追憶。
意識は、あの頃のあの日へと。
静かに、静かに。遡る。
◇ ◆ ◇
「あ、落ちちゃった…」
ファイアローの背にまたがるつばさが静かに呟く。
その声音に、焦りの色はない。
ファイアローの背にまたがり、飛翔していた。
ファイアローへと進化を遂げたばかりの彼。
そんな彼の。慣らす意味でも、練習になればよいなと。
そう思い、空を駆けていたのである。
決して、歩くのが面倒くさくてとかではない。
鬱蒼と生い茂る、緑の森を通過するのが面倒くさかったとか。
そんなことは決してない。
ないのだ、ないのだ。
そう必死に心で唱える。
だから、抱えていた白の毛玉が落ちてしまったのは。
「事故よ、事故」
だから、落ちてしまったのだ。
そう、落ちてしまった。事故なのだ。
決して、落としてしまったとかではない。
ほんの一瞬だったと記憶している。
ファイアローの背で感じる風圧が新鮮で、ちょっと支えとして彼を掴んでいた手を離してみたくなった。
そして、白の毛玉を抱えていたことなど忘れて。
うわあ、と手を離してしまった。
一気に襲ってくる風圧に、一瞬はしゃいだ。
そんなつばさの視界の端で、白の毛玉が風圧に負けて弾かれる様をみた。
そして、先程の呟きである。
落ちちゃった。
決して、落としてしまったとは言わない。
落ちてしまった白の毛玉。
けれども、つばさは心配する素振りはなく。
落ち着いたものである。
だって、つばさは知っている。
慌てなくとも、彼が掴みに行ってくれると。
ほら、ファイアローが下降を始めた。
そして。程なくして彼の脚が、がっしりと白の毛玉を掴んだ。
*
程なく、森の拓けた場所へとファイアローは舞い降りた。
地へと足を着けたつばさは、ぶるり、一つ身震いする。
緑の生い茂る森。だが、その様は白化粧。
地表を染めるは白銀。季節は冬。
その寒さに思わず身が震えたのだ。
着込んでいるとはいえ、寒いものは寒いのだ。
ファイアローの背に乗っていた際は、彼の持つ特性に助けられていた。
特性、焔のからだ。
生命を育むそのあたたかさは、触れている者にも熱を伝える。
さながら、空飛ぶカイロ。
便利。とは思っては駄目なのかもしれないが、今の時期には最適なものだと思う。
そしてつばさは白の毛玉を探すため、きょろっと周辺を見渡す。
けれども。
「りん?どこ?」
りん、とは白の毛玉の名。
その姿がどこにもない。
おかしいな。
そう思ったとき、くるるっと鳴くファイアローの声が聞こえた。
その声に振り向けば、よいしょっと片足を持ち上げた彼がいて。
その下に尾が生えていた。
否、それが。
「りん!?」
つばさの探していた白の毛玉。
またを、イーブイと呼ぶ。
慌てて駆け寄ったつばさ、そのまま慌てて雪を掘り出す。
すぐにイーブイの発掘に成功する。
よかった、意識はあるようだ。
冷えてしまったイーブイの身体をあたためるように、そのまま彼を抱えてファイアローの身体へ密着させる。
すぐに彼の体温が伝わり、ほっと息を吐いた。
「イチはあったかいね」
ほおっと、再度息を吐き出す。
イチと呼ばれたファイアローは、嬉しそうにつばさへ頬を擦り寄せた。
よしよしと、そんな彼の首すじを撫でると、つばさは抱えたイーブイの顔を覗きこむ。
そろそろあたたまった頃合だろう。
「りん、どう?」
そんな問いかけをしたのだが。
ぎろり。
返ってきたものは、そんな鋭い目付。
その瞳が語る。
誰のせいでこんなことになったのか、と。
思わず目をそらすつばさである。
仕方ないではないか。
事故だったのだから。
落としてしまったのではなく、落ちてしまったのだから。
あはは、と乾いた笑みがこぼれた。
そんな彼女に、さらに鋭い視線が突き刺さる。
あはは、はは。
ぎろーり。
あは、は。
ぎろぎろーり。
「………」
負けたのはつばさであった。
「そうよ、悪いのは私よ。落としたのはわたしですう」
不貞腐れて呟く。
こうなったら、開き直りも大切だ。
はあ、と大きなため息は誰のものか。
目で追わなくとも分かる。
