「龍」と「竜」
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私はひとり感動に打ち震えた。
もう睡魔なんか消し飛んだ。スマホから目が離せない。画面に添えた指の先まで震えてる。窓から射しこむ朝いちばんの光――これはきっと、えっと、祝福だ。
「居たんだ」
本当に、居たんだ。
ポケモンが。
○
「しーちゃん、しーちゃん! 見て見て。ほら!」
学校へ向かう制服の流れのなかに、しーちゃんを見つけた。幼馴染のしーちゃんはいつもの青いバレッタで前髪を留めて、いつもの眼鏡姿。マスクの内側で息をはずませながら警察手帳みたくスマホを掲げて駆け寄る私に、細めた目を向ける。
「どしたん、みーちゃん。寒いのに朝から元気やね。そんで頭ぼさぼさやし。せっかくきれいな長い髪が」
「あんね。これよ。私は気づいてしまったんよ」
「なんこれ」
「衝撃! 伝説のはんこつポケモンは実在した!」
「なんそれ」
しーちゃんは目を細めたまま小首を傾げつつ、鼻先に突きつけられた画面を見た。
「あー、これな。知ってる。ギラティナやっけ」
「うんうん。こっちがアナザーフォルムで、こっちがオリジンフォルム」
「そんで?」
「そんで、これよ」
スワイプして画像を切り替える。横並びに大きくスクショした二つの漢字。
「『龍』と『竜』やね。ややこしいほうと簡単なほう。これが?」
「似てない?」
「え」
「二つのすがたのギラティナと、二つの漢字。似てない?」
そう、私は気づいてしまったのだ。この偶然という言葉には荷が重すぎる一致に。
「龍」はアナザーフォルム。左上のとこが頭で、ギラティナが脚でどっしり立ってる感じと背中からみょんみょんした翼を生やしてる感じにそっくりだ。
で、「竜」がオリジンフォルム。言わずもがな上のとこが頭で、脚がなくてみょろりんと浮いてる感じ。まさに瓜二つ、いやもう感じと漢字が完全一致。今こうやってギラティナの画像と繰り返し見比べてみても、びっくりするほどそれそのものだ。
「きっと大昔の人がギラティナを見て、この漢字を作ったんよ。だから――」
「みーちゃん。なんか変なもん食べたか頭ぶつけたかしたん?」
「ないけど、めっちゃこの子に打破された」
「だは?」
「ゆうべからこの子に全然勝てんくて、そしたら朝になってた」
そんで腹が立って「なにがドラゴンタイプだこんなん全然竜じゃないし」ってSNSに書こうとしたとき、その「竜」の字がめちゃめちゃギラティナだと気づいたわけだ。
「あー、こないだ出たソフトやね。あー、徹夜でゲームしてたゆえの妄想な」
「いつも通りだし」
「いつも通りでそれはまずいし。まあとにかく、みーちゃん」
しーちゃんが手袋を外して。少し背伸びして、私の髪を撫でつけてくる。しーちゃんのつやつやミディアムヘアからは、いつものシトラスの香り。
「現実にポケモンはおらんよ。うちらはもうじき、高校生になるだけ」
○
ポケットモンスター、ちぢめてポケモン。
たとえ五メートルや十メートルを超える子でもみんな手のひらサイズのモンスターボールにすっぽり収まってしまう、ふしぎなふしぎないきもの。
地を駆け空を舞い炎を操り雷を落とす。その時点で疑いようのないモンスターなんだけど、ポケットモンスターがモンスターなところはそれだけじゃない。たぶん次にゲームの新作が出ようものなら、その数はとうとう千種類を突破する。しかもどの子も最高にかわいい。ああなんてモンスターすぎるモンスターたちだろうか。
今ちょうど、悪い意味でそれを痛感している。
「うぐぐ」
