Ep.32 罪浅き加害者

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 この世に生まれ落ちたことこそが、人生における最初の選択ミスかもしれない。


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 努力を才能で踏みにじる行為が残酷であることと同様に、才能を努力で踏みにじることもまた残酷であることを忘れてはならない。
 既にプロセスを積み上げたことで高みにいる才人に対して、努力というプロセスを積み重ねて追いつくということは、道理としては正当なものであり、それが本来あるべき概念だと前置きするならばの話ではあるけれど。
 天才がいる位置を頂点と仮定して、それを沸点と例える。それこそが摂氏として限界であることは明らかである為、どれだけ努力を重ねて摂氏を底上げしたとしても、頂点は頂点のままであるから、それは天才が努力を嘲笑することとして成立している。
 だが、その逆は根本的におかしい。
 沸点に達している天才を沸点以上に到達する努力があるのはそもそもおかしな話ではないだろうか。
 沸点を超えて仕舞えば、それらは同じ位置であることに変わりはないし、それは努力が沸点を超えたということには決してならない。だから、努力で才能を踏みにじることは捻くれた観点から見れば著しい矛盾を孕んでいる。
 努力だけですべてが手に入るなら、それこそ天才なんて存在しないし、そこまで努力を積み上げることができるのも、ある種の天才ではないかという、謂わば概念のいたちごっこが始まってしまう。
 だからこの議題に結論を出すことを人は常に恐れている。それを捻くれ者の妄言だと罵り嘲る。
 だけれど、そんな歪曲した言葉の綾を奏でるのは、そもそも努力を知らない者達なのではないだろうか。或いは、努力の方向性を見失っているのではないだろうか。
 本来の努力家は目標こそあれど、見上げているのは常に果てしない上である。上から下へと見降ろすような偏屈なことにうつつを抜かすようなことはしないはずだ。
 例えば、ジェノという少年は天才という言葉に対しての考えが浅はかであった。
 『元よりセンスに恵まれている』だとか『理論武装しても論破できない』とか『努力の到達点の一歩先から後ろを見て嘲笑う者』だとか、そんなネガティブなことは考えていなかった。
 ただ単に、『なんかとても凄い人』という認識であった。
 だから、ジェノから見たリミーガなんかは、『努力家』と『天才』の間を揺れ動く歪な存在であり、それ故に尊敬の念を向けるにはこの上なく納得がいく相手であった。
 研究者として完璧を求めてはいけないというのはもはや界隈では常套句だが、ジェノにとってのリミーガは完璧を目指す過程を楽しんでいる楽観的な科学者であるというイメージが強かった。つまりは、客観的に簡単に障壁に対して妥協の解答を導き出すことに関する『天才』であり、それを続ける為の『努力』を怠らない人物であると思っていた。
 まあ、それはジェノからリミーガに向けての一方的な感情であって。
 そんなジェノは尊敬するリミーガの研究を確かなものにする為に、シエル地方の古い文献に記されていた『疵姫』からデータを搾取するプロジェクトにひっそりと参加するつもりでいた。
 リミーガはアセビ博士の前では自分を同行させない旨を伝えていたが、生憎ながらジェノが『天才』的な力を分け与えてあげたいのは、『努力』させるのも気がひけるくらいに溺愛して止まない大事な妹のポケモンなのだ。その決断だけはすぐに出たから、この作戦を決行するに際して自分も身を乗り出したわけだ。
 オニスズメが囀る天気の良い日の朝。
 ジェノは随分と早起きした。時間にして午前五時。リミーガには午前八時に研究所に訪れると言っていたが、体がそれよりも早く反応を示したようだ。
 心拍数が上がる。胸が高鳴る。期待が高まる。ワクワクが止まらない。
 科学者を志しているジェノが、まだまだ幼いこの歳にして初めて携われる研究が、幸運にも大好きな妹の為になるという幸せの連鎖に心踊らないはずがないだろう。
 だが、ジェノはこういう時こそ落ち着くように、とリミーガに普段からよく言われていた。
 テンションがプラスであれマイナスであれ、中心軸がブレている時は、冷静な判断力にどうしても欠いてしまうのだ。だからこそ、常に自分を俯瞰した目で見ることで、客観的に捉えることで、冷静な判断を下せるのだ。そう言われていた。
 だが、ジェノは意地悪にニヤニヤする。きっとリミーガも今頃、早朝覚醒してソワソワしているに違いない。絶対にそうだ。そんな風に思って面白おかしく内心でからかっていたのだ。
 まあ、そうは言っても、プロジェクトそのものはかなり危険だ。それに、長い付き合いのリミーガと二人で作戦に赴くならともかく、どこの誰とも知らないアセビ博士の旧知の仲である考古学に詳しい科学者が同伴するとのことなので、どうテンションを管理して良いものか判断しあぐねる部分も確かにあるのだった。

