揺蕩う煙に包まれて

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作者:CoLor
読了時間目安:25分

 気がつくと、俺は白黒映画のような色味の、見覚えのある石造りの街に何も持たずに立っていた。窓はあるが、どの建物にも扉は見当たらないような、そんな街。
 どこで見たのか、ここがどこなのか、それはまるで分からないが、とにかく見覚えはあった。

 色々なものにモヤがかかったような頭のまま、辺りを見回す。

 不思議なことに、人の姿は見当たらない。それどころか、生き物の気配というものすら感じられない。大きな街で太陽が上がりきっているというのに、妙な話である。

 よくは分からないが、とにかく歩くことにした。歩けば何か見つかるという、どこか確信めいた判断。ただ、歩くのは目の前に見える大通りではなく、後ろにある小道。建物と建物の隙間を縫うように作られている道の方だ。
 急ぐこともなく、のんびりと歩き始める。右と左に分かれた道を、なんとなくで直感で曲がっていく。
 気分は迷路。子供の頃にやった迷路は紙に書かれていて、ゴールが見えていた。でも、今やっているのは、俯瞰したところで見ているあの迷路というわけではない。何かのイベントでやっていた、チャレンジ式の迷路のようなものだ。
 そのおかげで、進んでいるのか、戻っているのか。まるで分からない。そもそも、ゴールなんてものはあるのか、それすら判別がつかない。

「……ん?」

 しばらく進んでいると、視界の隅にこの街で初めて白黒ではないピンク色が路地に入っていったのが見えた。
 誘われるように、それが見えた方向に歩き始める。ピンク色が通った路地を見ると、まっすぐ行った先の路地をちょうど曲がっているところだった。
 このままでは追いつかないと、少しだけ小走りになる。

 クスクス、と子供のような笑い声。

 追いつこうにも追いつけない、絶妙な距離感のまま。なんだか、一生追い続けても捕まえられる気がしなかった。
 諦めてしまおうかと思いながら曲がり角を曲がると、道の奥にひとつの扉が見えた。
 ピンク色の姿は見当たらない。

 あそこに入っていってしまったのだろうか。

 ともかくと、道を進んで扉の前に立つ。街並みと同じ白色の扉。ついているドアノブに手をかけ、がちゃりと扉を開けた。扉の先にあるものは、まるで1寸先すら見通せない暗闇。手を伸ばせば、まるでその暗闇に手が吸い込まれてしまうようなほど暗い。

 これはなんなのだろうかと、1歩前に踏み出せば、突然身体にジェットコースターの下り坂のような浮遊感が訪れた。それと同時に足場が音もなく崩れ去り、俺の身体は暗闇に落とされてしまった。
 どこを見ても暗闇。どう考えてもピンチだというのに、この飛行の終着駅は、いったいどこなんだろうか、なんてあっけらかんと考えてしまう。不思議なものだ。

 そうして暗闇の中を落ちてからどれくらいの時間が経ったのか分からないが、これまたいきなり足元に地面が現れた。下にあるのは、茶色の砂地と低い草の生えた地面。顔を見上げれば、暗闇の代わりに鬱蒼と茂る木々があった。尻もちをついて座っていた俺は、のっそりと立ち上がって腰に手をあてて辺りを見回す。
 横と後ろは草むらになっていて、前には進めといわんばかりに用意された道が続いていた。草むらをよく見れば、恐ろしく鋭いトゲがびっしり生えており、前に進む以外の道はどうも許してくれる素振りはなさそうである。誘導される通りに、前に進むことにした。

 前に進んでいくと、分かれ道があった。

 右には、茶色の毛玉のような可愛らしい生き物の姿。

 左には、先程の街で見たピンク色だと思われる姿が、ぷかぷかと浮かんでいた。よく目を凝らして見てみるが、モザイクでもあるかのように鮮明には見えない。
 見たところ、どちらかを選べ、というわけだろうか。

