キルリアの笑顔
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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
【一】
憎い。
相手を一度憎んだら、どうあっても憎い。
その感情は、男にとって最も強い感情だった。
他のどの感情よりもそれは勝る。憎い奴がいる間は、どんな感情よりも優先される。
不断の感情だった。憎い相手は、途切れず現れる。一人いなくなれば、一人現れる。憎いと思う相手を探さなくても、目がついた人間は端から憎いと思えた。
「バコウさん、本当に無愛想ですよね。一体どういう育ち方したらそうなるんですか」
男、バコウは、そんな言葉を掛けて来た取引先の人間、ヨロギを憎みはしなかった。そうだよな、と納得すらしていた。今の立場で、一切飾らない言葉をぶつけてくる人間は珍しい。その物珍しさに面食らって、言葉そのままに受け止めていた。
だからといって、特に変わる訳ではない。バコウが変わるにはもう歳を取り過ぎている。
「よくそのキルリアが懐くもんですね」
「理解できなくて良い。お前が俺とキルリアを理解出来る訳がない」
「気持ち悪いですね」
飄々とそんな強い言葉をぶつけられているのに、ああ、そう、酷いね。という程度の感想しか湧いてこない。ヨロギはぴくりとも表情を変えなかった。その顔を見ていると、ドス黒い感情も湧いてこない。
「酷い奴だな。お前以上に酷い奴は中々いない」
「どの口が言うんですか」
互いに譲らない。こんな憎まれ口を叩く間柄だが、関係が悪いとは言えなかった。仕事上のコミュニケーションには困っていない。ただヨロギとしては、組織で一番のハズれポジションである、バコウ担当を押し付けられているのが不服らしい。そもそも、そんなポジションがあること自体がおかしいとの話だった。こんな奴相手に気を遣う必要はない。言いたいことは言えば良い。何を言い返されようが、何をされようが、こんな無愛想で歩み寄りのない下劣な人間相手に容赦する必要はない。誰もが同じ接し方すれば良いのに、何故誰もそうしないのか。担当なんて決めずに、暇な奴がやればいい。
主張は分かりやすかった。
そして、その主張は誰にも受け入れられていない。同じように担当として送り込まれて来たヨロギはもう四人目だった。新しい仕事の連絡、対象の情報提供、依頼の補助、報酬の交渉、後始末。その全てがヨロギの役目であり、一年も続く人間はヨロギだけだった。
「つまらない話はここまでとして、仕事の話をします。次の対象は、こいつです」
バコウの横に立つキルリアは、いつも通り、笑っていた。
【二】
キルリアは、バコウの最初のポケモンだった。
ラルトスから育てて、バコウが大きくなるのと同じように進化した。バトルはさせていなかった。痛い思いなどして欲しくなかった。隣にいて、笑ってくれるだけでそれで良かった。
キルリアの笑顔は、肯定の証。憎い相手にその感情をぶつけてもキルリアは笑って踊っていた。憎い相手の頭を踏みつけても、笑っていた。何をしても隣で笑うキルリアにだけ、バコウは笑いかけた。笑っている限りは、それで良いのだと思った。
誰に何を言われても変えるつもりはなかった。
笑ってくれるから。ただ、それだけの理由で。
「顔をよく見ておいて下さい」
「それで、こいつは何者なんだ」
足の短い折りたたみ式のテーブルに、写真が並ぶ。
ヤマブキの端にある木造アパートが、バコウの住処だった。いくつかあるうちの一つで、木と畳のにおいと、朽ちかけた家の雰囲気が気に入っていた。物はほとんどない。最低限の衣服と、机が一つだけ。毛布は一枚あるが、枕はない。キルリア用のクッションと寝床だけは、しっかりと用意されている。
片膝をつき、手に持ったたばこの灰をテーブルの上の灰皿に落としながら、バコウは写真の人物をじっと見つめた。
「薬物売買組織の元締め。小金を稼ぐくらいなら目を瞑っても良かったのですが、身の丈以上にやり過ぎです。ヤマブキ中のポケモン達を薬漬けにする訳にはいきません」
「いつから正義の味方を気取り始めた?」
「我々は元々正義です」
「笑わせる」
「笑っていられるのも、今のうちです」
何を言っても不快感一つ示さない。ヨロギはバコウの言葉にびくともしない。
「それで、薬って何の薬だ?」
「ポケモンの力を急激に高める薬なんですけど、いかんせん副作用が強くて。タウリンとか、ああいうものより効き目が強すぎるんですよ」
写真の男が、天井から垂れているむき出しの電球に照らされる。薄暗い部屋の中で見る元締めの男は、バコウからはなお胡散臭そうな顔に見えた。
低いテーブルを前に立ったままのヨロギは、バコウがいつも一定時間じっと対象の顔を見つめる、その儀式のような時間をじっと待つ。
「詳細は」
インプットを完了し、バコウは次を要求する。
写真が入っていた茶封筒から、ヨロギが新たに複数枚の紙をテーブルに並べる。
組織図と、アジトの情報。普段の動向から、趣味趣向、来歴まで、細かく記載がある。
「期限は」
と、バコウ。
「二ヶ月」
短くヨロギが答える。
「書類は」
と、ヨロギ。
「読んだら燃やす」
遮って、バコウもまた短く答える。
「報酬は」
「指定の場所へいつも通りに、前回同様の金額で」
「いいだろう」
話はまとまった。
「それでは、報告をお待ちしていますよ。次までには、その無愛想を直しておいてください」
「お前、夜道には気をつけろよ」
「簡単にやれると思わないで下さいね。前三人と私は違いますよ」
アタッシュケースに茶封筒をしまって、ヨロギは部屋を出ようと玄関で革靴を履き始める。
「直らないよ。一生」
背中に向かって声を叩きつけた。精一杯の嫌がらせ。
「そのキルリアがいる限りは、そうでしょうね」
こちらを振り向きもせずそう言って、ヨロギは部屋を後にした。
【三】
バコウのキルリアは艶がある。近しい者の感情に左右されるポケモンであるのに、どうもあまり影響を受けていない。
安全弁もなく常に全開のバルブからだだ漏れの憎しみを受け取っていれば、悪い影響を受けるはずだった。
何故こうも美しく綺麗に育っていくのか。その理由はバコウ自身でも理解していない。
ただ、分かることもあった。自分を肯定してくれている。世界で一匹、キルリアだけがバコウの理解者だった。
「今回も頼む」
バコウには仕事仲間がいた。現在の拠点、ヤマブキにいる仲間は、バリヤードだった。各地方に存在する中でも一番付き合いが長い。
まだ若く分かりやすく憎しみを散らしていた時代に、その日の寝床にしようとしたヤマブキの廃墟で出会った。相部屋は望んでいなかった。気に障ったバコウはバリヤードを蹴飛ばそうとしたが、いくら挑んでも謎の壁に阻まれ、お前なんか相手にするかと笑われ続けた。笑われたことが気に食わないのではなく、憎しみをぶつけられず、蹴れないことが不服だった。
その後何度かばったりとヤマブキで会ったが、毎度相手にしてくれない。バコウにとっては、いつもいつでも気に障る奴だった。
そんなマルマインのように常に破裂しそうな若い時代から、大人になって少しだけ落ち着きを得た。
久しぶりにヤマブキで再会した時、あのバリヤードだとすぐに分かった。殺してやろうと思った。
風貌だけ大人びたバコウを見て、バリヤードはまだ笑っていた。何を考えているのか、どんなどす黒い感情を持っているのか、見透かしたような笑い方だった。まだそんな荒れているのかよ、と言いたげに、理解を示すような視線と表情をバコウに向けた。
それを見て、バコウもまた理解する。荒くれ者であるのは、お互い様だった。
野生のポケモンは、人間に害と判断されれば捕まってしまう。それが、何年も経っているのにまだヤマブキをほっつき回っているのは、うまく逃げおおせている証左。ヤマブキに、人間相手に甚大な被害を出し続けるバリヤードがいるのは有名な話だった。
だから、再会の時互いのあまりの変わらなさに思わずバコウも一緒になって笑ってしまった。互いが嫌いなのに、変わっていないという一点のみで気があった。仕事仲間になるのに、時間はかからなかった。
バリヤードがねぐらにしていそうな廃墟を探すのに手間取ってしまった。請け負った仕事を完遂するまでの期間には、こういう時間も含まれている。姿を現したバコウに向かって、バリヤードはいつも通りにやついていた。大量の食料が入った袋をばさばさと揺らし、目の前の宙にそっと置く。透明なテーブルがそこにある。バリヤードがねんりきで運びそれを受け取るのが、了解の合図だった。
「また来る」
背を向けたバリヤードは、返答なく腕をひらひらさせて去って行く。
【四】
バリヤードに協力を取り付け、次にバコウは下見を始めた。
提供された資料は目を通して既に燃やした。内容は頭にインプット済みだった。昔から記憶力だけは良い。内容を把握する能力にも自信はあった。
AM0:05、〇〇通りを通って例の店に入店。
裏路地から、対象がバーに入るのをバコウは目撃した。今日で丁度一ヶ月。ヨロギからの依頼である、薬物販売組織のボスの動向がだいたい掴めた。
対象の名前はゴス、と言った。生立ちはいかつい。組織の先代が父親であり、それを受け継いでいた。少年時代は自分のバックを同級生にちらつかせ、レントラーの威を借りていたらしい。長身だが細身で、腕力でも問題なく押さえつけられそうな身体付きだった。
組織は思っていたよりも古い。よくある小さいヤクザ組織が、新しいシノギを得てヤマブキで幅を利かせ始めていた。身の丈に合わないと言っていたヨロギの言葉はおそらく正しい理解だとバコウは思った。彼らが競争の激しいヤマブキでこれ以上大きくなって生き残るのは難しい。組織構造からして古さが目立つ。
ボスをてっぺんとしたピラミッド構造が、良くも悪くも出来上がっている。けじめと称して部下に暴力を振るい、縦社会を何よりも重んじ、組織の代紋を何よりも価値があるものとして守る。そんな古いやり方が、この時代に続くはずがない。他の犯罪組織もより狡猾に事を運び、実態の分からない組織となっている。目立ちすぎは、ただのリスクでしかない。ヨロギ達に目障りな奴らだと思われた時点で、組織崩壊の時は近い。その第一歩が、ボスの殺し依頼なのだろう。
依頼達成はそう難しくないが、どうスムーズにやるかどうかは大事なファクター。基本的にゴスの周りには数人の御付きがずっといるので、警戒している間を狙うのは厳しい。事務所はもちろん、家はセキュリティが厳しい。唯一油断がありそうなのは、ゴスが懇意にしているバーだった。酒が入っていれば油断もあるだろう。もちろん警戒はあるが、他よりよっぽどマシとバコウは見る。
木造アパートに戻ったバコウは、一ヶ月程の調査結果をまとめていた。パソコンも何も無いので、手書きのメモだ。記憶にあるヨロギの資料と照合し、差異がないか確かめる。ほとんどはヨロギの調べが正確であることを証明するのみだったが、バコウが思っていたよりも、ゴスをボスとする犯罪組織は古臭い。縦社会が強く、仁義を通すなどというバコウにとっては意味不明なやり方で組織を統制しているため、脆い部分も多い。つつけば蜂の巣のように群がってくるので、そこを利用すればいくらでも隙をつくれる。返し、と呼ばれる復讐がしつこいのは目に見えていた。顔を曝さずにやるのが良いだろうが、そうすると成功率が下がる。やはり多少のリスクをとってぎりぎりまで近づいて直接一瞬のうちにやるのが一番だろう。
「まずは、蜂の巣をつつくところからか」
まとめたメモを覚え、灰皿の中でそれを順番に燃やす。次いで煙草に火を付け一口吸えば、体中に染みわたっていく。身体を壊し毒に侵されても、気持ちよさを感じる。まったく合理的ではないその手軽な行いが、自分に合っているようで好きだった。ゴスの組織が売っている薬も煙草も、効き目が違うだけで本質は一緒だ。得られるものには代償がある。
ただ、バコウは煙草を吸う代償を代償だと考えていない。喫煙が身体を壊すことよりも大きな価値を持つのであれば、リスクはリスクになり得ない。
