銀色の思い出

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作者:影丸
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読了時間目安:145分
2011.09.03. 投稿
2012.01.29. 更新
2012.02.13. 更新
2012.04.22. 更新
2014.11.03. 更新





【prologue】

 あの日、僕たちは見た。
 蒼く、どこまでも透きとおって蒼く。
 その蒼の中で、儚く、力強く、輝いていた銀色。
 それは、僕たちにとって、大切なもの。かけがえのないもの。
 だから、あの日は僕たちにとって、大切な日。かけがえのない思い出だ。
 そう、たとえ……


 いつか僕たちが、それを忘れてしまったとしても。





【part.A Kosuke】


 蒼い海、蒼い空。今僕のまわりに見えているものは、それだけだ。蒼く高く晴れ渡った空は、雲ひとつない快晴。絶えず静かに波の音を立てている海は、そんな空を映して蒼く、深く深く透き通っている。
 そんな穏やかな世界の中を、僕たちはのんびりと進んでいた。僕たち、というのは、僕と、僕が今背中に乗っている相棒のことだ。相棒は僕を乗せて泳ぎながら、ふいに大きな欠伸をし、僕もそれにつられた。新鮮な海の空気を思いっきり吸い込んで、大きく伸びをする。こんなにのん気にしていていいのかって言うくらい、僕たちはのんびりと進んでいた。
 急ぐ旅ではないのだ。のんびりしていて何が悪い。
 透き通った空を見上げながら、誰にともなくそんなことを思った。

 僕の名前は、ウガミ・コウスケ。職業、と言えるほどのものじゃないけれど、ポケモンウォッチャーっていうのをやっている。読んで字のごとく、主に野生のポケモンを観察し研究する仕事のことだ。仕事といっても、別に僕はどこかの研究所に所属して、研究の資料集めなんかをしているというわけではない。つまりは、趣味のようなものだ。
 今、僕を乗せて泳いでくれている相棒の、名前はタキ。種族はカメックス。カントー地方ではポケモントレーナーが旅立ちの時にもらうポケモンとして有名な三匹のうちの、ゼニガメの最終進化形態だ。でも僕は、カントー地方でゼニガメをもらって旅に出たわけじゃない。本当に珍しいんだけど、怪我をしていた野性のカメールを見つけて、つれて帰って治療してやったら、そのまま家にいついちゃったんだ。旅立ちの時にもらえる三匹の種族は、野生では生息地が不明って言われるくらい本当に珍しいポケモンたちだから、もしかしたらタキは、誰かに捨てられたポケモンだったのかもしれない。ともかく、今は僕にとって大切なパートナーだ。

 僕は、いずれ本当に研究所とかに入って本格的にウォッチャーになるのもいいと思っている。けれど今は、多くの少年少女がそうであるように、単にポケモントレーナーとして各地を旅しているという身分だ。まだ十七歳だし、そんなに急いで将来決めることもないだろう。というか、そもそもなんで、僕はポケモンウォッチャーになろうと思ったのか。それが、どうしても思い出せないんだ。気付いたら、いつの間にかやってたっていう感じ。何かきっかけがあったはずなんだけれど、どうしてか思い出せないんだよな。

 そうして、のんびりと海を漂っているうちに、見えてきた。まだ島のシルエットがぼんやり見えるだけだけれど、見間違えようもない。だって、今まで幾度となく見てきた、僕の生まれた島の姿なのだから。

 この「オレンジ諸島」に点在する数々の島の中では、比較的大きな部類に入る島。そのすぐ傍には、火、雷、氷をそれぞれ司る、三つの小島が浮かんでいる。
 アーシア島。オレンジ諸島の海の果て。古代から海の神が住むといわれている、いわく付きの島。三方を山に囲まれた入り江に面して、人の営みが築いた町が見える。
 僕は今日、この生まれ故郷に帰ってきた。確かこれが、二、三年ぶりくらいの帰郷になる。そう考えると、とたんに懐かしくなってきて、僕はだんだんと近づく大きな島の姿を、ぎゅっと見つめた。

 船で来たわけではないから船着場は避けて、僕たちは手ごろな海岸から上陸した。タキはさすがに疲れたみたいで、上陸したとたんに、うつぶせのままごろんと砂浜に寝そべった。ずっと海の上を浮かんでいたから、いきなり陸にあがると、なんだか少しふらふらする。僕はぐっと足に力をこめてまっすぐに立ち、久しぶりに見る故郷の砂浜を踏みしめた。
 小さい頃から、この砂浜ではよく遊んだ。僕には、その頃からずっと一緒だった三人の親友がいる。ここは、その親友たちと、毎日のように遊びに来ていた場所だ。なんだかすごく懐かしいのと、海ががきらきらと太陽の光を反射してまぶしいのとで、僕はすっと目を細めた。

 と、ふいにタキがのっそりと立ち上がった。カメックスは体の大きいポケモンでその分体重も重いから、あまり素早い動きは得意じゃないんだけれど、そのタキにしてはなんだかしゃきっとした立ち方だった。まるで、何かを感じ取ったみたいに。もしかしたら野性のポケモンが襲ってきたのではと思って、僕もすぐにタキの視線を追う。と、そこには、いつの間にか二体のポケモンが近づいてきていた。一体は砂の上から、もう一体は水の上から。
 砂の上のポケモンは、全身がつんつんに跳ねた黄色の毛で覆われて、四本足で立ち、耳が大きいのが特徴のポケモン。かみなりポケモン、サンダース。水の上のポケモンは、タキよりもさらに体が大きく、水色の体に長い首、背中にごつごつした甲羅のようなものを持つ、優しそうな目をしたポケモン。のりものポケモン、ラプラスだ。
 タキは二匹の姿を見たとたん、すぐに自分も二匹の方に近づいていく。サンダースは元気いっぱいに駆け寄ってきてタキの周りをぐるぐると回り、ラプラスのほうも、砂浜に乗り上げてきて嬉しそうに頭をタキに摺り寄せている。そんな二匹に囲まれて、タキもすごく嬉しそうだ。
 それは、どう考えても初対面の応対ではない。僕自身、この二匹には見覚えがあった。というか、昔からとてもよく知っているポケモンたちだった。

「なんで、お前たちがここに? じゃあ、もしかして……」

 僕は、サンダースたちがやって来たほうをよく見て、探した。何をって、決まっている。このポケモンたちの、トレーナーたちをだ。そして、すぐにそれは見つかった。あまり背の高さの違わない少年と少女が、二人。向こうも、ちょうど僕の存在に気付いたところだったらしい。一人は手を振りながら、もう一人は全力疾走といった様子で、こちらに駆け寄ってきた。

「おーい、コウスケ!」

 僕の名を呼びながら全力疾走で突っ込んできた少年が、はあはあと荒い息をついて止まった。僕は、その少年の顔をまじまじと見て、確かめる。

「アキラ? アキラか?」
「そう、だよ! 他に、誰が、いるって、んだよ!」

 少年は、手を膝について息を切らしながらも、そう言ってぐっと親指を立てて見せた。

「とりあえず、呼吸を整えてから喋れよ」

 僕は少し呆れながら、苦笑混じりに言ってやる。それから、遅れてやってきた、先ほど手を振っていた方の少女に顔を向けた。

「スズネ、久しぶり」
「うん、久しぶりだね、コウスケ」

 彼女はそう言って、にっこりと笑った。
 この子の名前は、スズカゼ・スズネ。年は、僕と同じ十七歳。確か今は、ポケモンコーディネイターを目指して旅をしていたはずだ。
 少年の方は、ミナミ・アキラ。こっちはひとつ年下の十六歳。同年代の多くの少年少女がそうであるように、ポケモンマスターを目指してトレーナー修行をしている。
 この二人こそ、僕が小さいときから一緒に遊んでいた、三人の親友の内の二人だった。
 ちなみに、さっきのサンダースは、名前がラムネ。アキラの幼い頃からのパートナー。一方ラプラスの方はスズネのパートナーで、名前はナギ。朝と晩に風が止んだ時の、穏やかな海の名前だ

 どうして、このふたりがそろって島にいるんだろう。スズネもアキラも僕と同じように、普段はオレンジ諸島を離れてそれぞれ旅をしているはずだ。僕は島に帰ることを特に誰にも伝えていなかったはずだし、偶然三人が同時に帰ってくるというのも、不思議な話だ。

「どうしたんだよ、二人そろって帰って来てるなんて。スズネは確か、前にどこか遠くの地方に行くとか言ってなかったっけ。アキラも、今年はジョウトのジムめぐりに挑戦するって言ってなかったか?」
「えっとね、わたしもついさっき、島に着いたばっかりなの。砂浜に着いたら、ちょうどそこにアキラも来てて。それで、偶然だねって、話してたとこだったんだけど」

 僕の質問に、スズネは丁寧な答えを返す。スズネは親しい間柄の相手でもいい加減な受け答えはしない。必ずきちんと相手のことを考えた返答をする、とてもまじめな性格だ。
 一方、すっかり呼吸を整えたアキラは、僕を不思議そうに見て聞いた。

「お前こそ、どうしたんだよ。なんでいきなり帰ってきたんだ?」
「なんでって、それは……」

 正直、それがわからないんだ。どうして急に、戻ってこようと思ったのか。その理由が、まったく思い当たらない。ただ……

「なんとなく、だけどさ。戻ってこなくちゃいけないような、気がしたんだ。どうしてなのか、よくわかんないんだけど」
「コウスケも?」

 スズネが、驚いた声を出す。

「実は、わたしもなの。わたしだけじゃなくて、アキラも、同じなんだよね?」
「おう、そうなんだよ。ホント、なんかよくわっかんねえんだけど、急に帰りたくなったっていうかさ。なんでだろうな?」

 驚いた。
 まさか、二人も同じだったなんて。

 アキラは、アーシア島を旅立ってからもたびたび連絡をとっていたけど、普段からよくわかんない理由でいろんなところをうろちょろしてるヤツだから、どこにいてもまあ大して驚かない。
 でも、スズネは、そういうタイプじゃなかったはずだ。確かにちょっととぼけたところはあるけれど、でもスズネは基本的にしっかり者で、そんなふうに曖昧な理由でこんな遠いところまでふらふらしていくような子じゃない。

 僕たちがそろって首を傾げる傍らで、タキたちは楽しそうに跳ね回っていた。サンダースのラムネは見ての通りのやんちゃ者だが、ラプラスのナギのほうは、一般的なラプラスがおとなしい性格だといわれるのに反して、ラムネに負けず劣らずの元気っ子なんだ。二匹に比べるとおとなしいほうであるタキは、なんとなく二匹にふりまわされがちなところがあるが、それも昔からのこと。驚くほど何にも変わっていない三匹を見て、僕はなんだかほっとする。

「まあ、なんだ、ここでいつまでもぐだぐだ悩んでてもしょうがねえよな。せっかく久々に三人そろったんだからよ、どうせなら、四人そろわなきゃウソだよな」
「あ、そっか! サツキは、まだアーシア島に住んでるんだもんね。コウスケ、会いに行こうよ!」

 とたんに、スズネは元気な声を出す。シゲモリ・サツキ。僕の昔からの親友の三人目だ。
 そういえば、サツキとは、アーシア島を旅立ってから何度か電話をしただけで、以来ほとんど会っていない。そう考えると、僕も急にサツキに会いたくなってきた。

「そうだな。せっかく来たんだし、久しぶりに四人で集まろうか」
「決まりだな! よし、早速行こうぜ!」

 そう言ってアキラは先陣を切って走り出し、僕とスズネは慌てて後を追った。タキたちも気付いて、急いで追ってくる。

「おい、待てよ。走んなくてもいいだろ」

 既に背中が小さくなくなりつつあるアキラに向かって、僕は叫ぶ。せっかちで慌ただしいところは、昔から変わらない。
 僕は溜息をつき、それからスズネと目が合って、どちらともなく互いに笑った。そして、競争するようにしてアキラを追いかけた。


   * * *


 サツキの家は、アーシア島の、比較的街中の方にある。アーシア島は、オレンジ諸島の中では比較的大きな島で、大きな集落のある町だ。とはいっても、本土のカントー地方やジョウト地方にある大都会に比べたら、町の規模も活気もずっと小さいけれど。
 けれどその分、この島には木々の緑もたくさん残っている。あまり賑やかなのが得意でない僕にとっては、これくらいがちょうどいい。
 サツキの家は、そんなアーシア島の町の中でもかなり大きな家だ。位置的には、お社の近く。ちょっと古い感じのする家だけど、それだけに情緒というものがある。

 僕たちは、街の中を道行く人たちと挨拶を交わしながら歩く。僕たちにとって、島の住人の多くは知り合いだ。島の集落というのは、それが小さな島であるほど、自然と大半が知り合いになる。アーシア島も例外ではなくて、途中僕らは何度となく声をかけられ、時にはお茶に誘われたり世間話につき合わされたりで、サツキの家のそばまで来るのに結構時間がかかってしまった。
 どういうわけか、今日はいつもよりもやけに歩き回っている人が多い気がする。おかげで、島に着いたのは午前中だってのに、今はすっかりお昼過ぎ。お腹は空くし、夏の日中だからもう暑いのなんので、僕たちはくたくただった。
 でも、ようやく久しぶりにサツキに会えるとなると、そんな疲れも吹き飛んでいく。とりわけアキラは、やけに嬉しそうにはりきっていた。

 なんとなく代表のように僕がチャイムを鳴らすと、サツキのおばさんの声が返ってくる。僕たちが名乗ると、おばさんは驚いたような興奮したような声で、すぐに開けるからと言った。それからすぐに家の中から、おばさんのどたどたという足音と、なにやら騒いでいるような声が聞こえてくる。僕たちがおとなしく待っていると、やがてカラリと音を立てて、扉が開いた。しかし、顔を出したのは、サツキのおばさんでも、サツキ本人でもなかった。その顔を見て、僕たちは失礼にも一斉に「あっ」と声を上げた。見覚えのある、というより、島の人なら誰もが知っているであろう人物の顔が、そこにあったからだ。

「アオイさん!?」
「やあやあ来たねー。三人とも久しぶりっ。そろそろ、来る頃じゃないかなーと思ってたとこだよ」

 引き戸になっている扉をカラカラと開けて出てきた女性は、そう言って愛想よく笑うと、僕たちの頭を順番にポンポンと叩いた。明るい茶色をした長い髪をお下げにして、利発で愛嬌のある顔をした島の有名人は、僕たちの顔を見て、にっこりと笑う。

「コウスケに、スズネに、アキラ。みんな元気そうね。ったく、ずっと連絡もよこさないで、どこほっつき歩いてたんだか。でもまあ、今日に間に合っただけ、よかったことにしてやるか」
「アオイさん、どうしてサツキの家に?」

 そう、アキラが訊いた。アオイさんは、とたんに怪訝そうな顔をする。

「なんでって、そりゃあ当然、サツキの身支度手伝ってるに決まってんでしょうが。あたしの後輩巫女の、最後の晴れの舞台だもん。そりゃあ、手伝いにくるわよ。……って、あんたたち? なに、呆けた顔してんの? あんたたち、明日からお祭りだから来たんじゃないの?」
「お祭り!?」
「明日!?」

 僕とスズネは、同時に声を上げていた。


   * * *


「へえ、じゃああんたたち、ホントにお祭りのこと忘れてたんだ。それなのに三人そろって偶然帰ってくるなんて、不思議なこともあるもんねぇ」
「ホントに、驚きました。どうりで、街にあんなに人が多かったんですね。そういえばみんな、ちょうちん運んだりやぐら立てたり、忙しそうにしてました」
「それでもここに来るまで気付かなかったあんたたちの鈍さの方が、あたしにはよっぽど驚きだわ」

 驚き、というよりも、呆れといった表情で、アオイさんは言った。

 このアーシア島には、一年に一度、大きなお祭りがある。島全体をあげて行われるお祭りで、なんでも古くからこの島の近海に棲むという海の神の伝説に基づいて行われる、一種の儀式のような物だ。
 儀式といっても、特に難しいことをするわけではない(と、巫女役の少女は旅人に言う)。そのときに島を訪れたポケモントレーナーに“優れたる操り人”という伝説中の登場人物役をやってもらい、アーシア島の周りにある三つの島に安置された“宝”を集めてもらう。そしてその“宝”をアーシア島の祭壇に並べ、巫女が神々を鎮める笛を吹く。それが、儀式の大まかな流れだ。

『火の神、雷の神、氷の神に触れるべからず。されば天地怒り、世界は破滅に向かう。海の神、破滅を救わんと現れん。されど世界の破滅を防ぐことならず。優れたる操り人現れ、神々の怒り鎮めん限り』

 これが、アーシア島に古くから言い伝えられている海の神の伝説だ。僕たちも含めて、この島の住人は誰もが幼い頃からこの伝説を聞かされ、島で知らない者は一人もいない。そうはいっても伝説は伝説だから、ほとんどの若い人たちは、お祭りを盛り上げるための余興話くらいにしか考えていなかった。今から数十年前の、ある事件が起こるまでは。

 僕らが生まれるよりも前の話だ。でも、そのときのことは、小さいころから海の神の伝説とともに何度となく聞かされてきたから、まるで自分で見たことのようによく知っている。正直聞かされるだけの僕たちとしては何度も同じ話をされたら飽きるばかりだが、話す側の大人たちはとても生き生きとそれを語る。無理もないとは思う。それこそ生まれたときから聞かされていた伝説が、目の前で現実になったのだから。

 この大事件のそもそもの発端は、ジラルダンという名の一人のコレクターだったらしい。その男は、このアーシア島周辺の三つの島にそれぞれ住んでいる、神と呼ばれている伝説の鳥ポケモンたちを、次々に捕まえていった。
 しかし鳥ポケモンたちは男の飛行艇から逃げ出し、怒り狂ってめちゃくちゃに暴れ始めた。この島の周辺には世界の自然を司るといわれる海流が流れているらしく、そんな場所で強大な力を持つ伝説のポケモンたちが暴れたものだから、それは異常気象として、広い範囲で大きな影響を及ぼした。
 そんな鳥ポケモンたちの暴走を阻止しようと、海底から、「それ」は現れた。
 大昔から海の神として語り継がれていた伝説のポケモン、ルギア。
 ルギアは、そのとき偶然この島を訪れていた“優れたる操り人”と協力し、巫女の持つ笛の力を借りて、見事に神々の怒りを鎮めた。

