◇13
風が、止んだ。
それが意味するところを、護人の一族であるアイハとリョウシはすぐに悟った。
“森ノ人”が、倒された。
「ツバキたちがやったのか?」
リョウシは思い付く可能性を口にする。半信半疑だった。
“森ノ人”のことは、幼い頃から聞かされて知っている。この森のあらゆるポケモンを束ね、森の意志そのものでもある老ダーテング。直接会ったことなど何度もないが、その力がどれほど強大かはわかっているつもりだった。
それを、あの少女たちが打ち倒したというのか。
彼女たちの力は、崩壊しかけた巨大潜水艇の中で一度目にしていた。確かにあの力が再び発揮されたのであれば、もしやと思わないでもない。逆にいえばそれ以外に、あのダーテングがどうこうされるとも思えない。
どうあれ、森のポケモンたちの長が倒れた。
これでようやく、戦いは終わる。
そう思っていられたのは一瞬だけだった。
「リョウ!」
アイハの声に正される前に、リョウシも気づいた。
森のポケモンたちの目から、怒りが、戦意が消えていない。
「こいつら……!?」
考える暇もなく、否応なしに戦闘は続いた。
ラフレシアの“はなふぶき”を後ろ跳びで躱し、すぐさまスナッチシューターを撃ち返す。流れ弾の“はっぱカッター”を避け、左右から飛びかかってくるコノハナたちを両手のシューターで同時に捕獲。イトマルの“どくのいと”はドーブルが斬り捨て、糸を辿ってボールを撃ち込む。
倒しても倒してもきりがない。こちらはたったのふたりと二匹。一方相手は大半が町に進軍しているとはいえ、森中のポケモン全てといっていい。
親玉が倒れたという事実は、当然彼らにも感知できているはずだ。なのになぜ彼らは止まらないのか。
しかし薄々わかってはいた。
この襲撃は、“森ノ人”の意思ではない。
ポケモンたちの顔ぶれをみればわかる。リングマ、モジャンボ、ビークイン。気づけば普段表層では見かけることのないポケモンたちもが、続々と戦列に加わってきている。
“森ノ人”はシラヒの森の守護者と呼ばれてはいるが、真に護っているのはその最奥、森の先にあるものだ。その彼が、深部を手薄にさせるなどありえない。一体どれほどの怒りが森に蓄積していたのだとしても、あのダーテングが森の守りを疎かにするような大規模襲撃を自ら指揮するはずがないのだ。
つまり、それこそが敵の狙い。
この戦いを煽った者の、真の目的は――
「くそっ!」
目を放さないよう気を付けてはいた。だが彼女がどの時点からどのように姿を消したのか、まるで覚えがない。それも彼女の能力なのだろう。だとすれば監視などはじめからなんの意味もなかった。
リョウシは今頃になって、自分の甘さと過ちを呪う。
あの潜水艇内で彼女に遭遇したことは、リョウシにとっては狙いのひとつではあっても結果的には偶然であり、またとない好機だった。自分が捜し続けているあるポケモンと、彼女が繋がっていると確信していた。しかしその考えそのものがあの時、逆手に取られ利用されていたとしたら。彼女をここに招いたことが、既に彼女の術中だったのだとしたら。
彼女はいつでも動けたのだ。
そして、それが今だというなら。
「リョウ、行って」
背中合わせのアイハが、振り向かないまま毅然として言う。
「姉さんを置いて行けるはずないだろ」
ビークインが無数のミツハニーたちを指揮して攻めてくる。ボールを撃ってもリングマが弾き飛ばす。アリアドスの糸が、モジャンボの蔓が逃げ場を奪いながら迫ってくる。
深部のポケモンたちは別格だ。シラナミ地方全体からみても屈指の力をもつポケモンたち。こいつらを町へ通すわけにはいかない。既に多くのポケモンたちが町を襲っている現状で護人の責務を果たせているなどと思ってはいないが、それでもせめてこいつらだけは、ここで食い止めなくてはならない。
“森ノ人”が倒れてなお進軍し続けている以上、もう何をしても止まらない。否、彼らは止まれないのだ。個々の意識などとっくに集団意志に呑み込まれ、森の外まで波及するほどに渦巻き猛り狂った怒りは、収まりどころを見失っている。
それでも。
「ここは、森と町の境。それを護るのは、護人を継いだわたしの役目。リョウにはもっと、できることがあるでしょう?」
リョウシは言い返せずに奥歯を噛む。アイハの言う通りだ。先代であった彼女の叔父から、お役目を受け継いだのはアイハ。そして自分は、自由の身であってこそどこへでも手を伸ばしてあらゆる脅威に対処するため、今の立場にいる。けれどそれはあくまで、姉であるアイハの力になりたいと願ったからこその選択だ。
ここで彼女を残していけば、その重圧を一身に背負わせてしまうことになる。どれほどこの姉とリーフィアが強くても、このポケモンたちすべてを相手に持ちこたえられるはずがない。
しかし。今ここで留まって共に戦い、そうしている間に森の最奥で何かがあれば、本当に取り返しがつかなくなる。
蔦でできた腕を伸ばして襲い来るモジャンボを撃ち抜いて、リョウシはスナッチシューターをリロードする。ボールの残数はもう心許ない。ドーブルたちの体力も厳しい。敵の数はキリがない。この場を収めてから深部に向かうのは不可能だ。
「……無事でいろよ、姉さん」
「リョウもね。ツバキちゃんたちをお願い」
背中が、離れた。
ポケモンたちの注目を集めるように、リーフィアが虹色に輝く“マジカルリーフ”の渦を高々と撃ち上げた。アイハとリーフィアが派手に立ち回り、ポケモンたちを引きつける。隙を逃さず、リョウシは駆けた。目前の敵は尾の“リーフブレード”を伸ばしたドーブルが斬り捨て蹴散らしていく。スナッチシューターを惜しまずに使い、強引に包囲を突破する。
リョウシは手元の端末を見た。ネンドに持たせていた発信機は、森の深部を指している。最奥までは辿り着いていない。
間に合うかどうかは彼女たち次第だ。
リョウシは端末を握りしめ、全速で森を駆け抜けた。
◆14
こんなことが、前にもあったような気がする。
あの時も、そうだ、だれかが自分を庇ってくれて。
そのだれかがひどい傷を負って。
守られてばかりの自分は、なにもできずに。
許せなかった。
なにもかもが許せなくって、頭が、心がまっしろになって。
そして気が付いたら、なにもかもがなくなっていた。
まっしろな心。
まっしろな世界。
なにも感じなくなっていた。
なにもかもを消し去ってしまう炎に、なにもかもくべてしまった後みたいに。
キミは、だれ?
