【うらみこえみらい⑧】うらみこえみらい〈後編〉
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「うーん。アスミ、そっちはあった? それっぽいの」
「どれっぽいのも、ない」
夜の体育館裏でヤジロンを見た翌日の土曜日、私とナバナは午前中から学校の図書室に来て、あちこちの棚をうろついていた。と言っても本来の目当てはここではなくて、昨夜ナバナが見つけた縦穴だった。ただ、
『いけません。危ないですから、ぼくとデンリュウが先に様子を調べに行きます』
さすがにイチゲ先生にそう言われたので、なおも食い下がるナバナをどうにかここまで引っ張ってきた。何かしら「学校の地下にあるらしきもの」の手がかりになるような本もあるかもしれないと、そう思って――まあそんなに上手くはいかなかったけれど、ひとまずナバナは落ち着いてくれた。
「この学校史だけでもお手柄だようん」
閲覧席に戻って、ナバナに言われた私はうつむいて笑う。この高校の歴史を記した本にちょこっと、今の学校をつくる前に遺跡の発掘調査が行われたことが書いてあったのだ。本当にちょこっと、たった一文くらい。
「今回のこととは全然関係ない、かも」
「だし、関係あるかもしれない」
「……まあ」
会話が途切れて、窓の外から少し残響がかった掛け声がいくつも聞こえてくる。シューズが床にキュッキュとこすれる音とかも。風に乗って体育館から来ているものだ。隣のナバナの視線も窓のほうへと向いていた。
「頑張ってるよね、運動部」
「土曜でもこんなにって、知らなかった」
「うちはバスケとか強いからね。あと、美術部も土曜は毎週みっちりデッサンとかやってるってクラスの子が言ってた。アスミ、入ればよかったのに」
「いや、いや、私はそういうんじゃ。描くのが苦しくなりそうだし……」
そんな賑わっている場所とは正反対に、この図書室は静かだ。もともと静かにする場所ではあるけれど、今は私達のほかに人がいないのもあって、なおさら静けさを感じる。
そういえば、高校生になってからあまり図書室は利用したことがなかった。あまり馴染みのない場所。なのに不思議と懐かしい気がする。これは――、
「――テンジくんにお礼、伝えてくれた?」
「え?」
ナバナはびっくりした様子でこちらをうかがった。
「あ……ほら、こないだの誕生日カードと、お菓子の」
「ああうん、もちろん」
ナバナと図書室という場所に来たのは中学生のとき以来。それで、ふと思い出したのだ。テンジくんはナバナと同じ幼馴染で、中学では図書委員をしていて、ナバナとふたりで図書室まで会いに行ったりもした。きらきらした瞳がまぶしい男の子で、ポケモンが大好きで。私は、そんなテンジくんが大好きだった。
そして。テンジくんは今、旅のポケモントレーナーで、ナバナの恋人で……。
「ごめんっ」
急にナバナに謝られて、今度は私がびっくりする番だった。
「あれさ、あんたに渡そうかすごい迷ったんだよ。でも、渡さないのは違うなってさ……」
ああ、暗い顔させてる。だめだ申し訳ない。私はとっさに胸元のネックレスに――触れようとした手で、ナバナの手を握った。
「アスミ?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
きっと、大丈夫になるから。
お昼前には戻ると言っていたイチゲ先生の様子をうかがいに地学準備室へ行くと、先生は疲れた表情でデスクの椅子いっぱいに身体を預けていた。
「無理がきかない歳になっちゃいましたねえ」
へらっと笑う先生の足元には土ぼこりで汚れたモスグリーンのつなぎが転がっていて、ナバナがそれを見て色々なことが言いたそうな難しい表情をしている。それを感じてか感じないでか先生はきちんと椅子に座り直すと、
「なかなか面白いことになっていました。ばっちり写真も撮りました――が」
いったん深く息をついて、眼鏡を整えて、言った。
「行ってみますか? お昼を食べてからね」
*
足元に気をつけてとイチゲ先生に繰り返し言われつつ、洞穴の斜面を下っていく。
先生のデンリュウがしっぽの光で先導してくれているおかげで暗くはなく、天井も壁も地面もごつごつした岩肌なのがよくわかる。最初のうちはナバナや先生が少し身体を縮こめないといけない狭さだったけれど、進んでいくとすぐに、二人が横に並んでめいっぱい腕を広げても問題ないぐらいの空間になってきた。私とナバナがなけなしの探検服として着替えてきた体育のジャージでも、これなら心配なさそうだ。
「ここがちょうど、ゆうべ見つけた縦穴の真下あたりですね。ほら、あそこ」
そう言って先生が上を指差した先には、確かに地上へと続いているらしい穴がある。私達が入ってきたのはこことは別の、学校のすぐ外にある雑木林からだった。午前のうちに縦穴に入ってみた先生が、木々や岩に紛れた別の入口を発見したのだ。
『不自然に地面が隆起して洞穴が口を開けていました。まるでごく最近までは閉ざされていたようでした』
小一時間前、学食でチーズフライ定食を頬張りながら、そんな先生の話を聞いていた。そういえばその時ちょっと食べすぎてしまったのか、ちょっとお腹がもたれて――、
「わっ」
「アスミ!」
踏み出した先の地面が抜けたような感覚になり、よろけた。ナバナに背中を支えられて事なきを得る。見ると、斜面がこのあたりから急さを増し、等しい間隔の階段状になっている。
「平気ですか。面目ない、ぼくがもっと気を配るべきでした。慎重に歩いていきましょう」
「はい……」
「学食でもご説明したとおり、石灰岩で出来たこの洞穴にはあちこち人の手が入ったとみられる箇所があります。ちょうどこの階段がそうですね。入口を閉ざす仕掛けも、人為的に施されていたのかもしれません。誰も入ってこれないように」
「けど先生。図書室にあった学校史に、遺跡の調査のことが書いてあったよ」
「調査についてはぼくも年配の先生がたから伺ったことがあります。ですが、今もこんな洞穴が存在するとは聞いたことがなかった。まだ発見されていないエリアがあったということでしょうかねえ。都合のいい憶測のようですが、実際にヤジロンが動いているという事実もあります。ひょっとすると、何らかのトリガーが働いたのかも」
「トリガーって?」
「こんな風に事態が動き出した、きっかけの出来事です」
「……私が、穴を見つけたから」
私の唐突な発言に、二人が一斉にこちらを見た。ひっ、と甲高い声が思わず漏れる。
「その……私がエントランスの穴を見つけて、そこからどんどん穴が増え始めて……。だから、あの、それがトリガーかも、なんて」
なんて言っちゃった。なんで言っちゃった。私はただ穴を見つけただけだし、私なんかが関係あるはずないだろうに。
「なるほどです。が、そもそもアスミくんがはじめに見つけた穴。あれが開いたきっかけをどう考えればいいでしょう。レジロック、レジスチル、レジアイス。もし本当にそれら伝説のポケモンに繋がるレベルのことなら、もっと広く……ホウエン全体、もしくはそれ以上のスケールの話かもしれません。広く、そして深い、ぼく達じゃ到底たどり着けないところにこそ答えが――」
ごめんなさい。やっぱり、私はてんで的外れだ。なのに無理くり考えさせて、言葉を選ばせてしまっている。
「――でも。見つけた、というのは一つ大事なキーワードだとぼくは思います」
え?
