『URAMI』(旧題:「主人公さん」)

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作者:夏十字
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読了時間目安:24分
 まだわたしの髪が肩よりも短くて燃えるような赤色をしていて、ほのおタイプのポケモンなんて連れていた頃。
「将来はこの子もホウエンリーグをしょって立つようになる」
 昔ポケモンリーグで四天王を務めていた、この町出身のトレーナーと重ね合わせて、周りからそんな風に言われたりしていた。
 わたしはあんまりそういうのに興味はなかったけれど、ママはとても嬉しそうだった。
「さすがね、主人公さん」
 主人公さん。ママがわたしを褒めるときの口癖だった。わたしが人から褒められるとママがそうやって褒めてくれる。だからわたしも人から褒められるのは嬉しかった。
 それでいいと思っていた。



 初めてポケモン勝負をしたのは小学三年生の冬。お正月が終わって、明日から三学期が始まるという日のこと。
 お昼ご飯のあと近所を歩いていると、すぐそばで言い合うような、大きな声が聞こえた。びっくりして声のしたほう――人気のない建物の裏手をそっと覗いてみたら、男の人達がポケモンを戦わせていた。というより、おじさん二人がかりでお兄さん一人を痛めつけていた。
 ポケモン勝負の中継はママに誘われてテレビやネットでたびたび見ていたから、お兄さんのスバメが毒を受けているのはすぐ分かった。相手のおじさん二人のうち一方の手持ちはドクケイルで、もう一方は確かズバット。ドクケイルが“まもる”の技を使って時間を稼いで、スバメにじわじわと毒が回って倒れるのを待っている様子だった。勝負の場では別に珍しくもない戦法なのだけれど、その時のわたしの目にはとても嫌な光景に映った。なおかつ、その時のわたしはとても愚かで真っ直ぐな少女だった。
 とっさに場へと躍り出て、先月の誕生日にママからもらったばかりのアチャモを乱入させて“フェイント”で暴れまくったり“ひのこ”を飛ばしたりした。そうこうしているうちにお兄さんのスバメがドクケイルをやっつけて、相手は二人とも逃げ去って行った。
「君、ポケモン勝負の大会に出てみないか」
 アチャモに怪我がなくてほっとしていると、スバメの応急処置をしながらお兄さんが唐突に言ってきた。
「ここ、僕のやってるジムなんだ。うちに入ってくれないか」

 当時そのジムの建物は、小さくてあちこちぼろぼろだった。以前は人間のためのフィットネスジムがあって、その居抜きを使ったとかそんな感じだったと思う。通っている人も片手で数えられるくらいで、まだポケモン協会準公認という扱いだった。どうにか協会の公式大会で結果を残して公認の資格を得れば、今よりも協会からの支援を受けられて施設を大きくすることができる。そうお兄さん――エビネさんが繰り返し言っていたのを記憶している。
 エビネさんはジムを経営する立場として、大会で勝っていけるポケモントレーナーを探してあちこち声を掛けて回っていた。それが鬱陶しいと地元の公認ジムの人達に目をつけられて「話し合い」をしていたところに、無謀なわたしが出くわしたという流れだった。
「ここで練習して強くなって上を目指そう。君ならやれるよ」
 わたしはポケモンを連れ始めたばかりだったし、正直言ってあんまりポケモン勝負をすることに興味はなかった。だけどエビネさんの誘いは熱心で、興味がないとも言えず困っていたら、それを見ていた常連のお姉さんがエビネさんを嗜めてくれて、とりあえずうちへ帰って考えることになった。
「素敵ね、ぜひそうなさいな」
 夕方、庭でお花の世話をしていたママに事情を話すと、そう言ってにっこりと笑った。
 ならばわたしはポケモントレーナーになろう。あっけなく話は決まった。



