【うらみこえみらい⑦】うらみこえみらい〈前編〉

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作者:夏十字
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読了時間目安:32分
 私は死んだ。

 誰かが死んだ時、たいていは「死んでしまった」と言われる。小学生のころ隣のうちのおばあさんのバネブーが亡くなった時も、そのおばあさんが亡くなった時も、そうだった。
 でも、私はどうだろう。果たして私は「死んでしまった」なのだろうか。「生まれてこなきゃよかった」ではじまった私の命は、「死んでよかった」で終わるのが自然なんじゃないだろうか。

「うわテンジくん、口んとこアイスべったべた」
「え、え!? ごめん行儀悪くて!」
「嘘。ちょっとだけだって、あっはは」
 アイス屋さんのイートインで、丸テーブルに向かい合ってじゃれ合うふたり。すらっと背の高い女の子がナバナで、少し小柄な男の子がテンジくん。幼馴染ふたりで楽しそうにアイスを食べている。ここは私がよくナバナと行ったお店で、テンジくんが食べてるのは私の好きなモモンのアイス。店のすぐ表の舗道では、ナバナのネイティとテンジくんのエネコが弾むように追いかけっこをしている。
「あぁ悔しい。――まあ、あの子ならナバナさんにお似合いよね。あんたと違って」
 背後から圧と悪意のこもった声。振り返ると、黒縁眼鏡をかけた長い黒髪の女の子が立っていた。
「……シクラさん」
「あんたが死んでせいせいした。おかげ様でわたしは救われました」
「それは、どうも」
 救われた、か。だったらいいんだ。目を合わせないまま会釈して、歩き出す。真っ暗のなかをひとりで歩く。しばらく行くと、別の光景が開けてきた。
「ゴニョニョ、足元にある本取ってくれる? うんそう、そのままこっちへ――ありがとう」
 うちの居間で、お母さんとゴニョニョが過ごしてる。いつからか、私のよく知らないうちにふたりは近づいていて、今ではすっかり仲良しなのだ。
「よかった」
 私は自然とつぶやいていた。「死んでしまった」じゃなくて本当によかった。みんな私が居なくて幸せそうだ。
「死んでよかった」
 もう一度つぶやいたら、かくんと力が抜けた。膝を抱えて少しうずくまって、ふたたび顔を上げてみる。
 お母さんが私の部屋――だったところを片づけている。私の服も、スケッチブックも、次々とごみ袋に放り込まれてゆく。ゴニョニョもそれに倣ってお手伝いをしている。そうだよね。要らないもんね、もう。
 カラーボックスの上のくたびれたピッピのぬいぐるみをお母さんが抱えた。私は反射的に立ち上がった。立ち尽くしてぼんやりと、それが捨てられてゆく光景を目に映す。動いてないはずの心臓がきゅっと痛む。
 そしてお母さんはいつの間にか、赤くきらめく石のネックレスを掴んでいた。躊躇われることはない。他のものと何ら変わらない様子でそれもごみ袋へ――。
「待って!」
 私は叫んだ。手を伸ばした。それは――それは――だめだ。

 目が覚めて、私は泣いていた。
「夢……」
 はっとしてカーテンを開け、ヘッドボードの棚に手を伸ばす。そこにはきちんと赤い石のネックレスが眠りについた時のまま置いてあって、胸を撫で下ろした。手に取るとちょっとずっしり。石を支える台座や鎖が石に負けないくらいきらりと輝いている。抱くように頬に当て、しばらく呼吸を整える。
 ヘッドボード横のカラーボックスは、右肩に赤い縫い痕のあるピッピのぬいぐるみが上一面を占領している。その足元には緑と青、色違いの二枚のグリーティングカード。「アスミへ」「アスミちゃんへ」と書かれたそれを見て、私は自分の名前を取り戻した気持ちになった。
 ネックレスを首にかける。と、ベッドのすぐ脇からこちらを見上げるゴニョニョと目が合った。
「おはよ」
 今日がはじまる。