なにがそんなに悲しかったんだっけ。どうしてあんなに怖かったのかな。
なにもかも差し出してしまったから、キミのことももうわからない。
そのことを悲しいと、怖いと思ったのかな。
ううん、だって、そのときにはもう――
◇
ひどく頭がすっきりしていた。
炎がなにもかも焼き消して、まっさらな心に戻ったみたいに。
まわりのことがよく見える。なにがあったのかよくわかる。
“森ノ人”が、倒れていた。
全てを覆い隠すようなたてがみも、堅牢な老樹のようだった身体も。全身が焼け焦げて、まるで使い古した炭になってしまったように。
チェリムのフタバも、倒れていた。
日差しを受け過ぎて疲れ切ってしまったみたいに。可憐な花は見る影もなく、しおれたつぼみだけが横たわっていた。初めて見る姿だったけれど、それがフタバだということはわかった。
「フタバ!」
ツバキはフタバを腕に抱いたまま呼びかける。反応はない。呼びかけても揺すっても、目を覚ます気配はない。けれど弱り切ったつぼみの奥から、か細い鼓動だけは感じ取れた。生きている。そのことにどうしようもなくほっとして、ツバキは膝から崩れ落ちた。
なにが起きたのかは覚えている。
あのとき意識はほとんどなかった。けれど、なぜだか鮮明に思い出せる。
太陽そのもののような火球が、“森ノ人”の暴風を打ち消し、彼を焼き尽くした。
“森ノ人”も死んではいない。そうなる前に力を止めた。
あたしがやったの?
そう、あれはあたしがやった。
フタバとひとつになったような気がして、とんでもない力が湧きあがってきた。激情の波にのまれるように、頭がまっしろになって意識が途切れた。
あの感覚には覚えがある。ポケモンハンターの巨大潜水艇。彼らの“家”。その崩壊に抗おうとしたとき。
あのときは、もっと記憶が曖昧だった。自分が何をしたのかよく思い出せない。
今回だって、あの太陽みたいな“ウェザーボール”が自分の意志だったのかは定かじゃない。けれどなぜだか今回は、前よりも鮮明に覚えている。
それは、この場所にいるせい?
自分を拒絶するこの森にいることが、前よりもこの力を強めているのか。
あるいはそれこそが、自分が拒絶される理由なのか。
腕の中のフタバを見ればわかる。
自分では抑えられないほとんど暴発に近い力で、フタバを巻き込み、こんな姿にしてしまった。許容量を超えた力の過供給。操れる限界を無視した技を放った反動。これ以上の力の受け入れを拒否するように、自らを閉ざしたような姿。
周囲の景色も一変していた。
ここはもともと木々が避けるように開けた空間を作った広場だったが、月明かりの下でもわかるくらいには緑の草が茂っていた。
今は真っ黒だ。草も土も、全てが焼け焦げてしまったように。大きすぎる命の圧力に、耐えかねて滅びたかのように。
フタバを、森を、そんなふうにしてしまう。
それが自分の危険性だというなら、拒絶されて当然じゃないか。
ボロボロの消し炭になったような地面を、ツバキはフタバを抱えてざくざくと歩く。そして“森ノ人”が横たわる隣に、つぼみのままのフタバをそっと寝かせる。これだけ傷つけておいて虫がいいのはわかっている。自分のことは許さなくていい。けれどせめてあなたの森の子を、そばに置いて守ってあげてください。そんな願いを込めて。
ツバキは立ち上がる。
そして、振り向かないまま、言った。
「いるんでしょ、ホノ」
ツバキと、倒れて横たわる二匹。それ以外には、だれもいないはずの空間だった。事実だれの姿もなかった。
けれどツバキにはわかっていた。“森ノ人”との戦いが終わってからすぐだ。彼女たちが近づいていたのは。
その声に応えるように。彼女たちは姿を現した。
炎のように空気が揺らめき、まるで覆い隠していた幕が燃えてなくなるかのように、黒髪の少女は出現した。前髪に隠れがちな黒い瞳。浅黒い肌。姿を見せてなお闇夜に溶け込んでしまいそうな、存在感の薄い少女だった。その腕には夕焼け色のポケモン、ロコンが、大事そうに抱かれている。
ロコンと少女の四つの瞳が、ツバキを見る。
それがわかっていたように、ツバキも少女たちに振り向いた。
「……よく、わかりましたね」
「うん」
互いに、静かな言葉のやりとり。その黒髪の少女の発する言葉には、これまでのような怯えてためらう響きはなくなっていた。
ふたりの少女は、はじめてまっすぐに互いを見る。そうなったことに動揺したのは、今までとは逆にツバキの方だった。
いや、今までだって、目を逸らしてきたのは本当は自分の方だったとツバキは思う。
ユウトはずっと少女とロコンを警戒していた。けれどツバキはそれを無視して、少女たちに近づこうとしていた。本当はツバキにだってわかっていた。少女とロコンがあの黒服の大男や金髪と行動を共にしていたのだということも。シロとクロを狙って彼らが襲撃してくるとき、そこに少女たちもかかわっていたのだということも。
それでもツバキは、少女とロコンを疑いたくなかった。あの大男たちと違って襲撃相手であるツバキたちには笑顔をみせず、自分の行為に怯えるような、いつも悲しそうな顔をしていた少女たちが、本当は敵なんかじゃないと、歩み寄れば仲良くなれるんだと思いたかった。
それが結果として、こんな事態を引き起こしてしまった。
だからもう、目を背けることは許されなかった。
「あたし、さ」
覚悟はしているはずなのに、気を抜くと目を逸らしてしまいそうだった。
こんな時に限ってまっすぐ自分を見つめてくる少女たちと、こんな形で向き合っていたくなんかなかった。
「ユウトみたいに、頭よくなんかないんだけど。それでもね、不思議なんだ。なんだか今、すごく頭がすっきりしてて。一回まっしろになっちゃった心に、いろんなものが入ってくるみたいで。だからなのかな。いろんなことが、わかるようになってる」
