『KOE』

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作者:夏十字
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読了時間目安:36分
 僕はあの子に嫌われている。

 放課後の図書室は静かでのどかだ。カウンター越しに閲覧テーブルのほうを見やると、窓からやわらかい西日が射している。何人か読書をしていたり自習をしていたりしているものの、人はまばら。僕は軽くひと息ついて手元の本に視線を戻した。
「おい」
 と、すぐにもう一人のカウンター当番――チドリくんが脇腹を肘で小突いてきた。顔を上げると目の前には女の子が二人。薄紫色の髪を快活にかき上げた背の高い子と、その後ろにちょこんと、少しはねた緑髪の小柄な子。見知った顔に自然と笑顔になる。
「ナバナちゃん、アスミちゃん」
「図書委員おつかれ、テンジくん。それもポケモンの本?」
「あ、うん」
 ナバナちゃん――薄紫色の髪の子に訊かれて、読んでいた本の表紙を見せる。『リージョンフォーム~すがたのルーツ~』というタイトルのものだ。
「リージョンフォームって聞いたことあるよね。例えばジグザグマって、海の向こうのガラル地方に居るやつは僕たちがよく見るジグザグマとは違う黒いすがたをしている。あれって実はガラルのジグザグマのほうが先に居て、ここホウエンのジグザグマはそこから枝分かれしたすがただって言われているんだ。そう言われる根拠となった研究というのが」
「あはは。当番じゃない時にじっくり聞かせて。ね、アスミ」
「……アスミちゃん?」
 ふと見ると、アスミちゃん――緑色の髪の子はさっきから俯きがちにぼんやりと立ち尽くしている。
「大丈夫? 脚、痛む?」
 ナバナちゃんにつられて視線を落として、僕はアスミちゃんの右膝に大きな絆創膏が貼られているのに気がついた。
「え、え。どうしたの、それ」
「なんでもないよ」
 アスミちゃんはぼんやりした様子のままそう呟いて、そっぽを向いて書架のほうへと行ってしまった。体育の百メートル走で派手にころんでケガをしたのだと、ナバナちゃんが頭をかきながら説明をしてくれた。
「無理するから……」
「そこは頑張ったって言ってやりな。あたしも本を見に行ってくるよ。宿題でさ」
「読書感想文だよね。うちのクラスでも出たよ」
 読書の秋に本を沢山読むきっかけに、ということらしい。昼休みはそれで借りに来る二年生が多かったと司書の先生から聞いた。
「うん。何読むかはもう決めてあるんだ。さっきアスミと相談して……あ」
 ナバナちゃんとそうこう話しているうちにアスミちゃんが戻ってきて――本を一冊、カウンターへと突き出した。僕じゃなくて、チドリくんのほうに。
「お願いします」
「お、おう」
 二人を見送ったあと、チドリくんに言われた。
「お前あの子に何したの?」



 ナバナちゃんとアスミちゃん。二人とは小学一年生の時からの幼馴染だ。二人が先に仲良くなっていて、後から僕も一緒に遊ぶようになった。クラスの輪に上手く入れず皆をじっと見ているばかりだった僕を、ある日ナバナちゃんが誘ってくれたのだ。僕は物心ついた頃からポケモンが好きで、図鑑やポケモンに関連した本を沢山読んでいた。本で学んだことを誰かに話したくても父さんや母さんは毎日仕事で忙しくて、そんな僕の話をナバナちゃんとアスミちゃんはよく聞いてくれた。
 女の子とばかり一緒に居るって周りにはしょっちゅうからかわれた。でも、あまりドタバタとした遊びが好きじゃない僕にとっては、三人で話をしたり、ポケモンの絵を描いたり折り紙をしたりしているほうが居心地がよかった。ナバナちゃんはしばしば男子に混じってボール遊びなんかをしていたけれど。
 強引なところもあるけど面倒見が良くて人気者のナバナちゃんと、ぼんやりしがちだけどしっかりと自分のこだわりや考えを持っているアスミちゃん。中学に上がってからも二人は本当に仲良しで、こないだはナバナちゃんが弾くギターに合わせて一緒に歌っている動画が送られてきたりもした。いっぽう僕はというと、今日みたいに会って話すことはよくあっても、自分も加わって遊ぶ機会はなんとなく少なくなった。思い当たるきっかけは特にないし、去年も今年も見事に僕だけクラスが離れてしまったのだってあまり関係ないと思う。小学生の時はクラスがばらばらになってもいつも三人で遊んでいたから。
 かわりに僕は本を読みふける時間が増えた。二年生の二学期を迎えた今、学校の図書室にあるポケモン関係の本はあらかた読み終えてしまっていた。
 