 茶色の毛玉の方は、ちょこんと俺を待ってるように座り込んでおり、白い尻尾を振っている。
 対するピンク色の方は、黙って俺の事をじーっと見ていた。モザイクがかかってるので余計に感情が読み取れず、なんとも愛想がないように思える。
 結局、その2択ならと俺は茶色の毛玉の方へと歩いていく。茶色の毛玉のような生き物は、こっちを選んだことを喜ぶように飛び跳ねており、俺が来るのを今か今かと待ち構えている。
 可愛らしいやつだなと頬が緩んでしまう。
 茶色の毛玉の前まで来て、座り込んで手を出してやると、茶色の毛玉は喜んでその手に頭を擦り付ける。尻尾もはち切れんばかりに振り回していて、もっと抱きしめて撫でてやりたくなるくらいだ。

 だが。

 抱きしめてやろうとしたその瞬間、茶色の毛玉が邪悪な笑みを浮かべながら、その頭がポロリと外れた。
 あまりのことに驚いて飛び退くと、茶色の毛玉はケタケタと笑いながら、身体全体が泥のように溶けて地面へと吸い込まれていった。

 呆然と俺がその地面を見つめていると、どこからともなく選ばなかったあのピンク色が現れた。ここまで至近距離だというのに、やはりピンク色にはモザイクがかかったようになっていて全体図がはっきりと見えない。だが、それでも分かる程にその地面を睨みつけており、ピンク色の可愛らしい色味から想像もつかないほど低い唸り声をあげながら、茶色の毛玉が溶けていった地面辺りを蹴り始めた。

 何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。

 まるで己の両親の恨みを晴らすかのように、執拗に蹴りつける。

 声をかけようと思ったが、はたしてなんと声をかければ良いのか。

 徐々に蹴るスピードが落ちていく。見るからに蹴る力も弱っているところから、疲れてきたのだろうか。肩のようなものは見えないが、まるで肩でぜぇはぁと荒く息をしているかのようにその身体を動かしている。
 しばらくすれば、ゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返し、深呼吸をしていた。そうして、ゆらり、とこちらに振り返る。

 その赤い目を見た瞬間、全身の毛がぞわり、と逆立つような感覚を覚えた。

 それもつかの間、ピンク色は俺の腹に向かって突撃し、俺を勢いよく押し倒す。痛みはないが、ピンク色が俺に乗りかかる感覚だけは強く感じた。
 ピンク色は俺を強く睨みつつ、頭の上から黒い煙を吹き上げる。その煙は俺を包み込み、視界を一気に奪っていく。
 視界はまた暗闇。その中でも、ピンク色の赤い目だけは爛々と輝いていた。
 身体を圧迫されるような息苦しさが段々と強くなっていく。身体は動かず、それに抵抗する力もない。声を出そうにも、呻き声をあげるのでやっとだった。
 意識の糸がぶちぶちとちぎれ、まともな思考力を抉りとっていく。

 ──もう1回。

 もうダメだというところで、何かが聞こえて唐突に息苦しさが収まった。煙が霧散し、暗闇の視界がひらける。
 吸えなかった空気を一気に吸い込み、思わず咳き込んでしまった。ゴホゴホと咳をしながら、上半身を起こす。
 目の前の光景は、先程の森と寸分違わぬものであった。前方向にまっすぐ伸びる道。左右と後ろには、茨のような草むら。最初に森にやってきた時のスタート地点だ。
 ゆっくりと立ち上がり、頭を片手で支えてそのままよたよたと前へと進んでいった。

 またしばらく進んでいけば、先程のように分かれ道があった。

 右には茶色の毛玉。

 左にはピンク色。

 まったく一緒である。
 茶色の毛玉はこっちに来てと笑顔を向け、ピンク色はつまらなさそうにこちらを見ている。

 やはり心は茶色の毛玉に行きたがるが、ここは我慢。恐らくここまで同じならば、またとことんまで同じだ。ループするのは目に見えている。

 右には行かず、左へと進む。

 左のピンク色に近づいていっても、ピンク色はまるで石像のように佇むだけ。嬉しそうにすらしてくれない。むしろ、近づかれて嫌がっているのではと思ってしまうレベルだ。

 ピンク色の前にまで来ると、ピンク色は不満げな雰囲気を漂わせていた。嫌に赤い目が光り輝いていて、怖いという感想すら抱く。
 浮かぶピンク色と目線を合わせるためにしゃがむと、ピンク色はぷいっと目を逸らす。撫でようと手を伸ばせば、短い手ではたかれて拒否された。それどころかそのまま頬を1発殴ってくる始末である。

