21杯目 追憶といまと

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 ごめんね。
 手放してあげられなくて。
 ごめんね。
 その方がきっと。
 君達を傷付けなくてすむのに。
 ごめんね。



   *



 ハピナスに誘われた先には。
 一つの重そうな引き戸があった。
 そこの通路には、同じ引き戸がいくつもあって。
 ああ、病棟なんだ、と思った。
 きっと目の前のそれも。
 病室の一室。
 この先にもしかして。
 そう思ったら、鼓動が早くなった。
 手汗がふきだして。
 気持ちが急く。
 とても会いたい。
 けれども同時に。
 とても会いたくない。
 矛盾な気持ち。
 けれども、どちらも確かに在る気持ち。
 覚悟を決め、引き戸に手を伸ばしたら。
 その引き戸が勝手に動いた。
 否。内側から人が出てきたのだ。

「あ、お姉さん……」

 ここポケモンセンターの唯一の医師である、通称スマートなお姉さん。
 名は知らない。
 スマートなお姉さんと皆が呼ぶから、つばさも必然とそう呼ぶことになる。
 引き戸を開けたところで。
 眼前につばさが立っていたわけで。
 少々驚いたお姉さんは、後ろに一歩足を引いてしまう。
 その反動で、肩に届く白桃色の髪が、さらりと音をたてて揺れた。

「あ、ああ……。あなたは、あの子達の……」

 ハピナスが呼んでくれたのね。
 そう呟き、こほんっと咳払いを一つ。
 改めてつばさと向き直ると。
 スマートなお姉さんは口を開く。

「イチくんの解毒作業も終わったわ」

 無意識下で、つばさはそっと安堵の息をついて。
 けれども、まだ予断を許さない状況なのだと、すぐに思い出す。
 安堵から一転。
 青ざめた顔のつばさに。
 お姉さんの灰白の瞳に、優しげな光が宿る。
 赤ふち眼鏡を外したお姉さんが、ふっと優しく笑う。

「きっと大丈夫よ」

「…………え?」

「私には分かる。あの子は絶対に目覚めるわ」

 そう言うと、すっと道をあけた。

「だから、あなたは傍にいてあげて」

 とんっ、とつばさの背中を押して。
 彼女が病室へ足を踏み入れたのを見届けると。
 お姉さんは踵を返す。
 再び赤ふち眼鏡をかけて。

「私はスマートなお姉さんだもの」

 ふふんっと、得意気に呟く。
 スマートなお姉さんだから分かる。
 無責任な大丈夫ではなく。
 確かな大丈夫。
 この自分が大丈夫と思ったのだから。
 あの子は。
 あの子達は、絶対に大丈夫。
 なんたって、自分はスマートなお姉さん。
 その自分が、そう思ったのだから。
 絶対に大丈夫。