抱えるイーブイだ。彼しかいない。
呆れてものが言えない。
そんな心境だろう。
イーブイの思っていることなど、言葉が交わせなくとも分かる。
物心ついた頃からずっと一緒だった。
家族のようで、親友のような存在。
お互いに、出会うべくして出会った。
つばさはそう思っている。
自分達なら、何があっても大丈夫。
何にも負けることはない。
そう、思っていた。
*
「さて、そろそろ行こっか」
暫しファイアローに寄り添って暖をとっていたが、いつまでもじっとしているわけにもいかない。
すくっと立ち上がったつばさは、強ばった筋を解すように大きく伸びをする。
出来れば、今夜中には最寄りの街へたどり着きたい。
小さな街なのだが、石造りを基調とした街並みは、隠れ名所として囁かれている。
少し観光気分を味わうのもいいだろう。
それに、その街にはつばさの叔母にあたる人が喫茶を営んでいる。
久しぶりに叔母にも会いたいと思っていた。
それに。こんな冬の半ばに野宿など。
下手をすれば生命の危機すら感じる。
とりあえず、野宿は避けたい。
急ごう。徒歩で進むにしても、街までそれほど遠いわけではない。
きっとたどり着ける。
よし、と気合を入れ直し、つばさはファイアローへと振り返る。
「イチはボールの中で休んでて」
そう言うとファイアローが、いやいや、と首を横に振る。
ほら、僕が連れていくよ。
そう訴えるように、つばさに背を向けて体勢を低くする。
まだ飛べるよ。
そう言っているのだと分かった。
けれども、つばさは気付いている。
近くまで歩み寄ると。
「だめだよ。実は限界に近いって、分かってるんだから。無理はだめ」
そう言って、つんっと彼の額を軽く弾く。
そしたら、彼の瞳が涙で揺れ始めて。
「そんな目で見てもだめ」
見上げてくるその瞳に、一瞬が心が揺らぎそうになる。
けれども、ここで負けてはだめなのだ。
だって、知っている。
知っているから、譲れないのだ。
「イチ。私は知ってるんだからね」
何を、と問い返すように、ファイアローは首を傾げる。
「この間のジム戦で進化したけど。あなた、気合で進化したでしょ」
その言葉に、ファイアローがさらに首を傾げた。
何のことか分かりません。
「進化するには、まだ、十分な強さは得られてなかったでしょ」
今度は反対方向へと首を傾げるファイアロー。
言っている意味が分かりません。
「それを気合で補って進化したから、身体に負担をかけてるんでしょ」
さらに首を傾げ……る前に、つばさに抱き付かれてしまったファイアロー。
顔を埋められた首もとから、くぐもったつばさの声が聞こえた。
「だから、無理しないで。今は少しずつ、身体をつくっていかなくちゃだめ」
そのように言われてしまっては、とぼけるわけにはいかないではないか。
観念したファイアローが、くるるっと声を発した。
無理をした自覚はある。
だって、つばさの笑顔が見たかったから。
だから、君に“勝利”をあげたくて。
でも、それには圧倒的に強さが足りないと思って。
強さが欲しいと思った。
まだ早い。それは分かっていた。
進化できるだけの。進化に耐えうるだけの身体ではない。
それは分かっていた。
けれども。
たぶん、今しないと後悔をする。
後悔をするくらいなら。
そう思って、足りない強さを気合で補い。
新たな姿、新たな強さを得た。
完全ではないと思うけれども、進化前よりも断然に違う強さを自覚した。
そして、何とか“勝利”をもぎ取った。
けれども、その代償は決して小さくはなかった。
まだ不十分だった身体は。
成長をしきれていなかった身体は。
その新たな強さには耐えられなくて。
その様が今なのだ。
長時間飛ぶことも出来ない。
すぐに疲れが現れる。
発達した筋肉に、身体が悲鳴をあげる。
だから、今は少しずつこの身体にならす時期なのだ。
幸い自分は、まだ成長期。
無理をしなければ、身体は馴染んでくる。
でも、君の役に立ちたくて。
まだ飛べるよ。
そう、言った。
だから決して、君にそんな顔をさせるつもりはなかった。