 平日に学校から帰って週二回と、日曜日。エビネさんのジムに通う日々が始まった。
「トレーナーとして実践するのはさっぱりだけど、教えるのは得意なんだ」
 本人が繰り返し言うその通りエビネさんの指導は分かりやすく、ポケモンにあまり無理をさせないスタイルで、わたしの小さな疑問にも分からないことはよく調べた上できちんと答えてくれた。
 持ち帰りで課題を出されることもあって、好きに使える時間はだいぶ少なくなった。それでもわたしは全然構わなかった。
「おかえりなさい。今日も頑張ってきた?」
 ジムから帰ればママが上機嫌で出迎えてくれたから。
 いつもニコニコしながらも、ふとした時に淋しそうな顔を見せていたママ。でもわたしがジムに通い始めてからは毎日すごく嬉しそうになって、わたしにはそれが大切なことだった。ジム通いでママをひとりにする時間が増えてしまったのは気懸かりだったけれど。
 
 後から聞かされた話、ママはわたしが生まれた時から「この子をポケモントレーナーにしたい」と考えていて、わたしが十歳になったら設備の整った公認ジムのほうに入れようとしていたらしい。
 にもかかわらず、よくよく知らない小さくて公認ではないジムのほうに入会する流れをママが認めたのは、わたしがエビネさんに出会った、その流れを気に入ったから。
「物語の主人公みたいで素敵だったもの。やはりあなたはママと違って主人公なんだって、そう思ったの」
 ママにはポケモントレーナーとして頑張って挫折したつらい過去があった。
 わたしはママのため、頑張って頑張って、強くならなきゃいけないと思った。



 四年生の夏休み、初めて出た大会でいきなり優勝した。
 地元で開催された小規模の大会だったとはいえ、れっきとしたリーグ公式大会。決勝で互いにラスト一匹、わたしのワカシャモはほとんどの力を使い果たしていた。それでも「もう駄目だ」と思いながらも放たせた小さな“ひのこ”が相手のハリテヤマに火傷を負わせ、それが明暗を分けた。
「輝いているわ、主人公さん」
 優勝のトロフィーよりも誰からの賛辞よりも、そう言ってママが頭を撫でてくれたことでわたしは満たされた。

 十月にあった同じような大会では準優勝だった。決勝でわずかに力及ばず敗けてしまって、控え室でずっと泣いた。悔しかったんじゃない。わたしが敗けたことでママを悲しませてしまうと思ったら、すごく怖くなったのだ。
 だけど、そんなわたしにママはニコリとして、
「あと一歩。今度は頑張りましょう」
 と、健闘を称えてくれた。この日以来、ジムの中でも外でも前回の優勝がまぐれだと言う声は聞こえてこなくなった。

 二回の大会を経験して迎えたクリスマスイヴ。この日はわたしの誕生日だ。
 イヴの夜にケーキを食べてお祝いして、ママから誕生日プレゼントを貰う。リビングにはママが趣味のガーデニングで育てたお花と、ちかちか光るクリスマスツリーが飾られていて――ベッドに入ってもその様子がまぶたから離れずなかなか寝つけなくて、それでもいつの間にやら眠って迎えた次の朝、今度は枕元にサンタさんからのプレゼントが届いている。それが毎年のお約束だった。
 この年の誕生日プレゼントは最新のポケモン図鑑。クリスマスプレゼントはシールで可愛くデコレーションされたモンスターボールの詰め合わせ。今にして思えば、なんてあからさまな組み合わせだろうか。でも当時のわたしは無邪気に「サンタさんもわたしとママを応援してくれているんだ!」と有頂天になっていた。
 有頂天になった勢いで、年末あった大会は危なげなく優勝を果たした。ママがわたしの頭を何度も撫でてくれて、わたしはきっと本当に主人公なのだと思うようになった。
 
 
 
 結果を残したため、そしてその先も結果を残していくため、わたしはポケモントレーナーであるわたしに更なる時間を費やすこととなった。身体を張って戦うポケモン達の訓練のペースを無理に上げることはできなくても、トレーナーが覚えるべきことは山ほどあって、日々更新されてゆく。年が明けてからはジムに居る時間も増えたし、ジムの外での時間の多くもポケモントレーナーとして過ごすようになっていた。
 ――ママのため、頑張らなきゃ。
 ふと苦しくなる時も、そう思いさえすれば頑張れた。この頃にはもう、ジムに通っている誰もわたしに敵わなくなっていた。