ぬいぐるみ、アクセサリ、文具、食器、そしてお菓子。視界の全方位にポケモンのグッズが陳列された空間。授業中あれだけ眠かったのにここに来たとたん目が冴えて、ありとあらゆるグッズがはっきり見える、見えまくる。やばい、全部ぜんぶ欲しい。
しばらくぶりにやって来たポケモンセンター(ポケモンを回復しないほう)の深みに、私は完全にはまり込んでしまっていた。マスク越しでもばれそうな、どでかいため息が出る。
どうしよう。最推しのモクローのグッズだけに絞ったって中学生のおこづかいじゃとてもゲットしきれない。かといって誰かにポケモン勝負を挑んでお金をもらえるわけもない。そもそも、
『現実にポケモンはおらんよ』
しーちゃんはたまに大人みたいなことを言う。ああきびしい。現実、なんてきびしい。どっと眠気がぶり返してしんどくなってきた。もうだめだ。今日は目星をつけてたモクローの大きめステッカーだけ買って帰ろう。
思った矢先、私の視界をとらえたものがあった。
アナザーフォルムとオリジンフォルム。何段もある棚に所狭しと並べられた小ぶりなポケモンのぬいぐるみのなかに、二種類のすがたのギラティナが居た。近寄って手に取ってみる。その形は間違いなく「龍」と「竜」。見れば見るほどそう見えてならない。
ふと苦い思いがよぎった。もちろんこの子も最高にかわいいし推せる(口を開けると特にかわいいと思う)んだけど、何せゆうべこてんぱんに打破されまくった相手だし。それに、もっとずっと前にだって――。
「……にーちゃん」
うん、私はやっぱり。
まだ「もしかしたら」って思ってるよ。
○
「みはや、ちょっと来なさい」
帰って靴を脱ぐなりお母さんの低い声に呼ばれた。おそるおそる仏壇の部屋を覗いたらお線香の甘い匂いがして。お母さんは合わせた手をほどいて立ち上がるところだった。
目が合った。家の中ではマスクをしないから分かりやすい。見るからに不機嫌顔。
「なに、お母さん。晩ごはんまでちょい寝たいんだけど」
「あんた最近ずっとゲームしてるでしょ。遅くまで」
「んー? いやいや。遅くまでっつっても、さすがに徹夜は今日だけ――」
「徹夜なんてしたの!?」
「やぶへび」ってこういう時に言うんだったと思う。ポケットでもモンスターでもないお母さんから特大の“かみなり”が落ちた。
「約束したでしょ! この前のソフトだって、のめり込みすぎないってあんた言ったから買ってあげたんだよ!?」
「や、うん。それは、えと。ごめん。へへ」
「何がおかしいの!」
分かってるんだ、私が悪いのは。
なのにあまりに分かりすぎて、何も言えなさすぎて、ついつい笑えてきてしまう。そのへらへらした態度が余計にお母さんを怒らせる。まるっきり火に油。
「こうなったらお父さんにもみっちり叱ってもらいます。土曜日帰ってくるんだから覚悟なさい」
「待って待って。ほら、お父さんはそういうんじゃなくて久々の家族団らんを楽しみたいと思うし。またすぐ仕事で行っちゃうし、ね」
「あんたのせいでしょうが!」
「う。いや、ほんとごめん。反省する」
お母さんはちらりと後ろを気にして長く深い息をついた。
立ち込めるお線香の匂いが不意に鼻を刺す。
「お兄ちゃんが居なくなってから、あんたは本当に」
「関係ないよ、にーちゃんは」
「成績もどんどん悪くなって。いくらそのまんま進学できるからって、再来月には高校生よ? あんなに頑張って中学受験したのに」
「分かってるってば」
「分かってない」
ぐぬ、と。喉の奥で声が漏れる。
「分かってないし分かんない。このままじゃあんたの人生どうなるか、お母さんもう分かんないわ。何でこうなったんかな。やっぱりお兄ちゃんさえ居れば――」