 夕食後、自分の部屋へと戻りベッドに寝転がる。ベッドサイドには図書室から借りてきた例のリージョンフォームの本。手に取ろうとしたとき、透き通ったソプラノのハミングが響いた。
「ご機嫌だね」
 部屋の隅、天井まである木製のバードタワーに止まっているのは、綿雲みたいなふわふわの翼を持った大きくて青い鳥。ハミングポケモン・チルタリスだ。小学四年生の時にポケモントレーナーのライセンスを取ってすぐ育て始めた、チルットから進化した。チルタリスは僕の視線に気づくと、さらにご機嫌になって歌い出す。
 いつもこの歌声を聴くと浮かぶのはナバナちゃんの顔だ。ナバナちゃんもまた皆がうっとりするような、高い空に抜けてゆくような澄んだ歌声の持ち主なのだ。ナバナちゃんとチルタリスの歌は、聴くたびに爽やかで嬉しい気持ちにさせられるところがそっくりだと思う。
 続くハミングにしばらく聴き入っていると、それに合わせるように別の少し低い鳴き声が重なりはじめた。この声の主は、バードタワーの足元に敷かれた砂の上をのそのそと動く一匹のポケモン。全身だいだい色で巨大なハサミみたいな頭をした――ありじごくポケモン・ナックラーだ。ナックラーは小学五年生の時、親戚のおじさんにもらったタマゴから生まれた。チルタリスもナックラーも出会って以来僕と一緒に成長してきた大切な相棒だ。
 チルタリスの声がナバナちゃんなら、ナックラーの声はアスミちゃんを思わせる。硬くてざらっとして、心にひっかかるような声。前にそれを言ったらアスミちゃんは目を丸くして、ナバナちゃんに怒られてしまった。
 悪く言ったつもりはなかった。ナックラーの声は誰も彼もにとっての「いい声」じゃないのかもしれないけれど、こうしてチルタリスの声と重なると他にない心地良い響きになる。アスミちゃんの声もまさにそんな感じで、ナバナちゃんとのハーモニーは最高だと思うし、なんとも不思議な魅力があった。
 ふと、壁に飾ったチルットの水彩画が目に入る。小学生の時にアスミちゃんが描いてくれたものだ。
 アスミちゃんはいつも、僕のつい長くなるポケモンの話をいちばん聞いてくれて、チルタリス達の絵もあちこちに飾れるくらい描いてくれた。普段はあまり自分からは喋らないアスミちゃんだけれど、ポケモンの話をする時は少しだけお喋りになった。――なのに。
 僕が大きくついたため息に、チルタリス達は声を止めた。
『お前あの子に何したの?』
 そんなに話す間柄でもないチドリくんにまであんな風に言われるなんてよっぽどだ。なんとなく一緒に遊ぶ機会が減っただけじゃなくて、最近のアスミちゃんの態度は明らかに素っ気なくて冷たい。何したのと訊かれても僕は何もしていない、はずだ。
 ただ、僕はアスミちゃんに嫌われている。