少女は黙って聞いている。いつもの怯えたような顔じゃなく。静かで落ち着いていて、覚悟を決めているような顔で。
そんな顔をされてしまったら。もう、誤魔化すことなんてできない。信じたくなくないのに。目を背けたいのに。どうしようもなくわかってしまった事実を事実と、認めてしまうしかないじゃないか。
「ホノが、やったの?」
それでも認めることに抗うように、口調が疑問形になってしまう。
「クロが森のポケモンたちを襲ったのも。森のポケモンたちが怒って、アイハさんちや町を攻撃してるのも。そうやって森を守るポケモンを少なくしたのも。シロがさらわれて、あたしたちがそれを追いかけるようにしたのも」
わかっている。もうわかっていることなのに。
まだどこか信じることを拒否するように。否定してほしいと願うように。
「ぜんぶ、ホノとコロがやったことなの? あたしを、ここにこさせるために? “森ノ人”と戦わせるために?」
自然と声が大きくなっていた。
ないとわかっている可能性にすがるように。心のどこかで、まだ否定してくれると信じようとするかのように。
「答えてよ、ホノ!」
言いたくなかった。
聞きたくなかった。
それでも、少女はもう目を逸らしてはくれず。前髪に隠れがちな黒い瞳で、はっきりとツバキを見返しながら。
「……そうです。けど、まだ終わりじゃない」
その時だった。
静寂の森に、再び風が吹き抜けた。
ツバキは髪留めを失いばたばたと散らばった髪を押さえながら、風の吹く方を振り返る。
“森ノ人”が立っていた。
ボロボロになったたてがみを震わせ、朽ちかけた老樹のような体躯を持ち上げて。
しかしその存在が放つ威圧だけは、まったく衰えを感じさせずに。
ただしその眼光が射抜く先は、今はツバキではなかった。
威圧の余波だけでも意識が遠のきそうになる、圧倒的な存在感。森そのものが生き物の形を成したかのような怪物は、今は黒髪の少女とロコンの姿をその鋭い両目に映していた。
まるで少女の言葉の、まだ終わらないというその先を、決して口にはさせないというように。
ダーテングは両腕のうちわを振り上げる。それが振り下ろされるとき、少女とロコンの細く華奢な肉体などは、為す術なく切り刻まれ、圧し潰され、吹き飛ばされる。
はずだった。
――ッ!!??
それはダーテングの叫びだったか。
ダーテングという種の平均的なたかさを大きく上回る彼の巨体が、一瞬にして真っ黒な炎に包まれた。
黒炎はダーテングの老樹のような胴を、森を吹く風そのもののようなたてがみを、振り下ろすことのできなかったうちわの両腕を、舐めるように覆い尽くして、その肉体を流れる生命力を吸い上げ燃料にするかのように、揺らめき燃え広がっていく。ダーテングが苦悶の声を上げ、黒炎から逃れようとのたうつ。火を消すためか土を巻き上げた風が彼の体をとりまいていく。けれど、消えない。黒炎は風に吹き飛ばされることも土に揉み消されることもなく、悠然と燃え続けている。
やがて抵抗する力さえ失い、ダーテングは膝から崩れる。彼の中のなにか決定的なものが、か細く消えかかっているのがわかる。
失われてはならないものが失われようとするその感覚に、ツバキはぞわりと寒気を覚えた。
ツバキは思わず叫んでいた。
「やめて! もうやめてよ! “森ノ人”が死んじゃう!」
少女やロコンが、なにかをしたようには見えなかった。ロコンが炎ポケモンの持つ技として、火を吹いたり、炎をともしたりするようなそぶりはなかったはずだ。
けれどツバキには、黒い炎が少女たちの操るものだとわかっていた。それは具体的に説明できるようななにかではなく、ただ少女たちから感じる力と、黒い炎が繋がっていると思えるだけ。それでもツバキは確信していた。だからこそ少女たちに懇願した。
その願いが、聞き入れられたのかはわからない。
ダーテングを包む炎は、やがて役目を終えて気が済んだかのように、ちろちろと勢いを弱めながら、なにもなかったかのように消滅した。それは例えではなく、一見したところ本当に、なにもなかったかのように見えた。
ダーテングの巨体が、支えを失ったようにどさりと倒れた。横たわるその姿に、もう僅かにも動こうとする気配はない。にもかかわらず。
あれほどの炎に包まれて、ダーテングの身体は燃え尽きてはいなかった。
ツバキとフタバの技を受け、すでにぼろぼろの姿ではあった。けれどそれ以上には、彼の体が傷ついたように見えない。
しかし、ツバキにはわかってしまった。
彼の中の、心とか精神とか呼ぶべきもの。ぼろぼろだった彼をそれでも立ち上がらせた屈強な意志。それが、もう感じられない。ごっそりと削り取られて、弱り果ててしまった燃えかすのようなひとかけらが、今にも消し炭として力尽きそうに残されているだけ。彼を森の守護者たらしめていたその圧倒的な存在感が、見る影もなく失われていた。
「……これで、話の続きができますね」
その無感動な言い分に、ツバキは歯を食いしばって少女を見た。
信じられなかった。
信じたくなかった。
だってそんなの、そんな言い方、今までの彼女からは考えられない。
少女のことを睨みつけながらも、ツバキは動揺で視界が揺らぐのを感じていた。
けれど少女は、ツバキが今までに見たことのない暗い目をして、ツバキをまっすぐに見据えている。
「……わたしたちの目的は。森の守護者を倒すことでは、ありません」
その声は、これまでと同じか細く呟くような音量のはずなのに、どうしてだかはっきりと胸に響いてくる。
「……わたしたちに必要なのは、もっと先。それを手に入れるために、これまでずっと、動いていました」
ずっと、とは、いつからのことだろう。
この森に来た時からだろうか。
初めて会った時からだろうか。
それよりももっと前からなのか。
その間、ずっと、はじめから、