「関係ないって言ってんじゃんしつこい!」
ぐわ、と。頭の中に血がのぼる。今度は私の藪が盛大に突っつかれる番だった。
呼吸が一気に浅く激しくなって、しんどい。
「なんなん。なんなんよ。それじゃまるで――にーちゃんが悪いみたいだし」
「みはや?」
「もういい。もうやだ。ばいばいお母さん」
「ちょっと、待ちなさい! みはや!」
制服のまま家を飛び出す私は、もはや私にも止められなかった。
○
おめでとう。イーブイがエーフィに進化した。ありがとうよろしくエーフィ。
いっぽう画面の外、窓の向こうは真っ暗。むしろブラッキーに進化させるのにうってつけの時間帯だ。
うちと駅の間くらいにあるコンビニのイートイン。私はここで、コンポタ缶片手にポケモンを育てていた。と言ってもまだほんの二十分くらい。
あちこちうろついて、寒すぎてここへ転がり込んだかたちだった。夜に中学生が制服姿で行ける場所なんてそう多くない。ここだってそんなに長居するわけにはいかないだろう。ああきびしい。現実、なんてきびしい。そんで眠い。おなかすいた。
おにぎりでも買おうか、そう思ったらお母さんの怒り顔が浮かんだ。ぶんぶんと首を振ってその顔を打ち消す。
なんとなくブレザーのポケットからスマホを取り出して、電源を切ってたことを思い出した。これをつけたら鬼みたいな勢いで着信やらメッセージが来てるに決まってる。
ため息が出た。なんかこう、やたら心細い。
「……にーちゃん」
にーちゃん。三つ上のお兄ちゃんは私が中一のとき、ちょうど新しいポケモンのソフトが出る少し前に居なくなった。今度はどの子を連れて旅しようかって、二人で話してた矢先のことだった。今回も対戦しようって言ったら鼻で笑われたから、頑張って勝ってやろうと思ってたのに。
私はゲームの主人公に毎回「おこげ」って名前をつけて遊んでるけど、にーちゃんはいつも自分の名前で旅してた。おれ自身の冒険だからってそう言ってた。そんなにーちゃんの冒険――にーちゃんが遊んだゲーム機やソフト、セーブデータ――は今もそのままうちに残ってて、もう動くことはない。
にーちゃんが居なくなって。私はつらいことやいやなことがあると部屋にこもって、にーちゃんの冒険のデータを眺める癖がついた。今こんなに心細いのは、それができないからかも。
ぐきゅる、お腹が鳴った。もう無理だおにぎりしか勝たん。なんて思いつつ悩む。お母さんに怒られるのもそうだけど、シンプルにお金がなかった。いやさすがにまだおにぎり一個買うくらいの持ち合わせはある。でも、来月のおこづかいの日までのことを考えるとだいぶやばい。
横の椅子に置いたスクールかばんからポケセンの袋がはみ出てる。モクローのステッカーだけ買うはずだったのに、うっかり派手な散財をしてしまった。袋を開けて取り出してみる。そう――ギラティナのぬいぐるみだ。しかも「龍」と「竜」、二つとも。
『またおれの勝ち、ははは!』
私は。にーちゃんのギラティナに結局一回も勝てんかったな。
○
だんだんコンビニにも居づらくなって、外へ出てきた。
結局何も食べてないし眠いし寒いし暗い。でもうちに帰る気にはならず、駅の方向へ、通りをふらりと歩き出した。
と。そこに、
「みーちゃん」
自転車を押す、しーちゃんが居た。
「みーちゃん」
自転車を投げ出して、しーちゃんが抱きついてきた。
「みーちゃん、ここに居たん。だいじょぶ? 寒くなかった?」
そう言って私の背中をさするしーちゃんの身体はすっかり冷え切ってて。
「しーちゃん……まさか、私のこと探してたん?」