 翌日の土曜日。少しゆっくりと寝てお昼のサンドイッチを食べたあと、チルタリスらを連れて家を出た。行き先は歩いて五分くらいのところにあるレンガ風の建物。大通りからやや離れた一角にひっそりと建つここが、この辺りのトレーナーが集まるポケモン協会公認ジム。僕はここへ休日のたびに通っていた。
 扉を開けると、すぐ脇にある休憩所で座っていた顔見知りのおじさんが会釈してくれた。おじさんは二年ほど前にポケモン勝負に目覚めて以来、大会で勝つためにこのジムへ通い詰めているそうだ。通い詰めているという言葉の通り、僕がここへ来る時はほぼトレーニングをしている姿を見かける。たまたま平日の放課後に顔を出した時にも。
 更衣室へ向かう途中ですれ違ったお姉さんとも前に何度か言葉を交わした。お姉さんは大会みたいな勝負の場に出たいわけではなくて、ただ大好きなプリンのことをよく知って仲良くなるためにコミュニケーションの講座を中心に受けていると話してくれた。ポケモン勝負に勝ちたい人も別にそうじゃない人も、このジムには色々な目的の人が通っているのだった。
 かくいう自分はというと、どちらかと言えばプリンのお姉さんと似たようなスタンスだ。そもそも僕はポケモンを戦わせることをあんまり好んではいない。勝負に賭ける人たちのことを悪く言うつもりは全くないのだけれど、自分としてはどうしてもポケモンばかりが傷つくことに辛さを感じてしまうのだ。
 ただし、完全に勝負をしないと決めたわけではない。ここでの僕は、野生のポケモンや他のトレーナーと戦うための訓練もしていた。それにはひとつ、理由がある。
「テンジくん。チルタリス達、いいコンディションみたいだね」
 トレーニングウェアに着替えて“わざ”の練習をしていると、柔和な表情のひょろっとしたお兄さんに声を掛けられた。僕はあわててお辞儀をする。この人がエビネさん、ジムのオーナーだ。
「ありがとうございます。ただ――ええと」
「言ってごらん」
「ここのところナックラーが……“かみくだく”を指示した時に少し反応が遅れるような」
「この子は前に練習試合で顎を傷めていたね。治ってからもまだそこを無意識で庇っているんじゃないかな。ケアが必要かもしれないから後でちゃんと見させてもらうよ」
 エビネさんはトレーナーの指導やポケモンの状態の把握に長けていて、全国あちこちのジムに呼ばれたり講演やワークショップを行ったりと忙しい日々を送っていた。それでも出来る限りは自分のジムの様子を見に来て、僕なんかのこともこまめに気に掛けてくれる。僕がここに通おうと決めたのは、このエビネさんに誘われたからだった。
 今年の四月、窓からジムの中の光景を眺めていると、たまたま外から帰ってきたらしいエビネさんに見学希望かと尋ねられた。元々ネットでジムの口コミは目にしていて、ポケモン勝負が強くなりたい人以外も受け入れてくれるというのが気になり見に来た――そう正直に伝えると、エビネさんは中に招き入れて詳しい話を聞いてくれた。壁越しにトレーニングの声や音が響いてくる事務所で、自分自身のポケモンやポケモントレーナーに対する気持ちや考えを話してゆく。そのうち僕は、これまでほとんど人に語ることのなかったある思いについても聞いてもらいたくなった。
 そして話した。いずれポケモントレーナーとして冒険の旅に出てみたいと。それは現実的なプランなどではなく漠然とした思いで、でも小さな頃から絶えず心の中にあることだった。
 誰よりも沢山のポケモンと出会って仲良くなりたい。そう打ち明けた僕に、エビネさんは静かにこう言った。
『素敵な思いだ。勝負で強くなりたいわけじゃないという君の気持ちも尊重するよ。とはいえ、ポケモントレーナーとして旅に出る以上は他のトレーナーとの勝負を避けられないこともある。野生のポケモンと相対するためにもきちんと戦える力は必要だ。それならどうだろう。いつか旅に出るための準備を今からここでやっておく、そんな考えかたもあるんじゃないかな』
 だから僕はこのジムで、チルタリスやナックラーと力を合わせて強くなる訓練もさせてもらっている。そうするにつれ、もっともっとポケモンのことを知りたいという思いが高まってゆくのを感じていた。



「お前さ」
 週明け月曜日の放課後はまた図書室のカウンター当番。リージョンフォームについての本は土日で読破して、新しい本を読み始めているとチドリくんが話し掛けてきた。
「あの二人のことどう思ってるわけ」
「あの二人?」
 僕がぽかんとしていると、チドリくんは長いため息をついた。
「よくお前の顔見に来る女子のことよお。お前は一体どんなつもりで……いや、いや。やっぱいいわ。なんか俺の繊細な心が砕けそうで怖い。べ、別に羨ましいとかそんなんじゃ――」
「すいません」
「ぬぁっしゃいませ!?」
 不意に呼びかけられてチドリくんが跳ねる。いつの間にかアスミちゃんがカウンターを挟んで目の前に立っていた。遅れてナバナちゃんもやって来る。
 二人は金曜日に借りた本を返しに来てくれたのだった。ついでに少し言葉を交わす。
「明日、学校終わってから商店街の雑貨屋でも行こうかってアスミと話してたんだけど、テンジくんもどう?」
「お、俺なら喜んで……」
「?」
「なんでもないです」
 何故かチドリくんが小声で反応してアスミちゃんに思いきり首を傾げられた。当の僕はというと残念ながら明日は、
「ジムの予定入れちゃった……ごめん」
「あー、そっか。めちゃ頑張ってるもんね、ここんとこ」
「そうかな?」
「そうだよ」
 思わぬタイミングでアスミちゃんが口を開いた。びっくりした顔でそちらを見たら、アスミちゃんの目までまんまるになった。しばらく沈黙があって、アスミちゃんは言葉を小さくつなぐ。
「今は……どんなこと習ってるの。その、ジムで」
「あ! えっとね!」
 僕は喋った。ポケモンの食事と成長の関係、状況に応じた効果的な“わざ”の見極めかた、最近ジムであった出来事……こんなことは久しぶりだから嬉しくなって、次々と言葉が出てきて止まらなくなる。アスミちゃんはすごく静かにだけれど、うんうんと相槌を打って話を聞いてくれる。
「本当にね、まだまだ知らないことだらけなんだ。僕だけじゃなくて、誰にも分かっていないことだって沢山ある。僕はもっともっと、誰よりもポケモンのことを知りたいよ。……実はね、いつかポケモントレーナーとして冒険の旅に出たいなってずっと思ってたんだけど。もう、いつかじゃなくて今すぐにでも旅立ちたいくらいさ。だから――」
 ――だから、喋り過ぎたのかもしれない。
 アスミちゃんの目がまた一瞬まんまるになって、ふっと視線を外された。その途端、僕のまだまだ話したかった言葉が霧みたいに散っていく。
「アスミちゃん……?」
 睨まれてる? どうして?
 お互いにそれ以上の声はなく、「どうして」の正解は分からなかった。