「……何がお望みかな?」

 話しかけても無反応。

 気難しいピンク色である。

 どうしたものか殴られた頬をさすりながらため息をついていると、ピンク色はふよふよと後退していく。それに合わせるように木々が避けていき、新しく道ができた。

 ピンク色は、そのまま風景に解けるように消え去る。これは追いかけないとと、俺は暗い森の中を走る。
 横の草むらからは、いくつもの赤い目が俺を見つめているのが見えた。ただ眺めるだけ。それ以上のことはしてこない。
 なにがしたいのかと思いながら走っていると、森の出口が見えた。
 その出口に向かい、森を走り抜ける。

 すると、今度は目の前には建物の跡地のような灰色一色の場所が現れた。鉄骨が剥き出しで、何者かに壊されてしまったような、そんな場所。
 後ろを振り返ってみても、先程走ってきた森はなく、建物の壁があるだけであった。

 ……ここも、見覚えがある。

「ムナー!」

 跡地に、悲痛な叫び声が聞こえた。それが何かと思うよりも先に、俺の体はその声の方向に走り出していた。

 声は、跡地の奥から聞こえる。

 奥へ奥へと進んでいくと、ピンク色が複数の黒い影のようなものに襲われているのが見えた。

「なにやってるんだお前たち!」

 俺のその声に、黒い影たちは動きを止めてこちらを見ると、灰のように崩れて消える。残ったのは、その中心にいた傷だらけのピンク色だ。
 そのピンク色は先程のピンク色よりも一回り小さく、形も少し違う。だが、そんなことは関係ない。
 俺はいつの間にか持っていたバックの中を漁り、キズぐすりを取り出す。動けないピンク色を抱き、キズぐすりを散布していく。
 弱々しい息を吐くピンク色は、キズぐすりが染みて痛いのか辛そうな呻き声をあげる。しっかりしろと声をかけながらそれを続けていると、ピンク色が俺の目を見た。

 ──もう痛いこと、ない? 

 そう、言ってるように思えた。

「大丈夫、だから安心しろ」

 自分にも言い聞かせるようなその言葉をピンク色は聞くと、ふぅと長く息を吐く。まさかと思って口に手を当てると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
 ホッと安心して、その場にへたれこむ。良かった良かったと息をついていると、視界の横から、青い色をしたボールがコロコロと転がってきた。ずっと灰色の世界にいたからなのか、随分とその色は鮮やかに見えた。
 そんなボールが、ひとりでに浮かび上がる。上に上がったボールを、いつの間にか隣にいたピンク色がキャッチする。
 ピンク色は俺の抱えている小さなピンク色を見ると、不満げな雰囲気を出していた。

 ……不満げというよりも、もっと別に言い表せる言葉があるような……。

 ピンク色はそのあと俺を見ると、ボールを持った手を大きく振りかぶる。

「えっ、ちょ」

 ピンク色が何をするのか分かったところで時すでに遅し。
 勢いよく投げられたボールは、俺の顔面へとドストレートにぶつかり、俺はボールの勢いのまま倒された。

 やけに、痛みが酷い。

 痛みにもだえながら上半身を起こすと、いつの間にやら俺は様々な花が咲き誇る花畑にいた。どこまでいって花、花、花。
 それ以外のものは、一切見当たらない。

「ムナ〜」

 ふいに、頭に何かを乗せられた。
 何を乗せられたのかと手に取ってみると、それは随分と不格好な花冠だった。後ろからふわりとやってきたあの小さなピンク色は、どうかな、と聞きたそうにしていた。額には1本の傷跡があり、あの時の傷が治らなかったのだと見てわかる。

「……うん、上手だよ、ムンナ」
「ムナ? ナ〜」

 嬉しそうに笑い、あぐらで座っている俺の足の隙間にちょこんと乗っかる。乗っかったムンナを撫でてやると、ムンナはまた嬉しそうに……。

 ──ムンナ? 