「みーちゃんのお母さんから家に電話があって、そっち来てないかって。みーちゃんスマホ既読にならんし通話も出んから、そしたら探すやん。あー、見つかってよかった。お母さん怒ってへんかったし大丈夫、大丈夫やよ」
鼻先をくすぐるしーちゃんの髪は、いつも通りのシトラスの香り。どばっと涙があふれてくる。
「ごめん。ごめんな、しーちゃん」
「何がよ」
「私、ばかだった。ギラティナから漢字が作られたんと違うくて、漢字からギラティナが作られた順番かもしれんのに」
私がそう言うなり、しーちゃんは腕を離して目をぱちくりさせた。
「今大事なとこ、そこなん?」
「違ったかな」
「んー」
もっかい、しーちゃんがぎゅっとハグしてくる。
「みーちゃんがほんまにポケモンに居てほしいって思う理由、うち、なんとなく分かってる」
「そうなん?」
「にーちゃんもそこにおるって、思えるからやろ」
私は無言でしーちゃんの身体を強く抱き返した。
「みーちゃん。やっぱ、そうやんね」
「うん――もし本当にギラティナが居たらさ。にーちゃんの冒険も、ゲームの世界のものでも、ひょっとしたらこの世界と繋がってて――今もにーちゃんは、そっちで冒険してるんかなって」
「うん、うん」
「でも私、ちゃんと分かってるんよ。本当はそんなわけないって分かってる。けど、けど」
「……みーちゃん、あんな」
急に。しーちゃんが抱きつくのをやめて辺りをきょろきょろぎょろぎょろしだした。倒れたきりだった自転車を起こして――こちらに手招きをしつつ、さっきまで私が居たコンビニのすぐ横、誰も居ない暗がりへ。そうして自転車のスタンドを立てると、人差し指でぴん、と「静かに」のサイン。
「これ、みんなには黙っててな」
ひそひそ声でそう言ってから、しーちゃんがコートのポケットから何かを取り出した。
暗がりのなか目をこらして、私の心臓がどくんと跳ねる。
しーちゃんの片手に握られたそれは、半分ずつ赤と白に塗り分けられたボール。真ん中に丸いスイッチのあるその形はまぎれもなく――。
「みーちゃんは分かるやんね、これが何か」
「……うん。え。どしたん、それ」
「あー、うちも色々あるんよ」
しーちゃんはたまに大人みたいなことを言う。
「えっとじゃあ。中身、は?」
「からっぽ。しかも壊れてる。だから良くできたおもちゃと区別つかへんよ、ごめん」
そのまま、この世界に在るはずのないボールはあっけなくしーちゃんのポッケへと戻されてく。そうしてしーちゃんは正面の通りのほうへと向き直って、肩で息をひとつ。
「まあ、そんだけ。あとどう考えるかはみーちゃん次第やね」
「……。そっか――そっかあ」
「あー、うちもうお腹ぺこぺこ。みーちゃんもごはん食べてないでしょ、帰ろ」
しーちゃんはそう言うなりすたすたと自転車を押して歩いてく。で、通りまで戻ったところでちょっと飛び跳ねるようにしてサドルにまたがった。
はっとして追いかける。そんな私の姿に、しーちゃんが眼鏡の奥の両目を細めてみせた。
「また明日ね、みーちゃん」
○
晩ごはんのあと学校の課題もちゃんと済ませ、和室の仏壇と向かい合う。
お線香をあげて、軽く合掌。脇に立てかけられた写真のそばに二つ――「龍」と「竜」のすがたのぬいぐるみを置いた。さっきお母さんがくれたみかんも添えて、もう一度、今度は深く手を合わせる。深呼吸して、甘く立ち込める煙を吸い込んでみる。
そうして、顔を上げて笑った。
「ギラティナ、今度こそこてんぱんにしてやるから。待ってなね」
写真のなかの明るい顔が笑い返してくれた気がして、私は弾むように自分の部屋へと戻った。
