崩壊石
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読了時間目安:15分
この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
がらがら、がらがら。今日も石垣の崩れる音がする。
常村和人という男は一言で語ると「普通」で終わるような、印象らしい印象のない男だった。何かの集まりで行っても名前を確認されるまで「あ、そこにいたんだ」となるほど影の薄い人間だった。
彼自身はそれを仕方のないことだと思い、特に何かを変えようとはしなかった。……否、変えることを諦めていた。
始めの頃こそ、彼は幼少期から付きまとうそれを何とかしようとした。髪を染める、話し方を変える、服装を変える……。見た目から中身まで誰かの印象に残るようにと、とにかく変えに変えてみた。
しかし彼がどれだけ努力を積み重ねても、返ってくるのはどれもこれも似たような言葉ばかり。
「髪を染めた? 言われるまで気付かなかった。でも、言われてもどこが違うのかわからないかな」
「話し方を変えた? そういえば、いつもと違う気がする。いつもの話し方が記憶にないから断言できないけど」
「服装を変えた? あ、そうなんだ。服なんて気にしてなかったから全然わからなかった」
それをどうにか覆したくて、一時は大切にしていた手持ちのポケモンにすら手を出そうとした。手を出す直前で親に見つかり思い留まったが、言われるまでポケモンの気持ちなんて何も考えていなかった。ある意味やけになっていたのかもしれない。
自分のしようとしていたことの大きさに気が付き、もう自分は彼らのトレーナーでいる資格はないと手持ちを全員逃がした。離れたくない。もっと一緒にいたい。泣き叫ぶ彼らの顔が、声が。今も目の、耳の奥に染み付いて離れない。
逃がすのではなく、誰かに預かって貰えばよかった。譲ればよかった。逃がす前、誰かに相談すれば――。何度も遅い後悔が常村を襲った。
度重なる後悔と焦燥感が常村にのしかかり、その重さに比例するかのように行動が不安定になっていく。彼の親は懸命に支えてきたが、ある時遂に耐え切れなくなり家から出て行ってしまった。そこから、彼の生活はゴローンが崖から転がり落ちるように悪化していく。
これ以上努力をしたとしても、自分に対する印象は変わりようがない。落ちるところまで落ち、そう悟った常村は遂に変えることを諦めた。印象を変えるために失ったものは数多く、残ったのは誰にもすくえないほどの深みまで落ちていった自分のみ。
独り虚しい日々を過ごしていた常村に、ある日突然転機が訪れる。あれはどこからともなく現れては納品予定のモンスターボールに紛れ込むビリリダマ、マルマインを外に追い出すバイトをしている時のことだった。
何だ、その変なバイトは。そう思った者は少なくないだろう。他ならぬ常村も、それを見た時真っ先に思った。確かにモンスターボールと間違えてビリリダマやマルマインに触れてしまうトレーナーはいるにはいるが。
あの大きさで何をどう間違えばモンスターボールではなくビリリダマ、マルマインを納品してしまうのか。バイト仲間では永遠の謎になっており、誰かが口に出さない限り恐らく謎が解かれることはないのだろう。
そんな謎の大きなバイトだが、自爆の代名詞ともいえるビリリダマやマルマインを相手にするだけあって貰えるものはなかなかなものだった。落ちるに落ちていた常村が飛びついたのも無理はないだろう。
その日、常村は疲れから一匹のビリリダマの扱いを間違えてしまい、そのまま自爆させてしまった。技に巻き込まれ外に放り出された常村の先にあったのは、近くの森にある大きな木の幹。
受け身を取ることすらできないまま、彼は轟音と共に幹に頭を強打した。全身にかかる衝撃は強く、彼はそのまま気を失ってしまった。
自爆対策として相応の恰好をしていたとはいえ、打った場所が場所だ。彼はすぐに病院へと運ばれた。しばらくの間意識を失っていた常村だったが、数時間足らずで無事に目を覚ました。
周囲に見舞いの客は一人もおらず、部屋には他の患者の欠伸だけが響いていた。わかってはいたが、改めてそれを突き付けられるのは少し辛い。常村は目覚めてすぐまた眠りたい衝動に襲われた。
が、その気持ちはふと他の患者の姿を見た途端霧散することになる。
(な、何だアレは!?)
