かんそうはだにいやしのこころ

しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
 
作者:影丸
ログインするとお気に入り登録や積読登録ができます
読了時間目安:43分
― 1 ―

 ああ、いい天気だ。
 実にいい天気だ。
 毎日こうだったらいいのにっていうくらい、最高の天気。

 薄く靄のかかった、湿った空気。どろどろにぬかるんだ地面。水気をたっぷり含んで、ぴんとした水草。そんな景色全体にヴェールのように覆いかぶさる小雨の、しとしとぱたぱたと落ちる雨音。
 本当に最高。“かんそうはだ”なおれには、これ以上ないコンディション。元気も力も内から外から満ち溢れてくるみたいだ。

 そんな素晴らしい気分で、おれはいつものコースを歩く。はじめのうちは、たくさんのイヤな思いを振り払いたくて始めた散歩。この沼地に来てからというもの、いつの間にかすっかり日課になってしまった。
 ねぐらの沼から歩き出し、池の周りをぐるっとまわり、背の高い草に覆われた道をかき分けて進む。この辺りには、あまり他のポケモンたちはやってこない。おれのお気に入りの場所。

『やあ、グレッグル。今日も、散歩かい?』

 聞きなれた声が聞こえ、おれは立ち止まって挨拶を返す。

『よう、ハスボー。珍しいな、おまえがこんなとこまで来るなんて。さっき池の前を通ったけどさ、姿が見えないから、また寝てんのかと思ったよ』

 でっかい葉っぱを背負ったような格好のそいつは、葉っぱで隠れがちな顔を少し不機嫌そうにゆがめる。

『ボクはねえ、別にいっつも、ぼんやりしてるってわけじゃあないんだよ。そりゃあね、ときには、この素敵な雨空を見上げながら、つい気持ちがよくって、うとうとすることだってあるさ。けどねえ、ボクは基本的には、テツガクシャなんだよ。雨粒を背中の葉っぱいっぱいに受け止めながら、ボクはこの素晴らしい世界について、いつだって考えを巡らせているんだ。それをね、キミはちっともわかっちゃいない。だいたいねえ』
『わかったわかった。おまえのテツガクとやらは、もっと頭のさえたヤツに聞かせてやってくれ』

 こいつとおれはトモダチだが、性格はまるで違っている。暇さえあればこうして散歩に出かけるおれと、いっつも棲み処の池でぼんやり空を見ているこいつ。考えると同時に体が動くおれと、何やら難しいことを考えているらしこいつ。だけど不思議と気が合って、今じゃこいつはこの沼地で唯一の、おれのトモダチ。

『珍しくこんなとこで出くわしたんだ。たまには、一緒に散歩しないか』
『悪くないねえ。ボクとしても、キミが一緒だと心強い。それじゃあ、行こうか』

 そう言ってハスボーは、ぺちゃぺちゃと前を歩きだす。道が狭いから、背中のでっかい葉っぱが周りの草にあたって、歩くたびにがさがさと音を立てる。どうでもいいがこいつ、こんなにちっこい背のくせして、この草むらの中、ちゃんと進む方向がわかっているのか。

『ていうか、どこに向かってんだ? ただ散歩に来たってわけでもないんだろ』

 たびたび長い草に引っかかって転びそうになるこいつの進路を、おれは自慢の長い腕でかき分けてやりながら進む。こいつの棲み処の池からここまではさほど離れちゃいないが、それでもこいつはなんの目的もなく、池の外をひとりで歩きまわったりはしないだろう。

『ちょっと、確かめにねえ。空の様子が、なんだか少し、おかしなものだから』

 空? おれも軽く見上げてみるが、別におかしなところなんてない。いつものように、きれいな雨雲が広がっているだけだ。

『杞憂なら、それでいいんだ。さあ、行こう』

 おかしなヤツ。前々から思ってはいたけど、やっぱりこいつはちょっと変わってる。まあおれも、あまりこいつのことばかり言えないけれど。なにせ、おれとこいつは、境遇が同じだから。
 おれたちはその後は特に言葉を交わすこともなく、気持ちのいい雨の降る中を、ぺたぺたと歩いた。

 このあたりではこうして、ほとんど毎日のように雨が降る。本当に、天国のような土地だ。だからおれたちのような境遇にポケモンの他に、好んでこの土地にやってくるポケモンも少なくない。
 昔はこのあたりも、こんなにいい環境じゃなかったらしい。信じられないけれど、昔はもっと乾燥していて、めったに雨なんか降らなくて、代わりに強い日差しがひりひりと差す、とんでもない土地だったとのことだ。ああ、そうだ、たぶんちょうど、こんな具合に――

『これは、どうしたことだろう。いったい、なにが起こったっていうんだい』

 ハスボーのヤツが、驚きの声を上げる。おれも、その時になって初めて気がついた。
 突然ぱたっと途切れたように、降らなくなった雨。代わりに、ひりひりと肌を焼くような日差し。
 ハスボーじゃないけど、いったいなにが起こったってんだ? ほんの少し前まで、あんなにいい天気だったっていうのに。どうして急に、こんなひどい日差しが降ってくるんだ。
 おれは慌てて元来た道を振り返ってみる。そして、さらなる困惑に襲われた。

 雨が、降っている。さっきまでと変わりなく。ほんの少し道を戻ったところで、まるで世界ががらりと変わってしまったかのように、雨と晴れの境目ができているじゃないか。

『おい、ハスボー、こりゃいったい……』
『ああ、グレッグル。ちょっと、空を見てごらんよ』
『空?』

 言われた通りに空を見上げてみて、このおかしな現象がよりはっきりする。空一面を覆っていたはずの雨雲が、ここら一帯だけ丸く切り取ったように消え去っていて、そこから窓のように青空がのぞいている。カッと日差しが襲ってきて、おれはたまらず腕で顔を覆う。その腕も、光のあたるところからじわじわと焼きつけられるように水分が奪われていく。これはたまらない。いつまでもこんなところにいたら、干からびてしまう。