「金曜の夜、ヤジロンがどこに穴を開けるか。その条件に『見られていること』が関わっている、そんな気がしました」
少し考えを整理させてください、とイチゲ先生がつなぎの胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。デンリュウが慣れた様子でその手元を優先的に照らして、先生は流れるようにメモ帳にペンを走らせ始めた。
「エントランスの穴をアスミくんが見つけたのは七月半ば。ぼくが美術室そばの穴を見つけたのは八月に入ってすぐ。対して体育館裏の穴は十月、二週間ほど前に見つけたところでした。ぼくら以外の誰かが先にこれらの穴を発見していた可能性はいったん除外して……最近まで見つかっていなかった体育館裏の穴だけがまだ完成していません」
紙に走るペンの音がリズミカルに続く。静かな声と裏腹に、先生の瞳の輝きが増してゆく。そのきらきらに、私は息を呑んだ。
「美術室のところの穴を見つけて以来、ぼくはずっと様子を見ていました。その間、ほぼ毎週のように穴が増えていた――お二人は夏休みの間、エントランスの穴を見に来る機会はありましたか?」
ナバナと顔を見合わせて、ほぼ同時に首を横に振った。だって、それどころではない色々が二人の間にはあったから。そしてそのおかげで、夏休みが明けてからも私は全然別のところを見ていたのだと思う。
「やはり。つまりその間、エントランスの穴は人目に触れていない一方で美術室そばの穴は見られている、という状況だったと。だから美術室のところが優先されたのか……。さらに、体育館裏の穴も一度発見されたことをきっかけに、ほか二か所からは遅れて『増やす』対象となった……」
「ちょ、先生。それって……もう見つかってる場所、見られてる場所を優先してヤジロンが穴を開ける決まりになってるってこと?」
「そうですね。ヤジロンは今、トリガーが引かれたことをきっかけに何らかのプログラムのようなものに従って動いているのではないでしょうか。とはいえ、ヤジロンはポケモンです。ポケモンである以上は生き物ですから、状況を自分で感じ取って『判断』しながら動いていてもおかしくありません。どうして穴を開けるのがあの三か所なのかというのも、ヤジロンが一定の基準に従って判断した結果そうなっているのかもしれません」
「何のために」
ナバナの問いに、ペンの音が止んだ。ふむ、とイチゲ先生はしばらく虚空を見つめたのち、
「すみません、あとは歩きながら頭の中でまとめます。もうすぐ目的地ですから」
へらっと笑って言った。
そうして行き着いた階段の終点。平らになった地面の先、デンリュウの明かりの届く範囲には岩肌らしきものが見えず、ただ闇が横たわっている。
「デンリュウ、真ん中あたりまで行って照らして差しあげてください」
イチゲ先生に言われて、デンリュウはどたどたと尻尾に光を連れながら走ってゆく。だいぶ先に行ったなと思っていると、光がゆっくりと強さを増していった。露わになってゆく空間の広大さに、自然とため息が漏れる。
「ちょうどうちの体育館ほどの広さと高さがあります。見事なもんですねえ」
先生は正面を見据え、指でまっすぐ示す。
「あちらに、花崗岩を組んで作られた門と思しきものがあるのですが、崩落してしまっていてそれ以上進めません。残念――なのか幸いなのか、今ぼく達に探索できるのはここまでです」
「えー。楽しくなってきたのに」
「はは。ナバナくん、楽しいうちが一番ですよ。もし伝説のポケモンなんかに出てこられたら、ぼくらじゃ手に負えませんから。まあせっかくです、門のそばまで行ってみましょう。周りも派手に崩れているので注意を――」
すぐにナバナが走り出した。イチゲ先生はちらりと私のほうへ苦笑いしながら、
「ぼくの知るハルミさんなら、あんな勢いでどうにか先へ進もうとされたでしょうね」
そう言って、歩き出す。その背中を私は追う。途中で先生がデンリュウにありがとうございますと声をかけ、デンリュウは尻尾の光をまぶし過ぎない程度に弱めてから先生のすぐ後ろについた。
なるほど。来たほうと真反対側の壁に、先生が言っていた門、のようなものがあった。本来だったら私の背丈の倍以上あって、アーチみたいに石を積んで立派に整えられていたのだろう。でも今は無残にも崩れてひしゃげ、瓦礫が詰まってしまっている。さらにその付近の地盤もあちこち崩落していて、深そうな縦穴がいくつも口を開けていた。
「ご覧の通りです。帰ったらさっそく情報を文書にして学校に報告を上げて、正式に調査を――おや?」
ふと、イチゲ先生の視線が一点に釘付けになった。
「今、何か動いたような」
にわかに緊張が走る。先生が見ているのはちょうど崩れた門のところ。私達は自然と息を殺してそちらを凝視し続ける。そのまま数十秒。何が起こる気配もない。
「……気のせい、でしょうかねえ」
「なんだ。もう、びっくりさせないでよ」
「いやあ、すみません。ところでナバナくん、先ほどの疑問……何のためにヤジロンが見られている場所に穴を開けているか、ですが」
「わかったの?」
「あと一歩。そんなところです」
先生とナバナの会話は気になる。一方で私はまだ、先生が見たかもしれない「何か」を気にしていた。縦穴に真っ逆さまにならないよう足元を慎重に確かめながら、恐る恐る、瓦礫のほうへと近づいてみる。
お母さんなら。先生のついさっきの言葉が妙に頭にへばりついたままだった。
「そもそもどうしてヤジロンは一つずつ穴を開けていっているのでしょうか。開いた穴やその形に意味があるならば、わざわざこんなに時間をかけて、決まったペースでやる必要は無いように思います」
積み重なった瓦礫の下に私なら屈んでぎりぎり入れそうな隙間があって、覗き込むとすぐ奥にきらりと光を反射する何かが落ちている。ちょっと入って手を伸ばせば取れそうな位置だ。
話し込んでいる先生達を邪魔するのも申し訳ない。私は息を吸って、意を決した。
「ですから、そう。『穴を開けていること』そのものが、そしてそれを誰かに見てもらうことそのものが重要だと考えればどうでしょう。いわばそれ自体がメッセージなんです。僕らのようなちょっとした探求心を抱く者が穴の存在に気づき、ヤジロンの行為を見つけてやがてここへ行き着く。うんと古い仕掛けですから今動いているのは一部の名残みたいなものかもしれませんが……そうか。要するに――」
スマホの明かりを片手に瓦礫の下に入りこむ。奥にあるのは……これ、わざマシンのディスク?
「――ぼくらは、誘い込まれたんだ」
突然ガチャガチャとけたたましい音が鳴り響き、慌てて立ち上がってしまった私は瓦礫に頭をぶつけた。視界いっぱいに星が飛ぶなかで何とか這い出して、あたりを見回す。
囲まれていた。大量のヤジロンが私とナバナと先生、そしてデンリュウをまとめて取り囲み、一斉に騒いでいる。
「アスミ! こいつら、急に上から現れて……!」
「気をつけましょう! ヤジロンのこの声は警報音です。もしかすると、これに呼ばれて……」
イチゲ先生の言葉をさえぎるかのように、より一層激しい鳴き声を上げるヤジロン達。かと思えば、いきなり前触れもなく一斉に静まり返った。そのままあっという間に散り散りになって去ってゆき――デンリュウが鋭く鳴いて私達の前へ躍り出ると、素早く尻尾の光の明るさを上げた。まぶしさに、反射的に目を細める。
もと来た道のほうから二つ、迫る姿がある。
猫背の二足歩行で、小学校に上がったばかりの子どもぐらいの背格好。闇に溶ける体色とは正反対に、両眼はカットされたダイヤモンドみたいに光り、身体の真ん中にもひとつ深い色の宝石のようなものがきらめく。そんな姿の、二匹のポケモンだった。
「……ヤミラミ。それも通常の個体よりずいぶん大きい」
イチゲ先生のいつになく低い声とデンリュウの唸り声。それだけで事態を理解するには十分すぎた。どくんと心臓が跳ねて、身体の外側がぴりぴりする。
「戦わなくては、ならないようです」
ギラリとした四つの眼に、じりじりと距離が詰められてゆく。デンリュウがそれを牽制するように長い首を小刻みに動かして、二匹ともに睨みをきかせる。
「一匹ずつであればデンリュウなら問題なく応戦できると思います、が」
イチゲ先生は相手から視線を外さず眼鏡を直し、私達に告げた。
「すみません。少しの間……一匹はきみ達に任せます」
相手が――ヤミラミが二匹ばらばらの方向へ駆け出した。先生がデンリュウの名を呼び、その瞬間デンリュウも相手のうち一匹を迎え撃つように走り出す。
もう一匹は? そう思った矢先、視界の端から猛然と飛び込んでくる影があった。悲鳴を上げる間もなく目の前に鋭い爪が……。
「ネイティ、“つつく”!」
ナバナの澄んだ声が響く。モンスターボールから飛び出したままの勢いのネイティが、私に襲い掛かったヤミラミの顔をくちばしで何度も突っつく。
「“めいそう”! ……アスミ、離れてて!」
言われてはっとして、転げるように後ずさる。その間にネイティの額に輝く念力――サイコパワーがみるみる集まってゆく。
「“アシストパワー”!」