もう睡魔なんか消し飛んだ。スマホから目が離せない。画面に添えた指の先まで震えてる。窓から射しこむ朝いちばんの光――これはきっと、えっと、祝福だ。
「居たんだ」
本当に、居たんだ。
ポケモンが。
○
「しーちゃん、しーちゃん! 見て見て。ほら!」
学校へ向かう制服の流れのなかに、しーちゃんを見つけた。幼馴染のしーちゃんはいつもの青いバレッタで前髪を留めて、いつもの眼鏡姿。マスクの内側で息をはずませながら警察手帳みたくスマホを掲げて駆け寄る私に、細めた目を向ける。
「どしたん、みーちゃん。寒いのに朝から元気やね。そんで頭ぼさぼさやし。せっかくきれいな長い髪が」
「あんね。これよ。私は気づいてしまったんよ」
「なんこれ」
「衝撃! 伝説のはんこつポケモンは実在した!」
「なんそれ」
しーちゃんは目を細めたまま小首を傾げつつ、鼻先に突きつけられた画面を見た。
「あー、これな。知ってる。ギラティナやっけ」
「うんうん。こっちがアナザーフォルムで、こっちがオリジンフォルム」
「そんで?」
「そんで、これよ」
スワイプして画像を切り替える。横並びに大きくスクショした二つの漢字。
「『龍』と『竜』やね。ややこしいほうと簡単なほう。これが?」
「似てない?」
「え」
「二つのすがたのギラティナと、二つの漢字。似てない?」
そう、私は気づいてしまったのだ。この偶然という言葉には荷が重すぎる一致に。
「龍」はアナザーフォルム。左上のとこが頭で、ギラティナが脚でどっしり立ってる感じと背中からみょんみょんした翼を生やしてる感じにそっくりだ。
で、「竜」がオリジンフォルム。言わずもがな上のとこが頭で、脚がなくてみょろりんと浮いてる感じ。まさに瓜二つ、いやもう感じと漢字が完全一致。今こうやってギラティナの画像と繰り返し見比べてみても、びっくりするほどそれそのものだ。
「きっと大昔の人がギラティナを見て、この漢字を作ったんよ。だから――」
「みーちゃん。なんか変なもん食べたか頭ぶつけたかしたん?」
「ないけど、めっちゃこの子に打破された」
「だは?」
「ゆうべからこの子に全然勝てんくて、そしたら朝になってた」
そんで腹が立って「なにがドラゴンタイプだこんなん全然竜じゃないし」ってSNSに書こうとしたとき、その「竜」の字がめちゃめちゃギラティナだと気づいたわけだ。
「あー、こないだ出たソフトやね。あー、徹夜でゲームしてたゆえの妄想な」
「いつも通りだし」
「いつも通りでそれはまずいし。まあとにかく、みーちゃん」
しーちゃんが手袋を外して。少し背伸びして、私の髪を撫でつけてくる。しーちゃんのつやつやミディアムヘアからは、いつものシトラスの香り。
「現実にポケモンはおらんよ。うちらはもうじき、高校生になるだけ」
○
ポケットモンスター、ちぢめてポケモン。
たとえ五メートルや十メートルを超える子でもみんな手のひらサイズのモンスターボールにすっぽり収まってしまう、ふしぎなふしぎないきもの。
地を駆け空を舞い炎を操り雷を落とす。その時点で疑いようのないモンスターなんだけど、ポケットモンスターがモンスターなところはそれだけじゃない。たぶん次にゲームの新作が出ようものなら、その数はとうとう千種類を突破する。しかもどの子も最高にかわいい。ああなんてモンスターすぎるモンスターたちだろうか。
今ちょうど、悪い意味でそれを痛感している。
「うぐぐ」
ぬいぐるみ、アクセサリ、文具、食器、そしてお菓子。視界の全方位にポケモンのグッズが陳列された空間。授業中あれだけ眠かったのにここに来たとたん目が冴えて、ありとあらゆるグッズがはっきり見える、見えまくる。やばい、全部ぜんぶ欲しい。