 これがこの島で新たな伝説になるつつある事件であり、そして今僕たちの目の前にいるこのアオイさんを有名たらしめている理由でもある。
 事件当時、笛を吹いて神々の怒りを鎮めた巫女は、今の僕たちよりも幼い少女だった。当時の写真は大人たちから何度も見せられていて、その中には当然その少女の写真もあった。
 そして、このアオイさんは、当時の巫女たる彼女の再来とまで言われるくらい、その少女とよく似ているのだ。

 お祭りで巫女を務めるのは、ある家系の女性と決まっている。要するにアオイさんはその少女の血縁者なのだから、似ていても特に不思議ではない。不思議ではないのだが、大人たちからすると、本当にびっくりするほど似ているのだという。
 アオイさんは確か今年で22歳。さすがに事件当時の少女の写真と見比べてそっくりというのは無理があるが、それでも確かに、僕たちから見ても面影みたいなものは感じるのだ。まるで写真の少女がそのまま成長したみたいに。

 ついでになるが、事件当時巫女を務めた少女は、巫女の役目に対して最初は極めていい加減だったのだという。古き良きものに対する親しみなんてものは持ち合わせておらず、簡単に言えば、彼女は現代っ子だったのだ。
 そしてこのアオイさんもまた、五年ほど前まではお祭りの巫女を務めていた。その少女にそっくりであったアオイさんに大人たちはここぞとばかり大喜びしたが、残念なことに、アオイさんはその少女以上の現代っ子だった。数年間と務めるうちに多少変わっては来たらしいが、そんなところまで「再来」だったということで、アオイさんは今じゃ島で二番目の有名人である。

 そんなアオイさんも、五年前、巫女役を引退した。例の事件以降巫女の役目は島中の女の子たちの憧れになったらしいが、アオイさんの最後の巫女姿がまたあんまりにも格好良かったものだから、その次の巫女になる少女が選ばれるとき、島中の女の子の誰もが一層その役目を羨ましがった。
 でも、先の通り巫女は、昔からその職を受け継いできた家系の生まれでないとなれないと決まっている。いくら羨もうとも、その血筋に生まれなかった人間には、どうしようもない話。
 そして幸運にも、その誰もが羨む偉大な職についた女の子こそ……

「ふふ、さあみんな、お待たせ。巫女様のお出ましよ」

 そう、ふすまで仕切られた部屋の向こうから、おばさんの声がした。雑談をしていた僕たち四人の視線が、一斉にそちら向かって注がれる。そして、ゆっくりとふすまは開き、一人の、小柄な少女が姿を現した。

 薄いヴェールの下に覗く、縁の細いメガネをかけた、利発そうな、しかしまだ幼さのこる少女の顔。おとなしそうな印象のスズネとは対照的に、少し気の強そうな整った顔立ち。ふわりとしたロングスカートのワンピースを着たその巫女の姿は、どこかあどけないながらも、本当にきれいだった。
 うっすらと化粧をしているようだが、ほほが赤いのは多分そのせいだけじゃない。照れたようにそっぽを向いたまま、むすっとした表情で少女は佇んでいた。

 しばし、僕たち四人はその姿に見とれる。特にアキラは、ぽかんと口を開けたまま、呆けたように彼女をじっと見つめていた。少女は、そんな僕たちのことを見るなり、よく通る声で、しかし表情通りのむすっとした口調で言った。

「ちょっと……あんまり、じろじろ見ないでよ。ってか、なんであんたたちがいんの?」
「わお、いいじゃない、サツキ。よく似合ってるよ♪」

 アオイさんは、少女の、サツキの全身をじっくりと見て、満足そうに言う。サツキは、困ったような、照れたような顔をして、ぷいと顔を背けた。

「うん、アオイさんの言う通り。本当によく似合ってる。きれいだね、サツキ」

 自分のことのように嬉しそうに、スズネは素直な褒め言葉を口にする。スズネは、にっこりと笑って、サツキに言った。

「本当に、きれい。すごいね、ホントに巫女なんだなあ、サツキは」

 スズネの素直な言葉に、サツキの表情にある照れと不機嫌さがますます濃くなる。

「なんで、スズネたちがここにいるのよ。去年は、みんな忘れて来なかったくせに」
「え? あ、それは、その、ええと……。とにかく、きれいだね、サツキ」

 スズネは、誤魔化すのがヘタだ。サツキをこれ以上不機嫌にさせると、ちょっと怖いことになる。
 僕は慌ててフォローの言葉を探すけど、こういうときにとっさに気の利いたことを言うなんてのは、僕はスズネ以上に苦手だ。僕とスズネが困っていると、アキラが、同じく機嫌の悪そうな風を装って、口を開いた。

「へっ、こっちは、忙しい中をわざわざ会いにきてやったんだぞ。ちったあありがたく思えよな、チビサツキ」

 とたんに、サツキの表情から、照れの部分が消える。残っているのは、増幅された不機嫌さ。

「なによ、アホアキラ。急がしいったって、どうせどこに行っても勝てないもんだから、自分でも勝てるような弱い相手を探すのに大忙しなんでしょ?」
「んだと!?」
「あら、図星だった? 顔が赤いわよ、ザコアキラ」
「てめえこのマメサツキ! おれのどこがザコだって」

 ぼかっ。
 今にも掴み掛らんくらいの勢いで言い合いをするふたりの頭を、アオイさんが同時に小突いた。

「こーら、やめなってのふたりとも。仲がいいのは結構だけど、コウスケとスズネが困ってんでしょうが。夫婦漫才は他でやりなよ」

 アオイさんのしれっとした言葉に、アキラとサツキは顔を真っ赤にして、同時に叫んだ。

「「夫婦じゃないっ!!」」
「はいはい、とりあえず衣装の具合はいいみたいだから、サツキはもう着替えてきなよ。積もる話は、その後で。ついでにノロケ漫才もね」
「「ノロケてないっ!!」」

 またしても、二人の声がきれいに重なった。


   * * *


 サツキは、アオイさんの従姉妹だ。アオイさんが巫女になるときはお姉さんから代替わりしたけれど、アオイさんには妹はいなかったから、巫女の役目は、従姉妹で当時年齢もちょうどよかったサツキに受け継がれた。サツキはすごく照れ屋で、巫女になる事が決まったときは、周りから羨ましがられて、すごく困ったような、それでもどこか嬉しいような顔をしていたのをよく覚えている。

 あれから五年。サツキは、いまやすっかりアーシア島の巫女だ。サツキの毎年の晴れ舞台は、もちろん僕らはみんな楽しみにしていたし、サツキ自身も、僕らの前でだけだけれど、すごく張り切っている様子を見せていた。
 でも、いつも一緒だった四人のうち、サツキを除く僕たち三人は、それぞればらばらにアーシア島を旅立っていって、それ以来四人そろって会うことは滅多になくなった。それでも、一昨年のお祭りでは僕とスズネはちゃんと帰ってきて、再会を喜び、サツキの巫女役を応援した。
 でも去年、僕たちは、祭りのときに誰もアーシア島に戻らなかった。

 本当に、運が悪かった。誰の運なのかはわからないけれど、とにかく僕たちは、サツキにひどいことをしてしまった。
 去年の祭りの頃、僕はちょうどとある研究所から受けた臨時の仕事に追われていた。申し訳ないとは思ったけれど、ただの旅人でしかない僕にとってそれは大きなチャンスで、状況的にも、途中で放り出して帰ってこられる状態じゃなかった。僕は、サツキに謝罪の電話をかけた。その時のサツキの、元気のない受け答えで、察するべきだったんだと思う。

 三人全員が帰っていなかったことを知ったのは、それからしばらく経ってからだった。たまたまスズネと電話をしたときに彼女も帰っていなかったことを聞き、嫌な予感がして、アキラにも連絡を取ったのだ。帰れなかった理由はみんな似たり寄ったりで、誰を責めることも責められることもなかったけれど、その分罪悪感は大きかった。
 サツキには、本当に寂しい思いをさせてしまった。

 それ以来僕たちは、みんなそれぞれでやっぱり忙しかったのと、なんとなく戻りづらいのとで、誰も一度もアーシア島に戻ってきてはいなかった。そして今回、危うく僕たちは祭りの存在すら忘れて、サツキの晴れ舞台をまたしてもすっぽかすところだったのである。
 本当に不思議なことだけれど、今は、この偶然に心から感謝したい気持ちだった。

 着替えて部屋に戻ってきたときには、サツキはもうすっかり機嫌を直しており、僕たちは久々に四人でゆっくりと話すことができた。アオイさんとおばさんが、気を遣って僕ら四人だけにしてくれたおかげだ。そのことにも感謝しつつ、僕たちはおばさんが作ってくれた昼食を食べながら、まずは互いの近況を報告し合って、それぞれの旅のことを語り合った。

こんな風に話ができるのは、僕にとって、このメンバーの他にはいない。僕は小さい頃からあまり社交的な方じゃなかったし、今は旅をしている身だから、親しい友達っていうのはなかなかできない。だから、このスズネ、アキラ、サツキの三人は、僕にとっては本当に特別な親友だ。
 ところで、その近況報告の中で、ひとつ僕たちには驚きの事実があった。

「サツキ、本当に今回で、巫女引退しちゃうのか?」

 僕は驚きのあまり、そう聞き返した。確かにさっきアオイさんも、最後の晴れ舞台がどうとか言っていたような気がするけれど。それにしたって僕たちの中では巫女はサツキがやるものというのが当たり前になっていたから、驚きは隠せなかった。サツキは、さして表情を変えることもなく、こくんと頷いた。

「本当よ。あたしも、もう十五歳だしね。もう五年も巫女をやったから、そろそろいいかな、って」
「でも……わたしは、もっと見たいな、サツキの巫女姿」

 スズネが、本当に残念そうに言う。サツキは、少し意地悪そうな笑顔で笑う。

「だったら、去年来ればよかったのに。誰も帰って来ないから、あたしはてっきりもうどうでもよくなったもんだと思ってたのになあ」
「そ、そんなことないよっ。本当に去年は、忙しくて。ああ、サツキ、ホントにごめんね。ね、ホントにごめん」

 サツキの冗談に本気で慌てるスズネは、見てると正直どっちが年上なんだか分からなくなる。

「でも、何でまた急に。次の巫女候補って、まだ小さいんだろ? もう少しサツキがやってもいいんじゃないか」

 僕の言葉に、サツキは溜息混じりに答える。

「いいのよ。あたしは、もう充分やらせてもらったの。だから、もう引退」
「でもさ……」
「あっ、そっか!」

 突然スズネがぽんと手を叩き、何かを思い出したように言った。

「確か、サツキ、大学目指してたんだよね。もしかして、合格が決まったの? だから巫女も引退なんでしょ」

 次には、もう「おめでとう!」という言葉が出てきそうな調子で、嬉しそうにするスズネ。でも、それとは対照的に、サツキは、ふっと顔を伏せた。

「どうかしたのか?」
「ううん……なんでもないわ」

 サツキの返事は、どこか歯切れが悪い。ふと横を見ると、きょとんとした顔をしているスズネと目があった。僕も、一緒に首を傾げて見せる。サツキは、大学のことで何か嫌な事があったのだろうか。

 でも、まさかサツキが試験を受けて落ちるとは思えなかった。サツキは、小さい頃から、僕たちの中でもずば抜けて頭がよかったんだ。すごく勉強ができて、将来は本土のカントー地方にある、かの有名なタマムシ大学に入るんだと言っていた。タマムシ大学は、あのポケモン転送システムを作ったメンバーとして有名なエンジニア、マサキが卒業したことでも名を知られる名門中の名門校だ。そこを目指せるくらいだから、サツキの成績のよさはそれはもう並外れていたように思う。そんなサツキに限って、落ちることなんてまずありえない。

 そう思っていたのは、どうやら、アキラも同じであったらしい。だから、それは、本当にほんの冗談のつもりだったのだろう。アキラは、頭の後ろで手を組んでくつろぎながら、気軽に言った。

「なんだよチビサツキ、しばらく会わないうちに脳ミソまで小さくなって、勉強できなくなっちまったのか? あーあ、チビってのは本当に損だなあ」

 がたん。
 それが、サツキが荒々しく立ち上がった音だと気付くのに、僕には少し時間が必要だった。サツキは、鋭くアキラを睨みつけて、言った。

「あんたに、何がわかんのよ!? バカで頭悪くて勉強なんか真面目にやったこともないあんたなんかに、何がわかるってのよ!?」
「ちょ、ちょっと、サツキ? どうしたの?」

 スズネが慌てたように、心配したように声をかける。その時、僕は気付いてしまった。サツキの目の端に、涙が滲んでいたことに。

「な、なんだよ……。なに、急に怖い顔してんだよ」

 アキラも、突然態度の変わったサツキを見て、動揺しているようだった。僕は、なんて声をかけていいのかわからない。どうして、サツキが突然怒り出して、しかも泣きそうなのかわからない。でも、本当なら何か言うべきだったんだろう。黙っているべきでは、なかったと思う。けれど、やっぱり僕は、何も言うことができなかった。こんなとき、なんて言えばいいのか、僕にはさっぱり分からなかった。

「サツキ、大丈夫?」

 スズネが立ち上がり、サツキの肩を抱いて声をかける。しかし、サツキはその手を、ゆっくりと払った。

「ごめん。ちょっと、一人にして」

 サツキはそれだけ言うと、あとはもう、完全に黙り込んでしまった。僕たちはどうしていいのかわからず、結局、ただ黙って言うとおりにするしかなかった。


   * * *


 サツキの家を出たあと、僕たちは、なんとなくその場で黙り込んだ。スズネも、アキラも、もちろん僕も、みんな沈んだ顔で俯いている。とりわけアキラは、自分の軽口のせいだと思っているようで、本当に参ってしまっていた。
 しばらく黙り込んだあと、僕たちはなんとなく一緒に居づらくて、誰からともなくその場で別れた。簡単に「じゃあ」とだけ言って、僕たちは思い思いの場所へ散っていく。アキラは、海の方へ。スズネは、自分の家の方へ。僕は……どこへ行けばいいのかわからずに、立ち尽くしたまま二人の背中を見送った。

 僕は、どこに行けばいいのだろう。
 スズネみたいに自分の家に帰ってもいいけど、今はそんな気分になれない。どこか静かで、一人になれる場所へ行きたかった。

 そうだ。祭壇にでも、行ってみようか。

 あそこは、島の中でも神聖な場所とされていて、昔から祭壇を護っているというポケモン以外は、普段は誰も立ち入らない場所だ。でも僕たちは、幼い頃からよくこっそりと祭壇に入り込んで遊んでいた。僕たち四人の、秘密の遊び場だ。
 あそこなら、誰も来ないし一人になれる。僕は祭壇に行くことを決めると、歩き出した。


 祭壇は、旅に出る前と何も変わらず、静かな場所だった。
 もとは巨大な岩場だったのを、平らにしてなにやら複雑な模様が彫られた足場の周りには、色とりどりのきれいな花が咲き乱れている。祭壇の中央には、三つの島から持ってきた宝を収めるための石像があり、それをぐるりと取り囲むように石柱が並ぶ。
 祭りの終わりには巫女がここに立って神々に捧げる笛を吹き、祭壇を取り囲む石柱が淡く輝いて、足場の溝にはどこからか輝く水が流れてくるのだ。それは本当に神秘的な光景で、仕組みなんてわからないけれど、それを解明しようとも思えないような神聖さがある。

 そんな神聖な場所を、僕たちは無礼なことに遊び場にしていた。石柱に登ったり、石像の宝を置く場所にビー玉を置いてみたり、それはもう好き放題だった。ここを護っているというポケモンが一度も怒鳴り込んでこなかったのが、まったくもって不思議なくらい。

 昔からこの祭壇を護っているのは、ヤドキングというポケモンだ。
 普通ポケモンは、当然だけど人間と言葉をかわす事なんてできない。しかしあのヤドキングは、何故だかまるで当然のことのようにぺらぺらと喋ってしまう。そんなことができるのだからそれはすごいポケモンなんだろうけど、普段のヤドキングからは、そんなすごさは微塵も感じない。いつも住処の洞穴の中でボーっとしていて、僕たちが勝手に祭壇に登っても、石像や石柱に悪戯をしても、何にも言ってこないのだ。
 もしかしたら、僕たちの中にサツキという巫女の家系の人間がいたから、特別に許していただけなのかもしれないけれど。

 そういうわけで、ここには入る気になればいつだって簡単に入り込めた。ついさっきだって、ヤドキングが住処にしている洞穴をちょっと覗いてきたけれど、ヤドキングはぼけーっと立ったまま静かに寝息を立てていて、僕には気付きもしなかった。もしかしたら、ああ見えて実は超能力とかで僕が来たことは察知しているのかもしれないけれど。どちらにしても、まったくのん気な番人だと思う。

 僕はタキをボールから出して、祭壇の縁に腰掛けた。そり立った岩壁に打ち寄せてくる波の音と、潮風の冷たさが心地いい。ひんやりと涼しい風は穏やかで、陽射しもあまり強くない。夏の午後の最も陽射しが強い時刻は、もう過ぎた。太陽は、あとはゆっくりと西に向かって沈んでいくだけ。

 振り返ると、タキは冷たい石の上にごろんと寝そべってくつろいでいる。ずっと僕を乗せて海の上を泳いできてくれたんだから、疲れているのは当然だ。当分はこのままゆっくりさせといてやろう。