ナバナの合図で大きく跳躍したネイティが、額のサイコパワーを一気に解き放った。尾を引いてほとばしる光の弾がヤミラミをとらえて、
――確かに直撃は、した。けれど……。
「ネイティ!? なんで!」
ナバナが悲痛に叫ぶ。わざを正面から食らったはずのヤミラミは全く怯む様子もなくネイティに迫り、爪でなぎ払ったのだった。なすすべなく地面に叩きつけられ、ぐったりとするネイティ。
「しまった! 彼らにはエスパーやノーマルといったタイプのわざは通じません!」
向こうで応戦中のイチゲ先生から声が飛ぶ。
「……やられた。ネイティ、ありがとう。戻って」
ナバナはネイティを撫でて精一杯笑い掛けると、ボールの中へと戻した。
私のせいだ。どうしよう。ネイティが、ナバナがこんなにあっさりやられるなんて。ぼんやりしていた私を庇ったから。私が。私なんかが――。
「アスミ」
びくっとした。ナバナが、まっすぐ私を見ている。
「深呼吸。ゴニョニョと、あんたなら大丈夫。ジムで練習してたわざがあったでしょ」
流れるように「でも」とか「だって」を返しかけた。そんな私を――私の胸を、ナバナは拳の裏でコツンと小突いた。ちょうどネックレスがあるところ。
「頼りにしてるから」
こうしてる間にもヤミラミは、爪を振り上げたままじりじりと近づいてきている。今にまた襲い掛かって、私達を引き裂いてくる。
私は。息を吸って、吐いた。
「……わかった」
わからないけど、やってみる。私はヤミラミに向き直り、上着のポケットに入ったモンスターボールを掴んだ。そういえば今着ているのジャージだった。緊張のせいか首元の感触がどうも気になる。めいっぱい上げていたジッパーを胸のあたりまで下げ、もう一度深呼吸した。
「ゴニョニョニョ!」
噛んだって知るもんか。振りかぶって投げたモンスターボールが開き、光とともにゴニョニョが姿を現す。不安げにこちらを振り返るゴニョニョに、わかるよ私も不安だよと頷いてみせる。ちゃんと一緒だって伝わったのか、ゴニョニョも頷き返してくれた。
ヤミラミがゆっくりと迫る。ゴニョニョも私も少しずつ後ずさって――大丈夫、大丈夫。
「ゴニョニョ……っ、“チャームボイス”!」
両脚にぐっと力を込めて、指示を送った。ゴニョニョは一瞬ためらうそぶりを見せたものの、すぐに思いきり息を吸い込んで――普段声という声を発さないゴニョニョから大きく放たれる、信じられないくらい可愛らしい声。ただし、ぶつけた相手の精神を揺さぶり傷つけるほどのエネルギーに満ちた、れっきとした「わざ」だ。
ジムのトレーナーさんが「この子珍しい才能があるみたい」とトレーニングさせてくれたものだった。まだやっとジム通いを再開したところだし、練習ですら上手く決まったことはなかったんだけど……。
ヤミラミが引き裂くような鳴き声を上げて膝から崩れ落ちた。効いてる。
「やるじゃん!」
「やれた……すごい、ゴニョニョ」
「あんたもね」
「……ん」
くすぐったくなってイチゲ先生のほうを見ると、爪を振り上げ身体ごと放り出してきたヤミラミをデンリュウがひらりとかわし、よろめいた相手にすかさず強烈な電撃を浴びせかけるところだった。先生の指示でさらに詰め寄って一撃を――という瞬間、ヤミラミの眼がカメラのフラッシュのように妖しく光る。デンリュウはとっさに顔を逸らしたけれど、真正面で光を受けてしまったイチゲ先生が両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
「先生!」
その隙にヤミラミはふらつきながら、暗闇の向こうへと後ろ跳びに退散してゆく。私は急いで先生のそばへ行こうとした。
が、
「危ない、アスミ!」
振り向くと、いつの間にか立ち直っていたこっちのヤミラミのギラリとした眼が、もうそこにあった。まずい、ゴニョニョへ指示――できない、息が詰まって――。
ヤミラミが私の胸元に手を伸ばす。そのまま、上着のジッパーの間から覗くネックレスの赤い石を掴み取った。顔をさらに近づけ、まじまじと見つめてくる。
「だめ……これは!」
奪われる。そう直感した私はめちゃくちゃに腕を振り回して抵抗した。相手に触れているのか触れていないのかはっきりしない奇妙な感覚。それでも私はそれを守るのに必死だった。そうしている間にヤミラミが石から手を離して――少しほっとした矢先。
ヤミラミの、両眼が、妖しく光った。
「う、ぁ……!」
至近距離で食らった私の視界は真っ白になる。視界だけじゃない。頭の中まで真っ白にされて……あれ、何もかもが……わからない。
「……スミ、アスミ!」
わんわんとこもった音でいっぱいになった耳の中に、外から声が届く。高く透き通った青空のような声。これはちゃんとわかる。顔を見なくたって、ナバナのものだってすぐにわかる。
私の背中をさする手。ちょっと力加減の強い、長い指の感触。これもナバナだってわかる。ナバナが居る。今、私のそばにはナバナが居て、だから――。
「……お前なんか」
――だから私は、血を吐くように叫んだ。
「お前なんかが居るから!!」
一気にクリアになった視界。
気づいたら私は両手でナバナの首を絞めていた。
嫌だ。嫌だ。
こんなことはしたくない。そうは思うのに少しも止められない。こうして思考している私よりもうんと奥にある私が「これが正しい」と言っていて、それに身体じゅうが応えているような……ああそうか、やっぱり私、ナバナをうらんでたんだ。ねっとりと身を焦がすような暗く黒い感情を自覚して、ナバナの細い首を絞める両手にさらに力がこもってゆく。と、何かあたたかい存在が脚に縋りついて、ぺちぺち叩いてくるのを感じた。ゴニョニョだ、ごめん。止められないんだったら。
なのにナバナは抵抗しない。ナバナなら抵抗できないわけないのに。こんなに苦しそうな顔をして……笑ってる?
ぱちんと、感情が破裂した。
「ナバナ! なんで! ばか! だめだよ、死んじゃうよ!」
もう私は自分がどこに居るのか、どこに居ていいのかぐちゃぐちゃになってわめき散らしてしまって。
そんな私を。ナバナが力いっぱい抱きしめた。
「だいじょう、ぶ」
とたんに全身から、ナバナの首に食い込んでいた指からも、力という力が抜けてゆく。頭がぼうっとして、そのままナバナの身体もろともぐらりと、ゆっくり地面に倒れ込んだ。
ナバナが激しく咳き込みだしたのを聞いて、我に返る。
「ナバナ! ごめん、私……!」
「……へへ。前、言ったじゃん。受け止めるって」
「だからって!」
「けほっ……今はあたしのことより……」
言われて、状況を見渡す。残っている一匹のヤミラミはデンリュウが相手をしてくれていて、でもデンリュウのトレーナーであるイチゲ先生は――まだ頭を抱えてうずくまったままだ。
「先生、イチゲ先生! うあ!?」
助けなきゃと駆け寄る。と、先生がいきなり矢のように私の腰あたりに飛び込んできて、なすがままに馬乗りになられた。異様に見開かれ血走った先生の視線が突き刺さる。こうだったのか、さっきの私も。
「その目……あいつの目。それさえ無ければぼくは……ぼくぼくはぼくはあああ!」
先生が何をわめいているか、私には何もわからない。ただ尋常じゃない力で押さえつけられ、髪を引っ張られ、頭を固い岩盤に繰り返し打ちつけられる。痛い。痛い。怖い。ゴニョニョが何度も先生に体当たりして助けてくれようとしている。けれど華奢な先生の身体は動じる気配ひとつない。
「せん……せ、落ち着いてよ……!」
ナバナまで駆けつけて引き剥がそうとしてくれるものの、先生はそれにも一切の関心を示さない。まるで私以外のものは何も見えていないかのように。
ナバナのしがみつく先生の腕が滑って、弾みでゴニョニョがなぎ倒される。
「やめて!!」
カッと額のあたりが熱くなって、私は声を張り上げていた。
その一瞬、先生の瞳が元に戻った気がして。
「ぐっ、アスミくん……」
ナバナを押しのけておもむろに立ち上がった先生は、よろよろと覚束ない足取りで数歩。直後、ぐしゃぐしゃに髪を掻きむしり始めた。
「先生!」
「来るな、来るなあ!」
頭痛でぐらつく私の視界に、怯えきった表情で暴れるイチゲ先生が映る。そのすぐ足元にはぽっかりと開いた大きな縦穴。
「先生、だめ!」
全身を投げ捨てて走って――土壇場でふらついて――穴に向かって足を踏み外したのは、私――ばかだ――。
「アスミくん!」
先生が身を乗り出して私を抱え込む。
そのまま私達は、闇の底へと落下していった。
*
「う……」
目を開けても真っ暗で何も見えない。底を水が流れているようで、倒れ込んでいる私の服にびちゃりと染みてきて気持ち悪い。寒い。
「アスミ! せんせー!」
上からナバナの声がする。その希望の声がすごく高く遠い所から聞こえるから、どれだけ深い穴に落ちたのか、その現実をまざまざと感じてしまう。息をするだけでどこもかしこもが痛くて、ナバナまで届くような返事はとてもできそうにない。心配させちゃいけないのに。
「ヤミラミはデンリュウが追い払ってくれたよ! ゴニョニョも頑張ってた! 電波入るとこで助けを呼んでくるから!」