 今、僕の前には二つの道があった。二つのうちどちらへ進むかは、もうじき選ばなくてはいけない。心から選びたいほうの道はとっくに決まっていた。だけど今、僕は迷っている。

 夕飯後の自分の部屋。ベッドの上から、勉強机に積まれた参考書へと目を配せる。僕はナバナちゃんのような成績優秀な生徒ではないし、ぼちぼち高校受験へ向けての勉強を考え始めたほうがいいタイミングだ。……高校へと進学するつもりなら。
『今すぐにでも旅立ちたいくらいさ』
 今日学校で口にしたそれが僕の本心。さすがに現実的にはすぐにとはいかないのは分かっている。旅立つならば中学を卒業して高校へは上がらずに、ということになるだろう。僕が望む道は明らかにそちらなのだから、あの参考書たちの相手をするよりも、もっとポケモントレーナーとしての勉強を――なんて考えたって迷ってしまう。
 ネットを見れば僕と同じように悩んでいる中学生は沢山居た。悩みの原因の大半は「親に旅立ちを反対されている」「家族に進学しろと言われている」というもの。ただ、僕の場合は彼らとは少し事情が違っていた。実は以前、父さんと母さんに、進学せずポケモントレーナーの道を歩む可能性について話したことはあって、二人とも「応援するよ」という言葉をくれていたのだ。
 でもその時、父さんは望むならば僕に進学してほしいとも話していて、母さんは淋しそうな様子だった。それでも応援すると言ってくれたことが僕は嬉しかったけれど、自分の歩みたい道がとてもわがままな自分勝手なのかもしれないという気持ちにもなったのだった。
 僕は僕の勝手を通してよいものなのだろうか。それが僕の大きな悩みだ。
「――それにさ」
 ぽつり、声を漏らす。思えば今日、図書室でのアスミちゃんの反応がおかしくなったのは、僕が旅立ちについて口にした時だった。
 僕のしたいことはきっと、アスミちゃんに歓迎されないのだ。僕はやっぱりアスミちゃんに嫌われている。……もしかしたらナバナちゃんにも。だめだ自信が無くなってきた。にわかに心細くなってきてバードタワーのほうへと視線を逃がすと、チルタリスはいつもの位置で悠然と羽づくろいをしていた。そういえば今日は歌声を聴かせてくれないな。
 などと思っていたら手元に置いたスマホがメロディを奏で始めた。ナバナちゃんからの着信だった。
『もしもし。ごめんね急に』
 スマホ越しに耳に流れる澄んだ声。どうという用件じゃないんだけど、とナバナちゃんはその声を続ける。
『明日行く雑貨屋のそばに新しくリサイクルショップが出来たんだって。そこ、ポケモントレーナー関係のグッズに力入れてるっぽくてさ。テンジくんが探してるものとかあるなら寄ってみようかって、アスミと話してたんだ』
「え」
『まあ、もしなんかあったらメッセンジャーで連絡ちょうだい。実物の写真付きでね。じゃないと多分あたし達分かんないし』
 それだけ一気に言うと、ナバナちゃんは弟とゲーム中だからと通話を切ってしまった。いつもながらの勢いに軽く呆然としていると、静けさを埋めるようにチルタリスが歌い出した。
 ……優しいよね、ナバナちゃんは。



