物言わぬ果実

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昨日の俺が自分だなんて、馬鹿馬鹿しい。
俺は手触りの良いじゅうたんに、無造作に置かれた果実を手に取った。拾う前からこの部屋中には甘い良い香りが充満していて、実を言うと今すぐにでもかぶりつきたかった。きっと今晩のデザートは綺麗に切り分けられたみずみずしい実を食べることができるだろう。大変美味そうだ。俺は朝日の中にこりと笑って、今しがた起きてきた男性に声をかけた。

「やっとオボンの実が食べ頃になったよ、父さん」



大久保家は資産に少しの余裕がある。大手の銀行員だった父は若い日々を仕事のために捧げ、気がついた時には重厚感のある家具と皺だらけの手だけが自分に残っている状態だったらしい。仕事を引退してからは無駄に広いダイニングが自分を責めるようだと眉毛を下げながら話していた。母はそんな父を見ては、「あなたの努力の結果でしょう」と穏やかに笑ってキッチンから顔を覗かせた。父も母の言葉にはいわゆるたじたじで、片想いが長かった父にとって母は今でも可愛い存在なのだと、離れて暮らす姉は話していた。
その父が、なんかおかしい。
息子である敦にとって思い出に残っている父といえば、悲しげな顔をしているか不機嫌な顔をしているかのどちらかでしかなく、今の父には違和感を感じている。小さい頃ややんちゃをした時には怒号も飛んだような男だ。しかし最近の父は、いつ見ても穏やかな表情を顔にたたえていて、とても怒鳴るようには見えない。どうやら性格も変わってしまったらしい。
「父さんはもともとそういう性格なの。あんたが怒られるようなことばかりしていたから、仕方なく父さんも怒鳴ったけど、本当はそんなんじゃないんだって。歳もとってやっと地の部分が出てきたんじゃない」
姉は受話器からさえ漏れでそうなわざとらしいため息をして、敦へのお小言も忘れなかった。
「あんたもいい歳なんだから、もう父さんにしかめっ面させないでよ」



大久保家のダイニングには琥珀色の振り子時計と、明らかに家族の数と相容れない大きさのテーブルがある。当時父は職業柄、お偉いさんたちとの取引も数多く受けていたので、母に言わせると見栄を張る必要があったそうだ。信頼関係を築かなければ契約は難航しただろう。長い年月の年輪のように傷だらけなテーブルを撫でる。父は父で苦労しなければならなかったのかもしれない。
「父さん最近何かいいことでもあったのか」
「なんだ、藪から棒に。…まあ、そうとも言うだろうな。お前こそ急にどうした」
父は香ばしく焼けて油がふつふつと湧き上がる切り身魚をほぐしながら微笑む。今一度じっと見つめると、心做しか顔色が良くない気がした。と言うよりも、肌つやはかなりいいのだが血色が弱い。ふいと父が顔を上げたので慌てて目線を落とした。
「いや、父さんって昔はそんな穏やかな印象じゃなかったから」
ははは、と笑って首を横に振った。
「まあお前のような息子もいたからなあ、気づかんうちに固くなってたんだろう。だが、いいことがあったと言ったがあれは…本当に素晴らしかった。生きている心地を初めて感じたよ」
ふうんと気のない返事をして白米を口に詰める。鼻から抜ける柔らかな香りが脳を刺激する。
ふと父の頭上に視線を移すと、鮮やかな色彩で描かれた一枚の絵画が目に映った。父が数年前、出先の骨董店で衝動買いしてきたオボンの絵だ。作者は未だ不明だが父も母もたいそう気に入っていて、この絵が来てから高級フルーツであるオボンの実を何度か食べたことがあるくらいだ。絵画そのものがあまりによくできているため、敦は時々その甘い香りすら感じるようだった。
「そういえば父さんも母さんも、オボンをデザートに食べる時いつも、これは素晴らしい、良い出来だって言ってるよな」
二人は顔を見あわせて照れくさそうに笑った。敦もつられて笑みをこぼす。
「俺この絵から時々いい匂いがするような気がするんだ。色に頭の中が反射しているのかもしれないけど、めちゃくちゃに食べたくなる」
ぽくないな、と自嘲気味に笑うと、夫婦はただ笑っていた。いいじゃないか、そういうのを感受性が豊かだというんだ、なんて笑わせて。
三人がそれぞれ笑っていた時、どこからかしれない声で言う。
「大丈夫、私たちもだ」と。



