空と波の夢

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作者:影丸
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読了時間目安:29分


 僕は、ケースの蓋をそっと開けた。
 照りつけるような海辺の日差しを反射して、きらりと輝くバッジたち。

 いち、にい、さん、し……。
 大丈夫だ、全部ある。
 僕はそのひとつひとつにしっかりと触れ、間違いなく全て本物であることを確かめる。そしてもう一度数を確認してから、決して落とさないようにそっと、けれどできるだけ素早く蓋を閉める。外からは中のものが見えない、小さいけれど頑丈なケース。黒い合皮の滑らかな表面をそっと撫でて、周囲にこちらを見ている人がいないのを確かめてから、僕はそれをポケットに押し込む。

 このケースを常に肌身離さず持ち歩くため、僕は必ず深く大きめなポケットのついた服を着る。それも、口にボタンかファスナーがついていないとダメだ。
 今はいているこの七分丈のカーゴパンツは、自分で腿のポケットにボタンを付けた。本来は膝側面のファスナー付きを気に入ったから買ったのだけれど、後からよくよく考えて、膝はよく動かす部分だし手からも遠いしで不安になった。だからそのポケットを使うのはやめて、深さのあった腿のポケットに手を加えて使うことにした。今では一番のお気に入りで、安心できる保管場所だ。

 なにせ、今日は大切な日だ。
 今日のためにこそ、ずっと大切にこのバッジを守ってきたと言ってもいい。

 僕は今から、海を渡って、ポケモンリーグの開催地へと出発するのだ。

 だから、絶対に落とすわけにいかない。
 海上でもしも落としたらなんて、考えただけでぞっとする。
 たとえ嵐が起きようと、どんな怪物みたいな海のポケモンが襲ってこようと、ぜったいに守り通さなくてはならないのだ。
 僕は間違いなくポケットにケースのあることを触れた感触で確かめてから、もう一度ボタンが閉まっていることを確認した。大丈夫だ。これで、絶対大丈夫。きっと、間違いなく、大丈夫、なはずだ。

「なにが大丈夫なんですか?」
「どっせえっ!?」

 すぐ目の前で声がして、僕は慌てて飛び退いた。ポケットごとケースが揺れるのが、腿に擦れる感触で分かる。砂に足を取られて転びそうになって、どうにか堪えた。砂浜に落として壊れることもないだろうけれど、今は万難を排しておきたい。
 そこにいたのは、背の低い女の子だった。歳は僕と同じくらいだろう。レンズの小さなメガネをしていて、前髪を上げて留めている。ちょっと垂れ目がちだけど目の輝きははっきりしていて、細いけどくっきりした眉が似合っていた。服装は薄手のハイネックの上にオーバーオール。留め具が取れてしまっているのか、片方の肩紐が外れているのがだらしない。

「な、なにキミ。どうしたの」
「どうしたのって、わたしも聞いてみたいですけど。声に出てましたよ? 大丈夫ー、大丈夫ーって」

 途端に、顔が熱くなった。ひとりごとを聞かれるなんて。それも、ちょっと情けないのを。

「別になんだっていいじゃないか。キミには関係ないことでしょ」
「ところが、関係なくもないのです。旅は道連れ余は情け、向かうはゆらり船の旅、不安は陸に置いてきましょう」

 歌うように話す女の子。この子は何を言ってるのだろう。

「早い話が、乗せてください。そこなお船は、あなたのでしょう?」

 彼女が指さして見せたのは、砂浜と波の境に佇む、僕の筏だ。ポケモンたちの力を借りて、丸太を切り出し一から全て組み上げて、今朝ようやくの完成をみた。付近の浅瀬でテストを終えて、今は出航を待つばかり。

「この時期、この海、このお船。あなたも同じ、ポケモンリーグの挑戦者だとお見受けしました。昨日の敵は今日の友、明日のライバルも今日の友。ここは志を共にする同士、助け合おうじゃありませんか」
「勝手に話を進めてるけど、落ち着いてみようか。だいたいなんで僕に頼むの。自分で渡ればいいじゃない」

 彼女は少しだけ黙り、僕の目をまっすぐ見つめてきた。曇りがない。迷いがない。あんまりにもはっきりした目に、僕はつばを飲み込んで気圧される。

「わたしここまで、炎一本で戦ってきました。水は苦手です、渡れません」
「な、なら、船に乗ればいいだろ。ほら、今だって向こうに見えてるじゃないか」

 見つめ合ってるのがいたたまれなくて、視線を離れた港に向ける。ここから見てもその立派さがよくわかる、大きな客船が停泊している。ポケモンリーグ会場へ向かう、この期間限定の連絡船だ。

