【うらみこえみらい②】「声」

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作者:夏十字
読了時間目安:36分
 最近新しくできた天然石のお店でブレスレットを買った。石の持つ意味合いとかはそんなに興味がなくて、ただ薄い青とも緑とも言えない、前に絵葉書で見た遠い地方の海のようなその色合いが気に入ったのだ。手に取って少し眺め、わりとすぐに購入を決断した。

「身につけて行かれますか?」

 訊かれて、少ししてからはいと答えた。店員のおじさんにはその言葉がきちんと届かなかったようで訊き返された。お願いしますと言い直してようやく通じた。おじさんはすぐにかしこまりましたと返してくれたが、私が言い直したとき一瞬目を丸くしたのは見逃せなかった。やっぱり、と思った。

 私は声が小さい。だからよくこういうことになる。いちいち訊き返してもらうのは本当に申し訳ないから気をつけたいんだけれど、なかなか思ったようにはならない。そもそも私は私の声が嫌いなのだった。
 現在高校2年生の私の背丈は同級生達に比べてだいぶ低い。顔つきも幼くて、中学生に間違われることもある。対してそんな私の発する声は低くて硬く、ざらっとしている。知らない人の前で喋るとイメージに合わずびっくりされるのだ。

「冗談みたいな声」

 小学校のクラスでそんな風に言われたこともある。別に怒ったりはしなかった。ただ、私が言葉を発すること自体くだらない冗談に相手を付き合わせているのかなと思って辛くはなった。だってそんなの失礼だもの。私にではなく、相手に。
 そんなわけで私は日頃できるだけ人前で声を発さないし、発しても小さな声しか出せなくなった。



   *



 五月の風薫る、日曜日の昼。このまままっすぐ帰るのは何となくもったいない気がして、でもあまり人目には触れたくなくて、川沿いの橋の下までやってきた。さっき買った左手のブレスレットをお日様にかざしてみたりしていると、にわかに辺りに騒がしさを感じた。激しく駆け回るような足音と息遣いと、鋭い鳴き声?

 ポケモンがポケモンに追いかけられていた。追いかけているほうは知ってる。灰色の毛並みで顔や肢の先っぽが黒い四つ足の――ポチエナだ。でもって追いかけられているほうは、なんだろう。ピンク色の、大きな卵みたいな身体に短い手足。頭のてっぺんからは先っぽの黄色い大きな耳。あんなの見たことない。
 見たことはなくても状況はわかる。私は2匹の間をさえぎるようにポチエナに立ち塞がった。ポチエナは一瞬身を縮こめたがグルルと唸って――どうも目の焦点が合ってないなあなどと思っていると、私に飛びかかってきた。

「う……」

 とっさに身体を庇った左手首に噛みつかれた。でもそこにはブレスレットがあって――噛まれた勢いでぱん、と石が弾け飛んでしまった。ポチエナはその様子にひるんですぐ我に返ったような素振りを見せると、そのままフラフラとどこかへ去って行った。ほっと一息。

「いたた」

 手首にはくっきりと牙の痕が残って血が出ている。ブレスレットが身代わりにならなかったら結構危なかったかもしれない。ただあれ、買ったばかりのブレスレットなんだけどな。そういえば今更思い出した。あの石、勝負運がどうのとか書いてあった気がする。

「君は大丈夫?」

 かがんで、後ろのポケモンに呼びかける。私の腰くらいの大きさのその子は見れば見るほど変わった姿。目は「プラス」の字みたいになってるし、口はどこかの人気キャラクターよろしくバッテンに見える。
 そのピンクのポケモンは最初少しオドオドした様子で、けど助けられたってことは分かっているようだった。小刻みにぴょんぴょん跳ねて懸命に口を動かして……何か言ってる?

