最奥へ

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作者:セイ
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 歯車の表面は脆い。柔らかくて、磨こうとしても、すぐにぼろぼろとはげ落ちてしまう。鋳たままの歯車ほどそれは顕著で。鉄の硬い部分というのは、もっと、ずっと奥にあった。

 鋳鉄製の小型の歯車を万力に挟み、ふと作業机から顔を上げる少年。ポリッシュコンクリートの床が広がる選手控室の一隅、そこで彼は歯車にやすりをかけたり、鉄を鋳造したりしていた。彼の目の前、作業机の上では手持ちのマグカルゴが、坩堝の中に入れられた鉄塊を『はじけるほのお』で溶かしていた。溶湯はやがて少年の手によってシリコン製の小さな鋳型に注ぎ込まれた。充分に冷却されたら型を取り出し、鉄砧に載せ、やすりを使って湯口やバリを削り落としていく。そうやってできあがった歯車を片手に、「おいで、ギギアル」と手招きする少年。彼の元に、壁際でわざの練習をしていたもう一匹の手持ちポケモン――ギギアルが寄ってきた。マグカルゴもまた机の上から身を乗り出すようにして少年の顔を覗き込んだ。

「まずは謝らせて。この間負けちゃったのは、トレーナーである僕の判断ミスのせいだ。一旦戦局が不利になってからは、僕もどうしたらいいのかわからなくなって、頭が真っ白になって。この歯車の表面の皮みたいに、あっさりときみたちの連携を壊すことになってしまった。今まで順調に勝ち進んできたものだから、そのことが祟って、余計にね。本当にごめんよ。けど、今日は大丈夫。この日のリベンジマッチのためにいっぱい特訓してきたんだもの。マグカルゴとギギアル、そして僕。3人の心が一つになれば、どんな相手にだって立ち向かえる。きっと勝てるさ。がんばろうねっ!」

 こくりと頷く2匹。少年は彼らに歯車を差し出した。するとちびギア部分の目を爛々と輝かせたギギアルが歯先を使って歯車を受け取り、でかギアの円盤の中心部で弾くことでそれを打ち上げた。宙を飛んできた歯車、それをマグカルゴが背中の殻を使って同様に打ち上げ、ギギアルの方へ弾き返した。そうやって羽突きの要領でお互いに歯車を打ち合い出した。2匹とも楽しげであった。彼らの遊戯は少年がバトルフィールドに立つ時間になるまで続くこととなった。

 オーレ地方、バトル山。火山地帯のただ中に設けられたここは、ポケモンバトルの修行の場として、あるいはダブルバトルの聖地として、数多のポケモントレーナーが集う対戦施設となっている。施設内部で待ち受けるトレーナーは計100人、外部からのチャレンジャーとなればその数は計り知れない。施設はエリア1からエリア10までの10個のエリアで構成されており、各エリアには一般のトレーナーが9人ずつと、エリアリーダーと呼ばれるトレーナーが1人ずつ存在する。チャレンジャーはその100人のトレーナーたちに挑むのだ。チャレンジャーを待ち構えるトレーナーたちは、各エリアを1から順に踏破していけばいくほど、すなわちバトル山の奥へ進めば進むほど手強い相手となる。ある者は輝かしい月桂冠を勝ち取った著名トレーナーたちと一度手合わせ願おうと、またある者は全ポケモントレーナーの頂点――栄誉あるポケモンマスターの称号を得るための第一ステップを超えようと、チャレンジャーとしてバトル山の100人抜きを目指すのである。この少年も例外ではない。彼もまたチャレンジャーの一人であった。彼はすでにエリアを1から5まで制覇し、エリア6に存在する9人の一般トレーナーに対して白星をあげていた。勝ち数にして59勝、唯一黒星がついたのは次の相手――60人目のトレーナーだけ。バトル山における難敵の一人とされるその相手に対して少年は再度の対戦を申し出ようとしているのだった。そうだ、59人目までは順調に勝ち進んできたのだ。マグカルゴとギギアル、そしてそのトレーナーである少年。3つの歯車は噛み合い、同じ調子で回り続けてきたのだという意識が心の中を掠めた。だだっ広い控室の中、こうやって試合開始の直前に羽根突き、あるいはキャッチボールをするように歯車を打ち上げて遊ぶマグカルゴとギギアルの姿を少年は何度も見てきた。それは微笑ましい情景の一幕であった。最強のポケモントレーナーになる、そういった野心に燃えるあまり少年が疲れきってしまったとき、ひとときの安らぎをもたらしてくれるのだった。だから少年は試合前のこの時間に歯車を鋳造することを自身の習慣としていた。手作りの歯車を渡してあげると、ギギアルはたいそう喜んだのだ。そういうとき、彼は歯車磨きや火おこしにいっそう励みたい欲求に駆られた。火の上で金属を熱したり、冷却したりすることをいっそう望んだ。多様な不純物を含んだ鉄塊がより高貴な物質へと変化するというのは、多元的なものが一つに回帰するというのは、少年にとってなんとも神聖なことに思えた。歯車を鋳造する、その行為自体が、マグカルゴやギギアルとともに心を一つにしてがんばろうという奮起を少年の中に促したのであった。