   *

 エントランスで靴を履き替えて教室に向かおうと思ったら、隅っこにたぶん見覚えのある、すらっとした背中がしゃがみこんでいた。透き通った青っぽい薄紫の髪を目印に、そろそろと近寄ってみる――と、背中に手が届く目前でその子がぱっと振り向いた。
「うあ」
「なにその微妙な顔。おはようアスミ」
「……おはよう。ナバナ、何してるのそんなとこで」
「それ、あたしが言われる側になるとはね。ほら、見てみなよ」
 ナバナに促されて壁を見て、私は大きく目を見開いた。
 しゃがまないとちゃんと見えないくらい低いところに、幾つも穴が開いている。直径三センチメートルくらいの、同じ大きさのものが整然と……七つも。
「……いつの間にこんな」
 この穴は元々、夏休み前に私が見つけていたものだ。その時は一つきりだったのが、夏休み明けには三つに増えていた。それが今、さらに二ヶ月ほど経って見てみたら、こんなにたくさん。
「何となく覗いてびっくり。アスミもぜんぜん様子見てなかったの?」
 ナバナの問いに頷くも、なんでだろうと考える。なんだか私のなかで、別にこんな隅っこを見つめなくても良いようになっていたのだ。
 だけど、これほど目立つ変化があったのなら話は違ってくる。元々とくに興味なさそうだったナバナも気になっているようだし。
「この形、なんとなく走り高跳びとか棒高跳びのバーに似てるよね」
 ナバナが細長い指で穴の並びをなぞりながら言う。左右に縦三つずつ並んでいて、真ん中に一つ、左右を繋ぐように穴があるかたち。言われてみれば似てるかも。アンノーン、だっけ。各地の遺跡で色んなすがたで発見されてるポケモンにも確か似たようなのが……と思ったけれど、全然似てなかった気もするから言うのはやめた。
 気になる、でももうすぐ予鈴だな。そう考えが過ぎった時、ナバナがまた後ろを振り向いた。つられて私もそちらを見ると、眼鏡姿で白衣をまとった男の人が立っていた。
「……こんな所に。やはり、そうだったんですね……」

   *

 放課後の地学準備室前。西日に染まる廊下で一人そわそわしながらナバナを待つ。そわそわついでにうろうろもして、周りに変な奴だと思われそうだからすぐやめた。不快な気持ちにさせてしまったら相手に申し訳ない。ただ、そわそわするのはちょっと、止められない。
 朝、エントランスで出会った白衣の人はイチゲ先生。今年、私達が二年生になったタイミングでこの高校に来た地学の先生だ。やわらかい話し方でいつも敬語を崩さないけれど、時々ホウエンのものじゃないイントネーションが混じるから、どこか別の地方から来たのだと思う。ナバナのクラスの副担任でもあるそうで、だから地学の授業を取っていないナバナも先生のことは知っていた。
 ここへ来たのはイチゲ先生に呼ばれたからだ。朝、エントランスの穴についてあの場で少し説明をして、そしたら「授業が終わったら話したいことがあります」と言われたのだ。
「お待たせ」
 きっとほんの十分ほど、でもそろそろそわそわが極まってきた頃合いでナバナが来た。今日は木曜日だからナバナはポケモンジムに通う日で、もしかしたら遅れるかもしれないと念のため連絡を入れてきたそうだ。
「先に入っててくれてよかったのに」
「うーん。一対一は、その、気まずい」
「ああ、噂のせい?」
 言われて、しばし思考が停止する。
 私はただ、自分が上手く喋れなくて先生に気を遣わせてしまうのが嫌なだけなんだけど。応答のない私にナバナは「あ」という口をして、とたんに声を潜めた。
「授業中さ、自分だけイチゲ先生とやたら目が合うなとか、感じたことない?」
「……? よく当てられたりは、するかも。ボーっとしてるから……」
「いやあんた、それ――」
 不意に準備室の引き戸が開いた。ナバナがびっくりした様子で一歩飛びのく。部屋の中からイチゲ先生が顔を覗かせて、私達を見ると表情をほころばせた。
「やあ、よく来てくれました。中へどうぞ」

