人類総タマタマ

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作者:早蕨
読了時間目安:38分
◎◎◎

 まわる。まわる。
 頭の中をからっぽにして、口を半開きで、空を見つつ、まわる。ああ、もうどうでも良い。どうでも良い。
 仕事、お金、孤独、生活、野望、家族、色々あるけど、何も気にしない。無になる事は素晴らしい。
 くるくるとまわる。皆でまわる。このまま回り続ければ、何も考えなくて良いかもしれない。

<1>

ポケモンが好きである。弘海明人(ひろうみあきひと)の根本は、ただそれだけだった。パートナーであるペルシアンを毎日愛でる事はもちろん、多種多様な、色々なポケモンを愛した。動くのを見ているだけで心が踊り、躍動感あるバトルを鑑賞すれば興奮した。

 昔から勤勉に積み重ねをする資質はあったため、苦労に糸目はつけなかった。ポケモンという生き物が関わる全てに身を投じたいとさえ思う弘海だったが、人生というタイムリミットがある以上、絞らなければならない。弘海は研究者とバトル競技者という二つの道の両立という、困難な道を歩んでいた。

 客観的に見ればその境涯は成功者の部類に入るのだろう。研究者としてそこそこの地位にいて、兼業でバトル競技者という肩書を面白がった企業が、スポンサーにもついていた。だが、求めるのは更なる高みである。誰の干渉も受けず、自分勝手にやれる素晴らしい世界を目指していた。その高みへ登るために、越えなければならない人間社会という猛烈なしがらみが、弘海を阻んだ。

 阻んだ、とは言っても、外部からの圧力など何もなく、誰かに直接的に邪魔をされた訳ではない。それでも、弘海からすれば阻まれたのである。
 単純に言えば、同じ様な才能や能力を持った人間が二人同時にいた時、人間的に優れている様に”見える”方を選択するならば、弘海はその”見せ方”が絶望的に下手くそだった。

 自分という壁が、どうしても越えられなかった。
 研究者としてもっと成功したいと思っても、バトルでもっと活躍しようとしても、立ちふさがるのは自分だった。弘海のやりたいように生きて行こうとするには、とてつもなく小さな可能性を拾って行かなければならない。そのために必要な、人間としての能力が絶望的に足りない。人は苦手だった。

 我を通したくとも、研究者やバトルの世界は、ポケモンへの情熱や、ポケモンと上手に意思を通わせるだけで駆け上がれる世界ではなかった。中途半端な才能では足りない。チャンピオンになった途端にその地位を放り出すような、あんな滅茶苦茶な才能を持っていなければ無理だ。三十代半ばを迎えた弘海は、時間の経過に焦りを感じつつ、身体の芯からそれを理解していた。

 理解し、受け入れた。人となるべく関わらず、人を避けて我を通そうと努力した。それでも無理なのだから仕方がない。仕方がないので、落ち込みはしなかった。やるだけやった。やれる事は全てやったつもりだった。後悔はないと言えば嘘にはなるが、それでもこれ以上何をやれば良いのだ、と自分に言えるくらいにやってきた。

 甘んじる事も出来た。そこそこのポスト、そこそこの地位、そこそこの実力。弘海は、他人から見たら自由にやれていると見られるのかもしれないが、あまりに純粋無垢な弘海は、突き詰められない事に絶望した。人間社会で生きていればどこかで付きまとう付き合いや忖度やしがらみに対応しなければならないが、それが出来なかった。

 だから妥協した。
 趣味でも出来る。
 文句は言わせない。 
 やりたい事は、独りでもやれば良いだろう。
 在野として生きていく決断だった。
 どろどろの自己顕示欲で溢れそうなアカデミズムの世界や、ヒロイズムに酔ったバトルの世界を、弘海は飛び出した。

<2>

 飛び出してすぐに直面する問題は、金だった。今までの稼ぎで一生好きな事をするには足りない。 
 趣味でやるにも何にしても、金がないとやっていけない。飯を食わないと生きていけない。培って来た文章力や、単純なバトルの強さで日銭を稼げる自信はあったが、今のままだと自由きままにはやれない。前と同じである。外に飛び出してしまってから、弘海はフリーの方が自分を演出する大変さがあるのだと理解してしまった。

 どうすれば良いのか。
 がむしゃらに自分のやりたい事を続けられるのならばそれが一番良いのだが、根が真面目な弘海が選択したのは、自分の一番苦手な部分を補うための職業だった。

 外へ飛び出しやりたいようにやるはずだったのに、まだ諦めきれていない。元居た場所で我を通す未来を夢見ているのかもしれない。それでも、現実としてもう飛び出してしまった。この状態になってしまえば、もう後がないので動くしかない。