 タキから視線を外して、僕は正面に広がる海を見た。青空の下に広がる広大な海は、広く、どこまでも広く、見えるはずのない海の果てを見ようとしてじっと見つめていると、だんだん怖くなってくる。不安になってくる。どこまでも広く、どこまでも深いこの海に、ちっぽけな自分という存在が飲み込まれてしまいそうな気持ちになる。

 どうして、こんなことを思うのだろうか。海が、大きすぎるからだろうか。自分が、あまりにもちっぽけでつまらない存在だからだろうか。

 そう。僕は、ちっぽけでつまらない存在だ。
 だって、何もしていない。何の志も持っていない。目標もなく、あてもなく、ただぶらぶらと旅を続けているだけ。

 職業は、と誰かに聞かれたら、僕はポケモンウォッチャーと答えるだろう。実際、そうなりたいという考えはなんとなくだけれど昔からあったし、今でもその道で生きていこうと思っている。でも、一体それが何のためなのか分からない。

 どうして、ポケモンウォッチャーなのか。
 何のために、旅をしているのか。
 僕は、いったい何を求めているのだろう。
 いったい、何が見たいのだろう。

 考えても考えても、答えは出ない。
 僕はこうして、このままただなんとなく毎日を過ごしていくのだろうか。旅を続けて、やがてどこかの研究所の助手になって、フィールドワークをしながら研究を手伝う。目的も目標もなく。ただ、そうしていれば、生きていくことはできるから。時間は満たされるから。

 そう、満たされるのだ。たとえ気持ちが満たされなくとも、時間だけは確かに満たされて、過ぎていく。その時間の中に何も感じるものがなくとも、確かに時は過ぎていく。決して止まることなく。ただ、漫然と日々は過ぎていってしまうのだ。

 本当に、それでいいのか。

 もし誰かにこのことを話せば、その誰かは、「よくない」と言うだろう。多分、大多数の人がそう思うだろう。ぼくだって、よくないと思う。そんなことは、わかっている。

 でも、それならどうすればいいのか。目標なんて、無理に探そうと思ったってそう見つかるもんじゃない。第一、そうやって無理矢理に見つけた目標なんか、そのうち追っていくこと自体がイヤになるに決まっている。それじゃあ、意味がないじゃないか。

「はぁ……」

 僕は、気付いたら声に出して溜息をついていた。寝転んでいたタキが、どうしたの、という視線を僕に向けてくる。

「なんでもないよ」

 そう、僕は曖昧に笑って答えておいた。
 そうだ、なんでもない。本当に、なんでもないんだ。
 ただ。

 その、なんでもない事が、どうしようもなく不安なんだ。





【part.B Suzune】


 久しぶりに帰ってきた自分の家は、どこか懐かしくて、あったかい。
 突然の里帰りに、お母さんはすごく驚いていたけれど、でも、久しぶりに帰ってきたわたしのことを、これ以上ないっていうくらいに温かく迎えてくれました。わたしは、久しぶりに感じたその温かさに甘え、沈んでいた気持ちを癒しました。

 わたしの名前は、スズカゼ・スズネ。お父さんとお母さんがつけてくれた名前です。なんでも、わたしが生まれたのは夏のよく晴れた日で、わたしの泣き声に病室の窓にぶら下がっていた風鈴の音が重なって聞こえたんだとか。わたしはこの優しい響きのする名前を、とても気に入っています。

 ここは、わたしの家。わたしの部屋。物心ついた頃から旅立ちの日まで、ずっとわたしがすごしてきた場所。わたしの家は一階建てで、わたしの部屋は、庭に面したところにあります。庭には、わたしのパートナーであるラプラスのナギが家にやって来たときにお父さんが作ってくれた、ナギのための池があります。今ナギは、その池の中で、だらんと首を下げてくつろいでいます。その、ほっとしたような幸せそうな顔を見ていると、わたしまでほっとしたような気持ちになってきます。ああ、帰ってきたんだなあ、と、改めてなんだか落ち着いた気持ちになるんです。

 わたしは、少し前まで、遠く離れたホウエン地方という場所を旅していました。いろいろな町を巡りながら、ポケモンコンテストというものに挑戦していたのです。
 ポケモンコンテストというのは、文字通り、自分が育てたポケモンと一緒に舞台に立って、いかにきれいなパフォーマンスを見せるのかを競うもの。その道でプロとして生きている、あるいはプロを目指している人たちのことを、ポケモンコーディネイターと呼びます。つまりわたしは、そのコーディネイターの端くれというわけ。

 でも……わたしは今、その道を歩んでいくことに自信がなくなっています。
 最近はコンテストに参加することもなく、ただ、ふらふらと旅を続けていました。

 わたしがここに帰ってきた理由は、もしかしたら、その辺りにあるのかもしれません。もしかしたら、気持ちの満たされない日々に押しつぶされそうになって、それに耐えられなくなって、逃げてきたのかもしれません。

 旅に出るときに片付けたから、今、わたしの部屋はがらんとしています。あるのは、小さい頃からずっと使っていた、ベッドと机と、机の上のぬいぐるみくらい。
 そんな部屋の中をじっくりと見ているうちに、だんだんと、ほっとしていた気持ちが揺れてきました。ぐらぐらと、小さな小さな地震のように。かすかに震えているのが、わかります。

 何もない部屋。
 満たされない気持ち。

 そんなものが重なって、わたしはだんだん落ち着かなくなってきました。どこか、賑やかなところへ行きたい。賑やかなところへ行って、この寂しさを紛らわせたい。

 わたしはたまらなくなって、立ち上がりました。簡単な支度をしているうちに、ナギが池から出て、こちらに這ってきました。

「ナギ、一緒に行こうか?」
「きゅう? きゅうーん!」

 ナギは少し首を傾げてから、すぐに嬉しそうな顔をして擦り寄ってきました。窓を開けてそんな無邪気なナギをひとしきり撫でてから、私はナギをモンスターボールに戻し、家を出ました。


   * * *


 町の中は、お祭りの準備で大忙し。屋台を作ったり、お店の品物を準備したり、踊りのためのやぐらを組み立てたり。たくさんの人々が、忙しそうにせっせと働いています。そういった光景を見ていると、揺れていた気持ちが、だんだんと落ち着いてきました。歩いているうちに、顔見知りのご近所さんたちが、元気よく声をかけてくれます。声をかけられるたびにわたしは立ち止まり、短い話をしました。聞かれるのは、ほとんど旅のこと。みんななかなかオレンジ諸島を出る機会はないけれど、やっぱり本土の都会の話は気になるみたいです。わたしも、そうでした。小さい頃、旅のポケモントレーナーが島に来たりすると、わたしはよく話を聞きに駆けて行ったものでした。

 でも、実際の外の世界は、そんなに楽しいばかりのところではありませんでした。だって、わたしは、そこから逃げてきたんですから。

 そんな暗い気持ちは隠しながら、わたしは旅先で見た楽しいこと、素敵なことを、たくさん話しました。笑顔で、笑いながら楽しく喋りました。

 汚いところ、暗いところは隠して。そうやって、自分自身の中にある暗い気持ちからも目を背けて。そうして笑っているのは、ただただ楽でした。

 そうしてぶらぶらと歩いていくうちに、海が見えてきました。街から離れるにつれて、だんだん忙しく働く人々の姿は少なくなっていきます。代わりに、はしゃいだ声をあげて遊ぶ子どもたちの元気な声が聞こえてくるようになりました。砂浜で駆け回る子どもたちを見ていると、なんだか昔のことを思い出します。
 サツキと、アキラと、それから、コウスケと。みんなで一緒に過ごした、楽しい楽しい日々。あの頃は、毎日が満たされていました。ただみんなと一緒にいるだけで、気持ちに隙間なんてできませんでした。

 わたしは砂浜に降りていき、そして、一人の男の子と目が合いました。とたんに、その子はわたしを指差して、「ああっ」という顔をしました。

「スズ姉ちゃん! 帰ってきたの!?」

 その声に周りの子どもたちも振り向いて、わたしにたくさんの視線が集まってきました。なんだか嬉しいのと気恥ずかしいのがごっちゃになって、わたしは曖昧に笑いました。

「わぁっ、ほんとにスズネ姉ちゃんだ!」
「スズ姉ちゃん! 久しぶり!」

 子どもたちが、次々に声をかけてくれます。その子どもたちは、みんなわたしの家の近所にすんでいる子どもたちで、旅立つ前はよく一緒に遊んでいました。この子達は、みんなわたしのことを、“スズネ”と“お姉ちゃん”をくっつけて、“スズ姉ちゃん”と呼びます。久しぶりにその呼ばれ方をして、わたしはなんだか嬉しくなりました。

「久しぶりだね、みんな。元気だった?」
「うんっ! 姉ちゃんは? 元気だった? 旅はどうだったの? ほーえんちほうは大きかった?」
「うーんと、そうだなあ。ホウエン地方は、すごく大きくて、賑やかで、きれいなところがたくさんあったよ」

 わあっ、と、その女の子はなんだか遠くを見て憧れるような顔をしていました。「いいなあ、わたしもいってみたいなあ」と、目をきらきらさせながら呟いています。それは、旅立つ前のわたしと、同じ顔だったように思えました。

「スズ姉ちゃん、ナギは? 一緒にいないの?」
「いるよ。ほらっ」

 わたしは、モンスターボールを投げました。中から、ナギが元気よく飛び出してきます。とたんに数人の子どもたちが、ナギの周りに集まります。ナギも久しぶりにこの子達に会って、なんだかすごく嬉しそう。

「ねえスズ姉ちゃん、ナギと一緒に遊んでていい?」
「うん、もちろん」
「スズ姉ちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
「うーん、そうだなあ。ごめんね、わたしは、今はちょっと……」

 とたんに、「ええーっ」という不満の声。こういう顔をされると、なんだかイヤとは言えなくなります。でも、今は……なんとなく、そんな気分にはなれません。わたしが困っていると、子どもたちの中から一人、メガネをかけた女の子が出てきて、みんなに言いました。

「無理言っちゃだめよ、スズ姉ちゃんは、旅をしてきて疲れてるんだから。ね? スズ姉ちゃん」
「え? あ、うん。ごめんね、みんな。少し休んだら、一緒に遊ぼうね」
「わかった〜」

 そう言って子どもたちは、ナギと一緒に海の方に向かって走り始めました。ナギがあんなに元気なのが、羨ましくなります。と、さっきのメガネの女の子が、わたしの傍に来て言いました。

「ごめんなさい、スズ姉ちゃん。疲れてるのに……」
「大丈夫。気にしないで。ほら、みんなと一緒に遊んでおいで?」
「うんっ」

 女の子は頷くと、子どもたちの輪の中に戻っていきました。
 しっかりした子だなあ、と、なんだか感心してしまいます。そういえば、サツキも、昔からああいう子だったけ。気が利いて、礼儀正しくて、とてもしっかり者。メガネをかけていて、すごく頭がよくって、でも、ちょっと気難しいところがあって……。

 わたしは砂浜に座って、子どもたちを、一緒に遊ぶナギを眺めました。あのメガネの子。あの子を見てると、サツキのことを思い出す。

『やめなさいよ、あんたたち! スズネがかわいそうでしょ!』
『いいよスズネ、風邪気味なんだから、ムリして付き合うことないって』
『いいんだよ、イヤなら、イヤってちゃんと言って。スズネは、遠慮しすぎ。ちょっとくらいイヤって言ったって、だれもあんたのこときらいになったりしないんだから』

 いつだって、わたしを気遣ってくれたサツキ。イヤなことがあっても素直に断れなかったり、誰かにいじめられそうになったりしても、すぐに庇おうとしてくれたサツキ。普段はつんとしているけれど、本当はすごく優しくて、強い。二つも年下のはずなのに、時々どっちが年上なのか分からなくなってしまいます。知らず知らずのうちに、わたしはそうやってサツキたちを頼ってばかりだった。

 サツキは、一体どうしたんだろう。以前から、サツキには少し気難しいところがありました。でも、あんなに突然怒り出すような子じゃなかったのに。きっと、わたしたちが旅立ってから、サツキにもいろいろあったんだ。
 でも、何かあったのなら、相談してくれればいいのに。
 サツキは、前からそうでした。何かあると、みんな一人で抱え込んでしまう。それでどうにもならなくて落ち込んでいるのが見てわかるようなときもあるけど、たいていは気付いたら元の元気なサツキに戻っていたりするんです。

 サツキは、強い。でも、わたしは……?

 わたしには、それは無理です。自分ひとりで悩んで、抱え込むなんて、わたしには、耐えられない。
 とたんに、頭にコウスケの顔が浮かびました。島にいた頃は、何か辛い事があったり、悩んだりすると、わたしはすぐコウスケのところに行って相談していたのです。サツキだけじゃなくて、コウスケにも、わたしは頼ってばっかりでした。でも、そうやって頼らせてくれる事が、本当はすごく嬉しかった。

 今でも、聞いてくれるかな?

 わたしは、ポケットからポケギアを取り出しました。そして、登録してあるはずのコウスケの番号を探します。番号は、すぐに見つかりました。そういえば、ずいぶんとコウスケに電話なんてしてなかったな。なんだか、少し緊張する。

 ぷるるるる、ぷるるるる……

『ん、もしもし……?』
「あ……あの、えっと」

 電話の向こうから、コウスケの低い声が聞こえてきました。とっさに何を言ったらいいのかわからなくなって、わたしはしどろもどろになってしまいました。怪訝な様子のコウスケの声が、電話の向こうから聞こえてきます。

『スズネだろ? どうしたんだ?』

 こちらの賑やかな雰囲気とは対照的に、電話の向こうの音は、静かに打ち寄せる波の音だけでした。コウスケは今、どこにいるんだろう。

「あの、ええと、その、ちょっと、話したい事が……って、あれっ?」

 喋っている途中に、突然、ぷつっ、という音が聞こえて、わたしは慌てました。見ると、ポケギアの画面には何も映っていなくて、真っ暗です。

「あ、電池切れ……」

 わたしは、呆然と呟きました。
 どうしよう。なんだか、ものすごく中途半端に会話が途切れてしまった。コウスケには、どこまで聞こえていたんだろう。わたしからかけたのに、いきなりわたしの方から電話を切って、コウスケを怒らせてしまったんじゃないか。怒ってはいなくても、きっと、おかしなやつって思われたかもしれない。どうしよう……。

 そう思ったら、なんだかたまらなくなって、わたしは立ち上がりました。そして、今どこにいるのかもわからないコウスケの姿を、きょろきょろと探していました。意味もなく近くを歩き回って、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。自分でも挙動不審でおかしな動きをしているのはわかっていたけれど、気持ちがすっかり慌ててしまって、とてもそんなことを気にしてはいられません。

「スズ姉ちゃん、どうしたの? また、どこかにいっちゃうの?」
「え? あ、えっと」

 気付いたら、子どもたちが回りに集まって、わたしを見上げていました。

「んっとね、ごめん、わたし、行かなきゃいけないところがあって……」

 とたんに、ええーっ、と、不満の声。うう、なんだか、すごく去り難い。

「休んだら、遊んでくれるって言ったじゃん!」
「スズ姉ちゃん、せっかく帰ってきたんだから、一緒に遊ぼうよ!」
「うっ、あの、ええっと……」

 困ったな……。早く、コウスケのところに行かなくちゃいけないのに……。

「スズ姉ちゃん、誰かと約束があるんでしょう?」

 そう言ってくれたのは、さっきのメガネの女の子でした。わたしは、ちょっとつっかえながら答えます。

「え、あ、うん。その、約束、っていうわけじゃあないんだけど……」
「ほら、スズ姉ちゃん、用事があるんだって」

 その子がそう言うと、他の子どもたちはしぶしぶといった様子でまた海の方へ戻っていきました。その場には、わたしと、ナギと、その女の子だけが残されます。

「ごめんね、また、助けてもらっちゃったね」

 するとその子は、小さく溜息をついて言いました。

「あのね、スズ姉ちゃん。忙しいなら、ムリしなくってもいいんだよ。断ったからって、あたしたちはスズ姉ちゃんをきらいになったりしないんだから」
「う、うん。ありがとう」

 ああ、前にサツキにもおんなじことを言われたなあ。ちょっと懐かしく思いながら、わたしは苦笑して答えました。女の子は他の子達の方へ戻ろうと背を向け、ふと、足を止めました。そして、振り返らないまま、小さな声で言います。

「でも、さ。明日は、スズ姉ちゃん、また遊んでくれる……?」

 恥ずかしそうな声で言ったその言葉に、わたしは少し驚き、それから、なんだか急におかしくなりました。ああ、本当にサツキにそっくりだ。サツキも、何か自分の正直な気持ちを言おうとするときは、いっつもこうやって恥ずかしそうにしていた。

「もちろん。また明日、一緒に遊ぼうね」
「うんっ」

 そうして、その子は、振り返らないまま、子どもたちの方へ戻っていきました。その背中をぼんやりと見つめていたわたしに、ナギが、「きゅうっ」と鳴いて声をかけました。

「あっ、ごめん。早く行かなくっちゃね。じゃあ、行こっか、ナギ」
「きゅっ♪」

 ナギはまた元気に鳴いて、モンスターボールの中に入ります。わたしはボールをポケットの中に入れると、歩き始めました。コウスケの居場所は、多分わかっています。コウスケはひとりになりたいときに、よく内緒であそこに行っていました。わたし達四人だけの、秘密の遊び場へ。

 それにしても……。きらいになったりしないんだから、か。わたしは、もしかしたらずっと、それを怖がっていたのかもしれません。サツキに言われたときにはわたしもまだ小さくて、何を言われたのかよく分からなかったけれど、でも、今なら、素直に受け止める事ができる。

「さあ、急ごう、コウスケのところに」


   * * *


 祭壇への道を、見つからないようにこっそりと早足で歩きました。だんだん、岩壁に打ち寄せる波の音が近づいてきます。祭壇を護っているヤドキングの洞穴をこっそりと覗いてみると、ヤドキングは立ったまま、穏やかな顔をしてスースーと寝息を立てていました。わたしは昼寝の邪魔をしないように忍び足で通り過ぎ、祭壇へ向かいました。