しばらくぶりにやって来たポケモンセンター(ポケモンを回復しないほう)の深みに、私は完全にはまり込んでしまっていた。マスク越しでもばれそうな、どでかいため息が出る。
どうしよう。最推しのモクローのグッズだけに絞ったって中学生のおこづかいじゃとてもゲットしきれない。かといって誰かにポケモン勝負を挑んでお金をもらえるわけもない。そもそも、
『現実にポケモンはおらんよ』
しーちゃんはたまに大人みたいなことを言う。ああきびしい。現実、なんてきびしい。どっと眠気がぶり返してしんどくなってきた。もうだめだ。今日は目星をつけてたモクローの大きめステッカーだけ買って帰ろう。
思った矢先、私の視界をとらえたものがあった。
アナザーフォルムとオリジンフォルム。何段もある棚に所狭しと並べられた小ぶりなポケモンのぬいぐるみのなかに、二種類のすがたのギラティナが居た。近寄って手に取ってみる。その形は間違いなく「龍」と「竜」。見れば見るほどそう見えてならない。
ふと苦い思いがよぎった。もちろんこの子も最高にかわいいし推せる(口を開けると特にかわいいと思う)んだけど、何せゆうべこてんぱんに打破されまくった相手だし。それに、もっとずっと前にだって――。
「……にーちゃん」
うん、私はやっぱり。
まだ「もしかしたら」って思ってるよ。
○
「みはや、ちょっと来なさい」
帰って靴を脱ぐなりお母さんの低い声に呼ばれた。おそるおそる仏壇の部屋を覗いたらお線香の甘い匂いがして。お母さんは合わせた手をほどいて立ち上がるところだった。
目が合った。家の中ではマスクをしないから分かりやすい。見るからに不機嫌顔。
「なに、お母さん。晩ごはんまでちょい寝たいんだけど」
「あんた最近ずっとゲームしてるでしょ。遅くまで」
「んー? いやいや。遅くまでっつっても、さすがに徹夜は今日だけ――」
「徹夜なんてしたの!?」
「やぶへび」ってこういう時に言うんだったと思う。ポケットでもモンスターでもないお母さんから特大の“かみなり”が落ちた。
「約束したでしょ! この前のソフトだって、のめり込みすぎないってあんた言ったから買ってあげたんだよ!?」
「や、うん。それは、えと。ごめん。へへ」
「何がおかしいの!」
分かってるんだ、私が悪いのは。
なのにあまりに分かりすぎて、何も言えなさすぎて、ついつい笑えてきてしまう。そのへらへらした態度が余計にお母さんを怒らせる。まるっきり火に油。
「こうなったらお父さんにもみっちり叱ってもらいます。土曜日帰ってくるんだから覚悟なさい」
「待って待って。ほら、お父さんはそういうんじゃなくて久々の家族団らんを楽しみたいと思うし。またすぐ仕事で行っちゃうし、ね」
「あんたのせいでしょうが!」
「う。いや、ほんとごめん。反省する」
お母さんはちらりと後ろを気にして長く深い息をついた。
立ち込めるお線香の匂いが不意に鼻を刺す。
「お兄ちゃんが居なくなってから、あんたは本当に」
「関係ないよ、にーちゃんは」
「成績もどんどん悪くなって。いくらそのまんま進学できるからって、再来月には高校生よ? あんなに頑張って中学受験したのに」
「分かってるってば」
「分かってない」
ぐぬ、と。喉の奥で声が漏れる。
「分かってないし分かんない。このままじゃあんたの人生どうなるか、お母さんもう分かんないわ。何でこうなったんかな。やっぱりお兄ちゃんさえ居れば――」
「関係ないって言ってんじゃんしつこい!」