『おい、こりゃキツいぜ。とにかく戻ろう、ハスボー』

 そう言っておれは、空から視線を降ろす。そのときに、みつけた。

 丸く切り取られた、晴れの世界。その中心で、まるでここが幻想の舞台であるかのように、軽やかな動きで踊る姿。そいつがくるくると回ると、そいつの頭の花飾りも一緒にくるくると回る。緑と黄色、二色の葉っぱのスカートが翻るたび、ふわっとどこからともなく花びらが舞い上がり、あまいかおりが漂う。

 それは、泥と水草ばかりのこの土地にはひどく不似合で。
 けれど、そんなものお構いなしに優雅で、軽やかで、キラキラしていて。
 まるでここだけが、どこか別の世界であるかのようで。
 目の焼けるような光の降り注ぐ地獄みたいな世界だっていうのに、それは、

 ものすごく、きれいだった。

『……い、おい、グレッグル、しっかりしないか!』

 ハスボーの声がして、おれははっと現実に引き戻る。けれど、ああ、なんだろう。この、感じたことのない気持ちは。頭が、ぼんやりする。

『おい、大丈夫かい? まだ夢を見ているような顔をして。日差しにあてられて、頭がやられてしまったんじゃないだろうねえ?』

 ああ、そうなのかもしれない。現に体はじりじりひりひりと麻痺しかけたような痛みを感じ、ぐったりとだるくて、力が抜けていくようだ。そして、心だけが、そことは別の位相にでもあるかのような。

『おい、とにかく、ここを離れようじゃあないか。この異常気象に興味はあるけれど、ボクも、葉っぱがしなびてしまっては大変なんだ。これ以上日差しに当たり続けるのは、毒でしかないよ』

 そう言って、ハスボーはがさがさと後退していく。確かに、ハスボーの言う通りだ。これ以上、ここに突っ立ってるのはマズイ。だけど、

『悪い、ハスボー、先に戻っててくれよ』
『なんだって?』

 気になる。これが、なんなのか。あそこで踊っている、あいつが誰なのか。この感じたことのないぼんやりした気持ちが、なんなのか。

『おい、やめなよ。キミの“かんそうはだ”は、日差しに弱いんだろう? 倒れてしまうよ』
『ああ、悪いな。先に帰っててくれても、いいぜ』

 なんだか、ハスボーの言葉も、あまり耳に入らなくなってきた。だからおれはとりあえず、帰るように促しておく。あいつだって、強い日差しは苦手だろうから。

『おい、知らないぞ。本当に帰ってしまうからな。おい、グレッグル!』

 ああ、悪いな、ハスボー。
 おれの意識の中で、ハスボーの声は消えていく。もう、前しか見えていない。
 じりじりと照りつける日差し。乾きかけた泥の地面。しおれ気味の水草。その中を、おれは歩く。ひらひらと舞う花びらと、軽やかで楽しそうなステップと、ふんわりとした甘いかおりに向かって。

 だんだん、そいつの姿がはっきりしてきた。まず目立つのは、大きな赤い花飾り。くるくるとゆるやかに回る二輪の花が、頭を覆っている。その下の、薄い緑の顔と、華奢な腕。ふわふわと踊るその表情は、とても穏やかで、それでいてすごく楽しそうに、キラキラと輝いて見える。下半身を覆う二色の葉っぱのスカートは、ふわりと花びらを舞い上げながら、それ自体もふわりと翻り、甘い香を振りまく。さっきよりもはっきりと感じられるそれは、心を強く惹きつけて他に目移りすることを許さないような、不思議な引力をもっていた。

 キレイハナ、だ。以前、見かけたことがある。けれど、キレイハナってポケモンは、こんなにもきれいだっただろうか?

『あら?』

 そいつが、こっちに気付いた。踊りはやめない。けれど心なしかその動きが、こちらを見がちなものになる。
 透き通るような、それでいて耳に残る、可愛らしい“声”だった。たった一言。それだけで、ものすごく近づいたような気持ちになる。

 ああ、なんだ、そうか。
 おれは、こいつに――

 そこでおれの思考はぷっつりと途切れ、ぐらりと、視界が傾いた。



― 2 ―

 あまい、かおりがする。
 鼻孔をそっと優しくくすぐるような、あまいかおり。
 湿った草、体の下のその慣れた感触に、そのかおりはどうにも不釣合いだ。そんなことを考えながら、おれはくっついてしまったかのように重たいまぶたを、ゆっくりと開いた。視界がはっきりしなくて、ぱちぱちと目を瞬かせる。雨が、降っていた。心地よい雨粒の当たる感触が、ひどく気だるい体を少しずつ癒してくれているようだ。

『めが、さめたのね』

 透き通るような、それでいて耳に残る、くすぐるような“声”。あれ、この“声”って、確か、

『キレイハナ……?』
『うん。そっか、しってるんだね、わたしのこと』

 可愛らしい“声”が、頭に響く。響いたそれが、ゆっくりと心に染み入る。そして、おれはようやく覚醒する。

『あ、だめだよ、まだおきあがっちゃ。おぼえてる? きゅうに、たおれちゃったんだよ』

 ああ、覚えてるさ。意識はもう、はっきりしている。
 おれはゆっくりと上半身を起こす。ひどく疲れているように、体が重い。起き上がったとたん強烈なだるさに襲われ、めまいがした。

『だいじょうぶ?』
『ああ。それより、ここは――?』

 不思議な場所だった。おれたちが棲み処にしている沼地。そのどこかであることは、間違いない。けれど、それにしては奇妙だ。
 確かに、雨は降っている。周りの景色は泥の地面と沼と池と水草。そしてうす黒い雨雲の広がる空。けれど、その空にところどころ、穴が開いたように青空がのぞいてしまっている。あたりが妙にいつもより明るいのは、そこから降り注ぐ光のせいか。空気も心なしか、湿り気が少ない。そして、その青空の穴の下あたり。やけに明るい場所があって、そこには乾きかけた地面と、背の低い草、そして小さな花まで咲き始めてるじゃないか。そんなおかしな場所が、いつもの沼地の景色の中にぽつんぽつんと点在している。
 まるで、本来別々のところにある世界が、まだらに混ざり合ってしまっているかのようだ。そのありえない景色におれは、もしや自分は死んだんじゃないかと勘繰ってしまう。

『というか、本当にあの世だったりしないだろうな』
『え? ふふ、おもしろいことをいうんだね』

 キレイハナが、おれの隣でくすくすと笑う。そういえばこいつは、どうしておれなんかのとなりにいるんだ?