 わたしがやって来たことに最初に気付いたのは、カメックスのタキでした。タキはごろんと祭壇の上に寝そべって休んでいたけれど、わたしの姿を見つけるとのっそりと起き上がって、手を振ってくれました。祭壇の縁に海に向かって腰掛けていたコウスケは、そのタキに気付いたのかこっちを見て、少し驚いたような顔と、「やっぱり」という顔をしました。

「突然電話が切れたから、どうしたのかと思ったけど。スズネのことだから、どうせ電池が少なくなってたのに気付いてなかったんだろ」

 うう、図星……。わたしは、あははと笑って誤魔化しながら、コウスケの近くまで行って、それから、ナギのボールを開きました。

「タキ、ナギと遊んであげてくれる?」
「がめっ? がめがめ〜っ」

 タキは一瞬困った顔をしてから、やっぱりちょっと困った顔のまま、頷きました。ナギは、早速というふうに、タキに飛び掛っていきます。あ、しまった。ナギはタキの事が大好きなんだけれど、タキはそんな積極的なナギがちょっと苦手だったんだっけ。

「タキに悪いことしちゃったかな」
「いいんじゃないか。苦手そうにはしてるけど、あれで、それなりに楽しくもあるみたいだから」

 そう、コウスケは少し笑いながら言いました。昔から、タキとナギはあんな感じでした。タキはすごくおとなしくて、ナギはそれはもう元気で、何かとタキのことを追い掛け回していたっけ。

「スズネも座れば? 何か、話があって来たんだろ」
「あ、うん」

 わたしは少し迷ってから、祭壇の縁の、コウスケのすぐ隣に腰掛けました。海の方に出た足に、小さな水しぶきがかかって、その冷たさが気持ちいい。コウスケの隣で少し熱くなってしまっている体を冷ますのには、ちょうどいいかなと思いました。

「なんか、思い出すね。昔もよく、コウスケはひとりでここにいたよね」
「そうだな。それで、決まってスズネが探しにくるんだ」
「そうだっけ」
「そうだよ」

 うーん、そういえば、そうだったかも。そっか、わたしは昔からそんなに、コウスケの傍にいたんだなあ。

「それで、どうしたの?」
「え? あ……、うん」

 何から、話せばいいんだろう。話の出だしをどうしたらいいのかわからなくって、わたしはしどろもどろになってしまいました。ああ、どうしよう。
 コウスケは、そんなわたしを横目で見て、少しだけ笑いました。それからしばらく、お互いに何も言わないまま、時間が過ぎていきます。
 どうしよう。わたしから会いに来たのに、これじゃあダメです。
 わたしがそんなことを悩んでいると、コウスケが、ぽつりと、話し始めました。

「おれ、さ。わかんないんだよな」
「え? ……何が?」
「どうして、ポケモンウォッチャーやってんのか。なんかきっかけがあった気がするんだけど、思い出せないんだ」
「……!」
「だから、今は、ただ漫然と、なんの目的もなく、ふらついてるって感じさ。なんか、そういうの、つらくてさ。そのせいなのかもしれないな。突然、帰ってこようなんて思ったのは。ただ、逃げてきた、だけなのかもな」

 わたしは、驚きました。なぜって、

「それって……わたしも、おんなじだよ」
「え? スズネも?」

 わたしは、頷きました。コウスケが驚いた顔をします。

「スズネは、なんか……そういう風には、見えないのにな。なんだか、いつも毅然としてるとこあるから」
「そうでもないよ」

 わたしは、笑って答えました。うまく、笑えていたかどうかはわからないけれど。
 ああ、今なら、話せそうな気がする。コウスケになら。正直に話せる気がする。

「あのね……わたし、さ、コーディネイター、目指してたじゃない?」
「うん、スズネの、夢だったよな」
「うん、そう。わたしの夢。それで……わたしが、目標にしてた人って、覚えてる?」
「ああ、確か……ニビシティのサオリさん……だっけか?」
「そう。もうずっと前のことだけど、グランドフェスティバルで優勝したこともある、すごくすごい人。ラプラスの使い手で……それで、わたしにはナギがいたこともあって、目標にしてた人だよ。わたしたちが生まれる前の大会だったと思うけど、昔ビデオで見た、カントー地方のグランドフェスティバルの予選で、ラプラスの絶対零度が、もうすごくって、感動して……」

 そこで、わたしは一度、言葉を切りました。反応を見るようにして、コウスケの顔を窺います。コウスケの瞳は、まっすぐにすぐ隣にいるわたしを向いていました。
 真剣に、聞いてくれている。次の言葉を、待ってくれている。
 わたしは、一回深呼吸をして、話を続けました。

「それでね……わたし、まだまだグランドフェスティバルに出られるような実力は全然ないんだけど、それでも、どうにかホウエン地方でリボンを四つ手に入れて……それで、あとひとつって時に、行ったコンテスト会場で、会っちゃったの」
「その、サオリさん、と?」
「うん。さすがにもうおばさんになってたけど、たまたま審査員で来てたみたいで……。わたし、そのときは嬉しくて、もう感動しちゃって、握手してもらったりとか、サインまで頼んじゃったりして。その時は、すっかり忘れてたんだよ。わたしが、サオリさんと同じ、コーディネイターなんだってこと。おかしな話だけど、ホントに忘れてたの。以前この人が建っていた舞台に、わたしも今は立つ立場なんだってことを」
「……」
「そのコンテストが始まる前、特別に、サオリさんの演技披露があったの。もう、すごかった。わたしはただサオリさんの演技に感動するばっかりだった。わたしの中では、あの人は、わたしなんかと比べられるような人じゃなくって、ずっと高く、雲の上の、違う世界の存在みたいな気がしてたの。だから、いざコンテストが始まって、一次審査の順番がもうすぐまわってくるっていう時になって……。わたし、何がなんだかわからなくなっちゃったの」

 わたしは、話しながら、あのときのことを思い出していました。今でも、はっきりと覚えています。鮮明に、まるで昨日のことのように。
 あのときに見たもの。あのときに聞いた音。あのときの気持ち。押しつぶされそうな、自分がどこにいるのかわからなくなったような、あの気持ち。

「わからなくなった、って?」

 わたしが少しの間黙っていると、コウスケがそう、聞き返してくれました。それでわたしはどうにか落ち着きを取り戻して、また話し始めます。

「わたし、そのとき、控え室のモニターで、会場を見てたの。わたし、大勢の人がいるところは苦手だから、コンテストの時はいつも緊張してるんだけど……でも、そのときは、そんなものじゃなかった。ひとりずつ演技が終わって、ひとつずつわたしの順番が近づいて来て。でも……なんだか、わからなくなっちゃった。みんな、同じ舞台で演技してる。わたしも、もうすぐ、あのステージに立つ。でもあのステージには、ついほんのさっきまで、あの人がいたんだよ。違う世界の人だと思ってた人が、おんなじステージで、ナギとおんなじラプラスで、演技をしてたんだよ。それが、なんだか、すごく変なことに思えちゃって。あれ、わたし、なんでこんなところにいるんだっけ、って……。そんなとき、モニターに、たまたま、サオリさんの姿が映ったの。いるのは審査員席だけど、すごく堂々として、輝いてて……。それを見た途端、もう、ダメだった」
「……」
「緊張の糸がはじけたみたいになっちゃって、何がなんだかわからなくって、そのまま走って逃げ出しちゃったの。控え室飛び出して……。逃げちゃったんだよ、わたし」
「スズネ……」
「わかんないの。怖くなったのか、緊張してただけなのか、もう、全然わかんなくて。でも、同じ舞台に立てるのが嬉しいなんて気持ちは、全然湧いてこなかったの。おかしいよね? ふつう、喜ぶことなのに。……結局、わたしは、もうステージには戻れなかった。具合が痛くなったって会場の人に言って、ひとりで閉じこもったの。そして、全てが終わって、何にもなかったように、ただ過ぎ去るのを待ってた。閉じこもってても、会場から聞こえる歓声とか、司会の人がわたしの参加取り消しを知らせる声とか、それで何事もなかったように続いていくコンテストの音とか、そういうのが、全部聞こえてきて……それでわたしは、自分が何をやってるのか、ようやく気付いたんだよ。情けなかった。悔しかった。もう、どうしようもなく悲しくて……ひとりで、閉じこもったまま、泣いたよ、わたし」

 話しているうちに、全てがよみがえってきました。あのときの情けなさ、悔しさ、悲しさ……。そういったものが全てよみがえってきて、わたしは、話しながら、また泣きそうになっていました。
 コウスケは、何も言わずに、ただ目を伏せて、それで、精一杯わたしの気持ちをわかろうとしてくれているみたいでした。そのことが、わたしを少しだけ落ち着かせてくれました。そうだ、ここには、コウスケがいる。コウスケはいつもそうして、わたしの気落ちを、わかろうとしてくれていた。

「わたし、それで、わからなくなったよ……。自分が、いったい何を目指してたのか。自分があんなに必死で求めてたのは、いったいなんだったのか。わたしは、今まで何をやってたのか。何のためにやってたのか。全部、わかんなくなって、自分の事がなにも信じられなくなって、それで……そんな気持ちから少しでも逃げるために、遠ざかるために、ここに帰ってきたんだと思う。もう、ホウエンにはいたくなかった。だってあそこは、コンテストの本場だもん。いられないよ、わたしなんか。それで、旅をするのが、つらくなって……少しでも、気持ちが安らげる場所にって、ふらふらと歩いて……それで、気付いたら、アーシア島に帰ってきてた」
「スズネ」
「だからね……わたしも、同じだよ。ううん、わたしの方が、もっと情けないよ。逃げてきただけなんだよ。ダメだよね。バカだよね。何やってるんだろうね。わたしは、もう」
「スズネ!」

 わたしは、はっとしました。見ると、コウスケが、必死な顔でわたしのほうを見ています。すごく悲しそうな、痛そうな、つらそうな顔をしています。
 ねえ、どうして、そんな顔をしているの? 笑ってよ。笑っててよ。そんな顔されたら、だって、堪えられなくなるよ。だって情けないよ。泣きたくないよ。コウスケの前で、泣きたくないよ。

「スズネ、もう、いいから」

 コウスケは、優しく、言いました。

「もう、いいからさ。自分を、責めるな。抱え込むな。スズネは、自分のこと我慢しすぎだから。……もう、いいから」

 コウスケの言葉は、温かくて、優しくて。これ以上堪えるのは、もう、ムリでした。


   * * *


「……ごめんね、コウスケ。わたし、すごく情けないとこ、コウスケに見せちゃったね」
「見てないよ。見えなかったよ。ほら、見てみろこのシャツ。雨が降った後みたいだ。それも、塩水の雨」

 そう言って、コウスケは笑いました。わたしも、一緒になって笑いました。目の端に残った最後の一滴を、指で拭いながら。わたしたちはそのままくすくすと笑い合って、笑いが収まったときには、もう、悲しさやつらさはすっかり吹き飛んでいました。

「そういえばさ」

 コウスケが、ふと思い出したように言いました。

「さっきは、なんとなく流しちゃったんだけど……。夢、って、言ったよな。スズネが、コーディネイター目指してること」
「え? うん、そうだよ」

 わたしは頷きました。コウスケは、何かを考え込むような顔をして、

「なんとなく、引っ掛かってたんだ、その、夢、って言葉がさ。考えてみれば、おれがウォッチャーやってるのも、なんか、夢、だったような気がするんだよな」
「うん、そうだったね。でも……それだけだったっけ」
「それなんだよな。なにか、あった気がするんだ。すごく大切なこと。それを、すっかり忘れちゃってる気がする。なあ、スズネ。スズネは、コーディネイターの夢、何がきっかけだったか覚えてるか?」
「え……? そういえば、なんだったっけ。うん、と、確か、五年くらい前からだった気がするんだけどな……」
「五年?」

 コウスケが聞き返しました。わたしは、曖昧ながらも頷きます。

「そう、確か、五年前くらいからだよ」
「五年前……言われてみると、おれがウォッチャーになろうって考え始めたのも、ちょうどそれくらいだった気がする……」
「そういえば、コウスケ」

 コウスケの言葉を聞いて、気付きました。そういえば、わたしも、ここにきてからずっと、感じている事がありました。

「何か、思い出さない? この場所。ここにきてから、わたし、何か思い出しそうなんだ。ずっと感じてたんだけど、なんなのかよくわからなくて……」
「この場所?」

 コウスケは、真剣な顔で聞き返しました。今度はわたしも、はっきりと頷きます。

「うん。なにか、あったんじゃなかったかな。ここで。その、五年くらい前に」
「待って……。そうだ。思い出したぞ。この場所……いや、正確には、ここじゃなくて、もう少し離れたところ……この近くに、確か、何かなかったか。おれたちの、四人の、秘密の場所……」
「あっ!」

 ふっと、記憶が蘇ってきました。まだ少し靄がかかったように輪郭は曖昧だけれど、でも、確かに何かを思い出した。秘密の場所。わたしたち四人の。そうだ。ホントの“秘密の場所”は、ここじゃない。

「探そう、スズネ」

 コウスケが、立ち上がって言いました。

「おれたちは、きっと、ただ逃げてきたわけじゃない。ただ逃れるためだけに、ここに帰ってきたんじゃない。探しにきたんだ。どっかで落とした大切なものを、見つけにきたんだ」

 立ち上がったコウスケは、わたしの方に手を差し出しました。

「探そう、スズネ」
「うん!」

 わたしは頷き、コウスケのその手を、しっかりと握りました。





【part.C Akira】


 コウスケは、おれよりも強かった。おれがいくらつっかかっていっても、いつも軽くかわされてしまっていた。何度も挑戦して、勝てたことは数えるほどもなかった。

 何がって? 決まってる。ポケモンバトルさ。

 おれはずっと、コウスケを目指していた。いつか絶対、コウスケに勝ちたい。それだけを考えて、ずっとやってきた。
 だから、あの時以来、おれはどうしていいのかわからなくなった。自分の目標を、おれは失っていた。
 あれは、今からちょうど、一ヶ月くらい前のことだった。


   * * *


 ジョウト地方で、バトルの修行をしながら旅をしていたおれは、とある町の近くで、偶然コウスケと再会した。
 おれはアーシア島を旅立つ前から何度もコウスケに挑戦していて、そのことごとくで負けていた。偶然に勝てた事が、まったくなかったってわけじゃない。でも、実力的には、どう考えたっておれはコウスケに負けていたんだ。

 旅立つとき、おれはコウスケと約束した。旅先で会うことがあったら、そんときはまた戦おうと。そのときこそは、絶対におれのほうが強くなっていて、完璧に勝って見せると。おれは、そうあいつに宣言していた。
 コウスケは、もともとウォッチャー志望でバトルは専門外だから、正直なところバトルはそれほど真剣にはやっていなかった。でも、そのことが逆に、悔しさをさらに倍増させていたんだよな。

 コウスケとは旅立ってからもたびたび連絡をとっていたけど、あのときの再会はホントに偶然だった。おれは、早速コウスケに挑戦した。

 おれは、旅立ってからひたすらバトルのことだけを考えて、いろんな場所で修行し続けていたから、かなり実力は上がっているっていう自信があった。もう、そう簡単に負けたりはしねえ。そう、真剣な気持ちで考えていた。

 実際、バトルはほぼ互角に進んだ。形式は三対三。入れ替えナシのガチンコ勝負。まずおれはコウスケの一体目を倒し、しかしすぐにコウスケの二番手におれの一番手は倒された。二番手同士の対決は白熱し、ほぼギリギリでこっちが負けた。しかし、おれの三番手は、サンダースのラムネ。その時おれの手持ちで最も絶好調だった、アーシア島に住んでた頃からの相棒だった。
 ラムネは、速攻でコウスケの二番手を負かした。ほとんどダメージは負わずに済んだ。コウスケの三番手は、カメックスのタキ。やっぱりこいつもアーシア島にいた頃からのコウスケの相棒で、おれが何度も煮え湯を飲まされてきた相手だった。

 体力的には、互いにほとんどフルパワー。カメックスのタフさは脅威だけど、相性の有利がこっちにある分、おれのほうが優勢だと思えた。先制したのは、もちろんおれ。

「ラムネ、“10まんボルト”!」
「タキ、“みずのはどう”だ!」

 ラムネが繰り出した電気タイプの強力な技を、タキは水の塊のようなものを作り出して防いだ。本来は攻撃に使う技を、防御に使う。しかも水は電気をよく通すという性質も利用して、ラムネの電撃はほぼ完全に水の塊に吸収されちまった。こういう頭のいい戦い方が、コウスケ最大の強さだ。
 だけど、ラムネの攻撃能力は、アーシア島にいた頃とは段違いに強くなってる。強力な技だって覚えた。カメックスの体力や防御能力は高いが、当たりさえすればかなりのダメージは与えられたはずだ。さらに、サンダースであるラムネの最大の武器である圧倒的なスピードに、カメックスであるタキはついてこられない。
 強くなったのは、ポケモンだけじゃない。おれ自身だって、旅する中で、いろんなやつと戦い、いろんなポケモンを見て、戦い方とか、ポケモンの知識とか、そういったこともたくさん勉強していたんだ。そうさ、おれだって、このジョウト地方を旅して、レベルアップしてるんだ。
負けやしない。勝てる。このままどんどん押していけば、おれは勝てる。コウスケの実力を、上回れる。
おれは、攻めを畳み掛けた。

「ラムネ、ガンガン行くぜ! “でんこうせっか”!」

 ラムネが、自慢のスピードを最大限に生かし、目にも止まらぬ速さでタキに突っ込む。かわせるわけがねえ。

「タキ、“からにこもる”! 続けて“こうそくスピン”!」
「なにっ!?」

 タキはコウスケの指示とほぼ同時とも思えるほどに、素早く甲羅の中に身を隠した。ラムネの“でんこうせっか”は、硬い甲羅に阻まれてタキ自身にはたいしたダメージを与えられない。さらに、ラムネがタキの傍を離れる間もなく、すぐにタキは甲羅に籠ったまま高速で回転を始めた。そして、ラムネに逃げるスキを与えずに突っ込んでくる。ラムネはその攻撃をまともに受けて、その回転に弾き飛ばされた。