 自由に座ってください、とイチゲ先生に言われて私は立ち尽くした。
 教室の三分の一くらいの広さの準備室は足の踏み場がない――ことはないけれど、足の踏み場くらいしかない。本だとかファイルだとか、左右の壁沿いにある本棚らしきものを盛大に飛び出して天井近くまで積み上げられていて、いちばん奥にあるデスクまで続く洞窟みたいだ。あのデスクの椅子は先生のだとして、他には丸椅子がいくつか……でも、どれも何かしらの本や書類が乗っかっている。
「失礼しまーす」
 ナバナがまごつく私をスッと追い越して、自然な動作で丸椅子の上のものをどかして本の山の上へと移した。並んだ丸椅子ふたつ分そうやって、ひとつに座る。それから私にも隣に座るよう指で示す。ややあって、私は誰にでもなく何度も会釈しながらそこに腰掛けた。
「これはさ、先生。生徒を呼べる部屋じゃないって」
 大げさに顔をしかめたナバナに言われて、先生は苦笑いしながら頭をかく。ウェーブがかった少し長い髪がふわふわと揺れる。
「いやあ。一人で使わせてもらっているとつい、ね。よく教頭先生に怒られてるんですが」
「そりゃそうだよ。あたしだって弟の部屋がこんなだったら承知しないし」
「お恥ずかしい」
「先生、朝言ってた話って」
 私が切り出すと二人の視線が一度に集まって、しばし場がフリーズした。たぶん、口を開くタイミング間違えた。
「そうだよ。あのエントランスの穴、先生は何か知ってるんだよね」
「ええ――それじゃあ、まず見てもらいたい写真があります」
 そう言ってデスクの席についた先生は、デスクの上のタブレットを手に取った。軽く指で操作して、画面をこちら側に向ける。
「! これ――!」
 ナバナが見開いた目でこっちを見た。私もきっと今、同じような顔をしている。
 エントランスのものとよく似た穴の写真、それがタブレットに映し出されていた。ただし並び方は違っていて、こちらは中心に空いた一つの穴を、六つの穴が囲むようなかたち。
「これは、美術室すぐそばの……階段がある付近の壁で発見しました。きみ達が見つけたエントランスのものと同じくかなり隅っこの低いところにあって、普通の動線からはそう目につきません」
 それから、と先生は別の写真を表示してみせた。今度は穴が三つ――一つ穴があって、そのすぐ上と左にも一つずつ――直角三角形をつくるような配置で並んでいる。
「こちらは屋外、体育館の外壁です。裏手の、山がある側ですね。これも見ての通り地面に近い位置に穴が空いています。そして」
 さらに先生は、何枚もの写真を連続で見せてくれる。最初は穴が三つの写真。それが四つ、五つと増えていく。
「さっきの美術室そばのところを日を置きつつ写していったものです。――エントランスの穴も同じように増えていっていたと、朝そう言ってましたよね」
 私とナバナは顔を見合わせて、先生に頷いた。
「ありがとう。ぼくが把握している限りでは穴が増えるのは決まって金曜の夜。恐らく毎週金曜に一つずつ――美術室そばの穴が増えない週は体育館もしくはエントランスといったように、三か所どこかの穴が増えていったんだと思います」
 ……ん?
「美術室そばとエントランスの穴はもう“完成”しています。だからあとは体育館のところが増えていって、今月が終わる頃にはきっと十字の形に――」
「ま、待ってよ先生」
 珍しくナバナが話をさえぎった。
「どんな形になるかとか、なんで分かるの? 完成って?」
「……あと、その、三か所以外にも。同じような場所がある可能性は……ないんですか?」
 ついでに私の引っかかりも投げかける。先生はちょっとキョトンとしてから、すみませんと弱々しく笑った。
「いやあ、興奮して先走りすぎました。もう一つお見せしたいものがあったんです」
 先生がいそいそとタブレットを操る。そうして映し出された画像は、
「これ、壁画?」
「そうです。ホウエン西部の、とある遺跡の壁画ですね。古代の人々の身に起こった様々な出来事を記したものだと言われています。そして、今回鍵となるものは――ここに」