 『はじけるほのお』のような悠然と燃える炎が少年は好きだった。たしかに『オーバーヒート』や『だいもんじ』といったほのおタイプの大技と比べると、それは見かけの勢いでも実際の威力でも劣る。けれども彼はこの炎――『はじけるほのお』を見ていると、運命というものについて考えたくなるのだった。『はじけるほのお』には、ダブルバトルにおいて、ダメージを与えたポケモンのみならずその隣にいるポケモンにも一定割合のダメージを与えるという効果がある。炎が他者に燃え移るのである。そうやって悠々と己の運命を他者に伝えていく炎というものに少年は憧れた。『はじけるほのお』のように、勝ちたいという己の意志、ひいては最強のポケモントレーナーを目指すという己の運命をマグカルゴやギギアルに伝え、共有していきたいと願った。『はじけるほのお』はポケモントレーナーとしての彼のいわば信条であった。『はじけるほのお』とは対照的に、炎には己の運命を他者に伝えることなく、自らそれを消え尽きさせて終わるものも少なくないのだ。自分の好きなポケモンと好きなわざの組み合わせで最強を目指す。それは幼い頃から少年が抱いてきた夢であり、大志であった。

 バトルの時間になった。少年は控室から外に出た。彼は山あいに浮かぶ空中歩道を歩き、亜鉛メッキの施された鉄骨階段を登って、バトルフィールドに立った。フィールドは大きな分厚い円盤のような物体――円の直径上にざっとメタグロスが20匹並べるくらいの広さがある――が、その底部に取り付けられた巨大なプロペラによって谷の中に浮遊しているという構造であった。円形フィールドの大部分はそこかしこ亀裂の入った石灰岩で構成されていたけれど、円の縁に沿うように真鍮素材の金属プレートが敷設されていた。そしてフィールド中央には「60」という数字が掠れた赤ペンキで大きく描かれていた。この数字は60人目の相手であることの表象にほかならない。また、ここにきたのだ。少年は辺りを見回した。玄武岩の真っ黒な山肌を、磨いたばかりの太鼓橋のように色鮮やかな溶岩が蛇行しながら流れ下っていた。切り立った岩壁の頂部では、火花状の溶岩が、刀鍛冶が大槌で玉鋼を打ったときみたいに勢いよく噴き出ていた。そのすぐ脇、岩壁の斜面を、麦芽糖の結晶のように真っ白な軽石が疎らに覆っていた。まったく暑かった。熱気のためにものの輪郭が絶えず揺らめいていた。横で溶岩を見て極楽顔になっているマグカルゴも、上で愉快に踊って回っているギギアルも、随分と朧げな存在のように見えた。立ち昇る噴煙がリング状の火山灰を迸らせ、空をモノクロに染めていたので、時間帯の区別がつかなくなるほど薄暗かった。だが、少年が己の居場所を見失わなかったのは、超えるべき相手がそこにいたからだ。

「よくきたね」と、バトルフィールドの向こう側に立つ相手は親しげに声をかけた。黒のチノパンと浅葱色の丈長のライダースジャケットに身を包んだ、焦げ茶色の髪の青年。60人目の相手にしてエリア6の守護神、エリアリーダーのヴィゴだ。各地の町のコロシアムにて幾度も優勝の栄冠を手にしてきた紛うことなき実力者である。「今日は負けません。勝たせてもらいますよ」と少年が返すと、ヴィゴは興がるていで言った。

