トリトドンちゃんがふみふみしたおうどんが世界一美味しい

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作者:みぞれ雪
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4月23日 トリトドンの日記念作品
 ポケットモンスター。縮めてポケモン。私たち人間は、不思議な生き物と力を合わせて生きている。ポケモンを戦わせる競技に一生を捧げる人間や、ポケモンの力を指揮して仕事をする人間、ペットのようにポケモンを愛でて人生を豊かにする人間。国から護身のためにも1人最低1匹のポケモンを所持することを強く推奨されていることもあり、ポケモンと人間の付き合い方は多様性に満ち溢れている。
 そして私は、パートナーポケモンに癒されることでどんな過酷な労働にも耐えられる、無敵の社会人である。業種はデスクワークの頭脳労働。ポケモントレーナーや引越し業や医療機関のような、ポケモンと共にする仕事に就くことはできなかったけれど。そんな瑣末なことは、ポケモンと人間の愛の深さには関係のないことである。

 私のパートナーポケモンは、何を隠そうトリトドンである。6つのあんよでよちよち歩く姿が可愛らしい、うみうしポケモン。その中でもさらに、身体が桃色の「にしのうみのすがた」の個体だ。地元を離れて独り立ちをする直前に、夕暮れの海で私にゲットされてくれた。そのぽわっとした間抜けな顔が、疲れた社会人を癒してくれるに違いない。そんな人間の身勝手な下心と浅い想像力を遥かに超える愛おしさを、トリトドンは持っているのだ。

 とあるインフルエンサーの影響で、世間ではポケモンと一緒に料理をすることが一大ブームとなっていた。心理学の専門家がそのストレス緩和の効能を熱く解説した後押しもあり、性分に合わない自覚はありながらも、私も久しぶりにブームに乗ってみる気になった。
 私は居間のカーペットの上に防水シートを敷くと、モンスターボールからトリトドンを出した。体を覆う粘液が床に奪われてしまわないように、トリトドンと屋内で過ごすならこのようにすると良い。タブレットで様々な料理動画を検索し、「何を作りたい?」と聞きながらトリトドンに見せてやる。手先が不器用なポケモンのための、イタズラ好きなポケモンのための、四つん這いのポケモンのための——ポケモンの特徴に合わせた料理動画が、様々な動画クリエイターによって公開されている。四つん這いのポケモンのための料理動画を、私は再生した。
 紹介されていたのは、足で踏みながら作るうどんだった。まず、人間が小麦粉と水と塩を分量通りに混ぜて生地を作り、床に大きなビニール袋を敷いて生地を置いた。さらに汚れないように袋を被せて、投稿者のパートナーであるフシギダネが楽しそうに生地を踏んでこねていた。——なるほど。この料理であれば、手足を器用に使えないトリトドンでも作れる。何より、トリトドンちゃんのまあるいよちよちあんよで、一生懸命にうどんをこねこねしている姿を想像するだけで、すでに可愛い。
 これどう? とタブレットを指差しながらトリトドンを見ると、口を半開きにして動画に釘付けになりながら、防水シートの上で前あしをぺたぺたふみふみと動かしている。動画のフシギダネのテンションが上がりうどんの上でぴょんぴょん跳ね始めると、トリトドンも首を上下に揺らしながらふみふみの速度を上げ、ぽえっ、ぽわー、と歌うように鳴いている。決して表情豊かなポケモンではないけれど、だからこそ、何を考えているのか想像するのが楽しい。これだから、トリトドンの観察はやめられないのだ。
 うどんを作ろう。そう呼びかけると、トリトドンはきゅあっ、と甘えたように鳴いた。

 そうと決まれば一瞬で材料を準備できるのも、このレシピの素晴らしいところだ。動画に高評価をつけると、私は早速キッチンへと向かい、小麦粉と水と塩をこねこね、生地を作った。動画で使っていたような大きなビニール袋は我が家にはない。少々贅沢にもラップを何回か重ね、生地でトリトドンが汚れないようにしっかりと覆った。トリトドンは生地を目指して這い寄ると、私の顔をじっ……と見上げる。むんっと山なりに結ばれた不機嫌そうな形の口に見えるが、甘えているのが目でわかる。うどん生地を踏んでいいか、私のGOサインを今か今かと待っているのだ。今すぐに生地を踏ませてあげたい。一方で、もう少しだけ意味のないお預けを続けてトリトドンにいじわるしたい。逡巡する私を、トリトドンはふにゃんと首を傾げて見つめた。その可愛さに免じて、GOサインを出してやろう。踏んでいいよ、と声をかけると、トリトドンはいそいそと生地の上に乗った。
 人間よりも軽い約30キロの重みだが、小麦粉の塊はぐにゃんと沈む。沈んだ瞬間、トリトドンは大きく口を開けてこちらを振り返った。見て! 今、沈んだよ! と、興奮したような心の声が聞こえる。見ているよ、そうだね、と頭を撫でてやると、トリトドンは長い首を垂らして顔をしっかりと生地に向け、2本の前あしをむぎゅむぎゅと動かした。