石垣。どこからどう見てもそうとしか言いようのない物体が、患者の頭に浮かんでいた。気のせいでなければ足があって動いている。石なのに。石垣なのに。ゆらゆら動く石垣。生きている石垣。
そんなワードが常村の頭を支配し、石垣と共にぐるぐると踊り始める。背景には美しい宇宙が広がっていた。
どこからか大きく口を開いたブニャットが出てきたところで、ふっと常村の意識は現実に引き戻された。できればもう少し意識を宇宙に漂わせていたかったが、漂わせ続けても目の前の光景が変わるわけではない。
脳裏をよぎる宇宙を振り払うように、常村は石垣の観察を始めた。石垣だ。何度見たところで視界に映るそれが石垣である事実に変わりはない。頭を打った衝撃で脳がおかしくなってしまったのか。今度は別の原因で入院するはめになるのか。
心の中で頭を抱えて唸っていると、ふと石垣と目が合った。
もう一度言おう。石垣と、目が合った。
(は? ……は!?)
無機物のはずの石垣としっかりばっちり視線が合う。緊急以外の何物でもない事態に、思わず立ち上がりかける常村。急な行動で頭がふらつき立ち上がることはなかったが、心の中では全常村が立ち上がり大混乱を起こしていた。
目覚めた直後とは別の理由で再び眠りたい衝動に襲われ、事実数秒間から数十秒間意識が遠のいていた。
叫び声をあげて走り回る常村。立ったまま気絶する常村。心の隅から布団を引っ張り出し、現実からの逃亡を試みる常村。様々な心の常村を現実の彼は一人一人静めていき、ついでに現実の自分も静める。パニック状態ではわかるものもわからなくなる。
念のため目が妄想ではないことを確認してから、常村は目の観察を始めた。よく見ると足の石の裏側にも目があり、一つ一つがあちこちに視線を動かしている。構造上見ることは叶わないが、恐らく石垣の内側も同じような状態になっているのだろう。
どうやら石垣全体で一つの生命体なのではなく、石一つ一つが個々の生命体になっているようだ。それがどうしたと言われればそれまでの発見だが、大きな発見であることは確かだった。
しかし患者の様子から考えても、恐らく彼以外の人間に石垣は見えない。ポケモンにも見えない可能性がある。発見した事実を誰にも共有できないもどかしさに心を震わせていると、石の一つががらりと落ち姿を消した。
(え?)
一体どうしたと見つめている間にも、石は一つ一つがらがらと崩れて消えていく。実体はなさそうだが頭に石が当たって平気なのかと相手の顔に視線を送ると、思いっきりおかしなものを見るような目を向けられた。
相手側からしてみると、自分はじっと自分の頭上を見ていたかと思いきや突然こっちの顔を見てきた男だ。それはおかしいと思うだろう。もしも常村が相手側でもきっと同じような反応をする。
怪しいと誰かを呼ばれないだけマシだと思うことにして、彼はそっと相手から目を逸らした。部屋の温度が一気に数度下がり、視線が容赦なく突き刺さるのがわかった。常村はすぐにでも退院の準備をしたくなった。
涙目で窓の外へ意識を飛ばす間も、石垣の崩れる音はずっと彼の耳に届き続けていた。
*****
奇妙な石垣が見えるようになってから、数日経った頃。常村が初めて石垣を確認した患者が病院からいなくなった。失踪したのでも、退院したのでもない。屋上から飛び降りてしまったのだ。
突然の出来事に常村も驚いたが、皆と同じようには驚いていなかった。あの患者が飛び降りたのは、奇妙な石垣が一つ残らず消えた翌日だった。石垣と飛び降りには何かしらの関係がある。そう思えてならなかった。
これは後で知ったことだが、あの中では常村一人だけが皆と違う態度だったらしい。そのためにあらぬ疑いをかけられてしまったが、この出来事に対して痛い腹は何もない。怪我もなかったのですぐに退院できたものの、疑いが晴れるまであちこち出向くことになった。