「あはは……全然聞こえないや」

 その声は。私がびっくりするほどに小さかった。



   *



 翌日、学校のお昼休み。私はお弁当を食べ終えて、何をするでもなく自分の席でぼんやり時間を過ごしていた。外は雨模様だけれど、教室の中ではクラスメイト達がグループをつくって楽しくお喋りなんかをしている。2年生になってクラス替えがあって、最初は余所余所しかったのが少しずつ打ち解けてきて、今月頭の連休に一緒に遊んだりしてさらに仲良くなって、ちょうど今そんな状況のようだ。ただし私はその限りではない。
 私は巷のイケメントレーナーだとか売れてる音楽だとか流行りの話題なんかにまず興味がないし、喋りかけられても会話がうまく出てこないし言葉を返せても頓珍漢なことばかり言ってしまうし、おまけに声が小さいうえに変だとあっては誰も寄りつかないのは当然のことだ。別に私自身それで構わない。そのほうが相手に余計な気苦労を与えなくて済むから気楽なのだ。まあ、願わくば上手く仲良く関われたらいいなとは思うけれど、それは私が上手く振る舞える前提に基づいた願望であって、とりあえず今の自分の体たらくではとても望めそうになかった。
 ため息。ちょっと手持ち無沙汰になってきて、机の横に引っかけたかばんを漁った。取り出したのは赤くきらめく大きな石のネックレス。去年雑貨屋さんで買ったもので、いつも持ち歩いたり身につけたり大切にしている、ちょっとした思い出のある品だ。

「きれいな石」

 不意にすぐそばで声がしてビクっとした。長い黒髪に太目の黒縁眼鏡をかけた女の子が控えめな笑顔で私のほうを見ていた。

「えと……」

 多分クラスメイト、のはずなんだけれどちょっと名前も何も出てこない。思考がロード中を通り越してフリーズ中になった。そしてそんな私の様子はすぐ相手に伝わってしまったようだった。

「ああっ、急にごめんなさい。わたしシクラ。みっつ右の席の」
「……ごめん」
「き、気にしないで! それよりそれ、ケガしたの?」

 その子――シクラさんが指さしたのは私の左手首の包帯。言わずもがな昨日ポチエナに噛まれたものだけど言わずもがなシクラさんはそんなこと知らない。そして言わずもがな目に入ってしまえばどうしても気になる箇所だろう。これはまあ、ちゃんと説明しておくのが一番よさそうだ。

「昨日ポチエナにピンク色のポケモンが襲われてたから庇って、そしたら噛まれました」

 深呼吸して、私にできる精一杯の「ちゃんと」で事のあらましを話すと、彼女の顔はとたんに青ざめた。

「そんな無茶して……」
「病院は行ったし、大丈夫」
「そうじゃなくて。ゴニョニョのためとはいえ、なんでそんな自分を犠牲にするような」
「ゴニョニョ?」
「……あ、そのピンク色のポケモンです。多分ゴニョニョだなって思って。それより、下手したらもっと酷いケガしてたかもしれないのに」
「うーん、なんだろう」

 しばし考えて、答える。

「それが一番コスト低いなって思ったっていうか」
「……よくわからない」
「あ。あ。声、小さいかな」
「えっと。そこじゃないけど、それはちょっと……そうかも」

 シクラさんは少し考える素振りを見せたあと、ぐっと私に顔を近づけてきた。

「失礼します、アスミさん」

 至近距離で名前を呼ばれて妙に恥ずかしくなる。

「申し訳ないよ」
「わたし、アスミさんとずっと話してみたかったんです。中学の時から」
「え」

 思わぬ言葉に私は二度目のフリーズをした。大きく目を見開いて固まってしまった私の様子にシクラさんは焦りはじめる。

「ク、クラスが一緒になったことはなくて! ただ美術室に飾ってあった絵を見て、上手い子が居るなって思って」

 もしクラスメイトだったとかなら申し訳ないどころの話じゃないので助かった。確かに私は小さい頃からポケモンの絵をたくさん描いていて、美術の絵の課題は得意なほうではあった。まさかこんな風に見られているとは想像もしてなかったけれど。……正直ちょっとくすぐったい。

「ただね。ずっと話しかけたかったけどアスミさんおしゃれだし、よく派手な子と一緒に居たから……。地味なわたしの相手はしてくれないかなって。でもこうやって話してみると何だかわたしと近い感じもして、少しほっとしました」
「……」

 彼女のその一言で、私はこの先きっとこの子とは大事な何かを共有できることはないのかなと。そう感じられた。



   *



 その日から何かとシクラさんは私に話しかけてくるようになった。すぐ飽きるだろうと思って二週間ほど過ごしたところ、まるでそんな様子も見せない。こんな言いかたは失礼だしおこがましいけれど、どうも懐かれてしまったようだった。
 本人によれば、彼女は彼女で人づきあいが得意ではなくこれといって目立つところもないから昔からクラスメイトと仲良くなったりということがなかなかできなかったと。だから私と話せるようになって、とても嬉しいと。悪い気がするわけではないし、良い関係になれればいいなと思う。
 だけどやっぱり違う気はする。何が違うかははっきり言えない。ただ、彼女は控えめだったかと思えば急に距離を詰めてくるようなところがあって、人とのコミュニケーションがとことん不慣れな私にとっては多少そこに疲れるものを感じてしまうのはどうしようもない事実だった。