「……っし。取り敢えずは六時半に朝飯食べて、ちょっと早いけど研究所に行こう。へへっ……リミーガの兄さんの期待に悶える姿を写真に収めてやろう!」

 そんな小さな作戦会議を一人で企てているうちに、静かに時間は流れていく。
 やがては、朝食の時間が訪れた。
 午前六時半に朝食とは健康そのものではあるが、ジェノの家庭はそもそも自堕落を許さない家族ルールみたいなものがあったので、ジェノも素直にそれに従っていた。そして、門限が厳しい家庭ではあるが、ジェノの研究に対する好奇心には根負けしていたのか、両親とアセビ博士の交友もあってかその辺に関しての時間ルールは存外厳しくもなかったようだ。

「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよ! いよいよ今日だぜ!」
「ああ……私のバルクを強くしてくれるっていう……」
「そうそう、必ず良い結果を持って帰ってくるからな! 楽しみにしててくれ!」
「……そうだね。うん、楽しみにしてる」

 威勢良く妹にはにかむジェノ。
 そんな姿を見て、ジェノの妹は兄がこんなにも幸せな表情をしていて、しかもそれが自分の為に動いている気持ちなのだと再確認して、やはり表情が綻んだ。
 ただ、一つだけ不安があるとすれば、その兄の表情には少し何かを盲信しているようなドロドロしたものが渦巻いているように見えた。それこそ、本人には自覚がないからこそタチの悪い類の、純粋故の狂気のようなものが。
 ジェノはガツガツとはしたなく朝食を腹の中に流し込むように食い散らすと、小さなショルダーバッグを携えて家を飛び出した。
 そのバッグの中にはモンスターボールが二つ。
 彼の相棒のリザードと、もう一匹。
 彼の妹の相棒のデルビル、バルクだ。

(待ってろよ……疵姫!)

 ジェノは研究所へと、軽やかな足取りで駆けていった。


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「おーっす! ちょっと早いけど来たぜ……って、アレ」

 午前七時半。ジェノは高鳴る鼓動を抑えられずに見事な三十分前行動を遂行していた。社会人ならドン引きするレベルで褒められた姿勢だが、ジェノが研究所の扉を開いた時には、既にキャストは揃っていた。

「やあ、おはよう。ジェノ」
「リミーガと同じタチか。五時ごろに目を覚ましたのではないか?」
「クククククククククク……」

 そこには三人の成人男性が立っていた。
 華がないのは仕方ないが、そこにいる三人は、三人揃って優秀な人間であった。
 爽やかに切り揃えられた後に水色に染め上げた短髪に白衣、赤いネクタイという中々に個性的な格好をしている研究者、リミーガ。
 リミーガより少しばかり背丈が低く、仕事疲れか歳に見合わないブリーチでもしたかのように色味が抜けた髪をしている細い目が印象的な研究者、アセビ博士。
 そして。

「クククククククククク……初めまして。あなたがジェノさんですね」
「あ、ああ……どうも」

 アセビ博士と同年代か少し上か、年齢の読めない灰色の髪をオールバックにした、サングラスが印象的な黒い背広の男性がそこにはいた。
 ジェノが推測するまでもなく気付いたのは、その人物がアセビ博士の知り合いであるという考古学に精通している研究者であろう人物だといことだ。

「ああ、ジェノ。紹介する。彼はユダ。変わった名前をしているが、真っ当な研究畑の人間だよ」
「ユダ……の、おじさん?」
「クククククククククク……まあ、おじさんで良いですよ」

 アセビ博士がユダなる人物を紹介すると、ジェノは少し狼狽えるようにしてから、弱めの返事をする。
 何やら凄くヒストリカルな名前だし、そもそもその名前とルックスが噛み合っていないところにツッコミを入れたいところだが、その不気味な笑い方がそれを実行するだけのメンタルを蝕んでいくように感じた。
 とりあえず、疵姫に関する情報の多くを握っているのはこの男だろう。
 ジェノはそれを再確認するように唾を呑むと、アセビ博士に一応断りを入れておくことにした。