同じように、憎しみを直接相手にぶつける行為も代償が伴うが、それを代償だとは思えなかった。憎しみをぶつける価値が、代償をあまりにも大きく上回る。ぶつけた後の自己の解放が、なによりの快感だった。手放せない。ゴスを憎む理由はないが、けじめだと言って部下にその部下を殴りに行かせるその行いは、気に障った。苛立った。殺す。憎しみを、ぶつけるに値した。
この生活からは、おそらく一生逃れることは出来ない。それを不幸だという者もいるだろうが、バコウの隣にはキルリアがいる。
自己を解放し、それを肯定してくれる存在が隣にいてくれると思えば、それはなんと幸せなことだろうか。今の生活に、不満はなかった。
【五】
一度協力をとりつければ、バリヤードは極力同じ場所で待機している。出番が来れば、バコウのモンスターボールに入るのがいつもの流れだった。仕事が終われば、”にがす”。その繰り返しだ。仕事上、小さなボールに入れて歩けるのは都合が良い。依頼の達成率も上がる。この部分については、バリヤードも同意の上だ。
バコウの狙いは、運び屋だった。そんな下っ端を捕まえてもしょうがないかもしれないが、薬を奪えば、おそらくわらわらと寄って来る。うちが舐められている、と思わせればそれで良い。
夜、ニット帽を被り、大き目のマスクをして、バコウは事前に調べた運び屋のルートの一つで待ち構えた。長袖の上に羽織った袖なしのパーカーだけでは、ここ最近は肌寒い。ビルの外壁を背にして、じっと時を待つ。道行く人はスーツの人間が多い。夜遅くまで残業するサラリーマンだろう。
遠い世界の人間を見つつしばらくそうやって構えていると、運び屋が現れる。ヤマブキにごまんといるその下っ端には、動くルートと恰好に決まりがある。判断しやすいように共通項を用意していた。すぐにピンと来た。後を追う。ルートは覚えている。全部を覚えるのは不可能だったから、絞ったルートに当たりが来るまで待って正解だった。不自然に裏通りを通ったり道を迂回しないそのルートは、可能性が高いとバコウは考えていた。
しばらく後をつける。このまま大通りを進む予定だ。交差する路地がある時は、何本かに一本少しだけ横に入って一瞬だけ周りを確認する。自分がへまをしてつけられることも考えなければいけなかった。バレると面倒だ。
運び屋の男は、数百メートル真っすぐ歩いた後、左に曲がって路地へ侵入した。バコウもそれに続く。ここからは、ある程度の距離を保つ必要がある。
尻ポケットから黒皮のグローブを出してそれをはめる。このまま真っすぐ行くと公園に辿り着く。電灯も多く、開けているその公園は人目に着くので、そこでは取引は行われない。ルートのゴールは、公園のすぐ側。道を一本挟んだ向かい側に、ビルとビルの間を抜けられる道が一本存在する。その奥には四角い空間が広がる。行き止まりのようで、数人は通れる隙間が奥にあった。形としてはΦの字で、通り抜けられるようになっている。
何のためにあるか一見分からないそのぽかんと開けた空間は、絶好の取引場所だ。
ヤマブキシティの中心部は綺麗に開発が進んだが、町の端は昔からの家がまだ立ち並ぶ。立ち退きや土地の買収がうまくいかず、いびつな順序で建築が進み、建物に囲まれた四角い空間がいくつかあった。
逃げ込むようにそこへもぐりこんで行った運び屋の後ろをつけ、そっと監視する。取引相手は、既に待っていた。リュックをそのまま渡すのを見て、確信する。バコウは飛び出した。一本道を一気に駆ける。
相手が気付くと同時にモンスターボールを投げ、バリヤードに応援要請。
当然四角い空間にいた二人は気付く。バトルになる可能性もあったが、二人は逃げの一手を選んだ。好都合だ。
「壁だ」
言葉を待たず、バリヤードは既に仕事を始めている。四角い空間から通りへ抜ける道の途中で、透明な壁にぶつかって派手に後ろへ倒れこんだ二人に、バコウが追いつく。すかさず仰向けになっていた取引客のこめかみを殴り飛ばして意識を飛ばす。薬が入ったリュックを奪って小脇に抱え、今度は運び屋の足を折る。後は動けなくなるまで殴った。意識は奪わない。まだやってもらわなければならないことがある。
抵抗する気がまったくなくなったところで、運び屋のポケットを探って携帯を取り出した。
「緊急時の連絡先、教えられているだろう? 連絡して、この状況を伝えろ」
助かるかもしれない。一瞬でもそう過ったら、電話せずにはいられない。運び屋は携帯を返されるとすぐに連絡を始める。相手は管理側。ゴスの組織の人間に繋がる。場所と状況を伝え電話を切れば、見下ろすバコウと目が合う。恐怖に涙を流す。殺さないで下さいと、懇願されているのがバコウにはよく分かった。
「ご苦労。お前には働いてもらったから、殺さないでおく」
携帯を奪ってそれを踏みつけてすぐに壊す。最後にもう一発殴って運び屋の意識を飛ばした。
「行くか」
一息つく間も無く、バリヤードは次の仕事を始める。透明な階段を作って、何もない空間を上っていく。その動きに合わせ、バコウも後ろへピタりとつく。追っ手はすぐに来るだろう。この場所にはもう用はない。仕上げの場所へすぐに向かう。
【六】
建物の上をつたって走る。飛び移れない距離は、バリヤードの壁を走った。
先程のΦの空間には、今頃組織の人間が集まっているだろう。この隙がチャンス。一直線に上からゴスがいるバーへ向かう。時間的にはいつもいる時間だった。最後の一杯を楽しむ時間くらいはまだあるだろう。
「この仕事が終わったら、一旦ヤマブキを離れる。どうだバリヤード、一緒に来るか?」
バカかお前と笑い飛ばすバリヤードに、変わらない奴だなとバコウもまた微笑む。相変わらず気に入らない奴だった。いつか殺したい一匹であるのは変わらない。各地にいる仲間のポケモン達は、皆仕事上でしか言うことを聞かない。苛立っても殴らせてもらえず、殺させてもくれない。だからこそ関係が成立しているし、バコウもまた仕事を続けられていた。キルリアの笑顔と、殺されない仲間がいる限り、バコウは止まらない。一生憎しみを垂れ流し、いつか全てを吐き出して死ねればなんと幸せなことか。それが無理そうであるのはバコウ自身もなんとなく理解している。仕事中に何か失敗して、惨たらしく死ぬのが現実的だろう。それでも、それまでの間今が続けばそれで良い。自己の解放が続けば、苦しくない。
「それじゃあ、仕上げるぞ」
雑居ビルの屋上から下を見下ろす。立っているのは、ゴスがいるバーが入ったビルの屋上だった。入口は裏路地側なので、他に人気はない。様子を少し観察していると、中から黒服が出てきて、電話をしているのが見えた。店を出てどこかへ消えていった奴もいた。明らかにいつも通りではない状況が出来上がっている。
バリヤードの透明の階段を使って下りる。上空から来ると誰も思っていないので、これが意外にも気付かれ辛い。
ある程度の距離で、バコウとバリヤードは店の前まで飛び下りる。入口に陣取っていた黒服は驚いて呆気に取られているが、すぐに現れた一人と一匹が敵だと判断したのか、飛びかかって来る動作を見せる。流石に店の前の防御を任されているだけのことはある。それでも真っすぐ飛びかかって来るのは悪手でしかない。左下へカットインしながら、ぶん回したバコウの拳が男の顔面を捉え、そのまますぐ後ろの透明な壁に叩きつけられる。バリヤードとよくやる連携の一つだった。想定しない衝撃は、想像以上のダメージを人間に与える。
「お疲れさん」
そのまま店に押し入って、パーカーの内側に仕込んだバタフライナイフを握りこむ。引き抜きそのまま振りかぶる。対象をカウンターに発見。そのまま腕を振り、バタフライナイフをゴスの足に突き刺す。機動力を奪った。醜い悲鳴が上がった。
店内はテーブルのボックス席が四つに、カウンター席が五つ程。突然の状況に店内には高低差のある悲鳴が上がる。バタフライナイフを投げてそのまま一直線に迫るバコウに、さっきの騒ぎで少なくなった黒服の何人かが飛びかかって来るが、すんでのところでバリヤードの壁がそれを遮る。時間にして数秒。もう一本のバタフライナイフをパーカーの内側から抜いたバコウは、そのままそれを胸に一突き。何の躊躇もない。恐怖に怯える暇すら与えず、それを引き抜いて、その辺に捨てる。ナイフから足がつくようなヘマはない。ポケモンを出す暇も与えない。黒服の男達をバリヤードの壁でガードしながら、すぐに店を出てドアを閉めれば、後はバリヤードの仕事。何事もなかったかのように店を出た客を装って、大手を振って夜の町に紛れ込む。
店からは誰も出てこない。扉の前を、バリヤードが壁で塞ぐ。ある程度の距離までしか効力がもたないため、所定の位置まで離れて、すぐに人気のない路地へ。夜のビル街に、バコウとバリヤードは消えて行った。
【七】
ニット帽とマスクを着用していた上に、ほんの十秒程の出来事だった。恐らく顔は割れていない。うるさい蜂も、これで追って来ないだろう。バリヤードにも言っていた通り、念のためバコウはこの後ヤマブキを離れる予定だった。ヨロギの組織が守ってくれることを期待してはいけない。今後一緒に仕事をするためにも多少手は貸してくれるかもしれないが、契約外の話であるため、あてには出来ない。
そもそも契約書などない。そんなものを残す訳にもいかない。口約束と信用で成り立つ裏の業界では、評判が一番だ。それはバコウであっても、ヨロギ達であっても同じこと。金はいつもきちんと支払われるし、納期は守る。困ったことがあればこちらの要望は聞き入れられるし、向こうの追加要求を黙って飲むこともある。ただ、ゴスがいたような組織は、執念深さだけは群を抜く。合理性など関係なく、やられたらやり返さないと引き下がれない。顔が割れていないとはいえ、何かでバレてしまったら厄介だ。
自分の身は自分で守る。組織を軽んじられると自分を軽んじられたと感じる、軟弱な構成員は気に食わないので全員殺してやりたかったが、そこまで派手に暴れると仕事が続かない。目標は達成したので、ここが幕引きには丁度良い。
薄暗い部屋の中、煙草の煙が上がっていく天井を見つめながらバコウはぼんやりとしていた。ひんやりとした壁にもたれて片膝をつき、頭をからっぽにする。毎回この時間が至福だった。気に入らない奴を誰かの依頼で殺し、一服する。自己を解放する瞬間だ。わずかな時間ではあるが、何も考えないでいられる。苛立ちや憎しみが消えて、身体が軽くなる。
横に佇み微笑みかけてくれるキルリアが、更にバコウの心を安定させる。この笑顔に何度も助けられた。何をしても笑っているキルリアだけが、バコウの心の支えであった時期が長い。自分で自分を保てるようになった今ですら、まだ半分はキルリアが支えていると言っても良い。それくらい、バコウの中では大切な存在だった。
この生活には満足している。後はもう何もいらない。けれども、一つだけ知りたいことがある。どうしてキルリアは笑ってくれるのだろう。憎しみを垂れ流すことしか知らない男の側にいて、何が楽しいのだろう。昔から一緒にいるから情があるのだろうか。バコウは、自分がキルリアにとってどういう存在なのだろうと時折考える。辛い生活を強いている訳でもないが、決して楽しい生活を送らせている訳でもない。バコウ自身は満足しているし、キルリアは肯定してくれているが、キルリア自身が幸せかどうか、それは分からない。
「分かりようがない」
バコウは変わらない。変わらない男の隣にいるならば、キルリアもまた変わりようがない。笑ってくれているならそれで良いか、と絡まった思考を捨て置いて片づける。
何本か煙草を吸い終わったところで、身体が満足した。ヨロギに連絡をいれようと電気を三度、消したり点けたりを繰り返す。それが合図だった。殺しなどというリスクのある依頼をしてくるような組織が、個人でそれを請け負うような人間をまっとうに信用する訳がない。常に監視がついているのはよく分かっていた。最初にそれが分かった時、癇に障って一人目のバコウ担当を殺した。手に負えない人間だと分かったはずなのに、ヨロギ達はまた次を送り込んで来た。二人目も三人目も、似たような理由だった。