 一緒に過ごして疲れない相手。そう考えるとどうしても思い浮かんでしまう人が居る。にわかに胸が苦しくなった。ぶんぶんと首を振ってその思いを振り払う。土曜日の午前中からこんな気持ちになるのは良くない。私は今から街まで夏に着る服を買いに行くんだったら。

「あ」

 川のほうへ歩いて行く途中で今日もそれを見かけた。ピンク色の、そう、ゴニョニョ。ゴニョニョは私を見つけるなり全身を弾ませて駆け寄ってきた。表情はよく読み取れないけれど、嬉しがっているんだと思う。
 懐かれてしまったといえばこの子もそうだ。助けたあの日以来いつもこの一帯で出くわしては、こうやって私の元へ寄ってくる。

「元気そう、よかった」

 頭を撫でてやると、例の聞こえないくらいの声が微かに私の鼓膜をくすぐる。それ以上何かあるわけではなくて、こうしているうちにすぐまたあの橋の下のほうへ帰ってゆくのが常だった。

「やっぱりゴニョニョだったんですね」

 背後から、声。私服スタイルのシクラさんだった。

「かわいい」

 シクラさんが撫でようとするとゴニョニョはさっと私の後ろに隠れてしまった。しばしどぎまぎした様子を見せて、そのまま向こうへ離れてゆく。

「アスミさん、よくポケモンに好かれるの?」
「……覚えはない」

 ピンクの後ろ姿を見送りながらぽつりと言うと、シクラさんはずいっと身体を寄せてきた。いつもながら声が小さかったらしい。

「あの子、連れて帰ってほしいんじゃ? ボールならあげますよ。うちにもニャースが居て。珍しいアローラの」
「いや。いや。いい」

 ショルダーバッグから今にもモンスターボールを出すところだったシクラさんを慌てて制止する。そんなことしたら私、ポケモントレーナーみたいになってしまう。別にポケモントレーナーが嫌いなわけではないけれど、ちょっとそういうのは避けて通りたい事情が私にはあった。

「シクラさんは。その、どこかへ?」

 話を変えたくて柄にもなく自分から話を振ってみる。白いドレープブラウスに黒のプリーツスカートというすっきり大人びた格好のシクラさんは少し「よそゆき」に思えた。

「ああ。わたし合唱やってるって話しましたっけ。今日はその発表会で」
「初めて聞いた、かも。そうなんだ……」
「そうなんです。アスミさんも合唱とか、どう?」

 それは聴くほうで? それともまさか、やるほうで? どちらか判断のつかない質問をされて答えかたが分からなくなってしまう。分からなかったと尋ね返すのも失礼だと思うから、私のなかでもう完璧に会話が詰んでしまった。

「一緒に歌ってみない?」

 そっちだったか。きっと今これ、気を遣わせてしまったな。ところでこの子は一体何を言っているんだろうか。

「いやいや。私、こんな声だよ……?」
「こんな? 落ち着いたいい声だと思うけど」

 本当に何を言っているのか分からない。もしそうなら私の声は今こんな風に小さくなったりしていないはずじゃないか。それは大きな矛盾だ、おかしいことだ。
 シクラさんの声も高くはないけれど私と違って柔らかくて、「合唱をやっている」と言われたら誰だって簡単に納得できると思う。私ではとても釣り合いそうにない。シクラさんの声に釣り合うとすれば――。

「……ナバナならな」
「え?」
「なんでもない、よ」



   *



 久しぶりに街のほうまで出たからっていくらなんでも買いすぎたかもしれない。外がいちばん暖かい時刻を過ぎた頃、ショッパーとやりきった感覚とちょっとの後悔を両手に帰ってくると思いがけない光景があった。家の門の前にたたずむ、ゴニョニョの姿。

「特定班こわい……うちに何も面白いものはないよ」

 どうしてわざわざこんなところまで。少なくとも私が普段ここから出入りしているってことは分かってるみたいだ。シクラさんが言っていたように、本当に連れて帰ってほしいとでも?