「はい、それはもちろん妙案です。ですがわたし、出遅れました。先ほどやっとこの町に着いて、まっすぐ港に向かったところ既に満室大混雑。密航の手も考えましたが、捕まって出場できなくなるのはイヤです困ります勘弁です」
「思い留まってくれてなによりだよ」

 彼女がぐいと近づいてきて、僕は仰け反るように目を逸らす。大変な子だ。面倒な子だ。大事の前に関わっていいタイプじゃない。けれど彼女は、僕の返答に目を輝かせる。

「やっぱりあなたいい人です。明日は皆々敵同士、なれど友を気遣うその優しさに感服しました」
「友達になった覚えはないけど!?」
「大事の前です、細かいことは抜きにしましょう。向かうは栄光、ポケモンリーグその会場。さあ行きましょう明日のため!」

 彼女はするりと身を引くと、まるでそれが当然であるように僕の筏へと乗り込んだ。彼女が飛び乗ったくらいでは、僕の筏は軋みもしない。これならまあ、乗員が一人増えるくらいは大丈夫だろう。

「どうしましたか? 波は穏やか航海日和、海は待ってはくれません。いざ出航です!」

 僕は大きなため息をついた。乗るというのならとりあえず、海へ筏を押すのくらいは手伝ってもらえないのだろうか。




 雲一つない空。照りつける日差し。目が霞むほどに果てしなく遠く青い海原。
 僕は筏を引いてくれている仲間たちの調子を確かめる。
 一匹は直径二メートルほどの球体に近い姿のポケモン、ホエルコ。
 一匹はそれよりもだいぶ小柄な、頭に丸い発光体をぶら下げたポケモン、ランターン。
 二匹とも気力は充実していて、体力もある。僕が二匹を撫でてやると、ホエルコは小さく潮を吹き、ランターンは発光体をちかちかさせて元気な返事をしてくれた。

 長閑な海だが、油断はできない。ここはポケモンリーグ開催地前最後の難所だ。生息する水棲ポケモンのレベルは高く、外敵への攻撃性も獰猛。とりわけサメハダーとギャラドスは、海上移動の天敵だ。それがこの海域では頻繁に目撃されるので、多くのトレーナーが「なみのり」での移動を避ける。大きな連絡船が出るのもそのためだ。
 だから警戒はしっかりしている。ホエルコは海上、ランターンは海中を常に見張ってくれている。なにかあった時の合図も決めた。二匹の体調も細かく見ている。最善とまで言い切る自信はないけれど、考え付く限りの備えはできてる。

 あれだけ騒々しかった割に、海上での彼女はおとなしかった。
 始めこそ炎使いは日差しを浴びてなんぼだとか言って舳先に堂々と立っていたけど、ふと下を見て海の深さを覗き込み、それ以来なんだかおとなしくなってサンシェードの下に引っ込んでいる。日差しにあてられて倒れでもしたら困るので、僕としてはそうしてくれた方がありがたい。とはいえ、あからさまに静かになられるのもそれはそれで落ち着かない。

「えーと、大丈夫? やっぱり水は苦手なの?」

 炎タイプが好きだからってトレーナーまで水に弱いなんてことはないだろうとは思いつつ、僕は控えめに尋ねてみた。すると彼女は一瞬ぴくりと震えた後で、潮風に錆びついた機械みたいな動きでこっちを見る。

「そんなことは、ないデスよ?」

 声が一瞬裏返っていた。ポケモンはトレーナーに似るなんていうけど、どうやら彼女はポケモンに似てしまったタチらしい。

「いえ、本当に違くてですね? これまでの旅のことを思って、高ぶる想いに武者震いしていただけなのです」

 それは気を逸らせようとしていただけなんじゃとも思いつつ、同時に彼女の言う気持ちもわかった。
 僕だって、そうだ。
 ついにここまできたのだから。

 夢。夢、夢、夢。
 繰り返し口の中で反芻してみる。

 ポケモントレーナーになりたいと、漠然と思った。
 どうせなら一番になりたいと、当然のように考えた。
 誰もが抱く、ありふれた夢。
 それが今、手を伸ばせば届きそうなほどの具体性を持って、目の前にある。