敦は酷い寝不足に悩まされていた。寝不足といえど日中に突然強い眠気が襲ったり、運転や活動に支障が出るということではない。自身の活動しているであろう時間の記憶が少量すっぽ抜けるのだ。一日の記憶をいくら漁ろうともその解決に至ることはなく、事実父のことで思い悩み寝不足が続いていたので、ぼうっとしていたことは何度かあった。まあしょうがない、と敦はひとりごちる。父のあの顔を見てから、あの食事をしてから正体の掴めない心配が敦の心臓を引っ掻いている。あの絵画の黄色が脳裏にこびりついて剥がれない。実態のないものに目潰しをされたような感覚が恐ろしくて堪らない。
ふらふらと部屋の重い扉を開け、何か腹に入れてから就寝しようと思った。少しでも温かいものを取り入れれば体は安心するのかもしれない。

キッチンへ通ずるダイニングを通る時、ふとあの甘い香りが敦の鼻先をつんざく。先日見た時よりも強烈に、微かに香る匂い。
敦は糸を張られた人形のようにくるりと向きを変えた。目を閉じていてもたどり着ける匂いの元へ。甘美で爽やかで苦い。
手を添える。指を這わせる。そしてふと気がついた。
「実が膨らんでいる」
苦労をあまり知らない薄ばりの手の中に収まるほどの果実。なぜ自分がこれほどまでにこの絵に魅了されているのか、なぜこれほどまでに執着しているのか分からない。分からないのに離れない、離れられない。
父がひどく気に入っていた理由を理解できた気がした。
「もう少しだ」
真っ黄色な爆発の中で重力を失っていく。



喉の渇きで目を覚ました敦は、携帯の明るさが目を潰すのではないかと思うくらい画面に見入っていた。
「あの絵を見た夜、から…二日」
慌てて着信や発信履歴を確認すると、自身の記憶が抜けている二日の間に何度か連絡を取っているようだ。信じられなかった。話した内容すら覚えていないのだから。
もしかするとあの絵を見た夜、そのものが夢の中だったのではないかとも思うほどだ。呼び出し音がじれったかった。
「…何、こんな夜中に」
姉は明らかに不機嫌な声とため息をついて声をひそめつつ耳元で囁く。
「俺、昨日俺電話したっぽいんだけど、どうだった、何か変じゃなかったか。例えば、そう、夢現みたいな」
喉が渇いているせいで言葉を並べるのもままならない。何言ってるのと姉はいよいよ不機嫌になった。
「いつも通りだったって。ちょっと機嫌良さそうだったけど。何、またなにか仕事でトラブル起こしたとか」
「いやっいいんだ、普通なら。夜遅くに電話して悪かったな。…ああ、……ああ、それじゃ」
震える手で受話器を置くマークを押した。どういうことだ。俺の記憶はいつからが本物でいつからが偽物なんだ。そう考えている間にも頭の中がぼうっとしてくる。反射的にベッドから飛び起き、物音も気にせず部屋を飛び出した。体を動かすと頭の中と視界が黄色に染まる感覚がした。またあの香りだ。あの爽やかな匂い。食べたい。あの実を食べたい。
とにかく最後に覚えている場所へ行かなければいけない気がした。走る途中で何度も足がもつれた。フローリングに派手に転んだ時不思議と痛みは感じなかった。それが余計に不安を煽っていた。真っ暗と真っ青と真っ黄色のダイニングに立った時、あの絵の前に、あの果実の前に、誰かがいた。