『なあ、あんたが、おれを助けてくれたのか』
『えっと、まあ、たすけたっていうか。あめのとこまで、はこんだだけだよ。たいようが、にがてなんでしょ?』

 運んだだけ、というには、おれの寝ていた地面には、しっかりと水草が敷かれている。別に泥に直接寝かせてくれても問題ないというか、どちらかというとその方が心地よかったりもするんだけど、でもこれはきっとおれを気遣ってしてくれたことなんだろう。

『悪いな、ありがとう』
『ううん、そんな。もともと、わたしのせいでもあるんだし』
『あんたの?』

 どういうことだ? 気になって、おれは聞き返す。キレイハナは『うん』と言って、それから少し考えてから、話してくれる。

『わたしが、ひかりをあつめてるの。おどりのちからで、はれにしてる』
『踊りの力で?』
『うん。わたしのおどりには、たいようのひかりをよびこむちからがあるんだよ』

 くすぐるような“声”の割に、なんだか難しいことを言う。意外と、頭はいいのかもしれない。

『つまり、このあたりのおかしな風景は、あんたがやったっていうのか』
『うん。すこしずつはれのばしょをひろげているの。はなをさかせるために』
『花?』
『うん。ずっとあめばっかりじゃ、はなはさかないから。だから、はれをつくるの』
『けど、あんな日差しじゃ……』
『もちろん、はれだけじゃだめ。かれちゃうから。はれと、あめ。いっしょじゃなきゃ、だめなんだよ。かわりばんこになるように、きょうはここ、あしたはあっち、そんなふうに、はれをつくるの』

 踊りの力で光を集めて、晴れを作る。その範囲を少しずつ広げながら移動し、数日したら、先に晴れにした場所からまただんだんと雨に戻り始める。そうして鬼ごっこをするように、晴れと雨を交互に繰り返していく。
 つまりは、そういうことらしい。そんなことで、花が咲くのか。言われてみれば花なんて、この土地ではほとんど見たことがない。水草にだって小さな花をつけるものはあるが、あんまり目立つようなものじゃなかった。

『まだ、はじめたばっかりだけどね』
『どうりで。今日まで全然、こんな場所があるなんて知らなかった。おれの散歩コースまで、あんたの花畑計画が広がってきたってことか』
『あなたも、むずかしいことをいうのね。ニンゲンみたい』
『ああ、トモダチに、そういうことばっか言うヤツがいてさ。うつったのかもな』

 本当は、それだけが理由ってわけでもないんだろうけど。
 ニンゲンみたい、か。

『トモダチ……』
『なあ、あんたは、なんでこんなことをしてるんだ? なんでこんな土地にいる?』
『わたしは……』

 キレイハナは、少し言葉を選んでいるようだった。そういうところは、こいつの方がよっぽど――。

『わたしは、ここをはなでいっぱいにする。それが、ヤクソクだから。そうしたら、きっとまたあえるから。わたしの……トモダチ、に』

 トモダチ。そう言ったキレイハナの“声”の響きには、明らかに他の言葉とは違う、特別な気持ちが込められている。

『ヤクソクしたの。わたしたちは、いっしょにたびして、せかいじゅうをはなでいっぱいにしようねって。だから、わたしはここでおどるの。ここにいっぱいのはながさくまで』
『…………』

 なんて、言ったらいいだろう。おれは、キレイハナの言葉に対して、なんて返したらいいのかわからない。だって、こいつは――

『……なあ、キレイハナ』
『うん?』
『また、会いに来てもいいか』

 キレイハナは少しの間、目をぱちくりとさせてきょとんとしていた。なんだよ、そんなに、おかしなことは言ってないだろ。それからキレイハナは、『ふふ』と笑って、答えた。

『もちろん。あ、でも――』
『でも?』
『わたしのことは、レイハってよんでほしいな。それがわたしの、なまえ、だから』

 雨粒に濡れながら太陽のように笑うそいつは、ひどく、きれいに見えた。



― 3 ―

 わかってしまったような気がした。
 キレイハナの――レイハの、ことが。

 ニンゲンみたいだって言ってみたり。自分も、ニンゲンみたいな仕草をしたり。
 言葉を選んだりとか、言いよどんだりとか、そんなの、ニンゲンを知らないポケモンだったらまずしない。ニンゲンを知らないポケモンの思考はもっとシンプルで、直情的で、無駄がない。
 ましてや、なまえだなんて。久しく、そんなものは忘れていた。

 つまり、あいつは。あいつのいう、トモダチっていうのは――。

 レイハは、この沼地に花畑を作ると言っていた。それが、ヤクソクだと。
 けれど、全てがおれの考える通りだとしたら、それは。

 その先は、あんまり考えたくはない。

『キミ、やっぱりおかしいねえ。あの日帰ってから、ずっとそうやって、ぼんやりしているじゃあないか。あそこでいったい、なにがあったっていうんだい?』

 いつものどこか間の抜けた調子で、ハスボーが言う。こいつも、こういう物言いは、しっかりと染みついてしまっている結果なんだ。その割に間の抜けているのは、もともとなんだろうけど。