 ピンチズームで画像が拡大される。そこに描かれているのは三体の、なんだろう、ずんぐりしたロボットのような……。
「アスミ、見て。この顔のところ」
「……うん」
 私もすぐ気づいた。ナバナ曰く走り高跳びのバーみたいなかたち。中心の点を六つの点が囲むようなかたち。十字のかたち。三体の顔の部分にはそれぞれ特徴的な七つの点が描かれている。それはまさに、
「あの壁の穴そっくりでしょう。今朝エントランスの穴を見て、確信しました」
「先生……なんですか、これは」
「レジロック。レジスチル。レジアイス。ホウエン地方のどこかに眠ると言われている、伝説のポケモンです」
 伝説の。ポケモン。私が頭の中でぼんやりとその言葉を繰り返している横で、ナバナが大きく身を乗り出す。
「まさかそれって。その伝説のポケモンがこの、うちの学校に眠ってる……ってこと?」
「ううーん、それだったらびっくりですね」
「地下に遺跡があるとか、一時期軽く噂になってたし」
「あ……うわさって言えば。ナバナ、さっき言ってたのって……」
「わー! それは後で話すから!」
 また喋るタイミングを間違えた。ナバナに思いっきり口を塞がれてしまう。
「仲良しですねえ」
「そりゃもう。けんかするぐらいには」
「……何よりです」
 気のせいだろうか。いま一瞬、先生の表情が翳ったような。そんなことを考えていると先生はコホンと、咳払いをひとつ。
「まあ、そうですね。アスミくんが仰ったように、他にも同じような穴があるかもしれません。体育館裏の穴はまだ十字になると確定したわけではありませんし――ただ少なくとも、今見つかっている三か所の穴がひとまとまりになっている可能性は高いんです」
「ええっと。どうしてそうなるの?」
「ナバナくんがエントランスの穴を見つけたのが夏休み前でしたよね」
「うん、テスト明けの短縮授業の日。見つけたのはアスミだけどね」
「そうでした。その時はまだ穴はひとつきりだったと伺いました。今、十一月上旬の時点で三か所合わせて十七個の穴があります。一週間に一つ穴が増えるとして、さて、十七週前はいつでしょうか」
「えー……」
「ちょうど夏休み前あたり、ですよね」
 ナバナが首をひねりながらこちらを見たので代わりに答える。こういう計算は、苦手じゃない。
「お見事です。そう、つまり最初の一つはエントランスの穴。そこから毎週三か所のどこかに穴が増えていくサイクルが始まったと見れば、計算が合うんです」
 ん、あ、なるほど。ナバナもめちゃくちゃ頷いている。
「恐縮です。ひとまず、今ぼくから話せるのはこんなもんですかねえ。また面白いことが分かったらお伝えしますから、くれぐれも学校じゅうを掘り返したりはしないでくださいね」
「……しないって。だったら先生、わざわざ色々話さなきゃよかったじゃない」
「いやあ、異変に気づいている相手に何も話さないのもかえって危ないかと思ったんですが……。結局、自分の知っていることを共有したかったのかもしれませんね。とはいえ――」
 次の瞬間。先生の口から出てきたのは、全く思いもよらない名前だった。
「ハルミさんのご息女とそのご友人のことですから。やっぱり特別気には掛けてしまいます」
「……え、え?」
 お母さん?
「ハルミさんにはね、ぼくがまだ小さいころ大変お世話になったんです。ぼくもハルミさんと同じくジョウトのアサギシティに住んでいて、その時にね」
「ほうん……」
 なんて言っていいのか。どんな気持ちになっていいのか。分からなくて、よく分からない返事しかできなくなってしまう。私はお母さんがかつてジョウトに住んでいたことも、今の今まで知らなかったのだ。
「もっともこれは――教師として適切な感情の出どころかはわかりません。ただ、きみ達に危ない目に遭ってほしくないのは本当です。ぼくなんかの話で満足してくれればいいなあと願っていますよ」