   *



 ぱたんっ。
 と、引き戸は閉まった。
 先程まで聞こえていた、外の雑多な音が。
 引き戸によって遮断されて。
 その場に残ったのは。
 静寂のみ。
 病室にベッドは二つ。
 窓が少しだけ開けられていて。
 病室に忍び込んだ風が。
 カーテンをひらひらとなびかせては遊んでいた。
 そのすぐ傍に。
 同じく風に遊ばれる、白銀を見つけて。
 その白銀の背が、ゆっくりと上下していた。
 未だに彼は、目覚めない。
 左目に巻かれた包帯。
 白銀から伸びる幾重もの管。
 それが痛々しくて。
 改めて、現実を突き付けられる。
 自分と共に在るせいで。
 あふれだしそうになる感情をぐっと堪えて。
 つばさは足を動かす。
 並ぶ二つのベッド。
 その間に、丸椅子が在って。
 そこへ静かに座った。
 ちらり、瞳を向ける。
 白銀とは反対のベッド。
 すやすやと寝息が聞こえる。
 そこに確かに、大鳥が眠っていた。
 思ったよりも穏やかで。
 少しほっとした。
 それでも、彼から伸びる幾重の管に。
 不安を感じる。
 そっと手を伸ばし、彼に触れた。
 手から伝わる柔らかな感触に。
 それを通して感じる体温。
 それが、彼が生きているよ、と教えてくれる。
 目を覚まして。
 また、笑って欲しい。
 けれどもそれを。
 自分は願っていいのだろうか。
 目を伏せる。
 そっと彼から手を離して。
 膝上に拳をつくる。
 両の手でつくった拳。
 それが震え始めて。
 ぽたり。ぽたり。
 幾つの雫が落ちたのか。
 ふいに風が吹いた。
 楽しそうに、つばさの金の髪を揺らして。
 楽しそうに、髪で遊んで。
 そして凪ぐ。
 凪いだと思えば、また風は髪で遊び始めて。
 それの繰返し。
 気紛れな、気分屋の風。
 それが煩くて。
 つばさは立ち上がる。
 立ち上がって、足を動かして。
 窓を閉めた。
 しゃっと聞こえた音は。
 カーテンを閉めた音。
 窓を背に振り向いて、もたれて、見つめて。
 橙の瞳を歪めて、座り込んで、膝を抱えて、顔を埋めて、抑え込む。
 沸き上がる感情。
 その一つ一つが。
 普段から何と呼ばれる感情なのか。
 もう、分からなかった。
 ぐちゃぐちゃになって。
 様々な色が混ざって、混ざって。
 最後には真っ黒になるように。
 何の色か分からなくなるように。
 感情の色も名も。
 自分が何を感じているのかも。
 もう、分からなかった。
 それでも。
 そのぐちゃぐちゃの中で。
 分かっていること。
 それは。
 ごめんね。
 手放してあげられなくて。
 ごめんね。
 その方がきっと。
 君達を傷付けなくてすむのに。
 ごめんね。
 その想いだけで。
 そして決めたことは。
 もう、これ以上はいらない。
 大切なものなんていらない。
 大切になってしまうくらいならば。
 もう、そんな存在はいらない。
 いらないのだ。
 だから、もう。
 これ以上、“つばさ”という存在の中には。
 踏み込んでこないで。
 それを必死に叫ぶ。
 奥底で叫んで。
 叫んでから。
 何かから逃げるように、意識は闇に落ちて。
 何かを拒むように、眠りへと落ちていった。



   ◇   ◆   ◇



 意識は浮上する。
 何かを拒むように落ちた意識は。
 何かを求めるように浮上する。
 それは。
 過去から現在へと。



   ◇   ◆   ◇



 それからのことは。
 やっぱり、あまり覚えていなくて。
 どうしたのだろうか。
 意識が浮上して、まぶたを持上げて、一つ、二つと瞬く。
 あれ、病室ではない。
 それが始めに思ったこと。
 そして朧気に思い出して行く。
 そうだ、ここは喫茶シルベ。
 その一階のカフェスペース。
 次いで気付くのが、自身を包み込む大きな翼。
 片翼に抱き寄せられ、彼の懐に包まれていた。
 瞳を向けたら。
 すーすーと寝息をたてて眠る彼がいて。
 ああ、夢の続きだ。
 そう思った。
 そっと手を伸ばして、彼の頬に触れて、顔を寄せて、指の腹で頬を撫でて。
 互いの息も感じる距離に。
 ただ、つばさはじっと見ていた。
 ファイアローの瞳を見ていた。
 まぶたに隠されたその瞳に。
 お願い、目覚めて。
 また、笑って。
 夢の続きを、願う。
 そして。

―――んん……

 そんな声が心に聴こえて。
 ああ、夢の続きだ。
 そう思った。
 けれども。
 けれども、夢じゃない。それ。

―――……………

 持ち上げられたまぶた。
 その瞳に映るはつばさの顔。
 つばさの息を、直に感じる。

―――!?

 一気にファイアローの意識は覚醒する。
 見開かれた瞳に。
 その近さを理解した頃。
 彼の身体は硬直し、頬に熱が灯る。

―――つば、つば、つば、さ、ちゃん?