 やらざるを得ない状況に自分を追い込み、これをチャンスだと思えば、人間社会に揉まれ、泥が渦巻いた社会に飛び込みたくなってしまう。それが必要ならやる。ここまで来れば仕方がない。苦労を重ねる事には糸目をつけない男である。
 そうと決まれば、弘海の行動は早い。
 
 自分が培ってきたものを何も使わずに金を稼ごう。そう思って就活を始めた。選んだのは、営業だった。

 自分に一番縁遠いと思っていたから、案の定決まらない。適性がないと思われれば、取ってはもらえない。年齢の問題もある。このままではいけない。すぐに弘海は戦略を変える。こちらの事情だけで突っ込んでいっても無理ならば、もうちょっと感情的な部分を押し出してみよう。
 ポケモンが好きであるという根本。それだけはずっと変わっていない。だから、弘海はそれを前面に押し出した。

 この世の中、ポケモンが関わっていない仕事の方が珍しい。ポケモンが好きなどというありきたりな情熱を伝えても、どうにもならないだろう。だが、他ではない弘海明人のポケモンに対する情熱は、人並外れているといって過言ではない。

 それを前面に押し出せば、面白がってくれる人はいるはず。
 最初こそ気が進まなかったものの、やってみれば気が変わっていった。
 弘海にとって自分を他人に説明するというのは地獄のような作業だったはずだが、いかにポケモンが好きだというだけで生きてきたか、これからもその根本は変わらないんだという事を説明するのは、意外にも苦ではなかった。

 学生時代、同級生に自分の事を理解してもらう気など微塵も起きなかったし、説明したくもなかった。誰も真面目に聴いてくれる気がしなかったからだ。
 大人になってもそれは同じ。真面目に自分の話を聴いている人がどれだけいるのか、どうしても懐疑的になってしまっていた。

 だが、今は違う。中には引いている者もいたが、企業の採用担当の一部には、随分と真面目に弘海の話を聞いてくれる人間がいた。前のめりに質問してきた。それはただのポーズかもしれない。演技なのかもしれない。けれども、相手も金を使って弘海に時間を割いているのだと思うと、その真面目さがフリでも演技でも良い気がした。こいつはこいつで真面目に仕事をしているんだと思えば、自分の事を説明するのは悪い気はしなかった。

 受けた会社が両手両足の指で数えられなくなって来た頃、弘海の話を面白がった会社が、採用を決めた。

 セキチクシティの会社だった。ポケモンセンターに置かれている回復装置の一部品を取り扱っている部品メーカーで、カントーでのシェアは二位。他地方にも身を乗り出していて、今勢いに乗る企業だった。

 採用された事には驚いたものの、仕事が決まればそちらへ邁進していくのが弘海である。ポケモン好きの趣味はどこへやら、まずは採用された会社で一人前に熟すため躍起になった。

 弘海は、カントーに生息するポケモンの分布図とその歴史的経緯について研究していた。全てはポケモンのため。人間とポケモンの共生が急速に進み過ぎた現代を危険視する一人であり、その急先鋒となっていた。そのくせ共生を象徴するようなバトルにも力を入れやがって、と批判も毎日浴びていたが、ポケモンバトルが競技になる遥か昔から、ポケモンと人間は守り守られの関係があったのだから、まったく問題はない。というのが弘海の結論だった。

 一先ずはその研究もとりあえず横に置いておかなければならず、毎日毎日続けていた自分のポケモン達とのバトルのトレーニングも、弱めなくてはならない。
 弘海はとにかく、まずはついて行こうと決心した。

 人がどうしたら自社の部品に興味を持ち、話を聞いてくれるのか。何がきっかけで決定してくれるのか。綺麗な話から汚い話まで、これも仕事だと割り切った弘海は突き進んだ。

 だが、採用の時と違い、自分の事をふんだんに喋って良い訳ではないので、どうしてものめり込み切れない。自社の商品のウリ、というのは勉強していれば分かって来るのだが、自分、というものが入っていない気がして、身が入らない。
 さあどうしたものか。とりあえず金を稼げるのだから良いじゃないか、と言われればそれまでなのだが、それでよしと出来れば弘海はこんな人生を歩んではいない。基本的には頭の固い、頑固な人間である。

 元はと言えば、在野研究者や流浪のバトル競技者としてやりたいように生きて行く予定だったのだ。そのためのスキルを身に着け、動ける資金を蓄えるのは、当たり前の事ではないか。そう言い聞かせて自分のケツを叩き続けるものの、弘海の身体は我儘を言い続ける。こればかりはもうどうしようもない。