 その後も順調に公式、非公式の大会や練習試合で勝ち続け、わたしは若き期待の星として町のローカル番組や広報誌で取り上げられた。学校でもちょっとした有名人のように扱われ、クラスメイト達に群がられた。元々あまり上手にはクラスに馴染めていなかったわたしは急激な変化に戸惑ったけれど、ヒーローのように扱われて悪い気はしなかった。
 五年生に上がってすぐ、エビネさんのジムがポケモン協会公認ジムへと昇格した。会員数や実績自体はまだ資格としては不十分だったものの、若いトレーナーが着実に育って良い結果を残している将来性が認められたのと、既に公認を受けていたもう一つのジムが突然閉鎖してしまったという事情もあって、特例で決まったという話だった。
 外見からして立派だったもう一つのジムが閉鎖した理由については、どうやらなにか良からぬ人達との暗い繋がりがあったとかそんな噂も聞いたけれど、今でも詳しくは知らない。とにかく、悲願だった認定を遂に受けられて、電話で一報を受けたエビネさんはまず騙されているんじゃないかと疑って、それから泣いて喜んでいた。
「君のお陰だ。まさに救世主だ」
 主人公だもの、と心の中で返事をしたあの時のわたしは、とんでもなく天狗になっていたと思う。

 おかしくなってきたのは夏休み。初めての大会で初めて優勝したあの日からちょうど一年が経ったあたりだった。
 さかのぼって三ヶ月ほど前、それまで町単位での大会ばかりに出場していたわたしを、エビネさんが八月半ばにあるホウエン全体から人の集まる大会に推薦した。ちょうどこの年の開催はうちの町で、予選免除の枠に入る条件は満たせているからぜひ挑戦してみようということだった。
「君ならやれるさ」
 その言葉に背中を押されて出場した。結果は散々だった。
 初戦こそ相手のミスとポケモンの不調に助けられてなんとか勝つことができた。でもそれが限界で、絶対の自信があったワカシャモの炎も蹴りも、二回戦では何ひとつ通用しないままわたしは呆気なく敗れ去った。相手トレーナーはヌマクローらを連れた、わたしと変わらないくらいの女の子だった。
「タイプの相性があった。仕方ないよ」
 エビネさんはそう慰めてくれて、ママも「残念ね」と微笑んでくれた。
 だったら仕方がない。その時はそういう風に思った。でも、



 惨敗だった夏休みの大会以降、わたしは全然ポケモン勝負に勝てなくなってしまった。
 それまで優勝を重ねてきたレベルの大会でもありえないような判断ミスを繰り返して、決勝に上がることもできなくなった。試合中ずっと頭にモヤがかかったような状態で、勝負の道筋が全く見えなくなっていたのだ。一体どうしてしまったのかとエビネさんは不思議がったし、もちろんわたし自身にも理由は分からなかった。
 そうしてわたしはだんだんと、ママの目を見ることができなくなっていった。
 
 調子は一向に戻らないままわたしは六年生になり、初夏にジムの大きな建て替え工事が始まった。仮の練習場が使えるようになるまでしばらく休業することになったのをきっかけに、わたしはジムへ行かなくなった。
『将来はこの子もホウエンリーグをしょって立つようになる』
 リーグどころか、わたしはわたしの重みすら背負うことができなかった。ママはわたしが勝てなくなってからも「頑張ればまた勝てるわ」と応援の言葉を掛けてくれて、ジムへ行かなくなったことも咎めないでいてくれたけれど、そのうちにわたしを「主人公さん」とは呼ばなくなった。
 冬にジムの建て替えが終わり立派なレンガ調の建物になって、それでもわたしは顔を出せないままで。園芸用はさみで花のお手入れをしていたママが、つぶやいた。
「枯れちゃったのかな」
 その年の誕生日プレゼントはピッピのぬいぐるみ。サンタさんからのプレゼントは「もう六年生なんだから」と貰えなかった。