 手が止まる。
 ムンナは撫でられが止まったことで、不思議そうに俺を見上げている。

 ムンナ、ムンナ。

 心の中で、何度もその名前を唱える。
 どうして、俺は今まで。

 モザイクがかっていた小さなピンク色が、一気に鮮明になる。人々やポケモンの夢を食べる、つぶらな赤い瞳が可愛らしいポケモン。

 ──俺の、大切なパートナーだ。

 いや、大切なパートナーだったの方が正しいのか。今は違う。

「ナ〜」

 ムンナが俺の足から抜け出し、花畑の中を進んでいく。少し離れたところまでいくと、ムンナは何かを俺のところに持ってきた。
 ころころと転がし、俺の足にぶつかったのは、あの青いボール。

 ムンナが、俺によく投げることをせがんで、取ってこい遊びやらキャッチボールをしていた、あのボールだ。

 ムンナは投げてというように俺に鳴く。俺はそれに応えるように、ボールを持ってムンナへと投げた。ムンナはボールを空中で上手くキャッチして、また俺に投げ返す。

 それが、とても楽しい。

 久方ぶりにそんな気分を味わっている気がする。こんなこと、もう随分とやっていない。

 何度かキャッチボールしていると、俺のボールがムンナを大きく飛び越えてしまう。ムンナは慌ててボールを取りに行こうとして、ボールを追いかけ始めた。ボールはやけに地面の上を進んでいき、ムンナはずっと追いかけていく。このままでは、ムンナを見失ってしまうような、そんな気がした。

「ま、待ってくれ、ムンナ」

 ムンナを見失う前に、立ち上がって急いでムンナを追いかける。俺が歩く度に咲いている花が舞い上がり、視界の邪魔をしてくる。それを払い除けながらなんとかムンナを追いかけようとするが、段々と前から風が吹き、花吹雪が酷くなってムンナの姿が見えなくなっていく。ムンナを呼ぼうにも、花が口に入って何も言えない。

 巻き上がる風で、ついには前にすら進めなくなった。

 顔を必死に腕で守っていると、風はゆっくりと吹き去っていく。口に入った花を吐き出し、目の前を見たが、そこにはもはやムンナの姿はなかった。

 花畑に、俺は1人取り残される。

「……ムンナ」

 か細い声が出た。そんな声が届くわけもなく、花畑に声は吸い込まれていく。
 目頭が熱くなる。

 あぁ、そうだ。

 ムンナは、俺のパートナーだった。だけれど、ムンナは俺の前から忽然と姿を消してしまった。
 何故離れてしまったのか。
 俺の元にいるのが嫌だったのか。俺が嫌いになったのか。そもそも、俺の事を好んでいたのか。

 ……なにも、分からなかった。

 せめて理由さえ分かれば、ムンナを引き留めることができたかもしれないのに。家に帰ってくれば、嬉しそうに出迎えてくれるムンナの笑顔を、見ることができたというのに。

 花畑に水が零れていく。

 こんなにも、大事なのに。
 俺は、俺は……。

「…………」

 膝から崩れ落ちそうになる瞬間、うなじがピリッと痺れた。そのことを知覚する間もなく、背中に強い衝撃が走った。
 抵抗することも出来ずに、顔面から花畑に倒れ込む。何事かと振り返ってみれば、見慣れた青いボールが転がっていた。

 そして、視界の端には、見慣れたピンク色が上に。

 まさかと思って見上げると、そこにはピンク色をしたものがいた。しかし、それはムンナではなく、ムンナよりひと回り程大きな、あのふてぶてしいピンク色だった。

 なんだお前かと落胆しかけたその時、その隣にひょっこりとムンナが現れた。

「ムンナ!」

 名前を呼ぶと、ムンナは嬉しそうに笑う。しかし、こちらにはやって来ず、ムンナは隣のふてぶてしいピンク色にゆっくりと溶け込んでいく。
 待ってくれと言おうとするが、それはふてぶてしいピンク色に取り込まれたあとのことだ。

「か、返せ! ムンナを返せ!」

 ふてぶてしいピンク色に、縋り付いて叫ぶ。その様子が気に食わないのか、ふてぶてしいピンク色はつまらなさそうな顔をしながら、その頭を思いきり俺にぶつけてきた。
 痛くてたまらない。だが、俺はムンナが必要なのだ。こんなところであんなふてぶてしいピンク色に負けるワケには……。
 ふてぶてしいピンク色を眼前で睨みつける。