ぐわ、と。頭の中に血がのぼる。今度は私の藪が盛大に突っつかれる番だった。
呼吸が一気に浅く激しくなって、しんどい。
「なんなん。なんなんよ。それじゃまるで――にーちゃんが悪いみたいだし」
「みはや?」
「もういい。もうやだ。ばいばいお母さん」
「ちょっと、待ちなさい! みはや!」
制服のまま家を飛び出す私は、もはや私にも止められなかった。
○
おめでとう。イーブイがエーフィに進化した。ありがとうよろしくエーフィ。
いっぽう画面の外、窓の向こうは真っ暗。むしろブラッキーに進化させるのにうってつけの時間帯だ。
うちと駅の間くらいにあるコンビニのイートイン。私はここで、コンポタ缶片手にポケモンを育てていた。と言ってもまだほんの二十分くらい。
あちこちうろついて、寒すぎてここへ転がり込んだかたちだった。夜に中学生が制服姿で行ける場所なんてそう多くない。ここだってそんなに長居するわけにはいかないだろう。ああきびしい。現実、なんてきびしい。そんで眠い。おなかすいた。
おにぎりでも買おうか、そう思ったらお母さんの怒り顔が浮かんだ。ぶんぶんと首を振ってその顔を打ち消す。
なんとなくブレザーのポケットからスマホを取り出して、電源を切ってたことを思い出した。これをつけたら鬼みたいな勢いで着信やらメッセージが来てるに決まってる。
ため息が出た。なんかこう、やたら心細い。
「……にーちゃん」
にーちゃん。三つ上のお兄ちゃんは私が中一のとき、ちょうど新しいポケモンのソフトが出る少し前に居なくなった。今度はどの子を連れて旅しようかって、二人で話してた矢先のことだった。今回も対戦しようって言ったら鼻で笑われたから、頑張って勝ってやろうと思ってたのに。
私はゲームの主人公に毎回「おこげ」って名前をつけて遊んでるけど、にーちゃんはいつも自分の名前で旅してた。おれ自身の冒険だからってそう言ってた。そんなにーちゃんの冒険――にーちゃんが遊んだゲーム機やソフト、セーブデータ――は今もそのままうちに残ってて、もう動くことはない。
にーちゃんが居なくなって。私はつらいことやいやなことがあると部屋にこもって、にーちゃんの冒険のデータを眺める癖がついた。今こんなに心細いのは、それができないからかも。
ぐきゅる、お腹が鳴った。もう無理だおにぎりしか勝たん。なんて思いつつ悩む。お母さんに怒られるのもそうだけど、シンプルにお金がなかった。いやさすがにまだおにぎり一個買うくらいの持ち合わせはある。でも、来月のおこづかいの日までのことを考えるとだいぶやばい。
横の椅子に置いたスクールかばんからポケセンの袋がはみ出てる。モクローのステッカーだけ買うはずだったのに、うっかり派手な散財をしてしまった。袋を開けて取り出してみる。そう――ギラティナのぬいぐるみだ。しかも「龍」と「竜」、二つとも。
『またおれの勝ち、ははは!』
私は。にーちゃんのギラティナに結局一回も勝てんかったな。
○
だんだんコンビニにも居づらくなって、外へ出てきた。
結局何も食べてないし眠いし寒いし暗い。でもうちに帰る気にはならず、駅の方向へ、通りをふらりと歩き出した。
と。そこに、
「みーちゃん」
自転車を押す、しーちゃんが居た。
「みーちゃん」
自転車を投げ出して、しーちゃんが抱きついてきた。
「みーちゃん、ここに居たん。だいじょぶ? 寒くなかった?」
そう言って私の背中をさするしーちゃんの身体はすっかり冷え切ってて。
「しーちゃん……まさか、私のこと探してたん?」
「みーちゃんのお母さんから家に電話があって、そっち来てないかって。みーちゃんスマホ既読にならんし通話も出んから、そしたら探すやん。あー、見つかってよかった。お母さん怒ってへんかったし大丈夫、大丈夫やよ」