落ちるに落ちていた時期のあれこれのせいで、疑いが晴れるまでにそれなりの時間がかかった。いっそのこと病室にカメラを設置しておいてくれれば、と思考がおかしなところに飛びかけた頃、やっと疑いが晴れたのだ。
これで爽やかな気分でバイト先に行ける。そう思っていたが病院から噂が漏れ出たのか、顔を出すと同時にクビを言い渡された。仕事がなくなったのは痛かったが、既に彼の中には新たな仕事の候補が浮かんでいた。
知識が足りないせいで、まだ具体的な候補名は浮かんでこないのはアレだったが。やりたいものを一言で表すなら「人助け」だった。
退院までの間、常村は目に映る石垣の正体を見極めようとしていた。誰も見舞いに来ず、同室の患者にも避けられている環境ではそれくらいしかすることがなかったのだ。とはいえ、やっていたのはほぼ石垣の観察に留まっていたが。
石垣は誰の上にも存在しており、無事なものや崩れ始めているもの、ほとんどなくなりかけているものなどバリエーションは人によって違った。無事な石垣と崩れている石垣の違いは何なのか。
他の誰にも見えないため尋ねることも叶わず、ずっとわからないままだった。あの日、あの出来事が起こるまでは。
石が完全に消えてしまった人が、あんな行動を起こした。つまり、頭上の石垣は人の心そのものなのだ。あの後石垣が崩れ始めている人へちょっとした質問を重ねたことで、常村はそれを確信した。
さすがに何が原因でそうなっているかは石垣で判断できないが、心がどうなっているかは判断できる。せっかく見えるようになったのだから、それを存分に利用してやろうと思ったのだ。
印象らしい印象の残らない「普通」の自分なら、余計な警戒心を抱かせずに相手の悩みを聞くことができる。そんな自信さえ芽生えようとしていた。
考えた仕事を形にするには色々と問題があり実現には時間がかかったものの、運も手伝って遂に常村の新たな「いつも」が始まった。町で石垣に異変がある人を見かけたら自然に接触し、悩みを聞いて解決する。簡単に見えてこれがかなり難しい。
人の悩みは聞いて貰うだけで軽くなるものもあれば、吐き出しても吐き出しても軽くならないものもある。悩み解決のスペシャリストではない常村は、後者に対してただ聞くことしかできなかった。
否、どの悩みに対しても聞くことしかしてこなかった。何故なら、彼は石垣が、心が見えるだけで解決する力はなかったのだから。見えても心に干渉する能力を、彼は持っていなかったのだから。
その事実に彼は薄々気付いていた。気付いていたが、やめることができなかった。これまでとは違い、デメリットに感じていたことがメリットになる楽しさ。充実感。麻薬のように脳に染み渡るそれらを手放すに手放せず、ずるずると続けてしまった。
だから、こうなってしまったのだろう。
「仕事と言っていちいち赤の他人の事情を聞くだけ聞いて何もしないの、やめてくれない? 正直、うざいんだけど」
いつもと同じ日常の、いつもと同じ時間帯。いつものように悩みを聞こうとしていた人から、いつもとは違う言葉を投げかけられた。その時から、常村にとっての「いつも」は終わりを告げた。
何十もある「日常」の中で起こった、一回だけの「非日常」。それだけの反応で彼は関わるのをやめた。臆病者と言われるかもしれない。半端者となじられるかもしれない。むしろ言われた方がスッキリしただろう。
言葉にされて初めて常村は悩みを聞いてきた人全員、その人と似た思いを抱いていたことに気が付いた。口の調子はいつもと同じだが、相手の目が、空気が「役立たず」「中途半端」「ぼったくり屋」と彼に語りかけている。
思い出せば出すほど鮮明になる声なき声に、常村は叫びたくなった。酔っていた。いい気になっていた。他の人とは違う力を持っているからといって、自分は何でもできる存在だと思い込んでいた。
忘れかけていた現実を思い出し、彼は仕事をやめバイト先を転々とする日々に逆戻りしていた。どのバイト先でも相変わらず石垣は見えたが、今までと違って常村はそれがどんな状態だとしても見ているだけだった。