「『君は戦いに何を見るか』。バトル山で修行に励むトレーナーたちが向き合ってきた問いだ。答えはトレーナーの数だけある。トレーナーとポケモンの数だけ戦術がある。さあ、はじめよう。君たちの持てる力のすべてを私にぶつけてくれ! 2vs2のダブルバトルでねッ!」
「そのつもりです、ヴィゴさんっ!」

 少年の目の前に颯爽と登場したマグカルゴとギギアル。2匹の視線の先、ヴィゴの投げたモンスターボールから光の奔流が迸った。現れたのはバクオングとポワルン。以前と同じ組み合わせだ。

「マグカルゴは『ドわすれ』、ギギアルはマグカルゴをサポートしてっ!」
 
 先手を取ったのは少年であった。マグカルゴは糸目になって首を引っ込め、口元が地面につくまで頭を垂れた。一晩寝かせたケチャップソースのようにどろりと体を溶かした。これは『ドわすれ』のポーズ。そんな隙だらけのマグカルゴを遠距離から狙おうと攻撃の態勢に入ったポワルン。患者が歯科医に対してするみたいにその口が大きく開かれた。可愛らしい小さな口の奥、うがいをするみたいにぶくぶくと水が泡立ち始めた。その様子を見たギギアルが少年の方に一瞥を投げかけたので、彼は得意げに頷いてみせた。案の定、ポワルンの口から大量の水が放たれていた。『ハイドロポンプ』だ。シルクのように滑らかな白い水の奔流は、真っ黒な岩肌を背景によく目立った。だからギギアルが動くのも早かった。うとうとと舟を漕いでいたマグカルゴに水が届く寸前、ギギアルの『ボルトチェンジ』が決まった。対象はポワルンでもバクオングでもなく、マグカルゴのすぐ目の前。一瞬のことであった。開出毛のように粗い電気の束を纏ったギギアルのでかギア部分が疾駆、マグカルゴを『ハイドロポンプ』から庇うような位置を占めた。でかギアは高速で回転することで水を弾いたので少年の思惑どおり致命傷を免れた。そして相手の攻撃から味方を守るだけでは終わらない。でかギアの纏った電気は『ハイドロポンプ』を伝い、水の源泉――ポワルンへと到達した。電撃がポワルンに直撃した。そのつぶらな瞳が一瞬潤んだことがダメージを物語っていた。「ほう」とヴィゴは感嘆したような声を漏らした。

「なるほど。隙を作ることで相手の攻撃を誘発、味方を庇うわざを守りだけでなく攻撃にも利用するとはね。ギギアルの電撃によってマグカルゴの弱点を克服したわけか」
「以前のようにはいきませんよ。僕たちだってあれから強くなったんですから」

 ヴィゴのポワルンはマグカルゴの大の苦手なみずタイプのわざが使える。以前のバトルではマグカルゴがポワルンに4倍弱点をつかれたことで戦局が不利になったのだった。『ハイドロポンプ』などまともに喰らったらひとたまりもないのである。『ドわすれ』でマグカルゴの特殊防御力を底上げすることで即死のリスクを回避、さらにギギアルの電撃によってポワルンのみずわざを牽制、マグカルゴに安心して『ドわすれ』してもらうという狙いがあった。

「いいコンビネーションだ。けど私のポケモンはポワルンだけじゃないよ。バクオング、『ばくおんぱ』だ!」
「『それ』も想定内ですよ、ヴィゴさんっ!」

 ヴィゴの指示とともに『まもる』の態勢に入ったポワルン。その隣でバクオングが大きく息を吸い始めた。そうおんポケモン、バクオング。体中の穴から空気を吸い込むことで大声を出す種族。『ばくおんぱ』は相手のみならず味方をも巻き込むほど攻撃範囲が広く、ノーマルタイプのわざの中でも破格の威力を誇る。そして音を使って攻撃するので回避も困難。ポワルンの『ハイドロポンプ』と並んで対策必須級のわざである。そんな『ばくおんぱ』をシャットアウトする手立てが少年の中にはあった。