『別に、なんでもないさ。あんときゃ、悪かったな』
『本当さ。あまり、おかしなことはしないでほしいねえ。ボクはあまり、心の臓が強い方ではないんだよ』

 結局あの日ハスボーは、あの「晴れにされた」場所からそう遠くないところで待っていた。あの日差しの中に戻るのはイヤでも、おれの奇行を放って帰れるほど薄情にもなれなかったようだ。なんだかんだでそういうところ、おれは好きだ。
 だけどあの日の詳しいことは、おれはこいつに話してない。心配させちまったのは悪かったけど、でも、こいつにとってもあんまり、気味のいい話ではないはずだ。レイハのやっていることも、レイハが考えていることも。
 それに、レイハのしていることがあまり知れ渡るのはまずい。ハスボーはおれと違って、この沼地におれの他にもトモダチがいる。だからといって安易に言いふらすようなヤツでもないが、つい口が滑るってこともある。

 レイハのしていることが、あんな場所があることが、この沼地のポケモンたちに知られたら。
 どうなるかなんて、あまり想像したくない。

 おれは、きれいだと思った。レイハの考えていることも、理解はできる。
 けれど、沼地の他のポケモンたちはきっと、そうはいかない。ニンゲンを知らないポケモンたちにとって、レイハの言うことはわけがわからないだろう。そうなれば、レイハのしていること、つまり、雨を晴れに変えていることは、ここのポケモンたちにとっては――。

『とんでもねえよな。おれだって、最初はそう思ったし……』

 そうなることは、避けなきゃならない。でないと、大変なことになる。
 けれど、レイハがこのまま、花畑を広げていったら。

『なにが、とんでもないんだい』
『うお? おれ、なんか言ったか?』

 意識しないうちに“声”に出してしまっていたらしい。ああ、危ない危ない。

『まったく、やっぱりキミはおかしいね、グレッグル。一度、診てもらった方がいいんじゃないか』

 診てもらうって、誰にだよ。おれは、つい笑ってしまいそうになる。染みついているんだ。そんな発想、この場所じゃなんの役にも立たないっていうのに。

『なあ、ハスボー。おまえは、自分のなまえって、覚えてるか』
『なまえだって? また、なにを言い出すのかと思えば。キミ、本当にどうしたっていうんだい』
『ああ、いや、いい。悪かった、忘れてくれ』

 ハスボーは、まだ訝しげにおれの方を見ている。けれど、それ以上特に追求しては来なかった。
 ああ、そうだよな。どうかしてる。そんなもの、この場所じゃなんの役にも立たないっていうのに。

 なあ、レイハ。

 おれは、そいつの「なまえ」を呼ぶ。
 この場所で生きていくには、不要なはずのそれを。そいつはまだ、大切に抱えている。

 おれはもう、捨てちまったんだ。


 だって、先に「捨てた」のは、あいつらのほうじゃないか。



― 4 ―

 それは、思っていたよりも早く起こってしまった。
 結局おれなんかが無い知恵を絞ったところで、避けることはできなかったんだ。

 この沼地には、ボスと呼ばれるポケモンがいる。
 ボスは、この沼地に棲むポケモンたちにとって、なくてはならない存在だった。そいつがいるから、この沼地は、沼地であることができるんだ。
 昔このあたりは、こんなにいい環境じゃなかったらしい。信じられないけれど、昔はもっと乾燥していて、めったに雨なんか降らなくて、代わりに強い日差しがひりひりと差す、とんでもない土地だったとのことだ。
 おれは、その頃のことを知らない。おれがここに棲むようになったのは、この土地にボスが現れて、沼地をつくりあげた後だったから。

 ニョロトノ。それが、ボスと呼ばれているポケモンだ。そいつはそこらのニョロトノにはない、特別な力を持っていた。ただそこにいるだけで、雨を呼ぶ力。“あめふらし”。そんなふうに呼ばれるのを、聞いたことがあった。

『……そいつが、やったってのか』

 目の前の、惨状。それを見ながら、おれは三本の指が砕けそうなほど拳を握る。

『まず、間違いないだろうねえ。といっても、実際にここを荒らしたのは、ニョロトノの取り巻きたちだろうけれど』

 花が、散らされていた。光の降り注いでいた青空の穴は、分厚い雲でほとんどが塞がれている。
 泥が乾いて土となり、草や花を育んでいたはずの一帯。あいつが何日も何週間もかけてやっと作ったそれは、ぐちゃぐちゃの泥で荒らされ、見る影もなくなっている。泥に埋もれて苦しそうな草や花の残骸は、もう息をしていない。

 再び薄暗い雨だけの世界に戻ったこの土地におれがやってきたとき、レイハは、泣いていた。なにがあったのかは、聞きたくなかった。

 優雅に、それでいて楽しそうに、輝くように踊っていたレイハが。おれを助け、自らも雨に濡れ、それでもおれを気遣っていたレイハが。自分のしていることを嬉しそうに話してくれ、ヤクソクを叶えてトモダチとまた会いたいと、切なくなるようなさびしい笑顔で語ったレイハが。トモダチからもらった「なまえ」を今でも大事にしていて、少しだけ照れくさそうに、けれどどこか嬉しそうに、それを教えてくれたレイハが。
 いったいここでなにをされて、どれだけの想いを踏みつぶされれば、こんなに悲痛に泣くのかなんて。そんなもの、知りたくもない。

『どこへ行く気だい』

 ハスボーが、背中に声をかけてくる。

『キミ、なにを考えているんだい。敵うわけがないだろう。だいたい、逆らってなんになるっていうんだい』

 なんになるだって? そんなもの知るか。それとも、こんなものをみて、それでも黙ってろっていうのか?

『なるほど、最近キミの様子がおかしかったのは、ここのことを考えていたからだったんだねえ。けれどねえグレッグル。今回ばっかりはボクは、キミに味方したものかどうか、ためらってしまうよ』

 おれは、首だけ回してハスボーの方を見る。こいつ、なにが言いたい?