もう二度と、あんな思いをしたくない。声なき声を浴びたくない。言葉にならない声は誰にも届くことなく、現実は冷たく彼に牙をむく。
バイトを始めて、知らない間にクビになって。それを繰り返しているうちに「人助け」をやっていた時期の噂が定着したらしい。気が付いたら常村は「普通」で終わるような、印象らしい印象のない男ではなくなっていた。
「パッと見は普通だけど、その本性は人の不幸を喜ぶクズ」
「見た目に騙されると辛い過去を言えるだけ言わされる」
「聞くだけ聞いて何もしようとしない、ただの偽善者」
それが今の彼、常村和人に対する印象だ。変えようとした頃と比べると随分と強い印象を残すようにはなった。が、得られたのはそれだけだ。
見る人会う人全員にこんな印象を抱かれるくらいなら、「普通」と言われていた時の方が何倍も、何十倍もマシだった。今の彼は心の底からそう思っている。
しかし、常村をこの状態に追いやったのは他でもない常村自身だ。誰にどんな文句を言ったとしても、傷を受けるのは彼しかいない。戻れるのなら、今すぐにでもあの頃に戻りたい。最近はずっとそんなことを考えながら仕事をしている。
がらがら、がらがら。今日もどこかで石垣の崩れる音が聞こえる。周りには誰もいないはずなのに、音は確かに彼の耳に入り続ける。一体誰の石垣が崩れているのか。常村には大きな心当たりがあった。
しかし、決してそれを受け止めようとはしなかった。他の人の石垣は見えても、自分の石垣はどう頑張っても見えないからだ。見えないものに意識を割いても時間と心をすり減らすだけ。そう思うことでしか、常村は前に進めなかった。
がらがら、がらがら。
どこからか落ちてきた石と、目が合った。
「崩壊心」 終わり
彼自身はそれを仕方のないことだと思い、特に何かを変えようとはしなかった。……否、変えることを諦めていた。
始めの頃こそ、彼は幼少期から付きまとうそれを何とかしようとした。髪を染める、話し方を変える、服装を変える……。見た目から中身まで誰かの印象に残るようにと、とにかく変えに変えてみた。
しかし彼がどれだけ努力を積み重ねても、返ってくるのはどれもこれも似たような言葉ばかり。
「髪を染めた? 言われるまで気付かなかった。でも、言われてもどこが違うのかわからないかな」
「話し方を変えた? そういえば、いつもと違う気がする。いつもの話し方が記憶にないから断言できないけど」
「服装を変えた? あ、そうなんだ。服なんて気にしてなかったから全然わからなかった」
それをどうにか覆したくて、一時は大切にしていた手持ちのポケモンにすら手を出そうとした。手を出す直前で親に見つかり思い留まったが、言われるまでポケモンの気持ちなんて何も考えていなかった。ある意味やけになっていたのかもしれない。
自分のしようとしていたことの大きさに気が付き、もう自分は彼らのトレーナーでいる資格はないと手持ちを全員逃がした。離れたくない。もっと一緒にいたい。泣き叫ぶ彼らの顔が、声が。今も目の、耳の奥に染み付いて離れない。
逃がすのではなく、誰かに預かって貰えばよかった。譲ればよかった。逃がす前、誰かに相談すれば――。何度も遅い後悔が常村を襲った。
度重なる後悔と焦燥感が常村にのしかかり、その重さに比例するかのように行動が不安定になっていく。彼の親は懸命に支えてきたが、ある時遂に耐え切れなくなり家から出て行ってしまった。そこから、彼の生活はゴローンが崖から転がり落ちるように悪化していく。
これ以上努力をしたとしても、自分に対する印象は変わりようがない。落ちるところまで落ち、そう悟った常村は遂に変えることを諦めた。印象を変えるために失ったものは数多く、残ったのは誰にもすくえないほどの深みまで落ちていった自分のみ。
独り虚しい日々を過ごしていた常村に、ある日突然転機が訪れる。あれはどこからともなく現れては納品予定のモンスターボールに紛れ込むビリリダマ、マルマインを外に追い出すバイトをしている時のことだった。