しばらく待っていると、部屋の扉が開く。スーツ姿のヨロギが、中へ入ってくる。部屋の真ん中に立ち、壁に背をつけ座るバコウを見下ろした。
「対象の死亡を確認しました。依頼達成、どうも。報酬は指定の場所へ来週の頭までにお送りします」
ヨロギの事務的な会話には興味がなかった。金にも大して興味はない。生活出来るだけあれば十分だった。
「今あいつらは大騒ぎだろうな。自分達の頭がやられて」
「分かりやすい奴等です。今、犯人探しに躍起になっていますよ。バコウさん、顔割れているんじゃないですか?」
「大丈夫だ。そんなヘマはやっていない」
「そうですか。バレて殺されれば、報酬を払わなくて良いんですけどね」
「次の仕事ができなくなるぞ」
「次を受ける気ですか?」
「この町以外ならな」
「悠長なことを言いますね」
「どういう意味だ?」
「言う義理はありません。それに、次の仕事もありません。それではどうぞお元気で。さようなら」
無表情のままそこまで言い切ったヨロギは、そのまま部屋を後にした。何故だかヨロギに対しては憎しみが湧いてこない。読めない何かが遮って、憎しみの流れを止めていた。友達でもなんでもないただの仕事相手なのだが、珍しい奴なのは事実。このまま縁が切れるのは惜しい。いつか、ヨロギを本気で憎める時が来たら、どれだけ素晴らしいだろう。解放される自己は、どれほど大きなものなのだろう。
閉まった扉は開かない。ヨロギが戻って来るはずもなく、静寂が部屋を闊歩した。
もう今日はやることがないが、眠りにはつかない。殺しの晩は、寝ないのが決まりだった。少しでも自己が解放される時間を楽しみたいのと、何が起きるか分からないからだ。それだけ殺しが大事なのは客観的事実としてバコウも理解している。人一人死ねば、色々な人間が動く。絶対に復讐されないとは限らない。
電気だけ消して、また煙草に火をつける。
殺しの後の余韻には、まだ浸れそうだった。じわじわと湧き出てくる憎しみや苛立ちは、もう少しだけなりを潜めていて欲しかった。キルリアが笑い、踊るのを見ながら、煙草を吸って吐いた煙と一緒に、魂まで抜けるようなこの感覚は、何物にも変え難い。涎が垂れていても今なら気にしないくらいに、ぼうっとしてしまう。
しばらくそうしていても、何事も起こらない。無事に仕事を完了したと考えていても良さそうだ。今回もまた、スムーズだった。滞りなく予定通りに進んだ。ゴスの周りの警戒も薄かった。ヨロギの事前調べもかなり効いていた。二ヶ月と指定してくるだけの資料は用意されていたので、依頼人としてはやはり悪くない。
「そういやあいつ、仕事はもうないって言ったか」
殺したい相手以外で、また会いたいと思える初めての人間かもしれない。仕事がうまくいってるからそう思うだけなのか、本当に会いたいと思っているのか、バコウには正確には分からない。人間に対して向けられる感情の種類が少なすぎた。今感じているのがどういう感情なのか、理解するのは難しい。
「まあ、依頼する気がないなら仕方がない」
そういう付き合い方しかできない。この生活を長年やりすぎている。今更何も変えられないし、何も変わらない。
煙草を消し、また新たな一本に火をつける。朝まで煙草がもつか、それだけが心配だ。
【八】
灰皿が山盛りになっていた。
ずっと同じ体勢で座っていたので、身体が軋む。一度立ち上がってのびをする。日が昇るまではあと数時間といったところか。やはり一晩持たなかったので、新しい煙草を買いに行くくらいならいいかなと思い始めていた時、アパートの前に車が停まった。耳を澄ましてじっとしていると、今度は鉄骨の階段を登る音が複数聞こえた。このアパートに、こんな時間に階段を登るやつはいない。バコウは身構える。足音は部屋の前で止まった。ヨロギか? と頭を過るが、そんなはずはない。用もなく来るような奴ではないし、来るなら絶対に一人だ。
明らかな様子のおかしさに、バコウの警戒心は最高潮に到達する。後ろ手でカーテンを僅かに横へ引く。チラと周りを見れば、数人、アパートを監視していた。バンが停まっているのも見える。隠れるつもりはないらしい。
バコウは状況を理解する。相手は、ゴスの部下達だ。犯人がバコウだと分かっているし、住処も特定されている。原因を考える暇はなかった。
キルリアのモンスターボールはないため、抱き上げて襲撃に備える。ノブが回り、扉がキイ、と音を立てて開く。二人の大男が立っていた。はっきりと顔が確認できない程に部屋は暗い。
「あんたがバコウか。うちのボスが世話になったみたいで、礼が必要だろうと思ってね。邪魔するよ」
土足のまま二人は上がりこむ。
手持ちライトに照らされ姿を晒したバコウは、その光を手で遮りながら、どうここを逃げ切るか考える。
「礼には及ばないな」
「そう言うな、付き合えよ」
窓から飛び降りて逃げの手を打つか、目の前の二人を倒して正面突破するか、一度大人しく捕まって脱出の機会を待つか。何が一番可能性が高いか。バリヤードを逃してしまったのはここに来て痛手だった。奴がいればどうとでもなった。
「飯くらい出すんだろうな」
「飲み物くらいなら出るが、多分あまりおいしくはないな」
少しでも会話を繋いで時間を稼ぐ。相手は多勢、窓から飛び降りて逃げるのは一番難しいだろう。正面突破もキルリアと一緒では厳しい。それなら、余計な体力は削らずに一度捕まってタイミングを伺うのが一番可能性が高いのではないか。
「わかった、大人しくしよう」
片腕を上げて、無抵抗の意志を示す。
「良い子だ」
大男のうちの一人は、手に持つモンスターボールを前に放る。中からはゴーストが現れる。さいみんじゅつ、という技名が聞こえた後、バコウの意識は深い深い闇の中へ落ちていった。
【九】
冷たい水を掛けられ、バコウは目を覚ました。ぼやけている景色が少しずつ鮮明になっていく。身体を動かそうとしても動かない。椅子に後ろ手で縛り付けられていた。室内の薄暗い明かりすら目が痛い。ゴス達が居を構える事務所だろう。
「お目覚めか」
周りにはスーツ姿の男たちが十人程立っていた。窓にかかったブラインドの隙間から見える向こう側はまだ暗い。それほど時間は経っていない。場所も把握出来ている。
「どこのもんだ? それとも、どこの奴に頼まれた?」
答えられる訳がなかった。それに答えれば、今度はヨロギの組織に追われる。話の端々から感じる底の見えなさと大きさは、ゴスの組織の比ではない。このままどうにか脱出出来る方法を考える方が、生き残る可能性は高いはず。
目の前に立つ大男は多分家に入って来た男だ、と顔を確認した途端、迷わずその拳はバコウの横っ面を殴る。声にならない痛みが走る。抵抗する術がない。
「答える気はあるのか? いくらでも付き合ってやるから、喋りたくなったら言えや」
続けざまに殴られる。口の中が血の味で広がり始める。飲み物は確かにまずかった。殴られることには慣れている。これくらいではまだ折れないが、意識を飛ばさず、苦しまないように殴る蹴る方法は流石に良く知っている。部下のしつけなどという、つまらない慣習を続けているだけのことはあった。
「丈夫だな。それとも、諦めてるのか?」
朦朧とする意識の中、バコウの頭に浮かんだのは笑顔だけだった。
「そ、そうだ」
少し喋るだけで口が痛む。それでも確認せずにはいられない。首だけを動かして、辺りを見回す。
「キ、キルリアは、キルリアは、どこだ」
自分がいくら殴られても良いが、キルリアが殴られるのだけは我慢ならなかった。あの笑顔がぐしゃぐしゃにされるのは、耐えられない。
「何言ってんだ?」
目の前の男は、周りに立つ人間に確認するも、それぞれが首を横に振る。誰も知らない。
「俺が抱えていた、キルリアだ。どこへ、やった」
「馬鹿かお前。殴られて頭がおかしくなったのか? ボールも持ってないみたいだし、お前はあの部屋に一人だった。そうだ、それも聞かなきゃいけないな。あのバリヤードはどこに行ったんだ?」
何を言っているか理解できなかった。キルリアがいない? そんなはずはない。あの部屋にずっといた。ずっと隣で、笑っていた。こいつらが、しらを切っているだけだ。もしかしたら、もう殺したのではないか。
「お前らも全員殺してやる。一人ずつ順番に、ゆっくり、ゆっくりだ」
何故か笑いが込み上げる。自分でも理解できなかった。周りにいる十数人の男を順番に殺す光景を想像し、キルリアを助けられると思ったら笑いが止まらない。
「気持ち悪い奴だな」
男の前蹴りが腹に突き刺さる。くぐもった声を上げて、血を吐きながらも笑いは止まらない。こんな奴らに、大した力はない。今まで、大勢の人間やポケモンを殺し続けてきた。自己の解放のために負った苦労はこんなものではない。こんな痛みは、大した苦痛にもならない。
「いかれてやがる」
いくら殴る蹴るを繰り返しても無駄だと悟った男は、モンスターボールをその場で解放。中からは、先程バコウを眠らせたゴーストが現れる。
「外がだめなら中からだな。”あくむ”を見せてやるよ」
再びの催眠術。痛みが走っていても意識が飛びそうになるその効力は絶大だった。ポケモンの力には中々抗えるものではない。バコウはそれをよく理解していた。舌を噛んで意識を保とうと試みるが、咄嗟に猿ぐつわを噛まされる。噛みしめる力を出せなくなると、抵抗しづらい。ゆっくりゆっくりと、バコウの意識は落ちていった。
【十】
バコウの生涯は暴力で埋め尽くされていた。
最初の記憶は父親からの暴力だった。振るわれた数は数え切れない。母の連れ子であることが気に食わないという説明は受けたが、それでは理解できなかった。
最初こそ子どもながらに抵抗を見せていたが、そんな気も起きなくなってくる程の暴力が続いた頃、廃人のようになったバコウはただ両親の命令に従うだけの人間になっていた。何故こんな目に遭っているのか。そんなことを考える気力は失せていた。
父は毎日酒を飲んでは荒れ、母は父がいない間に男を連れ込んで情事三昧。この世の地獄を煮詰めたその場所で、バコウは育った。抵抗する気も最早なく、このまま何もできずに死んでいくのを受け入れ始めたころ、ある雨の日に、家の前でボロボロになって倒れているラルトスと出会った。止めを刺してやろうかと思ったが、バコウが拾い上げたそのぼろ雑巾のようになったポケモンは、笑った。初めて見る笑顔だった。
気づけば家の庭へ運び、雨風がしのげる場所を用意してやった。倉庫は、もう誰も使っていなかった。それからすぐに、こっそりと食べ物を与え始める。絶対に声を出すなと約束をし、ラルトスはバコウの助けを受け入れた。
他者を助ける、という生きる希望がバコウの中に芽生えた。生きる意味があるのだと感じた。ラルトスを治療し、動けるまでに回復させるのは自分の人生最大の仕事なのだと思った。
今までは両親の言葉通り受け取って、それを実行して怒られることが多々あった。ラルトスと出会ってからは、両親の言葉から何が欲しいのか、何をして欲しいのか読み取る力を身に着けた。行間が読めるようになってきた。生きる希望がバコウの視野を広げた。
先回りして、彼らの機嫌を損なわないよう必死になった。殴る蹴るは良くても、自分の分の食料がないのは問題だ。ラルトスにやる分がない。生まれて初めて喜びのようなものを感じ始めていた。
ある日、家で一人になった時バコウは町を走り回った。一人で家を出るのは何よりも大きい罰を食らうのだが、バコウもこの時ばかりは博打を打った。雨風をしのげる場所と食料だけでは、ラルトスは回復しなかった。薬を与えなければならない。その知識は、テレビに流れるCMで理解出来ていた。
両親はポケモンを持っていなかったので、家には無かった。金はないので買えない。そうなると、万引きをするしかない。町を彷徨っている間に、ポケモングッズの個人店で傷薬を見つけた。迷わずそれを手に取り、ただただ自動ドアから出て走った。店の隅にいた女の子にじっと見られていた。