 地学準備室を出ると、もうとっぷり日が暮れようとしていることを実感した。あの洞窟にも窓はあったけれど、ほぼ本などで塞がれていたから。
 お腹も空いたしまっすぐ帰ろう。などと考えていたら、不意にナバナに脇腹を突っつかれる。
「満足してないでしょ」
 え。
「……そんな顔してる?」
「してる」
 ナバナはとても愉快そうな顔をしていた。

   *

「わわ……っ」
「アスミ大丈夫? ほら、支えててあげるから」
「ちょちょ、くすぐったい」
「我慢しなって」
 外灯にぼやっと浮かび上がる校舎のシルエットを目の前にして、少し見上げるくらいのフェンスをよじ登る。私の背後、通りを挟んだあっち側は広い公園になっていて、日中はそこそこ人目があるけれど、暗くなると一転、ちょっと不気味なくらい静かになる。それをいいことに、私とナバナは今まさに夜の学校に侵入しようとしていた。
 ナバナの助けを借りてどうにかフェンスを登りきり、そろりそろりと学校の敷地内に降り立った。ひと息ついて空を見れば、高くにほぼ真ん丸の月。
 悪いことをしている。急に胸がつっかえた。
「ナバナまで付き合わせちゃったの、申し訳ないよ」
「なんで? あたしが来ようって言ったんだから、こっちが付き合わせてる側だって」
 そう言う間に、ナバナはするりとフェンスを乗り越えてこちら側へやって来る。
「でも……」
「あんた一人だったらこんなことしなかったでしょ? ……いや、無くはないかもだけどさ。昨日の今日がちょうど金曜なのもまずかったよねえ」
 昨日の放課後、地学準備室を出た私は確かにナバナに言われたとおり満足してない顔をしていたのだろうと思う。ただしそれは伝説のポケモンの話に対してかもしれないし、お母さんの話に対してかもしれないし、自分でも判断がつかない。だからとりあえず今ここに居る、ような気はしている。
 ところで、
「無くはないって、ナバナはそう思うの?」
「ん? まあね。あんたのことだし……って、嫌だった?」
「ううん」
 なんだかむずむずする。不快な感じでは、ない。ナバナがそう言ってくれるなら、きっと私はそうなんだろう。
 小三の頃からずっと一緒のナバナと去年、高一の時にけんかして。そのまま一年近くひとことも口をきかなかったけれど、また少し話すようになって。それからも話したり、話さなかったり――ここのところは割とまた一緒に居ることも増えてきた。夏休みに何回か行ったきり休んでたポケモンジムへ最近また通いだして、そこでも週に一度は顔を合わせている。
 本当はもっと、前みたいに一緒に服を買いに行ったりナバナのギターで歌ったりしたい。でも、簡単にそうできない自分が居る。そんな自分はすごく嫌だ。ナバナとずっと居たらそんな自分と嫌でも向き合わなきゃいけなくなるから、それも辛い。
 だけど、
『――これからも、どうかよろしく』
 夏休みのあの日、めちゃくちゃに私をぶちまけた私を、それでもナバナは今に繋いでくれた。
 そんな今は、嫌じゃない。
「とりあえず体育館のほう行ってみよっか。足元、気をつけて」
 ナバナに導かれて歩みを進めてゆく。外灯のおかげでそれほど暗くはないけれど、心細さが行く手に影を落とす。毎日通っているところなのに知らない場所みたいだ。それでもすぐ前を歩くナバナの横顔を覗くと、不思議と心細さのぶんだけ胸の高鳴りも感じる。風に乗って漂ってきたプールの塩素のにおいを、すうっと大きく吸い込んでみる。
 ぐるりと敷地内を大きく回りこむように、イチゲ先生の言っていた体育館裏までやって来た。この辺りは外灯がまばらで頼りなく、闇が濃い。
「ここだったらスマホのライト使っても目立たないかな……」
 ナバナがそう呟くなり、右のほうから強い光が目に飛び込んできた。一瞬視界が真っ白になる。
「やっぱり来ちゃったんですねえ」
 目が慣れて見ると、白衣の代わりにチェスターコートを羽織ったイチゲ先生――と、私と同じくらいの背丈でちょっと首の長いポケモンが立っていた。光はそのポケモンのしっぽの先にある電球のような球から発せられているようだ。
「……やば」
「昨日あのあと、しまったなあと思ったんですよ。ハルミさんだったら絶対確かめに来る。だったらきみ達も、って」