何だ、その変なバイトは。そう思った者は少なくないだろう。他ならぬ常村も、それを見た時真っ先に思った。確かにモンスターボールと間違えてビリリダマやマルマインに触れてしまうトレーナーはいるにはいるが。
あの大きさで何をどう間違えばモンスターボールではなくビリリダマ、マルマインを納品してしまうのか。バイト仲間では永遠の謎になっており、誰かが口に出さない限り恐らく謎が解かれることはないのだろう。
そんな謎の大きなバイトだが、自爆の代名詞ともいえるビリリダマやマルマインを相手にするだけあって貰えるものはなかなかなものだった。落ちるに落ちていた常村が飛びついたのも無理はないだろう。
その日、常村は疲れから一匹のビリリダマの扱いを間違えてしまい、そのまま自爆させてしまった。技に巻き込まれ外に放り出された常村の先にあったのは、近くの森にある大きな木の幹。
受け身を取ることすらできないまま、彼は轟音と共に幹に頭を強打した。全身にかかる衝撃は強く、彼はそのまま気を失ってしまった。
自爆対策として相応の恰好をしていたとはいえ、打った場所が場所だ。彼はすぐに病院へと運ばれた。しばらくの間意識を失っていた常村だったが、数時間足らずで無事に目を覚ました。
周囲に見舞いの客は一人もおらず、部屋には他の患者の欠伸だけが響いていた。わかってはいたが、改めてそれを突き付けられるのは少し辛い。常村は目覚めてすぐまた眠りたい衝動に襲われた。
が、その気持ちはふと他の患者の姿を見た途端霧散することになる。
(な、何だアレは!?)
石垣。どこからどう見てもそうとしか言いようのない物体が、患者の頭に浮かんでいた。気のせいでなければ足があって動いている。石なのに。石垣なのに。ゆらゆら動く石垣。生きている石垣。
そんなワードが常村の頭を支配し、石垣と共にぐるぐると踊り始める。背景には美しい宇宙が広がっていた。
どこからか大きく口を開いたブニャットが出てきたところで、ふっと常村の意識は現実に引き戻された。できればもう少し意識を宇宙に漂わせていたかったが、漂わせ続けても目の前の光景が変わるわけではない。
脳裏をよぎる宇宙を振り払うように、常村は石垣の観察を始めた。石垣だ。何度見たところで視界に映るそれが石垣である事実に変わりはない。頭を打った衝撃で脳がおかしくなってしまったのか。今度は別の原因で入院するはめになるのか。
心の中で頭を抱えて唸っていると、ふと石垣と目が合った。
もう一度言おう。石垣と、目が合った。
(は? ……は!?)
無機物のはずの石垣としっかりばっちり視線が合う。緊急以外の何物でもない事態に、思わず立ち上がりかける常村。急な行動で頭がふらつき立ち上がることはなかったが、心の中では全常村が立ち上がり大混乱を起こしていた。
目覚めた直後とは別の理由で再び眠りたい衝動に襲われ、事実数秒間から数十秒間意識が遠のいていた。
叫び声をあげて走り回る常村。立ったまま気絶する常村。心の隅から布団を引っ張り出し、現実からの逃亡を試みる常村。様々な心の常村を現実の彼は一人一人静めていき、ついでに現実の自分も静める。パニック状態ではわかるものもわからなくなる。
念のため目が妄想ではないことを確認してから、常村は目の観察を始めた。よく見ると足の石の裏側にも目があり、一つ一つがあちこちに視線を動かしている。構造上見ることは叶わないが、恐らく石垣の内側も同じような状態になっているのだろう。
どうやら石垣全体で一つの生命体なのではなく、石一つ一つが個々の生命体になっているようだ。それがどうしたと言われればそれまでの発見だが、大きな発見であることは確かだった。
しかし患者の様子から考えても、恐らく彼以外の人間に石垣は見えない。ポケモンにも見えない可能性がある。発見した事実を誰にも共有できないもどかしさに心を震わせていると、石の一つががらりと落ち姿を消した。
(え?)
