」
「バカかどうかはわからないけど……。わかった、名前って何か、説明するね。まず、ここにもう1匹イーブイがいるとしましょう」
「う、うん……」
「その時、あなたは私のことをなんて呼ぶ? そしてもう1匹のことは?」
「そっちのイーブイ、こっちのイーブイ、みたいに呼ぶんじゃないかなぁ、そういう状況考えたことないや」
「そうなんだ……でも、そういうの、面倒じゃない?」
「ん? そう言われてみれば確かに……」
「実は、私の周りにも同じ種族がいてさ、だからこう、私はイブ、向こうはブイ、みたいな感じで呼び分けるんだけど、このイブとかブイとか……そういうのが名前って言うんだ」
「なるほど! ナマエって便利だね!」
「まあ、私にとってはあって当たり前だから、凄いとか便利とかは特に感じないんだけどさ」
「そうなんだ。でも、やっぱ僕知らないや」
「まあ別に、知らないこととバカは繋がらないからさ」
「そうなの?」
「うん」
 イブは今までで一番力強く言い切った。
「頭のよさは、知識量では決まらないよ」
「おーい、リオルイーブイ、ごはんだよ!」
 不意にママの声が聞こえ、真剣な目で何かを断言していたイーブイ……イブはえっと目を丸くする。
「い、いいのかな、そこまでしてもらっちゃって……」
「いいのいいの! イブ、一緒にごはん食べよう! ……絶対においしいから、まずは食べてみて」
「え、でも……迷惑にならないかな」
「ママだもん、追い出したりなんかしないよ! 大丈夫!」

 イブを追い立てながら、僕はリビングに出る。お皿はしっかり3匹分テーブルの上に乗っていた。
「あ、あの迷惑じゃないですか?」
 なおも心配そうなイブの声に、ママはニコリと笑って答えた。
「大丈夫だよ。今から帰るにはもう遅いし、今日はうちに泊まって行きな!」
 イブはと見ると、目を潤ませている。
「あ、ありがとうございます!」
「その代わり」
 ママは鋭く遮る。
「なんであんなことになってたのかだけは、後で教えてくれないかい?」
 イブは凍り付く。「え」と小さく漏らして、それから「秘密には、できないんですか?」と続ける。
「駄目に決まってるだろう? あんたみたいな子どもがあんな風に傷だらけで倒れているなんて、立派な傷害事件だ。秘密のひとつやふたつ、誰だって持ってるだろうし、それは構いやしないよ。だけど、それが命に関わるものなら話は別だ。まあ、後でいいよ。とりあえずは、晩ごはんを食べな」
「わかりました……」
 イブはとぼとぼと椅子に座り、そして気付いたらしい。隣に座った僕に、そっと耳打ちする。
「これ、何?」
「晩ごはん。おいしいのは間違いないよ」
「いやだって……ラーメンがピンクって……スープはなんか、綺麗なオレンジだし……」
「まあまあ。いただきまぁす」
 僕はラーメンをすする。口の中に麺の甘い味が広がり、それが辛さベースに多少の酸味を利かせたスープと絶妙に絡んで、口の中は幸せなことになる。見た目がゲテモノだけれど、ママの料理はいつもおいしいのだ。僕の表情を見てか、イブもおそるおそる麺をすする。
「……嘘、おいしい」
「嘘ってなんだい嘘って」
 ママが膨れてみせる。イブが慌てて「でも凄くおいしいです!」と念を押す。僕は思わず吹き出してしまった。
 あっという間に僕らのお皿からラーメンとスープはなくなってしまっていた。ごちそうさまの頃には、イブももう、すっかり笑顔だった。
「おいしかった!」
「でしょ!」笑って、けれど小声で僕は付け足す。「見た目はあれだけどね」
「こんなに親切にしていただいて、本当にありがとうございます……!」
「そうかい、喜んでもらえてよかったよ」
 そう言ってママは笑い、そして「さて」の言葉と共に、その表情を真剣なものへ変える。
「イーブイ、何があったのか、教えてもらえるかい?」

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