 ……だがしかし、そこで気づいた。

 俺の顔から、怒りの表情が消える。

 俺のことをずっと見つめてくるふてぶてしいピンク色の額をよく見る。

 ──知っている、見覚えのある傷跡が、そこにはあった。

「……お前」
「……はぁ」

 やれやれ、と。
 ようやくか、と。

 色々なものを溜め込んだ、そんなため息。

 あの時のような、可愛らしい瞳ではない。
 あの時のような、健気な性格でもない。
 あの時のような、ムンナではない。

 ……だけれど。

「……ムンナ、なのか?」

 モザイクが若干薄れる。

 ピンク色はふるふると顔を振ると、コツンと俺の額に額をくっつける。

 ──ムシャーナ。

 そんな単語が、頭に浮かんできた。

「……ムシャーナ?」
『そう、ムシャーナ』

 頭に浮かんだ単語を反復するように口にすると、ムシャーナから思考が流れてくる。そんなこと1度も経験したことがないというのに、何故かそうだと判断できた。
 ピンク色が少し後ろに行くと、ほんの少しだけ花が舞い、ピンク色と俺の前に壁ができる。その壁が無くなれば、もはやピンク色にモザイクはかかっていなかった。

 ムシャーナ。

 覚えがある。

 ムシャーナとは、ムンナが進化した姿の名前だ。経験を積んでの進化ではなく、貴重な月の石を触れさせることで、ムンナはムシャーナへと進化する。そういうポケモンだと。

「……進化した、のか?」

 こくり、とムシャーナは頷きながら、額をまた合わせる。

「……どうして」
『うん』
「……どうして、俺から離れたんだ?」

 何よりも、1番聞きたかったことだった。
 ムシャーナはうーん、と唸りながら、ゆっくりと答え始める。

『……おしゃべり、したかったから』
「おしゃべり」
『うん。ムンナだと、こういうことができないから。テレパシー、っていうの?』
「……それだけ?」
『そう。それだけ』

 ……あぁ。

 なんて、なんて。

「俺が、嫌いになって消えたんじゃ、ないのか」
『まさか』
「でも、さっき……」

 一瞬額を外され、軽く頭突きをされる。

『それは、あなたが悪いのよ。気まぐれにやってみた選択で私じゃない方選んだり、思い出してもらうために昔の記憶から引っ張り出したとはいえ、昔の私に優しくしてるんだもの。他のにうつつを抜かしてれば、私からすればつまらないもの。たとえ昔の私であっても、ね?』
「じゃあ……」

 ムシャーナは大きくため息をつくと、まったく、と呟いた。

『……勘違い甚だしいわね。あなたを嫌いになるわけないでしょ』

 顔を赤らめて。でも、あの時と同じような、眩しい笑顔で。

「……ムシャーナ!」
『ちょ!』

 思わず、ムシャーナを抱きしめた。ムシャーナは恥ずかしそうな、それでもまんざらでもなさそうな顔をしながら俺を受け入れてくれた。
 涙が止まらない。ずっと、ずっと心に淀んでいた泥を洗い流すように、今まで溜め込んでいたものを吐き出すように。

『ね、ちょっと、ねぇって。もう、あなたって随分と泣き虫だったのね。知らなかった』
「仕方ないじゃないか。もう、会えないと思ってたんだから……」
『そりゃあ、私だってすぐに見つけてさっさと帰るつもりだったわよ。でも、近場では中々見つからないし。これじゃ出てきたのに帰れないってなって探し回った結果、見つけたのは海を越えた先のお月見山ってところだったもの。おかげでこっちまで戻ってくるの、結構大変だったのよ?』
「そこまでしなくても……」
『いいえ、そこまでしますー。私は、あなたに言いたいことがあったんだから』

 それって、と聞こうとすると、さらりと風が吹く。

『あら、そろそろ時間かしらね』
「時間?」
『そう、時間。あなた、まさかここが現実だなんて思ってないでしょ?』

 そうムシャーナに言われ、そこで俺は今までのことを思い返す。
 思い返せば思い返すほど、おかしなことばかり。あぁ、じゃあこれは。

「……夢?」
『正解。帰還サプライズは夢の中で。ムシャーナの種族らしい演出でしょ?』

 ムシャーナは、本当に楽しそうにクスクスと笑う。こんなイタズラっ子に育てた覚えはないけれど、恐らく旅をしながら彼女も変わったのだろう。
 さて、とムシャーナは呟くと、額を離し、頭の穴から紫色の煙を吹き出させる。景色が一気に煙一色になるが、すぐに煙は晴れて、一面の真っ白い世界で、俺の目の前にぽつん扉が現れた。ムシャーナは額をくっつけて、また思考を俺に流す。

