1 従兄とピカチュウ

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 向かう山のてっぺんには入道雲。そして視線をあげていくと、透きとおったうろこ雲が、千切れ千切れに広がっている。くっきりと鮮やかな青空の中で、入れ替わりつつある夏と秋。もうすぐ夏休みが終わるんだという切なさが、消えかけの花火みたいに、ちりちりと胸の奥で音を立てた。
 小学四年生、夏休み、最後の最後の三日間。
 結愛は少し緊張していた。そして隣でハンドルを握っている恵太も、どうも緊張しているようだ。前から控えめな人だとは思っていたけれど、ここまで会話に困った記憶はない。それとも、とびきりの話の種になる彼の黄色いパートナーが、今この場にいないからだろうか。
 親戚を訪ねる一人旅。四時間もバスに揺られたあと、駅前で拾ってもらって十数分。山道をかけあがっていく軽トラには冷房を効かせる余力がないらしく、車内は暑い。シートはうんと狭いし硬いし、カーナビでテレビも見れないし、足元には砂があがっている。普段は使わないのだろうきつすぎる芳香剤の匂いも、けど、なんだか嫌じゃなかった。ダッシュボードの上に慌てて埃を拭ったような跡を見つけると、十四も年上の従兄の気遣いが、結愛には嬉しくて、くすぐったいのだ。
 恵太の運転は性に見合わず荒っぽい。軽トラはこっちが心配になるようなエンジン音を気張らせながら、木漏れ日ひしめく山道をぐんぐんと登り続けている。
「……すごい道だね」
「あ、うん……」
 悪路に尻がはねあがるたびに抱きしめていたポシェットを、なんとなく開いて中を覗いた。お母さんに持たされたお小遣いの入った財布、ハンカチ、まんまるい黄緑色の物体。そして、一枚の葉書が入っている。
 手に取って、いつ見ても飽きない景色に再会する。

 風の吹く草原。
 心まで晴れ晴れとするような空。
 重そうに枝をしならせる木々。
 黄金色に輝くオボン。
 いま、その枝のひとつから、太ったひと玉がぷりんと落ちる。
 重みを失った枝葉は上へはじけて、雫がきらきらと舞いおどる。
 そして、雨上がりの空には、大きな虹がかかっている。

 この写真を見ていると、なんだか胸がきゅんとするようで、それでいて心はバネブーになってわくわく弾んでしまうようで。春休みの途中に恵太が送ってきたポストカードを、結愛は一学期のあいだじゅう、勉強机の上に飾っていた。その写真を目にするたび、爽快でみずみずしい柑橘の匂いが、ふわっと鼻の中を通り抜けた。
 長い一学期が終わり、夏休みも半ばにさしかかったとき、ふと思いついて、宛名面の下半分に綴られたメッセージを読み返してみた。文末に、恵太の名前に添えて変な英語がひっついていることに、その時になってやっと気付いた。
 『With love』。
 loveは分かる。withはなんだろう。家にあった英和辞書を試しに開いてみた。ともに。一緒に。loveと一緒に。つまり――愛を込めて。