 クリスマスの朝、珍しく雪がちらつく中をわたしはポケモンセンターへと向かった。――ワカシャモら手持ちのポケモン達を全て手放すために。
 ポケモンセンターの暖かいロビーにはちかちかと色とりどりに輝くクリスマスツリーが置かれ、そこらじゅう雪の結晶のオーナメントやリース、サンタの格好をしたピカチュウやイーブイの人形などで楽しそうに飾りつけられていた。
 やることを終えて、帰ってママに事情を話すとママは小さく「そう」と、それだけ言った。エビネさんには直接伝える勇気がどうしても出なくて、ママのスマホからメッセージを送った。返事は届かなかった。



 また年が明けて冬休みが終わり、小学生最後の三学期を迎えたわたしはそれまでのわたしではなかった。
 燃えるようだった赤い髪をみんな真っ黒に染めた。そんなわたしの様子に、クラスがにわかにざわついたのを覚えている。
「なんでそうなっちゃったの?」
「このほうがお似合いだと思ったんです」
 わたしは主人公じゃなかったから、と心の中でつけ加える。もうすっかりポケモン勝負に勝てなくなったわたしへの熱を失っていたクラスメイト達が、そんな風になってからわたしを話題にするのは不思議な感覚だった。一週間と経たず、静かになったけれど。

 そのまま、静かなままで小学校を卒業して、中学へと上がる前の春休みに入ったある日、突然ママからコーラスをやらないかと声を掛けられた。ママの友人がリーダーをやっているコーラスサークルが、若いメンバーを探しているからという話だった。
「わたし、歌なんてまともにやったことないけど……」
「卒業式の合唱の練習をしていたでしょう。あれなら大丈夫よ」
 この時ママは、わたしに役割を与えたかったんだろう。そしてその思惑通りわたしは、ずっと年上ばかりのサークルメンバーが連れてくる赤ちゃんやポケモン達の相手を任されて「よく気がつく子」と評価をいただいた。それを耳にしたママは嬉しそうで、練習から帰ってくるたびにまた「頑張ってきた?」とニコニコしながら尋ねてくれるようになった。

 そうこうしているうちに始まった中学生活では、トレーナーだった頃のわたしについて特に触れられることもなく、ただただ地味な生徒Aとして時間を過ごし、真っ黒な髪を少しずつ伸ばしていった。
 ――これがわたしに相応しいわたしなんだ。
 伸びたての、赤い髪の根元を染めるたび、安らぎを覚えている自分に気づく。これでいい、これでいいと自分に言い聞かせる時間がだんだんと少なくて済むようになってゆく。
 多くはなくても日々会話を交わすクラスメイトは居るし、成績だって悪くない。ひっそりと平穏無事。このままわたしは中学を卒業して、高校でも同じような三年間を過ごすことになるのだ。
 それでいいと思っていたのに。
 
 
 