「え」
 お母さんってそんなだったんだ。全然知らなかった。
「金曜の夜に穴が増える、なんて喋ったぼくの責任です。夜遅いですしご自宅まで送って行きますよ。――それにしても」
 不意に先生がデンリュウ、と横のポケモンに小さく声をかける。するとポケモンのしっぽの光が消えた。「デンリュウ」があのポケモンの名前なのだろう。聞いたことはあった。
「……はあ。まさかこんなにタイミング良く来るなんて。ついてるのか、ついてないのか……」
 ぼやいたあと、イチゲ先生は私達に向かって口元に指を当てる仕草をした。そのまますぐそばの防災倉庫の陰にデンリュウとともに身を隠し、手招きをする。ナバナがすぐ後に続いて、私も同じようにならった。何か起こるのだろう。何が起こるのだろう。
 「何か」が来る。覚束ない外灯の光のなか、辛うじて見えた。体育館の壁に沿うように真っ直ぐやってくる “それ”は――何と表現していいか分からない。たぶん大きさはゴニョニョと一緒くらい? 頭のてっぺんがツノみたいに尖っていて、足もそれと同様に尖った一本足。どういう原理か少し地面から浮いて、両腕を広げた格好でコマのようにスピンしながら近づいてくる。よく分からないので、ポケモンだということはよく分かった。
「ヤジロンです」
 イチゲ先生が声をひそめて言う。こっちは初めて聞く名前だ、なんて考えていると、ヤジロンは私達から十メートルくらいのところで一旦動きを止めた。ちょうど外灯のすぐ下あたりだ。
「あそこです。あそこに例の穴が」
 そう先生がささやくのが早いか、ヤジロンがその場で再びスピンし始めた。みるみる回転速度が上がり、先ほどまでとは比べ物にならない勢いになる。と、そのまま九十度後ろに倒れる形になり、尖った一本足を壁へと向けた。そのまま垂直に突っ込み、身体ごと高速回転する足をドリルのように壁面へと押しつけていく。意外と音は静かなんだな、と妙に感心した。
「……先生、知ってたんだ。ヤジロンのことも」
 じっとヤジロンのほうを見つめたまま、ナバナが不満げな声を漏らす。
「いやあ面目ない。さすがにここまでお伝えするのはちょっと、と」
「まあいいけど。あのヤジロン、どこから来てるの?」
「何度か追おうとはしたんですが、ぼくじゃどんくさくてね」
「デンリュウに追わせなかったの?」
「いやあ」
 ナバナと先生が話している間にヤジロンはもう穴を開け終わったようだった。きゅるきゅると回転が弱まり、一本足を地面へ向けて態勢を戻すと――すぐ元来たほうへと移動を始めた。
「行っちゃう……」
 私がそう呟くや否や、ナバナが飛び出した。足音を殺しながらもしなやかな動きでヤジロンの後を追いかけてゆく。あの瞬発力、あの運動神経、やっぱりすごい。
「いけない。デンリュウ、彼女を守ってあげてください」
 先生に声を掛けられるなりデンリュウはあたふたして、どたどたと危なっかしい足取りでナバナに付いて行った。あの様子だとあの子がヤジロンを追うのも難しかったんだろうな。私やゴニョニョだったら多分もっと無理だろうけれど。
「そうでした。今のうちに」
 さっきまでヤジロンの居た壁際へ早足で向かうイチゲ先生に、私も続く。
「……この並び、間違いない」
 しゃがみこんで丹念に壁の穴を手探りながら先生がつぶやいた。背中ごしにそっと、覗いてみる。
 昨日見せてもらった写真の記憶が確かなら、元々あった右下の穴のさらにすぐ右に新しい穴が増えている。この並びなら十字の形ができあがると見て間違いないと、そう先生は言いたいのだと思う。
「なぜ、なんでしょうね」
 壁を見つめたままで、先生は言った。誰かに言っているような、誰にも言っていないような感じがした。
「教え子も巻き込んでしまって。愉快な状況であるはずがないんです。それなのに――この先に何があるのかと心を躍らせてしまう。そんなろくでもない自分が居るんです」
 立ち上がって空をあおぐイチゲ先生の横顔を見る。外灯の下のその表情が、どうしてか私のよく知っている誰かさんと重なって、心臓がとくんと跳ねた。ポケモンの話を、自分の夢をたくさん聞かせてくれたきらきらな瞳を思い出す。ちりりと、胸の奥が焦げつく感じがして、シャツの上からネックレスを強く握りしめた。