当然追って来た店主に捕まるものの、バコウの様子を見たその男は呆気に取られていた。
彼は理解した。バコウの境遇の一部でもそれを感じ取った。
「必要、なんだな?」
その言葉で、バコウは逃れようともがくのを止めた。
こくりと頷くと、店主の男は掴んでいた腕を離した。
「奢りだ。困ったらまた来い」
それが、生まれて初めて受けた優しさだとは気づかなかった。走って戻って、それをすぐに使いたい気持ちを抑えた。そろそろ両親が戻って来る時間だったからだ。
言われた仕事を終えておき、彼らの機嫌を損ねないように振る舞う。食事をもらい、それを少しだけ隠し持って夜中寝床をそろりと抜けた。
その夜父は酒で酔いつぶれ、母は出掛けていた。
倉庫の扉を開けて、食料を渡す。それを食べているのを確認しながら、手に入れた傷薬を
吹きかけた。これで治るのかは分からない。それでも、小さな頭で思いつく限りのことをしないと気が済まなかった。
やがてラルトスが眠りについたのを見て倉庫の扉をしめた時、母がそれを見ていたことに気づいた。倉庫の扉を閉める時に、音を立ててしまった。たまたま帰って来たタイミングで母がそれに気づき、様子を見に来たところだった。
無言で近づいて来た酒臭い母は倉庫の扉を開ける。眠りについたラルトスを見て、悲鳴を上げた。縮こまってしまったバコウは抵抗できなかった。
母はポケモンが嫌いだった。ラルトスの首根っこを捕まえると、思い切り庭に投げつけた。がちがちと歯を鳴らして、バコウは震える。自分よりもずっと大きい人間が、小さい生き物に悪意をぶつける恐怖を客観的に見た。
庭に転がっていたシャベルを手に取った母は、それをラルトスに振り下ろす。大した音もなく潰れたそのポケモンは、すぐに動かなくなった。
「ポケモンなんて拾って来て、なんのつもりなの」
シャベルを捨て、憎しみを込めた表情で迫って来た母に頬を叩かれる。
ラルトスが死んだ。その光景だけしか目に入らない。頬を叩かれた痛みなど、ほとんどないも同然。
バコウに拾われ、ラルトスは笑っていた。助けられたと思ったのかもしれない。止めを刺そうとしたのに、笑ってくれた。あの笑顔がもうなくなる。あんなに助けたかったのに、その笑顔はもう戻って来ない。
バコウの頭の中はぐちゃぐちゃで、ぐつぐつ煮えたぎり、だんだんと沸騰していく。何かが切れた。気づけば開いていた倉庫に手を突っ込み、ハンマーを手に取る。目の前の畜生に向かって、それをそのまま振り回した。頭に直撃すると、棒を殴ったかのように横倒しになる。その感触はよくバコウの手に馴染んだ。脇目も降らず何度も何度も振り下ろし、その悪魔を払う。肩で息をする程に身体が疲弊してきて、バコウはようやく止まった。まだ沸騰した頭は落ち着かない。ふうふうと息をつきながら、玄関へ回って家に入る。リビングで酔って寝ている父に、迷わずそのハンマーを振り下ろす。手になじんだ感触は心地よい。解放感がある。自分が外に飛び出していける。その一歩がここにある。ラルトスの仇は取ったけれども、守れなかった。さっきよりもぐちゃぐちゃに入り混じった感情に、バコウの精神は崩壊寸前。かろうじて認識出来るのは、頭の中のラルトスの笑顔だけ。
リビングの窓を開け、裸足で庭に降りる。潰れたラルトスの前に跪き、それを抱きかかえた。ううううううううう、と唸って、唸って、唸り続ける。身体の震えが止まらない。潰れたラルトスは、もう笑いかけてはくれなかった。
【十一】
バコウは叫んだ。猿ぐつわを噛まされたままありったけの空気を喉から出して、喚き散らした。ぐしゃぐしゃになった頭の中は、あの時と同じだった。沸騰する頭と、解放感と、妙に手になじむ人を殺した感触と、全てがない交ぜになって、どうしようもなく意味不明な、カオスな感情が頭をかき混ぜる。
「”あくむ”が効いたみたいだな。そろそろ吐いて、ボスをやった落とし前はつけてもらわなきゃな」
発狂するバコウは、もう自分で自分をコントロール出来なかった。思考がままならない。何が起きているのかすら、把握出来ていない。
「いい加減、手間かけさせんなこのクズが!」
大男が振りかぶった拳を、バコウに向ける。だがその拳が届くことはなかった。
謎の壁が、そこには存在した。次の瞬間にはフロアにおびただしい数のズバットが舞い込む。一匹一匹はそこまでの力はなくとも、この数で人を襲えばそれに対処するしかなくなる。強い念力で窓が割れ、今度は椅子に縛られたままのバコウが浮き上がる。そのままブラインドを引き千切って窓の外に放り出され、地面へ落下する直前で静止した。ふわりとその上から、バリヤードが下りて来る。ねんりきで縄が解かれると、バコウは支えを失って椅子から転げ落ちる。事務所の前に停めてあったバンが開き、黒服の男数人が息も絶え絶えなバコウをバンへ放り投げ、すぐにその場を走り去った。
嵐のような出来事の後、階段から降りて来たスーツの女性がバリヤードの隣へ立った。
「結果は、変わらないよ」
ヨロギの言葉に、バリヤードは頷いた。
【十二】
頭の中が落ち着き始めて、ようやくバコウはコンクリートのような固い床に仰向けで寝かされていると気付いた。だだっ広い場所だった。白んでいるのが分かる。高い位置にある窓からは、薄暗い光が差し込んでいる。
身体中が傷んでいた。どうにか動かせそうだったが、走り回るのは無理だろう。ヤマブキを出るのは、しばらく無理か。いや、ヤマブキを出られるのかまだ分からない。自分がどういう状況なのか、まだ把握出来ていない。ぼんやりと色々な思考が渦巻く頭の中は、まだ混乱が続いている。
耳に、革靴の音が聞こえた。コツコツと、その音はだんだんと大きくなる。隣で止まった。
「落ち着きましたか、バコウさん」
「ヨロギ。ここは、どこだ?」
「倉庫です。今はまだ使われていない、誰も入って来ない場所です」
相変わらず、ヨロギは上から見下ろしている。
その顔は、解放感に満ち溢れている。見たことのない顔だった。
「ああ、お前か、チクったのは」
「ええ、組織命令でしたから」
不思議と憎しみは湧いて来ない。何も、感じない。
「ああ、長かった。ようやく終わります」
「何が、終わるんだ?」
「私の復讐です」
「どの、件だ」
「そうなりますよね。あなたは人やポケモンを殺し過ぎた。でも、今なら分かるはず。私は、ポケモングッズ店を営んでいた男の娘です」
その男は思い出せたが、顔までは出てこなかった。傷薬を貰った後は、すぐに家に帰ってしまった。
「あなた、どうして私の父を殺したの?」
【十三】
「言葉にすれば納得出来るのか?」
「できる訳ないでしょ。それでも、聞いておかなければ気が済まない」
あの時、バコウは今よりも崩壊していた。保護観察で施設に送られた後も、脱走を繰り返しては捕まり、気に障るやつは全て殴った。暴力は、ラルトスが肯定した。そう思うと、すぐに手が出た。バコウが完全に施設を脱走し、裏の世界に溶け込んでいくのは、時間の問題だった。
「あの人は、親切にしてくれた。後から思い返すと、それが気持ち悪かった。何故傷薬をくれたのか分からなかった。何か裏があるのかもしれない。そんな奴は殺しておかないといけない。そう、思った」
「それが聞ければもういい。あんたはとっくの昔に壊れてるよ。死んでるも同然だ」
「壊れてる、か」
「キルリアなんて、最初からいなかった。あんたが妄想の中のラルトスを進化させて、勝手にキルリアにしただけ。頭に残ってる笑顔だけがずっと映って、あんたが何をやっても笑ってくれていた。そうなんでしょ?」
「そうだ。笑ってた」
「あんたのこと、調べたよ。両親を殺したのも、ラルトスのためだった。その殺しは、あんたの中で正当化されている。失った笑顔は、両親を殺すことで取り戻した。ラルトスが笑っている限り、あんたは止まらない」
「分からない。何を言っているのか」
「もういいって。既に崩壊しているあんたに、どうやって惨たらしい死に方をしてもらうかずっと考えていたけど、しばらく仕事をしていたら、そんな気も失せてきた。だって、もう死んでるんだもん」
「俺が、死んでる?」
「誰かに憎しみをぶつければ、仇を取ったラルトスが笑ってくれる。あんたが考えているのはそれだけ。両親を殺したように色んな奴に憎しみをぶつければ、助けられなかったラルトスの笑顔があんたの妄想の中で笑う。そうやって、ぎりぎり自我を保っていただけ。そんなことを繰り返しているような人間は、”生きている”とは言わない。そして今、あんたはその事実を思い出してしまった。自我が崩壊しないように蓋されていた記憶を、ゴーストの”あくむ”が開いてしまった」
「生きているって、何なんだ。小さい頃から、俺は死んだようなもんだった。大人になってからも、それは変わらない」
「本当は、少し分かっていたんじゃないの? キルリアは、自分の妄想が作り上げたものだって」
「分からない。何も、分からない」
「うちの担当を順番に殺すなんて、死にたいと言っているようなものだよ。知ってはいるんでしょう? ロケット団という組織を」
「でかくて、底が見えない危ない組織だっていうことだけな」
「そんな組織を敵に回せば、殺されるって思わなかった?」
「わからない。ただ、俺は、いつも通りにしていたつもりだった」
「ゴスの部下に襲撃された時だって、突破しようと思えば突破できたはず。それをしなかったのは、死にたかったから?」
「分からない。俺は俺が分からない」
「死にたかったなら勝手に死ねよ。ぐずぐずと子どもみたいに駄々をこねて、見苦しいったらありゃしない。私は自分で志願してこのポジションについたけど、その価値もなさそうで、正直がっかりしてる。怒りに燃えて、調べ続けて、ロケット団員にまでなって追いかけた奴が、こんな奴だったなんて」
「組織は、俺を殺すためにわざわざお前に助けさせたのか?」
「これは独断。私があんたの犯行をバラして、ゴスの組織に捕まって死んでくれるならそれでOK。さんざん使ったから、殺された団員の分はそれでチャラ。でも、それじゃ気が済まなかったからね。あのバリヤードに協力してもらって、あんたを助けた」
「あいつが、よく命令を聞いたな」
「あんたを助けて、あんたを殺すためだって言ったら、大笑いして同意したよ」
「そうか」
「もう、死を受け入れろ。中途半端に死んだように現世を彷徨ってたら、生きている人間が迷惑だ。それが、善人であっても悪人であっても」
もしかしたら、ヨロギのことをバコウは潜在的にあの店主の娘だと分かっていたのかもしれない。初めて会った時からバコウに対して死んで当然という態度で向かって来た。今までだって殺そうとして来たやつはいるのに、ヨロギは違った。バコウを見て、諦めていた。何の感情もなかった。怒りさえも、なかった。こいつは終わった人間なんだと、冷めた目を向けていた。だから何も思わなかったのか。いや、それとも、
「俺は、疲れていたのか」
「疲れている、で終わらされても誰も浮かばれない。でも、私はこれで満足出来る。自分の人生にケリがつく。もう、良いでしょ?」
良い。そう思えた。そんな気がした。これ以上何をやっても、もう無意味な気がした。きっとキルリアの笑顔はもう見られない。肯定してくれない。それなのに、殺し続けても意味はない。殺し続けないのなら、殺されるのも、良い。
どこから持ち出したのか、ヨロギは座り込み、ナイフを両手に握りこんでいた。丁度それは、バコウがゴスを殺した時に使ったものとよく似ている。仰向けになったバコウの上で、それを振り被って、ゆっくりとヨロギはそれを下す。ずぶ、と皮膚を貫通したナイフが刺さっていく。痛いけれど、解放感に満ち溢れていた。
柄まで刺さったナイフを、ヨロギはまたゆっくりと引き抜く。カラン、とナイフが地面に落ちる。
意識が、少しずつ少しずつ遠のいていくのが分かった。
ラルトスは笑わない。バコウを肯定しない。
終わりが近づいている。
守りたい。最初はそれだけだった。
意識が薄れていく。