「だとしたらごめん。それは無理」

 きっぱりと告げる。私にはひとつ経験があった。大事に思っていたポケモンとお別れをした経験。それはけして苦い嫌な思い出なんかではなくて、一緒に居られて良かったって今でも心底思ってる。だけど私はもう、できればそんな別れは味わいたくなかった。もう、ポケモンとは時間を共にしないって決めていた。
 そんな私にゴニョニョは――何やら一生懸命に口を動かしている。でもやっぱりその声は声にはならない。もちろん聞こえたって何を言ってるかは分からないけれど、私のほうがよっぽど声が大きい。こんな相手に出会ったのは初めてだった。

 そう。普段は私がゴニョニョなんだ。私の声は小さくて届かない。届いても、届かない。

「……少し話、聞いてくれるかな。ひとりごとなんだけど」



 どうしてそうしようと思ったかはよく分からない。けれど私はゴニョニョに、家の前にかがみこんでゆっくりと自分の話をした。今日、ショッピングを楽しんでる間もずっと引っかかっていた気持ち。ゴニョニョが実際どんなことを思っているのかは知れないけれど、じっと耳は傾けてくれていた。

 私は元々歌うことが好きだった。小学校の3年生くらいまでは、聞こえてくる曲聞こえてくる曲なんでも私なりに覚えて歌ってた。家で散々お母さんにうるさいと怒鳴られても歌ってた。それがどうしても失くしちゃいけない大切なことであるように思えて、そうしていた。でもだんだん声について色々言われてるなって意識しだして。私の声はみるみる小さくなって、とうとう歌うことも嫌になりそうになってしまっていた。

 そんななか、私が歌うことは失くさないようにしてくれた存在があった。ナバナという女の子。ナバナは出会った頃からとても美人で背が高くてかっこよくて人気者で、なんでもできる子だった。逆に私はこんな風に小さくて不格好で、いつもひとりでポケモンを探してはスケッチしたりしていて。でもナバナはそんな私にだって話しかけてきてくれて、私達はよく遊ぶようになった。自分を飾らず、全部受け止める。そんなナバナと一緒に居ると楽しくて落ち着く。そんな風に心から感じられて、気づいたら私は好んでナバナとの時間を過ごしていた。その言葉を直接使うことはなかったけれど、私は彼女のことを親友だって思っていたはずだ。ひょっとするとそれ以上だったかもしれない。
 ナバナとはよく色々な歌も歌っていた。ナバナの声は澄んだ空みたいに高くて爽やかで、それも私とは全然違ったけれど、一緒に声を合わせると不思議と私の歌声も綺麗に響くように感じられた。だから私は自分の声が嫌になって歌うこともやめそうになっても、ナバナと歌う時間は失くさずに済んだのだった。むしろ、中学に入ってナバナがアコースティックギターをやるようになって、ますますそういう時間が増えたりもしたくらいだ。

 だけどこれは全部過去の話だ。今の私はもう歌いたくなんかないし、音楽を聴くことさえうんざりしている。どうして? ナバナがもう居ないからだ。いや、私がもうナバナのところに居ないのか。

 去年あったその出来事を思い返して話すのは本当に辛い。だからそれはここでは語らないし語れない。そんな「あること」がきっかけで私達は大きくすれ違って、連絡ひとつ取り合うこともなくなってしまったのだった。その時に私が彼女と歌と、それから大好きな人を同時に失ってしまったことは言っておく。
 ただ、私がナバナから離れたと言っても私は別にナバナに怒ってはいない。彼女はどこまでも真面目で、私にもきちんと事情を話してくれた。だから怒る理由なんてないし、そもそも私は生まれてから今まで怒りなんて一度も明確に抱いた記憶がない。彼女を親友として共に過ごすには私という存在があまりにもふさわしくないのだと思い知らされた、それだけのことだった。

「――まとめて言えばやっぱり、『私の声は届かなかった』って話になるのかな」

 空が青い。この辺りは静かな住宅地の奥のほうだから人もあまり通らず、のどかなものだ。

「小さすぎたんだよ」

 そう言って、立ち上がる。さらりと吹いた風が頬を撫でた。
 ゴニョニョは私が話し終わってからもじっと、そこに居た。何か言ってるのかいないのか、それは分からなかった。