「……あなたの力は、わたしたちにとって必要なもの。だから、いろいろな方法で揺さぶりをかけて、その目覚めを誘発させようとしてきました」
自分の力。ツバキは自分の手のひらをみる。
カナミやリョウシに言われたときは、自分ではよくわからなかった。
けれどいろんな出来事が重なるうちに、なんとなく自覚せざるを得なくなっていった。
今日のことだけじゃない。フタバが不可能だといわれてたはずの進化をしたこと。フタバがツバキといっしょにいるときはいつも花開いた姿だったこと。フタバのことだけではなく、もしかしたらもっと前から。思い当たることがないわけじゃない。
自分にどんな力があるのか、自分に何ができるのかはよくわからない。
自分の意志でどうこうできるわけでもない。
けれどもし本当に自分に、それだけの何かがあるのだとしたら。
少女とロコンは、ただツバキを、その力を利用するために。
そのためだけに。
シロとクロが、特別なんだと思っていた。
だから守らなくっちゃいけないんだと。
でも、そうじゃなかった。
今まで、シロとクロが襲われたのも。
夢をみせられて、記憶を奪われそうになったのも。
リョウシにシロとクロを奪わせて、ハンターとの戦いに誘い出したのも。
なにもかも全部、自分のため?
自分の、せい?
「……そしてやっと、あなたの力は、森の守護者を倒すほどになった。だから、これまでです」
少女が、ロコンが、その底の見えない黒い瞳で、ツバキをみる。
そして、告げる。
「……だから、あなたはもう――、要らない」
「――っ!!?」
瞬間、ツバキは立っていた場所を跳び退いた。心が発した警告だった。全身が今すぐ逃げろと叫びだすほどの悪寒。そしてそれは的中していた。
一瞬前までツバキが立っていたその場所に、真っ黒い火柱が立ち上っていた。
それは間違いなく、“森ノ人”を焼いたものと同じだった。なんの前触れも前兆もなかった。ただ少女とロコンに見られていただけ。その黒い瞳に一瞬、言い知れない恐怖を感じただけ。
「……やっぱりあなたには、わかるんですね。それも、力が目覚めかけているから。けれど」
ぞわり。
全身を駆け抜ける恐怖に、ツバキは再び後ろへ跳んだ。
瞬間、なにもない空間に出現する黒炎。
疑いようもなく、自分を狙っている。ほんの一瞬でも遅れていたら、黒い炎に捕まっていた。もし捕まったらどうなるか、想像しただけで身震いがした。そう、この炎がどういうものか、もうツバキにはわかっている。けれどどんなにわかっていても、勘に頼って避けるしかない自分の足で、逃げ切ることができるはずなかった。
背後に悪寒がして振り向くと、黒い火柱が上がっていた。逃れようとすると今度は前から、右から左から。あっという間に周囲をぐるりと取り囲まれてしまう。それは炎の檻だった。黒い炎が連なって揺らめく実体のない檻。実体はなくても、触れたらどうなるかなどわかっている。もうどこにも逃げ場はない。
「どうして」
問うまでもなく、ツバキにももうわかっていた。
少女はツバキに、もう要らないと告げた。
つまりツバキの、心が。意思が。
黒い炎は、物体を熱で焼く本来の意味での炎ではない。炎の形をしているだけの、全くの別物。
それが焼くのは、心。精神。意識。魂。呼び方なんてなんでもいい。つまり、そういうものだ。
少女とロコンの能力は、相手の心に干渉するもの。つまりあの黒炎は、肉体を介さず直接心にダメージを与える攻撃なのだ。だからダーテングは、身体の損傷なしに倒れた。だからあの炎は、なにをしても消えることがなかった。
それが今、自分の周りを包囲している。逃げ場はない。どこにもない。少女とロコンの意思ひとつで、ツバキはダーテングと同じ目に遭う。
少女たちが必要としているのは力だけ。だからツバキの心を焼き消してしまっても、残った体を操ってしまえばいいだけのこと。少女たちにはそれができる。そうすることで、少女たちの目的は果たされる。
それでも。
ツバキは口にする。
「どうして?」
その問いかけに、返答はなかった。
ただ。揺らめく黒い炎の先で、自分を見つめる少女の黒い瞳だけが。
揺らめいたように見えたのは、炎のせい?
「……さよなら」
黒炎の檻が、燃え盛る。
夜の闇より黒い炎。少女の瞳と同じ色。
それは一斉に距離を詰め、ツバキに襲い掛かり、飲み込んだ。
「――っ!!!? っあああああああああああああああ!!!!??」
自分の喉から発せられたことが信じられないほどの絶叫。そんなものはすぐ耳に入れる余裕などなくなった。
炎が、体を包んでいく。腕も、足も、腹も胸も顔も頭も髪の毛の先にいたるまで。舐めるように全身を覆い尽くす炎が、容赦なく激痛を与えていく。皮膚が、肉が、骨が焼け付く。熱い。痛い。どこがどう痛いのかも分からないくらい無茶苦茶に苦しい。自分の体が焦げる臭いにぞっとする。吸い込んだ息が喉を焼いて肺を燃やす。痛い。苦しい。熱い。痛い。
「うあああああああああああっ!!!!?? がはっ、あぐ、がっあああああああああああああ!!!!??!?」
熱い。怖い。怖い怖い怖い。燃えていく。自分が消えていく。頭が塗りつぶされていく。苦痛。恐怖。激痛でなにも考えられない。
ツバキはめちゃくちゃにのた打ち回った。無茶苦茶に土を掘り返そうとしたり、地面に体を叩きつけて這いずり回った。そんなことをしても炎が消えないのなんかわかっていた。わかっていてもどうすることもできなかった。じっとしているなんて無理だった。痛くて怖くてなにもかもがわからなくなる。こんなに苦しいなら。心なんてさっさとなくなってしまえばいいと思った。
「ぐっ、がはっ、いあああああああああ!!!! ううっ、ぐっ、うううあああああああああ!!!!!?!!!!」
助けて。助けて。だれか助けて。
怖い。苦しい。こんなに痛いことなんて知らない。
だれか。だれか――
だれ、か。
だれも、いない?