 時間はどんどん過ぎてゆく。出さなきゃいけない答えが出せないままでも。
 二学期が終わり三学期が過ぎ、春休みが来て、三年生になった。さっそく学校では最初の進路希望調査があって、卒業してからどういう道に進みたいのかを調査票に書かなくてはならない。僕はいまだに答えを決めかねて、頭を抱えていた。中学を出たらポケモントレーナーとして生きていくのだと胸を張って言えるでもないし、かといって高校への進学を視野に入れてきっちりと勉強に身を入れるでもない。宙ぶらりんだった。もっとトレーナーとしての才能があるか勉強ができるか、そうだったらよかったのだけれど。
「俺? 俺はもう進学先も決めてるぜ。親父と同じ医者になるから!」
 カウンター当番の時にチドリくんに訊いてみると、間髪入れずそう返ってきた。僕もそんな風に迷いない声を出したい。

「テンジくん、ちょっといいかい」
 日曜日、ジムの休憩スペースで休んでいたらエビネさんがやって来た。頷くと奥の事務所へと促されて、僕はおずおずとソファに腰かけた。ここに座るのは初めてこのジムへ来たとき以来だ。最近片づけられていなくて、とエビネさんは言ったが、散らかりようはあの時とあまり変わっていない気もする。
「わざわざ時間をもらって、すまない」
 それは僕のほうだ。エビネさん、今年に入ってからますますあちこちに呼ばれて、ほとんどジムに顔を出せないくらい忙しいのに。よっぽどの要件なのだろうかと背筋が強ばる。
「あの。何か僕……やっちゃったとか」
 こわばった声で尋ねる僕に、エビネさんはふふ、と笑った。
「そうではないよ。ただ、君が何か悩んでるようだと聞いて気になったんだ」
「僕が……?」
「どうもトレーニング中も心ここにあらずの様子だって。ぼくが居なくてもちゃんとうちのスタッフが見ているからね」
「……すいません」
「謝ることじゃないよ。もしぼくらで力になれることがあればと思ってね。お節介かなあ」
 とんでもない。僕がポケモントレーナーの道を歩みたいと、これだけはっきり思うようになったのは他ならぬエビネさんのおかげだ。エビネさんが僕の思いを聞いてここへと導いてくれたからだ。だから、エビネさんに事情を話すのはすごく自然なことだ。そのはずだ。
 僕は話した。中学を出たらポケモントレーナーとして旅に出たいと考えていること。でも、高校へ進学したほうが親やみんなに歓迎されるんじゃないかと――自分の勝手を通していいものか悩んでいること。
 エビネさんは何も言わず、僕の声に耳を傾けてくれた。そうしてひと通り話が終わったのを聞き届けてから、ゆっくりと口を開いた。
「どちらが正解なのかは、分からない」
 穏やかに、語り掛けるように。
「だけどね。だからこそぼくは、君のしたいことを何より選んでほしいと思うよ。そのための協力は約束する」