「ごめんね」

 しばらく経って、またそうつぶやく。するとゴニョニョは少しだけ後ずさって――くるりと、背中を向けて去って行った。

「ごめんね」

 もう一度、繰り返す。一体これは誰への言葉だったろう。

 それからゴニョニョは私のところへ現れなくなった。



   *



「アスミさん、何だかおかしなことになってる」

 何となく抜け殻みたいになったまま一週間ほど経ったある日の放課後。帰り支度をしていたらシクラさんが深刻な顔でそう告げてきた。

「アスミさんの変な噂が流れてます」
「うわさ?」

 こんなこと前もあったような。

「野良のポケモンを手なずけてよからぬことを考えてるんじゃないかって……ゴニョニョのこととか」

 よからぬことって。思わず笑いそうになって目を見開いてしまう。いけない、ここで笑うのは失礼だ。シクラさんは真剣なのに。

「みんなに抗議しましょう」
「ううん。いいよ、別に」
「どうして」
「んー……」

 熟考して、言葉をはじき出す。

「元々私はこんなだから、たぶん何も変わらない。何か変えようってぶつかるのは、そのほうがしんどいよ」

 思った通りシクラさんは黙りこくってしまった。私はさらに言葉を続ける。

「それよりシクラさんが。私に関わったら、まずいと思う」

 言ってて、妙にチクチクした。



 こんなのよくあることだから放っておけばいいや。そう考えていたけれど、その後確かにどんどん様子がおかしくなっていった。日に日に、とうとう私の耳にも直接入るまでにエスカレートしていった噂話によれば、どうも実際に野良ポケモンがあちこちで暴れだしたりしているらしい。そしてそれは私のせいだと、気づいたら周囲の空気はもう完全にそうなっているようだった。六月になって雨の日が増えて、ただでさえ憂鬱に追い打ちがかかっているのに。

「あいつの家、父親が恋人作って出てったそうだぜ」

 私の家の古い事情まで持ち出されてちょっと流石にそれはきついなと思いはじめた矢先の休み時間、事件が起きた。

「いい加減にして! アスミさんはそんな子じゃない!」

 シクラさんが私に対して色々言っていた男子グループに突っかかっていって――突き飛ばされた。
 それを目の前で見ていた私は、ただただ息が出来なくなった。やめてよ。なんで? おかしいよ。シクラさんは関係ないのに。関わったらまずいって、私言ったのに。なんでシクラさんがそうなるの?

 ――それじゃあ本当に、私が自分で何もしないおかしい奴じゃない。

 ぶるぶると全身が震えて硬直する。周りで怒鳴り声と悲鳴が飛び交う。窓の外は強い雨。シクラさんがクラスの女子に保健室へと連れられて行って――私にはその間、ただ耳を塞いでいることしかできなかった。



 その夜。私はひとり、自分の部屋で考え続けた。
 私が変だと思われるのは当然。私が何かを言われるのは当然。何にしたって、ずっとそう思ってた。そう信じてた。そうすれば、いちいち深く傷つくこともなかったから。
 でも今日の出来事について考えるに、どうやらそれはおかしいことみたいなのだ。それなら……一体どうしたらいいのかな。シクラさんは大したケガもなかったけど、そういう問題じゃない。私が傷つかないように振る舞うことで傷つく道理がこの世にはあるんだ。だったら――?

 いつに間にか私は、いつもの赤い石のネックレスを握りしめていた。両手で強く、縋るように。

「助けて」

 声が、漏れた。

   *

 次の日、熱が出たことにして学校を休んだ。もし昨日みたいなものをまた見せられたらいよいよ堪えられそうになかったから。だけど家でじっとしている気にもなれなかった。「何もしないこと」は正解じゃない、今の私はそういう気持ちに強く駆られていたから。
 とはいえどうしたものか。珍しく雨も止んでとりあえず外へは出てきたものの、何ひとつ行くあてはなかった。気持ちばかりで動くのは良いことではないと思う。ならば、今この気持ちを重んじるためにはいくらか方針を考えないといけない。

「あちこちでポケモンが暴れてるって、その現場だけでも見られないかな」

 ひとりごちたのは上手にまとまった答えではなかったけれど、ひとまずはそれを探してみようか。SNSで何か情報共有されてるかも。スマホを――。

「あれ?」

 家の近所を歩きながらトートバッグを手探っていたところ、少し先の脇道から見知った姿が現れた。ピンク色のまんまるい姿の――ゴニョニョだ。しばらく見かけなかったのに一体どうして。そう思って近づいて、様子が普通じゃないことに気がついた。ボロボロで、歩くのがやっとの状態のようだった。