助けてくれるひとなんて。
助けを求めていいひとなんて――
ツバキははっとした。
これは、なに?
今のは。今の意識は?
だれの? なんの?
わかる。わかる。意識が入り込んでくる。それは明確なものじゃなく。ともすれば消え入りそうなほど薄弱で。でもはっきりと感じられて離れないこの苦しみは。
混線している。意識が。だれと?
炎を通じて。黒い炎が持っている意思。それはつまり、彼女の意識。
だれもいない。
だれも。どこにも。
どうして?
どうしてそんなことを思うの?
なにをそんなに怖がってるの?
どうしてそんなに寂しそうなの?
「……!?」
黒髪の少女は、息をのんだ。
驚愕していた。
信じられない。そんなことがあるはずがない。
立ち上がっていた。
明るい髪と目の色をした、小柄な少女が。
為す術もなく消えるはずだった、消してしまうはずだった少女の意志が。
どうして?
「わから、ないよ……」
少女が、ツバキが口を開いた。
もう声なんて、出せるはずもないのに。
「どうして、ホノが……、そんなに、苦しそうなのか……」
苦しいのは、自分のはずなのに。
今も発狂しそうな灼熱と激痛が、彼女を襲っているはずなのに。
「ホノが、なにをそんなに、怖がってるのか……」
怖い目に遭ってるのは自分のはずだ。
なのになんで、そんな目をするんだ。
どうしてそんな目でこっちを見るんだ。
「ホノにだって……、わかってる、よね……?」
ツバキがホノの意識を感じた。ホノの意識が混線していた。
ということは、つまり。
その逆だって、あるということだ。
この黒炎は、彼女の心が作り出している。
つまり彼女はこの黒炎で、焼き尽くす相手の痛みも、恐怖も、苦しみも、感じ取れてしまっているのだ。
それがどれほどのことなのか。
どれほど怖くて、苦しいことか。
どれほどの覚悟で、そんなことができるのか。
ツバキにはわからない。わからないけど。そのほんの一部だけなのだとしても。感じ取ってしまったから。
ツバキは、いっぽ踏み出した。
ホノが、いっぽ後ずさる。
ツバキの体を覆う黒炎が、その勢いを失っていく。
まるでツバキの踏みしめる歩みの風圧に、勢いを削がれていくように。
いっぽ、またいっぽ、ツバキは進む。
知るために。理解するために。近づくために。
あの恐怖を、寂しさを。もっと共有できると信じて。
「こっ、こないで……」
黒髪の少女は、ホノは、震える声で訴えた。
それは先ほどまでの、押し殺したような平坦な声ではなく。
ツバキが今までよく知る彼女の、なにかに怯えるような声。
「こないで、ください……、いや、こないで……」
か細く示される拒絶の意志。
構うものか。拒絶されるのなんか、もう慣れた。
ツバキは構わずいっぽ踏み込む。
「やめて……それ以上、こないで……、くるなあっ!」
ツバキとホノを隔てるように、黒い炎が出現する。次々とツバキに襲い掛かって、その意志を、心を焼こうとする。
けれどツバキは止まらなかった。もう逃げ出そうとはしなかった。
黒炎を正面から受け止めて、苦痛と苦悶の表情を浮かべ、それでも。
進む。近づく。歩みを止めない。
黒炎を克服したわけではない。そうでないことはホノがいちばんわかっている。だって今もツバキの苦しみが炎を通して伝わっているのだから。
それなのに。
ツバキがいっぽ踏み出すたびに、黒炎が消える。彼女の意志を吸い上げて燃やし、役目を終えたかのように。
それでもツバキの心は尽きない。
どれだけ炎をぶつけても、燃え尽きてしまうことがない。
「なんで……どうして……」
ツバキはまっすぐホノを見る。彼女の黒い瞳をみつめる。
「もう……もう、止まって……お願いだから……! もう、終わって……っ!!」
黒炎の勢いが膨れ上がった。
それはまるで炎の津波。
視界を閉ざして両者を遮る、黒々と燃え広がる拒否の壁。
それがツバキを飲み込んだ。
「――っく、っがあああああ、あああああああああっ!!!!!!」
痛い。苦しい。体中が焼けただれ、溶けてなくなってしまいそうだ。
これがホノが感じている苦しみ。これがホノが耐えてきた恐怖。
ツバキはぎゅっと拳を握った。涙でぐしゃぐしゃになった視界で、それでもまっすぐ前を見た。
そして、踏み出す。
彼女の近くへ。手の届くところまで。
足はもう限界だった。足を動かそうとする神経が、もうやめようと訴えるように。前へ進めと言う命令を、突っぱねようとするかのように。
体に力が入らない。燃え果てて炭の塊になったみたいに。筋肉も骨も神経も、脳みそさえもただの燃えかす。機能を失い、もう何も考えられない。あとは焼け崩れるのを待つだけの体。消えかけの心。
だけど。
崩れない!
「ひっ……!?」
少女が短く悲鳴を上げた。
その黒い瞳には、恐怖が、驚愕が、悲嘆が諦念が悔恨が、処理しきれない感情がごちゃ混ぜになって揺れていた。
ツバキはいっぽ踏み出した。
痛くて苦しくてふらふらで、このまま倒れて楽になりたかった。
それでも。
まだ、倒れない。
消えてしまうわけにいかない。
こんなに悲しくて寂しい力に、飲み込まれて負けるわけにはいかない!