 夕暮れ前、ジムを出た僕は軽く寄り道をしてから帰路についた。ポケモン用の“きずぐすり”が少なくなっていたので、商店街のお店へと買いに寄ったのだ。休日が終わりに近づいているせいか、道行く人達の動きは何となくせわしない。
『君のしたいことを何より選んでほしいと思うよ』
 僕は、エビネさんならああ言うと分かっていたように思う。
 前にジム常連の噂話好きのおばさんから聞かされた話があったのだ。僕がまだ小学生の頃あのジムはもっと小さくて、その時すごいポケモン勝負の才能を持った女の子が通っていたと。だけどその子はある時から勝負に勝てなくなって、ジムにも来なくなって――そのまま辞めてしまったと。
『ある日その子からトレーナーを辞めるってメッセージが来て、エビネさんはすぐ返事をしたけれどそれっきり音沙汰がなかったそうよ』
 そんな細かいことまでおばさんは知っていた。
 エビネさんは薄々勘付いていたらしい。この子は別に強いポケモントレーナーになりたいわけじゃないということを。けれどその子は周りの期待を背負ってやりたくもないことをやり続けて。エビネさん自身もその子の才能への期待を止められず、結局苦しい思いをさせたままで終わってしまった。今ジムで入会を希望する人に必ず「トレーナーとしてどうなりたいか」を訊いているのは、エビネさんのその子に対する深い後悔からきている、そういうことなのだそうだ。
 もちろんその女の子と僕とでは事情も状況も全然違う。でも、そんな経験をしたエビネさんなら僕の悩みにもきっとああいう答えを返してくると心の内で思っていたし、多分僕はそれを期待していた。すっかり迷いが晴れたわけではないけれど、とりあえず白紙だった進路希望の調査票には「ポケモントレーナー」と書けそうだ。
「テンジくん!」
 呼びかけられて振り向くと、ひと際すらっと背の高い女の子――ナバナちゃんだった。走ってきたのかちょっと息が弾んでいる。
「前を歩いてんの見えたからさ。ジム帰り?」
「うん、ついでの買い物帰り。ナバナちゃんは?」
「はは……お母さんが夕飯に使うモーモーミルクを買い忘れてさ。弟どもがごねるから、あたしがそのフォロー」
「弟二人も居ると大変そうだね」
「あいつらもう三年生と四年生なんだから自分で行けっての。けど、結局あたしが行っちゃうんだよねえ」
 からからと笑うナバナちゃんに、つられて僕も笑う。そんな僕をじっと見つめてナバナちゃんが言う。
「元気出てきたっぽいね」
 ……もしかして僕はここのところ、誰にでも伝わるほどの難しい顔をしていたのだろうか。不意に恥ずかしくなって顔をかいていると、ナバナちゃんはさらに言葉を続けた。
「悩んでたんでしょ。進路のことで」
「なんで分かったの……?」
「進路調査もあるし、タイミング的にね。ポケモントレーナーとしてすぐ旅に出たいって言ってたこともあったから」
 いくらなんでもここまで見透かされているのはナバナちゃんだからと信じたい。
「……まだ迷ってる。でも、卒業したら旅に出て、本格的にトレーナーの道に進もうかなって」
 僕の言葉にナバナちゃんは短く「そっか」と返して、わずかな間だけ目を逸らせた。
「相談は乗るから。で、ほんとに旅に出るつもりなら、アスミにはちゃんと話しなよ」
「? そりゃあ話すけど――」
 どうしてわざわざそんな念押しを? 首を傾げる僕に、ナバナちゃんは胸に手を当てて深くひと呼吸。そして言った。
「あの子さ。大事な気持ちほど内側に押し込めちゃうから。あんたにはめちゃめちゃ誤解させてると思うんだ」
 真っ直ぐ僕から視線を外さずに、いつもより少し低い声で紡がれる言葉。
「ただ――あの子ね。あたしにあんたのことを話す時、すごくお喋りになるんだよ。びっくりするくらい」
「……」
「だからどうしろとは言わない。でも、あんたならその意味は分かるはずだよ」
 夕暮れ前の商店街。道行く人達の喧騒が急にうるさく聞こえた。