 十五分ほど経ったか経たないか。長いような短いような時間のさなか、ナバナとデンリュウは戻ってきた。プール横の茂みに縦穴があって、ヤジロンはそこへ戻って行ったようだ、と。

   *

 ナバナが見つけた縦穴は、生い茂る草木にまぎれて冗談みたいにぽっかり口を開けていて、人ひとり通るのがやっとくらいの大きさだった。しかし、デンリュウに照らしてもらって窺った奥は広く開けており、何メートルか下った先は別の横穴につながっているように見えた。
「今日のところは帰りましょう。こんな夜遅くに、しかもきみ達を連れて探検という訳にはいきませんからね」
 じゃあ明日、と声を弾ませるナバナに、イチゲ先生は深い深いため息で答えた。

 家が学校に近いナバナと先に別れて、両側に住宅の立ち並ぶ道を先生と歩く。にわかに強く吹きつける十一月の風は、じき訪れる冬の気配が混じったにおい。振り向くと、やや遅れてちょこちょことした足取りのゴニョニョに、デンリュウが歩幅を合わせてくれていた。ちょっとした夜の散歩がてらの帰路だ。
「しかしヤジロンはどうやって校舎の中にまで侵入しているんでしょうかねえ。建物の中にもあんな縦穴があったらさすがにすぐ気づくでしょうし」
「テレポート……してるとか、ですん……じゃなくて、ですか?」
「ヤジロンにテレポート能力は無いはずですが、進化後のネンドールや他のポケモンの力を借りている可能性はありますね。ただ、体育館裏へ来たヤジロンがわざわざ自分の力で戻って行ったこととの辻褄が気にはなります」
「えっと……。自分の能力じゃないから、何か制約があるのかも……」
「なるほど、そうかもしれませんね――おっとデンリュウ、もう少し静かに。ゴニョニョさんも困っていますよ」
 辺りがしんとしているから小さな声でも大きく響く。私の声もちゃんと届く。
 先生と、ゆっくり話をしながらゆっくり歩いてく。一方で、私の中のとある思いが「早く早く」と急き立ててくる。そうして家までの道のりのちょうど半分を過ぎたころ、
「随分遅くなってしまいましたね。ハルミさん、心配されているでしょう」
 先生がふと口にした言葉で、私は立ち止まった。
「アスミくん?」
「――先生。お母さんの話、聞かせてください」
 変なタイミングだって分かってる。先生を困らせるのは申し訳ない。だけど、
「知りたいんです。先生が知ってる、私のお母さんのこと」
 今しか無いような気がしたのだ。
 ナバナによれば、イチゲ先生が私のことをやたら意識してるって、学校でそこそこの噂になっているらしい。なのに私は少しも気づいていなかった。噂自体のこともそうだけれど、先生が私を気にしている理由はたぶん――お母さんだ。こんなところにお母さんと繋がる人が居ただなんて。
「……私。お母さんとずっと、ろくに話してこなかったから。お母さんのこと全然知らなくて。自分でお母さんに聞こうにも、知らなさすぎて、どう聞いたらいいかもわかんなくて……」
 シャツの襟元から赤い石のネックレスを取り出す。前よりも幾らかずっしりとした感覚になったそれを、先生にかざして見せる。
「これ……石が気に入って。私には似合わないなって思いながら、でもとても大事なものに思えて買ったんです。けど元々はこんなにちゃんとしてなくて、台座とか鎖とか……安物だったからすぐボロボロになっちゃって。困ったな悲しいなって思ってたら、この前の誕生日に、お母さんが……台座も鎖も新しくしてくれて……」
 言葉が。言葉が止まらない。自分が何を言ったかも分からないくらいに速い。