今、ここには自分しかいないのだ。
この力を、彼女の悲しみそのものである黒い炎を。
打ち破ることができるのは、自分ひとりしかいないのだ。
「どう、して……」
少女の瞳は揺れていた。
あの苦しみを共有してなお、理解できないというように。
「ばかに、しないでよ」
ツバキは踏み込む。
力強く、はっきりと。
「ホノが、こんなことするのは、あたしの心を消そうとするのは、怖いからでしょ」
少女の瞳が驚愕に揺れる。
ツバキはその瞳をはっきりと見返す。
「受け入れてもらえるわけがないって、わかってもらえるはずがないって、そう思うからでしょ」
もう言葉など、たいした意味はないとわかっていた。
だってもうわかっているのだ。共有してしまったから。炎を通じて、感じ取ってしまったから。
黒髪の少女が、ホノが逃れるように後ずさる。
理解されるはずがないと、されてはいけないとさえ思っていた。
ホノの揺れる黒い瞳が、震える唇が、か細く言葉を紡ぎ出す。
「だ、だって、わたしは……、わたしの、力は……」
発せられた言葉もまた震えている。
ためらうように。絞り出すように。
それは、ずっとずっと、怖くて口にできなかった言葉で。
「こんなことしか、できないんですよ……。こんなことが、できちゃうんですよ……」
ずっと耐え忍んできた言葉は、一度外に出てしまったら、止めることなんてもうできなくて。
「こんな……、ひとの心に付けこむような、おぞましくて、気持ちの悪い、力なんですよ……。でも、これしか、できないんですよ……! こんなことしか、わたしには、できない……! こうしなくっちゃ、なにも、手に入らない……! なにも、成し遂げられない……!」
これまでもそうやって、人の、ポケモンの心を焼いてきた。ときには記憶や思い出を奪い、ときには恐ろしい幻惑をみせて。その苦しみを、自分自身も共有しながら。それがどれほど苦しいことで。それがどれほど残酷なことか、自らも感じ、理解していながら。
許されるはずがないと思っていた。そんなこと望んでいいはずがないと。
これは自分たちのためなのだ。自分と自分が救うべきもののために、他を犠牲にする行為なのだ。
そんなのは過ちだってわかっている。だけど、それでも。
「やらなくちゃ、ならないんですよ……! でないと、わたしは、わたしたちは! でも、だからってこんなこと、受け入れられるわけないじゃないですか! こんなことをするわたしたちのことを、だれかにわかってもらえるだなんて、そんなわけないじゃないですか! そんなこと、願っていいはずがないじゃないですか! だれにも! こんなこと、言えるはずないじゃないですか……っ!!」
「ばかにしないでよ!!」
ホノの叫びに。
ツバキははっきりと、言葉を返した。
ホノがびっくりした表情でツバキを見る。
「そうやってだれも信じられないから! だから自分だけでやるの!? 自分だけで苦しむの!? そんなのひどいよ! 勝手だよ! だからわからないんだよ!」
ツバキは告げる。
どうしてわかろうとしないんだ。
どうしてこんな簡単なことに、気付こうとしてくれないんだ、と。
「こんなに相手のことがわかるくせに! どうしてわかってくれないの!? なんで目を背けちゃうんだ! そんなの、わかってるじゃんか! たったひとこと、伝えてくれたらいいだけじゃんか!」
言葉に大した意味はなくても。
だからこそツバキは言葉にする。
言葉にしようとすることが、気持ちを伝えることになるから。わかりたいって示すことになるから。
それがきっと本当は、すごく勇気のいることだとわかっていても。
「助けてって! そう言ってくれたらいいだけじゃんか! それだけであたしは! いっしょに考えたり、苦しんだりできるのに! なんでたったそれだけのこと、ホノはさせてくれないんだ!!」
ホノは目を見開いて涙を流し。
ツバキも泣きながら言葉を繋ぐ。
ホノは確かに、何も話してはくれなかった。ツバキの力を必要だと言いながら、そのことを今まで一度だって相談してくれようとしなかった。
だけどツバキだって聞かなかった。本当はホノが、これまでよくないことをしてきたんだということも。これからよくないことをしようとしているかもしれないというのも。本当はわかっていたはずなのに、ツバキはそのことから目を背けて、ホノが悩み苦しみながら胸にしまっているものを自分からは見ようとしないまま、上辺だけ仲良くなろうとしていた。
だから、そんなのはもうおしまい。
こうしてちゃんとぶつけ合ったからこそ。
「あたしは消えない。絶対消えてなんかあげない! ホノが何をしようとしてても! あたしの力が必要っていうなら! あたしが力になれることがあるなら! ちゃんとそう言ってくれるまで、あたしは絶対消えたりしない!!」
たとえそれがどんなことでも。
聞くことを、知ることをもう怖がったりしない。
話せない秘密はそのままでもいい。
でも本当は困ってて打ち明けられないだけのことなら、そのことに自分もかかわっているなら、ツバキはもう目を逸らさない。
たとえそれを知ることで、繋がりかけた関係が壊れることになるとしても。
互いの存在を賭けてしまうような、悲しい戦いをするよりずっといい。
ホノは言葉を失って泣き崩れる。ずっと堪えていた涙。そんな資格なんてないと。そんなもの流していいはずがないと。そうやって押さえ込んできたものが、堰を切ったように溢れ出す。
ツバキは、そんな彼女に歩み寄る。
今度こそきっとわかり合える。本当の彼女に近づける。
そう信じて、ツバキはホノに触れようとして、
その手が届くことはなかった。
『ホノにさわるな』
確かに伸ばしたはずの手は、なにもない虚空を切っていた。
確かにそこにいたはずなのに。その手は彼女に触れられず、視界に彼女の姿が映らない。
『おまえなんか、なにもしらないくせに』