『荒らしたと、便宜上そういう言い方をしたけれどねえ。もともと、ここは泥の土地だったんだよ。ボクたちが生きていくのに必要な、雨の降る土地だったんだ。それを荒らしたのが、いったいどちらなのか。わかっていないわけじゃないだろう』

 ハスボーは、おれの目を見ながら、続ける。

『キミ、ちょっとおかしいよ。晴れになって、いちばん困るのは誰だい。キミのその“かんそうはだ”は、日差しの下じゃ苦しいだけのはずだよ。ボクだって、雨が降っている方が元気でいられる。雨と泥の土地。それで、なにも困ることなんてないんだよ。そうあることが、ボクらにとって、いちばん幸せなことのはずじゃあないか』

 ああ、その通りだな。わかってるさ、そんなことは。

『こういう言い方はしなくないけれどねえ。あのキレイハナのしていることは、この沼地にとっては、間違いなく害悪だよ。ニョロトノたちの行為は、沼地に棲むポケモンたちを守る正当なものだ。正義は向こうにある。わかっているのかい? 彼女の味方をするというのなら、悪はキミの方だよ』

 つくづく、ニンゲンみたいな物言いをするヤツだ。正しいとか、悪いとか。そんなこと、どうだっていいだろ。

『見ろよ』

 おれは、後ろを振り返る。ハスボーのさらに後ろ。空では雨雲に新しい穴が開き、青空から、光が降り注いでいる。けれど、その下で踊るあいつの周りには、いつもの輝きがない。ここからじゃ、あいつの表情はよく見えない。けれど。
 あいつは、踊っている。
 ヤクソクを叶えたいっていう想いがあって。
 あいつにとってはつらい環境であるはずのこの沼地で、ひとりぼっちでがんばって。
 そうして少しずつ、少しずつ作りかけていた花畑を、壊された。
 ひどい声で、泣いていた。
 雨の中、ずぶぬれで。
 頭の花飾りも、葉っぱのスカートも、泥に汚れて。
 ボロボロの姿で。
 それでも、あいつは。
 今もひとりぼっちで、踊り続けているのに。

 優雅だった。楽しそうだった。ものすごくきれいだった。それなのに。

『今のあいつは、見ていられない』

 あんなに悲しそうな、さびしそうな、苦しそうな踊りを見せられて。

『黙ってられるわけが、ないだろ』
『だったら、どうするってんだーア?』

 掠れたような、けれど腹の底から響いてくるような、耳障りな声。声のした方を振り返ると、そこには多くの取り巻きたちに囲まれた「ボス」がいた。
 雨の中でも映える、緑色の体躯。ぎょろりとした目。決して巨大なポケモンというわけではない、けれどおれよりも、二回りほど大きな体。そこからほとばしる、体の大きさ以上の圧力。威厳。

『ニョロトノ……!』
『ボスって呼べよオ、ゲロ生意気な奴だなア』

 ニョロトノの周りを取り巻くニョロゾやニョロモたちが、凄みながらじりっと前に出る。それを、ニョロトノは片手で制した。

『アア、いーからいーから。にしてもよオ。オイオイオイオイまーじかよオ。なんだアありゃア。まーた、青空さんがみえちまってるじゃねエかよオ』

 ニョロトノは芝居がかった仕草で、腹の底から轟くかすれ声を響かせる。

『なーんだってんだア、せっかくワシが、ゲロ苦労して塞いでやったってエのによオ』
『だからまた、塞ぎに来たってのか』

 おれが聞くと、ニョロトノはおれの目の前に立ち、半眼で見下ろしながら答える。

『まーなア、そうしなきゃなんねエだろうよオ。見過ごすわけにゃアいかねエだろオ?』

 おれは見上げ、ニョロトノは見下ろす。そうして、しばし睨み合う。

『それでエ? おめエはどーすンだア?』
『おまえの、邪魔をする』

 くつくつくつ、と、ニョロトノが喉の奥で笑う。顔を歪めて。そしてその笑いは、徐々に黄色い頬袋を膨らませ、ゲロゲロゲロと、泥の底から響いてくるような耳障りな雑音、轟音へと変貌する。そして。

『やってみろよオ』

 ぐぶ。腹が、鈍い音を立てたような気がした。ニョロトノの腕が、おれの腹にめり込んでいる。内臓を突き上げられたような気持ち悪さと息苦しさに、呼吸が止まる。腹の中で何かが逆流するような感覚に、全身を悪寒が走る。さらに。

『オマケだア』

 腹にめり込んだニョロトノの腕が、かっと熱くなる。そこから発せられたエネルギーの塊がゼロ距離でおれの体を焼き、腹の底が爆発するんじゃないかという衝撃と共に、エネルギーの塊もろともおれの体を吹き飛ばす。

『ぐっ!? がぁああっ!!』

 そんな、喉をざらつかせるような悲鳴を絞り出すのが精一杯だった。弾き飛ばされたおれの体は空中を舞い、べちゃっと泥の上に落ちて、転がる。泥が口の中に入って苦い味が広がる。それでもそれを吐き出そうとするのも困難で、息もまともにできず、おれはやっとの思いでがはがはと咳き込む。

 今のは、“きあいだま”だ。本来なら、毒のポケモンであるおれには効果の薄いはずの技。なのに、これほどの威力だなんて。こいつがこの沼地のボスなのは、ただ雨を降らす力があるからってだけじゃあなさそうだ。
 そして、同時にわかったことがもうひとつ。まさか、こいつも――

『なア、おい。ゲロわかってんだろーなア、グレッグル?』

 這いつくばるおれに、ニョロトノが高圧的な声をかける。言わんとしていることは、すぐにわかった。
 いつの間にか、おれたちを見ているのは、ニョロトノの取り巻きたちだけじゃなくなっている。ニョロモ、ニョロゾ、ヘイガニ、ウパーにヌオー、マスキッパ。池の淵には、マッギョやドジョッチたちも集まっている。このケンカを、見物に来たポケモンたち。それがおれたちから遠巻きに並んでいて、まるでバトルフィールドを区切る柵のようになっている。ただし、それはニョロトノの後方半円状のみ。おれの後ろには、ハスボーだけ。

『このケンカ、おめエの味方はいねエ。当然だア。みんな雨を望んでる。おめエだってそーだろオ?』

 ああ、そうさ。太陽なんかクソくらえ。ずっといい天気のままがいい。みんな、そうに決まってるさ。
 ニョロトノのおかげで、もともと荒れ地だったこの土地は、おれたちが棲める沼地になった。そのニョロトノに刃向かうってことは、つまりこの沼地のポケモンたち全員を敵に回すってことだ。ああ、そうだ。そんなことはわかってる。

 本当に、どうしちまったんだろう? おれだって、この土地は今のままの方が都合がいい。けど、それでも。おれが、戦わなくちゃならないのは。

 おれは、後ろを振り返る。雨雲に開いた、青空の穴。そこから差し込む、忌々しいはずの光。その下で今も踊っているであろうあいつの姿を、おれは思い浮かべる。ここからじゃ、ちょっと遠くて見えないけれど。
 優雅に、とても楽しそうに。甘いかおりと花びらを舞いあがらせて。
 そんなふうに、あいつはまた、踊れているんだろうか?