 とりあえず、なんのために今の会社に入ったのか、毎日毎日自分に言い聞かせ続けよう。ポケモンに対する情熱をぶちまけて入ったのだから、そういうものに関われているという事実だけでも自分なら動けるはずだ。ポケモンの回復装置なんて、全国のポケモンセンターに設置されているとても大事な福祉設備の一つだ。企業で取り入れているところもあるし、様々な場面で利用されている。そんなものに関われている。自分のポケモンが回復する装置の一端を担っているのだ。後は、気持ちをそこに乗せていけば良い。

 そう思えば、本気で身を入れる事が出来る。
 ここは踏ん張りどころで、新たな選択肢や武器を増やせるターニングポイント。苦手な事へ一直線に取り組んでいき、弘海は努力した。

<3>

 一つの事に没頭出来るというのは、それもまた一つの才能なのだと弘海自身は理解していた。今まで見て来た人間達の中には、一点に力を集中して努力を重ねる事が出来ない者がたくさんいた。情熱、環境、意識、色々な要素があるが、弘海自身は成功体験を如何に積み重ねたかだと考えていた。一つの事に集中した結果得られるものが、自分を支える糧となる。

 ポケモンが好きなだけなのだから、関係するものに関わっていられるだけで嬉しい。流石にそれはあまりにも綺麗事過ぎる。心のどこかではそう考えている弘海でさえ、それだけが全てではない。気持ちだけではそこまで行けない。試験に受かるとか、表彰されるとか、周りに褒められるとか、親に頭を撫でられるとか、なんでも良い。どんな小さなものでも良い。そういう経験が自分の一部になっているかが、没頭し続ける力を育て、細い糸を手繰ろうと頑張り続けられる原動力となる。そう思っていた。

 だから、今回新しく始めたこの営業という仕事は弘海にとってかなり辛いものがあった。前と、繋がりが無さ過ぎた。経験値がなく、異世界過ぎて、人間同士のコミュニケーションがメインで、何をどうすれば良くて、しきたりはこうで、マナーはああで、とにかく、弘海が今まで培ってきたものが役に立たない。これまでの人生の”糧”を食い潰して耐え忍んだ。何度も叱られ罵られ、挫けかけたものの、やめるのを極端に嫌った弘海は、とにかく粘った。

 一切興味のなかった他人の行動を見て覚えた。歯の浮くようなお世辞を言って、相手の話を聞き出す技を知った。無駄話に付き合うのが、距離を縮める良い手段なのだと知った。一緒に食事をするのが、こんなにも人間関係をプラスに持っていく事を知らなかった。他人には他人の努力と、それぞれを突き動かす何かがあるのだとよく分かった。

 そして、弘海の判断でそれを否定してはいけないのだと今更学んだ。自分が苦手なものに取り組んでいるからなのか、他人に対するハードルが低くなっている。人と話す楽しさを、弘海は三十代半ばになって少しだけ分かった。  
 加えて、意外と人は単純に思えた。生来の真面目さと周りに若干引かれながらも無理矢理身に着けたコミカルさ、後は覚えてもらえるキャラクター付けとなる部分があれば、少しずつ成績はついて来た。幸い弘海は今までやってきた事が自分というキャラクターを作る上で良い材料になっている。

 面白いとか、おいしいご飯を一緒に食べられるとか、趣味が合うとか、そんな程度で人は動く。ビジネスの話だけまとめても、こいつと仕事したくないと思われたら仕事を貰えなかったりするのだ。最初はそれでさえカルチャーショックだったが、ああなるほど、前までは自分も”一緒に仕事をしたくないやつ”だったのかもしれないと思えば、色々な事が納得出来た。
 中途半端な才能と、我を通したいだけのやつでは、大成する事など不可能であると。

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 為せば成る。周りの技術を盗み、人と上手に喋れるようになった。その自負を持ち始めた頃、成績は十分についてきた。生活も安定してくれば、時間的余裕も出て来た。当初の予定通り、空いた時間で研究やバトルにも比重を置き始める予定だったのだが、気付けば仕事ばかり。趣味の時間を全て仕事のために充てていたら、相棒のペルシアン含め自分のポケモン達と前みたいな十分なコミュニケーションが取れていない。

 これではいけない。一体何のために仕事をしているのか。本来の理由を忘れかけている。力を入れすぎて、それくらいのめり込んでいた。
 しかし、こういったところに目が向けられているというのは、余裕が出来てきた証拠だ。悪い事ではない。弘海はそれから、どんなに疲れて帰ってきても、出張先であっても、必ずボールから外に出してポケモン達とコミュニケーションを図った。