憎しみが全て取り除かれて、何もなくなったバコウが最後に思い描いたのは、それでもラルトスの笑顔だけ。
【了】
憎い。
相手を一度憎んだら、どうあっても憎い。
その感情は、男にとって最も強い感情だった。
他のどの感情よりもそれは勝る。憎い奴がいる間は、どんな感情よりも優先される。
不断の感情だった。憎い相手は、途切れず現れる。一人いなくなれば、一人現れる。憎いと思う相手を探さなくても、目がついた人間は端から憎いと思えた。
「バコウさん、本当に無愛想ですよね。一体どういう育ち方したらそうなるんですか」
男、バコウは、そんな言葉を掛けて来た取引先の人間、ヨロギを憎みはしなかった。そうだよな、と納得すらしていた。今の立場で、一切飾らない言葉をぶつけてくる人間は珍しい。その物珍しさに面食らって、言葉そのままに受け止めていた。
だからといって、特に変わる訳ではない。バコウが変わるにはもう歳を取り過ぎている。
「よくそのキルリアが懐くもんですね」
「理解できなくて良い。お前が俺とキルリアを理解出来る訳がない」
「気持ち悪いですね」
飄々とそんな強い言葉をぶつけられているのに、ああ、そう、酷いね。という程度の感想しか湧いてこない。ヨロギはぴくりとも表情を変えなかった。その顔を見ていると、ドス黒い感情も湧いてこない。
「酷い奴だな。お前以上に酷い奴は中々いない」
「どの口が言うんですか」
互いに譲らない。こんな憎まれ口を叩く間柄だが、関係が悪いとは言えなかった。仕事上のコミュニケーションには困っていない。ただヨロギとしては、組織で一番のハズれポジションである、バコウ担当を押し付けられているのが不服らしい。そもそも、そんなポジションがあること自体がおかしいとの話だった。こんな奴相手に気を遣う必要はない。言いたいことは言えば良い。何を言い返されようが、何をされようが、こんな無愛想で歩み寄りのない下劣な人間相手に容赦する必要はない。誰もが同じ接し方すれば良いのに、何故誰もそうしないのか。担当なんて決めずに、暇な奴がやればいい。
主張は分かりやすかった。
そして、その主張は誰にも受け入れられていない。同じように担当として送り込まれて来たヨロギはもう四人目だった。新しい仕事の連絡、対象の情報提供、依頼の補助、報酬の交渉、後始末。その全てがヨロギの役目であり、一年も続く人間はヨロギだけだった。
「つまらない話はここまでとして、仕事の話をします。次の対象は、こいつです」
バコウの横に立つキルリアは、いつも通り、笑っていた。
【二】
キルリアは、バコウの最初のポケモンだった。
ラルトスから育てて、バコウが大きくなるのと同じように進化した。バトルはさせていなかった。痛い思いなどして欲しくなかった。隣にいて、笑ってくれるだけでそれで良かった。
キルリアの笑顔は、肯定の証。憎い相手にその感情をぶつけてもキルリアは笑って踊っていた。憎い相手の頭を踏みつけても、笑っていた。何をしても隣で笑うキルリアにだけ、バコウは笑いかけた。笑っている限りは、それで良いのだと思った。
誰に何を言われても変えるつもりはなかった。
笑ってくれるから。ただ、それだけの理由で。
「顔をよく見ておいて下さい」
「それで、こいつは何者なんだ」
足の短い折りたたみ式のテーブルに、写真が並ぶ。
ヤマブキの端にある木造アパートが、バコウの住処だった。いくつかあるうちの一つで、木と畳のにおいと、朽ちかけた家の雰囲気が気に入っていた。物はほとんどない。最低限の衣服と、机が一つだけ。毛布は一枚あるが、枕はない。キルリア用のクッションと寝床だけは、しっかりと用意されている。
片膝をつき、手に持ったたばこの灰をテーブルの上の灰皿に落としながら、バコウは写真の人物をじっと見つめた。
「薬物売買組織の元締め。小金を稼ぐくらいなら目を瞑っても良かったのですが、身の丈以上にやり過ぎです。ヤマブキ中のポケモン達を薬漬けにする訳にはいきません」
「いつから正義の味方を気取り始めた?」
「我々は元々正義です」
「笑わせる」
「笑っていられるのも、今のうちです」
何を言っても不快感一つ示さない。ヨロギはバコウの言葉にびくともしない。
「それで、薬って何の薬だ?」
「ポケモンの力を急激に高める薬なんですけど、いかんせん副作用が強くて。タウリンとか、ああいうものより効き目が強すぎるんですよ」
写真の男が、天井から垂れているむき出しの電球に照らされる。薄暗い部屋の中で見る元締めの男は、バコウからはなお胡散臭そうな顔に見えた。
低いテーブルを前に立ったままのヨロギは、バコウがいつも一定時間じっと対象の顔を見つめる、その儀式のような時間をじっと待つ。
「詳細は」
インプットを完了し、バコウは次を要求する。
写真が入っていた茶封筒から、ヨロギが新たに複数枚の紙をテーブルに並べる。
組織図と、アジトの情報。普段の動向から、趣味趣向、来歴まで、細かく記載がある。
「期限は」
と、バコウ。
「二ヶ月」
短くヨロギが答える。
「書類は」
と、ヨロギ。
「読んだら燃やす」
遮って、バコウもまた短く答える。
「報酬は」
「指定の場所へいつも通りに、前回同様の金額で」
「いいだろう」
話はまとまった。
「それでは、報告をお待ちしていますよ。次までには、その無愛想を直しておいてください」
「お前、夜道には気をつけろよ」
「簡単にやれると思わないで下さいね。前三人と私は違いますよ」
アタッシュケースに茶封筒をしまって、ヨロギは部屋を出ようと玄関で革靴を履き始める。
「直らないよ。一生」
背中に向かって声を叩きつけた。精一杯の嫌がらせ。
「そのキルリアがいる限りは、そうでしょうね」
こちらを振り向きもせずそう言って、ヨロギは部屋を後にした。
【三】
バコウのキルリアは艶がある。近しい者の感情に左右されるポケモンであるのに、どうもあまり影響を受けていない。
安全弁もなく常に全開のバルブからだだ漏れの憎しみを受け取っていれば、悪い影響を受けるはずだった。
何故こうも美しく綺麗に育っていくのか。その理由はバコウ自身でも理解していない。
ただ、分かることもあった。自分を肯定してくれている。世界で一匹、キルリアだけがバコウの理解者だった。
「今回も頼む」
バコウには仕事仲間がいた。現在の拠点、ヤマブキにいる仲間は、バリヤードだった。各地方に存在する中でも一番付き合いが長い。
まだ若く分かりやすく憎しみを散らしていた時代に、その日の寝床にしようとしたヤマブキの廃墟で出会った。相部屋は望んでいなかった。気に障ったバコウはバリヤードを蹴飛ばそうとしたが、いくら挑んでも謎の壁に阻まれ、お前なんか相手にするかと笑われ続けた。笑われたことが気に食わないのではなく、憎しみをぶつけられず、蹴れないことが不服だった。
その後何度かばったりとヤマブキで会ったが、毎度相手にしてくれない。バコウにとっては、いつもいつでも気に障る奴だった。
そんなマルマインのように常に破裂しそうな若い時代から、大人になって少しだけ落ち着きを得た。
久しぶりにヤマブキで再会した時、あのバリヤードだとすぐに分かった。殺してやろうと思った。
風貌だけ大人びたバコウを見て、バリヤードはまだ笑っていた。何を考えているのか、どんなどす黒い感情を持っているのか、見透かしたような笑い方だった。まだそんな荒れているのかよ、と言いたげに、理解を示すような視線と表情をバコウに向けた。
それを見て、バコウもまた理解する。荒くれ者であるのは、お互い様だった。
野生のポケモンは、人間に害と判断されれば捕まってしまう。それが、何年も経っているのにまだヤマブキをほっつき回っているのは、うまく逃げおおせている証左。ヤマブキに、人間相手に甚大な被害を出し続けるバリヤードがいるのは有名な話だった。
だから、再会の時互いのあまりの変わらなさに思わずバコウも一緒になって笑ってしまった。互いが嫌いなのに、変わっていないという一点のみで気があった。仕事仲間になるのに、時間はかからなかった。
バリヤードがねぐらにしていそうな廃墟を探すのに手間取ってしまった。請け負った仕事を完遂するまでの期間には、こういう時間も含まれている。姿を現したバコウに向かって、バリヤードはいつも通りにやついていた。大量の食料が入った袋をばさばさと揺らし、目の前の宙にそっと置く。透明なテーブルがそこにある。バリヤードがねんりきで運びそれを受け取るのが、了解の合図だった。
「また来る」
背を向けたバリヤードは、返答なく腕をひらひらさせて去って行く。
【四】
バリヤードに協力を取り付け、次にバコウは下見を始めた。
提供された資料は目を通して既に燃やした。内容は頭にインプット済みだった。昔から記憶力だけは良い。内容を把握する能力にも自信はあった。
AM0:05、〇〇通りを通って例の店に入店。
裏路地から、対象がバーに入るのをバコウは目撃した。今日で丁度一ヶ月。ヨロギからの依頼である、薬物販売組織のボスの動向がだいたい掴めた。
対象の名前はゴス、と言った。生立ちはいかつい。組織の先代が父親であり、それを受け継いでいた。少年時代は自分のバックを同級生にちらつかせ、レントラーの威を借りていたらしい。長身だが細身で、腕力でも問題なく押さえつけられそうな身体付きだった。
組織は思っていたよりも古い。よくある小さいヤクザ組織が、新しいシノギを得てヤマブキで幅を利かせ始めていた。身の丈に合わないと言っていたヨロギの言葉はおそらく正しい理解だとバコウは思った。彼らが競争の激しいヤマブキでこれ以上大きくなって生き残るのは難しい。組織構造からして古さが目立つ。
ボスをてっぺんとしたピラミッド構造が、良くも悪くも出来上がっている。けじめと称して部下に暴力を振るい、縦社会を何よりも重んじ、組織の代紋を何よりも価値があるものとして守る。そんな古いやり方が、この時代に続くはずがない。他の犯罪組織もより狡猾に事を運び、実態の分からない組織となっている。目立ちすぎは、ただのリスクでしかない。ヨロギ達に目障りな奴らだと思われた時点で、組織崩壊の時は近い。その第一歩が、ボスの殺し依頼なのだろう。
依頼達成はそう難しくないが、どうスムーズにやるかどうかは大事なファクター。基本的にゴスの周りには数人の御付きがずっといるので、警戒している間を狙うのは厳しい。事務所はもちろん、家はセキュリティが厳しい。唯一油断がありそうなのは、ゴスが懇意にしているバーだった。酒が入っていれば油断もあるだろう。もちろん警戒はあるが、他よりよっぽどマシとバコウは見る。
木造アパートに戻ったバコウは、一ヶ月程の調査結果をまとめていた。パソコンも何も無いので、手書きのメモだ。記憶にあるヨロギの資料と照合し、差異がないか確かめる。ほとんどはヨロギの調べが正確であることを証明するのみだったが、バコウが思っていたよりも、ゴスをボスとする犯罪組織は古臭い。縦社会が強く、仁義を通すなどというバコウにとっては意味不明なやり方で組織を統制しているため、脆い部分も多い。つつけば蜂の巣のように群がってくるので、そこを利用すればいくらでも隙をつくれる。返し、と呼ばれる復讐がしつこいのは目に見えていた。顔を曝さずにやるのが良いだろうが、そうすると成功率が下がる。やはり多少のリスクをとってぎりぎりまで近づいて直接一瞬のうちにやるのが一番だろう。
「まずは、蜂の巣をつつくところからか」
まとめたメモを覚え、灰皿の中でそれを順番に燃やす。次いで煙草に火を付け一口吸えば、体中に染みわたっていく。身体を壊し毒に侵されても、気持ちよさを感じる。まったく合理的ではないその手軽な行いが、自分に合っているようで好きだった。ゴスの組織が売っている薬も煙草も、効き目が違うだけで本質は一緒だ。得られるものには代償がある。
ただ、バコウは煙草を吸う代償を代償だと考えていない。喫煙が身体を壊すことよりも大きな価値を持つのであれば、リスクはリスクになり得ない。