ロコンの、コロの“声”だった。
どうしてだかコロの姿だけがみえる。
その瞳には、未だ黒い炎が揺れていた。
そしてその姿さえ、次第に曖昧になっていく。
『おまえなんかに、わかるもんか。おまえさえいなければ。おまえなんかはじめからいなかったら、ホノはずっとくるしまなくてよかったんだ』
それは怒りだった。どうしようもない真っ黒な怒りに、火がついたように黒炎が揺れる。
ずっと自分だけがそばにいた。
自分だけが分け合っていた。
だれよりも自分が理解していた。
だけど自分にはどうすることもできなかった。
大切だったのに。
なによりもだれよりも大好きなのに。
なのになんでおまえなんかが、彼女の心に触れようとするんだ。
それは純粋な怒りだった。
愛するものを想うがゆえの、純黒の怒り。
愛するものを奪おうとするものを、消し去りたいと願う意思。
辺りが闇に覆われていく。
それは夜の闇ではない。
もっと空虚で、もっとなにもない、暗くさえない虚無の闇。
『おまえなんかがホノにさからうな。ホノのおもいどおりにならないものなんて、いらない! きえちゃえ!!』
黒炎の意志が、膨れ上がった。
コロの瞳から溢れ出す黒に、目を逸らすことができないまま。
ツバキは、めのまえがまっくらになった。
◇15
「ホノちゃんとコロの力は、ひとことで言うなら“起きたまま夢をみせる”能力よ」
森へ向かって町を駆けながら、黒服の大男が金髪に語る。
少し前に、少女に持たせていたポケギアの位置情報が復活した。
その光の点が示す場所へ、大男と金髪は走っている。
真夜中のマルーノシティは混乱の中にあった。森のポケモンと、町の人々が戦っている。それが自分たちがよく知る少女の引き起こしたことだと、大男にはわかっていた。
「技としては“さいみんじゅつ”に近いわ。シラナミ地方に古くから生息するロコンは、遺伝的に得意だそうよ。ロコンが人を化かすお話、この地方にはよくあるでしょう? 幻をみせることも、認識を操作することも、全てはその“夢”の応用。あたしたちが逃げたり姿を隠したりするときも、相手の視界に映らないようにホノちゃんたちが操作していた。はっきり言うわ。一対一で向き合って、ホノちゃんとコロちゃんに勝つ方法なんてないでしょうね」
「それはあのグズが、その気になればの話だろうが」
流れ弾として襲ってくる“タネマシンガン”や“はっぱカッター”を、並走するレントラーが電撃で弾く。
相棒に防御を任せつつ、金髪は不機嫌そうに言い捨てた。その能力こそ今の今まで理解していなかったが、あの少女の甘さならこれまで共に過ごしてよく知っている。確かに無敵に近い能力だろうが、少女がそれを勝つために使えないのでは意味がない。
けれど大男は少し黙ってから首を振った。
「あの子たちは、その本当の目的のためなら、どんなことでもやるでしょうね。だってそれはあの子たちにとって、決して手放すわけにはいかない可能性だもの。そういう意味では、本当に怖いのはコロの方かもね。あのちびちゃんはホノちゃんのためなら、寸分も迷わない」
能力の操作、その主導権を握っているのは少女のはずだ。けれどふたりは繋がっている。決して切れることのない深いところで。そしてもしも少女の意志がくじけそうになることがあれば。
「急ぎましょう、取り返しのつかないことになる前に」
共に行動してはいても、自分たちと彼女の目的は対極だった。
仲間だと思っていた。そう信じさせられていた。
その自分たちへの認識操作が途切れている。その意味を考えるのは気分のいいことではなかった。
街の喧騒を潜り抜け、仲間と信じた少女たちのもとへ。
大男と金髪は駆け抜ける。
◆16
「ここ、どこ……? どうなったの……?」
真っ黒な闇だった。
なにもなさ過ぎて、暗いのか明るいのかもわからない。
コロの目を見て、闇に包まれたことまでは覚えている。
けれどその後なにが起きたのか、どうなったのかわからない。
これは、コロが見せている夢?
それとも、さっきまでのことの方が?
なにもわからず、夢と現実すら曖昧になっていく。
自分はいったい、どうなってしまった?
「――キ……、ツバキ……」
びくり、と心が、全身が震えあがった。
突然名前を呼ばれた恐怖から、ではない。
ありえなかった。
そんなはずがない。
だって、だってその声は、もう二度と聞くことができないはずで。
「ツバキ……、こっちですよ。さあ、おいで……」
そんな。
そんなわけない。
そんなわけないけど、でも。
「おばあ、ちゃん……?」
怖々とツバキは振り返る。
そして、目を見開いた。
「ツバキ……」
その人が、微笑んでいた。
恋しくて恋しくてたまらない、なによりも望んだその笑顔で。その声で。
「あ……、あ……、ああああ……っ!」
それ以上は声にならず。
ツバキはその人に駆け寄った。
大好きなその人のぬくもりを求めた。
そのあったかくて大きな手をもう一度握りたい。その手でもう一度撫でて欲しい。
「おばあちゃんっ!!」
ツバキはその人に抱き付いた。
そのやわらかさ。
その匂い。
大きくてごつごつした手の感触。
忘れられない。
忘れるわけがない。
「おばあちゃん! おばあちゃんおばあちゃんおばあちゃんっ!!」
抱き付いて抱き締めて顔をうずめた。
何度も何度も名前を呼んだ。
頭に置かれる手が、包み込むように撫でてくれるその優しい圧力が、どうしようもなく嬉しくて。
ずっと望んでいた。
もういちど、もういちどだけでも。
ううん、もうずっと離れたくない。ずっとずっと、このままでいたい。
「ツバキ」
よく知っている声がして、顔を上げる。涙の跡はきっとくっきりついていてそれが少しだけ恥ずかしいけれど、彼に見られるなら構わなかった。
「ユウト!」
大好きな少年が微笑んでいた。
自分と歳も背も変わらないくせに、いつもちょっとだけ大人びた彼の顔。
