飛翔する一つの影。
頬に風が当たる。それが少しだけ冷たい。
季節が春とはいえ、寒さはまだ少しだけ残っている。
けれども彼女は、すぐにぬくもりを得ることが出来る。
振り落とされないように掴まる彼の首もと。白の毛はもふもふなのだ。
そこに身を沈めれば、もふもふの感触と彼の体温が伝わってくる。
しばらく頬でその感触を楽しんでいたとき。
不意に彼女の赤紫の瞳が瞬いた。
またいでいた彼の背。その脇腹あたりを軽く足で小突く。
ばさり。応えるように彼は羽ばたく。
「もふすけ、“超音波”」
身体を起こしたるいは、お気に入りの白の猫耳帽子を手で抑えながら、またがるオンバーンへ告げる。
ばさりと一つ羽ばたかせた彼は、すぐに背に乗る主の言葉を実行する。
口から音波を放つ。
人の耳では聞き取れない高音域。
戦いの最中に放てば、相手の意識をかき乱して混乱させる技となる。
だが、彼は普段から別の目的で使用することが多い。
「相手の位置分かる?」
オンバーンの両耳が動く。
自らが発した高音域の音波がはね返り、その音を聞き分けることによって。
その先にある物、大きさ、距離。
様々なことを把握することが出来る。
それは視認するよりも正確な情報。
オンバーンの耳がぴくりと動く。
背の主が欲する情報を得た。
一言鳴いてそれを訴える。
「オッケー、もふすけ。近くまで下降」
主の言葉に音のしない羽ばたきで応える。
そしてそのまま、西へ行路を変更してゆっくりと下降を始める。
音もなく。風が吹いたのかと錯覚してしまうくらいに。静かに静かに。
やがて、緑の海へと沈んだ。
*
気配を殺し、背丈のある茂みに身を隠す。
「ここから西の方角ね」
るいと同じく身を低くして潜むオンバーンへの確認。
ちらりとるいが肩越しへ振り替えれば、彼は小さくこくりと頷いた。
「オッケー」
小さくぽつりと呟く。
ひらり。片手を上げる。
それが合図。
凪いでいた茂みが動いた。風。否。彼だ。
彼の気配が遠退いた。
るいの手が腰へと伸びる。
彼女の手の中できらりと光を弾く二つの球。赤と白の球。
かちり。同時に球の頭頂、突起を指で押す。
瞬間、球が掌大にまで大きくなる。
ぺろり。るいが口元を舐めた。
風はこちらの味方をしてくれるらしい。
風下ならば、音も匂いもこちらのものは届きにくい。
瞑目。内で目標を反復する。
近頃、この近辺で野生ポケモンの乱獲用設置罠が見つかっている。
その他の情報も照らしてみる。
結果、自分達の探し求めている存在との関わりは低いと判断する。
それでも。何かしらの情報は掴めるかもしれない。
開眼。赤紫の瞳が煌めく。
それが、ゼロに近い数値だとしても。
立ち止まるわけにはいかない。
「りんのすけ、ヴィヴィ」
二つの球を高く放る。
「目標は西の方角」
放たれた白の光。それが形を成す。
片方は金の瞳を煌めかせ、まといつく白の光を振り払うように身を震わせる。
片方はるいの隣。白の光の中から青の四肢が現れ、開かれた瞳は蒼。
「りんのすけ、透視で相手の詳細位置を」
レントラーの瞳が光を発する。
彼女は透視の力を持ち合わせる種族。
すぐにそれらしき存在を捉える。
ちらりとるいを振り返り、一つ頷く。
にやり。るいの口端が不敵に嗤った。
「オッケー」
それを受けたレントラーも、愉しそうに瞳を細めて。
「ゴー」
その一言が、瞳を煌々とさせると獣を駆り立てる。
一直線にそれへと向かう背を見送り、るいは視線を下へ落とす。
「ヴィヴィ」
名を呼べば、声の代わりに尾が揺れる。
落としていた腰を持ち上げて、すらりとした四肢を動かす。