「どうしたの……!?」

 駆け寄ってみると、身体じゅうひっかき傷だらけの酷い状態だった。鋭い爪でつけられたような……。早くポケモンセンターに連れて行かなきゃ、場所どこだっけ、ポケモンジムと記憶がごっちゃだ、そうだスマホで調べよう。ぐるぐる思考を巡らせていると、ゴニョニョが私のショートパンツの裾を繰り返し引っ張った。傷まみれで、よろよろで、それでも何かを伝えようと懸命に促しているように感じた。

「どこかへ、連れて行きたいの?」

 こんな状態だけど、こんな状態だから無視してはいけない気がした。けれどもうそんな身体で歩かせるわけにはいけない。私は深くかがんでゴニョニョの身体を持ち上げようと――。

「重……いぃ」

 いきなり頑張りどころが来た。

 想像よりずっしりのゴニョニョを抱えて住宅地のなかを行く。道が分かれるたびに一度降ろしては進むべき先を示してもらう。負担はかけたくなかったけれどそれが一番確実で早い方法だった。
 幸いにも目的地はそんなに遠くはなかった。普通なら5分で歩ける距離を10分かけて着いた先は酒屋さん――のすぐ脇。ゴニョニョが降ろしてほしそうに何度も身をよじったのでそこだと分かった。路地裏の入り口に立入禁止のバリケードが置かれ、その向こうに自販機とリサイクルボックスが無残に壊されているのが見えた。平日の朝で人気はなかったからバリケードぎりぎりまで近づいてみる。自販機だったものや辺り一帯に、焼け焦げたような跡があった。炎か電気を扱うポケモンがここで暴れて、それほどは経っていない感じだった。昨夜とか?

「これを見せたかったんだ……」

 そう語りかけると、再びゴニョニョは私のショートパンツの裾を引っ張って――何かを手渡そうとしてきた。私は気づかなかったけれどずっと持っていたようだ。それをこのタイミングで手渡すということは、恐らくこの件と深く関係しているものだ。
 受け取ったのは幅も高さも数センチくらいの銀色のプレート。凸凹の加工でモンスターボールのデザインに仕上げてあって、くっついてるリング状の金具はすっかりひしゃげている。まるでどこからか無理やり引きちぎったみたいだった。

 私にはそれが何かすぐにピンときた。以前に知り合いのポケモントレーナーが見せてくれたことがあったから。――ということは。
 プレートを裏返すと二次元コードが刻印されている。私はそれをスマホで読み取り、

「これ……!」

 ……絶句した。



   *



 夕方になって、私は初めてゴニョニョと出会った橋の下に居た。ゴニョニョはあのあとポケモンセンターに預けてきて、今は制服姿のシクラさんが一緒だった。

「アスミさん、急にメッセージが来たからびっくりした。身体は大丈夫なんですか?」

 私は深呼吸ふたつして、できるだけまっすぐシクラさんを見据えながら言う。

「……うん。シクラさんも、何か変わったこととかなかった?」
「? いいえ、特には……」
「そっか」

 ――そう、なんだね。

 私は大きく息をついてからもう一度ありったけの深呼吸をして、シクラさんに“それ”を手渡した。例のプレートだ。至っていつもの調子だったシクラさんはそれを受け取って見るなり表情が陰って――すぐ私を睨みつけるような目線になった。

「それ、ポケモンの迷子防止タグ。アローラのニャースと……シクラさんの情報が入ってた」

 私は。呼吸がどんどん浅く速くなるのを感じつつ、つとめて深く、深く、息を吸っては吐き出した。

「調べたんだ……アローラのニャースは、相手をおだてて混乱させる“わざ”が使えるって」

 こんなことはもっと一息で言ってしまいたい。だけど、どうしても息が続かない。

「きっとゴニョニョは、“見ちゃった”んだね」
「何の……こと?」

 言葉を返されて、どくんと心臓が跳ねあがる。思いきりえずいてしまいそうになった。

「もしかしてアスミさん、わたしを疑ってるの? ひどい。わたしはあなたが心配で――」
「う……」

 急に自信がなくなって、思わず視線をシクラさんから逃がした。もとより自信なんてなかったかもしれない。喉が詰まって、頭が真っ白になった。脚の、全身の感覚が一気に痺れてきた。私は間違ったのかもしれない。声なき者の声を聞くことができたって勘違いして、私はまた、根拠もなく浮かれてしまっていたのかもしれない。