「くそっ……」

 強い。やっぱり、コウスケは強い。バトルは特別好きじゃないとか言ってるくせに、しっかりと考えて指示を組み立てている。もともと、おれよりコウスケのほうが頭がいいことはわかっていた。でも、少なくともバトルに関してだけは、この旅のおかげでおれのほうが頭がはたらくようになっただろうって自信があったのに。

 でも、これでいい。せっかくの勝負だ。簡単に勝てたらつまらねえ。そうさ、これでこそコウスケだ。おれが目標にしている男だ。

「ラムネ、“でんげきは”だ!」

 接近してダメなら、遠距離から攻めるだけだ。ただし、今度のはさっきよりもスピードを速くすることを意識して撃つ。チャージの時間を若干短くするからその分威力は少しばかり落ちるが、その分スキが少なくなってスピードが上がるんだ。
 ラムネの鋭い電撃が、タキに向かって一直線に放たれる。今度は、防御のスキは与えねえ。思惑通り、電撃は防ぐヒマを与えずにタキを捕らえた。タキが電撃に痺れ、苦しそうな顔をする。しかし、おれは、何か妙な感じがすることに気付いた。どうも様子がおかしい。よく見ると、タキの周りに、うっすらと透明なヴェールのようなものが広がっている。あれは、ヤバい。

「しまった、ラムネ、攻撃をやめろ!」
「タキ、“ミラーコート”!」

 コウスケの指示でタキは目をかっと見開き、タキの周りを覆っていヴェールが、はっきりとした輪郭を持った。それはまるで鏡のように光を反射して、そこにはラムネの姿も映っていた。いや、反射したのは、光だけじゃない。それまでタキを取り巻いていた電撃が、その鏡により、一斉に方向を変えた。電撃は、それまでよりもさらに勢いを増して、ラムネに向かってまっすぐ突っ込んできた。避ける間もなく、ラムネはそれをまともに受ける。苦しげな悲鳴が上がる。おれは、奥歯をかみ締めた。
 “ミラーコート”。相手の特殊技を受け、その威力を倍増させて跳ね返すカウンター技。はじめからこれを狙って、わざと“でんげきは”を受けたのか。

「やるじゃねえか、コウスケ」
「……」

 反応ナシかよ。まあ、コウスケがバトル中に雑談をしないのは、いつものことだ。それはこいつの集中力の表れでもある。おれは気を取り直して、次の策を練った。今までの攻防で受けたダメージは、明らかにこっちの方がでかい。でも、向こうだってノーダメージってわけじゃない。少しずつでも、確実にダメージは与えられている。だけど、この調子でちまちま攻めてても、また防御されて反撃されるだけ。防御からの反撃。それが、コウスケの得意な戦い方だ。一方こっちは、おれもラムネも、完全に攻め型。そうさ、ぐだぐだ考えてたってしょうがねえ。ガンガン攻める。それが、おれたちのやり方だ。

「いくぞ、ラムネ! “かげぶんしん”で、タキを取り囲め!」

 “かげぶんしん”は、自分と同じ姿の分身を作り出し、相手を翻弄し回避率を上げる技。分身にはもちろん実体はないから、攻撃力は持たない。でも、だからといって、攻めに使えないわけじゃない。
 ラムネは次々と分身を作り出し、あっという間にタキの周りをぐるりと取り囲む。タキは、きょろきょろと視線をさまよわせて戸惑っている様子だ。“かげぶんしん”への対処の仕方として、範囲の広い攻撃でまとめて叩くっていう方法があるが、こうやって相手を円形に取り囲むと、“じしん”みたいな技でもない限り、まとめて攻撃するのは難しい。カメックスは“じしん”を覚えられるが、タキが使えるかどうかは賭けだ。でも、戸惑っている様子を見る限りじゃ、おそらくこいつには分身をまとめて叩く手はない。これは、攻めるチャンスだ。

「ラムネ、“ミサイルばり”だ!」

 タキを囲む全てのラムネが、おれの指示で一斉に全身の毛を逆立てた。そして、それらをまるでミサイルのごとく乱射する。“かげぶんしん”で作り出した分身は、影という名の通り、本物と同じ動きをしてくれる。実際に攻撃力を持っているのは本物のラムネの技だけだが、“ミサイルばり”のように一度にたくさんの攻撃が出る技なら、相手はどれが本物の攻撃なのか判別するのは難しい。

「タキ、“からにこもる”!」

 タキは、再び甲羅に入って防御した。確かにこれなら、たとえどこから本物の攻撃がこようと関係ない。さすがはコウスケ、といいたいところだが、これはまさにおれの狙い通りだった。“からにこもる”は、物理的な技を防御する技。たとえ甲羅にもぐっていようと、電気のような特殊攻撃は防げない。今こそ、とっておきの必殺技を使うとき。

「いけラムネ! “かみなり”!」
「っ! タキ、逃げろ!」

 タキはとっさに甲羅から出て避けようとするが、遅い。ラムネのチャージは、もう完了している。タキが甲羅から出る一瞬早く、ラムネは“かみなり”を放った。一度空に打ち上げられた電撃が、稲妻となってタキに降り注ぐ。タキの回避は、間に合わない。“かみなり”はタキに命中し、バリバリという轟音と共に、タキの悲鳴が上がった。

「くっ、タキ!」

 “かみなり”は、電気タイプ最強ともいえる強力な技。威力が高い分扱いづらく、正確な狙いをつけるのが難しいが、当たれば大ダメージとともに相手を痺れて動けなくさせる強力な追加効果がある。命中させるのが困難な技だが、相手が止まっているなら話は別だ。ラムネは“かみなり”を必死で練習した。そして、動かない標的なら、正確に射抜くことはバッチリできるようになっていたんだ。これを命中させるために、おれは“ミサイルばり”を使った。相手に“からにこもる”を使わせて、“かみなり”をぶち込むスキをつくるために。

 タキは、まだ僅かに戦う体力を残している。あのタフさは、さすがだ。でも、いくら体力が残っていたって、“かみなり”を受けたすぐあとで、まともに動けるわけがない。それも、全部計算のうち。あとは、このスキをついてラムネが“10まんボルト”を撃てば、おれの勝ちだ。
 おれの勝ち。おれは、コウスケに勝った。あと一撃ぶち込めば、おれの勝ちなんだ。

 おれは、最後の指示を出そうと口を開いた。開いて、そして……声が、出なかった。
 指示が、出せない。最後の指示が。

 どうしてだ。どうしてだよ、オイ。作戦通り。全部うまくいった。完璧だった。完璧だったのに。あと一撃で、おれの勝ちなのに。それなのに、どうして、どうして足が震えるんだよ!

 ラムネが、ちらっとこっちを見た。
 どうしたの? ここで攻撃するんじゃないの? その瞳は、そう語っていた。

 わかってる。わかってるよ、ラムネ。わかってるんだけど……どうしてだか、足が震えて声が出ねえんだよ。
 がさっという音がして、おれは我に返った。タキが、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
 しまった、と思った。おれは、決定的なチャンスを逃した。タキの反撃が来る。そうしたら、もう、ラムネはおそらく耐えられない。また、負ける……?

 その瞬間、おれは気付いた。自分の心の中で、その隅っこの方に、この状況を見て、安心している自分がいることに。
 安心? どうして、安心するんだ?
 わけがわからねえ。おれは、ずっと、このときを待ってたんじゃないのか? コウスケに勝てる、このときを。
 それなのに、どうしてまた負けそうになって、安心してるんだよ?

「くっ、くそっ、くそうっ!」

 何をやってるんだ、おれは? おれは頭をぶんぶん振って、まっすぐにラムネを、タキを、そしてコウスケを、見た。そのコウスケの顔を見た瞬間、おれは、息が止まるんじゃないかと思った。
 既に、敗北を覚悟した顔だった。コウスケは、おれを認めていた。おれがコウスケを超えたことを、あいつは、おれより先に、認めていた。
 おれは、頭が真っ白になった。そして、無理やりに息を吸って、おれは声に出した。

「ラムネ、“10まんボルト”ッ!!」

 ラムネは、撃った。待ってましたとばかりに、体からバチバチと電気を発して、そして、それをタキに向かって、撃ちこんだ。タキはそれをまともに受け、倒れる。ずしん、と、重い音がする。
 コウスケが駆け寄る。ごめんな。よくやってくれたな。そう労いの言葉をかけて、タキをモンスターボールに戻す。そして、コウスケはまっすぐに立ち、おれを見て、ふっと笑った。
 戦いに敗れ、勝者を讃える。まさに、そんな顔だった。

「負けたよ」

 そう、コウスケは言った。全てを認め、受け入れた顔で。はっきりと言った。

「アキラの勝ちだ」

 その、コウスケの言葉を。コウスケの、おれを讃える言葉を。おれが、コウスケに勝ったという事実を。
 受け入れられないでいるのは、おれのほうだった。


   * * *


 あのとき、どうしておれは最後の攻撃をためらったのか。理由は、ちゃんとわかっている。
 おれは、嫌だったんだ。怖かったんだ。自分の目標を、失ってしまう事が。

 コウスケに勝つことは、ずっとおれが目標にしていたことで。アーシア島にいた頃のコウスケはおれなんかよりもずっと強くて、本当に、おれにとっては充分大きな目標だったはずだったんだ。

 でも、後になってちゃんと考えてみれば、当然だったのかもしれない。
 おれは、旅に出てからずっと、ひたすらバトルのことだけ考えて修行に励んでいた。だけどおれは、コウスケはおれとは全然違う道を歩いてるんだってことに、気付いていなかったんだ。

 コウスケが目指してたのはポケモンウォッチャー。危険な場所に行ったりすれば当然戦闘の機会はあるだろうけど、少なくともアーシア島にいた頃よりバトルに触れる事が少なくなるのは当然だった。いや、もしかしたら、トレーナー相手にバトルをすること自体、コウスケは旅立ってから一度もしていなかったのかもしれない。そうなれば、どうしたって、いつかはおれのほうが強くなる。そんなの、当然のことだった。そんな当たり前のことにもおれは気付かずに、コウスケに勝つことをただ目標として、そのことを常に頭において、戦ってきたんだ。

 ともあれ、おれはあの時攻撃をためらった。あのスキは、勝機を失うには充分なスキだったと思う。タキが態勢を立て直し、ラムネに反撃の指示をするだけのスキは、コウスケがやる気になればちゃんとあったはずだ。いくらなんでも、コウスケがそのことに気付かなかったってことはねえだろう。でも、コウスケはそうしなかった。理由は簡単だ。あの時、コウスケは既に負けを認めていたんだ。

 ラムネの“かみなり”で、タキは痺れて動けなくなった。そのスキをついて追撃すれば、間違いなく攻撃は当たるし、それは確実に決定打になる。そのことは、あの時コウスケもちゃんとわかっていたんだ。だから、あの時、あいつはもう負けを認めていた。そうさ。別に、不思議なことじゃあなかったんだ。むしろ、あの状況で攻撃をためらい、あんなスキをつくったおれのほうが、よっぽど不自然だったんだ。

 わかってる。ちゃんと、わかってるさ。
 でも。でもさ。それでも、おれはためらったんだ。

 攻撃して、とどめを指して、おれが勝ったら。
 おれは、今までずっと目指していた目標を、遂に達成することになる。
 それは、当然喜ぶべきとこだ。そう、喜ぶべきことのはずさ。

 それでも、あのときのおれには、どうしてだか、喜びの気持ちは湧いてこなかったんだ。勝利を目の前にした瞬間に、とっさに気付いちまったんだ。
 おれが、この勝負に勝ったら。おれは、この先の目標を、失っちまうんだってことに。

 目指していたものが達成されれば、当然の事ながら、もはやそれを目指し続けることはない。目標ってのは、達成された時点で、意味を失う。達成感や充実感は残っても、そのあとに、もはややるべきことは残されない。おれは、それが怖くなったんだ。

 コウスケに勝つことを目指して修行する日々は、本当に充実していた。毎日おれがコウスケ相手に大健闘する姿を想像していたら、それだけで心が踊った。楽しみだった。つらい修行さえ、楽しいと思えた。
 そんな日々が、終わる。

 当然、トレーナーとしての高みを目指して修行を続けることはできる。それにはそれで、ちゃんと意味があるんだろう。むしろ、ポケモントレーナーとしてやっていくんなら、それが当然だ。
 でも、おれにとって、それは、あまりにも不鮮明で。はっきりとしていなくて。おれは、何よりもはっきりしていた“コウスケに勝つ”っていう目標を、失いたくなかったんだ。はっきりとした目標が、ほしかった。それを、いつも思い浮かべて、楽しみにして、追いかけていたかったんだ。
 はっきりとは見えない、曖昧なものを目指して頑張ることは、おれには、できそうもない。はっきりと見えないものを追いかけていく自信が、おれにはないんだ。

 あの、コウスケの、負けを認めたっていう顔を見た瞬間に、おれは、どうしようもなく追い詰められた気持ちになった。おれがとどめをさす前に、負けを認めるんじゃねえよ。だって、そんなことをされたら、もう。もう……終わりにするしか、ねえじゃねえか。他に選択肢なんて、もうねえじゃねえか。
 自分の手で、まだ終わりにしたくないものを、終わらせなくちゃならなかった。それが、おれには痛くて、怖かったんだ。

 それでも、おれはやった。迫られた、たった一つの選択。おれは自然な流れそのままに、最後の一撃を放った。そうさ。それが、自然な流れだったんだ。おれが考えてたことの方が、どうかしてたのさ。

 あの勝負のあと、おれはしばらくジョウト地方の旅を続けた。適当な場所に行って、適当に修行をした。適当にっていっても、やってることはそれまでと対して変わらなかった。それまでとおんなじことを、おれは続けた。でも……そこに、今までと同じ充実感は、もう、感じられなかった。

 約、一ヶ月。おれは、そんな日々を続けて、それで、なんだかもう、耐えられなくなった。
 そう、おれは。この島に、故郷たるアーシア島に、逃げ帰ってきたんだ。


   * * *


「はぁぁぁぁ……」

 おれは、声に出して、大きな溜息をついた。正直、参っていた。まったく、サツキのことでただでさえ沈んだ気分だってのに、そういう時に限って、こんなつまんないことばっかり思い出しやがる。おれは、またひとつ、大きな溜息をついた。しかしそんな溜息も、穏やかに寄せては返す波の音に紛れて、どこかへ溶けるように消え去ってしまう。ざざあ、ざざあ、と、ただただ無限に繰り返す波の音が、なんだか今はやけに胸の奥にしみた。

 おれが今いる場所は、アーシア島のとある海岸だ。コンクリートで固められた地面から少し低くなったところに、さして広くない砂浜が広がり、その向こうには岩礁が点在する近海と、そのさらに向こうに広大な大海原が見渡せる。まあ、どこにでもありそうな、小ぢんまりとした浜辺だ。

 でも、この場所は、おれにとって、いや、この島の人間にとって、なかなかに大きな意味を持っている。なんてったって、ここは昔、かの有名な、正真正銘本物の“優れたる操り人”が、島に上陸した場所なんだ。

 当時十歳くらいだったらしいその少年は、船で海を渡っている途中で突然のシケに遭い、半ば流されるような形で、この浜辺に船ごと突っ込んできたらしい。長老たちは祭りの衣装のまますぐに様子を見に行って、その船に乗っていた少年がポケモントレーナーだってことを聞き、しきたり通りに“優れたる操り人”として島に招き入れたんだそうだ。
 そのときおれたちはまだ生まれていなくて、当時のことは大人から聞かされただけなんだけど、それはもう耳にタコができるほど何度も聞かされた上に写真も見せられたから、大体のことは知っている。

 写真で見た限りじゃあ、その“優れたる操り人”はちょっと頼りなさそうなやつだったように見えた気がする。
 でも、そいつが、やりやがったんだ。
 まるで伝説をそのまま再現するかのように、怒り狂った三体の神に、海の神とともに立ち向かった。そして荒れ狂い、しまいには凍りつきまでした海を越えて三つの宝を集め、当時の巫女だった女の子の笛の音が神々の怒りを鎮めた。

 その海の神の雄姿と、そのとき空にかかった巨大な“海の橋”は、島の住人のほとんどが目撃していたらしい。間近で見たって人はほとんどいないけど、笛の音が響いて神々がその怒りを鎮めたときに、まるで海が持ち上がったみたいになって、まるで“海の橋”ともいえるような水の巨大なアーチを描いていたっていうんだ。それはもうきれいで、島の人間全員が感動していたくらいだったらしい。
 それ以来、この島の男の憧れはその“優れたる操り人”となり、女の子の憧れは神々を鎮めた“巫女”となったわけだ。

 サツキは、巫女の家系に生まれて、そのときちょうどいい年齢だったから選ばれたってだけなんだけど、あいつが巫女に選ばれた時のサツキの周りはそれはもう大騒ぎだった。なんてったってサツキの先代があのアオイさんで、伝説を再現した巫女とそっくり、まさに女の子の憧れそのまんまな人だったもんだから、その次となれば騒がれんのも無理はなかった。

 それまで普段はあんまり目立たないヤツだったサツキは、一躍人気者になった。もともと、おんなじ血をひいてるだけあって、あいつもそれなりに顔はよかったからな。
 でも、あんときは親友がそんな大役に選ばれたもんで、おれもコウスケもスズネも、思いっきり大騒ぎした。自分のことじゃないとはいえ、親友のその栄光を、おれたちは自分のことのように喜んだ。おれも、正直あんときはマジで嬉しかった。

 いや、別に、サツキだったからってわけじゃない。あくまで、親友として、嬉しかったってだけだ。なにも、「サツキだったから」特別嬉しかったとか、そんなことは全然ない。いや、本当だ。