『……かくして扉を開ければ、現実に戻るのであった……なんてどう? 小説の一文にでもありそうなフレーズを、実際に再現したわけだけど』
「夢の中じゃなんでもアリか」
『もちろん。夢の中は私の庭だもの。あなたが望むなら、その望む夢を見せてあげられるわ。あ、エッチな夢とかは私に要相談で。私が認めるやつなら存分に見せてあげる』

 胸を張るムシャーナに、苦笑がもれる。そんなものを言うわけがないだろうと。

『まぁ、冗談はさておき。現実に戻ったら言いたいこと言うわ』
「何を言うのかな」
『今言うわけないじゃない。ほら、聞きたかったらドアノブ回してさっさと起きて』

 額を外し、ムシャーナは俺の背中を押す。はいはいと言いながら、俺はドアノブに手をかけて、その扉を開いた。
 何を言われるのか分からないけれど、なんでも良い。

 ムンナ……いや、ムシャーナが帰ってきてくれたのだから、それで。

 1歩踏みだす。

 その瞬間、目の前が暗くなり、ぐんと身体が大きく上へのし上がる感覚を覚えた。気持ち悪さはない。むしろ、随分と穏やかな感覚を覚えた。ムシャーナが綺麗に起こそうとしてくれているのだろうか。

 天井には光が見える。あの光を越えれば──






 ──目覚めの時は、もうすぐだ。



 *



「──ん」

 ふと、目が覚める。
 カーテンからは朝日が溢れ、ベットに伸びている。冬が迫るときの布団は、思うように払えない悪魔が潜んでいるかのように温い。このまま2度寝しても良いのではないか、なんて思う程だ。
 体を横に向け、布団を被る。どうせ今日は休みである。寝てしまっても……。

『あ、こら、2度寝かまそうとするんじゃないわよ』

 布団をひっぺがされ、コツン、と額に何かが当たる。
 そうして、頭の中に言葉が響いてきた。

「……んぅ?」
『んぅ、じゃないでしょう? 寝ぼけてないで早く起きてよ。大事な話があるんだから』

 ……どうしてだろうか。初めて聞くはずなのに、随分と慣れた声のように思える。そう、まるで、夢の中で聞いたような。

 ……いや。

 目を開ける。
 そこには、呆れ顔で俺を見つめる、至近距離のムシャーナの姿が。

『起きた? 現実直視できてる? 夢の中の話じゃないの、今理解した?』

 あぁ、そうか。
 夢にあったことが、朧気に頭に浮かび上がる。もう記憶はほとんど消えかかっているけれど、それでも、確実に覚えている。ムシャーナの頬に手をあて、ふふっと笑う。

「……おかえり、ムシャーナ」
『はい。ただいま』

 上半身を起こし、ムシャーナと向き合う。ムシャーナに触れると、そこには確実な温もりがある。手放したわけでもないけれど、しばらく触れていなかった、嬉しい温もりが。

『さて、起きたところで。私はあなたに言いたかったことがあるわけで。そのために、月の石を探し回ったわけなんだけれど』
「うん」
『えーっと、えー、うん。その』

 そう言って、ムシャーナが額を離す。顔を見てみれば、ムシャーナは少し赤らめて、もじもじとしていた。視線が合うと、少し逸らしてしまうために、目がかなり泳いでいる。

「……大丈夫?」
『ん。まって、言うから。ちゃんと言うから』

 そう? と俺が言うと、ムシャーナは何度も頷く。それでも、口をパクパクさせたり、どもってしまったりとかなり時間を要していた。頭の穴からピンク色の煙が徐々に吹きあがり、僅かながら部屋の中が色づいてきていた。ムシャーナの言葉を穏やかな気持ちで待っていると、ムシャーナは両頬を自分の手でパンと叩き、俺をしっかりと見つめてきた。

「……私、ね? あなたに助けられたあの時から、ずっとあなたのことが──」






 ──マメパトの輪唱が、高らかに響き渡り。

 俺の部屋は、ピンク色の煙いっぱい包まれる。

 雲ひとつない、爽やかな朝のことだった。

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