 長い旅だった。こんなの勝てないって敵がいた。生きて帰れないかもってピンチがあった。心が折れて、諦めたくなる時があった。僕には無理だと、何度も何度も考えた。
 それを一緒に、乗り越えてくれたポケモンたち。今筏を引いてくれている二匹も、これまでも幾度となく僕の力になってくれた。一緒に笑い、一緒に泣いて、一緒にたくさんのバトルをしてきた。何物にも代えられない、愛すべき仲間だ。
 そして、そんな旅を乗り越えた証。リーグ出場資格を示す、輝くバッジ。たくさんの思い出が詰まった、僕らの夢の結晶でもある。僕はそれらを収めたケースを、そっと服の上から確かめる。

「そういえばキミは、どこにバッジを持ってるの?」

 ふと気になって聞いてみる。大切なバッジだ。他のトレーナーたちがどうやってそれを持っているのか、興味があった。けれど彼女は、少し不思議そうな顔をする。

「どこにもなにも、ここに」

 そう言って彼女は、オーバーオールの肩紐が外れて折れている布地を上げて見せる。キラリと陽光を反射するバッジが、ひとつ、ふたつ、みっつ……。大胆にもそこに、全てのバッジが留められていた。

「服に直接って、不用心な!」
「ご用心もなにもバッジですよ? 他にどこにつけるんですか」
「ジムバッジってそういうもの!? 落としたり傷つけたりしたらどうするんだよ!」

 確かに肌身離さず持っていようという意味では、一番確実かも知れないけれど。トレーナーにとってバッジは宝だ。それをそんな目立つところにつけて歩くなんて、僕にはちょっと信じられない。
 けれど彼女は全く平気な顔で言う。

「わかりますよ。バッジは我らの宝物。ポケモンたちとの数々のバトル、その血と汗と涙の結晶! 大切にされるのはごもっともです」
「だ、だよね、そうだよね!?」

 伝わってよかった。どうやら、というかもちろん、彼女もバッジを大切にしていないわけじゃない。ただその大切にする方法が違う。
 途端に、自分がひどく小心者であるように思えた。
 思えたというか、事実そうだ。
 僕には彼女のように、大切なものを隠さず持っている度胸がない。

「でも、こうしてお手製のお船で海を越えようとしてるじゃないですか」

 まるで心を読んでいるようなタイミングで、彼女が僕の顔を覗き込み言った。

「え……っと、もしかして、また声に出てた?」
「いえ、ですがそういう顔をしていましたから」

 そういう顔とはどんな顔だろう。

「わたしのように、遅刻されたのでもないのでしょう? ご自分の心でこの航海を選ばれた。この危険どっさり溢れる海を。自らと仲間のお力でもって。それは勇気です挑戦ですロマンです。尊敬します」

 曇りのない、迷いのない、あまりにもまっすぐな視線。またしても僕は気圧される。どうして彼女は、こんなにまっすぐ相手を見ることができるんだろう。
 だけどあんまりにまっすぐだから、僕の捻じ曲がった本質までは届いてくれない。

「そんなんじゃ、ないよ」

 僕は、小心者だ。臆病者だ。
 でも、それでも、だからこそ。

「自信が、欲しかったんだ。ここまで、ずっと旅をしてきた。この後に待ってるのは、その集大成の、最後の戦い。でも、そこに集まってくるトレーナーたちはみんな、同じものを乗り越えてきてる。僕がやってきたことは、そこでは特別でも何でもない。だから、もうひとつ何か欲しかったんだ。僕がこの旅で成し遂げたって胸張れるものを、もうひとつ。そうしたら戦える気がしたから」

 特別な何かを。はっきりした証を。
 夢を、夢と言える力を。

 僕はズボンのポケットに触れる。ぱちんと乾いた音を立て、ボタンが外れる。なめらかな合皮のケースを掴み、外へ引き出す。それを両手でしっかりと持って、蓋を開く。
 並んだバッジが光に当たる。そのひとつひとつに触れながら、僕は証を確かめる。
 そう、これは証明。僕がここまで来られたことの。僕がこの先へ進めるための。こんなにもくっきりしているのに。僕はそれでも、足りないっていうんだ。