 ともかく、そんなことがあったから余計に海の神の伝説にすっかり魅せられちまったおれにとって、だからこの浜辺は、特別な場所だ。ヒマでやることがないときにはすぐにここへ来て、コンクリートの高台から砂浜の方に足を突き出して座り、ずっと海が寄せては返すを繰り返すのを眺めながら、“優れたる操り人”がやってきたときのことを思い浮かべていた。おれはひとつの場所にじっとしているのは苦手だが、この場所だけは、そうしていられるんだ。

 そんなこんなで、今もおれは、ここで海を眺めている。なんか嫌な事があったときに気持ちの整理をつけたりすんのにも、おれはよくここに来ていたからだ。

 サツキがあんなふうに怒ることは、正直、完全に予想外だった。確かに、昔からあいつはちょっと難しいところがあった。付き合いづらいっていうかさ。でも、あんなふうに軽口を叩いてふざけあうなんてことは、おれたちは、特にサツキとおれにとってはしょっちゅうのことで、まさに日常茶飯事だったんだ。だから、突然あんなふうにムキになって怒るなんて、思いもよらなかった。
 理由は、考えてみても、さっぱりわからない。わからないことはちょっと悔しいが、でも、しょうがないのかも知れない。
 おれは、旅立ってからずっとサツキに会ってなかった。大見得切って旅立っただけに、目標を達成しないうちは、そう簡単には帰れねえって思ったんだ。そのことで、サツキにバカにされんのが悔しかったから。

 コウスケとスズネは、一昨年に一度帰って来てたらしい。祭りを見に来てたってことみたいだ。まあそりゃ、一年に一度の島の大行事だからな。しかも、おれたちの親友たるサツキの晴れの舞台と来てる。そりゃまあ、見に帰ってきても当たり前だ。正直、おれだって見に来たかった。いや、サツキの晴れ姿を、じゃない。あくまで、祭りをだ。
 でも、おれは帰らなかった。やっぱり、中途半端なまま帰ってきてバカにされんのがしゃくだったからな。

 おれたちが旅立ったのは、三人が一斉に同じ日に旅立ったわけじゃないけど、だいたいみんな二年半くらい前だ。だから、おれたちが旅立ったあとで、祭りは二回行われたってことになる。その一回目の方で、コウスケとスズネは帰ってきていて、んで、去年は、全員が帰ってこなかった。
 今思えば薄情な話だが、去年は、本当にそんなこと考える暇がないくらい忙しかった。コウスケとスズネも、ちょうど大変な頃だったらしい。祭りのこと思い出す余裕なんて、正直無かったんだ。

 まあ、そうはいっても、三人全員が帰ってこなかったんだ。サツキが拗ねるのは、当然ったら当然だ。
 サツキは、昔っからよく拗ねるやつだった。気に入らないことがあると、すぐ拗ねるんだ。そんで、一度拗ねるとこれがまた強情で、なかなか許してくんないんだよ。
 だから、さっき突然怒り出したのも、もしかしたらその辺が原因だったのかも知れない。去年帰ってこられなかったおれたちに対して、不機嫌になってただけだったのかも。

 でもなあ。なあんか、釈然としねえんだよなあ。
 ホントに、それだけなのかな。もっとなんか、フクザツな理由があったんじゃねえのかな。

 そう考え出すと、きりがない。もともとたいしてよくないおれの頭じゃあ、すぐに混乱しちまう。
 ああくそっ、何でこんなに、気になっちまうのかな。そりゃさ、怒らせちまったのはおれだからさ。責任は、感じちゃいるけどさ。それにしたって、どうして、こんなに気分になるんだよ。サツキが機嫌悪くするなんて、考えてみりゃ、よくあることじゃねえかよ。

「あ〜き〜らっ!」
「どわあっ!」

 突然、どんっと背中を押されて、おれはコンクリートの足場から砂浜に転げ落ちた。顔面から砂に突っ込んで、口ん中に砂が入る。それをぺっぺと吐き出しながら、おれはどうにか起き上がる。ちくしょう、もし下が砂浜じゃなかったら、どうなってたと思うんだよ。

 おれは思いっきりケンカ腰の顔をして、突き落とした主を振り返った。そこにあったのは、おれの怒りになんてまったく動じた様子のない、笑顔。おれをからかってるとしか思えない、満面の笑みだった。

「ア、アオイさん……」
「よっ、アキラ。元気〜?」

 ちくしょう。どうも、この人は苦手だぜ。


   * * *


「はーん、なるほどねえ。それで、サツキはあんなに怖い顔してたワケだ。いやね、気付いたらあんたたち三人がみんないなくなってるし、サツキはサツキでひとりで怖い顔してるしで、困っちゃってね。ほら、サツキって、一度機嫌損ねると、しばらく誰とも口きこうとしないじゃない?」
「そんで、探してたんスか、おれらのこと」
「そ。あんたらがサツキになにやらかしたのか、その真実を確かめるためにね」

 そう、アオイさんはにかっと笑って言った。おれがちょっとしらけた顔をして見せても、相変わらずこの人は、にこにこ笑って動じない。この人は昔っから、男勝りでマイペースなところがあった。さすが、伝説の巫女様とそっくりというプレッシャーを撥ね退けて、巫女を務め上げた度胸はダテじゃない。

「それにしてもねえ、まあ、どうせあんたがなんか言ったんだろうなとは思ってたけどさ。なんも知らなかったとはいえ、ちょーっと無神経だったわね。そりゃ、サツキも怒るわ」
「……? なんか、あったんスか?」
「うん、まあねえ……」

 どうにも、歯切れが悪い。アオイさんは話すのをためらっているようで、どうしてサツキが怒ったのか、その理由をなかなか教えてくれない。ちょっとの間考え込んでから、急にアオイさんは、手をぽんと叩いて言った。

「そうだ。そんなに気になるんなら、あんたが直接サツキんとこ行って聞いてきたら? あたしがヘタに話すより、そのほうがいいでしょ」

 はいぃ? いきなり、何を言い出すんだろうこの人は。

「ご機嫌最悪モードのサツキのところに行って、おれが無事に戻ってこられるわけがないじゃないっスか!」
「戻ってこなきゃいいのよ」
「はあ?」

 いったい、何を言い出すんだこのお方は。おれに死ねと。サツキの毒舌地獄になぶり殺されろと、そうおっしゃりたいんだろうか。

「機嫌が悪いときのサツキの口の悪さは、よく知ってるでしょうが!」
「いーじゃないの、別に。案外、あんたには素直に話してくれちゃうかもよ?」

 いーくねえよ。なんだよ、おれにならって。ありえねえだろ。サツキだぞ。あの、毒舌クイーンサツキ様だぞ。

「ムリっス。普通にムリっスから。だいたい、どうしておれがそこまでしてサツキに直接話を聞かなきゃならないんスか」
「だってあんた、サツキのこと好きなんでしょ?」
「はぁ!?」

 おいおいおいおいおいおいおい。ちょっと待て。ちょっとお待ちになってくれ。アオイさん。アオイお姉さま。いくらなんでも、いきなりそりゃあねえだろう。不意打ちだ。いきなりの至近距離からのメガトンキックだ。急所に当たった破壊光線だ。何の前触れもなくいきなりそれは、あまりにも直球すぎるだろう。あまりのドッキリ攻撃に、思わず声が裏返ったぞ。口が、はねるコイキングみたいにパクパクしちゃってるぞ。

「ちょっと、あんた大丈夫? もう、ちょっと図星突かれたくらいで、そんなに動揺しちゃってどうするの」
「いや、待て。待ってくれ。アオイさん、そいつはいったいどうゆうことだ? いったい何をどう考えてつなげたら、そんな事実に辿り着く?」

 しかしアオイさんは、何の気なしの顔で、さらりと言ってのける。

「そんなの、見てればわかりますっての。そうね、はっきり目に見えてサツキを意識している様子が表れ始めたのは、確かサツキが六歳だから、あんたが七歳くらいのときだったかしらねえ。そりゃもう、見てて可愛いモンだったわよ。なんか妙にどぎまぎして、やたらとサツキにちょっかい出して。ちょっと意地悪してみたりとか、気付くとじろじろ見てたりとか。それはもう、わかりやすくて気持ちいいくらいだったんだから」
「……」

 怖え。このヒト、マジで怖え。

「まあとにかくよ。気になってるんなら、さっさと行ってきなさいな。そんで、じっくりサツキの話聞いちゃって、たっぷり相談にのってあげちゃいなさい。大丈夫。いっくらサツキが強情でも、今のあの子なら、案外素直に喋っちゃうかもしれないから」
「ま、待ってくれ。おれはまだ、サ、サツキの事が、その、そんなだってことは、一言も……」
「あら、あんたさっき、自分で『そんな事実』って言ったじゃない。それはもう、『事実』だって認めたってことでしょ?」
「うっ……」

 怖え。このヒト、本気で怖え。

「さあ、いつまでもぐだぐだしてないで、さっさと行く! 男は度胸よ! さあ、行きなさい、未来に向かって!」

 もはや、逃れようもない。逆らうことなど、できはしない。
 おれは仕方なく立ち上がり、顔と服の砂を払った。
 そして、走り出した。アオイの姐御の、指差すままに。





【part.D Satsuki】


 どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
 どうして、あんな態度をとってしまったんだろう。
 あんなつもりじゃあ、なかったのに。せっかく、みんなが帰ってきてくれてたのに。

 本当は、すごく嬉しかった。久しぶりに四人でそろって、本当に嬉しかったのに。突然怒ってみんなを追い出しちゃうなんて、どうかしている。どうして、あんなことしてしまったんだろう。

 あたしは、心の底から後悔していた。あたしがあそこで怒鳴ったりしなければ、今もみんなはここにいて、楽しくおしゃべりができていたはずなのに。みんなが旅立ってしまってから、それは、何よりもずっと望んでいたことだったはずなのに。どうしてあたしは、自分でそれを台無しにしてしまうんだろう。どうしてあたしは、こんなにも素直じゃないんだろう。

 あたしは、自分の部屋で、大きなため息をつく。開いている窓の外から、庭の木の枝にとまっていた一羽のピジョン、ミナヅキがこっちに飛んできて、あたしの顔を心配そうにのぞきこむ。くるる、と小さく鳴きながら小首をかしげるミナヅキを見て、あたしは少しだけ気持ちが軽くなった。
 でも、それで後悔の気持ちがすっかり消えるわけじゃない。
 後悔して頭を抱えたって、それでみんながすぐに戻ってきてくれるわけじゃない。そんなこと分かってるけど、でも、後悔せずにはいられないんだ。

 あたしはこのアーシア島で、はるか昔から言い伝えられている“海の神”の伝説に出てくる“巫女”の家系に生まれた。巫女の役目は、代々その家系に生まれた女の子が引き継ぐと決まっている。そのおかげで、あたしは五年前からその巫女をやらせてもらっているんだ。
 あたしの前に巫女をしていて、かつて本物の“優れたる操り人”とともに伝説の再現に立ち会った偉大な巫女、とそっくりなアオイ姉さんは、あたしの従姉妹。あたしのお母さんは、アオイ姉さんのお母さんの妹だ。ちなみに、あたしのシゲモリという苗字は、お父さんのもの。もともとお父さんはこの島の人じゃなくって、本土からきた旅人だったらしい。詳しいことは、あまりよく知らないけれど。

 あたしの肩にいるこのピジョンは、名前はミナヅキ。あたしがなかなか名前を決められないでいたときに、お母さんが勝手につけてしまった名前だ。あたしがサツキだから、この子はミナヅキだって、そんなとても単純な理由で決められた。なんでも、この子がずっとあたしの傍をくっついて離れないから、まるで仲のいい姉弟みたいに見えたんだそうだ。

「ミナヅキ、ありがと。もう、大丈夫よ」

 あたしがミナヅキに微笑みかけると、ミナヅキはあたしの肩から離れてまた木の枝にとまった。二階にあるあたしの部屋の窓の、ちょうど目の前に張り出している枝。あそこは、ミナヅキのお気に入りの場所だ。
 ミナヅキは、それでも相変わらずに、心配そうな顔であたしを見ている。まったく、大丈夫だって言ってるのに。ミナヅキはホント、心配性なんだから。

 昔っから素直じゃないって言われ続けてきたあたしが唯一素直になれる相手が、このミナヅキだった。いつでも傍にくっついてて、あたしを気遣うように見ている。そんなこの子にまで、いくらなんでもぶっきらぼうにはできないもの。

 でも本当は、他のみんなにも、あたしは素直になれたらいいと思っている。
 あたしは昔からこんな性格で、友達なんかろくにいなかったんだ。他のみんなよりちょっと勉強ができたものだから、余計にあたしは浮いていた。でも、そんなことをまったく気にしないで付き合ってくれる友達もいた。他の誰よりも、大切な親友。ミナヅキを含めた家族以外で、あたしが唯一信頼できる人たち。それが、あたしにとっての、コウスケと、スズネと、アキラだったんだ。

 はじめにあたしに声をかけてくれたのは、スズネだった。スズネは、あたしとはほとんど反対の性格をしていた。とにかく素直で、優しくて愛想もよくて、みんなに好かれるタイプの子だった。あたしとスズネの年は二つ違うから、はじめはただの優しいお姉さんって感じだった。スズネにしてみても、はじめはただ可哀相な年下の子がいるから、自分が力になってあげようとか考えていたんだろう。スズネは昔からそういう子だった。
 はじめのうちは正直、うっとうしいと思った。しつこいくらいにいろいろ世話を焼こうとするし、優しさを何のためらいも無く振りまくようなあの笑顔が、あたしはすごく苦手だった。でも、そうやってしばらく一緒にいるうちに、だんだんあたしもスズネに遠慮をしなくなっていった。スズネが、そういうのを望んでいないってわかったからだ。スズネと対等に喋るようになって、そうしているうちに、だんだんスズネの事がうっとうしくは感じなくなってきて、親しみさえ湧いてきた。それで何かと一緒にいるようになって、今に至る。

 コウスケは、おとなしそうな割に積極的なスズネとは対照的に、昔から物静かで落ち着いた感じのヤツだった。年はスズネと同じなのに、なんだか何かとコウスケにくっついているスズネが妹みたいに見えたものだ。
 コウスケはどちらかというとあたしに似たタイプで、あんまり積極的な人付き合いは得意じゃなかったらしい。要するに、コウスケもあたしと一緒で、スズネと一緒にいるうちにそのペースに飲み込まれたひとりということだ。ちょっと言い方は悪いけど、ホントに、そんな感じ。
 そんなだから、コウスケとはスズネを通じて知り合ったわけだけど、何かと気が合った。何かあったときに相談を持ちかける相手は、決まってコウスケだった。スズネに話すと、なにがなんでもしっかり解決するまで面倒をみようとするからだ。コウスケの場合だと、しっかり話は聞いて真剣に相談に乗ってくれるけど、スズネほどしつこくはしない。その距離が、あたしにはちょうどよかったんだと思う。

 アキラは……まあ、ケンカ友達みたいなものだ。会えばいっつも口ゲンカ。顔を合わせるたびに、軽口をたたきあって、お構いナシに言いたいことをぶちまけてた。そういう意味では、案外あいつがいちばん気が置けないヤツなのかもしれない。マジメな話なんかしたことはないし、する気もないけど、遠慮なく話せるっていう意味では、あいつのことは案外大切だったのかも。スズネとコウスケがあたしより二つ年上なのに対して、アキラはひとつ上なだけだし。実際、あいつの方が年上だって意識して考えたことは、一度だってない。
 知り合ったのは、コウスケを通じてだった。あいつ、昔っから何かとコウスケに突っかかってたんだよね。全然敵わないのにしつこく勝負を挑んだりして。
 そういえば、この前コウスケと電話で話したときに、アキラにポケモンバトルで負けたって言ってた。正直信じられなかったけど、コウスケがそんなウソつくとも思えないし。まあ、あいつもそれなりにがんばってるってことなんだよね。がんばって、確実に強くなってるんだ。結果を、出してるんだ。

 あたしがさっきアキラに対してムキになっちゃった理由は、たぶん、そのあたりのことも関係してるんだと思う。
 アキラは、スズネやコウスケと同じくらいの時期にアーシア島を旅立って、それからだいたい二年半くらいになる。コウスケやスズネはたまにメールくれたり電話で話したりしてたんだけど、そういえばあいつとだけは、二年半の間まったく顔も見てないし声も聞いていない。とりあえず無事に旅を続けてるってことだけは、アキラとたまに連絡を取り合っているらしいコウスケから聞いていたから、心配とかはしてなかったけど。本当だ。全然、心配なんかしていなかった。大体なんで、あたしがアキラのことを心配してやんなきゃなんないのよ。

 そんなことは、どうでもいい。とにかく、だからあいつとは、ついさっき会ったのが本当に二年ぶりだったってことになる。まあ一応あいつだって大事な親友のひとりだったわけだから、それなりに積もる話っていうのはあったはずなんだけれど。
 でも結局、あたしは素直になれなかったんだよね。アキラのちょっとした言動に突っかかって、それでどうにも気まずくなっちゃって、みんなを追い出しちゃった。ほんっとうに、あたしはバカだ。

 でも、あの時は本当に腹が立ったんだ。アキラに言われたこと。

『しばらく会わないうちに脳ミソまで小さくなって、勉強できなくなっちまったのか』

 あいつ、ニヤニヤした顔で、そう言った。なんにも、知らないくせに。
 別に、小さいって言われたことに腹が立ったわけじゃない。悔しいことに、それは事実だ。あたしの身長は、同じ性別であるはずのスズネすらちょっと見上げなくちゃいけないくらいに小さい。でも、いくらなんでもそんなことで今更いちいち腹を立てたりしない。
 あたしが腹が立ったのは、勉強できなくなっちまったのか、っていう部分。どうして、そんなこと言われて腹が立つのか。そんなの、理由はひとつしかない。