 二年生の二学期が始まって数週間経った金曜日の放課後のことだった。
 傾いてきた西日が窓から差しこむなか、わたしは校舎の特別教室が並ぶ棟を歩いていた。髪はすっかり肩甲骨のあたりを覆うまでになっていて、伸ばすのはもうこのくらいでいいかな、黒い伊達眼鏡なんてかけてみようか、などとぼんやり考えていた時だったと思う。
 美術室前に展示されている作品のなかにその絵を見つけた。いや、絵に見つけられた気がした。
 キルリアと踊る少女の水彩画。わたしのクラスでもやった『ポケモンと人』という課題で描かれたうちの一枚。だけどその一枚は他とはまるで違って見えた。上手いのもそうだけれど、異様というか、ひときわ暗く深く。絵の中の少女は笑顔で踊っているのに、泣きわめいてもいるような。絵の下の札に書かれている作者の情報を見て、隣のクラスにこんなものを描く子がいたのかとショックを受けた。
 絵に見入っていたわたしは、いつからか自分に視線が向けられていることにも気づかないほどだった。ハッとして振り返ると、数歩離れたところで立ち尽くしている少女と目が合った。
 わたしと同じ制服、そして上履きのラインカラーも同じ青だから間違いなく中学二年生。でも背丈はちょこんと低く、短めで外ハネのついた翠色の髪が幼い印象を作っているのもあって、まだ小学生くらいにさえ見えた。
 その子はびくりと目を見開いてすぐ視線を逸らし、とても悪いことをした時みたいにぎゅっと唇を結んで背中を丸めた。髪と同じ色をした目には、見ていた絵とそっくりの暗くて深い濁り。――ああ、この子が。
「あの……」
 わたしはこの瞬間、なぜか「この子を助けなきゃ」と思ったのだった。何を助ければいいのかもわからないけれど、声を掛けずにはいられない気持ちになった。でもその矢先、
「アスミ!」
 遠くから別の高く通る声が舞いこんだ。絵の作者と同じ名を呼ぶ声にその子は振り向いて――控えめな笑顔が咲いた。
 その子の視線の先には淡藤色の髪の少女が居た。男の子みたいに凛と背が高く、美しい子。
「こんなとこに。面談終わって教室戻ったら居ないし、探したってば。……知り合い?」
「ううん……。行こっか」
「図書室寄ってやって帰ろ。コケたとこ大丈夫? 百メートル走、頑張りすぎたよね」
 二人が並んで歩いて行く。不意に淡藤色の子が翠色の子の肩を抱き寄せる。わたしはその後ろ姿を呆然と見送る。
 ――わたしは主人公じゃない。
 長いこと噛み締めてとっくに味もしなくなっていたはずの言葉がまた、わたしをぐちゃぐちゃにした。
 
 
 
 翌日、土曜日の朝。この日わたしはベッドから出られないでいた。
 間の悪いことにコーラスサークルの練習日だった。今まで一度も休んだことはなかったし、今日もそうしなければと思うのだけれど、身体がどうにも動かせなかった。だめだ頑張らなきゃと自分に言い聞かせようとすればするほど、何のために頑張るのかが分からなくなっていた。サークルの人達のため、ママのため――思いつく理由はちゃんとあるのに、それではどうしても埋まらない空白を感じていた。
「もう起きて支度しないと、間に合わなくなっちゃう」
「……ごめんママ。今日はお休みしたい」
 部屋まで様子を見に来たママに、布団を被ったままそう伝えた。滅多に言わないわがまま――のはずだったのに。
 ママはこう言った。
「あなたは堪え性がないから心配ね。きちんと頑張らなきゃ」
 今でも耳に焼きついている。その言葉は鼻歌みたいで、呪いの歌のように響いて。まとわりつく掛け布団を引きはがして見ると、ただ涼やかに笑うママがそこに居た。
「わたし、頑張ってるよ……?」
 弱々しくそうしぼり出すのが精一杯で、ママの表情は何ひとつも変わらない。
「ポケモントレーナーだって辞めてしまったじゃない」
「そう……だけど」
「構わないのよ。ママだってそうだったんだから。でもあなた自身のために、あなたにはちゃんと頑張れる人になってもらいたくて」
 ――この時だ。この時になって、わたしはやっと自分の愚かさを知ったのだった。
『今度は頑張りましょう』『頑張ればまた』
 そうだ。ママはずっと同じようなことを笑って言い続けてきていたんだ。わたしが上手くいかない時に、「あなたは頑張っていない」って突きつけるようなことを。ずっとそうだったのに、ただ、わたしが励ましてもらっていると呑気に信じて気づいていなかっただけ……ううん、本当はきっと気づいていた。気づいていたから心はじわじわと痛めつけられていて、だからこんなに「頑張らなきゃ」って怯えているんだ。だってわたしは「よく気がつく子」なんだから。
 わたしの中で赤々とした炎が燃え盛りだした。ママは――この人は、ちっともわたしの頑張りを見てくれてなんていなかったのだ。わたしはずっとずっと頑張ってきたのに。この人のために、この人を喜ばせてせめて「頑張ったね」って頭を撫でてもらうためだけに。
 『あなた自身のため』? 自分自身のために頑張ることすら見失ってしまうくらい、わたしは大馬鹿みたいにやってきた。それなのに。
「頑張りなさいな、主人公さん」
 うるさい。わたしは主人公じゃないんだ。そうじゃないんだから……助けてよ。
 熱い、痛い、わめきたいのに声も出ない。お願いだからわたしを助けて。頑張ってるって認めて――愛して。