「なーるなる、これは大切になさっていますね」
「うわあ!」

 気付かないうちに彼女が覗き込んでいて、僕は反射的にケースを閉じた。やってしまってすぐ、あ、と思った。彼女を信用していないとか、そういうわけでは全然ないのに。つまり僕はそういうヤツだと、示してしまったような気がした。

 その時だった。
 ランターンがちかちかと、小刻みに発光体を明滅させた。これは、合図。海中に何か異変があったと伝えるサインだ。何が起こったのか確かめる前に、それは来た。

 ぐわんと筏が大きく揺れる。それが正面で起こった波のせいだと気付いた時には、海面が大きく盛り上がっていた。大量の水しぶきが冷たくて、僕はとっさに手で顔を覆う。出現したのは、水柱そのもののような巨体の生物。目前に迫ったまるで壁のような黄色い腹部。全身を覆う蛇腹の鱗。その頂点には人間一人容易に丸呑みしてしまいそうな口を広げる、威圧の眼光。
 海で最も恐れられるその名を、ギャラドスと呼ぶ。
 その咆哮が、僕らの全神経をつんざいた。

 ホエルコが潮を噴き上げる。海上での危機を知らせる合図だが、もはや知らされるまでもない。十分過ぎるほどにわかっている。そう思ったけど、それすらも僕の過信だった。上ばかり見て見逃していたのだ。ランターンの発する懸命なサインを。
 理解不能な衝撃に、全身が大きく揺さぶられる。それが筏が突き上げられて傾いているのだと認識したのは、僕の手からバッジケースが滑り落ちたのと同時だった。「あっ」と自分でも間抜けと思う声を出す僕の見る前で、丸太の溝を滑っていくケースは、あまりにもあっけなくするすると筏の端まで移動して。その瞬間まで愚かにも僕は、そんなことが起こるはずないと、単なる悪い冗談だろうと、本気で信じていたんだと思う。
 ぽちゃん、と。
 だから僕はその音が、何を意味するのか理解しようとしなかった。

「あ、あれ?」

 自分でも訳の分からない声だと思った。僕の手は、空っぽのポケットを探っていた。大きな揺れとしぶきを巻き上げ、筏の傾きが乱暴に戻る。ぐらんぐらんと頭を揺られて、きっとギャラドスのしっぽが海中から筏の船底を襲ったんだろうとぼんやり起きたことの分析をする。その結果として起こったことへは、思考が進んでいこうとしない。だから彼女が何をしたのか、やっぱり僕にはわからなかった。

 だだだん、と。濡れた丸太を蹴る靴の音がして、それは筏の端から宙へ舞い、ざぶんと白い波を立てた。わけがわからず、僕は船上に彼女の姿を探そうとした。彼女がどこにもいないのが当然だと思う一方で、なぜだと混乱してもいた。
 もちろん本当はわかっていた。彼女が何をしようとして、躊躇いもせず動いたのかを。なのにまるで他人事のように、ならばすぐ彼女が戻ってくるはずだと僕の頭は考えていた。
 けれど彼女の飛び込んで行った海面は、荒波に揺れるまま至って変化を見せようとしない。次第に僕は焦り出した。わけのわからない焦りだった。全身からぶわっと汗が吹き出し、ぶるりと震えた。ひどく寒くて、なのに心臓だけがばくばくと響いて熱を発する。彼女が炎使いだと、海を渡れないと言った言葉がぐるんぐるんと脳を駆け巡る。
 僕のせいだ。僕のために。僕のせいで。
 足が崩れ落ちそうになって、そうなったらもう手遅れな気がして、ならいっそ飛んでしまえと脳髄が命じた。僕は海へと飛び込んだ。

 不思議と冷たさは感じなかった。一瞬心臓が止まりかけたような錯覚はあったが、まあ錯覚だ、気になどしない。波が荒れているせいか視界が悪い。当然の備えとして僕はゴーグルをずっと頭に載せていたので、すぐにそれを掛けようとした。顔から離さずにずらしたつもりだったけど、どうしても海水は入ってくる。沁みる痛みに視界が滲み、なぜ飛び込む前にかけなかったと後悔しつつ、仕方がないと割り切った。

 さっきまであんなに穏やかだった海が、ポケモン一匹出現しただけでこうも荒れるなんて不自然だ。海の天気は変わりやすいというけれど、こんな簡単に変わられるのは困ってしまう。ポケモンの中には天候を操る能力を持った種類がいるし、その能力をコントロールする技もある。そういう類をあのギャラドスも持っているのかもと泳ぎながらに考える。