「……ごめん」

 そんな情けない、取り返しもつかないような言葉をやっとしぼり出して。シクラさんに背を向けて、

「――ああもう、本当にいらいらする」

 突如、冷たい声に背中を突き刺された。反射で振り向いた瞬間、胸の辺りを刃のような風圧がかすめて――私はよろけて尻もちをついてしまう。
 そんな私に鋭く向けられるのは紫色の毛並みのポケモン――ニャースの爪と、さっきまでとは別人のようなシクラさんの視線。眼鏡の奥にあるのは敵意? 悪意? 嫌悪? 憎悪? 全部かもしれなかった。

「シクラさん……どうして」
「はあ? あんたがわたしを呼び出したんでしょ? でもって確信もないのに人を疑って。どこまでわたしを苛つかせるの?」

 何も言えない、というより何も分からなくなってしまった私を見下ろして、シクラさんは大きな大きなため息を吐き棄てた。

「どうしてって言いたいのはわたしのほう。……どうしてあの人は――ナバナさんは、あんたなんかと」
「ナバナ?」

 なんで。なんでここでナバナの名前が。
 見開かれた私の両眼に映るシクラさんは一段と冷たい熱を増して――言った。

「あの人のそばに居たいのはわたしだったのに、あんたなんかが居るから」



 そのあと一気に、まくし立てるようにシクラさんは喋り出した。中学の頃からナバナに好意を抱いていたこと。だけど自分は地味だと気後れして近寄ることができなかったこと。もっと地味で暗くて声も小さいのにいつもナバナのそばに居る私がずっと気に入らなかったこと。ぐさぐさと言葉が矢の雨のように絶えず私を刺し続ける。逃れるように見上げた空も、今にも泣き出しそうな様子だった。

「去年あんたがあの人とケンカしたって話を聞いてせいせいした。でもね。だからってわたしがあんたの代わりにナバナさんに近づけるわけじゃなかった。せっかく同じクラスだったのに。頑張って話しかけたのに。あの人は上の空で、あの人の心の中にどれだけあんたが居るのかを知ってしまった。あんたはやっとあの人のそばから居なくなったのに……なのに、あんたは余計にわたしを惨めにさせた」
「シクラさん……何言ってるの。だってナバナには、ちゃんと相手が――」

 言いかけた途端、頬を張られた。シクラさんはぎりぎりと音がするほど歯を食いしばって、泣いていた。

「そういうことじゃない! あんたのそんな所が一番むかつく!」

 私にはよくわからない。きっとシクラさん自身も、もうどうしたらいいかわからなくなっているように思う。さっきまですごく怖いって思っていたけれど、今はそれ以上に強い悲しさがあった。

「今年、よりにもよってあんたと同じクラスになって……顔見るたび、むかむかしてた。だから悪い噂を流して困らせてやろうって思った。わたしがあんたを庇ってるフリをすれば、きっとあんたみたいな奴は余計傷つくだろうなって……」

 とうとう。シクラさんは自分のしでかしたことまで全て喋りはじめてしまった。元をたどればあのポチエナの件。あれはニャースがたまたま野良のポチエナをからかって混乱させてしまっただけの偶然だった。でもさらに偶然、私がポチエナからゴニョニョを助けて、その始終をシクラさんは見ていて。そこで思考が一気に悪い方向へと繋がってしまった。そういうことらしかった。SNSやメッセンジャーアプリのグループを使って学校のみんなに私の噂を流したら、想像以上のスピードで広まっていって思わず笑ったそうだ。

 全部の「いけないこと」を一度に吐露したシクラさんは荒い息をついて、最後にこうつぶやいた。

「なんであの人はあんたなんかを……バカじゃないの」

 ――私にとってはそれが、一番の「いけないこと」だった。

「……なにそれ」

 あんまりだ。
 私はいいんだ。私なんかはバカでいい。そうじゃない。今シクラさんはナバナを馬鹿にした。私なんかと小さい頃から一緒に居てくれた、そんなナバナを馬鹿にした。
 美人でかっこよくて何でもできて人気者のナバナが私なんかにたくさんの時間を使ってくれた。それを馬鹿にするのは、ちょっと、だめだ。

「ふざけないで。……取り消してよ」

 頭がじんじん痛くなって身体じゅうが焼けるようだ。今までほとんど覚えのなかった感覚、たぶんこれが、怒りなんだ。
 とっさに立ち上がって。それ以上はどうすればいいかも何を言えばいいかも知らない。ただ、私は今怒っていた。

「ふざけてるのはあんたでしょ」

 シクラさんも私に怒っている。だから真っ向からぶつかり合う。苦しい。こんなにしんどいこと、今までしたことなかった。めいっぱいの感情で睨んで睨まれて、睨みあって睨みあって。……とうとうシクラさんが痺れを切らした。