「お疲れさま。いつもチビたちの面倒も、助かるわあ。ほんとママも自慢よね。来月には高校生でしょ? 頑張ってね」
「ありがとうございます。今日は人も少なかったし、のんびりさせてもらいました」
 いつもの公民館でのコーラスサークルの練習を終えて、リーダーを務めているママの友人と挨拶を交わす。本当に時間があったから色々なことを思い返してしまっていた。小学生の頃からの……大馬鹿だった自分のことを。
 けれどきっとここにいる人達の中では、わたしは知り合った時から「よく気がつく子」のまま何も変わっていないのだろう。眼鏡をかけて余計地味になったくらい? そう思うと笑いたくなる。
「そうだ、シクラちゃん」
 エントランスでスリッパからローファーに履き替えていたら、もう一度リーダーさんに声を掛けられた。
「余計なことかもしれないけどね。あの人――ママ、落ちこんでたわよ。もう長いこと娘が口もきいてくれないって」
「……」
「これ、内緒だけどね。あなたがかわいいって言ってたからって、わざわざあの人、アローラからポケモンを取り寄せてるところみたいよ?」
 特になんでもない情報だった。わたしはあの人がそうするだろうと思って、わざとあの人の前でそのポケモンの話題を出したのだから。まあ、わたしの思い通りにいっていると早く知れたのは良かった。あと、この人に内緒ごとを話さないほうが良いというのも。
「ありがとうございます。ママともちゃんと話してみます」
「お年頃なのはわかるけど、二人きりの家族なんだし。近所でカゲボウズがうろついてるって話もあるから、安心させてあげてね」
 心の内は、秘めておくに限る。
 
 帰り道、少し強い三月の風を感じつつ川沿いを歩く。バッグからスマホを取り出すと残っていた、ママからの着信通知に軽い舌打ちが漏れる。
 深呼吸ひとつ。スマホのロックを解除し、カメラロールを開いた。
 あの日、美術室前で出会った淡藤色の彼女。今やわたしのカメラロールは学校のあちこちで「撮らせてもらった」彼女の写真で一杯だった。笑った顔、きりりとした顔、少し驚いた顔――彼女の鮮やかな表情に頬を緩ませながら、ひとつひとつ写真を眺めては繰ってゆく。
 ああ。彼女はいつだって凛々しくて美しくて華やかで、わたしとは何もかもが違っている。気後れしてしまってまだ一度も話せた試しはないし、あとわずかの中学生活で話せるようになる自信もない。もし高校が別だったら本当に悲惨だった。
 なのに、
「……うかつ。見落としてた」
 画面端に写りこんだ翠色の髪。邪魔なこの子がいつも彼女について回る。この子を見ているといらいらするのだ。どこまでも頼りなくて、無性に何かしてあげたくなって――わたしがなれなかったもの、その傷を疼かせる。
 ひときわ大きく舌打ちをして、すぐに写真を削除した。真っ黒な髪の内側でわたしの赤が燃えている。焼けただれた心で、縋るように囁く。
「ねえ主人公さん、わたしを救ってよ。あの子じゃなくて、わたしを……」

 春の香りの混じった風。もうすぐ新しい日々が始まる。

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