 泳ぐといっても、そうスムーズなものではなかった。
 まず、服がものすごく重たい。あっという間にみるみると海水を吸い取った布地は、恐ろしく邪魔で苛つかされる。僕の意志や体の動きとはまるで無関係にぶわぶわと揺らめく重たい枷は、それだけで溺れてしまいそうな恐怖を植え付けてきた。脱ごうとすることさえままならなくて、すぐに諦め彼女を探した。

 暗い海中で、何メートルも見通しは効かない。
 見つからない。見つからない。見つからない。
 ものすごい焦りが全身をざわめく。僕は無茶苦茶に泳ぎ回って、彼女の姿を見ようと動いた。あんまりにも視界には海しかなくて、こんなの見つかるはずがないと諦めそうになったその時、白い揺らめきが海中にちらつく。不思議とはっきり確信があった。けれど、なかなか近づけない。視界の白が何度も消えかけ、その度に僕は滅茶苦茶に泳いだ。

 いい加減息が苦しかった。何分も潜っていた気がするし、何秒も経っていないような気もしていた。けれど少なくとも彼女は、僕より長く海中にいる。なら僕が息継ぎなんてできるはずないと、ぼんやりしつつある頭を叱って必死に思考し続けた。

 潮の流れか幸運か、ふと気づいたら目の前に白は迫っていた。彼女のシャツの色だった。僕は迷わずそれを掴んだ。当然ながら、水を吸ったそれは重たい感触を僕の手に与えた。それでも無理矢理に引きつけて、彼女をしっかりと抱き締める。それが僕の限界だった。
 二人分の重さ。バタ足すらもままならなかった。だからふわりと上昇する浮力を感じた時、何かの奇跡が起きたと思った。大きな体でホエルコが押し上げ、先を照らすようにランターンが僕らを引っ張った。彼らがいるのが奇跡だと思った。




 人工呼吸、なんて言葉が頭を駆け巡っていたけれど、幸い彼女はすぐ海水を吐いた。あまり大量には飲まずに済んでいたんだと思う。そう、もちろん幸いなことだった。
 げほっげほっと苦しげな荒い咳をして、彼女がゆっくりと目を開ける。

「あ……うあげほっ、ご無事で何より……」
「キミがね。ちゃんと自分の心配をしようか」

 彼女は頭に手を当てながら、ゆっくりと体を起こす。まだ動かない方がいいのではとも思ったけれど、反射的に僕は背中を支えて手伝っていた。彼女のもう片方の手は、それを掴んで、ぎゅっと胸にあてられたまま。

「ああ、そうです。これをお返ししなくてはですね」

 彼女もそれに気付いたらしい。逆に言えば、今まで意識しないくらい、夢中で守ってくれていたのか。
 彼女の差し出したそれを、僕は一瞬受けとれなかった。

「どうしましたか」
「キミが不思議で」

 彼女は首をかしげて見せる。ケースを持つ手すら重たそうで、それに思い至った僕はすぐにそれを受けとった。

「ごめん」
「いえいえ」

 彼女はにいっと笑って見せた。満足そうな笑みだった。そんな場合ではなかったのだけど、僕もつられて笑ってしまう。

「ところでこうしているってことは、危機は過ぎ去ったわけなのでしょうか」
「残念ながらまだなんだ」

 僕はぐるりと後ろを見る。彼女も視線を移すのがわかった。
 ギャラドスは今も、当然のようにそこにいた。ただし手出しはしてきていない。不気味な唸り声を轟かせ、威嚇し続けてはいるけれど。
 まるで観察されているみたいだと思った。事実そうだったのかもしれない。

「なーるなる、まだまだがっしりピンチですね」
「だよね。けっこうヤバいと思う」

 なぜなら、僕らが多少なり余裕を取り戻したのを察して、ギャラドスが体を逸らせ始めていたからだ。蛇腹状の鱗が流れるようにうごめいていく。まるで何かを始めるように。その何かがわかっていたので、僕はどうにか対応できた。

「みずのはどう!」

 ホエルコが揺らめく水の塊を撃ち出したのと、ギャラドスの咥内が膨れ上がったのは同時。直後にギャラドスが発射した極太の水流「ハイドロポンプ」を、炸裂した波動が拡散させる。冷たいしぶきが僕らを襲う。こちらが先に動いたはずでも、防ぎ切れたのはギリギリだった。力の規模が違っている。
 ギャラドスが体をうねらせて唸り、次の攻撃に移ろうとしている。今の攻防で大体分かった。レベルは敵の方が上だ。このまま凌ぎ切るにはどうしたらいい。