「……そうきたかい」

 苦笑するヴィゴの視線の先、バクオングは顔を歪めて唸っていた。両腕を背中に回して合掌を試みるという肩甲骨のストレッチでもするみたいなポーズをとっていた。背中――否、その長い尻尾の先にへばりついたものを取り払おうとしていた。バクオングの尻尾の穴をギギアルのちびギア部分が塞いでいたのである。ちびギアはでかギアが『ボルトチェンジ』を繰り出したときに分離したもの。わずかながら電気を纏っているので攻撃にも貢献した。バクオングというポケモンが音波を出す上で最大のエネルギー供給源になっているのは尻尾だ。それは体中の穴のうち尻尾に空いたものが最も大きく、また空気の通り道に関しても尻尾が最も太いという体の構造から容易に想像できた。2つある尻尾のうち片方の穴を塞いだだけでも『ぱくおんぱ』に対する充分な抑止力たり得る、そしてちびギアが確実にバクオングの背後を取れるようでかギアとの分離を攻撃と同時に行わせ、相手の注意をでかギアに集中させておく、それが少年の考えであった。

「畳み掛けるよ、ギギアル! 『サイドチェンジ』からの『ギアソーサー』だっ!」

 さらに幸運なことに『ばくおんぱ』にはデメリットも存在した。味方を巻き込むほど攻撃範囲が広い、これは裏を返せば隣にいる味方に『まもる』の発動を強制するということである。『まもる』によって敵、味方問わずほとんどのわざを無効化できるようになるけれど、その分『まもる』を発動しなかったほうのポケモンはいわば格好の狙い目となる。つまり他方に対する集中攻撃への対抗手段が手薄くなる。少年はこのことを利用した。ポワルンが『まもる』を発動している間に2匹でバクオングを狙おうと考えた。すっかりリラックスしてミネストローネみたいにトロトロになっていたマグカルゴも少年と目を合わせるや否や元の姿に戻った。作戦を理解したようであった。皿の上のプリンのようにぷるるんと体を震わせたマグカルゴ。その視線の先、バクオングの尻尾の先に張り付いていたギギアルのちびギア部分が上に移動、今度はバクオングの頭の上に空いた穴を塞いだ。するとようやっと尻尾が使えるようになったバクオングが再び空気を吸い込み始めた。その横、天然水晶の原石のような美しい結界が依然としてポワルンを包み込んでいた。『まもる』の発動はほかならぬ『ばくおんぱ』の合図。反射的に少年が両手で耳を覆ったのとギギアルがわざを繰り出したのはほぼ同時であった。反復横跳びのごとく敏捷な動きでもって左右を交互に移動するちびギア部分。バクオングの頭の上で残像をつくり出した。ギギアルの『サイドチェンジ』――自分と味方のポケモンの位置を入れ替えるわざだ。これによってギギアルのちびギア部分とマグカルゴの位置が入れ替わった。素早さに難のあるマグカルゴを戦いの前線に移動させることに成功した。一瞬にしてバクオングの頭の上にテレポートしたマグカルゴ。そのまま『のしかかり』で全体重をもってバクオングに負荷をかけていく――これは強力であった。物理攻撃力こそ低めのポケモンだけれど、マグカルゴの場合は生まれ持ったその体温が武器となった。初春の木々を覆う芽にも負けないくらいねばねばしたマグマの体がバクオングをのみ込んだ。バクオングは苦悶の表情を浮かべて叫んだ。足で地をしゃにむに踏みつけながら破れ鐘のような大声を上げた。油断してはならない。『じだんだ』を踏んで灼熱のマグマを振り払おうとするバクオングの足元、地鳴りとともにフィールドが割れ始めた。条紋のような石灰岩の鉱脈が溝から見え隠れするほど深い亀裂が入った。山間に吹き荒ぶ風を掻き消すほどの轟音が耳を劈いた。『ばくおんぱ』はもう発動している――咄嗟に少年はマグカルゴに『ストーンエッジ』を命令。激しい空気の振動と『じだんだ』による足蹴りのために波打ったマグマの体、その至る所から無数の角ばった石が噴出した。水に濡らした石炭のように黒くギラついた石は覆いかぶさるようにバクオングに接着し、バクオングの体中に空いた穴を塞ぎに向かった。さらに効果を高めるべく、腹部でもってバクオングの大口にのしかかっていたマグカルゴに自身の体を180度旋回させるよう指示。マグカルゴの背中の岩がバクオングの口内に入れ込まれるような体勢になった。