 そういった充実した生活が送れていると、どんどんその先を求めたくなる。仕事に没頭し、自分のポケモン達とのコミュニケーションも元に戻れば、次は当初の予定通り、自分のやりたい事にも比重をかけたくなってくる。
 だが、仕事と自分のポケモン達で既に弘海の生活のキャパシティはほとんどいっぱい。ここにどうやって研究やバトルを差し込めるのか。
 このままでは難しい。なるほどフリーでやるというのも大変なんだな、と弘海は改めて理解したと共に、仕事をやめれば良いのでは? という案すら出ていない自分に気付いていなかった。

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 会社の人間とも何気ない会話を交わせる程度には関係性を築けていた。困っている事をなんとなく相談してみると、別にやめたっていいんじゃない? と弘海がまったく予想していなかった答えが帰って来た。

 その返答に少しムっとした弘海だったが、どうやら悪気がある訳ではない。聞いてみれば、目的通り人間社会でやっていけるスキルは身に着けたのだから、自分の本業に戻ったって良いのではないか、という話だった。会社は誰かが抜けたら回らなくなるようには出来ていない。そういうもんだ、という話である。

 くそがつく程真面目な弘海は、一度始めたこの営業という仕事を途中で放り出す事が悪なのだと思い込んでいた。
 だが、考えてみれば自分の苦手な部分を克服しようと始めた事であって、ここを最終キャリアにしようなどとは最初から考えていないのだ。同僚の言う通り、退職は当然の選択肢。

 しかしこのままやめては癪だ。まだ、弘海明人という人間がここにいたという形跡を残せていない。要は自分で納得出来ていなかった。今抱えている他地方との大きな契約を決められれば、弘海の成績はゼロがひとつ増える。それを成し遂げてからやめても遅くはない。

 ここは転換点なのだろう。アカデミズムやバトルの世界でも、勝負どころは幾度もあった。それを乗り越え、次のステージへ進んでいくのだ。
 今回もまた、そのタイミングなのだろう。
 他地方との契約は、オンラインでプレゼンさせてもらえるところまで漕ぎつけている。そこで興味を持ってもらって、では実際に、という話に繋がれば大成功だ。

 弘海はその日、出色の出来栄えであるプレゼン資料を上司へ提出した。赤が入った部分の修正まできちっと済ませ、週明けのオンラインでのプレゼンテーションに向けて万全の準備を整えた。
 後はその日を迎えるのみ。
 弘海は、特に緊張はしていなかった。やれるだけの事はやってきた。後は、臨むだけである。

<6>
 
 弘海がセキチクシティの会社を選んだのには訳がある。
 サファリゾーンがある事。それと、海が見える事。前者が圧倒的に理由としては強い。内陸部のニビ出身の弘海にとっては、色々なポケモン達がそこかしこに暮らしている様子を見られるサファリゾーンのある町で暮らせる事に、とてつもない期待感を膨らませていた。

 実際は、仕事に没頭しすぎてそこまでサファリゾーンへ通へてはいない。余裕が出てきて、自分のポケモン達とコミュニケーションを取れるようになってからも、くまなく周れてはいない。なので、最近は朝を利用してサファリゾーンを散歩するのが日課となっていた。自分のポケモン達を連れていけないのが大変残念な部分であると弘海は常々思っている。

 朝のポケモン達の姿を見て欲しい、とサファリを開放しているサファリゾーン運営者の仕事は大変素晴らしい。弘海の様な人間にとって、朝のその時間は大変な至福の時だった。

 毎週毎週日課になっていて、今では平日にも一日この朝のサファリ散歩を取り入れている。弘海は、自分という人間がいかにポケモンが好きなのか改めて思い知る。今まで、ポケモンから離れる事のない生活を送っていたため、いざ他の仕事をしてみて離れてみると、それがよく分かる。
 やっぱり、ポケモンに直接関わって仕事をしていきたい。そういう想いは、弘海の中で大きくなって行く。

 今の仕事も嫌いな訳ではない。回復装置の部品を世に広めているという意味ではポケモンに関われているし、後は、単に売れたら嬉しいのだ。
 人間は意外と単純なものだ、と理解出来たのは、自分が意外と単純であると分かった事も要因の一つであった。

 今回もまた、自分が納得出来るところまでやり切って次に進めば、それは成功体験となる。自分の血肉になってそれを使って、弘海はもっともっとやりたい事を広げて行ける。
 月曜日のプレゼンに俄然気合いの入る弘海だったが、燃えるにはまだ早い。まだだ。休める時には、きちんと休む。今は、朝のサファリを楽しんだ方が良い。
 