「ランターンさんにビリッとやってもらうわけには?」

 もちろんそれは、ギャラドスに対する最も有効な撃退法だ。誰でも真っ先に思いつく。でも。

「妙案だけどね。やったらみんな黒焦げだ」

 ここは海上。まずホエルコが巻き込まれる。そして全身ずぶ濡れの僕らも。さてその後で、立っていられるのは誰々か。
 けれどこの格上の相手に、勝てる要素が他にないのも確かな事実。あまり考えている暇もない。戦闘を再開したギャラドスは、さっきまでの様子見が嘘のように嬉々として牙をむいてくる。
 巨大な顔面が牙を光らせ突進してきた。「かみつく」攻撃。いや「こおりのキバ」かも知れない。どちらにしてもあの大顎だ、受けたら一気に終わりが近づく。

「顎に向かってたいあたり!」

 一瞬海中に潜った直後、弧を描くようにランターンがギャラドスの顔面を下から襲う。がつん、と嫌な音がした。ギャラドスの顎が突き上げられて、牙と牙が噛み合う音だ。こちらまで歯の痛くなる錯覚がある。
 怒れるギャラドスは恐るべき速度で体を引いて、ランターンの体が打ち上げられた。筏を襲ったのと同じ攻撃。海中からの「アクアテール」だ。鋭いヒレを持つ尻尾はそれで動きを収めてはくれず、怒りを体現するかのごとく筏に向けて振り下ろされる。

「しおふき!」

 ホエルコが海水を噴き上げて、尻尾の勢いを殺そうとする。けれど、パワーが足りていない。ダメかと思ったその瞬間、ホエルコがしぶきをあげて飛び跳ねた。僕らの筏を身を投げ出して庇ってくれたその雄姿は、まるで小虫を払うかのように海面へと叩きつけられる。

「ホエルコ、ランターン……っ!」

 力の規模があまりに違った。僕が海戦に熟練していないせいでもある。でも、自分に言い訳をするわけではなく、明らかにそれ以前にレベルが違う。
 体格差のもたらす、絶望的なパワーの差。それを覆せるだけの技が、こちらにはない。

 甘かった。
 ここまで旅して力をつけて、そこらの野生ポケモンになら負けないくらいの自負はあった。
 けれど野生は浅くない。悠々と僕の想像を飛び越える。そんなことは今まで幾度もあったのに。
 ランターンもホエルコも、僕らの救出とここまでの攻防でかなりの疲れを見せている。体力に自信のある二匹だけれど、長期戦のできる相手ではない。

 ここまでなのか。こんなところで、僕らは終わる? 嫌だ、そんなの。

「どうやらそろそろ、わたしの出番なご様子ですね」

 彼女がすっと立ち上がった。
 無茶だ。少しの間とはいえ、さっきまで気を失っていたのに。

「大丈夫です。がんばりますよ」

 彼女はどこから取り出したのか、モンスターボールを構えている。視線はまっすぐギャラドスを見ていた。その髪からは、まだ海水が滴っているのに。
 どうしてキミは、そんなにまっすぐな目ができるんだ。
 どうして僕は、それを見ているばっかりなんだ。

「大丈夫です。あなたは弱くありません」

 見透かすように、彼女は言った。

「あなたも、あなたのお仲間さんたちも、お強いです。力の差なんて、そうあるようには見えません」

 ただ、あと一歩。
 それを体現するように、彼女は踏み出す。 

「勝てるんですよ。それを信じることさえできれば」

 足りていないのは。まっすぐ前を見る覚悟。
 彼女の後姿は、まるで眩しい陽光のようで。けれどその先をよく見てみれば、息の上がったギャラドスがいる。

「だからわたしたちの役目は、もうひと押しを押し込むだけです。それぐらいなら、がんばれます」

 あなたたちがいたから勝てる。そう言うように。
 彼女はにいっと笑って見せた。

「さあ行きますよ! わたしの背中、もう一度だけ支えてください!」

 もうひと押しを。あなたたちの手で。
 彼女はまっすぐ走り出す。筏の端から迷いなく飛ぶ。信じているから。
 だったら。応えないわけに、いかないじゃないか!