上はみんな大丈夫。そう思ったら、だいぶ救われた気がした。きしむような痛みでうめきながら、ゆっくりと身体を起こす。胸のところを探ると、ネックレスの石はきちんとそこに感触があった。
瞬間、はっとする。
「先生、イチゲ先生」
「……アスミくん。無事ですか」
そばからイチゲ先生の声だけがする。急いでズボンのポケットからスマホを取り出す。当然のように圏外、おまけに液晶が派手に割れてしまっている。画面はつくけれどタッチの操作ができず、ライトを点灯させることもできない。最新式のスマホロトムだったら、なんて今更思った。
「ごめんなさい、先生」
「巻き込んでしまったのはぼくです。しかもあんな真似を……本当に……申し訳ありません」
先生の声は今にも消えそうなくらい弱々しい。怪我をしているせいか、それとも。
「ヤミラミの、せいです。私も同じことになったから」
「だったら、きみは理解しているのでしょう」
「え?」
「ぼくが襲ったのはきみだった。それが、どんな意味なのかを」
「……」
考えたくなかった。でもそうか。そうなのだ。
私がナバナを襲ったのは、私がナバナをうらんでいたから。だったら――。
「どうして、ですか」
訊かずにはいられなくなった。
「どうして先生は、私を――うらんでいるんですか」
鼓動がばかみたいに速くなって、吐きそうだ。
「きみは。ぼくの一生の恩人であるハルミさんの子です。そんなきみがぼくの教え子だなんて、こんなに素敵な運命はありません」
そう言って先生は、悲鳴みたいな音を立てて息を吸い込んだ。
「なのに! だったらどうしてきみはあいつと、あの男と同じ目をしているんだ!」
「あの、男……?」
「ぼくからハルミさんを奪い取って、あまつさえ彼女をボロボロにして捨てたあの男! あの悪魔! きみはそんな悪魔の子なんですよ……!」
弱々しくかすれきった声のまま先生が叫ぶ。ここよりもずっと深い闇の底からしぼり出されたような声。何も言えない。ただ、自分が今まで見ないようにしてきた刃を心臓にざっくり突き立てられた。そんな気持ちだった。
「きみを見ていると思い出さなければいけなくなるんだ、ぼくのすべてだった日々を。そのすべてがズタズタにされてしまったことを!」
耳鳴りがする。耳の奥から私を怒鳴りつけるお母さんの声がする。ごめんなさい、ごめんなさい。
ここに居て、ごめんなさい。
「……わかっています。きみは何も悪くない」
先生がひとしきりまくし立てた後そう静かに言うまでに、どれくらい時間が経ったかも私にはわからなかった。
「ぼくは所詮、ハルミさんに憧れていたその他大勢のひとりでしかなかった。彼女を繋ぎとめようと何をしたわけでもない。なのにこんな……。悪魔と言うならば、ぼくのほうが、よっぽどそうだ」
「そん、な」
「ぼくがきみをここへ連れてきたのも、きみを……危ない目に遭わせてやりたかったんですよ」
苦しそうな浅い息づかい。先生が今どんな顔でどんな目をしているか、見えない場所で良かったと急に思った。
思ったら少し、冷静になった。
「あの、落ちてたわざマシンは、もしかして先生が」
「――ええ。何者かが一歩でもラインを踏み越えれば作動する遺跡の『セキュリティ』。それを試そうと、先に来たとき空っぽのわざマシンを投げ込んだんです。その時は何も起こりませんでしたが……きみを誘導するのには役立ちました」
「知ってたんですか、この場所のこと」
「確信に近い推測でした。みだりに伝説のポケモンに近づこうとする者を誘い込んで罠にはめる。そのためにダミーとして古代の人々が造った場所がホウエンのあちこちにあるのは知っていて、恐らくここも、と」
「ここ自体が、罠……?」
「本当にレジロック達が眠っている場所は既に学者らによってほぼ特定されています。つまり罠だろうと理解しながら、きみやきみの親友を巻き込んだんですよ、ぼくは」
じゃあ、なんで。
今とても引っかかった。
「だけど先生は――そう、穴に落ちる私を守ってくれたじゃないですか。私やナバナを危険な目に遭わせて……なのに、どうしてそんなこと……」
「言ったでしょう。きみはぼくの一生の恩人の子で、ぼくの、教え子です」
イチゲ先生はすぐにそう答えてからため息をついた。
深く、暗いため息を。
「……自分でもわけがわかりませんよ。だからこそアスミくん、ぼくはきみが疎ましいんです。せめてきみが居なければぼくは、ぼくは……もっと単純で平穏な敗北者でいられたはずだったんだ。ハルミさんとあいつの子であるきみさえ……くそう」
あとに残ったのは、先生のか細く上ずった嗚咽だけだった。
ぼんやりと考える。闇に響く声はただ闇として闇に沁みてゆく。先生の言葉はきっと、これから私の深くにも闇として在り続けることになるのだろう。
そしてその言葉は私の身に何か、悪いことや良いことがあるたび胸に溢れて心を押し潰すのだ。今だってもう張り裂けてしまいそうだ。身体が痛いのか心が痛いのかごちゃごちゃで、とっくに痛いなんてもんじゃない。
だけど――どうしてだ。こんな痛みは、どうしてなんだ。
「生まれてこなきゃよかった」で始まって、「死んでよかった」で結ばれる。それでよかったはずの命が、なんでこんなに痛むんだろうか。
さっきナバナに抱きしめられた感覚がよみがえる。そっと手でなぞる。出てくる気配もなかった涙がこぼれ落ちる。止まらない。どうすればいい。あんなうらみを、こんな痛みを知ってしまった私は一体、どうすればいい。
――。
耳から入ってくる、私のものじゃない嗚咽。
「……そっか」
今ここで私は何かを言わなくちゃ。幸せになるって、あの日あの赤い眼の子に誓った私だから。
そうだ、今度こそ。
「先生、」
ネックレスの石を鎖と共にめいっぱい握りしめた。その時、
「アスミ! イチゲせんせー! 助けは呼べたよ! どこに居るー!?」
天から届くナバナの、青空の声。
私は。石から手を離し、スマホを持って画面をつけた。その手を闇の向こうへと差し出す。
「先生、一緒に」
「きみは……ぼくを許せるんですか……?」
つぶやくように、噛み締めるように先生が言った。
だから、
「許すとか許さないとか、今はそうじゃなくて。えっと、なんだろう……」
震える呼吸をおさえながら、いつも以上にじっくり考えて言葉を探す。それが合っている保証はどこにもないけれど。
「先生は痛みのなかで生きてきて……私もそうで……それは今までも、今も、きっとこれからも、ずっとそうなんだろうって思うんです。でも――」
でも。
「繋がってる――そう、繋がってるんです。痛みだとしても、うらみだとしても、こうして繋がってる。それを私は離したくない、離せないです。だから……一緒に、ほら」
暗闇のなか、ピッピのぬいぐるみを映した壊れかけの画面の明かりが、私の手の在り処を確かに示している。
その手に、イチゲ先生の冷え切った指が触れた。私はさらにもう一方の手をそこに重ねて、全部の痛みもろとも大きく息を吸った。
「ナバナ、ここだよー! 先生も一緒ー!!」
*
水彩絵具でつくる色は一期一会だ。同じ絵具の組み合わせ、同じ分量で混ぜているつもりでも毎回微妙に色は変わってくる。同じ色には二度と出会えない。それが面白いのだと私は思う。
ただ、
「むむ……」
ちょっとくらいは前に作った色に再会させてほしいと思うこともある。今がちょうどそうだった。いい色が出ない。上手くいかないから、背後からじっと見つめてくるゴニョニョの視線がとてもプレッシャーに感じてきた。……よくない流れだ。
インターホンの音が聞こえた。ヘッドボードの置き時計を見ると、もうじき十五時。もう約束の時間になっていたのか。絵筆をいったんパレットに置いて、大きな伸びをひとつ。立ち上がって部屋のドアを開けてみると、玄関のほうからお母さんの声ともう一人よく知った声との会話が聞こえてきて、すぐに階段を上ってくるすらっとした姿が見えた。ナバナだ。
「おはよ」
「もうおやつの時間だっての。ほら焼きドーナツ。例の商店街のとこの」
「わ、ありがたく」
「おばさんにもあげたら喜んでた。元気そうじゃん、春休み入ってから全然連絡くれないから心配したよ?」
「申し訳ない。ちょっとやることが、うん」
「先生のことでしょげて引きこもってんのかと思った」
「……それも、だいぶあるよ」
四ヶ月ちょっと前、学校の地下深くであった一件。生徒を連れ出し危険な目に遭わせた責任でイチゲ先生に下された処分は二学期いっぱいの停職だった。三学期からは予定どおり復帰して授業にも戻ってきていたのだけれど――結局、年度限りで居なくなってしまった。
修了式の日に先生からもらった手紙には、ありがとうの言葉と、教師をやめて故郷のアサギシティに帰ることが綴られていた。帰ってどうするのかや、先生の心の深いところはあの遺跡にまだたくさん残った謎もろとも分からない。でもその手紙は今、ベッド脇のピッピのぬいぐるみが大事に抱えてくれている。
「同じ色には、二度と出会えない」
「色?」
「なんでもない。ちょっと絵、描いてて」
「へえ。見せてよ。ゴニョニョは?」
「中に居るよ。ずっと見られてた、描いてるところ」