一体どうしたと見つめている間にも、石は一つ一つがらがらと崩れて消えていく。実体はなさそうだが頭に石が当たって平気なのかと相手の顔に視線を送ると、思いっきりおかしなものを見るような目を向けられた。
相手側からしてみると、自分はじっと自分の頭上を見ていたかと思いきや突然こっちの顔を見てきた男だ。それはおかしいと思うだろう。もしも常村が相手側でもきっと同じような反応をする。
怪しいと誰かを呼ばれないだけマシだと思うことにして、彼はそっと相手から目を逸らした。部屋の温度が一気に数度下がり、視線が容赦なく突き刺さるのがわかった。常村はすぐにでも退院の準備をしたくなった。
涙目で窓の外へ意識を飛ばす間も、石垣の崩れる音はずっと彼の耳に届き続けていた。
*****
奇妙な石垣が見えるようになってから、数日経った頃。常村が初めて石垣を確認した患者が病院からいなくなった。失踪したのでも、退院したのでもない。屋上から飛び降りてしまったのだ。
突然の出来事に常村も驚いたが、皆と同じようには驚いていなかった。あの患者が飛び降りたのは、奇妙な石垣が一つ残らず消えた翌日だった。石垣と飛び降りには何かしらの関係がある。そう思えてならなかった。
これは後で知ったことだが、あの中では常村一人だけが皆と違う態度だったらしい。そのためにあらぬ疑いをかけられてしまったが、この出来事に対して痛い腹は何もない。怪我もなかったのですぐに退院できたものの、疑いが晴れるまであちこち出向くことになった。
落ちるに落ちていた時期のあれこれのせいで、疑いが晴れるまでにそれなりの時間がかかった。いっそのこと病室にカメラを設置しておいてくれれば、と思考がおかしなところに飛びかけた頃、やっと疑いが晴れたのだ。
これで爽やかな気分でバイト先に行ける。そう思っていたが病院から噂が漏れ出たのか、顔を出すと同時にクビを言い渡された。仕事がなくなったのは痛かったが、既に彼の中には新たな仕事の候補が浮かんでいた。
知識が足りないせいで、まだ具体的な候補名は浮かんでこないのはアレだったが。やりたいものを一言で表すなら「人助け」だった。
退院までの間、常村は目に映る石垣の正体を見極めようとしていた。誰も見舞いに来ず、同室の患者にも避けられている環境ではそれくらいしかすることがなかったのだ。とはいえ、やっていたのはほぼ石垣の観察に留まっていたが。
石垣は誰の上にも存在しており、無事なものや崩れ始めているもの、ほとんどなくなりかけているものなどバリエーションは人によって違った。無事な石垣と崩れている石垣の違いは何なのか。
他の誰にも見えないため尋ねることも叶わず、ずっとわからないままだった。あの日、あの出来事が起こるまでは。
石が完全に消えてしまった人が、あんな行動を起こした。つまり、頭上の石垣は人の心そのものなのだ。あの後石垣が崩れ始めている人へちょっとした質問を重ねたことで、常村はそれを確信した。
さすがに何が原因でそうなっているかは石垣で判断できないが、心がどうなっているかは判断できる。せっかく見えるようになったのだから、それを存分に利用してやろうと思ったのだ。
印象らしい印象の残らない「普通」の自分なら、余計な警戒心を抱かせずに相手の悩みを聞くことができる。そんな自信さえ芽生えようとしていた。
考えた仕事を形にするには色々と問題があり実現には時間がかかったものの、運も手伝って遂に常村の新たな「いつも」が始まった。町で石垣に異変がある人を見かけたら自然に接触し、悩みを聞いて解決する。簡単に見えてこれがかなり難しい。