「あっ!」

 久々に弾き出された恵太の声は半分裏返っていて、次の瞬間、体がガクンっとつんのめった。
 悲鳴のようなブレーキ音を立てて軽トラが止まる。右手は森。左手も、森。狭い山道をとおせんぼするように、折れた木が斜めに倒れかかっている。
「参ったな、こりゃ」
 手早くシートベルトを外しドアを開け、恵太は座席から飛び降りた。
「行きはこんなのなかったのに」
「ポケモンがやったの? カイロス?」
「リングマかな。最近多いんだ。あいつら、自分のでかさを考えずに木に登って、どんどん枝を折りやがるんだよ」
 勢いよく、ばん! とドアを閉めながら、恵太は荷台に向かって叫んだ。
「ごめん、急ブレーキ。大丈夫だったか?」
「ぴっかあ」
 振り向くと、リアウインドウの向こうに、とんがった耳が二本生えている。
 恵太の姿は、運転席の窓からフロントガラスへと移動していく。結愛も急いでシートベルトを外した。ドアを開ける。ぶあと入り込んできた森の空気は、湿っていて密度が濃くて、独特の匂いに気圧される。軽トラックの座席は高く、乗るときはそうでもなかったが、降りるのはちょっと怖い。
「いいよ、結愛ちゃん、乗って待ってな」
 恵太は重そうに倒木を抱えながら言う。結愛は座席から顔だけ出した。
「けいちゃん、ポケモンは連れていないの?」
「ピカだけ。他の子はみんな仕事頼んでるから……ッ」
 エンジン音よりうんと情けないうなり声が、倒木をちょびっとだけ動かした。
 何もせず見守っていていいのだろうか。はらはらと顔を覗かせていると、頭の上で、とんっ、とん、と音がした。体をひねって見上げると、ルーフの上から、黄色い顔がこっちを見ている。とんがった耳。赤いほっぺた。『ピカ』という何とも分かりやすい愛称のピカチュウは、元は助手席に陣取っていて、結愛が乗ることで荷台へと押しやってしまった、もう一匹の同乗者だ。
 にこにこ顔で見下ろしてくるピカのことを、結愛はちょっと面食らいながら見上げ続けた。恵太のうなり声がひときわ高くなる。ピカは体が小さいから、多分手伝えないのだろう。
「……わたし、手伝わなくても大丈夫かな?」
 空に向かって結愛が訪ねると、にこにこ顔のまま、ピカはこくんと頷いた。

「うん、大丈夫」

 知らない声がした。
「え」
 思わず周りを見回した。誰もいない。あっちで呻いている恵太の声とはまったく違う声だった。小さな男の子みたいな声。結愛はまた空を見上げた。ピカチュウの真っ黒でつぶらな瞳が、にこにこしながらこちらを見ている。
 結愛がなんにも返さないでいると、ピカは『3』を仰向けに寝かせたような格好の口を、もう一度開いた。

「もしかして信じられない? 任せておきなよ、恵太って見た感じは頼りないけど、人間にしては力持ちだからね。ぼく体重六キロくらいあるけど肩に飛び乗っても平気だし、ほら、旅もしてきたし。あと今やってるのも結構力仕事なところあるから」

 ぱくぱくと小さな口のうごきに合わせて、男の子の声が流暢に語る。
 ――確かに信じられない。けど、信じられないのはそこじゃない。

「……しゃ、べ、った……」
 目をまんまるにする結愛の向こうで、よおしこれで通れるかな、と恵太が額の汗を拭った。それから、未だドアをあけっぱなしの結愛を見て、おれ、意外と力持ちだろ、と笑った。
「ピカなんか体重六キロくらいあるけど、飛び乗ってきても平気だし……ほら、旅もしてきたし。あと今やってるのも、結構力仕事なところあるから」
 シャツについた木くずを払い、再び運転席へ乗り込む。ばん! ドアが閉まる。ピカの顔がひゅっとルーフの方へと消えて、続いて荷台側で足音がした。結愛もドアを閉め、後ろを振り返ってみた。リアウインドウの向こうから、ピカの顔上半分が覗いていた。くりくりした目はいたずらっぽく光りながら、結愛と視線を合わせている。
「シートベルト締めといてね」
「……ねえけいちゃん、ピカって、喋る?」
 言ってから後悔した。なんて馬鹿っぽい質問をしたのだろう。
 けれど、再び軽トラを発進させた恵太は、困りも、呆れも、馬鹿にしもしなかった。道の先を見ながらふうと目を膨らませて、それから、なぜか、とても嬉しげに歯を零した。
「喋ったか? ……実はおれも一回だけ、ピカが喋ったような気がしたことがあるんだ。信じてくれやしないと思って、誰にも内緒にしてたんだけどね」