部屋へ入るとすぐにゴニョニョが寄ってきて、ナバナに撫でまわされる。相変わらず人が大の苦手だけれど、何かとよく会うナバナには懐くようになった。ナバナがネイティをボールから出すと、ピンクと緑のまんまるは互いに顔をくっつけて、静かなお喋りを始める。
「うわあ、すご! さすがアスミだねえ」
床に置いたままのパネルの絵を見るなりナバナが褒めてくれた。まだ納得のいく色を出せていないのにそう言われるとむず痒い。描いているのはバネブーとおばあさん。隣のうちのご家族で、私が小学生のときにバネブーもおばあさんも亡くなってしまった。今回、おばあさんのお孫さんにお願いされて、春休みが始まってからずっと向き合っているのだった。
同じ色には二度と出会えない。同じ景色にも、同じ人にも二度と出会えない。繰り返しの毎日に見えても本当は違っていて、過ぎてしまったらそれっきりだ。そしてたぶん、皆いつかは必ず過ぎ去っていくものなのだろう。
だけど、消えない。過ぎたって消えないのだ。だからきっと、こうして絵にすることもできる――なんて、近頃そんなことをよく考える。残るものはひょっとしたら、痛みとかうらみのほうが多かったりするのかもしれないけれど……。
「――あ、そうだった。ナバナ」
私は不意に思い出して、デスクの引き出しから取り出した紙きれをナバナに手渡す。
「なにこれ」
「それを渡したいのもあって遊びに来てもらった。引きこもって書いてた……歌詞」
「歌詞?」
「その、ナバナに、曲にしてほしくて……。次にテンジくんが帰ってくる時には、聴かせてみたい」
「げ、さらっときついことを。まあアスミの頼みごとなんて滅多にないし、やってみるよ。えっと、これがタイトルだよね。『うらみこえ――』」
*
私の命が何を残すのか。「死んでよかった」で終わるのか、「死んでしまった」で終わるのか、それはまだわからない。
わからないからここにいるのだ。ばかみたいに幸せを願って。うらみも未来に繋がると信じて。
手をつなごう。意味なんかなくても。
「どれっぽいのも、ない」
夜の体育館裏でヤジロンを見た翌日の土曜日、私とナバナは午前中から学校の図書室に来て、あちこちの棚をうろついていた。と言っても本来の目当てはここではなくて、昨夜ナバナが見つけた縦穴だった。ただ、
『いけません。危ないですから、ぼくとデンリュウが先に様子を調べに行きます』
さすがにイチゲ先生にそう言われたので、なおも食い下がるナバナをどうにかここまで引っ張ってきた。何かしら「学校の地下にあるらしきもの」の手がかりになるような本もあるかもしれないと、そう思って――まあそんなに上手くはいかなかったけれど、ひとまずナバナは落ち着いてくれた。
「この学校史だけでもお手柄だようん」
閲覧席に戻って、ナバナに言われた私はうつむいて笑う。この高校の歴史を記した本にちょこっと、今の学校をつくる前に遺跡の発掘調査が行われたことが書いてあったのだ。本当にちょこっと、たった一文くらい。
「今回のこととは全然関係ない、かも」
「だし、関係あるかもしれない」
「……まあ」
会話が途切れて、窓の外から少し残響がかった掛け声がいくつも聞こえてくる。シューズが床にキュッキュとこすれる音とかも。風に乗って体育館から来ているものだ。隣のナバナの視線も窓のほうへと向いていた。
「頑張ってるよね、運動部」
「土曜でもこんなにって、知らなかった」
「うちはバスケとか強いからね。あと、美術部も土曜は毎週みっちりデッサンとかやってるってクラスの子が言ってた。アスミ、入ればよかったのに」
「いや、いや、私はそういうんじゃ。描くのが苦しくなりそうだし……」
そんな賑わっている場所とは正反対に、この図書室は静かだ。もともと静かにする場所ではあるけれど、今は私達のほかに人がいないのもあって、なおさら静けさを感じる。
そういえば、高校生になってからあまり図書室は利用したことがなかった。あまり馴染みのない場所。なのに不思議と懐かしい気がする。これは――、
「――テンジくんにお礼、伝えてくれた?」
「え?」
ナバナはびっくりした様子でこちらをうかがった。
「あ……ほら、こないだの誕生日カードと、お菓子の」
「ああうん、もちろん」
ナバナと図書室という場所に来たのは中学生のとき以来。それで、ふと思い出したのだ。テンジくんはナバナと同じ幼馴染で、中学では図書委員をしていて、ナバナとふたりで図書室まで会いに行ったりもした。きらきらした瞳がまぶしい男の子で、ポケモンが大好きで。私は、そんなテンジくんが大好きだった。
そして。テンジくんは今、旅のポケモントレーナーで、ナバナの恋人で……。
「ごめんっ」
急にナバナに謝られて、今度は私がびっくりする番だった。
「あれさ、あんたに渡そうかすごい迷ったんだよ。でも、渡さないのは違うなってさ……」
ああ、暗い顔させてる。だめだ申し訳ない。私はとっさに胸元のネックレスに――触れようとした手で、ナバナの手を握った。
「アスミ?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
きっと、大丈夫になるから。
お昼前には戻ると言っていたイチゲ先生の様子をうかがいに地学準備室へ行くと、先生は疲れた表情でデスクの椅子いっぱいに身体を預けていた。
「無理がきかない歳になっちゃいましたねえ」
へらっと笑う先生の足元には土ぼこりで汚れたモスグリーンのつなぎが転がっていて、ナバナがそれを見て色々なことが言いたそうな難しい表情をしている。それを感じてか感じないでか先生はきちんと椅子に座り直すと、
「なかなか面白いことになっていました。ばっちり写真も撮りました――が」
いったん深く息をついて、眼鏡を整えて、言った。
「行ってみますか? お昼を食べてからね」
*
足元に気をつけてとイチゲ先生に繰り返し言われつつ、洞穴の斜面を下っていく。
先生のデンリュウがしっぽの光で先導してくれているおかげで暗くはなく、天井も壁も地面もごつごつした岩肌なのがよくわかる。最初のうちはナバナや先生が少し身体を縮こめないといけない狭さだったけれど、進んでいくとすぐに、二人が横に並んでめいっぱい腕を広げても問題ないぐらいの空間になってきた。私とナバナがなけなしの探検服として着替えてきた体育のジャージでも、これなら心配なさそうだ。
「ここがちょうど、ゆうべ見つけた縦穴の真下あたりですね。ほら、あそこ」
そう言って先生が上を指差した先には、確かに地上へと続いているらしい穴がある。私達が入ってきたのはこことは別の、学校のすぐ外にある雑木林からだった。午前のうちに縦穴に入ってみた先生が、木々や岩に紛れた別の入口を発見したのだ。
『不自然に地面が隆起して洞穴が口を開けていました。まるでごく最近までは閉ざされていたようでした』
小一時間前、学食でチーズフライ定食を頬張りながら、そんな先生の話を聞いていた。そういえばその時ちょっと食べすぎてしまったのか、ちょっとお腹がもたれて――、
「わっ」
「アスミ!」
踏み出した先の地面が抜けたような感覚になり、よろけた。ナバナに背中を支えられて事なきを得る。見ると、斜面がこのあたりから急さを増し、等しい間隔の階段状になっている。
「平気ですか。面目ない、ぼくがもっと気を配るべきでした。慎重に歩いていきましょう」
「はい……」
「学食でもご説明したとおり、石灰岩で出来たこの洞穴にはあちこち人の手が入ったとみられる箇所があります。ちょうどこの階段がそうですね。入口を閉ざす仕掛けも、人為的に施されていたのかもしれません。誰も入ってこれないように」
「けど先生。図書室にあった学校史に、遺跡の調査のことが書いてあったよ」
「調査についてはぼくも年配の先生がたから伺ったことがあります。ですが、今もこんな洞穴が存在するとは聞いたことがなかった。まだ発見されていないエリアがあったということでしょうかねえ。都合のいい憶測のようですが、実際にヤジロンが動いているという事実もあります。ひょっとすると、何らかのトリガーが働いたのかも」
「トリガーって?」
「こんな風に事態が動き出した、きっかけの出来事です」
「……私が、穴を見つけたから」
私の唐突な発言に、二人が一斉にこちらを見た。ひっ、と甲高い声が思わず漏れる。
「その……私がエントランスの穴を見つけて、そこからどんどん穴が増え始めて……。だから、あの、それがトリガーかも、なんて」
なんて言っちゃった。なんで言っちゃった。私はただ穴を見つけただけだし、私なんかが関係あるはずないだろうに。
「なるほどです。が、そもそもアスミくんがはじめに見つけた穴。あれが開いたきっかけをどう考えればいいでしょう。レジロック、レジスチル、レジアイス。もし本当にそれら伝説のポケモンに繋がるレベルのことなら、もっと広く……ホウエン全体、もしくはそれ以上のスケールの話かもしれません。広く、そして深い、ぼく達じゃ到底たどり着けないところにこそ答えが――」
ごめんなさい。やっぱり、私はてんで的外れだ。なのに無理くり考えさせて、言葉を選ばせてしまっている。
「――でも。見つけた、というのは一つ大事なキーワードだとぼくは思います」
え?