同じように、憎しみを直接相手にぶつける行為も代償が伴うが、それを代償だとは思えなかった。憎しみをぶつける価値が、代償をあまりにも大きく上回る。ぶつけた後の自己の解放が、なによりの快感だった。手放せない。ゴスを憎む理由はないが、けじめだと言って部下にその部下を殴りに行かせるその行いは、気に障った。苛立った。殺す。憎しみを、ぶつけるに値した。
この生活からは、おそらく一生逃れることは出来ない。それを不幸だという者もいるだろうが、バコウの隣にはキルリアがいる。
自己を解放し、それを肯定してくれる存在が隣にいてくれると思えば、それはなんと幸せなことだろうか。今の生活に、不満はなかった。
【五】
一度協力をとりつければ、バリヤードは極力同じ場所で待機している。出番が来れば、バコウのモンスターボールに入るのがいつもの流れだった。仕事が終われば、”にがす”。その繰り返しだ。仕事上、小さなボールに入れて歩けるのは都合が良い。依頼の達成率も上がる。この部分については、バリヤードも同意の上だ。
バコウの狙いは、運び屋だった。そんな下っ端を捕まえてもしょうがないかもしれないが、薬を奪えば、おそらくわらわらと寄って来る。うちが舐められている、と思わせればそれで良い。
夜、ニット帽を被り、大き目のマスクをして、バコウは事前に調べた運び屋のルートの一つで待ち構えた。長袖の上に羽織った袖なしのパーカーだけでは、ここ最近は肌寒い。ビルの外壁を背にして、じっと時を待つ。道行く人はスーツの人間が多い。夜遅くまで残業するサラリーマンだろう。
遠い世界の人間を見つつしばらくそうやって構えていると、運び屋が現れる。ヤマブキにごまんといるその下っ端には、動くルートと恰好に決まりがある。判断しやすいように共通項を用意していた。すぐにピンと来た。後を追う。ルートは覚えている。全部を覚えるのは不可能だったから、絞ったルートに当たりが来るまで待って正解だった。不自然に裏通りを通ったり道を迂回しないそのルートは、可能性が高いとバコウは考えていた。
しばらく後をつける。このまま大通りを進む予定だ。交差する路地がある時は、何本かに一本少しだけ横に入って一瞬だけ周りを確認する。自分がへまをしてつけられることも考えなければいけなかった。バレると面倒だ。
運び屋の男は、数百メートル真っすぐ歩いた後、左に曲がって路地へ侵入した。バコウもそれに続く。ここからは、ある程度の距離を保つ必要がある。
尻ポケットから黒皮のグローブを出してそれをはめる。このまま真っすぐ行くと公園に辿り着く。電灯も多く、開けているその公園は人目に着くので、そこでは取引は行われない。ルートのゴールは、公園のすぐ側。道を一本挟んだ向かい側に、ビルとビルの間を抜けられる道が一本存在する。その奥には四角い空間が広がる。行き止まりのようで、数人は通れる隙間が奥にあった。形としてはΦの字で、通り抜けられるようになっている。
何のためにあるか一見分からないそのぽかんと開けた空間は、絶好の取引場所だ。
ヤマブキシティの中心部は綺麗に開発が進んだが、町の端は昔からの家がまだ立ち並ぶ。立ち退きや土地の買収がうまくいかず、いびつな順序で建築が進み、建物に囲まれた四角い空間がいくつかあった。
逃げ込むようにそこへもぐりこんで行った運び屋の後ろをつけ、そっと監視する。取引相手は、既に待っていた。リュックをそのまま渡すのを見て、確信する。バコウは飛び出した。一本道を一気に駆ける。
相手が気付くと同時にモンスターボールを投げ、バリヤードに応援要請。
当然四角い空間にいた二人は気付く。バトルになる可能性もあったが、二人は逃げの一手を選んだ。好都合だ。
「壁だ」
言葉を待たず、バリヤードは既に仕事を始めている。四角い空間から通りへ抜ける道の途中で、透明な壁にぶつかって派手に後ろへ倒れこんだ二人に、バコウが追いつく。すかさず仰向けになっていた取引客のこめかみを殴り飛ばして意識を飛ばす。薬が入ったリュックを奪って小脇に抱え、今度は運び屋の足を折る。後は動けなくなるまで殴った。意識は奪わない。まだやってもらわなければならないことがある。
抵抗する気がまったくなくなったところで、運び屋のポケットを探って携帯を取り出した。
「緊急時の連絡先、教えられているだろう? 連絡して、この状況を伝えろ」
助かるかもしれない。一瞬でもそう過ったら、電話せずにはいられない。運び屋は携帯を返されるとすぐに連絡を始める。相手は管理側。ゴスの組織の人間に繋がる。場所と状況を伝え電話を切れば、見下ろすバコウと目が合う。恐怖に涙を流す。殺さないで下さいと、懇願されているのがバコウにはよく分かった。
「ご苦労。お前には働いてもらったから、殺さないでおく」
携帯を奪ってそれを踏みつけてすぐに壊す。最後にもう一発殴って運び屋の意識を飛ばした。
「行くか」
一息つく間も無く、バリヤードは次の仕事を始める。透明な階段を作って、何もない空間を上っていく。その動きに合わせ、バコウも後ろへピタりとつく。追っ手はすぐに来るだろう。この場所にはもう用はない。仕上げの場所へすぐに向かう。
【六】
建物の上をつたって走る。飛び移れない距離は、バリヤードの壁を走った。
先程のΦの空間には、今頃組織の人間が集まっているだろう。この隙がチャンス。一直線に上からゴスがいるバーへ向かう。時間的にはいつもいる時間だった。最後の一杯を楽しむ時間くらいはまだあるだろう。
「この仕事が終わったら、一旦ヤマブキを離れる。どうだバリヤード、一緒に来るか?」
バカかお前と笑い飛ばすバリヤードに、変わらない奴だなとバコウもまた微笑む。相変わらず気に入らない奴だった。いつか殺したい一匹であるのは変わらない。各地にいる仲間のポケモン達は、皆仕事上でしか言うことを聞かない。苛立っても殴らせてもらえず、殺させてもくれない。だからこそ関係が成立しているし、バコウもまた仕事を続けられていた。キルリアの笑顔と、殺されない仲間がいる限り、バコウは止まらない。一生憎しみを垂れ流し、いつか全てを吐き出して死ねればなんと幸せなことか。それが無理そうであるのはバコウ自身もなんとなく理解している。仕事中に何か失敗して、惨たらしく死ぬのが現実的だろう。それでも、それまでの間今が続けばそれで良い。自己の解放が続けば、苦しくない。
「それじゃあ、仕上げるぞ」
雑居ビルの屋上から下を見下ろす。立っているのは、ゴスがいるバーが入ったビルの屋上だった。入口は裏路地側なので、他に人気はない。様子を少し観察していると、中から黒服が出てきて、電話をしているのが見えた。店を出てどこかへ消えていった奴もいた。明らかにいつも通りではない状況が出来上がっている。
バリヤードの透明の階段を使って下りる。上空から来ると誰も思っていないので、これが意外にも気付かれ辛い。
ある程度の距離で、バコウとバリヤードは店の前まで飛び下りる。入口に陣取っていた黒服は驚いて呆気に取られているが、すぐに現れた一人と一匹が敵だと判断したのか、飛びかかって来る動作を見せる。流石に店の前の防御を任されているだけのことはある。それでも真っすぐ飛びかかって来るのは悪手でしかない。左下へカットインしながら、ぶん回したバコウの拳が男の顔面を捉え、そのまますぐ後ろの透明な壁に叩きつけられる。バリヤードとよくやる連携の一つだった。想定しない衝撃は、想像以上のダメージを人間に与える。
「お疲れさん」
そのまま店に押し入って、パーカーの内側に仕込んだバタフライナイフを握りこむ。引き抜きそのまま振りかぶる。対象をカウンターに発見。そのまま腕を振り、バタフライナイフをゴスの足に突き刺す。機動力を奪った。醜い悲鳴が上がった。
店内はテーブルのボックス席が四つに、カウンター席が五つ程。突然の状況に店内には高低差のある悲鳴が上がる。バタフライナイフを投げてそのまま一直線に迫るバコウに、さっきの騒ぎで少なくなった黒服の何人かが飛びかかって来るが、すんでのところでバリヤードの壁がそれを遮る。時間にして数秒。もう一本のバタフライナイフをパーカーの内側から抜いたバコウは、そのままそれを胸に一突き。何の躊躇もない。恐怖に怯える暇すら与えず、それを引き抜いて、その辺に捨てる。ナイフから足がつくようなヘマはない。ポケモンを出す暇も与えない。黒服の男達をバリヤードの壁でガードしながら、すぐに店を出てドアを閉めれば、後はバリヤードの仕事。何事もなかったかのように店を出た客を装って、大手を振って夜の町に紛れ込む。
店からは誰も出てこない。扉の前を、バリヤードが壁で塞ぐ。ある程度の距離までしか効力がもたないため、所定の位置まで離れて、すぐに人気のない路地へ。夜のビル街に、バコウとバリヤードは消えて行った。
【七】
ニット帽とマスクを着用していた上に、ほんの十秒程の出来事だった。恐らく顔は割れていない。うるさい蜂も、これで追って来ないだろう。バリヤードにも言っていた通り、念のためバコウはこの後ヤマブキを離れる予定だった。ヨロギの組織が守ってくれることを期待してはいけない。今後一緒に仕事をするためにも多少手は貸してくれるかもしれないが、契約外の話であるため、あてには出来ない。
そもそも契約書などない。そんなものを残す訳にもいかない。口約束と信用で成り立つ裏の業界では、評判が一番だ。それはバコウであっても、ヨロギ達であっても同じこと。金はいつもきちんと支払われるし、納期は守る。困ったことがあればこちらの要望は聞き入れられるし、向こうの追加要求を黙って飲むこともある。ただ、ゴスがいたような組織は、執念深さだけは群を抜く。合理性など関係なく、やられたらやり返さないと引き下がれない。顔が割れていないとはいえ、何かでバレてしまったら厄介だ。
自分の身は自分で守る。組織を軽んじられると自分を軽んじられたと感じる、軟弱な構成員は気に食わないので全員殺してやりたかったが、そこまで派手に暴れると仕事が続かない。目標は達成したので、ここが幕引きには丁度良い。
薄暗い部屋の中、煙草の煙が上がっていく天井を見つめながらバコウはぼんやりとしていた。ひんやりとした壁にもたれて片膝をつき、頭をからっぽにする。毎回この時間が至福だった。気に入らない奴を誰かの依頼で殺し、一服する。自己を解放する瞬間だ。わずかな時間ではあるが、何も考えないでいられる。苛立ちや憎しみが消えて、身体が軽くなる。
横に佇み微笑みかけてくれるキルリアが、更にバコウの心を安定させる。この笑顔に何度も助けられた。何をしても笑っているキルリアだけが、バコウの心の支えであった時期が長い。自分で自分を保てるようになった今ですら、まだ半分はキルリアが支えていると言っても良い。それくらい、バコウの中では大切な存在だった。
この生活には満足している。後はもう何もいらない。けれども、一つだけ知りたいことがある。どうしてキルリアは笑ってくれるのだろう。憎しみを垂れ流すことしか知らない男の側にいて、何が楽しいのだろう。昔から一緒にいるから情があるのだろうか。バコウは、自分がキルリアにとってどういう存在なのだろうと時折考える。辛い生活を強いている訳でもないが、決して楽しい生活を送らせている訳でもない。バコウ自身は満足しているし、キルリアは肯定してくれているが、キルリア自身が幸せかどうか、それは分からない。
「分かりようがない」
バコウは変わらない。変わらない男の隣にいるならば、キルリアもまた変わりようがない。笑ってくれているならそれで良いか、と絡まった思考を捨て置いて片づける。
何本か煙草を吸い終わったところで、身体が満足した。ヨロギに連絡をいれようと電気を三度、消したり点けたりを繰り返す。それが合図だった。殺しなどというリスクのある依頼をしてくるような組織が、個人でそれを請け負うような人間をまっとうに信用する訳がない。常に監視がついているのはよく分かっていた。最初にそれが分かった時、癇に障って一人目のバコウ担当を殺した。手に負えない人間だと分かったはずなのに、ヨロギ達はまた次を送り込んで来た。二人目も三人目も、似たような理由だった。