「なあ、アセビ博士。昨日リミーガの兄さんはああ言ってたけど、実は俺も同行するんだ。……で、検体のポケモンは俺が用意した」
「ああ、知っている」
「え?」

 アセビ博士のその返しに、ジェノはタダでさえ細い目を、丸くとまではいかないが大きく見開いて驚きをあらわにする。
 だが、その直後に思い出す。
 アセビ博士は、ジェノが研究所の扉を開けた時に、やけに待ち望んでいたかのような出迎え方をしていた気がする、と。
 『リミーガと同じタチか』などと、言っていた気がする。
 すると、リミーガが申し訳なさそうにそれに注釈を入れる。

「あはは、ごめん、ジェノ。博士には言っておいたんだ。一応、子どもを引き連れていくのは危険だから、今伝えたんじゃ遅いと思ってね。すると、こういう陣形になるというわけだ」
「陣形……?」

 ジェノは改めて三人を順に見据える。
 リミーガ、アセビ博士、ユダ。
 作戦に赴くのは……リミーガと、ユダと……。

「……アセビ博士も来るのか?」
「ああ。元はと言えばリミーガの研究魂に火を付けたのは他でもない私だからな」
「マジか……そうなると、大所帯だな」
「四人で大所帯とは言わないだろう。まあ、研究畑の奴らが集うならば、違和感もないが」

 アセビ博士はコホンと一つ咳払いをしてから、ユダに視線を向ける。

「さて、ユダ。ここから先はお前に頼ることになる。準備は大丈夫か」
「クククククククククク……ええ。お任せください」

 ユダはアセビ博士と目を合わせるでもなく歩き出し、ジェノが入ってきた研究所の入り口のドアを通過する。
 アセビ博士は「相変わらず協調性のない奴だ」とぼやきながら、そのあとを着いていった。

「さて、ジェノ。僕たちも行こうか」
「……あ、ああ」

 ジェノはそのユダという男の異様な雰囲気にどうにも順応できなかった。
 だけれど、これから疵姫の封印を解き、その『ペンテコステの洗脳』のデータを手にするのだ。自分なりに浮かれすぎずに気を引き締めるにはそれくらいのおどろおどろしさがあっても悪くはないんじゃないだろうか。そういう形で自分に言い聞かせた。

「……追憶の石室」

 オルティガシティから離れ、草木が生い茂るあからさまに胡散臭い雰囲気の道を進みながら、ユダは先頭に立ちそんなワードを呟いた。

「……という場所を知っていますか?」

 ユダが追加で問いかけるように言うが、アセビ博士もリミーガも黙り込んで返事をしない。無知の知というものに屈辱を感じているに違いないとジェノは勝手に推測して、代わりに返事をした。

「いや、知らねーけど」

 すると、ジェノの返事に反応してユダがより一層気味の悪い含み笑いを漏らして、そしてまた話を始めた。

「まあ、古い文献に名前がちらりと記載されている程度なのでね、知らなくて当然だとは思いますが……疵姫が封印された土地はそう呼ばれています」
「そこに、向かってるってことだよな?」
「ええ……ですが、石室という名前を冠するには、そこはあまりにも野生的なのですが」
「来たことがあるのか?」
「クククククククククク……ワタクシにも探究心はあります。事前の調査は怠りませんよ。もっとも、あなた方の計画を知る前から此処には訪れていたのですがね」

 ユダがそう言ったところで、草木が生い茂っていた入り組んだ道から、開けたところに出た。
 補正されているでもないただの地面が伸びる先には、洞窟の入り口みたいなものがあった。

「えっ……ここ?」
「クククククククククク、着きましたよ。追憶の石室です」

 ユダはそう言うと振り返り、ジェノに向かって手を差し伸べるジェスチャーをした。

「さて……事前準備を整えてから行きましょう。ジェノさんが検体を連れているのでしたね。それと、リミーガさんの持っている装置も出してください」

 ジェノはついにこの時が来た、と体を小刻みに震わせながら、ショルダーバッグからモンスターボールを取り出し、中にいるデルビル……妹の相棒であるバルクを外に出した。

「こいつに……疵姫のチカラを分けてやってほしい!」
「クククククククククク……成功すると良いですねえ」

 リミーガは静かにそのデルビルの頭部に、ヘルメット状の装置を取り付け、そこから伸びる電極を心電図のように体に取り付けた。
 形状や使い方は『がくしゅうそうち』をベースとしているらしく、取り立てて扱いにくい物でもなかったらしい。