まるで髪飾りのような長い房が優雅に揺れて。
彼女、グレイシアは歩き出す。
蒼の瞳が瞬く。
そこに宿る色は何を現す感情か。
それはるいにはまだ読み取れない。
けれども。探す存在は同じ。
それだけで、彼女達が一緒にいる理由は十分。
グレイシアに続くように、るいも足を踏み出した。
◇ ◆ ◇
「これで最後っと」
土をかぶせ、作業は完了である。
用意していた罠は全て設置した。
この周辺に幾つも仕掛け、あとは獲物がかかるのを待つだけとなる。
僅かな重さを感じれば、罠が作動し、獲物の脚に縄がかかる。
「今回のは自信作だからな」
男は呟く。
「前のは簡単にほどけたからなぁ」
罠に使用した縄を手にし、力任せに引っ張ってみる。
「今度は頑丈な素材にしてみたんだぜ」
見ろ、切れないだろ。
と、男は自慢気に見せつける。
その場にいるのは男だけだというのに。
否。そうでもなかった。
「確かにこれ、頑丈そうだけど」
男が反射的に言葉の方へ振り返った。
男の瞳が見開かれる。そこに映るのは。
鈍い光を弾く、鋭い爪。
黒の獣が躍りかかる。
男の口からひきつった悲鳴が。
一閃。爪の軌跡が一線を描く。
男の口からひきつった悲鳴がもれることはなく。
爪の一閃にて引き裂かれた。
はらり。男の手に握られていた縄が裂かれた。
「ポケモンの力なら」
地に足を着けた獣が舞い戻る。
「造作もないよ」
るいの赤紫の瞳が嗤う。
るいの手には引き裂かれた縄。
「だからかな、つまんなーい」
愉しそうな声から一転。気だるそうな声。
口を尖らせて、裂かれた縄をぶらぶらとさせる。
「でも」
ちらり。視線を横に向ける。
「りんのすけは痛かったみたい」
レントラーの瞳が鋭く男を射抜く。
前足を舐める部分が、少しだけ赤く滲んでいて。
黒にその赤は映えていた。
男は喉から何とかして、ひっ、というひきつれた声を出すことができた。
できたから、何とかこの場を打開しようと頑張れたのかもしれない。
気付かれないようにと、静かに手を腰へまわす。
目の前の少女は、大丈夫かとレントラーに視線を向けていて。
そのレントラーも少女に痛みを訴えるように、ひんひん鳴いている。
逃げるのならば今だ。そう、確信した。
男の指先が腰の球の突起に触れた。
男が無意識下で安堵の息をついた。
その、刹那。
「気付いてるよ」
少女がこちらを向いた。にっこりと笑んで。
同時に、背後に何かが舞い降りたのに気付く。
きらり。視界の端。首もとで何かが光った。
ひやり。首筋。冷たい何かが当たる感触。
「ああ。動かない方がいいよ、お兄さん」
にっこり。少女は笑む。笑う。嗤う。
「もふすけの爪が間違って裂いちゃったら大変だもん」
大変だもん、と口にしながらも。
その声音は、微塵もそのように思っているとは到底思えない。
そんな無邪気な声音。
男の背筋に氷塊が落ちる。
少女の足が一歩。男に踏み出された。
一歩一歩。それは確実に縮まって。
眼前にまでそれが縮まったとき。
少女の赤紫の瞳が愉しそうに嗤った。
そして。がくり。と、男の身体はくずおれた。
*
「あれで気絶するとかありえないんですけどお」
口を尖らせてぶつぶつと文句を言う。
「あたしがそんな、人の道を外す様に見えるとかって失礼なんですけどお」
ぎゅうっと気絶した男を縄で縛る。
オンバーンが。ため息一つこぼして。
そりゃ、あのような振る舞いではそう思われるだろう。
それに協力する自分も自分だけれども。
そんなことを胸中で呟きながら、オンバーンは男を縛り上げた。