それがときどき腹立たしくもあり、それが頼もしく思えることもある。
彼の腕の中には、小さなネイティの雛がいた。
何を考えているのかわかりにくいけれど、大きな瞳がくりくりと動いて可愛らしい。
その目のともす明かりに、大切なものを守ろうとする壁に、何度も助けてもらってきた。
金属音がして視線を動かすと、拳を打ち鳴らせたクチートがいた。
闘志に燃える赤い瞳はいつもまっすぐ前だけを見ていて。
彼の拳に突き動かされて出会えたものもたくさんあった。
重そうなのにどこかおとなしい足音のする方には、額に傷のあるカイリューがいた。
消せない過去を背中に背負って、それでもひたむきがんばっていて。
大きくて優しいその腕で、守ろうとしてくれる姿が勇気をくれた。
大好きな家族。
大好きな仲間たち。
ずっと、いつまでもいっしょにいたい、ツバキの一番大切な――
「……っ!?」
一瞬だけ目がかすんで。
次の瞬間、それは起こった。
少年が、ネイティが、クチートが、カイリューが、
黒く、真っ黒く染まっていく。
「ユウ、ト……? ネネ、クゥ、ハク!!」
いっぽ、またいっぽ。
ツバキに近づいてくるたびに。
頼もしい足が、力強い拳が、優しい瞳が。
黒く、みえなくなっていく。
足元から崩れるように。
消えていく。
存在が。
なにも感じなくなっていく。
「なん、で……? 待ってよ……、みんな待って、行かないで!」
消える。
崩れる。
黒く。
闇に。
「そんな、やだよ、なんで……」
気が付いたら。
手のあたたかさがなくなっていた。
触れていたはずのぬくもりが。
安心する匂いが。
大好きなほほえみが。
「おばあ、ちゃん……? どこ? どこにいったの……?」
みえない。
感じない。
わからない。
「やだよ……、待ってよ、消えないで……! いやだよ、ひとりにしないで――」
いつの間にかなにもなくなっていた。
なにも。
どこにも。
目をこすっても、みえない。
なにも感じない。
「――? ――っ!? ――!!」
聞こえない。
自分の叫ぶ声さえも。
慌てて喉に触れる。
触れたはず、なのに。
わからない。
感じない。
わけがわからなくて全身を触った。
なににも触れない。
なんの感触もない。
みえない。
自分のてのひらさえも。
熱くもなくて冷たくもない。
静かなのかうるさいのかもわからない。
暗いのか明るいのかもわからない。
怖くなってめちゃくちゃに叫んだ。
なにかつかめないかと這いずり回った。
はずなのに。
自分の声も聞こえない。
地面にすらも触れない。
上も下もわからない。
だれもいない。
自分もいない。
なにも。なんにも。
わからないなにもわからない――!
気が狂いそうだった。
なにもないところに意識だけが取り残されて。
いや、その意識さえも。
意識しようとすればするほど。
消えていく。わからない。もうなにも考えらない。
なに?
なんで?
なにが?
わからない
わからない
わからな
――?
ある。
なにかが。
わからないけど。
だれか、いる。
だれ?
だれがいるの?
なんだか、心がほっとする。
みえないけれど。
きこえないけど。
触れられないけど。
心の輪郭が定まってくる。
そのだれかに導かれるように。
自分が、戻ってくるような気がする。
きみは、だれ?
ううん、知ってる。
よく知っている。
だって、ずっといっしょにいたから。
怖いときも、さみしいときも。
楽しいときも、うれしいときも。
いちばんそばに、きみがいたから。
きみがいれば、わかる。
きみを通じて世界がみえる。
それはまっしろな世界だった。
そのまっしろの中に、帰っていく――
◇
「シロ」
そこにいた。
いちばん近くに。
触れて、寄り添ってくれていた。
ツバキはシロを抱きしめる。
心が触れるほどすぐ近くにある。
溶け合うように。
ひとつになっていく気がした。
暗い夜の森に、光がともる。
シロの、そのエーフィの額の珠を中心にして。
白い光が、広がっていく。
「これ、は……? なにが、起きて――」
黒髪の少女が、腕の中のロコンが。
黒い瞳を驚かせる。
ロコンの力で、確かに意識を閉じ込められたはずだった。
もう少女に力を操る意思はなかったけれど、ロコンがなにをしたのかはわかった。
動揺した少女にはまっすぐなロコンの怒りは抑えられず、ロコンの暴発した願いのままに、ツバキはまっくろに塗りつぶされた。
あらゆる感覚を奪われて、なにも感じなくなった心は消え去る。
そのはずだった。
けれどそのエーフィが現れて、彼女に触れたときすべてが変わった。
彼女に与えたまっくろな闇を、白く塗り替えてしまうように。
まるでそのエーフィこそが、彼女を解き放つ鍵だったかのように。
白い光が夜を貫く。
優しい光が、森を、町を包んでいく。
森で倒れていた、クチートのクゥとカイリューのハクが起き上がっていた。
感じたことのないほど強く、けれどとてもよく知っている光。
広がっていく白に包まれて、痛みが、傷が癒されていく。
森のポケモンたちが、戦いをやめた。
だれもが振り上げた腕を、敵を打ち倒すための武器をおろし、白い光に身をゆだねる。
森の境界を護るアイハも、マルーノシティで戦っていたカナミも、日差しのようなあたたかい光に一時自らの役目を忘れた。
癒えていく体の、心の痛みと共に、だれもが争いの終わりに安堵していた。
それはまるで、包み込むように。
黒髪の少女とロコンが引き起こした争いによって広げた傷を、過ちをそそいでいくかのように。
なかったことになるわけではない。
それで許されるとも思っていない。
為さねばならないその目的を、決して手放すわけでもない。
だけど。それでも。
目の眩むほどの白に、心がほどけていくのがわかる。
めのまえがまっしろになっていく。
明るい髪と目をした少女が、太陽のようにわらいかけて。
あさのひざしが、すべてを包んだ。