『また、見てえんだよ』

 おれは、“声”を絞り出す。

『だから、それを壊されたくねえ』

 ニョロトノは、眉をひそめるように表情を歪ませ、おれを見る。

『それが、おめエの体を焼く、クソッタレな光でもかア』
『あんた、わかるか』
『ア?』
『あいつ、また、会いてえんだとさ。そのために、花畑を作るって。ヤクソクなんだってよ』

 ニョロトノの表情が、少しだけ、変わったような気がした。おれは、構わず続ける。

『なあ、あんた、わかるか。おれたちと同じ、ニンゲンに捨てられた、あんたなら』

 ざわ、と、周りのポケモンたちが少し驚いた顔をして、戸惑ったように互いの顔を見合わせる。
 確信まではしていない。けど、きっとそうなんだろう。もとより、珍しい能力を持ったポケモンだ。その上さっきの技は、野生で暮らしてるだけじゃあ、覚えることはないはずだ。
 ニョロトノは、特に否定も肯定もしなかった。ただ、うっすらと笑って、静かに答える。

『わからねエなア』
『そうか。おれもだ』

 わからない。おれはもう、アイツに会いたいなんて思っちゃいないから。
 だから、わからないけど、でも。

 それでもレイハは、寂しそうに、笑ったんだ。

『まだ、やンのかア』
『当たり前だろ』

 おれは、技の構えをとる。バトルの時、アイツがよく指示した技。押しつけがましい技名で、嫌になっちまうことも多かった。けれど、それであんだけの威力が出せちまうんだ。つまりは、そういうことだったんだろうな。
 もう、アイツに返すことはできないけれど。悪いが力だけ、貸してもらうよ。



― 5 ―

『さすがに、もオ終わりかア』

 動けない。全身ボロボロに痛めつけられて、もう、どこが痛いのかもよくわかりゃしない。

『よくがんばったんじゃねエかア。こンだけもつとは、正直思わなかったぜエ』

 ニョロトノにも、ダメージはあるはずなのに。ケロリとしやがって、クソッタレ。

『なかなか、ゲロ根性の据わったヤローだア。わかってるぜエ。こうしてる間にも、おめエはこの雨のおかげで、ちびっとずつ回復していやがる。這いつくばりながら、また動けるようになんのを待ってんだろオ? けど、ここらでもうやめときなア』

 全部、見透かされている。バトル慣れしてるんだ。進化もできないままに見限られた、おれなんかよりもずっと。

『この雨はよオ、ワシが降らせてんだぜエ。ワシが回復させて、またワシが殴る。バカみてエだよなア。けどそのうち、雨じゃあ治りきらねえトコロを、ゲロぶっ壊しちまうかもしれねエ』

 ああ、その通りだ。やめた方がいい。このままじゃ本当に、体がどうにかなっちまう。
 それに、仮に勝てたところでなんになる? おれはこの沼地のボスに刃向かった。みんなのために、ここに雨を降らせてくれているボスに。勝ったところで誰もおれのことなんか、ましてやレイハのことなんか、認めてくれるはずがない。
 だけど。

『なンで、立ち上がる?』

 なんのために?
 わからない。

 ただ、ここでやめちまったら。
 あいつが間違ってるって、認めちまうみたいじゃないか。
 だから、これは、おまえのためなんかじゃない。

『グレッグル!? これ、どういうこと? なにやってるの?』

 けっこう騒いじまったから、さすがに気付いたんだろう。背中から、透き通るような、それでいて耳に残る、くすぐるような“声”が聞こえる。来ちまったのか。また、おれなんかのために。踊りを中断して、雨に濡れて。

『なんでそんなに、ボロボロなの? そんなになるまで、どうして……!』

 大丈夫だよ。違うんだ。おまえのためなんかじゃない。おまえのせいなんかじゃない。だから、そんな悲しそうな“声”を出さないでくれよ。そんなおまえを見たくないから、おれは。

『よオ、また会ったなア、キレイハナ。おめエがオトしたこのグレッグルは、このザマだぜエ。役に立たねエナイト様だったなア』
『……!』

 後ろにいるレイハが、硬直するのがわかる。

『平和な沼地をカラッカラにしてくれた上、こんなくだらねエ真似までさせてくれてよオ。なア、どうしてくれる?』
『だま、れよ』

 それだけ言うのが、精一杯だった。けど、立てる。まだやれる。これ以上こいつに、好き放題言わせやしない。

『ほオ、喋れるくらいには回復したかア。よかったじゃねエかキレイハナ。……ンン、ああそうだ、ゲロおもしれエこと思いついたぜエ』

 ニョロトノがいきなり、おれの胸ぐらをつかみあげる。やっぱり力の差は大きい。体もこいつの方が二回りくらいでかいし、今の力じゃあらがえない。

『ワシとしてもよオ、いいかげん、こいつを殴んのもバカらしくなってきたとこでなア。せっかくだ、お互いの立場ってモンをハッキリさせて、和解といこうじゃねエか』

 そう掠れた“声”で言いながら、ニョロトノはおれをつかみあげたままずんずんと歩く。べちゃべちゃと地面の泥が音を立てるが、やがてそれは、ぺたぺたと乾いた音に変わってくる。