小粒の『ストーンエッジ』でバクオングの全身の穴を塞ぎ空気の通り道を遮断することで、そして音波の最大の発生源であるバクオングの口にマグカルゴの背中の岩を押し込むことで少しでも『ばくおんぱ』の威力を弱めたいというのが少年の狙いであった。それは功を奏した。少年から見てフィールドの手前側、『サイドチェンジ』によってマグカルゴと位置を入れ替えていたギギアルのちびギア部分がでかギアと合致。『ばくおんぱ』の衝撃によってフィールドの向こう側――戦線に入り込めずにいたギギアルが攻撃に向かった。フライングディスクのようなスピンを決めながらバクオングめがけて飛んでいった。ギギアルの『ギアソーサー』だ。それに気づいたヴィゴが『ばくおんぱ』と『じだんだ』をやめるようバクオングに命令。バクオングのすぐ隣にいるポワルンが『まもる』を解除、そのまま『ハイドロポンプ』の構えに入ったのが見えた――マグカルゴはおそらくポワルンに狙われようとしているのに気づいていない。視界の上方で回転しながら遠ざかっていくギギアル、左でぷくうっとほっぺを膨らませて今にも水を噴射しそうなポワルン、右で赤目になって幾条もの血管をその中に浮き出たせているバクオング、そしてバクオングに食べられるような体勢で俯きがちに張りつくマグカルゴ。一切のものがスローモーションで再生されているようであった。少年は声を張り上げた。この瞬間は生死の分岐点であるという真相認識が稲妻のように彼の脳を貫いた。自身の体を180度旋回させるようにとの先のマグカルゴへの命令がなかったらマグカルゴが動くのも遅れていたであろう。幸いにも顔を少年側に向けていたマグカルゴは少年と目が合うや否やバクオングの体を離れた。見た目にそぐわぬ速さで跳躍、フィギュアスケートのフリップを決めるように空中で3回転した後フィールドの少し手前側に着地、間一髪ポワルンの一撃を免れた。再び少年側に向けられた背中の岩は風化したかのような皹が入っていた。マグカルゴの『のしかかり』による拘束から解放されたバクオングもまた攻撃からの回避を試みた。ポワルンの『ハイドロポンプ』によって黒々と濡れたフィールド、バクオングはそこに足をつけ火傷を癒した後せかせかとした足取りでフィールドの端部まで移動、辛くもギギアルの『ギアソーサー』を躱した。そしてバクオングの攻撃はまだ終わらない。驚いたことに山の岩肌を流れ下る溶岩にその両手を突っ込んだのだ。溶岩から渦を巻くように立ち昇る白い蒸気がバクオングを包み隠したので、バクオングから目を離さぬようにと少年はマグカルゴに喚起。またフィールドの後方でポワルンと対峙していたギギアルに再度の『ギアソーサー』――今度はポワルンを対象として――を命じた。少年としてはポワルンとマグカルゴとを結ぶ直線状にギギアルを割り入らせることでマグカルゴに『ハイドロポンプ』が直撃することを回避、ポワルン対ギギアル、バクオング対マグカルゴという戦いの構図に持ち込みたい意図があった。とにかくみずわざが使えるポワルンからマグカルゴを遠ざけなければならなかった。マグカルゴは少年に背を向けたまま一歩、二歩と後退。蒸気にのまれぬよう後ずさりする間にも背中の岩からさらに尖塔状の鋭利な岩を伸ばし臨戦態勢を整えた。三歩、四歩、塹壕戦に臨む兵士のように身を屈める――そして視界が晴れた。霧散した蒸気の中から現れたバクオング、その両拳を山肌を構成する玄武岩と同じような岩塊が覆っていた。岩のメリケンサックのような武器をバクオングは引っ提げてきた。思わず少年はバクオングの横を見た。幅の狭い溶岩の滝のすぐ脇、山肌にダイヤモンドのルースのような氷塊が付着していた。『れいとうパンチ』――そう少年が判断した頃にはバクオングとマグカルゴによる鍔迫り合いがフィールド手前側で繰り広げられていた。液体状の溶岩の中に『れいとうパンチ』を打ち込み急激に冷却させることでそれを固体化させ、自らの両拳を岩石で武装する、それがバクオングの狙いだったのだと気づいた。マグカルゴもまた『ストーンエッジ』で背中の岩からさらに大きな剣のような岩を出現させ自らを強化。敵に背中を見せつつ少し後ろを振り向き見るような体勢で岩の剣を振り下ろしバクオングの岩の拳とぶつけ合った。金砂子のような火花が飛び散った。