 ぱちくりと瞬く瞳に。
 ふっと、小さく笑ったつばさ。
 こつん、と。
 小さな音を響かせて。
 つばさは自身の額と、彼のそれを重ねた。
 互いのぬくもりを感じて。
 確かにそこに在ることを実感する。
 ぱちりと開かれた互いの瞳に。
 互いの顔が映りこむ。
 瞑目を一つ。
 音で感じる。
 何を。
 息の音を。
 肌で感じる。
 何を。
 熱を。
 目で感じる。
 何を。
 姿を。
 そして見つけた彼の瞳。
 それが、嬉しそうに笑う。
 互いの息を感じる距離。
 互いの熱を感じる距離。
 互いの姿を感じる距離。
 あの夢の続きだ。
 そう、静かにつばさは思った。

―――どうしたの?つばさちゃん

 そう問う声は。
 耳ではなく、心に聴こえてくる声。

「ううん。何でもない」

 ファイアローの問いに、首を横に振って答える。
 けれども。

「でもね、夢を視ていたの」

―――夢……?

「そう、夢」

 思い出したくなくて。
 自分の奥底に押し込んで。
 そっと、鍵をかけた。
 その記憶が視せた夢。
 決して忘れるなと。
 彼の頬を撫でていた手を放す。
 その心地が惜しくて。
 彼は小さく、くるる、と鳴く。

「ここ、痛かったよね」

 そう言ってつばさが触れたのは。
 ファイアローの片翼の。
 つばさを庇って、その刃を受けた場所。
 それだけで、つばさが視た夢を察したファイアロー。

―――でも僕、ここにいるよ

 えへへ、と笑う。

「そうだね。ここにいるね、イチ」

 それに頷いて。
 またつばさは、ファイアローへ手を伸ばす。
 頬を包んで、撫でる。
 その存在を確かめるように。
 くるる、と鳴くのはファイアロー。
 つばさの手の感触が心地よくて。
 目を細めて鳴く。
 二人だけの世界。
 二人だけの時間。
 いつまでも続けばいいのにな。
 そうファイアローは思ったけれども。
 その時間は終わりを告げる。

「んんっ」

 つばさが一つ、咳払い。
 頬を撫でていた手が動きを止めて。
 彼女のぬくもりが離れる。
 ファイアローが名残惜しそうにして。
 彼女の視線を追う。
 その先にいたのは。
 つばさとファイアローの前に鎮座する、茶の毛玉。
 否。

「起きてたの、カフェ」

 カフェ、の音に耳が跳ねた。
 お座り体制で鎮座する茶イーブイ。
 彼の小さな尾が、ふさりと揺れる。

―――いいよ、ボクにおかまいなく

 続きをどうぞ。
 そう訴える彼に、つばさは苦笑い。

「どうぞと言われてもね」

 ひょいっと、茶イーブイを抱き上げて。
 ファイアローの懐へ、自分と一緒に引き入れる。

―――え、でも、いいの?

 首を伸ばしてこちらを見上げてくる茶イーブイに。
 うん、と一つ。
 つばさは頷く。

―――でも、ねこみをおそっているさいちゅうだったんじゃないの?

 そんな彼の問いかけに。
 ぴしり。
 つばさは身体を硬直させる。
 同時に頭は高速で回りだす。
 ねこみをおそう。
 ん。
 寝込みを襲う。
 いや、まあ。確かに。
 眠っているファイアローに手を出した。
 いや、待て。
 手を出したとか。
 別にそういう意味じゃない。
 そもそも、寝込みを襲うとか。
 そうだけど、そうじゃない。
 そうだけど、そうじゃないのだ。

―――ねえ、ねこ

 なおも言いの募ろうとする茶イーブイの。
 その小さな口を、つばさは手でふさぐ。
 もがもがと言うのは、その彼の声。

「そんな意味深に言わないのっ」

 つばさの声音に焦燥が滲む。

「というか、どこで覚えたのその言葉っ」

 彼の様子を伺うも。
 当の彼は何のことかと分からない様子で。
 ただ、小首を傾げるだけ。
 そのきょとんとした顔に。
 つばさの胸が、きゅんっと鳴った。
 けれども。
 すぐに鋭い瞳を隣へ向ける。

「そこ、喜ばないっ!」

 きっと睨んだ先に。

―――えへへ。僕、襲われてたんだ

 弾んだ声音で。
 えへへ、と笑むファイアロー。
 とても、とても嬉しそうだ。

―――カフェくんも言ってるし、続きいいよ!