 つまり、図星だったんだ。

 あたしは、昔から、人よりちょっと勉強ができることだけが、唯一のとりえだった。性格が悪くて、口が悪くて、友達も少ないあたしが、唯一自信を持てることだった。それを、たったひとつのとりえを、あたしは失いかかっている。
 この島にも、一応学校のようなものがある。あたしは普段はそこに通って勉強をしているわけで、そこでも、少し前まではほとんどの科目でトップの成績を取っていた。ところが、半年くらい前に受けた試験の結果が悪かったのをきっかけに、あたしの成績は少しずつ落ちていった。別に一気にビリに転落したとかじゃない。でも、ひとつの科目が他のヤツに抜かれて、またひとつ、他のヤツに抜かれて。そうなったら、早いものだった。
 それなりの成績はかろうじて保ってはいるものの、あたしはもはや、トップではなくなった。それほど大きく離されたってわけじゃない。でも、一度抜かされちゃうと、なかなかどうして、抜き返すってことは難しい。そのうち、あたしの気持ちまで、だんだんどうでもいいって思うようになってきてしまった。

 それまでは、あたしは目標の大学に受かるために一生懸命だった。もう、そのことだけを考えて頑張っていた。本土カントー地方にある名門校、タマムシ大学。それが、あたしの目標だった。
 きっとあたしにとって何よりショックだったのは、他のやつに抜かれたことよりも、その大学の合格判定が“A”から一気に“C”まで落ちてしまったことだったんだ。それまでずっと“A”をとりつづけ、合格確実なんてもてはやされてただけに、そのショックがとにかく大きかった。なんだか、全てに見捨てられたような気がした。先生の視線が冷たくなったように感じて、親からも、期待が外れたように見られているような気がした。
 もしかしたら、全てはあたしの被害妄想でしかなかったのかもしれない。でも、一度そう感じてしまうと、もう、ダメだった。あたしの勉強意欲はどんどん低下していって、もう正直、落ち込むことにも疲れてしまっていた。

 そんなときに、久しぶりに会ったアキラに、あんなことを言われた。それも、コウスケから、アキラはがんばって結果を出したという事実を聞いた後だったから、余計に神経が逆立った。

『あんたに、何がわかるのよ』

 あたしは、そう言ってしまった。ひどい言い方だったと思う。でも、あの時は本当に、そう言うことしかできなかったんだ。頭に血が上って、カッとなって、あんなひどいことを言ってしまった。

 あたしはそれまで、どこかアキラをバカにしていたんだと思う。口ゲンカしてあいつに負けたと思ったことは一度も無かったし、何度もコウスケに挑戦してその度にあいつが負けている姿も見ていたから。あたしとあいつは違う。どこか、そんなふうに思っている部分があったのかもしれない。
 ひどい話だ。最低だ。それでいて結局、あたしは今、立場を逆転されてしまっている。

 あいつは、何度負けてもがんばって、結果を出した。
 あたしは、たったの一度失敗して、くじけてしまった。

 本当は、あいつのほうがずっと立派だった。あたしは、負けることを知らなくて。たまたまうまくできたことに調子に乗って、あぐらをかいていただけ。だけどあいつは、ずっと負け続けながら、それでもくじけることなく、努力を続けてきた。あたしに、あいつをバカにする資格なんて、あるはずがない。
 すごく、すごく情けない話だ。自分のことながら、泣けてくる。情けなさすぎて、ホントに泣けてきそうだよ。

「サツキ〜! アキラ君がきてくれたわよ〜!」

 突然のことにびっくりして、ついあたしは背筋がピンと伸びてしまった。部屋の外から聞こえた、お母さんの声。
 アキラが来たって? ひとりで? どうして?
 あたしはわけがわからずに、妙にどぎまぎしちゃって、ろくに返事もできなかった。

「サツキ〜? 聞こえてるの? 上がってもらうわよ!」

 ま、待って!
 あたしは、そう叫びたかった。今、こんな姿でいるのをアキラに見られたら、それこそ一生の恥だ。
 あたしは慌てて、目の端を拭った。大丈夫だ。かろうじて、まだ泣いてない。ああ、でもどうしよう。今アキラと二人になったって、何を話したらいいのか、さっぱりわからない。いや、そもそも、あいつは何しに来たんだ?
 もしかしたら、怒ってるんだろうか。さっきのこと。もしそうだったら、どうしよう……。
 あたしがアキラを怖がるなんて、ありえないことだ。アキラがどんなに怒り狂っていようが、以前のあたしだっら、表情ひとつ変えずにバッサリ切り捨ててやれた。
 でも、今のあたしには、それは無理だ。

 こんこん。

 部屋のドアが、ノックされた。あたしはドキッとして、思わず飛び上がりそうになった。どう反応を返していいのか、わからない。

「お、おい、サツキ……。いるん、だよな?」

 アキラの声が、聞こえた。

「入っても、いいか……?」

 落ち着け、あたし。
 声の感じでは、どうやら怒っている様子ではない。むしろ、なんか腰が引けている感じ。向こうもどぎまぎしているような、そんな感じだ。あたしは、小さく深呼吸した。さっきから窓の外で、ミナヅキが不思議そうにあたしを見ている。返事をしなくていいのか? そう、視線で言っている。わかってるよ、もう。

「い、いいわよ。さっさと入んなさいよ」

 ああ、結局ケンカ腰。「お、おう」と、またどぎまぎしたような声が返ってきて、そして、がちゃっと、ドアが開いた。
 顔を出すなり、アキラは、妙に引きつった笑顔で、ひょいと片手をあげた。

「よ、よう、サツキ。元気か?」

 ちょっと声が裏返っている。いったいなんなんだ、この不自然さは。
 あたしはとりあえず、部屋の隅の方に積みあがっていたクッションを二つとって、部屋の真ん中に向かい合わせに並べた。ひとつは、ピカチュウの背中の模様がデザインされた、ピカピカクッション。もうひとつは、ジグザグマというこの地方には生息しないポケモンの模様がプリントされた、ジグザグクッションというものだ。そのジグザグクッションの方にアキラを座らせ、あたしも、ピカピカクッションの上に座った。何故か、二人ともそろって正座。ものすごく不自然で微妙な空気が、場に流れる。

「えっと……。なんか、飲む?」
「え……あ、おう」
「じゃあ、えっと……サイコソーダで、いいかしら?」
「お、おう」

 なんなんだ。この空気は。
 あたしはひとまず部屋を出て、キッチンの冷蔵庫に向かう。母親は、どうやらお祭りの準備の手伝いにでも出かけたらしく、姿が見えない。あたしは冷蔵庫から冷えたソーダの缶を二本取り出すと、部屋に戻った。もとのクッションに座って、一本をアキラに差し出す。座り方は、やっぱり正座。
 アキラは黙って受け取って、そして、二人そろって缶を開けた。ぷしゅっ、という音が、きれいに重なる。そんなことひとつにも、なんだか妙にドキドキした。窓の外では、相変わらずミナヅキがこっちを不思議そうな顔で見ている。ミナヅキがいるおかげでかろうじて二人きりでないのが、唯一の救い。

「あ、あのさ」

 思い切って、あたしは聞いた。

「あんた、何しに来たわけ?」

 ああ、何でこういう言い方しかできないんだろ。これじゃあまるで、あたしがアキラを迷惑に思ってるみたいだ。そりゃあ確かに今の気分を考えれば歓迎はできないけど、だからってケンカ腰で話すつもりなんてないのに。

「あー……、いや、その、だな」

 アキラの返答は、歯切れが悪い。いつものアキラらしくない。

「何よ」
「その、だな、よーするに……だな。どうしたのかなー、と、思ってよ」
「なにが?」
「いや、だから……」

 アキラは、ぼりぼりと頭を掻いて、少し視線を逸らして、言った。

「だからな、さっき、なんかお前、様子がおかしかったから……。どうしたのかなー、と、思ったわけだな」

 はい?
 えーと、つまり、こいつは、あたしのことを心配して来た、ってコト? うそ、ホントに? なんかの間違いじゃなくて? こいつが? あたしのことを?

 どうやらあたしは、よほど怪訝な顔をしていたらしい。アキラは、少し機嫌を損ねたような顔をする。

「そんなに、意外だったかよ。おれが、お前の心配したら、なんか悪いのか?」
「ベ、別に、悪くは、ないけど……」

 気まずい。本当に気まずい。どうして? なんでいきなり、そういう話になっちゃうの?
 少なくともあたしの記憶の中で、今までこいつとこんなふうにマジメな顔して話したことはなかった。それなのに、なんでいきなりこういうことになるんだろう。
 あたしはただ戸惑うばかりで、なかなか返す言葉が思いつかない。

「んで、その……。なんか、あったのか?」

 なおも、アキラは聞いてきた。

「なんか、あったんならよ……、まあ、あれだ。話して、みろよ」
「ふぇっ?」

 うわ、緊張しすぎて、変な声が出た。
 緊張? 何であたしは、緊張なんかしてるんだろう。
 アキラは、やっぱり少し気まずそうな顔で、でも今度はまっすぐに、あたしのほうを見ている。だめだ、直視できない。ちょっと待ってよ。なんで? どうしてこうなるの? 何であたしの方が、視線を逸らしちゃってるの?
 なんだか、それは気に入らない。ちょっと悔しくなって、あたしは、まっすぐにアキラの顔を見返した。こうなったらもう、やぶれかぶれだ。

「別に、そんな……たいしたことじゃ、ないわよ。ただ、その」

 ああもう、何をぐずぐずしているんだ。さっさと喋ってしまえ。吐いて楽になってしまえ。あたしは一度小さく深呼吸をして、そして、全部を話した。あたしが悩んでいたこと。勉強のこと。アキラががんばっていたことを知って、焦っていること。普段だったら絶対人に喋ったりしないようなことを、あたしは全部、ぶちまけた。

 途中アキラは、口を挟むことなく、真剣な顔をして、ときに驚いたような顔をしたりしながら、聞いていた。すごく真剣に聞いていた。それは、あたしが今まで知らなかったアキラだった。今まで見たことがない、会ったことがないアキラだった。ただ黙って話を聞いてくれているだけなのに、なんだかすごく新鮮な感じがした。ああ、アキラって、こんなふうに話ができる相手だったのか。ちょっと大袈裟だけれど、それは、新たな発見だった。

「……まあ、そんなところよ」

 そう言って、あたしは話を締めくくった。一気に喋ったから、ちょっと疲れた。なんだか、顔が火照ったように熱い。アキラは、なんだか妙に神妙な顔で、言った。

「そう、か。サツキも、いろいろあったんだな……」
「別に、そんなたいしたことじゃないって。でも、まあ、ちょっとはすっきりしたかな。全部話しちゃったから。……あの」

 ありがとう、という言葉が、喉のそこまで出てきて、でも、結局言葉にはならなかった。どうしたって、あたしは素直にはなれないらしい。そんな自分が、ますますイヤになる。

「でも、なんでなんだ? 急に、あのサツキが、成績落ちちまうなんて。なんかあったのかよ?」
「わかんないんだよね、それが。ただ今は、どうして、前はあんなにがんばって勉強なんかしてたのか、わかんないんだよね。あたしは今まで、いったい何のためにがんばってきたんだろう、ってさ。それが、どうしても、わからなくなっちゃって」

 本当だった。あたしは、わからないんだ。今では、何のために大学に行きたかったのか、それすらわからない。そのことが気になり始めるともう、勉強なんか手につかないんだ。誰かに話してもそんなのは言い訳だって言われるだけだから、今まで誰にも言わなかったんだけれど。今なら、アキラになら、自然と打ち明けられた。

「そっか。……なんかよ、こんなこと言うとアレだけど、サツキも、おれと変わんねえんだな」
「は? どうしてよ。あんたは、だって、ジョウト地方で、がんばって……」
「コウスケに勝った、か? でも、そのあとおれがどうしてるかは、聞いてないだろ。……おれ、さ、逃げてきたんだよな。この島に」

 突然、何を言い出すのだろう。あたしはわけがわからなくて、アキラの次の言葉を待った。

「おれ、さ、コウスケに勝っちまった後さ、どうしていいのか、わかんなくなったんだよな。目標を、なくしちまったっていうかさ。それで、これから何を目指していけばいいのかわかんなくなっちまって、そんな気持ちのまんま、修行を続けるのが、どうにも耐えられなくなっちまってさ。それで、そうやって毎日過ごしてんのがイヤになって……。逃げてきちまったんだよ、この島に」
「……」
「だから、さ。変わんねえんだな、サツキも、おれもさ。サツキはよ、まだ十五歳でおれよりチビのくせに大学目指してて、正直すげえなって、なんか遠いなって、思ってたんだけどさ。案外、近くにいたんだな。似たようなことで、悩んだりすんだな。なんか、ちょっと、ほっとしたぜ」

 そう、アキラは、照れくさそうに視線を逸らしながら言った。
 あたしは、正直驚いた。でも、その言葉を聞いた後で、思った。

 あたしも、同じだよ。あたしも、あんたと同じ気持ちだよ。
 アキラはすごくがんばってて、正直遠くなっちゃったって思ってたのに。案外、近くにいたんだね。なんだか、不思議な感じ。同じなんだね、あたしも、アキラも。

 もしかしたら、コウスケやスズネも、同じなのかも。あたしたちは、もしかしたら、思ってたよりもずっと、近いところにいたのかもしれない。
 ずっとみんなに会えないうちに、どんどんみんなが遠くなっちゃったような気がして、なんだかずっと寂しかった。だから、なんだか今、すごく、ほっとしてる。安心してる。久しぶりだ、こんな気持ち。こんなふうに、安心した気持ちになったのは。
 どうやら、そんな気持ちが、すっかり顔に出ていたらしい。アキラが怪訝な声を出した。

「おい、チビサツキ、どうかしたのか?」
「チビって言うな、バカアキラ」
「なんだとこのマメサツキ、せっかく人が心配してやってんのに」
「うっさいアホアキラ。あんたなんかに心配される覚えはないわよ」

 あたしたちは、互いにむっとして、にらみ合った。昔と同じように。一番楽しかったあの頃と、同じように。
 しばらくあたしたちはにらみ合って、それから、どちらとも無く、ぷっと吹き出した。それから、ふたりしてくすくす笑う。ああ、ホントに久しぶりだ、こういうの。さっきまで感じていた気まずさは、すっかりどこかに吹き飛んで。昔と同じように、あたしたちは笑い合った。

 なんだか、本当にほっとする。ずっと悩んで苦しかったことも、こうしていると、忘れられる。この、どうでもいいようなふざけた時間が、今は、どうしようもなく大切なもののように感じた。

「そういえば、さ」

 アキラが、何かを思いだように言った。

「お前、今回で、巫女、引退しちまうんだろ?」
「うん」

 あたしは、ゆっくりと頷いた。そうなんだ。あたしは、今回のお祭りで、巫女を引退する。たとえタマムシ大学はムリになったとしても、あたしも来年から本土に渡って、どこかでちゃんと勉強をするつもりだからだ。

「それで、今回の“優れたる操り人”は、もう決まったのか? 誰か、旅のトレーナーは来たのかよ」
「ううん、まだ。なんか、聞いたところによると、近いうちに旅人が来る気配はないんだって。だからもしかしたら、祭りが終わるまでに、結局誰も来ないかもしれないっていう話を、この前長老様から聞いたよ」
「そしたらお前、どうすんだよ。最後なのに、祭りの主役の相方がいないんじゃ、カッコがつかねえじゃねえか」
「そうなんだよね。まあ、そればっかしは、運に任せるしかないんだけど……」

 そうなのだ。このお祭りの怖いところは、そこにある。“優れたる操り人”の役は、旅のポケモントレーナーを捕まえてやってもらうのが、毎年のこと。だから、そんな人が来るのか、そもそもお祭りの期間の間にちゃんと誰か来るのか、運に任せるしかないんだ。下手をすると、今みたいに誰も来ないかもっていう年もある。本当に、計画性や確実性の無い行事だ。
 最後の最後で誰も来ないっていうのは、やっぱりちょっと寂しいけど。でも、そればっかりは、しょうがないんだよね。

 ただ、もし本当に誰も来なかった場合、今あたしの中には、ひとつのアイデアがある。本当についさっき、思いついたこと。
 ただ、これはちょっと、照れくさいっていうか、恥ずかしいっていうか……。提案すべきかどうか、迷うところだ。

「そういえば確か、前にも一度、お前が巫女の時に、偶然誰も来なかった時があったよな。あれは……そうだ、お前が巫女に選ばれて、初めての祭りのときだ」
「ああ、そういえば、そんなこともあったっけ。あんときは、ええと、どうしたんだっけ?」

 アキラは、記憶を探るようにしながら、ぽつりぽつりと言う。

「ええと、あんときは、確か……。結局、祭りの直前になって、海が荒れて、オレンジ諸島のあちこちで船が出せなくなったんだよな。それで、もう祭りの期間中に旅人が来ることはできないだろうってことになって、それが確か、祭りの前日になって知らされて」

 ああ、そういえば、そうだった。初めての巫女の役目で、嬉しいような、怖いようないろんな気持ちがぐるぐるしたときで。どうして、今まで忘れていたんだろう?