「――ぴぃーか、ぴっかぁ。ぴかぴっか、ちゃっぴー、ちゅう。ぴっ、ぴか、ちゃあー」
 ピカはちょっとお喋りだった。けれどそれ以外には、ピカチュウとして何ひとつおかしいところはない。さっき聞いた声も、多分気のせいだったのだろう。
 しきりに何か言っているピカがご機嫌に手渡してくれたのは、こんがりと焼かれた『オボンのみ』である。オボンは皮が硬くて剥きづらいが、ピカがほっぺたに押し付けながら表面に焼き目をつけてくれると、結愛の力でもぺろりと剥けた。ピカチュウには電気できのみを焼いて柔らかくして食べる習性がある、と恵太が教えてくれた。
 ひと房もぎって口に放り込む。薄皮を歯で噛み切ると、濃厚で甘酸っぱい果汁が、ぱあっと口の中いっぱいに広がる。ぷちぷちと果肉が弾ける食感を楽しんでから飲み込むと、爽やかな酸味の中に、きりっと味を引き締める苦みと渋みが感じられる。結愛が知っているオボンより、まろやかでいて、うんとゴージャスな味わいだ。
「おいしい!」
「それはよかった。なんせ、おれたちが、しっかり愛情込めて作ったオボンだからさ」
 なっ、と、恵太は首を回して声を掛ける。はにかみ笑いする恵太の隣、後ろ足でしきりに耳のあたりを掻いているピカが、ちゃあ、と尻尾を揺らした。そして後ろに並んでいるポケモンたち――ドレディア、ドリュウズ、ジバコイル、ゴチルゼル、ポワルン。先ほど紹介してもらった、どれも恵太の手持ちポケモンたち――が、思い思いに返事をした。
 手のひらにあるずしりと重たい立派なオボンを、結愛はもう一度見下ろした。この薄皮の中にみっちり詰まったつぶつぶは、一粒ずつが、恵太とポケモンたちの愛情なのだ。
「『With love』だね」
「ん?」
「けいちゃん、ポストカードのメッセージのところに、そう書いてたよ。あれ、みんなでいっぱい愛情を込めてオボンを作っています、っていう意味だったんでしょ?」
 恵太はしばらく目をしばたかせて、ああ、と叫んで手を打った。それから、うわっそうか、こっちじゃ使わないよな、おれめちゃくちゃイッシュかぶれしてるな、と恥ずかしそうに顔を覆った。――それがあちらでは手紙の末尾に添える慣用的な結びの表現だということを結愛が知るのは、もう少し先の話である。