 そういえば。トリトドンと触れ合うことはよくあるが、トリトドンに踏まれたことは、私はまだない。粘膜がぬめぬめしていながらも、体はもちもちで弾力があり、ぷにぷにが病みつきになる触り心地。そんなトリトドンが、ぽよぽよした柔らかいお腹と短くて可愛いあんよで私を踏んでくれたら——全身でトリトドンの全てを感じられるのだ。こんなに幸せなことがあろうか。
 そうだ。むしろうどんの生地より、私の方が熱烈にトリトドンに踏まれたいのだ。なぜ私の方がトリトドンちゃんに踏まれたいという気持ちがこれほどまでに強いのに、食べ物か人間か、その違いのせいでその座を奪われなくてはならないのだ。私は人生で初めて、人間でもポケモンでもない何かに激しく嫉妬した。それほどまでに、一生懸命に生地を見つめてこねこねするトリトドンの魅力が私を狂わせたのだ。

 ふと気がつくと、トリトドンは困惑したようにこちらを見つめ、とどん……と小さな声で鳴いている。よく見ると、うどんの生地が十分に伸ばされて、ぺたんこになっていた。踏んでも形が変わらなくなったそれを、トリトドンは少しだけ悲しそうな顔でふみふみしている。慌てて生地を球体に成形し直すと、トリトドンはにぱっと口を大きく開け、再びうどんをこねこねし始めた。
 私は考えを改める。トリトドンが一生懸命に作ってくれたうどんを食べられる。それだけで十分すぎるくらいに幸せすぎるだろう。トリトドンに踏んでもらうなんて、幸せの過剰摂取だ。そんなことをしなくても、トリトドンは十分に私を癒してくれるのだ。
 何度か私が小麦を成形し直しては、トリトドンが頑張ってこねる。それを繰り返すと、生地に粘りとまとまりが感じられた。これを茹でれば、いわゆるコシのある美味しいうどんになるだろう。トリトドンも少しずつ料理に飽きて疲れてきたようだ。そこで、お疲れ様と声をかける。残りは、人間の料理の腕の見せどころだ。生地をまな板の上で伸ばして、歯ごたえが出るように少し太めに切ってゆく。それを熱湯で茹でると、トリトドンはぽへっと不思議そうな顔で湯気を見つめていた。本音を言えば、トリトドンちゃんが技として出した「ねっとう」でうどんを茹でたかったのだが、気持ち悪いと思われたくないのでやめた。うどんがしっかり茹でられたら、出汁を効かせた汁に泳がせ、トリトドンとの共同作業が完成だ。せっかくなので、最大限に美味しくなるように、天かすやみょうがを入れて風味豊かにしてみた。

 私には温かい汁に浸されたうどんが最適だが、トリトドンは違う。熱いものをふーふー冷ますことができないし、ずるずると勢いよく啜ることもない。そのため、味を麺に染み込ませた後は、平たい皿に盛り付けてみた。2つの皿を居間に運び、こたつ机に皿を置く。この高さの机が、トリトドンとご飯を食べるにはちょうど良いのだ。
 トリトドンは少し頭を後ろにのけぞらせ、小さく口を開けてうどんを見つめている。白くて丸い塊だったものが、薄茶色の細長い紐のようになっているのを、不思議がっているようだ。まずは私が、うどんを啜ってみせる。トリトドンが一生懸命にこねてくれたうどんは、常食している冷凍麺と比較にならないほど歯ごたえが良く、つるつるもちもちの太麺によく味が染み込み、小麦の香りもしっかり麺に封じ込まれている——これまで食べた麺類で最も美味いと断言しても過言ではなかった。トリトドンに、美味しいよと伝わるように、私は何度も頷く。すると、トリトドンは頭を下げて皿に近づけ、かぷりと麺にかみついた。もぐもぐと食べ物を頬張ると、トリトドンの柔らかほっぺがふっくらとして究極のぷにもち天使が爆誕する。咀嚼して、飲み込んで、トリトドンはぽわあっと体を横に揺らしながら上機嫌に鳴いた。美味しさを体現した後、トリトドンは皿に顔を埋めるようにうどんをはむはむと頬張っていた。粗熱をとってあげて良かった、とホッとしながら、私はトリトドンとペースを揃えてうどんを啜っていった。

 お腹も心も、想像以上に満たされた。想像を超える発見が何気ない日常で見つかることに、私はこの上ない幸せを感じるタチだ。トリトドンちゃんがふみふみしたおうどんが世界一美味しい。この嬉しい発見を噛み締めることで、私は労働の気疲れを吹き飛ばすことができるのだ。
 今度は、何を作ろうか。食後にタブレットを見つめながら、私とトリトドンは未来の楽しみに思いを馳せていた。

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