脇を締めて高速でパンチを繰り出すバクオング、その懐に身体を溶かしたマグカルゴが潜り込んだ。矢継ぎ早に迫りくる拳を岩の剣で受け止めつつ、剣道の引き逆胴のような要領でバクオングの上腹部を斬りつけた――そのときであった。バクオングの様子が豹変した。額に太い青筋を這わせ、殺気に満ちた剣幕で猛然と咆哮したのだ。狂ったような怒号を張り上げたその咽喉、最奥の焼き爛れた箇所から漏れ出ていた煙がバクオングの怒りと憎悪をさし示していた。バクオングの『げきりん』であった。吊り上がった両の目を血走らせ、バクオングは岩の拳を大きく振り上げた。少年もまたマグカルゴに再度の『ストーンエッジ』を命じ岩の剣をさらに硬質化させた。両者の力は互いに伯仲していた。『げきりん』によりさらに激しさを増した攻防はなおも続いた。バクオングの尻尾の先に空いた穴、そこから絶えず高い音が鳴っていたのが少年には不気味に思えた。狩りで使うホルンの合図のように澄んだ音はそのままフィールド後方へと流れていった。他方少年から見てフィールドの奥側では少年が優勢であるように見えた。そこではギギアルがポワルンを圧倒していた。『ギアソーサー』でギギアルのでかギア部分とちびギア部分の間にポワルンを挟み互いに逆回りに高速回転することでポワルンの体に歯先を食い込ませていた。ポワルンはギギアルのなすがままであった。怒ったように愛らしいほっぺを膨らませ、何かわざを繰り出そうとする気配はあったけれど、歯車の間から抜け出ることはしなかった。必死になってギギアルの攻撃を堪えているようであった。ポワルンは習得技の関係上接近戦は不得手。『ハイドロポンプ』をはじめ『ふぶき』や『だいもんじ』、『かみなり』や『ぼうふう』といった場の天候によって強化される大技を数多く習得できるけれど、それらはいずれもわざを出すまでのラグが大きい。このままギギアルがポワルンとの距離を離すことなく、『ギアソーサー』でポワルンの体力を削りきる。そしてバクオングの背後をとったギギアルがマグカルゴを加勢、2vs1の形でバクオングを攻め込む。そうすれば勝機はある――否、それは空中楼閣の築造と同義であった。ギギアルにサンドウィッチされたまま無抵抗で終わるポワルンではなかった。ポワルンは空中に浮かんだまま仰向けに寝そべるように反り返り、ぷぅと天に向かって小さな雫を吐き出した。ガラス玉のような透徹さを湛えた雫は落下することなく宙に波紋を広げた。フィールド上空に雨雲ができあがった。ポワルンの『あまごい』だ。底光りすら許さぬほど分厚く濃い灰色に染まった雨雲、それがバトルフィールド一帯に雫たちの不断の音楽を捧げるまで時間はかからなかった。降り始めた雨は止まることを知らなかった。山肌を、マグマを、歯車を打ちつけるたびに規則的に上下する旋律は異様に絶望的に響いてきた。雨粒に打たれたポワルンが「あまみずのすがた」にフォルムチェンジし――刹那、ギギアルとマグカルゴを大量の水の奔流が攫っていった。一瞬状況が飲み込めなかった。ポワルンの『ハイドロポンプ』は今までとは比べものにならないほどの威力を誇っていたのだ。春暖の候、雪解けと菜種梅雨の影響で二重に増水した渓流にも劣らぬ勢いで水は発射された。白い繊維をいくつも束ねたかのような水はポワルンを『ギアソーサー』で挟み込んでいたギギアル、ついでその手前側でバクオングと対峙していたマグカルゴを吹き飛ばし、少年のすぐ脇に聳える岩壁へと2匹をたたきつけた。玄武岩の黒い山肌が衝撃により浅くめり込み、放射状に走った岩の亀裂から角礫状のこまごまとした岩片が崩れ落ちた。少年は2匹の元に駆け寄った。マグカルゴもギギアルも瀕死寸前であった。マグカルゴに関しては『ドわすれ』による特殊防御力強化がなかったら確実にやられていたであろう。「大丈夫? 立てそう?」と、少年は2匹の目の前にしゃがみ込みおずおずと問うた。うっすらと瞳を開けたマグカルゴとギギアルは起き上がり、笑いかけるように頷いてみせた。再び少年の眼前に躍り出てくれたので少年は胸を撫で下ろした。その奥、マグカルゴの高温の体が雨と『ハイドロポンプ』に打たれたことによりフィールドに霧がかかっていた。濃い乳白色の霧は櫛歯のように鋭い雨粒とともに一切のものを包み隠してしまっていた。2匹のシルエットすら朦朧としてしか浮かんでこなかった。