「よし……取り付けたぞ。ジェノ……行こう」
「……ああ!」

 リミーガがジェノに声をかけてからユダとアセビ博士にアイコンタクトを取る。
 アセビ博士は神妙そうな面持ちで頷き、ユダはやはり不気味な笑いを浮かべていた。
 こうして、何を暗示してか暗雲が押し寄せてくる中、四人は追憶の石室と呼ばれる遺跡に足を踏み入れた。


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 それは、恐ろしいほどに美しかった。
 研究者には芸術を無機質なものに見てしまうフィルタがあるとリミーガは唱えるように言っていたことがあったらしいが、それでもリミーガはその姿に圧倒され、魅了され、感動すらしていた。

「これが……疵姫」

 そこには、水晶のように透き通った、氷像のような何かが立ち尽くしていた。まっすぐ見据えなくとも、その奥の景色が乱反射するように、万華鏡のように複雑に映り込み、触れたらあっという間に溶けてしまいそうなほどに、氷のようだった。

「これは……ポケモンなのか?」
「これ、ポケモン……?」

 アセビ博士とジェノが同時に同じような言葉を吐いたが、それに対してユダは的確に答えていく。

「クククククククククク……ええ。ポケモンですよ。文献によれば、これは封印された姿。よく見てください……形状は確かにサーナイトですよ」

 ジェノはまじまじとその氷像のような物体を見つめる。人型、長い腕、ドレスのようなヒダ、やはり言われてみれば、見れば見るほどサーナイトであると認識してしまう。
 これが、伝承に残された『疵姫』なのだ。
 ユダは、一歩前に踏み出してから振り返り、両手を大きく広げる。

「ここで、昔話をしましょうか」
「昔話?」
「悲劇ある存在の悲劇を知らずに研究材料として消耗する方が、悲劇だとは思いませんか? クククククククククク……」

 そこからユダは語りを始める。
 文献にはこう記されていた。
 疵姫とは、つまるところ感受性の塊である、そして好奇心の塊である、と。
 疵姫は生まれ持って他者の考えが客観的な形で理解できた。
 「お腹が空いたな」という感覚ではなく、「空腹だということを脳が認知した」という情報を知識として受信できる体質であった、と。
 それは、『生きた聖域』……『ベツレヘム』と呼ばれる神の如き存在から与えられた特殊なチカラであり、それがのちに禊装と呼ばれるようになるものである。
 疵姫がベツレヘムから授かった禊装こそが、対象と自分の知識の同期、抽出、改ざんを可能にする『ペンテコステの洗脳』だった。
 だが、ベツレヘムの恩恵は、ただの恩恵ではなかった。
 そもそも、何故自他共に持ち得る知識を操作するポケモンが『疵姫』と呼ばれているのか。
 ちゃんと理由はある。
 疵姫は、他者の知識に干渉する代償として、その体が蝕まれていくのだ。
 ペンテコステの洗脳を発動させてから、肉体が活動限界を迎えるまで、タイムリミットが存在する。いいや、タイムリミットではない。禊装を展開してから、徐々に傷を背負っていくのだ。
 その感受性ゆえに、『傷付いたことによって体がダメージを負った』などの情報も飲み込んでしまうため、全能の神にはなれないのだ。
 傷を一身に背負う。故に『キズヒメ』。
 ベツレヘムはそんな疵姫を哀れに思い、民と彼女の間の軋轢が大きくなる前に、彼女が必要以上に傷を負わないように、誰もこない場所に封印した。それが、ヘルシェーロ・ヘルクラフトという学者によって追憶の石室と記されたのだという。

「クククククククククク……と、まあ。そんな感じです。さて、始めましょうか」
「ちょ、ちょっと待てよ!」

 ユダが話を終えたところで、ジェノがそれに食ってかかる。
 ユダはそんなジェノに不思議そうな顔をして首をかしげる。

「封印を解いたら、疵姫は警戒して……その、ペンテコステの洗脳とかいうのを発動させるんだろ? そうしたら、疵姫はまた傷を背負って……」

 ジェノが心配しているのは、自分達の研究の為に、本来世界と彼女の間に確執を生まないように封印されている疵姫を覚醒させてしまうことで悲劇が再び繰り返されるのではないかということだ。
 だが、ここでリミーガとジェノの意見に食い違いが出てくる。

「ジェノ。熱くなるな……目的はあくまでデータの搾取。犠牲になるのは疵姫だけだ。これは、時代の進化に必要な犠牲なんだ」
「でも、リミーガの兄さん!」
「……妹のポケモン、強くするって約束したんだろう。独り善がりな正義感と、妹への厚意、君はどちらを取るんだい」