「初めて、だったんです。お母さんがプレゼントしてくれたのも、ケーキとろうそくでお祝いしてくれたのも……。だから私、どんな顔していいか少しも分かんなくて。きっとすっごく変な顔しちゃっててありがとうも全然上手に言えなくて。……そしたらお母さん、私を見ておろおろしだして。そんなお母さん見るのも私、初めてで……っ」
 脳裏に浮かぶ。焼き付いてる。小さい頃、ごみだらけの家で「お前なんか生まれてこなきゃよかった」ってお母さんに何かあるたび言われたこと。でもそれが、ある時から反対に怖いくらい片付いて、お母さんは私に何ひとつも言わなくなったこと――。
 イチゲ先生はただ何度も頷きながら、黙って話を聞いてくれていた。黙って、私が言葉をすべて搾り出したのを確かめるようにもう一度頷くと、
「ぼくが小学生の時です」
 ゆっくりと口を開いてくれた。
「当時アサギシティに居たぼくが通っていた学校で、ポケモンと触れ合う特別授業というのがありまして、その講師として来られたのがハルミさんだったんです」
 歩きましょう、と促して。一歩一歩とともに一言一言、先生は言葉を続ける。
「ハルミさんが――そう、ちょうど今のアスミくんくらいの歳でした。ポケモントレーナーとしての道にひと区切りをつけて、研究所で助手として勉強をされていた頃ですね」
 先生が話してくれる内容は、本当に私の知らないことだらけだった。お母さんがポケモンの研究に携わっているのは最近になってやっと分かったことだ。でも、元々ポケモントレーナーだったとかは、なんにも。
「その授業でぼくはハルミさんにたくさん質問をしました。ぼくのことだから、とんちんかんな質問も一杯あったと思います。それでもハルミさんは全てに丁寧に、嫌な顔もせず答えてくれたんです。ただ、その特別授業は一度きりでしたし、『講師のおねえさん』ともそれっきり――と思っていたんですが」
 それきりのはずが、授業からほんの数日後。街で偶然お母さんと再会して、そこから個人的な交流が始まったらしい。「奇跡でした」と、先生は静かに言った。
「ポケモンについて色々な知識を教わったり、海のほうまで生態を観察しに行ったり……勉強を見ていただいたりもしました。その後ハルミさんは晴れて研究者としてホウエンに渡りましたから、直接顔を合わせての交流はほんの一年ほどでしたね。それでも僕が、こうしてものを教える仕事に就こうと決意するには十分すぎる時間でした。まあ、諸々あって教えるものは地学になりましたけどね」
 今さら気づいた。イチゲ先生の言葉に時々混ざるイントネーション。お母さんと同じだ。
「恥ずかしながら、ハルミさんが下さったものを上手く言い表すことはぼくには難しいのですが……これだけははっきり言えます。今のぼくがあるのは紛れもなく、ハルミさんのおかげですよ」
「お母さんの……おかげ」
 先生の言葉を繰り返し噛み締めてみる。噛み締めながら歩く。
 そうしている間にもう、見慣れた門の前へとたどり着いてしまった。玄関ドア脇のポーチライトが静かな暖色で光っている。
「お疲れ様です、よく休んでくださいね。……ナバナくんのあの様子だと、また明日、なんですかねえ」
 苦笑しつつ、デンリュウとともに来た道へと踵を返すイチゲ先生。――その背に、思わず私は触れていた。
「……お母さんに、会っていかないですか……?」
 先生は。くしゃりと微笑んで首を横に振った。
「もう、遅いですから」
 去ってゆく背中をただ呆然と見送って、私はまた誰かさんのことを思い出していた。風は冷たいのに胸には薄っすらと温かみがあって。それが無性にさみしくて、隣に居てくれたゴニョニョをぎゅっと抱きしめた。

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