人の悩みは聞いて貰うだけで軽くなるものもあれば、吐き出しても吐き出しても軽くならないものもある。悩み解決のスペシャリストではない常村は、後者に対してただ聞くことしかできなかった。
否、どの悩みに対しても聞くことしかしてこなかった。何故なら、彼は石垣が、心が見えるだけで解決する力はなかったのだから。見えても心に干渉する能力を、彼は持っていなかったのだから。
その事実に彼は薄々気付いていた。気付いていたが、やめることができなかった。これまでとは違い、デメリットに感じていたことがメリットになる楽しさ。充実感。麻薬のように脳に染み渡るそれらを手放すに手放せず、ずるずると続けてしまった。
だから、こうなってしまったのだろう。
「仕事と言っていちいち赤の他人の事情を聞くだけ聞いて何もしないの、やめてくれない? 正直、うざいんだけど」
いつもと同じ日常の、いつもと同じ時間帯。いつものように悩みを聞こうとしていた人から、いつもとは違う言葉を投げかけられた。その時から、常村にとっての「いつも」は終わりを告げた。
何十もある「日常」の中で起こった、一回だけの「非日常」。それだけの反応で彼は関わるのをやめた。臆病者と言われるかもしれない。半端者となじられるかもしれない。むしろ言われた方がスッキリしただろう。
言葉にされて初めて常村は悩みを聞いてきた人全員、その人と似た思いを抱いていたことに気が付いた。口の調子はいつもと同じだが、相手の目が、空気が「役立たず」「中途半端」「ぼったくり屋」と彼に語りかけている。
思い出せば出すほど鮮明になる声なき声に、常村は叫びたくなった。酔っていた。いい気になっていた。他の人とは違う力を持っているからといって、自分は何でもできる存在だと思い込んでいた。
忘れかけていた現実を思い出し、彼は仕事をやめバイト先を転々とする日々に逆戻りしていた。どのバイト先でも相変わらず石垣は見えたが、今までと違って常村はそれがどんな状態だとしても見ているだけだった。
もう二度と、あんな思いをしたくない。声なき声を浴びたくない。言葉にならない声は誰にも届くことなく、現実は冷たく彼に牙をむく。
バイトを始めて、知らない間にクビになって。それを繰り返しているうちに「人助け」をやっていた時期の噂が定着したらしい。気が付いたら常村は「普通」で終わるような、印象らしい印象のない男ではなくなっていた。
「パッと見は普通だけど、その本性は人の不幸を喜ぶクズ」
「見た目に騙されると辛い過去を言えるだけ言わされる」
「聞くだけ聞いて何もしようとしない、ただの偽善者」
それが今の彼、常村和人に対する印象だ。変えようとした頃と比べると随分と強い印象を残すようにはなった。が、得られたのはそれだけだ。
見る人会う人全員にこんな印象を抱かれるくらいなら、「普通」と言われていた時の方が何倍も、何十倍もマシだった。今の彼は心の底からそう思っている。
しかし、常村をこの状態に追いやったのは他でもない常村自身だ。誰にどんな文句を言ったとしても、傷を受けるのは彼しかいない。戻れるのなら、今すぐにでもあの頃に戻りたい。最近はずっとそんなことを考えながら仕事をしている。
がらがら、がらがら。今日もどこかで石垣の崩れる音が聞こえる。周りには誰もいないはずなのに、音は確かに彼の耳に入り続ける。一体誰の石垣が崩れているのか。常村には大きな心当たりがあった。
しかし、決してそれを受け止めようとはしなかった。他の人の石垣は見えても、自分の石垣はどう頑張っても見えないからだ。見えないものに意識を割いても時間と心をすり減らすだけ。そう思うことでしか、常村は前に進めなかった。
がらがら、がらがら。
どこからか落ちてきた石と、目が合った。
「崩壊心」 終わり