 五月の連休最終日の朝、僕は川沿いの遊歩道をぶらぶらと歩いていた。
 特に学校が嫌なわけではないけれど明日からまた授業かと思うとどうも憂鬱で、チルタリスとナックラーを連れて出てきたのだ。青く実ったオレンの木が並ぶこの近辺は人もほとんど居ないので、二匹をボールから出して散歩する。のっそりのっそりとしたナックラーの歩むペースに合わせて、ゆるい風に吹かれながら。
(ん? あれは……)
 しばらく歩き続けていると、目の前によく知った姿を見つけた。緑色の髪の、小柄な女の子。祈るように手を組みながら、オレンの木を見上げている。僕はほんのちょっとだけ、引き返して帰りたい気持ちになった。
 女の子――アスミちゃんは近寄ってみてもこちらには気づかず、じっと木の上から目を離さない。視線の先を追ってみると幹のてっぺんに近いところ、葉っぱの陰からちょこんと桃色の姿が見えた。
「エネコだ」
 僕がそう呟くと、アスミちゃんはやっと振り返って――ヘイガニのように飛び退いて、落ちていた実で危うく転びそうだった。ちょっと驚きすぎだと思う。
「あのエネコ、降りられないの?」
 アスミちゃんは無言で頷く。人に育てられたエネコだったらしばしばそういうことがある。しかも見た感じ、あの子はすごく身体が小さくて痩せている。あまり丈夫な個体じゃないのかも。
 しかも、状況はそれだけじゃなかった。アスミちゃんが無言のまま天を指差す。仰ぎ見れば空高く、ちょうどこの木の上をぐるぐると旋回し続けるオオスバメ。それも多分、かなりでかい。
「まずい。あれはエネコを狙ってる」
「……助けてあげたいんだ」
 やっと口を開いたアスミちゃんの声は震えていた。
「でも、何もできないよ」
 僕は。ゆっくり息を吸って思いきり吐き出し、言った。
「大丈夫。任せて」
 僕は早速チルタリスに上空へと向かうよう指示を送る。木の上の、エネコのところまで。
 ただでさえ怯えているエネコは当然、いきなり目の前に現れたチルタリスを警戒して唸っている様子。このままだと逃げようとして木から落っこちてしまうかもしれない――そうなる前に。
「チルタリス、いつもの歌だ。エネコに」
 僕の呼びかけに反応して、チルタリスがハミングを始める。ゆるやかに沁み入るソプラノの歌声にエネコはぴくんとして、わずかにチルタリスのほうへと身を乗り出した。すかさず僕が指で円を描いて合図を送ると、チルタリスは歌ったままエネコに背中を向け、長い首で「乗れ」と促す。エネコはやはり躊躇して、でも恐る恐る前脚を伸ばして青い背にそっと触れた。そこからは意を決したようにチルタリスに身を預ける。
 僕が「よし」と思った――その瞬間。
 上空を旋回していたオオスバメが突如急降下、エネコを乗せたチルタリスへ一直線に襲い掛かった。チルタリスは間一髪空中で身をかわすものの、背中のエネコが危うく滑り落ちかけ慌てて平衡をキープする。オオスバメはそのまま低いところを飛び回りチルタリスに睨みを利かせている。やはりでかい。チルタリスに負けないくらい大きく見える。
「エネコを降ろさせないつもりか……」
 相手はチルタリスが地上へ降りようとするたび即座に嘴や爪で攻撃を加えてくる。背中のエネコを庇いながらのチルタリスは思うように応戦できず、どうにか突破を試みるものの不用意に高度を下げられない。地上にはナックラーがいるけれど、縦横無尽に飛び回るオオスバメに手出しできる有効な手段が思いつかない。
「チルタリス、無理せずエネコを守っていてくれ! ……くそ」
 辺りの風が強くなる。実戦経験が乏しいせいか、こんな時に考えれば考えるほど思考がぼやけてくる。何か使える“わざ”を、使える戦術を見出さなければいけないのに。折角ジムでいっぱい習ったのに……。
 その時だった。
「こっちだあー! こっちに来―――い!」
 後ろに居たアスミちゃんが躍り出て叫んだ。そして手にした青いオレンの実を、身体ごと放り出すようなフォームでオオスバメ目がけて投げつける。その一投は見当違いのほうへ飛んで川に落ちて行ったけれど、アスミちゃんはさらにもう一つオレンの実を拾って、また投げる。今度はきつめの放物線を描いてオオスバメの頭へ向かって飛んでゆき――オオスバメはそれを軽々と嘴でキャッチした。丸呑みするように平らげて、そうしてギロリと、鋭い眼光でアスミちゃんを捉えたまま地上へと降り立つ。
 風が止んで。オオスバメが大地を蹴り出した。アスミちゃんへと一閃、襲い来る。僕は――あれこれ迷っている場合じゃない!
「ナックラー、“どろかけ”!」
 咄嗟にナックラーに“わざ”の指示を出す。が、オオスバメはすぐに急上昇。上空高くへ逃れ、ナックラーの口から勢いよく放たれた泥を難なく回避。その勢いでナックラーへと向かって急降下してくる。だめだ、やられる! 思わずつむってしまった瞼の向こう側で何かが激しく輝き出した。眩さに目を開けたくても開けられない。そうしている間に少しずつ光が落ち着き、恐る恐る瞼を開いて……僕は見た。
 そこに居たのは細長い身体に薄い二対の翅、そしてぎょろりと大きな眼のポケモン。何度も図鑑で目にした姿――あれは、しんどうポケモン・ビブラーバ。ナックラーの進化系だ。
「進化した……!」
 激しい光に怯んでいたオオスバメが再びナックラー、いやビブラーバに迫り来る。ビブラーバはそれを両目で真っ直ぐ見据え、空中にて迎え撃つ。不意に僕の頭に、図鑑で目にしたある記述がはっと浮かんだ。
「アスミちゃん、耳塞いで!」
 僕らが両耳を塞ぐや否や、キィィィンと張り詰めた超高音が一面に響き渡るのがわかった。両手でがっちり聴こえないようにしていても脳を直接突き刺してくるような痛みを感じる――これがビブラーバ得意の攻撃、左右それぞれの翅をこすり合わせて放つ超音波攻撃だ。
 こんな音を間近で食らったオオスバメは堪ったものじゃない。空中でグラリと大きく姿勢を崩して落下。川へと落ちるすんでのところで何とか持ち直し、よろめきながら空の向こうへと飛び去って行った。