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 プレゼン当日の朝、弘海は緊張で落ち着かない気持ちを落ち着けるため、サファリゾーンを歩いていた。
 今日が勝負の日だと自分で思ってしまったのが却ってよくなかったのだと、毎度の事ながら自分を責めた。平常心平常心、と自身に言い聞かせながらポケモン達が生活する姿を眺める。ポケモン達の身体的な特徴、行動、鳴き声、仕草、何を見ても癒される。それを見ているだけで、気も紛れる。

 ポケモンという生き物は本当に素晴らしい。弘海は、サファリのある町に住んで良かったと今更ながらに思う。
 朝の散歩では、サファリの奥地にまでは行けない。生い茂った草むらを掻き分け、入口から遠く離れてポケモンに没頭していると、うっかり入口まで戻るのに大変な時間がかかってしまう。遅刻しそうな経験が過去あったので、弘海は気を付けて歩く。

 コンパン、ニドラン、パラセクト。サイホーンにモルフォン。珍しいところでいけばラッキーやストライク、ベロリンガ。ケンタロスが走っている姿を拝めればその日の気分は最高だ。水辺にいけばトサキントやアズマオウにヤドン。運が良ければミニリュウなどが見られる。

 ポケモン達の姿を見て、大分気が紛れて来た。そろそろ戻ろうかというところで、弘海は視界の端に、違和感、と呼ぶには薄いが、気になるものを感じた。
 タマタマだ。タマタマ自体は珍しいポケモンではない。サファリゾーンでも数多く生息しているし、ナッシーが群れで歩く姿に出会えたら、それはそれは素晴らしい。

 何故視界の端に捕らえたタマタマを見て気になったのか。どうしても確認しないと気が済まない弘海は、草むらで飛び跳ねて回っているタマタマへ、そっと近付いて行く。そろそろ戻らないと準備が間に合わないので時間もあまりないが、どうせ気のせいか何かだろう。チラっと見て戻ろうと何気なく近寄ったが、思いがけないものを見た。

 タマタマだが、タマタマ……ではない? 違和感がある。何だ。どこに違和感を感じるんだ。
 あっ、と弘海が声を漏らした時、全てのタマタマが止まって、こちらをじっと見た。視線が交わる。一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、六匹、七匹、八匹、九匹、十匹。……十匹。

 タマタマは通常六匹を一集団として成立する生き物だ。一匹でも欠ければ途端に皆臆病になるし、引き離されてもテレパシーで通じ合い、いつの間にか元の六匹でまた回っている。何故六匹なのか、というのはまだ明らかにされていない。

 殻は意外と固く、割れている個体がいても周りは気にしない。特に問題はないのだというのが通説だ。集まって会話をしているという話もあるし、六匹で一つの思考を持つと主張する学者もいる。タマタマというポケモンはポケモンの中でも特に不思議な生き物であるのは間違いない。弘海も興味を惹かれるポケモンの一匹ではあった。

 そのポケモン、タマタマが十体で一つの集団を作っている。これは一体どういう事か。視線が交わったまま、弘海は動けなくなる。好奇心が膨れ上がって行く。六匹でタマタマ、という通説が崩れる。今までにもタマタマを七匹にしてみたり八匹にしてみたり、三十匹、百匹にしてみる実験は聞いた事があった。どの実験も結果は同じ、皆六匹ずつに分かれて集団を作るのだ。しかも、元々の六匹で。では、何故目の前のタマタマは十匹で動いているのだろうか。四匹は他の集団とはぐれているだけ? 他の二匹は? その辺にいるのだろうか。

 顔を上げて辺りを見回そうと思って、弘海は自分の身体が動かせない事に気付いた。左にも、右にも、どこにも動かない。動けない。何故。どうして。何がどうなっている。タマタマとだけ視線を合わせ、ただそこに注視する事しか出来ない。

 普通だったら焦るのだろうが、弘海は喜んだ。タマタマの不思議に、自分が関われている。この不思議で奇妙な状況を、ただ楽しんだ。弘海のそんな気持ちを超能力を持つタマタマが読んだのか、十匹全員、ニヤっと笑う。次の瞬間には勝手に足が動いて、弘海はタマタマの集団の一人となっていた。そのまま足は動き続け。跳ねながら回り出したタマタマと一緒に、弘海も回り続ける。回る回る回る。まわる、まわる。

 ああ、なんて気持ち良い。頭がぼうっとしてきて、何も考えられなくなって来た。ポケモンの一部になっている。トランス状態に陥った弘海は、口を半開きにしたまま、その場を回る。
 まわる。まわる。まわる――。