『後ろ見てみろよオ、グレッグル。“いい天気”だろう?』

 わずかに首だけを動かして、ちら、と視線で後ろを振り返る。けれど、振り返るまでもなくわかっていた。ちりちりと、わずかに皮膚を焼く感覚。そして案の定、おれのすぐ後ろには、空の穴から強い光の降り注ぐ、雨と晴れとの境界が位置していた。
 いつの間に、こんな近くまで広がってたんだ。おれがボロボロにやられている間にも、レイハはがんばって踊っていたんだな。これから何をされるのかなんとなくわかりながらも、おれはどこかそんな、穏やかな気持ちになってしまう。
 けれど、だからってあの憎たらしい太陽が、優しくしてくれるわけじゃない。

『なア、グレッグル。そんなにこのクソッタレな青空が好きならよオ、じっくりと、味わわせてやるぜエ』

 そう言ってニョロトノは、ぐいと腕を突き出した。雨と晴れの境界、その先へ。おれの胸ぐらをつかんだ腕を、太陽の下へ。

『ぐ、ああ、あッ……!』

 体の表面が乾いていく。水分が奪われていく。眩しくてろくに目も開けられず、けれど閉じたまぶたの上からでさえじりじりと目を、全身を焼かれ、熱いような痛いような苦しみに襲われる。

『グレッグル……!』

 レイハが駆け寄ってくるが、ニョロトノの取り巻きのニョロゾたちに止められる。
 レイハ、無茶すんな。おまえだってボロボロにやられた体で、ずっと踊ってたんだろ。

『そこでよオく見てろよオ、キレイハナ』

 ニョロトノが、掠れて声でくつくつと笑う。

『おめエの世界とこいつの世界は、相容れねエ』
『……!』

 レイハは何も言い返さない。ただ、おれのことを心配そうに、悔しそうに、悲しそうに見ているのがわかる。ろくに目も開けられないけれど、あいつがどんな顔をしてるのかは、わかる。
 そうしている間にもおれの体はどんどんと水分を失い、肌を焼く痛みに全身の力が奪われていく。なにも、できない。このままだと、意識が落ちるのはそう遠くない。命にも関わるだろう。

『ふん』

 と、ニョロトノが鼻を鳴らして、すっとおれをつかむ腕を下げた。そして、おれの体を乱暴に放り投げる。境界の“こちら側”、雨の降る方へ。

 照りつける太陽の下から降り注ぐ雨粒の下に戻され、泥の上を転がったおれの体は、急速に水分を求め、雨も泥もみんな吸収しようとする。全身が少しずつ、潤されていくのがわかる。どうにか生命を取り留めつなげたおれの体は、心にも大きな安堵を与えていく。

『わかるだろオ、グレッグル』

 ちくしょう。

『おめエは、“こっち側”だア』

 ちくしょう。

 体は、正直だった。その体と心は、嫌でもつながっている。安堵している。安心している。喜んでいる。この雨の下にいられることを。嫌っている。拒んでいる。あの太陽に下にさらされることを。
 仕方ないんだ。おれはグレッグル。そういうポケモンなんだ。無理なことなんだ。不可能なんだ。あいつと、レイハと、同じ場所で生きるなんて。仕方ないんだ。おれたちは、全く違う場所で生まれ、まるで違う場所で生きていく、そういうポケモンなんだから。

『グレッグル……?』

 ああ、そうさ、仕方ない。体のつくりが違うんだ。心だけでも一緒でいれたらなんて、そんな都合のいいこと出来やしない。

『グレッグル、やめて。それいじょうそんなムチャしたら、グレッグルがしんじゃう!』

 仕方ない。ああそうだ仕方ない。

 それで? だから?

 そんなくだらない理由で、あきらめられるわけ、ないだろ。

『グレッグル! もういいよ! ほんとにしんじゃう! もうやめて!』

 よお、クソッタレな太陽。やってみろよ。おまえがおれを、焼き尽くせるっていうんなら。この心まで、焼き尽くせるっていうんなら。やってみろよ、この野郎。

『おめエ、なに考えてやがる。ゲロイカレてんじゃねえのか。日差しにあてられて、頭がやられちまったかア』
『……ゲロゲロうるせえよ、ゲロボス野郎』

 おれは、立ってる。立ってるんだ。雨の中だろうが太陽の下だろうが、好きなところに立ってられる。

『これで、わかっただろ……。ちょっと、空に穴が開いたくらい……ゲロゲロ騒ぐほどのことじゃ、ねえだろうが』

 水分が奪われていく。全身が焼かれている。もう痛いのか熱いのかよくわからない。
 だけど。それがどうした。

『わかったら……、もう、手を出すな。おれはさ、花畑が、見たいんだ。ジャマ……、すんじゃねえよ』

 あの、優雅で、軽やかで、キラキラしていて。そんなあいつの、楽しそうに踊っている姿が。そんなあいつの夢が、ヤクソクが叶うところが。
 おれはただ、見たいんだよ。



― 6 ―

『――ル、グレッグル、グレッグルっ!』

“声”がした。透き通るような、それでいて耳に残る、くすぐるような可愛らしい“声”。だけど、どうしてそんなに、慌ててるんだ。どうしてそんなに、悲しそうなんだ。
 鼻孔をそっと優しくくすぐるような、あまいかおり。おれはその“声”とかおりに導かれるように、重たいまぶたを、そっとこじ開ける。

『グレッグル! しっかりして! だいじょうぶ? わたしがわかる!?』

 わかるさ。どうしたんだよ。泣いてるのか? それともこれは、雨の雫か?
 そんな顔するなよ。太陽の下で笑ってるのが似合うおまえが、こんな雨に濡れて泣いてるなんて、悲しいじゃないか。

『手痛くやられたもんだねえ。無事に済んだとは言えないけれど、よくあそこまでやったもんだよ』

 この沼地での唯一のおれのトモダチの、関心というよりは呆れたように言う“声”が聞こえる。こいつ、いたのか。今までずっと傍観してやがったな。まあ、それがこいつらしいところなんだけど。