「金曜の夜、ヤジロンがどこに穴を開けるか。その条件に『見られていること』が関わっている、そんな気がしました」
少し考えを整理させてください、とイチゲ先生がつなぎの胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。デンリュウが慣れた様子でその手元を優先的に照らして、先生は流れるようにメモ帳にペンを走らせ始めた。
「エントランスの穴をアスミくんが見つけたのは七月半ば。ぼくが美術室そばの穴を見つけたのは八月に入ってすぐ。対して体育館裏の穴は十月、二週間ほど前に見つけたところでした。ぼくら以外の誰かが先にこれらの穴を発見していた可能性はいったん除外して……最近まで見つかっていなかった体育館裏の穴だけがまだ完成していません」
紙に走るペンの音がリズミカルに続く。静かな声と裏腹に、先生の瞳の輝きが増してゆく。そのきらきらに、私は息を呑んだ。
「美術室のところの穴を見つけて以来、ぼくはずっと様子を見ていました。その間、ほぼ毎週のように穴が増えていた――お二人は夏休みの間、エントランスの穴を見に来る機会はありましたか?」
ナバナと顔を見合わせて、ほぼ同時に首を横に振った。だって、それどころではない色々が二人の間にはあったから。そしてそのおかげで、夏休みが明けてからも私は全然別のところを見ていたのだと思う。
「やはり。つまりその間、エントランスの穴は人目に触れていない一方で美術室そばの穴は見られている、という状況だったと。だから美術室のところが優先されたのか……。さらに、体育館裏の穴も一度発見されたことをきっかけに、ほか二か所からは遅れて『増やす』対象となった……」
「ちょ、先生。それって……もう見つかってる場所、見られてる場所を優先してヤジロンが穴を開ける決まりになってるってこと?」
「そうですね。ヤジロンは今、トリガーが引かれたことをきっかけに何らかのプログラムのようなものに従って動いているのではないでしょうか。とはいえ、ヤジロンはポケモンです。ポケモンである以上は生き物ですから、状況を自分で感じ取って『判断』しながら動いていてもおかしくありません。どうして穴を開けるのがあの三か所なのかというのも、ヤジロンが一定の基準に従って判断した結果そうなっているのかもしれません」
「何のために」
ナバナの問いに、ペンの音が止んだ。ふむ、とイチゲ先生はしばらく虚空を見つめたのち、
「すみません、あとは歩きながら頭の中でまとめます。もうすぐ目的地ですから」
へらっと笑って言った。
そうして行き着いた階段の終点。平らになった地面の先、デンリュウの明かりの届く範囲には岩肌らしきものが見えず、ただ闇が横たわっている。
「デンリュウ、真ん中あたりまで行って照らして差しあげてください」
イチゲ先生に言われて、デンリュウはどたどたと尻尾に光を連れながら走ってゆく。だいぶ先に行ったなと思っていると、光がゆっくりと強さを増していった。露わになってゆく空間の広大さに、自然とため息が漏れる。
「ちょうどうちの体育館ほどの広さと高さがあります。見事なもんですねえ」
先生は正面を見据え、指でまっすぐ示す。
「あちらに、花崗岩を組んで作られた門と思しきものがあるのですが、崩落してしまっていてそれ以上進めません。残念――なのか幸いなのか、今ぼく達に探索できるのはここまでです」
「えー。楽しくなってきたのに」
「はは。ナバナくん、楽しいうちが一番ですよ。もし伝説のポケモンなんかに出てこられたら、ぼくらじゃ手に負えませんから。まあせっかくです、門のそばまで行ってみましょう。周りも派手に崩れているので注意を――」
すぐにナバナが走り出した。イチゲ先生はちらりと私のほうへ苦笑いしながら、
「ぼくの知るハルミさんなら、あんな勢いでどうにか先へ進もうとされたでしょうね」
そう言って、歩き出す。その背中を私は追う。途中で先生がデンリュウにありがとうございますと声をかけ、デンリュウは尻尾の光をまぶし過ぎない程度に弱めてから先生のすぐ後ろについた。
なるほど。来たほうと真反対側の壁に、先生が言っていた門、のようなものがあった。本来だったら私の背丈の倍以上あって、アーチみたいに石を積んで立派に整えられていたのだろう。でも今は無残にも崩れてひしゃげ、瓦礫が詰まってしまっている。さらにその付近の地盤もあちこち崩落していて、深そうな縦穴がいくつも口を開けていた。
「ご覧の通りです。帰ったらさっそく情報を文書にして学校に報告を上げて、正式に調査を――おや?」
ふと、イチゲ先生の視線が一点に釘付けになった。
「今、何か動いたような」
にわかに緊張が走る。先生が見ているのはちょうど崩れた門のところ。私達は自然と息を殺してそちらを凝視し続ける。そのまま数十秒。何が起こる気配もない。
「……気のせい、でしょうかねえ」
「なんだ。もう、びっくりさせないでよ」
「いやあ、すみません。ところでナバナくん、先ほどの疑問……何のためにヤジロンが見られている場所に穴を開けているか、ですが」
「わかったの?」
「あと一歩。そんなところです」
先生とナバナの会話は気になる。一方で私はまだ、先生が見たかもしれない「何か」を気にしていた。縦穴に真っ逆さまにならないよう足元を慎重に確かめながら、恐る恐る、瓦礫のほうへと近づいてみる。
お母さんなら。先生のついさっきの言葉が妙に頭にへばりついたままだった。
「そもそもどうしてヤジロンは一つずつ穴を開けていっているのでしょうか。開いた穴やその形に意味があるならば、わざわざこんなに時間をかけて、決まったペースでやる必要は無いように思います」
積み重なった瓦礫の下に私なら屈んでぎりぎり入れそうな隙間があって、覗き込むとすぐ奥にきらりと光を反射する何かが落ちている。ちょっと入って手を伸ばせば取れそうな位置だ。
話し込んでいる先生達を邪魔するのも申し訳ない。私は息を吸って、意を決した。
「ですから、そう。『穴を開けていること』そのものが、そしてそれを誰かに見てもらうことそのものが重要だと考えればどうでしょう。いわばそれ自体がメッセージなんです。僕らのようなちょっとした探求心を抱く者が穴の存在に気づき、ヤジロンの行為を見つけてやがてここへ行き着く。うんと古い仕掛けですから今動いているのは一部の名残みたいなものかもしれませんが……そうか。要するに――」
スマホの明かりを片手に瓦礫の下に入りこむ。奥にあるのは……これ、わざマシンのディスク?
「――ぼくらは、誘い込まれたんだ」
突然ガチャガチャとけたたましい音が鳴り響き、慌てて立ち上がってしまった私は瓦礫に頭をぶつけた。視界いっぱいに星が飛ぶなかで何とか這い出して、あたりを見回す。
囲まれていた。大量のヤジロンが私とナバナと先生、そしてデンリュウをまとめて取り囲み、一斉に騒いでいる。
「アスミ! こいつら、急に上から現れて……!」
「気をつけましょう! ヤジロンのこの声は警報音です。もしかすると、これに呼ばれて……」
イチゲ先生の言葉をさえぎるかのように、より一層激しい鳴き声を上げるヤジロン達。かと思えば、いきなり前触れもなく一斉に静まり返った。そのままあっという間に散り散りになって去ってゆき――デンリュウが鋭く鳴いて私達の前へ躍り出ると、素早く尻尾の光の明るさを上げた。まぶしさに、反射的に目を細める。
もと来た道のほうから二つ、迫る姿がある。
猫背の二足歩行で、小学校に上がったばかりの子どもぐらいの背格好。闇に溶ける体色とは正反対に、両眼はカットされたダイヤモンドみたいに光り、身体の真ん中にもひとつ深い色の宝石のようなものがきらめく。そんな姿の、二匹のポケモンだった。
「……ヤミラミ。それも通常の個体よりずいぶん大きい」
イチゲ先生のいつになく低い声とデンリュウの唸り声。それだけで事態を理解するには十分すぎた。どくんと心臓が跳ねて、身体の外側がぴりぴりする。
「戦わなくては、ならないようです」
ギラリとした四つの眼に、じりじりと距離が詰められてゆく。デンリュウがそれを牽制するように長い首を小刻みに動かして、二匹ともに睨みをきかせる。
「一匹ずつであればデンリュウなら問題なく応戦できると思います、が」
イチゲ先生は相手から視線を外さず眼鏡を直し、私達に告げた。
「すみません。少しの間……一匹はきみ達に任せます」
相手が――ヤミラミが二匹ばらばらの方向へ駆け出した。先生がデンリュウの名を呼び、その瞬間デンリュウも相手のうち一匹を迎え撃つように走り出す。
もう一匹は? そう思った矢先、視界の端から猛然と飛び込んでくる影があった。悲鳴を上げる間もなく目の前に鋭い爪が……。
「ネイティ、“つつく”!」
ナバナの澄んだ声が響く。モンスターボールから飛び出したままの勢いのネイティが、私に襲い掛かったヤミラミの顔をくちばしで何度も突っつく。
「“めいそう”! ……アスミ、離れてて!」
言われてはっとして、転げるように後ずさる。その間にネイティの額に輝く念力――サイコパワーがみるみる集まってゆく。
「“アシストパワー”!」
ナバナの合図で大きく跳躍したネイティが、額のサイコパワーを一気に解き放った。尾を引いてほとばしる光の弾がヤミラミをとらえて、
――確かに直撃は、した。けれど……。
「ネイティ!? なんで!」
ナバナが悲痛に叫ぶ。わざを正面から食らったはずのヤミラミは全く怯む様子もなくネイティに迫り、爪でなぎ払ったのだった。なすすべなく地面に叩きつけられ、ぐったりとするネイティ。
「しまった! 彼らにはエスパーやノーマルといったタイプのわざは通じません!」
向こうで応戦中のイチゲ先生から声が飛ぶ。
「……やられた。ネイティ、ありがとう。戻って」
ナバナはネイティを撫でて精一杯笑い掛けると、ボールの中へと戻した。