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 どれくらいの間回っているのだろう。弘海の人生、こんなにも呆けた事はなかったかもしれない。常にポケモンの事を考え、生活し、必要な知識や経験を積み、お金を掛けて来た。常に全力で走っていたと言って良い。友達も作らなかった。青春、と呼べる華やかな学生時代を送った記憶はない。酒もタバコもギャンブルもやらないし、パートナーもいない。ポケモンに全てを捧げて来た。

 そんな弘海は、こんなにも蕩けそうな時間を味わった事がない。何もしてないのに、こんなにも満たされている。動き続けているのに疲れない。気持ち良い。全てが開放されたかのように、全てを曝け出したかのように、自然に還る。ただ、何も考えず、身を預ける。

 そういえば、今日は何かある日だった気がする。この全てを解き放っている日に、他に何がいるのだろうか。これまで駆け抜けて来た人生、少しくらいこういう日があっても良いだろう。休日、ではなく、立ち止まって心と身体を休める事の大切さ、全てを開放する必要性を感じつつ、広海は回り続ける。

 ああ、いつまでもこうしていたい。タマタマになって、タマタマと一緒に、タマタマになりたい。
 弘海の思考はもう地に足が着いていない。ふわふわと漂う感覚にただただ包まれる。もう、どうなっても良い。
 いよいよ頭に何も浮かばなくなって廃人になろうかという頃、ぷつんと途切れた様な感覚を感じ、弘海の足は止まった。

 重力がある。
 息を吸わないと行けない。
 力を入れないと立っていられない。
 動こうと思わないと身体は動かなかった。突然足を止められ、力も碌に入れていなかった身体はその場に膝から崩れる。正座して、弘海はそのまま前につんのめった。

 思考が鈍い。一体、何をやっていたのか。訳の分からない事態を、まずは把握するところから始めなければならない。数秒前のあの異様な快感はなんだったのか。まだ余韻が頭をぶち抜き、思わず蕩けそうになってしまいそうだった。タマタマと目が合ってから起こった一連の出来事は、全て現実だったのだろうか。伏せっていても、周りの静けさでタマタマがもういない事が分かる。タマタマのエスパー技を食らったのか。あの不思議な十匹のタマタマは、一体何を意味するのだろう。元々六匹だったタマタマが、更なる仲間を求めて周りを取り込んでいるのかもしれない。

 人類総タマタマ。

 その字面を頭に思い浮かべて、弘海は思わず笑ってしまう。思考が大分クリーンになって来て、身体を起こす。足がまだ覚束ないものの、歩けない程ではない。
 さて。これからどうするのだったか。

 一歩歩いて、今日は何曜日だったか思い出す。二歩歩いて、自分が今何をやっている人間なのか考える。三歩歩いて、自分の置かれている立場を理解した。
 まずい。
 腕時計を咄嗟に確認する。
 時計が刺していたのは、午前十一時半。
 プレゼンの時間は、十時だったのではないか?
 途端に身体が震え出す。思考はくっきりするどころか、ぐちゃぐちゃになっていく。冷汗が、弘海のこめかみを滑る。
 恐る恐る携帯を取り出してみれば、夥しい数の不在着信。その数と間隔の短さに、怒りが感じ取れる。

 終わった。
 弘海はただただそう思った。今から会社に向かって、弘海に席が残っているのだろうか。ただ、行かない訳にはいかない。素直に頭を下げるくらいの事はしようと、根が真面目な弘海は重い一歩目をゆっくりと踏み出す。

 二歩目、三歩目と足取りの重さを感じていたが、一歩一歩前に足を進めていると、最初は重かった足取りがだんだんと軽くなっていく事に気付いた。最早どうでも良い、という感覚が強くなってきた。もうなるようにしかならない。出社して謝って、辞表を出して終わりだ。自分が行ってきた事の中で、こんなにもどうにもならないものは初めてだった。どうしようもない。百パーセント弘海に非がある。

 それでも冷汗を垂らしながら早足でサファリの入口に向かって歩いていると、図々しくも、今度はだんだんと自分が悪いという気持ちが薄れていくのを感じていた。タマタマに囚われていたあの間の、言いようもない感覚が忘れられない。全力でひた走る事しか出来なかった弘海に、とてつもない気付きを与えたと言って良い。サボる、バックれる、約束を破る、良いじゃないか。生きていればそういう事もある。

 弘海は生まれ変わったような気さえしていた。
 ああ、自分は呪われていたのではないか? とさえ思う。ポケモンという生物に魅了され過ぎている自分がいた。それでいい、それが良いんだと思っていた。今でもそれが間違っていると思わない。だが、そうじゃなくても良い瞬間があっても良いだろう。異常なポケモン愛から来る弘海のストイックさは、三十代半ばにしてようやく休みを得たのかもしれない。