しばらく待っていると、部屋の扉が開く。スーツ姿のヨロギが、中へ入ってくる。部屋の真ん中に立ち、壁に背をつけ座るバコウを見下ろした。
「対象の死亡を確認しました。依頼達成、どうも。報酬は指定の場所へ来週の頭までにお送りします」
ヨロギの事務的な会話には興味がなかった。金にも大して興味はない。生活出来るだけあれば十分だった。
「今あいつらは大騒ぎだろうな。自分達の頭がやられて」
「分かりやすい奴等です。今、犯人探しに躍起になっていますよ。バコウさん、顔割れているんじゃないですか?」
「大丈夫だ。そんなヘマはやっていない」
「そうですか。バレて殺されれば、報酬を払わなくて良いんですけどね」
「次の仕事ができなくなるぞ」
「次を受ける気ですか?」
「この町以外ならな」
「悠長なことを言いますね」
「どういう意味だ?」
「言う義理はありません。それに、次の仕事もありません。それではどうぞお元気で。さようなら」
無表情のままそこまで言い切ったヨロギは、そのまま部屋を後にした。何故だかヨロギに対しては憎しみが湧いてこない。読めない何かが遮って、憎しみの流れを止めていた。友達でもなんでもないただの仕事相手なのだが、珍しい奴なのは事実。このまま縁が切れるのは惜しい。いつか、ヨロギを本気で憎める時が来たら、どれだけ素晴らしいだろう。解放される自己は、どれほど大きなものなのだろう。
閉まった扉は開かない。ヨロギが戻って来るはずもなく、静寂が部屋を闊歩した。
もう今日はやることがないが、眠りにはつかない。殺しの晩は、寝ないのが決まりだった。少しでも自己が解放される時間を楽しみたいのと、何が起きるか分からないからだ。それだけ殺しが大事なのは客観的事実としてバコウも理解している。人一人死ねば、色々な人間が動く。絶対に復讐されないとは限らない。
電気だけ消して、また煙草に火をつける。
殺しの後の余韻には、まだ浸れそうだった。じわじわと湧き出てくる憎しみや苛立ちは、もう少しだけなりを潜めていて欲しかった。キルリアが笑い、踊るのを見ながら、煙草を吸って吐いた煙と一緒に、魂まで抜けるようなこの感覚は、何物にも変え難い。涎が垂れていても今なら気にしないくらいに、ぼうっとしてしまう。
しばらくそうしていても、何事も起こらない。無事に仕事を完了したと考えていても良さそうだ。今回もまた、スムーズだった。滞りなく予定通りに進んだ。ゴスの周りの警戒も薄かった。ヨロギの事前調べもかなり効いていた。二ヶ月と指定してくるだけの資料は用意されていたので、依頼人としてはやはり悪くない。
「そういやあいつ、仕事はもうないって言ったか」
殺したい相手以外で、また会いたいと思える初めての人間かもしれない。仕事がうまくいってるからそう思うだけなのか、本当に会いたいと思っているのか、バコウには正確には分からない。人間に対して向けられる感情の種類が少なすぎた。今感じているのがどういう感情なのか、理解するのは難しい。
「まあ、依頼する気がないなら仕方がない」
そういう付き合い方しかできない。この生活を長年やりすぎている。今更何も変えられないし、何も変わらない。
煙草を消し、また新たな一本に火をつける。朝まで煙草がもつか、それだけが心配だ。
【八】
灰皿が山盛りになっていた。
ずっと同じ体勢で座っていたので、身体が軋む。一度立ち上がってのびをする。日が昇るまではあと数時間といったところか。やはり一晩持たなかったので、新しい煙草を買いに行くくらいならいいかなと思い始めていた時、アパートの前に車が停まった。耳を澄ましてじっとしていると、今度は鉄骨の階段を登る音が複数聞こえた。このアパートに、こんな時間に階段を登るやつはいない。バコウは身構える。足音は部屋の前で止まった。ヨロギか? と頭を過るが、そんなはずはない。用もなく来るような奴ではないし、来るなら絶対に一人だ。
明らかな様子のおかしさに、バコウの警戒心は最高潮に到達する。後ろ手でカーテンを僅かに横へ引く。チラと周りを見れば、数人、アパートを監視していた。バンが停まっているのも見える。隠れるつもりはないらしい。
バコウは状況を理解する。相手は、ゴスの部下達だ。犯人がバコウだと分かっているし、住処も特定されている。原因を考える暇はなかった。
キルリアのモンスターボールはないため、抱き上げて襲撃に備える。ノブが回り、扉がキイ、と音を立てて開く。二人の大男が立っていた。はっきりと顔が確認できない程に部屋は暗い。
「あんたがバコウか。うちのボスが世話になったみたいで、礼が必要だろうと思ってね。邪魔するよ」
土足のまま二人は上がりこむ。
手持ちライトに照らされ姿を晒したバコウは、その光を手で遮りながら、どうここを逃げ切るか考える。
「礼には及ばないな」
「そう言うな、付き合えよ」
窓から飛び降りて逃げの手を打つか、目の前の二人を倒して正面突破するか、一度大人しく捕まって脱出の機会を待つか。何が一番可能性が高いか。バリヤードを逃してしまったのはここに来て痛手だった。奴がいればどうとでもなった。
「飯くらい出すんだろうな」
「飲み物くらいなら出るが、多分あまりおいしくはないな」
少しでも会話を繋いで時間を稼ぐ。相手は多勢、窓から飛び降りて逃げるのは一番難しいだろう。正面突破もキルリアと一緒では厳しい。それなら、余計な体力は削らずに一度捕まってタイミングを伺うのが一番可能性が高いのではないか。
「わかった、大人しくしよう」
片腕を上げて、無抵抗の意志を示す。
「良い子だ」
大男のうちの一人は、手に持つモンスターボールを前に放る。中からはゴーストが現れる。さいみんじゅつ、という技名が聞こえた後、バコウの意識は深い深い闇の中へ落ちていった。
【九】
冷たい水を掛けられ、バコウは目を覚ました。ぼやけている景色が少しずつ鮮明になっていく。身体を動かそうとしても動かない。椅子に後ろ手で縛り付けられていた。室内の薄暗い明かりすら目が痛い。ゴス達が居を構える事務所だろう。
「お目覚めか」
周りにはスーツ姿の男たちが十人程立っていた。窓にかかったブラインドの隙間から見える向こう側はまだ暗い。それほど時間は経っていない。場所も把握出来ている。
「どこのもんだ? それとも、どこの奴に頼まれた?」
答えられる訳がなかった。それに答えれば、今度はヨロギの組織に追われる。話の端々から感じる底の見えなさと大きさは、ゴスの組織の比ではない。このままどうにか脱出出来る方法を考える方が、生き残る可能性は高いはず。
目の前に立つ大男は多分家に入って来た男だ、と顔を確認した途端、迷わずその拳はバコウの横っ面を殴る。声にならない痛みが走る。抵抗する術がない。
「答える気はあるのか? いくらでも付き合ってやるから、喋りたくなったら言えや」
続けざまに殴られる。口の中が血の味で広がり始める。飲み物は確かにまずかった。殴られることには慣れている。これくらいではまだ折れないが、意識を飛ばさず、苦しまないように殴る蹴る方法は流石に良く知っている。部下のしつけなどという、つまらない慣習を続けているだけのことはあった。
「丈夫だな。それとも、諦めてるのか?」
朦朧とする意識の中、バコウの頭に浮かんだのは笑顔だけだった。
「そ、そうだ」
少し喋るだけで口が痛む。それでも確認せずにはいられない。首だけを動かして、辺りを見回す。
「キ、キルリアは、キルリアは、どこだ」
自分がいくら殴られても良いが、キルリアが殴られるのだけは我慢ならなかった。あの笑顔がぐしゃぐしゃにされるのは、耐えられない。
「何言ってんだ?」
目の前の男は、周りに立つ人間に確認するも、それぞれが首を横に振る。誰も知らない。
「俺が抱えていた、キルリアだ。どこへ、やった」
「馬鹿かお前。殴られて頭がおかしくなったのか? ボールも持ってないみたいだし、お前はあの部屋に一人だった。そうだ、それも聞かなきゃいけないな。あのバリヤードはどこに行ったんだ?」
何を言っているか理解できなかった。キルリアがいない? そんなはずはない。あの部屋にずっといた。ずっと隣で、笑っていた。こいつらが、しらを切っているだけだ。もしかしたら、もう殺したのではないか。
「お前らも全員殺してやる。一人ずつ順番に、ゆっくり、ゆっくりだ」
何故か笑いが込み上げる。自分でも理解できなかった。周りにいる十数人の男を順番に殺す光景を想像し、キルリアを助けられると思ったら笑いが止まらない。
「気持ち悪い奴だな」
男の前蹴りが腹に突き刺さる。くぐもった声を上げて、血を吐きながらも笑いは止まらない。こんな奴らに、大した力はない。今まで、大勢の人間やポケモンを殺し続けてきた。自己の解放のために負った苦労はこんなものではない。こんな痛みは、大した苦痛にもならない。
「いかれてやがる」
いくら殴る蹴るを繰り返しても無駄だと悟った男は、モンスターボールをその場で解放。中からは、先程バコウを眠らせたゴーストが現れる。
「外がだめなら中からだな。”あくむ”を見せてやるよ」
再びの催眠術。痛みが走っていても意識が飛びそうになるその効力は絶大だった。ポケモンの力には中々抗えるものではない。バコウはそれをよく理解していた。舌を噛んで意識を保とうと試みるが、咄嗟に猿ぐつわを噛まされる。噛みしめる力を出せなくなると、抵抗しづらい。ゆっくりゆっくりと、バコウの意識は落ちていった。
【十】
バコウの生涯は暴力で埋め尽くされていた。
最初の記憶は父親からの暴力だった。振るわれた数は数え切れない。母の連れ子であることが気に食わないという説明は受けたが、それでは理解できなかった。
最初こそ子どもながらに抵抗を見せていたが、そんな気も起きなくなってくる程の暴力が続いた頃、廃人のようになったバコウはただ両親の命令に従うだけの人間になっていた。何故こんな目に遭っているのか。そんなことを考える気力は失せていた。
父は毎日酒を飲んでは荒れ、母は父がいない間に男を連れ込んで情事三昧。この世の地獄を煮詰めたその場所で、バコウは育った。抵抗する気も最早なく、このまま何もできずに死んでいくのを受け入れ始めたころ、ある雨の日に、家の前でボロボロになって倒れているラルトスと出会った。止めを刺してやろうかと思ったが、バコウが拾い上げたそのぼろ雑巾のようになったポケモンは、笑った。初めて見る笑顔だった。
気づけば家の庭へ運び、雨風がしのげる場所を用意してやった。倉庫は、もう誰も使っていなかった。それからすぐに、こっそりと食べ物を与え始める。絶対に声を出すなと約束をし、ラルトスはバコウの助けを受け入れた。
他者を助ける、という生きる希望がバコウの中に芽生えた。生きる意味があるのだと感じた。ラルトスを治療し、動けるまでに回復させるのは自分の人生最大の仕事なのだと思った。
今までは両親の言葉通り受け取って、それを実行して怒られることが多々あった。ラルトスと出会ってからは、両親の言葉から何が欲しいのか、何をして欲しいのか読み取る力を身に着けた。行間が読めるようになってきた。生きる希望がバコウの視野を広げた。
先回りして、彼らの機嫌を損なわないよう必死になった。殴る蹴るは良くても、自分の分の食料がないのは問題だ。ラルトスにやる分がない。生まれて初めて喜びのようなものを感じ始めていた。
ある日、家で一人になった時バコウは町を走り回った。一人で家を出るのは何よりも大きい罰を食らうのだが、バコウもこの時ばかりは博打を打った。雨風をしのげる場所と食料だけでは、ラルトスは回復しなかった。薬を与えなければならない。その知識は、テレビに流れるCMで理解出来ていた。
両親はポケモンを持っていなかったので、家には無かった。金はないので買えない。そうなると、万引きをするしかない。町を彷徨っている間に、ポケモングッズの個人店で傷薬を見つけた。迷わずそれを手に取り、ただただ自動ドアから出て走った。店の隅にいた女の子にじっと見られていた。
当然追って来た店主に捕まるものの、バコウの様子を見たその男は呆気に取られていた。
彼は理解した。バコウの境遇の一部でもそれを感じ取った。