 アセビ博士は、そんな二人の様子を後ろから不機嫌そうに見つめていた。これはもはや、研究者としての領分をとっくに逸脱している。
 欲と感情に流された、愚かな人間の罪深き末路だ。

「わかったよ……」

 だが、ジェノはそこで折れた。その表情は、今朝家を出た時の快活なものではなく、悔しさに歪んだ、愉快とは言えないそれであった。
 だが、ジェノは誓っていたのだ。
 必ず妹に、良い知らせを持って帰ると。

「このデルビルに……疵姫の禊装を宿す!」
「クククククククククク……では、封印を……解きましょう」

 ユダが何やら小さなコントローラのような物を取り出し、そのスイッチを押すと、辺り一帯に高周波のような甲高く劈くような音が鳴り響いた。
 これはヘルクラフトの血筋が持ち得る特異性を無理やり科学技術で再現したものだ。
 即ち、紛い物。
 ただ、それは封印された疵姫を呼び覚ますには十分であった。

「こ……これ……」

 水晶のような、氷像のようなそれは、次第に色味を帯びて、ゆっくりとサーナイトの本来の姿へと変貌した。ただ一つ違うとすれば、通常個体と色が違うことと、左目に大きな傷跡がついていることだろうか。
 そして、そのサーナイト……疵姫は何やら生き物のようではないアクションを取り始めた。

『ペンテコステの洗脳……展開。これより解析を始めます。対象……が……で……解析……読み込み中……データ……記録層……データベース……ベツレヘム……が……』
「リミーガの兄さん! 装置を起動してくれ!」
「あ、ああ!」

 リミーガがジェノの連れていたデルビルの頭に取り付けた装置を起動させると、溝になっている部分が光を放って、デルビルの頭から体全体に電気信号を送っていく。
 無事に、疵姫の禊装を取り込んでいるようだ。
 いや、それを『無事』と表現するのはあまりにも残酷すぎる。

「ぐるるるるるるるるるる、るるるるる、るるるる、るるるるるるるる……!」

 デルビルの瞳孔が大きく開き、視線が虚ろになって、体が小刻みに震えているのだ。
 そして。

「があああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 断末魔のように、うめき声が響く。
 リミーガの開発が追いつかなかったかどうかはわからない。だが、疵姫のペンテコステの洗脳を取り込んだデルビルがそれに耐えきれず、悲鳴をあげているのだ。
 ジェノは、どうして良いものか判断できず、竦んだ脚を両腕で鷲掴みにして青ざめる。
 そして、悲劇はまだ終わらない。

『データが……が……読め……読み……が……』

 疵姫の体から蒸気のようなものが溢れ出て、その体が縮んでいく。そして、頭部から二本の角のようなものが生えていく。

『これより……危険因子……処分……が……削除……ます』

 疵姫が両目を開くと、赤く光る魔法陣のようなものが体の前に展開されて辺りに散らばっている岩の破片や礫を念力で持ち上げ始めた。
 自身のコントロールも出来ないままに、危険だと認識したデルビルに攻撃を仕掛けようとしているらしい。

「ジェノ! デルビルから装置を外せ! モンスターボールに仕舞うんだ!」
「あっ……あ、ああ!」
「ぐるるらあああああああああああああああああああああああああ!」

 ジェノが震える脚をいなす様に殴りつけ、デルビルの元に駆け寄ろうとする。
 だが、疵姫の攻撃はその一歩先を行っていた。

「バルク!」

 ジェノが叫んだ瞬間。
 デルビルの前に何かが割り込んだ。

「がっ……!」

 念力によって飛ばされた礫をデルビルを庇うように誰かが受け止めた。
 額からは大袈裟なほどに血が流れ、フラフラとよろめきながら、地面に倒れ伏せた。

「……あ、あ……あ」
「……アセビ博士」

 アセビ博士が、ギリギリのところでデルビルのバルクを庇って岩の弾丸を一手に引き受けたのだ。
 リミーガとジェノは急いでアセビ博士の元に駆け寄る。
 朦朧とする意識の中で、アセビ博士はリミーガとジェノに呼びかける。