ぶつぶつと文句を並べるるいは、膝を抱えて座っている。
その横では、前足をるいに見せながら、ひんひんと情けなく鳴くレントラー。
必死に痛みを訴えているようだ。
それほど痛くはないだろうに。
と思うのはオンバーンだ。
それはるいも分かっているようで。
「ああ、はいはい。痛いのね。あとで近くの街のポケモンセンター行こうね」
と、レントラーの頭を一撫でして終わる。軽い対応だ。
「それよりもさあ、こいつが気絶しちゃったら聞くに聞けないじゃん」
るいの関心はあくまで男の方。
それに対してレントラーは少々不満そうだが、ひんひんと鳴くのはやめた。
「ねえ、血統のいいポケモンのタマゴを盗む連中知らない?」
男を指でつつきながら言葉を続ける。
「最近だと、イーブイのタマゴとかさ?」
と、数回つついたところで諦める。
「って、聞いても無駄だよね」
すくっと立ち上がると、腕を伸ばして筋を伸ばす。
対峙した手応え、罠の出来。
それらを踏まえて、おそらくこの男はまだ経験が乏しい。
近くに仲間らしき影もなし。
それはレントラーの透視能力や、オンバーンの関知能力で確認済み。
つまり、目の前で転がる男は。
まだこの世界に足を踏み入れて日が浅いということで。
横の繋がりもまだ持っていないと判断する。
ふう、と息を吐き出して、伸ばした手を下ろす。
何となく空を仰いで、流れる雲を追った。
風が吹いて、紺の髪を揺らせば。
顔にかかるそれが鬱陶しくて耳にかけた。
「なかなかたどりつけないね」
ぽつりと落とした言葉は風に溶ける。
盗まれたタマゴ。それを見つける旅をしている。
そのタマゴの母親と共に。
不意に仰いでいた赤紫が瞬いた。
るいが振り返ると同時に、茂みからグレイシアが姿を現した。
「お疲れ、ヴィヴィ」
そう言って駆け寄るるいに、彼女は引きずってきた罠の残骸を見せる。
「罠はこれで全部?」
そう問えば、グレイシアの瞳が瞬いた。
これは彼女の是。
予めレントラーの透視能力で罠の設置場所を確認していた。
その場所をレントラーがグレイシアに教え、彼女は罠解除の作業をしてくれていた。
「オッケー」
この様子だと、罠にかかったポケモンはいなかったようだ。
まあ、あの出来だったのだから、万が一かかってしまったとしても。
自力で脱することは出来ただろうが。
「それじゃ、これを警察に突き出して報償金貰いに行きますか」
問い。蒼の瞳がぼやくるいを見上げる。
応え。赤紫の瞳が少し揺れた。
「今回も収穫なし」
それを受け取ったグレイシアは、そっと蒼の瞳を伏せた。
そうか。そっと胸中でその応えを溶かす。
期待はしていなかったけれども。
落胆している自分も居るということは。
やはり、淡い期待はあったのかもしれない。
未だ見ぬ子。それを求めて、随分遠くまで来たものだなと改めて思う。
求めて探す。その距離も分からぬままに歩く。
「次の街にさ、評判のいい喫茶店があるんだって」
るいの言葉に顔を上げる。
「そこで少しだけのんびりしようか」
赤紫の瞳が仄かに笑った。
彼女が小首を傾げれば、紺の髪がさらりと揺れた。
「ね、ヴィヴィ」
少しだけのんびり。
その言葉がとくんと響いた。
そうしようか。そうしようかな。
気が付けば季節が一巡していた。
探し歩いて。その事ばかりに気を向けていたから。
その事実にも気が付かなかった。
少しだけのんびり。
るいを見上げて、グレイシアは小さくこくりと頷いた。
*
別の道を歩んでいた存在達。
その道が、交わろうとしていた。
別の時間を刻んでいた存在達。
その時間が、重なろうとしていた。