私のせいだ。どうしよう。ネイティが、ナバナがこんなにあっさりやられるなんて。ぼんやりしていた私を庇ったから。私が。私なんかが――。
「アスミ」
びくっとした。ナバナが、まっすぐ私を見ている。
「深呼吸。ゴニョニョと、あんたなら大丈夫。ジムで練習してたわざがあったでしょ」
流れるように「でも」とか「だって」を返しかけた。そんな私を――私の胸を、ナバナは拳の裏でコツンと小突いた。ちょうどネックレスがあるところ。
「頼りにしてるから」
こうしてる間にもヤミラミは、爪を振り上げたままじりじりと近づいてきている。今にまた襲い掛かって、私達を引き裂いてくる。
私は。息を吸って、吐いた。
「……わかった」
わからないけど、やってみる。私はヤミラミに向き直り、上着のポケットに入ったモンスターボールを掴んだ。そういえば今着ているのジャージだった。緊張のせいか首元の感触がどうも気になる。めいっぱい上げていたジッパーを胸のあたりまで下げ、もう一度深呼吸した。
「ゴニョニョニョ!」
噛んだって知るもんか。振りかぶって投げたモンスターボールが開き、光とともにゴニョニョが姿を現す。不安げにこちらを振り返るゴニョニョに、わかるよ私も不安だよと頷いてみせる。ちゃんと一緒だって伝わったのか、ゴニョニョも頷き返してくれた。
ヤミラミがゆっくりと迫る。ゴニョニョも私も少しずつ後ずさって――大丈夫、大丈夫。
「ゴニョニョ……っ、“チャームボイス”!」
両脚にぐっと力を込めて、指示を送った。ゴニョニョは一瞬ためらうそぶりを見せたものの、すぐに思いきり息を吸い込んで――普段声という声を発さないゴニョニョから大きく放たれる、信じられないくらい可愛らしい声。ただし、ぶつけた相手の精神を揺さぶり傷つけるほどのエネルギーに満ちた、れっきとした「わざ」だ。
ジムのトレーナーさんが「この子珍しい才能があるみたい」とトレーニングさせてくれたものだった。まだやっとジム通いを再開したところだし、練習ですら上手く決まったことはなかったんだけど……。
ヤミラミが引き裂くような鳴き声を上げて膝から崩れ落ちた。効いてる。
「やるじゃん!」
「やれた……すごい、ゴニョニョ」
「あんたもね」
「……ん」
くすぐったくなってイチゲ先生のほうを見ると、爪を振り上げ身体ごと放り出してきたヤミラミをデンリュウがひらりとかわし、よろめいた相手にすかさず強烈な電撃を浴びせかけるところだった。先生の指示でさらに詰め寄って一撃を――という瞬間、ヤミラミの眼がカメラのフラッシュのように妖しく光る。デンリュウはとっさに顔を逸らしたけれど、真正面で光を受けてしまったイチゲ先生が両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
「先生!」
その隙にヤミラミはふらつきながら、暗闇の向こうへと後ろ跳びに退散してゆく。私は急いで先生のそばへ行こうとした。
が、
「危ない、アスミ!」
振り向くと、いつの間にか立ち直っていたこっちのヤミラミのギラリとした眼が、もうそこにあった。まずい、ゴニョニョへ指示――できない、息が詰まって――。
ヤミラミが私の胸元に手を伸ばす。そのまま、上着のジッパーの間から覗くネックレスの赤い石を掴み取った。顔をさらに近づけ、まじまじと見つめてくる。
「だめ……これは!」
奪われる。そう直感した私はめちゃくちゃに腕を振り回して抵抗した。相手に触れているのか触れていないのかはっきりしない奇妙な感覚。それでも私はそれを守るのに必死だった。そうしている間にヤミラミが石から手を離して――少しほっとした矢先。
ヤミラミの、両眼が、妖しく光った。
「う、ぁ……!」
至近距離で食らった私の視界は真っ白になる。視界だけじゃない。頭の中まで真っ白にされて……あれ、何もかもが……わからない。
「……スミ、アスミ!」
わんわんとこもった音でいっぱいになった耳の中に、外から声が届く。高く透き通った青空のような声。これはちゃんとわかる。顔を見なくたって、ナバナのものだってすぐにわかる。
私の背中をさする手。ちょっと力加減の強い、長い指の感触。これもナバナだってわかる。ナバナが居る。今、私のそばにはナバナが居て、だから――。
「……お前なんか」
――だから私は、血を吐くように叫んだ。
「お前なんかが居るから!!」
一気にクリアになった視界。
気づいたら私は両手でナバナの首を絞めていた。
嫌だ。嫌だ。
こんなことはしたくない。そうは思うのに少しも止められない。こうして思考している私よりもうんと奥にある私が「これが正しい」と言っていて、それに身体じゅうが応えているような……ああそうか、やっぱり私、ナバナをうらんでたんだ。ねっとりと身を焦がすような暗く黒い感情を自覚して、ナバナの細い首を絞める両手にさらに力がこもってゆく。と、何かあたたかい存在が脚に縋りついて、ぺちぺち叩いてくるのを感じた。ゴニョニョだ、ごめん。止められないんだったら。
なのにナバナは抵抗しない。ナバナなら抵抗できないわけないのに。こんなに苦しそうな顔をして……笑ってる?
ぱちんと、感情が破裂した。
「ナバナ! なんで! ばか! だめだよ、死んじゃうよ!」
もう私は自分がどこに居るのか、どこに居ていいのかぐちゃぐちゃになってわめき散らしてしまって。
そんな私を。ナバナが力いっぱい抱きしめた。
「だいじょう、ぶ」
とたんに全身から、ナバナの首に食い込んでいた指からも、力という力が抜けてゆく。頭がぼうっとして、そのままナバナの身体もろともぐらりと、ゆっくり地面に倒れ込んだ。
ナバナが激しく咳き込みだしたのを聞いて、我に返る。
「ナバナ! ごめん、私……!」
「……へへ。前、言ったじゃん。受け止めるって」
「だからって!」
「けほっ……今はあたしのことより……」
言われて、状況を見渡す。残っている一匹のヤミラミはデンリュウが相手をしてくれていて、でもデンリュウのトレーナーであるイチゲ先生は――まだ頭を抱えてうずくまったままだ。
「先生、イチゲ先生! うあ!?」
助けなきゃと駆け寄る。と、先生がいきなり矢のように私の腰あたりに飛び込んできて、なすがままに馬乗りになられた。異様に見開かれ血走った先生の視線が突き刺さる。こうだったのか、さっきの私も。
「その目……あいつの目。それさえ無ければぼくは……ぼくぼくはぼくはあああ!」
先生が何をわめいているか、私には何もわからない。ただ尋常じゃない力で押さえつけられ、髪を引っ張られ、頭を固い岩盤に繰り返し打ちつけられる。痛い。痛い。怖い。ゴニョニョが何度も先生に体当たりして助けてくれようとしている。けれど華奢な先生の身体は動じる気配ひとつない。
「せん……せ、落ち着いてよ……!」
ナバナまで駆けつけて引き剥がそうとしてくれるものの、先生はそれにも一切の関心を示さない。まるで私以外のものは何も見えていないかのように。
ナバナのしがみつく先生の腕が滑って、弾みでゴニョニョがなぎ倒される。
「やめて!!」
カッと額のあたりが熱くなって、私は声を張り上げていた。
その一瞬、先生の瞳が元に戻った気がして。
「ぐっ、アスミくん……」
ナバナを押しのけておもむろに立ち上がった先生は、よろよろと覚束ない足取りで数歩。直後、ぐしゃぐしゃに髪を掻きむしり始めた。
「先生!」
「来るな、来るなあ!」
頭痛でぐらつく私の視界に、怯えきった表情で暴れるイチゲ先生が映る。そのすぐ足元にはぽっかりと開いた大きな縦穴。
「先生、だめ!」
全身を投げ捨てて走って――土壇場でふらついて――穴に向かって足を踏み外したのは、私――ばかだ――。
「アスミくん!」
先生が身を乗り出して私を抱え込む。
そのまま私達は、闇の底へと落下していった。
*
「う……」
目を開けても真っ暗で何も見えない。底を水が流れているようで、倒れ込んでいる私の服にびちゃりと染みてきて気持ち悪い。寒い。
「アスミ! せんせー!」
上からナバナの声がする。その希望の声がすごく高く遠い所から聞こえるから、どれだけ深い穴に落ちたのか、その現実をまざまざと感じてしまう。息をするだけでどこもかしこもが痛くて、ナバナまで届くような返事はとてもできそうにない。心配させちゃいけないのに。
「ヤミラミはデンリュウが追い払ってくれたよ! ゴニョニョも頑張ってた! 電波入るとこで助けを呼んでくるから!」
上はみんな大丈夫。そう思ったら、だいぶ救われた気がした。きしむような痛みでうめきながら、ゆっくりと身体を起こす。胸のところを探ると、ネックレスの石はきちんとそこに感触があった。
瞬間、はっとする。
「先生、イチゲ先生」
「……アスミくん。無事ですか」
そばからイチゲ先生の声だけがする。急いでズボンのポケットからスマホを取り出す。当然のように圏外、おまけに液晶が派手に割れてしまっている。画面はつくけれどタッチの操作ができず、ライトを点灯させることもできない。最新式のスマホロトムだったら、なんて今更思った。
「ごめんなさい、先生」
「巻き込んでしまったのはぼくです。しかもあんな真似を……本当に……申し訳ありません」
先生の声は今にも消えそうなくらい弱々しい。怪我をしているせいか、それとも。
「ヤミラミの、せいです。私も同じことになったから」
「だったら、きみは理解しているのでしょう」
「え?」
「ぼくが襲ったのはきみだった。それが、どんな意味なのかを」
「……」
考えたくなかった。でもそうか。そうなのだ。
私がナバナを襲ったのは、私がナバナをうらんでいたから。だったら――。
「どうして、ですか」
訊かずにはいられなくなった。
「どうして先生は、私を――うらんでいるんですか」
鼓動がばかみたいに速くなって、吐きそうだ。