「んで、そんときお前は、めちゃくちゃ祭りを楽しみにしてて。それで、その知らせを聞いたときに、信じられないって顔して、そんで、ひとりでどっかに走って行っちまって。それを、おれとコウスケとスズネで追っかけて……。ああっ!」

 突然、アキラは大きな声を出し、あたしは飲んでいたソーダを思わず吹き出しそうになった。

「な、なによ、いきなり。どうしたの?」
「い、いや、確か、そんときに、そうだよ、そんときだ! おれたち、見たんだよ、あんとき、あそこで! そうだ、思い出したぞ! それで、おれたちは、あのときに、四人で……。こうしちゃいらんねえ。おい、今、何時だ?」
「へ? 何なのよ、いきなり。今は、えっと、もうすぐ午後六時ってとこ?」
「そうだ、ちょうど、あんときもそれくらいの時間だった。もしかしたら、今行けば、また見られるかも知れねえ。サツキ、急ぐぞ、すぐ出発だ」
「はあ? なに? いったいなんなのよ? いくって、どこに? 見たって、何を?」

 アキラは勢いよく立ち上がる。わけがわからない。いったい、何を思い出したっていうんだろう。

「いいから。もしあれがまた見られれば、きっとお前も思い出す!」

 あたしはまったくわけがわからず、なおもぐずぐずしていると、アキラは焦れたようにあたしの手を掴んだ。

「あっ、ちょっと」
「いいから行くぞ。行けばわかる!」

 その勢いに負けて、あたしはついに立ち上がった。そして、アキラに促されるままに、家を出て、走り出す。その間アキラは、ずっとあたしと手をつないだままだった。あたしはどうにも気恥ずかしくて困ったけれど、それでも振り払うことはせずに、そのまま一緒に走った。走っている間、その握った手の部分が、ひときわ熱く感じられた。


   * * *


 連れてこられたのは、あの祭壇だった。お祭りの最後に、“優れたる操り人”が持ってきた宝を収めて、巫女が笛を吹く場所。伝説の中で、巫女が神々の怒りを鎮めた場所だ。ここに来るのは、あたしはちょうど一年ぶりだった。つまり、去年のお祭りのときに来て以来。そういえばここって、昔はあたしたちがこっそり忍び込んで、秘密の遊び場にしていたんだっけ。そんな懐かしい日々を思い出しながら、あたしは祭壇の上を歩いた。

 海の、ざざあ、ざざあ、という穏やかな波の音が、すぐ近くに聞こえていた。潮が満ちている。その音を聴いていると、走りすぎて飛び跳ねるようだった心臓の鼓動も、だんだんと落ち着いてくる。あたしは海の音を聞きながら、一度大きく深呼吸をした。そして、アキラに追いついて歩き出す。

 アキラは今、あたしの前を歩いている。あたしは未だにアキラが何を思い出したのかわからないまま、その後ろにくっついて歩いている。その背中が、なんだかやけに大きく見えた。
 途中、祭壇を護っているヤドキングの住処の前を通ったけど、ヤドキングは器用にも、立ったままいびきをかいて眠っていた。本当に、こいつはここを護っているのだろうか。あたしたちが勝手に祭壇の奥に入り込んでるっていうのに、ちっとも目を覚ます気配がない。
 あたしたちは無言でヤドキングの前を通り過ぎ、崖沿いの狭い道を通って、奥へ進んだ。

「ちょ、ちょっと、危ないわよ、ここ。崖になってる。こんな狭いとこ、わざわざ通らなくてもいいじゃない」
「なんだよ、怖いのか?」
「ベ、別に、怖くなんか」
「ほらよ」

 あたしの言葉を遮って、アキラは、あたしの方に手を差し出してきた。あたしは、その手とアキラの顔を交互に見て、それから、黙ってその手をとった。手なんか繋いだらかえって危ないような気もしたけど、なんだか、断る気分にはなれなかったんだ。

 空は、すっかり夕焼け空だった。空も、海も、燃えるような真っ赤な色に染まっている。太陽と反対の方からは、だんだんと紺色の空が広がり始めていて、その微妙な色彩の変化が、とてもきれいだった。

「あれっ? アキラ? それに、サツキも! お〜いっ!」

 突然そんな声が聞こえて、あたしは驚いて声のした方を見た。あたしたちが歩いている、先の方。そこは、もう狭い道を抜けて少し広くなった場所で、海に張り出した岩の地面に、たくさんの白い花が咲いている場所だった。そして、その花畑の中心あたりに、声の主はいた。肩までの栗色の髪を揺らして大きく手を振っている、あたしよりも少し年上の少女。そして、その隣にいる、少女より頭ひとつ分背の高い少年。

「スズネに、コウスケ? どうして、こんなところに。って、あっ」

 あたしは、慌ててアキラと繋いでいた手を離した。
 アキラがバランスを崩しそうになって、なにするんだよっていう顔であたしの方を見る。だって、しかたないじゃない。こんなところ、あのふたりになんか絶対見せられない。

「アキラ、サツキ、早くこっちに来なよ! 海がすっごくきれいだよ!」

 どうやら、手を繋いでいたことは、気付かれてはいないみたいだ。あたしはひとまずほっとして、それから、アキラと一緒に駆け足で二人の元へと向かった。

「よお、お前らもきてたのか」

 アキラが片手を挙げて言うと、コウスケも同じ動作を返しながら答えた。

「ああ、ついさっき祭壇で話してたときに、ここのこと思い出してさ。それで、スズネと一緒に、久しぶりに来てみたんだ」
「うん、すごく、懐かしいよね。でもわたし、さっきコウスケに言われるまで、ここのこと、すっかり忘れちゃってたんだよ。すごく、大切な場所だったはずなのにね」

 スズネはそう言って、にっこりと笑う。夕日に照らされたその笑顔が、なんだかやけにきれいに見えた。
 ふたりの後ろには、カメックスのタキと、ラプラスのナギが、じゃれ合って遊んでいる。いや、一方的にナギがじゃれついているだけかも。
 アキラもモンスターボールを取り出して、サンダースのラムネを出す。いつの間について来ていたのか、ミナヅキがパタパタと飛んできて、近くの岩にとまる。
 先に来ていた二人の隣に並びながら、アキラはコウスケに尋ねる。

「おれら、間に合ったか? おれもついさっき思い出して、慌てて来たんだけどさ」
「間に合ったよ、ギリギリ。だんだん、夕日も沈んできた。そろそろだぞ」

 アキラとコウスケが話しているのを聞いて、あたしは、ずっとかかえていた疑問を口にした。

「あの、いったい、なんなの? ここでこれから、何があるってのよ」

 すると、コウスケが、あれ、という顔をして、あたしを見た。

「サツキ、覚えてないのか? まあ、おれもついさっきまで、すっかり忘れてたんだけど」
「覚えてないのか、って。……何を?」

 すると今度はスズネが、くすくすと小さく笑いながら、懐かしそうに言った。

「そっかあ、そうだよね。もう、五年も前のことなんだもんね。わたしも、すっかり忘れてたもん。でも、見てればきっと、サツキも思い出すよ。今日が、わたしたちにとって、すごく大切な日だったってこと」

 スズネは本当に嬉しそうに、にっこりと笑った。いったい、なんだというのだろう。みんなして、いったい何を待っているというんだろうか。

 今日が、すごく大切な日? お祭りは、明日からだ。今日は、その前日。五年前は、あたしが、巫女になって最初のお祭りがあった年だよね。そういえばさっきアキラは、ちょうどそのときこの時間に、ここに四人で来たみたいなことを言っていた。

 大切な日。だめだ、どうしても、思い出せない。

 そうしている間に、だんだんと夕日は、その姿を海の中に消していった。実際はそんなわけないんだけど、でもこうしていると、本当に太陽が海に吸い込まれていくように見える。
 あたしたちは、もう何も言わずに、ただ四人並んで、海をじっと見つめていた。風の無い海のひんやりとした空気が、とても気持ちいい。
 夕日が沈んで、徐々に、紺色の空が広がってくる。完全には真っ暗じゃない、うっすらと光のある、紺色。海もその色を映して、だんだんと、深い深い紺色に染まっていく。
 そのときだった。

 海が、突然、きらきらと輝き始めた。月の光に、照らされているのだろうか。深い紺色に染まっていた海が、眩しいくらいにきらきら輝いて、そう、まるで、海が銀色になっているみたいだった。
 透きとおった、銀色の海。夜の海に広がる、銀色の光。その光景は、本当に神秘的で。心が、すうっと洗われていくようだった。

「わぁ……」

 あたしは、思わず感嘆の声を出していた。意識しなくても自然とそうしてしまうくらい、この光景はきれいだった。と、その銀色に輝く海の中を、すうっと、何かが横切った。

 それは、とても大きくて。力強くて。でも、どこか繊細で。
 それは、細く長い首と、すらりとした細いからだが続く、一体のポケモンの姿のように見えた。
 そして、そのポケモンの体は。やっぱり、透きとおった銀の色に、淡く、輝いていた。

 あたしたちは、その姿に、すっかり心を奪われていた。その銀色のポケモンは、それから少しして、現れた時と同じように、すうっと、姿を消した。同時に、銀色の海もまた、もとの深い深い紺色に、その姿を戻していった。

「はぁ……」

 思わず、溜息がもれた。疲れているわけじゃない。嫌な気持ちになったわけでもない。ただ、今見た光景が、あまりにもきれいすぎたから。

「あたし、思い出したよ」

 自然と、口が動いて、言葉を紡いでいた。アキラも、スズネも、コウスケも、何も言わずに、じっとあたしの言葉を聞いてくれる。

「あたし、思い出した。あのとき、五年前の今日、あたしは、お祭りの場所から逃げ出して、それで、気がついたら、ここにいたんだよね。それで、逃げてきたはいいけど、やっぱり、寂しくなっちゃって……。それで、ひとりで泣いてたら、みんな、来てくれたんだよね」

 あたしは、顔を上げた。紺色の海と紺色の空に、銀色をした月が、淡い光を放っている。

「それで、四人でここにいたら、見たんだよね。今のと、おんなじ景色。海が、銀色に輝いて、そして、銀色のポケモンが、あたしたちの前を通り過ぎた。そのときに、あたしたち、決めたんだよね」

 あたしは、振り返って、みんなの顔を見た。コウスケ。スズネ。アキラ。みんな、とても優しい顔で、微笑んでいた。あたしも、おんなじ顔を、みんなにして見せた。うまく、できてたかな。

「あたしは、勉強して、いつかあの銀色のポケモンのことを、銀色の海のことを、もっと知りたいって」

 そう、あたしは、知りたかった。どうして、あんなにもきれいなものがあるのか。どうして、あたしたちの前に姿を見せてくれたのか。知りたくて、あたしは、勉強を始めた。
 アキラは、海に視線を戻して、あたしの言葉を引き継ぐように、言う。

「おれは、いつか、強くなって、あのポケモンよりも、誰よりも、強くなってみたいって」

 そう、アキラには、あのポケモンの姿はきっと、他の何よりも強く、大きく見えたんだよね。その姿を追いかけたいって。あんなふうに力強くなりたいって。それが、アキラの願いだった。
 次にスズネが、いつもの笑顔で、言う。

「わたしは、いつか、あのポケモンみたいに、きれいな輝きを生み出せるようになりたいって。それで、みんなを、わたしたちが感じたのとおんなじくらいに感動させてあげたい、って」

 スズネは、昔から変わんないね。みんなに感動を伝える。それはきっと、こんなに優しいスズネだから、できることなんだろうな。
 最後に口を開いたのは、コウスケ。

「おれは、いつか、あちこちを旅して、あんなにきれいなポケモンを、もう一度見たいって。あのきれいな景色を、もっと探してみたいって」

 コウスケは、いつも、どこか遠くを見ていたよね。それはきっと、他の誰よりも、いろんなものに、感動していたからなんだと思う。
 あたしたちは、お互いの顔を見合わせて、それから、みんなでくすくすと笑った。

「あたしたち、まだまだ、この目標に、近づけてもいないよね」
「そうだな。毎日が忙しすぎて、おれたち、すっかり忘れてたくらいだもんな」

 コウスケが言って、あたしたちは、みんな頷いた。そう、あたしたちは、毎日が精一杯で、ずっと、忘れていたんだ。この、大切な目標を。

「今日、ここにきて、ホントによかった。わたしたち、ここに、逃げてきたって思ってたけど、そうじゃなかったんだね」

 スズネが、なんだかとても安心したように言った。そう、みんな、同じ気持ちだったんだね。

「おれたちは、見つけにきたんだよな。毎日を急ぎすぎてたせいで、落としちまってた、大事なもんをさ」

 そして、あたしたちは、見つけたんだ。あの時と同じ、この日に。全てが輝き出した五年前のあの日と同じ、今日の、この日に。

あたしたちは、見つけたんだ。

「あの、さ……」

 あたしは、思い切って、口を開いた。今、言わなくちゃ。そう、思った。

「あのさ、アキラ。もし、もしもよ。もし、お祭りの間に、このまま誰も、旅人が来なかったら……」

 ずっと、考えていた。もしかしたら、あたしはずっと、そうなったらいいなと、思っていたのかもしれない。

「今年の、“優れたる操り人”は、その……。あんたがやっても、いいわよ」
「え、お、おれが?」

 あたしは、はっきりと頷いた。
 遠い遠い目標に、確かに歩んでいくために。必要なもの。思い出。あたしたちが、確かにこの道を歩いていたっていう、その証。それを、またひとつ、ここで作ろう。
 いつかまた、道に迷ってしまったときに。

 この場所に、戻ってこられるように。




【epilogue】


 忘れていたものを、僕たちは見つけた。忙しすぎる毎日の中で、なくしてしまった、大切なものを。
 それは、楽しかった日々の思い出。
 僕たちが目指して歩いていく、その目標。
 それはたとえ、なくしてしまったとしても、どこかに、必ずどこかに、確かにあるんだ。
 だから、またいつか、忘れてしまったときには。歩くのに、疲れてしまったときには。
 そのときは、もう一度、ここに帰ってこよう。
 僕たちの大切な場所は、ずっと変わらずここにあって。
 僕たちの大切なこの日は、毎年変わらず、必ずやって来る。
 だからこそ、僕たちは。
 たとえまたいつか、迷ってしまうのだとしても。


 怖がらないで、歩いていけるんだ。







【afterwords】

 これは、今から数年前、私が高3の受験生だった時に書いた物語です。
 以前お世話になっていたホームページでは、掲載される前にサイトの閉鎖が決まってしまったために日の目を見ることはなかったのですが、確かサイトの五周年を記念した小説コンテストのために書いた物語だったと記憶しています。
 今回ここに投稿させてもらうことにしたのは、少し昔を振り返ってみたい気分になったのと、これが「夏」を題材にした物語だったから。今年はあまり夏らしいことをしなかったので、夏が終わってしまう前に、ちょっくら夏っぽいことをしてみるかーと思い立ったのがきっかけです。

 今回投稿させていただくにあたって、昨日から一晩かけて若干設定を変更したり文章に修正を加えたりしましたが、あの頃は若かったなあなんて、自分で読みながらつい恥ずかしくなってしまうような物語でした。
 私にとって数年前のあのころは本当に大切な時間で、今以上にいろいろなことを考えていた時で、だからこそこんなこっぱずかしい物が生まれてしまったんだろうなと思います。おそらく今同じ題材で書こうとしても、これはもう書けないんじゃないかなあ。

 それが変わってしまったということなのか、少しは進歩したんだということなのかはわかりませんが、これを読んで、少しでもこの表現しようのないむず痒い気持ちを感じ取ってもらえたら、冥利に尽きるというものです。

 短編と呼ぶには分量も多く、多分に読みづらいところはあったかと思い、心苦しいところではありますが……。
 この物語で少しでも楽しい時間を過ごしていただけていたら、幸いです。



【characters】

ウガミ・コウスケ
 オレンジ諸島、アーシア島出身で、ポケモンウォッチャーをしている少年。17歳。本人はあまり自覚がないが、温厚でしっかり者のために周りからよく頼りにされる。社交的な人付き合いは得意ではなく、ふざけてバカ騒ぎするようなことは苦手だが、そういう雰囲気自体が特に嫌いというわけでもない。人に対してもポケモンに対しても、ごく自然体で素直にふるまうことができる。
 和名と由来:雨上 虹亮 (雨上がりの虹)

スズカゼ・スズネ
 アーシア島出身で、ポケモンコーディネイターを目指している少女。17歳。優しくて面倒見がよく周りからの評価は高いが、自分に自信がなく、内気に悩みがち。しかしそういったところは周りには決して見せず、いつも笑顔を絶やさない。ポケモンコンテストに挑んでいる割に賑やかで騒がしい雰囲気というのはあまり得意ではなく、馴染むことができずに上がってしまうことも多い。
 和名と由来:涼風 鈴音 (涼やかな風鈴の音色)

ミナミ・アキラ
 ポケモントレーナーとして旅をしている、アーシア島出身の少年。16歳。いつでもハイテンションな盛り上げ役だが、喧嘩っ早いのがたまにキズ。かつてアーシア島を訪れて世界を救ったという“優れたる操り人”に強い憧れを抱いている。
 和名と由来:南風 陽 (南の島の風と太陽)

シゲモリ・サツキ
 アーシア島在住で、お祭りの巫女を務める家系に生まれた少女。15歳。頭脳明晰で成績もよく、現在カントー本土のタマムシ大学に合格することを目指して勉強に励んでいる。あまり愛想がよくなく、周囲から付き合いにくい性格と思われているため、友達も少ない。そのためか、幼馴染であるコウスケたちとポケモンたちのことを、本当に大切に思っている。
 和名と由来:茂森 皐月 (夏の初めの茂る森)

タキ/カメックス♂
 コウスケのパートナーポケモン。素直な性格。幼い頃からコウスケと一緒で戦闘経験も豊富なため、レベルは高い。パートナーに似て温厚でおとなしく、戦いはあまり好まない。

ナギ/ラプラス♀
 スズネのパートナーで、無邪気な性格。幼い頃群れからはぐれ、スズネに保護された。体は大きいがどこか子どもっぽいところがあり、スズネをよく困らせる。

ラムネ/サンダース♀
 アキラのパートナーポケモンで、やんちゃな性格。アキラ同様気性が激しく、好戦的。落ち着きがなく、少々ドジなところがある。

ミナヅキ/ピジョン♂
 サツキのパートナーポケモン。真面目な性格。サツキのことを真剣に主人だと思っており、とても忠実。いつでも木の枝などにとまってサツキの様子を窺っている心配性な面がある。

ヒナタ・アオイ
 サツキの従姉妹で、先代の巫女。22歳。明るく快活な性格で、内気な従姉妹やその友人をからかうのが好き。その容姿はかつて島の危機を救った巫女の少女とよく似ており、巫女になった当初はいい加減な態度で臨んでいたことも含めて、彼女の再来と呼ばれたこともあった。
 和名と由来:向日 葵 (ひまわり)

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