 さあ、どうぞ。
 と、ファイアローはなぜか張り切る。
 だが。

「はいはい、もうしません」

 はあ、と嘆息一つで、つばさは切り捨てる。
 ん、待てよ。
 そこでつばさは思う。
 もうしません。
 とは、それは認めたも当然の言葉では。
 と思い始めて、すぐにやめた。
 これ以上追及すると、脱け出せなくなりそうだ。
 首を横に振って気を取り直す。
 未だに首を傾げる茶イーブイを、改めて抱え直すと。
 むっ、と頬を膨らませるファイアローへ。
 とすん、ともたれ、彼へ体重を預ける。

「私ね……」

 そっと紡いだ言葉に。
 彼らの身体がぴくりと。
 反応したその動きを。
 肌で感じた。

「私が、嫌い」

 夢の中の自分も言っていたこと。
 そしてそれは、今も変わらない。
 けれども。
 変わらないけど、変わった。

「わた」

 私ね。
 そう言おうと思って、口を開いたのに。
 言葉が続けられなかった。
 抱えた茶イーブイが、今にも泣きそうな瞳を向けていたから。

「カフェ?」

 名を紡いだら。
 彼の揺れるその瞳が、つりあがった。

―――きらいとかいわないでっ!いっちゃだめっ!

 そう言うと、胸に飛び込んできた。
 そんな彼の背を撫でて。
 つばさは、なんで、とは聞かなかった。
 聞かなくても、その答えはもう。
 知っている気がしたから。

―――カフェくんの言う通りだよっ

 今度はファイアローだった。
 自身の頬と、つばさのそれ。
 それを擦り寄せて。

―――僕の、僕達の大好きなつばさちゃんを、嫌いとか言わないで。いくらつばさちゃんでも、怒っちゃうよ

「うん、そうだね……」

 好きなものを否定する。
 それは。
 それを好きな彼らまでも否定する。
 今ならそれが、分かる気がした。
 あの時。
 ピカチュウの彼が伝えようとしたことを。
 彼らと過ごした時間の中で。
 たくさんのことに気付いてきたから。

「私ね。りんとイチと、カフェとラテと一緒にいる、私が好き」

 胸元の茶イーブイの背を撫でながら。

「みんなと一緒にいる、私が好き。みんなが好きな、私が好き」

 それが。
 変わらないけど、変わったこと。
 自分からみた自分は。
 やはりまだ、好きには遠くて。
 けれども。
 みんなが好きと言う、そんな自分は。
 素直に好きだと言える。
 だって。

「だって、私はみんなが好きだから」

 優しく紡ぐその言葉に。
 ひょこりと、茶イーブイが顔を上げて。
 そんな彼が、つばさの肩へ駆け上がる。
 駆け上がって、その背へ回り込んで。
 つばさとファイアローが重ね合わせた頬と頬の間に。
 ずぼんっ。
 と勢いよく顔を突っ込んだ。
 彼の両頬が、それぞれの頬と頬に触れあう。
 それぞれの頬に挟まる形だ。

―――ボクもみんなすきっ!

 にんまりと笑うそれに。
 つばさもファイアローも笑った。
 ずっと笑っていた。
 どのくらいの時間を、そうしていたのか覚えてはいないけれども。
 それでも、ずっと笑っていたのは。
 覚えている。
 ちらりと窓へ目を向けたら。
 白く染まっていく空が見えた。
 ああ、夜が明ける。
 つばさがそう思ったとき。
 からんからん、と。
 喫茶のドアベルが鳴った。
 ちらりと目を向ければ。
 その先に。
 驚いたように瞬く、金の瞳を見つけた。



 夜明けの時だ。

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