「ほら、な……知識欲とは、これだけのリスクを背負ったものなのだよ……」
「喋るな! 今助けを……」
「もう、いい……こうなることは、わかっていた……リミーガ」

 アセビ博士は頼りない声のまま、リミーガに向かって指を伸ばす。

「言った……だろう。何かを……犠牲に、してでも……研究を続ける……冷酷さを、しっかりと、持って……おくべきだ、と」
「博士……博士……っ!」

 最期に、アセビ博士は静かに言った。

「犠牲は払った……完成させろよ、この誇らしい負の……遺産を」

 そして、ジェノは疵姫を見据える。
 気付けば、その姿はサーナイトではなく、進化前のキルリアになっていた。危険を察知して、禊装が体を退化させたのだろう。
 そのまま、疵姫は意識を失い、地面に倒れた。

「クククククククククク……やはり、作り物の波長ではコントロールが難しいですねえ」
「……ユダ、お前、もしかして……」

 全部、わかっていたのか。
 ジェノはそこまで言おうとして、言えなかった。
 恐らく、疵姫を覚醒させるヘルクラフトの周波数を再現した装置はまだ完全ではなく、こういった形で疵姫を暴走させる形になるということはわかっていて、アセビ博士に被害が及ぶことも想定内で、『実験のようなもの』を行なっていたのかもしれない。
 リミーガは、地面に倒れ伏せるキルリアを抱きかかえる。

「実験は……失敗だ。大失敗だ。だが……疵姫の面倒は僕が見る」
「リミーガの兄さん……どうやって」
「……考えてみるさ。君は……妹さんに、謝ることだけを考えておきたまえ」
「……」

 リミーガの発案から始まった、疵姫の禊装を複製する研究は、不幸にもこのような形で幕を引くこととなった。
 だが、ユダだけはその有様を見ながら、口角を上げていた。


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「……ただいま」

 土砂降りの雨が降りしきる中、ジェノは自宅に帰ってきた。
 出迎えてくれた妹は、兄の報告を楽しみにしていたが、兄の姿を見て、青ざめる。
 虚ろな瞳でどこか遠くを見据えている、口を中途半端に開いたデルビルを、ジェノが申し訳なさそうに抱えていたのだ。

「お兄ちゃん……なにそれ」
「駄目……だったんだ」
「……なにが」
「実験が……失敗したんだ」
「……なんで」
「わからねえよ……」

 妹は悲しそうな表情から、人格が変わったように怒りと憎悪を滲ませた表情に変わる。

「なんでよっ! なんで! なんでなんでなんでっ!」

 兄を信じていたのに。まさか、兄に、大事なものを壊されるだなんて。
 大好きだった、尊敬していた、一番信頼していた、兄であるジェノに。
 妹は、ジェノを思い切り突き飛ばした。小さなショルダーバッグからモンスターボールが転がり落ちる。

「……ごめん」
「ごめんって何! 謝ってどうにかなるっていうの? バルクは……こんなに壊れて……!」
「……ごめん」
「もういい! お兄ちゃんとはもう関わらない! 大事なものを壊されたくない!」

 妹は、地面に放り出されたデルビルのバルクを優しく抱き上げ、玄関を飛び出して街の中へと消えていった。

「ごめん……ごめん……アイテール」

 妹の名前を呼んでも、それはジェノにとっては遅すぎる行為だった。
 ジェノは、この一件を皮切りに、研究者になる夢を捨て去った。
 そんなものに頼らなくても、強くなる道があったはずなのに。知識欲という紛い物に身を委ねたばかりに、こんな悲劇を招いてしまった。
 だけれど、失ったものはもう、もどらない。


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 ジェノの妹、アイテールはデルビルのバルクを抱えて、土砂降りの雨の中、傘も差さずに歩いていた。
 もう、あの家には戻らない。忌々しい兄がいるから。
 まさか、こんな一瞬で兄に対する気持ちが切り替わるだなんて思わなかった。だけれど、そんなことを呟いても、兄を責めても、バルクは元には戻らない。
 そんな時だった。
 アイテールに大きく開いた傘を傾けてくれたのは。

「クククククククククク……どうされました、お嬢さん。随分と悲しそうですが」
「相棒のポケモンを、壊された……」
「ならほど……ならばワタクシの元に来なさい。治して差し上げられるかもしれません」

 話しかけてきたのは、灰色の髪とサングラスが印象的な、長身の男だった。
 俯いていたアイテールは、そこで初めて顔を上げた。

「……あなた、誰?」
「ユダ、と申します。一応、ポケモンドクターの資格を持ってましてね」

 この出会いが、誰も報われない未来を招くだなんて、アイテールには理解することすらできなかった。

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