「きみは。ぼくの一生の恩人であるハルミさんの子です。そんなきみがぼくの教え子だなんて、こんなに素敵な運命はありません」
そう言って先生は、悲鳴みたいな音を立てて息を吸い込んだ。
「なのに! だったらどうしてきみはあいつと、あの男と同じ目をしているんだ!」
「あの、男……?」
「ぼくからハルミさんを奪い取って、あまつさえ彼女をボロボロにして捨てたあの男! あの悪魔! きみはそんな悪魔の子なんですよ……!」
弱々しくかすれきった声のまま先生が叫ぶ。ここよりもずっと深い闇の底からしぼり出されたような声。何も言えない。ただ、自分が今まで見ないようにしてきた刃を心臓にざっくり突き立てられた。そんな気持ちだった。
「きみを見ていると思い出さなければいけなくなるんだ、ぼくのすべてだった日々を。そのすべてがズタズタにされてしまったことを!」
耳鳴りがする。耳の奥から私を怒鳴りつけるお母さんの声がする。ごめんなさい、ごめんなさい。
ここに居て、ごめんなさい。
「……わかっています。きみは何も悪くない」
先生がひとしきりまくし立てた後そう静かに言うまでに、どれくらい時間が経ったかも私にはわからなかった。
「ぼくは所詮、ハルミさんに憧れていたその他大勢のひとりでしかなかった。彼女を繋ぎとめようと何をしたわけでもない。なのにこんな……。悪魔と言うならば、ぼくのほうが、よっぽどそうだ」
「そん、な」
「ぼくがきみをここへ連れてきたのも、きみを……危ない目に遭わせてやりたかったんですよ」
苦しそうな浅い息づかい。先生が今どんな顔でどんな目をしているか、見えない場所で良かったと急に思った。
思ったら少し、冷静になった。
「あの、落ちてたわざマシンは、もしかして先生が」
「――ええ。何者かが一歩でもラインを踏み越えれば作動する遺跡の『セキュリティ』。それを試そうと、先に来たとき空っぽのわざマシンを投げ込んだんです。その時は何も起こりませんでしたが……きみを誘導するのには役立ちました」
「知ってたんですか、この場所のこと」
「確信に近い推測でした。みだりに伝説のポケモンに近づこうとする者を誘い込んで罠にはめる。そのためにダミーとして古代の人々が造った場所がホウエンのあちこちにあるのは知っていて、恐らくここも、と」
「ここ自体が、罠……?」
「本当にレジロック達が眠っている場所は既に学者らによってほぼ特定されています。つまり罠だろうと理解しながら、きみやきみの親友を巻き込んだんですよ、ぼくは」
じゃあ、なんで。
今とても引っかかった。
「だけど先生は――そう、穴に落ちる私を守ってくれたじゃないですか。私やナバナを危険な目に遭わせて……なのに、どうしてそんなこと……」
「言ったでしょう。きみはぼくの一生の恩人の子で、ぼくの、教え子です」
イチゲ先生はすぐにそう答えてからため息をついた。
深く、暗いため息を。
「……自分でもわけがわかりませんよ。だからこそアスミくん、ぼくはきみが疎ましいんです。せめてきみが居なければぼくは、ぼくは……もっと単純で平穏な敗北者でいられたはずだったんだ。ハルミさんとあいつの子であるきみさえ……くそう」
あとに残ったのは、先生のか細く上ずった嗚咽だけだった。
ぼんやりと考える。闇に響く声はただ闇として闇に沁みてゆく。先生の言葉はきっと、これから私の深くにも闇として在り続けることになるのだろう。
そしてその言葉は私の身に何か、悪いことや良いことがあるたび胸に溢れて心を押し潰すのだ。今だってもう張り裂けてしまいそうだ。身体が痛いのか心が痛いのかごちゃごちゃで、とっくに痛いなんてもんじゃない。
だけど――どうしてだ。こんな痛みは、どうしてなんだ。
「生まれてこなきゃよかった」で始まって、「死んでよかった」で結ばれる。それでよかったはずの命が、なんでこんなに痛むんだろうか。
さっきナバナに抱きしめられた感覚がよみがえる。そっと手でなぞる。出てくる気配もなかった涙がこぼれ落ちる。止まらない。どうすればいい。あんなうらみを、こんな痛みを知ってしまった私は一体、どうすればいい。
――。
耳から入ってくる、私のものじゃない嗚咽。
「……そっか」
今ここで私は何かを言わなくちゃ。幸せになるって、あの日あの赤い眼の子に誓った私だから。
そうだ、今度こそ。
「先生、」
ネックレスの石を鎖と共にめいっぱい握りしめた。その時、
「アスミ! イチゲせんせー! 助けは呼べたよ! どこに居るー!?」
天から届くナバナの、青空の声。
私は。石から手を離し、スマホを持って画面をつけた。その手を闇の向こうへと差し出す。
「先生、一緒に」
「きみは……ぼくを許せるんですか……?」
つぶやくように、噛み締めるように先生が言った。
だから、
「許すとか許さないとか、今はそうじゃなくて。えっと、なんだろう……」
震える呼吸をおさえながら、いつも以上にじっくり考えて言葉を探す。それが合っている保証はどこにもないけれど。
「先生は痛みのなかで生きてきて……私もそうで……それは今までも、今も、きっとこれからも、ずっとそうなんだろうって思うんです。でも――」
でも。
「繋がってる――そう、繋がってるんです。痛みだとしても、うらみだとしても、こうして繋がってる。それを私は離したくない、離せないです。だから……一緒に、ほら」
暗闇のなか、ピッピのぬいぐるみを映した壊れかけの画面の明かりが、私の手の在り処を確かに示している。
その手に、イチゲ先生の冷え切った指が触れた。私はさらにもう一方の手をそこに重ねて、全部の痛みもろとも大きく息を吸った。
「ナバナ、ここだよー! 先生も一緒ー!!」
*
水彩絵具でつくる色は一期一会だ。同じ絵具の組み合わせ、同じ分量で混ぜているつもりでも毎回微妙に色は変わってくる。同じ色には二度と出会えない。それが面白いのだと私は思う。
ただ、
「むむ……」
ちょっとくらいは前に作った色に再会させてほしいと思うこともある。今がちょうどそうだった。いい色が出ない。上手くいかないから、背後からじっと見つめてくるゴニョニョの視線がとてもプレッシャーに感じてきた。……よくない流れだ。
インターホンの音が聞こえた。ヘッドボードの置き時計を見ると、もうじき十五時。もう約束の時間になっていたのか。絵筆をいったんパレットに置いて、大きな伸びをひとつ。立ち上がって部屋のドアを開けてみると、玄関のほうからお母さんの声ともう一人よく知った声との会話が聞こえてきて、すぐに階段を上ってくるすらっとした姿が見えた。ナバナだ。
「おはよ」
「もうおやつの時間だっての。ほら焼きドーナツ。例の商店街のとこの」
「わ、ありがたく」
「おばさんにもあげたら喜んでた。元気そうじゃん、春休み入ってから全然連絡くれないから心配したよ?」
「申し訳ない。ちょっとやることが、うん」
「先生のことでしょげて引きこもってんのかと思った」
「……それも、だいぶあるよ」
四ヶ月ちょっと前、学校の地下深くであった一件。生徒を連れ出し危険な目に遭わせた責任でイチゲ先生に下された処分は二学期いっぱいの停職だった。三学期からは予定どおり復帰して授業にも戻ってきていたのだけれど――結局、年度限りで居なくなってしまった。
修了式の日に先生からもらった手紙には、ありがとうの言葉と、教師をやめて故郷のアサギシティに帰ることが綴られていた。帰ってどうするのかや、先生の心の深いところはあの遺跡にまだたくさん残った謎もろとも分からない。でもその手紙は今、ベッド脇のピッピのぬいぐるみが大事に抱えてくれている。
「同じ色には、二度と出会えない」
「色?」
「なんでもない。ちょっと絵、描いてて」
「へえ。見せてよ。ゴニョニョは?」
「中に居るよ。ずっと見られてた、描いてるところ」
部屋へ入るとすぐにゴニョニョが寄ってきて、ナバナに撫でまわされる。相変わらず人が大の苦手だけれど、何かとよく会うナバナには懐くようになった。ナバナがネイティをボールから出すと、ピンクと緑のまんまるは互いに顔をくっつけて、静かなお喋りを始める。
「うわあ、すご! さすがアスミだねえ」
床に置いたままのパネルの絵を見るなりナバナが褒めてくれた。まだ納得のいく色を出せていないのにそう言われるとむず痒い。描いているのはバネブーとおばあさん。隣のうちのご家族で、私が小学生のときにバネブーもおばあさんも亡くなってしまった。今回、おばあさんのお孫さんにお願いされて、春休みが始まってからずっと向き合っているのだった。
同じ色には二度と出会えない。同じ景色にも、同じ人にも二度と出会えない。繰り返しの毎日に見えても本当は違っていて、過ぎてしまったらそれっきりだ。そしてたぶん、皆いつかは必ず過ぎ去っていくものなのだろう。
だけど、消えない。過ぎたって消えないのだ。だからきっと、こうして絵にすることもできる――なんて、近頃そんなことをよく考える。残るものはひょっとしたら、痛みとかうらみのほうが多かったりするのかもしれないけれど……。
「――あ、そうだった。ナバナ」
私は不意に思い出して、デスクの引き出しから取り出した紙きれをナバナに手渡す。
「なにこれ」
「それを渡したいのもあって遊びに来てもらった。引きこもって書いてた……歌詞」
「歌詞?」
「その、ナバナに、曲にしてほしくて……。次にテンジくんが帰ってくる時には、聴かせてみたい」
「げ、さらっときついことを。まあアスミの頼みごとなんて滅多にないし、やってみるよ。えっと、これがタイトルだよね。『うらみこえ――』」
*
私の命が何を残すのか。「死んでよかった」で終わるのか、「死んでしまった」で終わるのか、それはまだわからない。
わからないからここにいるのだ。ばかみたいに幸せを願って。うらみも未来に繋がると信じて。
手をつなごう。意味なんかなくても。