 この霧を、少年は以前のバトルでも見ていたことを思い出した。まったく不思議だ、霧というのは! お互いを等しく孤独にしてしまうのだから。「ポワルンはね」と霧の向こう側でヴィゴが優しげな声音で話し始めたのが聞こえた。

「可愛いだけのポケモンじゃない。気象が変わると気性も変わるんだ。つまり、気持ちと天候が連動し、お互いに影響を与え合っている。怒った状態のポワルンが『あまごい』を発動すればそれだけ雨脚は強くなるし、『ハイドロポンプ』の威力だって何倍にも跳ね上がる。そしてバクオングは体に空いた穴から音を出すことで、仲間に気持ちを伝えるポケモン。『げきりん』状態のバクオングが音を出せばその怒りの気持ちをポワルンに伝染させることができる、そしてポワルンにバクオングの怒りが伝染しきったタイミングで『あまごい』を発動させ畳み掛ける、それが私の戦術だったんだ。2匹は私の自慢のパートナーでありベストコンビ。そんな私たちの全力の一撃から立ち上がった君たちを私は尊敬するし、君がまたここに来てくれたことを心底嬉しく思う」
「ありがとうございます。ヴィゴさんにそう言ってもらえて、またヴィゴさんとこうやってお手合わせできて、僕も光栄です。ヴィゴさんにとってのバクオングとポワルンがそうであるように、僕も、マグカルゴとギギアルが一番のパートナーなんです。ベストな組み合わせだって、ベストな戦術が立てられるって信じてます。たしかに、この間はそれができなかったんです。マグカルゴに『ハイドロポンプ』が当たって霧を見た瞬間、僕たち3人にとってベストな戦い方がわからなくなった。そうして負けてしまったけれど、今日はちがう。マグカルゴとギギアルが僕を信じて立ち上がってくれたように、僕も、2人を信じてる。3人で最強のトレーナーを目指せる、そう思ってます。だって、闘志の炎は、僕たちのずっと奥にあるんですから――!」

 両者が同時に動いた。お互いのダメージ量的に次の一手ですべてが決まる、そんな確信が頭をよぎった。少年はギギアルにちびギアを飛ばしてマグカルゴの背中の殻を砕くよう、そして殻から噴き出ているマグカルゴの炎をちびギアが高速回転しながら弾くよう指示を出した。無論自滅のためではない。マグカルゴの『はじけるほのお』をギギアルがパワーアップさせる意図があった。マグカルゴの背中の殻は脆く壊れやすい。加えてマグカルゴの特性は『くだけるよろい』ときたものだ。殻を砕かれたことで素早さを上昇させたマグカルゴが至近距離から相手に『はじけるほのお』を放つ、同時にマグカルゴの殻を砕きつつその背中の炎を纏ったちびギアが回転、炎を相手に向かって撒き散らすことでマグカルゴの撃った『はじけるほのお』をより広範囲に燃え移らせる、それが少年の考えであった。ベストな戦術であると判断した。ギギアルが相手の立つバトルフィールド上に炎を送り込んでおけば、その分マグカルゴの『はじけるほのお』が決まりそれが燃え移ろうとする際、より効果的に、より着実に炎の範囲を広げることが可能となるのである。炎を消え尽きさせる雨に抗うには、炎の運命を悠々と、着実に生きながらえさせるほかない――それは奏功したようだ。雨風の吹き荒ぶ視界の奥、咽ぶような霧の隙間からマグカルゴの放った『はじけるほのお』が見えた。べっこう飴のように柔らかく、温かに撓いながら、その奥に確固たる光を宿した炎の玉だった。激しく燃え上がるわけじゃない、けれども決して消えることなく悠然と燃える炎が、そこにあった。