「ありがとうビブラーバ。進化、おめでとう」
 頑張ってくれたビブラーバを労ってボールへと戻す。すると超音波から避難していたらしいチルタリスが、訪れた静かな風に乗るようにして帰ってきた。
「チルタリスも。ありがとう」
 チルタリスは僕とアスミちゃんのすぐそばへ降り立つと、背中のエネコに「もう大丈夫」と告げるようにくちばしで優しくタッチ。エネコが小さく鳴き、そろそろとチルタリスの背を離れて――途端にアスミちゃんがへたりとその場に崩れ落ちた。
「大丈夫!?」
「うん……」
 目をまんまるにして放心状態のアスミちゃん。でも、
「ポケモンって、すごいね」
 ぽつり、そう言った。一生懸命の笑顔で。
「アスミちゃんもね」
 僕も笑って、そっと手を差し出す。アスミちゃんは一瞬縮こまって、でもゆっくりと握り返してくれた。ひんやりとした手の感触が伝わってくる。
 同時に僕は、自分の胸の内に灯る熱をじんわりと感じていた。



「好きだ」
 その一言を口にする。繰り返す。想いの丈を振り絞るように何度も、好きだ、好きだ、好きだ。
 振り絞った言葉に返事はなく、小じんまりとしたホテルのシングルルームの壁に反響するばかり。チルタリスとビブラーバとエネコ、三匹の不思議そうな視線だけがこちらに向けられていた。
「明日も早いから皆はそろそろボールに戻ろうね。でも一人じゃ余計緊張するよな……」
 要はこれは予行練習だ。通話で想いを伝えるためのウォーミングアップ……ただしやればやるほど頭が真っ白になるタイプの。分かってはいるものの、どうにもやめられない。
 それだけ大きなものなのだ。僕の――ナバナちゃんへの気持ちは。

 多分、僕はナバナちゃんのことがずっと好きで、ずっと諦めていた。小学校に入ってから誰とも馴染めずにいた僕に優しく手を差し伸べてくれたナバナちゃん。それからも僕のことを気にしてくれて、相談にも乗ってくれて……。だけどそれは皆にしていることだし、ナバナちゃんは人気者だから僕なんかとは到底釣り合うわけがない。そう自ら言い聞かせて、「好きだ」という気持ちが自分でも分からなくなるよう隠し続けていた。
 だけど一年前のあの日――忘れもしない、ナックラーがビブラーバに進化した日。オオスバメからエネコを守るために皆と頑張るなかで、僕は大きな勇気を貰った。諦めちゃいけない、自分の気持ちを誤魔化すのはやめよう、そう思ったのだ。冒険の旅を始めたい思いも、ナバナちゃんへの想いも。

「はあ……」
 だからこそ情けない。あれから一年も経って、卒業や旅立ちというきっかけだってあったのに、僕は未だにナバナちゃんに「好きだ」の一言を言えていない。
 今日、たまたまこの町のスクールへ指導に来ていたエビネさんと会った。カフェで色々と話をしているうちに、ほんの一、二年前のことを懐かしく感じ始めている自分に気づいて、まずいと思った。大事なはずの気持ちでさえ、じきに単なる思い出になってしまいかねない。だから今日のうちに通話でナバナちゃんにはっきりと、好きだと伝えようと決心したのだ。
(でも学校のテストが明日までらしいし、だったら明日にしたほうが……いやだめだ!)
 僕はぶんぶんと首を振って、テーブルに置いたスマホを掴んだ。だってこのままじゃ――。
『あの子ね。あたしにあんたのことを話す時、すごくお喋りになるんだよ』
 本当に、本当に以前ナバナちゃんが言った通りだとしたら。僕はあまりにも酷いやつだ。アスミちゃんの気持ちに応えることはできないってとっくに分かっているのに、それをこんなにも長い間はっきりさせていないのだから。
 自分の気持ちをはっきりさせればアスミちゃんを傷つける、結局僕はそれが怖いのだ。だから心のどこかでこのままずるずると先延ばしになればいいと思っている。自分の気持ちを誤魔化さないと決めたのに。そうやって引っ張れば引っ張るほど、大切な友達に苦しい思いをさせるのは明らかなのに……。
 ふと脳裏に、オレンの実を振りかざして叫ぶアスミちゃんの姿が浮かぶ。あの日アスミちゃんはエネコを助けたくても何もできないって震えていて。それでも何とかしようと必死に動いて叫んだ、めいっぱい叫んだ。いつも隅っこで背中を丸めて黙っているアスミちゃんがどれほどの勇気を振り絞ったか、僕にはとても想像できない。
「……ようし」
 ふっと強く息を吐き出した。スマホのメッセンジャーアプリを立ち上げ深呼吸をひとつ。心臓の早鐘が止む気配はない。
 自分もアスミちゃんのように「声」を上げられれば。ううん――上げなきゃいけないんだ。
 僕は君が好きだ、って。

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