 あのタマタマには感謝しなくてはいけない。
 弘海は、辺りを見回してももうどこにもいない十匹のタマタマに、心の中で礼を言った。

 また会いたい。彼等が一体何者なのか、それを明らかにしたい。これからの人生、全てをそれに捧げても良いのかもしれない。と冗談混じりにそんな事を考える。
 今度はタマタマに呪われたのかもしれないな、と思いつつ、弘海は大事なプレゼンに遅刻した事実を受け止めたまま、一人ニヤりと笑った。

<9>

 悪いとは思いながらも、悪びれる事なく出社した。昼食時だった。いつものようにスーツを着て、ネクタイを締めて、革靴で音を鳴らして出社した。慌てた様子の同僚に声を掛けられ、いつも通りに返事をした。すぐに上司に呼び出されて会議室に連れて行かれると、一体何をやっていたんだと静かに責められる。

 怒鳴られる訳ではないらしい。どうやら、プレゼンは上司がなんとかしたらしかった。ただ、あんなに熱心だった弘海さんが姿を見せないなんて、残念です。と、相手が顔を曇らせトーンダウンしてしまっているのは事実で、取れるはずだったこの案件を落とすかもしれない。このプレゼンはお前が適任だったよ、俺も残念だ。と、上司は露骨な落胆の姿を見せた。人に落胆される事に弘海は慣れていなかった。そこそこに褒められる成果を今まで上げて来たからだ。嫌われる事はあっても落胆を人に与える事は少なかった。

 会社からの失望に弘海は多少のショックを受けるものかと思っていたが、案外ダメージはなかった。
 自分に対するハードルが下がったのだ。タマタマと同化した事は、弘海の頭に一つの事実を植え付けていた。所詮一個の人間。所詮この社会の一部。何者でもないんだという意識が、突如として弘海の頭を埋め尽くした。今まで、自分は特別なんだと、何か大きい事が出来るんだと、そんな途方もない夢だけを見ていた。もちろん、研究を大成させる上でもバトルで成功する上でも、途方もない夢や突拍子もないアイディアは必要だろう。だが、弘海が感じたのはもっと根本で、自分は何者でもなく、今までの自分の高慢さを恥じたというような、そういうレベルの話だった。

 上司からの説教は、とても短いものだった。言われないだけで、事情も話さず無断で遅刻したペナルティが下されるだろう。次の査定は期待出来ない。それどころか、降格まであり得る。クビにされないだけマシだろうか。不思議ともったいないとか、悔しいという気持ちはなかった。仕事に対する気持ちがなくなった訳ではない。タマタマに同化した事で得られたものの方が、この状況よりも価値があったように感じているだけだった。

 客先に電話を入れておくように、と最後に言われ会議室を後にした弘海は、そのまま非常階段へと出た。ビルの五階から見るセキチクの景色が、弘海には随分色濃く感じられた。なんだか、少し気分が良い。

 とりあえず一言謝っておかないといけないので、弘海は携帯を取り出して客先へコールする。すぐに電話に出た客先担当者は、どうしたの! 何かあったのかい? と弘海の心配をしてくれる。このプレゼンに漕ぎつけるまで、何度も何度もやりとりをして、根回しをしてくれた担当者である。あれだけ熱を入れていた弘海が、すっぽかすような事がある訳ないと考えてくれている。会食の席ももう何度も同席し、弘海を面白がってくれる人物で、プレゼンさえ滞りなく事前に打合せた通り出来れば、契約まで行ける手筈だった。

 弘海は、上司にも言っていない遅刻の理由を客先の彼へ喋った。ただ、ありのままの事実と感じたものを言葉にした。

 十匹のタマタマという興味深い存在と、あの不思議な時間について、客先の彼はとても興味深く話を聞いた。それ、凄い事じゃない? 発見じゃない? その不思議な感覚って、どんな感じ? と、興味津々だ。

 遅刻の理由をこんな意味不明な言い訳で誤魔化そうとするなんて、と怒らない彼は、弘海と馬が合った。最早会議に出られなかった事を謝るような展開はない。仕事の話は置いといて、その話、もっと聞かせて欲しいから早く来い。と話はどんどん転がって行く。発注の件? それは安心してくれて良い。あのプレゼン資料はよく出来てる。発表も上司の人がそれっぽくやっていたから大丈夫だよ。根回ししとく。それよりその話、もっと詳しく聞かせに早くこっちへ来てくれ。ついでに仕事の話をしよう。後で、スケジュール頂戴。