 恵太の農場には、(そこで撮った写真なのだから、当たり前なのだが)ポストカードと同じ景色が広がっていた。
 がっしりと太い幹から、空へ両手を広げるように枝葉を伸ばすオボンの木。重たげにぶら下がっている金色の果実。日当たりのよい斜面に作られたオボン畑は、想像していたよりも遥かに広い。
 そして、ポケモンたちは、みんな働き者だった。
 ぴか、ぴっかぁ、と鳴きながら、ピカが枝の間を移っていく。ふわっふわっと踊りはじめた数枚の葉っぱは、ピカを追いかけるようにして、四方八方へ飛んでいく。ドレディアの放った『マジカルリーフ』は、ピカが選んだ採り頃のオボンだけを次々と枝から切り離す。落下するオボンは紫色の光に包まれ、ゆらゆらと漂ってひとところに向かっていく。ゴチルゼルの『テレキネシス』によって採集コンテナへ集められたオボンたちは、恵太がキズや痛みを確かめたあと、農業用トロッコへと積めこまれる。ジバコイルは三ツ目できょろきょろと安全確認しながら、畑の真ん中に走るレールの上を、トロッコを磁力で誘引して下っていく。
 ――ポストカードに間違いはなかった。声をあげたくなるほど、素敵な場所だ。こんなところに、ずっと来てみたかったのだ。
 結愛は、ポケモンが大好きだ。特に、ポケモンと人間が助け合って生きているようなドラマやドキュメンタリー、漫画なんかは、かじりつくようにチェックしている。人間とポケモンが一緒に働いているさまを見ると、うきうきしてきて幸せで、いつまで経っても飽きがこない。恵太とポケモンたちの『With love』な働きっぷりが見たくて、夏休みも終盤に差し掛かった頃、意を決して恵太に連絡を入れたのだ。
 一緒に選果の作業を手伝った。手も、服も、髪の毛までも、すぐにオボンの匂いが染みついた。
「結愛ちゃんはオボンを育てたことはある?」
「二年生のとき」
「二年生って言うと、きのみプランターで育てるやつかな。植えてから二日くらいで実ができたよね」
 頷くと、話を聞いていたらしいピカがぴょんっと飛んできて、ぴぃか? と首を傾げた。
「ピカにはそっちの方が馴染みがないよな。結愛ちゃんが育てたオボンは変異種なんだ。おれが作っているのは野生種のオボンで、育つのは少しゆっくりだけど、一度にたくさん収穫できる。収穫した後も枯れずに花を咲かせて、また実をつける」
 農場に着いてからの恵太は、打ち解けたからなのか、ポケモンたちが一緒にいるからかどうなのか、気さくに喋るようになりつつある。
「全然違うんだね」
「トレーナーの間では変異種の方が一般的に流通してるけれど、味は野生種の方が良いし、ポケモンの体に良い成分もたくさん含まれてる。だから贈答用の良いオボンとか、あとポケモンの回復薬の原料になるのは、今も野生種が使われてる」
 平気で難しい言葉を使う年上の従兄の話は、少し分かりにくいところもあるが、なんだか自分まで大人になったような気になれる。
 結愛が一年生の時、つまり三年前のことだが、本家のばあちゃんが亡くなった。黒い服を着た親族席、緊張気味の結愛の隣に、見たことのない人が座った。結愛の父親の兄にあたる人とその妻は、結愛が生まれる前に亡くなったと聞く。彼らの息子――イッシュ地方でポケモントレーナーをしていた恵太のことは、話には知っていたが、会うのはそれが初めてだった。
 葬式が終わり、大人たちが大酒を飲んでいる間、葬儀場の駐車場で恵太とピカに遊んでもらった。遠く離れた異国を旅してポケモンリーグを目指している、噂にだけ聞いていた従兄――密かなあこがれを抱いていた従兄。こっそり応援してくれてたばあちゃんのためにも必ず強くならなけりゃな、と、寂しげな笑顔で言っていた恵太のことを、結愛は想像していた通り、とてもかっこいいと思ったのだ。
 だが、それから一年ほどが過ぎた時、トレーナーブランドのスタイリッシュなスポーツキャップを、恵太は麦わら帽子に被り替えた。
 恵太がトレーナーを廃業し、オボン農家に転身したという報せを受け取った――つまりあのポストカードが届いたとき、結愛はそれなりにショックを受けた。応援してくれた結愛ちゃんには申し訳が立たないけれど今はそれなりに楽しくやってる、という内容のメッセージも、受け入れるまでに一学期分の時間を要した。
「結愛ちゃん、昔トレーナーになりたいって言ってたよな」
 キズの入ったオボンを別の籠へ投げ入れながら、恵太は何の気なしに問うてくる。葬儀場で見てから三年の月日を経た顔は、ちっとも変わっていないようでもあるし、すっかり大人になってしまったようにも見える。
「今もそうなんだな。カバンの中にぼんぐりが入ってなかった? さっき見えた」
 結愛は頷いて、それを取り出して見せた。
 まんまるつやつやのみどぼんぐり。アサギシティのモーモー牧場に社会見学に行ったときに見つけて、こっそり持ち帰ってきたものだ。両親がポケモンを持つことを許してくれたら、このぼんぐりから作ったボールで最初のポケモンを捕まえると決めている。
 今日は恵太に見せたくて持ってきたけど、いつもは大事に机の引き出しにしまっている。つまり、結愛の宝物だ。
「けいちゃんのピカのボールと同じ、フレンドボールができるんだよね」
 結愛から受け取ったぼんぐりを木漏れ日にかざして、恵太は眩しそうに目を細めた。
 名前を呼ばれたピカがぴょんぴょんと恵太の背をかけあがり、肩から首を伸ばしてぼんぐりの匂いを嗅ごうとする。重いよ、と眉を下げつつ、恵太はピカのおでこをぐりぐり撫でた。
「この農場のすぐそばの森、ピカチュウの生息地なんだ。小さいけど群れがある。おれが中学を卒業した年に、この森でピカを捕まえて、それからずーっと一緒。旅でもたくさん助けられたし、今も率先して仕事を頑張ってくれてる。大事なパートナーなんだ」
 結愛ちゃんも、良いパートナーが見つかるといいね。恵太が照れくさそうに笑うと、話の内容が分かるのだろう、ピカもぴかぴかと鳴きながら照れくさそうな笑顔を見せる。
 ふたりの笑い方がよく似ているのが印象的だった。長い間一緒にいるから、きっとどちらともなく似てきたのだろう。結愛も思わず笑顔になった。

 従兄とピカチュウ。
 目の前にある、絵に描いたような二人の仲を、そのときはまだ、疑おうとすらしていなかった。

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