「おい」
返事がない。
「おいっお前誰なんだ」
電気を乱暴につけていつかの父とよく似た声で怒鳴った時、振り返った横顔が、父にそっくりで。
大久保敦がいた。

絵の前にすっと立つ大久保敦はゆっくりと振り返る。俺の父と母によく似ていて、俺より似ている気がした。大久保敦はにこやかで穏やかに笑っていたが、目だけは一切笑っていなかった。音のない外の気温が部屋中になだれ込んできた気がした。振り子時計の打ち続ける音だけが響く。瞬間的に、俺はこの大久保敦のようなにこやかな顔をしたことがあっただろうかと考えた。いつも父の顔色を伺い、父のしかめっ面に文句を言っていたが、本当は俺もこういう顔をしていたんじゃないだろうか。俺は言葉や侮辱よりも体が先に動いた。
「お前っお前は一体なんなんだっ」
胸ぐらをつかみ髪の毛をつかんだ。唾液が漫画みたいに飛んだ。大久保敦は表情を変えなかった。その顔が人ならざるもので、俺は胸ぐらをつかんだまま恐怖に食い尽くされていた。目線を変えず、口角も変えず、すっと右の手のひらを差し出す。誘導されるようにその人差し指を見ていると、指の先端、その爪の先がゆっくりと形を失い、肌を失い、ピンクがかった紫のゲル状になっていった。ゲルは指先から床へ滴り落ち、じゅうたんに吸い込まれることなく揺れる。慌てて崩れた手のひらを見てみると、ゲルとしてなくなった部分が再生していた。何事も無かったかのように。俺はその指の様子に目を奪われ、つかんでいた胸ぐらと頭を離してしまった。はっとした。何もかもが遅かった。
「メタモン……」
「こん…にちは」
大久保敦は笑わない目で笑った。
その目は俺の後ろでも横でもない、俺自身の両の眼を見つめている。
「僕が、これから、の、大久保敦」
「…どういうことだ」
「果実は膨らむ。じきに、落ちる。落ちれば食べ頃」
俺は言葉を失った。文字どおりに。何を話していいかわからなくなっていく。
「大久保家はもう、ほとんどが僕らになったよ。僕は今日、姉は…また今度だろう。君は父と母が優しくなったことに気づいた。遅かったんだ。二人はもうとっくに、そうだな、君たちの言葉でいえば、メタモンだ」
「みとめられない。おまえがわるい」
「そうだろうね。二人もそうだったし。でも理解した方がいい、さっきまで片言だった僕は流暢になり、怒鳴っていた君は言葉を失った。時が来たんだよ。もう思考すら無くしたかもしれないから僕から説明すると、このあと完全に入れ変わった君は果実になる。果実になるんだ。この絵の実を見ただろう。今にも落下しそうな実を。そして、君が今までそうしたように、素晴らしい素晴らしいといって、食べるんだ」
俺は何かを話した。それは何語でもない叫びとなった。
「今更恐怖しても、食べたじゃないか。君のお父さんとお母さんを。高級なのに、綺麗に切り分けていて食べやすいって」
「あの実は全部、あの二つともここの絵画から落ちたものなんだ。よく熟れていただろう。僕らは君たち人間の生き方に異常な興味を持った。定形を持たない僕らと違って君たちはいつも同じ顔で泣いたり、笑ったり、怒ったりする。僕らにはそんなに表情はない」
「まて、くれ」
大久保敦はずっと俺の顔を見ていた。俺はお前が言うほど感情を出してこなかったじゃないか。今まで明るく生きたこともなければ仏頂面で生きたこともない。そんな俺になりたいだなんて認められない。
「僕らは悲しくとも怒りにうちふるえようともこの顔を変えられない。いつも穏やかな笑みを浮かべるだけだ。だから人間になるのが一番いいと思った。人間だって都合がいいだろう、誰も怒られたくはないんだから」
一瞬同じ顔が悲しげに見えたが、すぐに口角を上げた。身体中を黄色と甘ったるい果実の匂いが走り回る。立つ気力ももはやなかった。膝をつき、大久保敦の気色悪い笑顔を見上げて喘いだ。もう手も足も感覚がない。傷みがないぶん、遠のいていく意識だけが確かだった。
大久保敦は額縁から垂れ下がったオボンの実を撫でて言う。
「君はもう実になりたがっている。君の視界に溢れた黄色とつんざく匂い」
俺は…。果実...。
「もう朝になる。朝が来れば全て元通り。君はもう」

「物言わぬ果実だ。」



俺は手触りの良いじゅうたんに、無造作に置かれた果実を手に取った。拾う前からこの部屋中には甘い良い香りが充満していて、実を言うと今すぐにでもかぶりつきたかった。きっと今晩のデザートは綺麗に切り分けられたみずみずしい実を食べることができるだろう。大変美味そうだ。俺は朝日の中にこりと笑って、今しがた起きてきた男性に声をかけた。
「やっとオボンの実が食べ頃になったよ、父さん」

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