『ニョロトノたちは帰って行ったよ。全て丸く収まったとは思わないけれど、まあとりあえずは凌いだといっていいんじゃあないかな。また衝突することもあるだろうけれど……、まあ、ボクはもう止めないさ。キミの好きなように、やれるだけやってみることだねえ』

 言うだけ言ってハスボーは、くるりと背を向けて、ぺちゃぺちゃと音を立てて去って行った。その背中にレイハが、ぺこりと頭を下げる。

『ハスボーさんね、グレッグルがたおれてすぐ、これ、あつめてきてくれたんだよ。やさしいんだね』

 そう言ってレイハが指し示した方を、首だけ動かしてみ見る。オレンのみにオボンのみ。このあたりじゃなかなか見つからないきのみだ。まったくホントに、あいつらしいな。

『あ、だめだったら、むりしておきあがっちゃ。じっとしてて。こうやってあめのなかにいれば、すこしずつよくなるんでしょ?』

 レイハはそう言っておれの体を押しとどめる。仕方ない、もうしばらくこのままでいよう。体の下にはあの時と同じように水草がしっかり敷いてあって、ちょっとチクチクして痛いんだけれど。

『ねえ、グレッグル。どうして、あんなムチャしたの? わたし、こわかったよ。グレッグルがたたかってるのをみたときも、ボロボロなのをみたときも、じぶんからたいようのしたにたったときも。ねえ、どうして、あんなこと』

 雨粒に濡れたレイハの体は、ひどくきれいに見えた。太陽の下で笑って、楽しそうに踊っているレイハはきれいだ。けれど、こうして雨の中にいても、花はきれいなんだ。

『……なあ、レイハ』

 おれは、思う。確かに、おれたちは生まれた場所も、生きていく場所もまるで違う。ニョロトノの言うように、レイハの作った晴れ空と雨雲の間にはっきり境界があるように、おれたちはもしかしたら相容れないのかもしれない。
 だけど。

『言ったよな。ずっと雨ばっかりじゃ、花は咲かない。けど、晴れだけじゃ、枯れちまう。晴れと雨が、一緒じゃなきゃダメなんだ、って』

 ここには、雨の方が都合のいいポケモンたちばかりが棲んでいる。だからこれまでは、それでよかった。おれも、ずっといい天気だったらいいのにって今でも思う。
 だけど、青空の下で咲く花畑は、きっときれいなんだろう。その中で踊るレイハは、もっときれいなんだろう。おれは、それが見たい。
 だから。

『うん』

 レイハは、にっこりと笑って頷いた。
 雨の中で。太陽みたいに。

『そうだよ、グレッグル』


感想フォーム

 ログインすると感想を書くことができます。

感想

お名前:ioncrystal さん
何をきっかけに影丸さんがこの話を考えついたのか気になりますが、グレッグルの感情が手に取るように理解できてしまって。どこかで同じような思いをした気がするんです。こんな風に人を好きになった事ないはずなんですけどね。
苦しまなきゃ大切なものは手に入らない、という辺りかもしれませんが、そうした努力なんてした覚えありませんし、今の感傷を啓発本に出てきそうな警句にまとめたくないです。ずっと卑近な現実ですし、そこがこの話の核ではないですし。(そう感じただけですが。)
うまくポケモンの設定を生かしてる一方、感情描写は人間的でできの良いファンタジーのようで。
ふと、レイハにとってずっと日照りの方が都合が良ければ、彼ら(レイハもハスボーもグレッグルもです)はどう行動したのかな、と思いました。
ここまで心動かすのだから、雨パコンビも作者も罪深い。
はじめましてのioncrystalが長々と感想書かせて頂きました。
書いた日:2015年10月22日
作者からの返信
お読みいただき、ご感想をいただきありがとうございます!!
お返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。

本拙作は第1回目の覆面作家企画に投稿する目的で書いたものでした。お題が雨と太陽という一見相反するもので、それをヒントに一見相容れない世界で生きるポケモンたちの接触を書いてみたのです。けれど、あくまで相容れないのは一見、つまりひとつの考え方でしかない。それを破るのがレイハの語ったことでした。
グレックルの気持ち、共感していただけてとても嬉しいです。キャラクターの心を理解してもらえるというのはこの上ない喜びで、書いてよかったなんて思ってしまいます。きっとioncrystalさんのなにか素敵なご経験と重なったのかなと思うのですが、この物語もそのご経験のひとつに加えていただけますと嬉しいです。
レイハがもし日照りのみを求めるポケモンであったなら、きっと彼らの関係は全く違うものになっていたと思います。レイハが相容れない以外の考えを持っていたからこそ歩み寄ることができたのであって、そうでなければグレックルの気持ちは報われなかったかもしれないし、より過酷で残酷な展開もあったかもしれませんね。

改めまして、はじめましてでした。これからもよろしくお願いいたします!
遅くなってしまいましたが、ご感想本当にありがとうございました!!
書いた日:2015年12月31日
お名前:T・P・Rさん
T・P・Rです。
こんにちは。

ポケモンしか出ない話っぽいので、ほのぼの系の話を期待しつつ読んでみたら、想定外にシリアスでヘビーな話で度肝抜かれました。

ポケモンだけなのに、しっかり人間ドラマ、それもいろんな意味でドロドロな関係が描かれていてものすごく引き込まれました。
こういうキャラクターの心に重きを置いた作品はどうしても僕には書けないのでうらやましいです。

短期間で日差しと雨を交互に繰り返したりしたら温度差と湿度差で蜃気楼やら濃霧やらが発生して何も見えなくなるだろうとか、キレイハナがその気になったら、タイプ相性的に水ポケモンなんか一気に蹴散らせるんじゃないかとか、そんな小賢しいことばかり考えてしまった自分がいかに薄汚れてるか実感しました・・・

すばらしい作品をありがとうございました。
書いた日:2012年08月21日