「もういい、ニャース」

 シクラさんが低く低く言い放ち、呼応してニャースが低く低く身構える。この感じ、きっとシクラさんはポケモントレーナーとしての経験がある。ポケモンと深いところでリンクしている雰囲気が私の知ってるポケモントレーナーに重なって見える。しかもシクラさんはもっと違う。たぶん慣れている。ナバナへの言葉もゴニョニョや他の子達にしたことも。傷つけることに慣れてしまっている。対して私の手にはポケモンもおらず何もない。私が傷つくのなんて大したことじゃない、けれど、唇を噛んでしまう。私は私の怒りに何もしてやれないのか。

「あんたのことも、何もかも、めちゃくちゃにしてやる」

 ああ、だめだ――そう思った瞬間。サッと私の眼前に、ニャースに対して立ちはだかるように、見慣れたピンク色の背中が現れた。

「ゴニョニョ……?」

 どうして。単にいつもの自分の居場所へ帰って来たのか、それとも?
 どちらにせよ今これは確実に、私を庇おうとしている。出会った時とは逆のかたち。怒りで焼けついていた頭がスゥと冷静になってゆき、そのぶん胸が一杯になる。守られる感覚というのはこういうものなのか。

「……ゆうべあれだけ痛めつけられといてまだ足りない? あんたをみすみす逃がしてこのざまなんだから、ちょっと見くびりすぎてたかもね。でも、」

 シクラさんは忌々しげに口元を歪ませ、その様子のまま、ククと笑った。

「話にならない。あんた達、揃いも揃ってなんの声も持たない、無力だもの」

 そして、とうとう攻撃の指示が飛んだ。ニャースは体勢をぐぐっと落としてから一度大きく飛び退いたのち、こちらへ向かって一直線に地面を蹴り出す。鋭く迫り来る両の爪、それでもゴニョニョは私の前から退かない。

「ゴニョニョ!」

 いつの間にか私はその名を叫んで、急にゴニョニョの身体が大きく膨らんで。次の瞬間、耳をつんざくようなけたたましい音が辺り一面に響き渡った。
 それは確かに「声」――ゴニョニョが発した鳴き声だった。規格外の大音量に晒された私の脳は、視界は、ぐわんぐわんと揺れて意識が薄れていった――。



   *



 あの日の、その先のことはあまり覚えていない。ゴニョニョの強烈な鳴き声を受けて私もシクラさんもニャースも朦朧としていて……すぐに大人達がやってきて、その場はどうにか収まった。そのはずだ。
 次の日からシクラさんは学校へ来なくなり、しばらくして、転校したという話をホームルームの時間に先生から聞かされた。と同時に、少なくとも私の耳につくような私の噂話は聞こえてこなくなった。何かしら学校のほうで“配慮”があったようだけれど、私自身は先生達からいくつか事情を訊かれたくらいなので詳しいことは何も分からない。それもまた“配慮”というやつだろうか。

 他に変わったことといえば。今、私の手元にはひとつ、モンスターボールがある。ゴニョニョのものだ。

 もちろん簡単な決断をしたつもりはない。あの日、この子が私のために張り上げてくれた「声」。それにはきちんと応えなければいけないと考えた末のことだった。それでもボールに入れることについては散々悩んだが、ゴニョニョの意向を確認しようとボールを差し出すと、この子は迷うこともなくそれに納まった。それもきっと、簡単な決断ではなかったはずだと思う。

「出てきて、ゴニョニョ」

 真ん中にある開閉ボタンを押すとボールは2つに割れ、そこからあふれる光と共にピンク色の丸っこい姿が飛び出した。頭を優しく撫でてやると、ゴニョニョの微かな声が私の鼓膜をくすぐった。
 相変わらずこの子の声はいつもこんな感じで、あの日の「声」が到底信じられないくらいだ。けれどそれでもあれは夢幻なんかじゃないと、私は間違いなく知っている。

 それなら。私にもちゃんと、いつかそんな強い「声」を上げられる日が来るかもしれない。論理的ではないと思うし勘違いかもしれないけれど、やれるかもしれない。そう感じるのだ。



 人気のない橋の下。ゴニョニョを連れて、私は歌う。
 以前は親友とふたり歌っていた、久方ぶりのその歌をひとりで口ずさむ。

 夏の匂いの風が吹いて。今日のこの澄み切った空のような高い歌声が、ふと重なった。
 振り返ると、

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