「必要、なんだな?」
その言葉で、バコウは逃れようともがくのを止めた。
こくりと頷くと、店主の男は掴んでいた腕を離した。
「奢りだ。困ったらまた来い」
それが、生まれて初めて受けた優しさだとは気づかなかった。走って戻って、それをすぐに使いたい気持ちを抑えた。そろそろ両親が戻って来る時間だったからだ。
言われた仕事を終えておき、彼らの機嫌を損ねないように振る舞う。食事をもらい、それを少しだけ隠し持って夜中寝床をそろりと抜けた。
その夜父は酒で酔いつぶれ、母は出掛けていた。
倉庫の扉を開けて、食料を渡す。それを食べているのを確認しながら、手に入れた傷薬を
吹きかけた。これで治るのかは分からない。それでも、小さな頭で思いつく限りのことをしないと気が済まなかった。
やがてラルトスが眠りについたのを見て倉庫の扉をしめた時、母がそれを見ていたことに気づいた。倉庫の扉を閉める時に、音を立ててしまった。たまたま帰って来たタイミングで母がそれに気づき、様子を見に来たところだった。
無言で近づいて来た酒臭い母は倉庫の扉を開ける。眠りについたラルトスを見て、悲鳴を上げた。縮こまってしまったバコウは抵抗できなかった。
母はポケモンが嫌いだった。ラルトスの首根っこを捕まえると、思い切り庭に投げつけた。がちがちと歯を鳴らして、バコウは震える。自分よりもずっと大きい人間が、小さい生き物に悪意をぶつける恐怖を客観的に見た。
庭に転がっていたシャベルを手に取った母は、それをラルトスに振り下ろす。大した音もなく潰れたそのポケモンは、すぐに動かなくなった。
「ポケモンなんて拾って来て、なんのつもりなの」
シャベルを捨て、憎しみを込めた表情で迫って来た母に頬を叩かれる。
ラルトスが死んだ。その光景だけしか目に入らない。頬を叩かれた痛みなど、ほとんどないも同然。
バコウに拾われ、ラルトスは笑っていた。助けられたと思ったのかもしれない。止めを刺そうとしたのに、笑ってくれた。あの笑顔がもうなくなる。あんなに助けたかったのに、その笑顔はもう戻って来ない。
バコウの頭の中はぐちゃぐちゃで、ぐつぐつ煮えたぎり、だんだんと沸騰していく。何かが切れた。気づけば開いていた倉庫に手を突っ込み、ハンマーを手に取る。目の前の畜生に向かって、それをそのまま振り回した。頭に直撃すると、棒を殴ったかのように横倒しになる。その感触はよくバコウの手に馴染んだ。脇目も降らず何度も何度も振り下ろし、その悪魔を払う。肩で息をする程に身体が疲弊してきて、バコウはようやく止まった。まだ沸騰した頭は落ち着かない。ふうふうと息をつきながら、玄関へ回って家に入る。リビングで酔って寝ている父に、迷わずそのハンマーを振り下ろす。手になじんだ感触は心地よい。解放感がある。自分が外に飛び出していける。その一歩がここにある。ラルトスの仇は取ったけれども、守れなかった。さっきよりもぐちゃぐちゃに入り混じった感情に、バコウの精神は崩壊寸前。かろうじて認識出来るのは、頭の中のラルトスの笑顔だけ。
リビングの窓を開け、裸足で庭に降りる。潰れたラルトスの前に跪き、それを抱きかかえた。ううううううううう、と唸って、唸って、唸り続ける。身体の震えが止まらない。潰れたラルトスは、もう笑いかけてはくれなかった。
【十一】
バコウは叫んだ。猿ぐつわを噛まされたままありったけの空気を喉から出して、喚き散らした。ぐしゃぐしゃになった頭の中は、あの時と同じだった。沸騰する頭と、解放感と、妙に手になじむ人を殺した感触と、全てがない交ぜになって、どうしようもなく意味不明な、カオスな感情が頭をかき混ぜる。
「”あくむ”が効いたみたいだな。そろそろ吐いて、ボスをやった落とし前はつけてもらわなきゃな」
発狂するバコウは、もう自分で自分をコントロール出来なかった。思考がままならない。何が起きているのかすら、把握出来ていない。
「いい加減、手間かけさせんなこのクズが!」
大男が振りかぶった拳を、バコウに向ける。だがその拳が届くことはなかった。
謎の壁が、そこには存在した。次の瞬間にはフロアにおびただしい数のズバットが舞い込む。一匹一匹はそこまでの力はなくとも、この数で人を襲えばそれに対処するしかなくなる。強い念力で窓が割れ、今度は椅子に縛られたままのバコウが浮き上がる。そのままブラインドを引き千切って窓の外に放り出され、地面へ落下する直前で静止した。ふわりとその上から、バリヤードが下りて来る。ねんりきで縄が解かれると、バコウは支えを失って椅子から転げ落ちる。事務所の前に停めてあったバンが開き、黒服の男数人が息も絶え絶えなバコウをバンへ放り投げ、すぐにその場を走り去った。
嵐のような出来事の後、階段から降りて来たスーツの女性がバリヤードの隣へ立った。
「結果は、変わらないよ」
ヨロギの言葉に、バリヤードは頷いた。
【十二】
頭の中が落ち着き始めて、ようやくバコウはコンクリートのような固い床に仰向けで寝かされていると気付いた。だだっ広い場所だった。白んでいるのが分かる。高い位置にある窓からは、薄暗い光が差し込んでいる。
身体中が傷んでいた。どうにか動かせそうだったが、走り回るのは無理だろう。ヤマブキを出るのは、しばらく無理か。いや、ヤマブキを出られるのかまだ分からない。自分がどういう状況なのか、まだ把握出来ていない。ぼんやりと色々な思考が渦巻く頭の中は、まだ混乱が続いている。
耳に、革靴の音が聞こえた。コツコツと、その音はだんだんと大きくなる。隣で止まった。
「落ち着きましたか、バコウさん」
「ヨロギ。ここは、どこだ?」
「倉庫です。今はまだ使われていない、誰も入って来ない場所です」
相変わらず、ヨロギは上から見下ろしている。
その顔は、解放感に満ち溢れている。見たことのない顔だった。
「ああ、お前か、チクったのは」
「ええ、組織命令でしたから」
不思議と憎しみは湧いて来ない。何も、感じない。
「ああ、長かった。ようやく終わります」
「何が、終わるんだ?」
「私の復讐です」
「どの、件だ」
「そうなりますよね。あなたは人やポケモンを殺し過ぎた。でも、今なら分かるはず。私は、ポケモングッズ店を営んでいた男の娘です」
その男は思い出せたが、顔までは出てこなかった。傷薬を貰った後は、すぐに家に帰ってしまった。
「あなた、どうして私の父を殺したの?」
【十三】
「言葉にすれば納得出来るのか?」
「できる訳ないでしょ。それでも、聞いておかなければ気が済まない」
あの時、バコウは今よりも崩壊していた。保護観察で施設に送られた後も、脱走を繰り返しては捕まり、気に障るやつは全て殴った。暴力は、ラルトスが肯定した。そう思うと、すぐに手が出た。バコウが完全に施設を脱走し、裏の世界に溶け込んでいくのは、時間の問題だった。
「あの人は、親切にしてくれた。後から思い返すと、それが気持ち悪かった。何故傷薬をくれたのか分からなかった。何か裏があるのかもしれない。そんな奴は殺しておかないといけない。そう、思った」
「それが聞ければもういい。あんたはとっくの昔に壊れてるよ。死んでるも同然だ」
「壊れてる、か」
「キルリアなんて、最初からいなかった。あんたが妄想の中のラルトスを進化させて、勝手にキルリアにしただけ。頭に残ってる笑顔だけがずっと映って、あんたが何をやっても笑ってくれていた。そうなんでしょ?」
「そうだ。笑ってた」
「あんたのこと、調べたよ。両親を殺したのも、ラルトスのためだった。その殺しは、あんたの中で正当化されている。失った笑顔は、両親を殺すことで取り戻した。ラルトスが笑っている限り、あんたは止まらない」
「分からない。何を言っているのか」
「もういいって。既に崩壊しているあんたに、どうやって惨たらしい死に方をしてもらうかずっと考えていたけど、しばらく仕事をしていたら、そんな気も失せてきた。だって、もう死んでるんだもん」
「俺が、死んでる?」
「誰かに憎しみをぶつければ、仇を取ったラルトスが笑ってくれる。あんたが考えているのはそれだけ。両親を殺したように色んな奴に憎しみをぶつければ、助けられなかったラルトスの笑顔があんたの妄想の中で笑う。そうやって、ぎりぎり自我を保っていただけ。そんなことを繰り返しているような人間は、”生きている”とは言わない。そして今、あんたはその事実を思い出してしまった。自我が崩壊しないように蓋されていた記憶を、ゴーストの”あくむ”が開いてしまった」
「生きているって、何なんだ。小さい頃から、俺は死んだようなもんだった。大人になってからも、それは変わらない」
「本当は、少し分かっていたんじゃないの? キルリアは、自分の妄想が作り上げたものだって」
「分からない。何も、分からない」
「うちの担当を順番に殺すなんて、死にたいと言っているようなものだよ。知ってはいるんでしょう? ロケット団という組織を」
「でかくて、底が見えない危ない組織だっていうことだけな」
「そんな組織を敵に回せば、殺されるって思わなかった?」
「わからない。ただ、俺は、いつも通りにしていたつもりだった」
「ゴスの部下に襲撃された時だって、突破しようと思えば突破できたはず。それをしなかったのは、死にたかったから?」
「分からない。俺は俺が分からない」
「死にたかったなら勝手に死ねよ。ぐずぐずと子どもみたいに駄々をこねて、見苦しいったらありゃしない。私は自分で志願してこのポジションについたけど、その価値もなさそうで、正直がっかりしてる。怒りに燃えて、調べ続けて、ロケット団員にまでなって追いかけた奴が、こんな奴だったなんて」
「組織は、俺を殺すためにわざわざお前に助けさせたのか?」
「これは独断。私があんたの犯行をバラして、ゴスの組織に捕まって死んでくれるならそれでOK。さんざん使ったから、殺された団員の分はそれでチャラ。でも、それじゃ気が済まなかったからね。あのバリヤードに協力してもらって、あんたを助けた」
「あいつが、よく命令を聞いたな」
「あんたを助けて、あんたを殺すためだって言ったら、大笑いして同意したよ」
「そうか」
「もう、死を受け入れろ。中途半端に死んだように現世を彷徨ってたら、生きている人間が迷惑だ。それが、善人であっても悪人であっても」
もしかしたら、ヨロギのことをバコウは潜在的にあの店主の娘だと分かっていたのかもしれない。初めて会った時からバコウに対して死んで当然という態度で向かって来た。今までだって殺そうとして来たやつはいるのに、ヨロギは違った。バコウを見て、諦めていた。何の感情もなかった。怒りさえも、なかった。こいつは終わった人間なんだと、冷めた目を向けていた。だから何も思わなかったのか。いや、それとも、
「俺は、疲れていたのか」
「疲れている、で終わらされても誰も浮かばれない。でも、私はこれで満足出来る。自分の人生にケリがつく。もう、良いでしょ?」
良い。そう思えた。そんな気がした。これ以上何をやっても、もう無意味な気がした。きっとキルリアの笑顔はもう見られない。肯定してくれない。それなのに、殺し続けても意味はない。殺し続けないのなら、殺されるのも、良い。
どこから持ち出したのか、ヨロギは座り込み、ナイフを両手に握りこんでいた。丁度それは、バコウがゴスを殺した時に使ったものとよく似ている。仰向けになったバコウの上で、それを振り被って、ゆっくりとヨロギはそれを下す。ずぶ、と皮膚を貫通したナイフが刺さっていく。痛いけれど、解放感に満ち溢れていた。
柄まで刺さったナイフを、ヨロギはまたゆっくりと引き抜く。カラン、とナイフが地面に落ちる。
意識が、少しずつ少しずつ遠のいていくのが分かった。
ラルトスは笑わない。バコウを肯定しない。
終わりが近づいている。
守りたい。最初はそれだけだった。
意識が薄れていく。
憎しみが全て取り除かれて、何もなくなったバコウが最後に思い描いたのは、それでもラルトスの笑顔だけ。
【了】
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