何よりも大切なのは、君の笑顔。
だからここは、素直に観念する。
こくり、一つ頷くと。
顔をあげた彼女が笑った。
「なら、いいや」
そのままつばさは立ち上がる。
モンスターボールをファイアローへと向けると、一本の筋となって光が走った。
赤の光に包まれた彼は、そのままボールへと吸い込まれていく。
「よしっと」
彼も分かってくれたようでよかった。
今は無理をさせられない。
きっと自分の責任でもある。
勝利に拘るあまり、彼に無理をさせてしまった。
だから、自分がしっかりとしなければ。
ボールを腰のホルダーに戻す。
「じゃあ、りん。行こっか」
ここからは徒歩。
それほど遠くはないとしても、不慣れな雪道。
気を付けて進まなくては。
そう思って、イーブイの姿を探す。
なのに、どこにも彼の姿がない。
「りん?」
再度呼ぶ。
そしたら、遠くで彼の声がした。
声の方へ目を向ければ、その先は草木が生い茂っており。
「そっちにいるの?」
少し億劫な響きを持たせて、つばさは歩みを進めた。
視界を遮ろうとする草木を避けながら、声のした方へ進む。
進むにつれて、水の音が聞こえてきた。
そして、視界が拓けた頃。
「川じゃん」
その川縁に、イーブイがいた。
川があったのか。それならば、あの子の力を借りられる。
「さすがりん。これなら早く着きそう」
足もとまで近寄ってきたイーブイが、にやり、と笑った。
彼だって、こんな雪道を歩いて進むのは御免なのだ。
ならば、使える手段は使った方がいい。
幸いにしてこの川は、流れが街の方へ向かっている。
この流れに沿って下れば、歩いて向かうよりも時間の短縮になるだろう。
そして何より。
ここで、イーブイの口の端が持ち上がる。
そして何より、自分が楽なのだ。
歩かなくてすむ。なぜか雪にはまる予感しかしないのだ。
これではまる心配はないな。
ふっ、と笑っていたら。
「りんっ!置いてくよっ!」
そんなつばさの声がして。
気が付いたら、傍に彼女の姿はなくて。
声の方向に顔を向けたら。
《りんりん、置いていきますよ》
彼女の背に飛び移った、彼女がいた。
「もう、置いていっちゃおう」
つばさの言葉に。
《それもそうですね》
くすり、と応じる気配がして。
頷く彼女は、そのまま川縁を離れて。
イーブイは慌てて川縁を蹴り上げる。
だが、広がった彼女との距離は、縮まることはなく。
そのまま空しく、降下を始める。
まずい。このまま冬の川に飛び込む。
そう思ったのだが。
自分を優しく抱き止めたのは、つばさの腕だった。
顔を上げると、にひっと笑むつばさがいて。
ああ、嵌められたのだ。
そう思った。
はあ、と深いため息ついた。
そしたら、ふふっという声が聴こえて。
《りんりんが呆けているからですよ》
別に呆けてなど。
いや、彼女に言ったところで。
「そうだよ、りんが呆けているからだよ」
うるさいのがうるさくなるだけ。
ね、と彼女達が互いに頷き合うだけで。
反論する気も失せる。
「ライラ、街の近くまでお願いしてもいい?」
《はい。もちろんです、つばさ》
つばさの言葉に頷く彼女は。
海色の身体に大きな甲羅を持つ。
海の竜こと、ラプラス。
もともと高い知能を持つと言われるラプラス。
そのためなのか。
彼女は人の言葉を解する。
そして不思議なことに、自らの意思を伝える術も有していた。
だがそれが、つばさと同じ言葉を扱っているのか、そうでないのか。
それは彼女にも分からない。
ただ分かるのは、つばさと波長が合った。
それに触れてみたら、つばさに自分の気持ちが伝わった。
ただそれだけだったし、それだけでよかった。
《それでは参りましょう》
つばさ達を背に乗せ、ラプラスは川の流れに身を委ねた。
目指すはあの街だ。
「川下りも楽しいね!」
《ふふっ、そうですね》
久しぶりの水の感触が嬉しかったのか、ラプラスが一つ跳ねると。
踊る水しぶきがきらきらと煌めいた。
それが。終わりへと向かう、始まりの瞬間だった。
終わりへの始まり。
つばさ達の運命の街は、もうすぐだ。