 それだけ言って、電話は切れた。非常階段で、セキチクの景色を見ながらしばらく弘海はポカンとしていた。立ち止まった事には価値があったが、ここまで良い方向に働くとは弘海も考えていなかった。
 これで契約はうまくいくのかもしれない。
 人生、何があるか分からない。

<10>

 弘海は契約を取れて一段落したらこの仕事をやめようかと思っているが、その話を客先の彼にしたら、がっかりされるだろうかとそれだけが気がかりだった。どのタイミングで話そうかと考えてはいるものの、頭にあるのはタマタマの事ばかり。

 あのタマタマは、一体なんだったのだろうか。再度発見出来てそれを捕獲する事が出来たら、学会的には大事だろう。弘海はもう一度探すためにサファリに足を運ぼうかと思っていたが、学会がどうだという話よりは、あの不思議なとてつもない快感をもう一度味わいたいというのが本音だった。また見つけても、その事実を発表してやろうなんていう気にはならない。あの不思議な十体で一匹のタマタマには、十体どころか増えていって欲しいと弘海は思っている。取り込んで増えて行って、どうなっていくのか見てみたい。

 人類総タマタマ、というどう考えてもどうしようもない世界を想像してしまう。そんな世界を想像してしまうだけで、大抵の事はどうでも良く感じた。

 気がかりではあるものの、客先の彼も弘海が正直に今思っている事を話せば、きっと応援してくれるだろう。張り詰めない事を覚えた弘海は、一歩引いた状態で今後自分を見つめられる気がしていた。随分と心が軽くなった気もする。今の仕事で身に着けた人との関わり方を使えば、今後フリーで仕事をしていく上でも食えなくなるという事はないだろう。

 人生が随分軽くなった気がした弘海は、その日、自席で同僚から白い目で見られている事も気にせず、ゆうゆうと客先の彼にスケジュールを送った。もちろん、定時に退社した。

 翌日の朝、早起きした弘海はいても経ってもいられなくなってもう一度サファリに向かった。十体で集まっているタマタマを探して昨日いた場所まで歩けば、同じ場所にいた。ぴょんぴょん飛びながらぐるぐると回る様子を見ていると、昨日のような状態になれるはず。

 近くに寄ってじっとタマタマを注視する。じっと、頭を空にして、心を無にする。
 そのまま数分間弘海はタマタマを見つめ続けたが、いくら待ってもこちらを見てはくれない。もうお前には必要ないだろ、とばかりに無視して回り続ける。あの快感が欲しい。ただの中毒者でしかない思考に苦笑するしかなかったが、求めてしまっているのだから仕方ない。

 その後、いくら待っても終ぞあの不思議な状態になる事はなかった。それが無理ならば今度は調べたくなってくる。どうして十匹なのか。十匹のタマタマは他とどんな変わりがあるのか。見ているとどうしても捕獲したくなってくるが、弘海はそれを堪えた。捕獲して手元に置いてしまうのはやはり違う気がした。この十匹のタマタマの事は、自分だけが知っていれば良い。客先の彼に話してしまったのも、今日の朝には後悔していた。

 それから、弘海はほぼ毎日サファリゾーンに通い続けていた。行けばそこにいるのだが、あの不思議なタマタマはあの時以来混ぜてはくれないようだったし、いくら見ていても何故十匹で集まっているかは分からない。何も分からないまま、そして混ぜてもらえないまま通い続けていく中で、少しずついない日が増えていった。弘海はサファリへ通う頻度を減らした。気付けば、ほとんど会えなくなっていた。

 もう随分会えていない。
 契約は無事決まり、仕事も滞りなくスムーズに進んでいた。気持ち的な余裕と張り詰めた雰囲気が消えた弘海は、無理矢理コミカルさを作っていた時よりも随分人当たりが良くなった、と周りからは言われるようになっていた。それがタマタマのおかげであるのは、弘海しか知らない。

 あのタマタマには、もう、二度と会えないのかもしれない。あの十体で一匹のタマタマと初めて会った時の事を、弘海はきっと一生忘れないだろう。
 あの快感を味わえないのは残念だが、それについてはだんだんと忘れ始めている。もう必要ないから混ぜてくれないという弘海の仮説は、我ながら正しいのではないかと、根拠はないながらも密かな自信を持っていた。

 弘海は、変わった自分を気に入っている。今までクールを気取っていると思っていたペルシアンも、少し様子の変わった弘海に甘えてくるような時が増えた。
 今の状態が正解かどうかはまだ分からない。けれども、胸にそっと秘め、忘れないように留めておく言葉が一つ出来たのは、とても良い事だと思っていた。
 今も、そしてこれからも、誰にも言えない弘海の座右の銘は、ただ一つ。

 ”人類総タマタマ”

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