「ホエルコ! しおふき!」

 打ち上げられた白い水柱。それが彼女の足を突き上げる。曇りない天へ舞い上がる彼女は、翼のように陽光を広げた。ギャラドスの視線が彼女を追う。そして引くように体を逸らせ、咥内を膨れ上がらせる。

「燃えます! ふんか!」

 いつの間にボールを開いたのだろう。彼女はポケモンの腕の中にいた。そのポケモンと同じ視線で、まっすぐ上を見据えていた。
 ポケモンの背中が燃え上がる。まるで上下逆さまの火山。日差しの熱をいっぱいに受けとめたその技は、ギャラドスを飲み込むような火柱と化した。
 炎に包まれるギャラドスを背に、噴き出す炎でさらに彼女たちは宙を舞う。陽光を翻すように反転し、燃え盛る背中を空へと向けた。その鋭い二つの眼は、彼女同様まっすぐギャラドスを捉えていた。

 そのポケモンの名は、バクフーン。
 空を焦がすような背中の炎が、揺らめく陽炎を作り出す。

 火柱に包まれ、それでもギャラドスは攻撃を止めてはいなかった。その頂を、特大の水弾が突き破る。
 それをふたりはまっすぐ見ていた。だから、動じることなどなかった。

「かえんほうしゃ!」

 真っ向から。細く鋭い炎の筋が、水の塊を貫いた。芯を蒸発させた「ハイドロポンプ」は、勢いを失い四散する。それで勝負は決していた。
 彼女の手から、ひとつのポールが放たれる。それはギャラドスの巨体を光で包み、きらめきの中に一瞬でその姿を吸い込んだ。それを空中で受け止めた彼女は、バクフーンに抱えられたまま、ずしんと筏に着地した。小波を立ててぐらりと揺らぎ、それでも筏は僕たちみんなを受け止める。

 バクフーンの腕からそっと筏に降ろされた彼女は、背伸びしてバクフーンの首を撫でる。日の光を浴びて気持ちよさそうに、バクフーンはぶるりとくしゃみをした。




「行くの?」

 僕の問いかけに、彼女は笑って振り向いた。ギャラドスの上で、誇らしそうに。

「炎一本じゃなかったの」
「過ぎた拘りは時に枷、明日を開くは新たな出会い。今日のわたしは昨日より前へ進むのです!」

 彼女の高らかな宣言に、呼応するようにギャラドスとバクフーンが空へ向けて吠える。全力を存分にぶつけ合ったことで芽生えた友情がそうさせるのか、二匹はずいぶんとウマが合うようだ。これなら仲良くやっていけるだろう。
 ギャラドスの顔がなんだかとてもすっきりしていて、さっきまでの激戦が嘘みたいに思えた。いや、ああして戦ったからこそなのか。

「あなたのお力に助けられ、新たな仲間も得られました。明日より先のライバルとしては、少々お塩を頂き過ぎた気もします」
「こちらこそだよ。キミがいてくれなかったら、僕は諦めていたかもしれない」
「何をです?」
「僕らの夢を」

 そう、夢だ。

 ポケモントレーナーになりたいと、漠然と思った。
 どうせなら一番になりたいと、当然のように考えた。

 今なら、まっすぐ手を伸ばせる。ありふれ過ぎた僕らの夢に。
 それが確かにそこにあるって、信じることができたから。

 昨日の敵は今日の友、明日のライバルも今日の友。

「だから、明日はライバルだ」
「はい。わたしたちの夢に懸けて」

 夢。夢、夢、夢。
 僕たちは何度でも反芻する。
 同じものを目指したから。僕らは出会って、高め合う。

 彼女はもう一度にいっと笑って、大きく大きく手を振った。

「向かうは栄光、ポケモンリーグその会場! さあ行きましょう明日のため!」

 彼女はもう、振り返らない。まっすぐまっすぐ前を見て、白い波と共に去っていく。きっと曇りなく、迷いない目で。その燃え上がる背中に、陽光の翼を翻しながら。

「僕らも行こう。負けてられない。背中を見るのはここまでだ」

 次会う時は正面から。堂々とあの目を見返すために。

 ホエルコがぱっと潮を吹き、ランターンが発光体を輝かせる。
 まっすぐ進む筏の上で。
 僕は、バッジケースを握り締めた。


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