鼻先をくすぐるしーちゃんの髪は、いつも通りのシトラスの香り。どばっと涙があふれてくる。
「ごめん。ごめんな、しーちゃん」
「何がよ」
「私、ばかだった。ギラティナから漢字が作られたんと違うくて、漢字からギラティナが作られた順番かもしれんのに」
私がそう言うなり、しーちゃんは腕を離して目をぱちくりさせた。
「今大事なとこ、そこなん?」
「違ったかな」
「んー」
もっかい、しーちゃんがぎゅっとハグしてくる。
「みーちゃんがほんまにポケモンに居てほしいって思う理由、うち、なんとなく分かってる」
「そうなん?」
「にーちゃんもそこにおるって、思えるからやろ」
私は無言でしーちゃんの身体を強く抱き返した。
「みーちゃん。やっぱ、そうやんね」
「うん――もし本当にギラティナが居たらさ。にーちゃんの冒険も、ゲームの世界のものでも、ひょっとしたらこの世界と繋がってて――今もにーちゃんは、そっちで冒険してるんかなって」
「うん、うん」
「でも私、ちゃんと分かってるんよ。本当はそんなわけないって分かってる。けど、けど」
「……みーちゃん、あんな」
急に。しーちゃんが抱きつくのをやめて辺りをきょろきょろぎょろぎょろしだした。倒れたきりだった自転車を起こして――こちらに手招きをしつつ、さっきまで私が居たコンビニのすぐ横、誰も居ない暗がりへ。そうして自転車のスタンドを立てると、人差し指でぴん、と「静かに」のサイン。
「これ、みんなには黙っててな」
ひそひそ声でそう言ってから、しーちゃんがコートのポケットから何かを取り出した。
暗がりのなか目をこらして、私の心臓がどくんと跳ねる。
しーちゃんの片手に握られたそれは、半分ずつ赤と白に塗り分けられたボール。真ん中に丸いスイッチのあるその形はまぎれもなく――。
「みーちゃんは分かるやんね、これが何か」
「……うん。え。どしたん、それ」
「あー、うちも色々あるんよ」
しーちゃんはたまに大人みたいなことを言う。
「えっとじゃあ。中身、は?」
「からっぽ。しかも壊れてる。だから良くできたおもちゃと区別つかへんよ、ごめん」
そのまま、この世界に在るはずのないボールはあっけなくしーちゃんのポッケへと戻されてく。そうしてしーちゃんは正面の通りのほうへと向き直って、肩で息をひとつ。
「まあ、そんだけ。あとどう考えるかはみーちゃん次第やね」
「……。そっか――そっかあ」
「あー、うちもうお腹ぺこぺこ。みーちゃんもごはん食べてないでしょ、帰ろ」
しーちゃんはそう言うなりすたすたと自転車を押して歩いてく。で、通りまで戻ったところでちょっと飛び跳ねるようにしてサドルにまたがった。
はっとして追いかける。そんな私の姿に、しーちゃんが眼鏡の奥の両目を細めてみせた。
「また明日ね、みーちゃん」
○
晩ごはんのあと学校の課題もちゃんと済ませ、和室の仏壇と向かい合う。
お線香をあげて、軽く合掌。脇に立てかけられた写真のそばに二つ――「龍」と「竜」のすがたのぬいぐるみを置いた。さっきお母さんがくれたみかんも添えて、もう一度、今度は深く手を合わせる。深呼吸して、甘く立ち込める煙を吸い込んでみる。
そうして、顔を上げて笑った。
「ギラティナ、今度こそこてんぱんにしてやるから。待ってなね」
写真のなかの明るい顔が笑い返してくれた気がして、私は弾むように自分の部屋へと戻った。
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テーマ:雪原