 勝ちたいという意志、最強のポケモントレーナーを目指すという運命。少年は戦いの場に運命を見た。運命には2種類あるのだと戦いを通じて悟った。それは外側を流れる運命と内側から湧き出る運命だった。外側を流れる運命はすべてのものの上を等しく通り過ぎるから、何人も避けることはできない。たとえば霧や雨がそうだ。霧がかかればみんなお互いにひとりぼっちになるし、雨が降れば炎は消え尽きる。それはとても怖かった。どうしようもないことだと諦めて受け入れるしかなかった。けれども今日はそうじゃない。運命を共にするポケモンたちは、まだ戦ってくれている。マグマの体の奥底で燃える炎は、歯車の奥にある鉄の硬い部分は、まだ生きている。そうだ、胸のずっと奥では炎が燃えている。闘志や信頼や友情。心の中の色々な思いをのせた炎が、内側からは絶えず湧き出ている。諦めてはならないのだ。内側から湧き出る炎の運命を生きながらえさせれば、外側を流れる運命をつくり変えていくことだってできるのだから。

 内に秘めた炎は今、燃え移ろうとしている。己の運命を他者に伝えることで、新たな運命を切り開こうとしている。外側を流れる運命に屈服しそうになったとき、トレーナーができること。それは、運命を共にするポケモンたちに、胸の奥で燃える炎をつないでいくことだ――!




【二】

 
 山の最奥の峰を眺めるのが好きだった。そこは天と同じ色をしていたから。

 バトルから2日後の早朝、少年はバトル山の新しいエリアをそぞろ歩いていた。彼は僅差で勝利した。ヴィゴのバクオングとポワルンに『はじけるほのお』が炸裂する形で勝負が決まった。マグカルゴもギギアルも相当なダメージを負っていたけれど、それは相手にとっても同じことであった。彼は溶岩湖のある火口縁を過ぎ、溶岩台地を下り、極彩色の大地溝帯を越えて、広大な赤紫色の礫砂漠に出た。そこで珪化木の切り株に腰かけてその緻密な年輪を観察したり、礫の隙間から這い出たカートの葉を摘んだりしていたけれど、やがて大きな塩の奇岩群の一角によじ登って辺りを一望した。エメラルドグリーンの間欠泉も、亀甲模様の走った薄水色の塩湖も、手前側の藍色の空で明滅を繰り返す明けの明星も、彼は驚きと好奇の眼差しで見た。砂漠の果て、希薄なオレンジ色の大気の中に山々の輪郭が浮き立った――あれらは少年がこれから目指すべきバトル山のエリア。チャレンジャーたちは一番後ろの山に辿り着くことを夢見るのだった。霊的な存在のように朧げに聳え立つ山々、それは近くの尾根ほど青灰色に、遠くにいくほど淡い白銀に染まっていた。そして最奥の峰は仄かに赤みを帯びた空や雲と一つの基調をなすほど透明な色彩を湛えていた。少年はモンスターボールからマグカルゴとギギアルを出し、1人と2匹で同じ風景を眺めることにした。

 なぜ最強のポケモントレーナーを目指すのか。これまで多くの人々から投げかけられてきた問いだった。この問いに対しては、ポケモンバトルが好きだから、好きなポケモンとわざの組み合わせで勝つのが楽しいから、好きなポケモンバトルで好きなポケモンたちと運命を共にしていきたいから、紋切り型にそんなふうに答えるのが常だった。もちろんそれらはすべて正解だ。けれども少しぼかした答えでもあるな、と今になって思う。だって、それらの答えは、ポケモントレーナーとしてバトル畑で生きていく理由にはなっているけれど、「最強」になる理由にはなっていないもの。「最強」にならなくたってバトルは続けられるし、「最強」になること以外の別な目標だって考えられるわけで。たとえばトレーナーとしての経験を積んで、ポケモンバトルのコーチになって、初心者トレーナーを指導していくって道もある。もちろん、それは立派な道だと思う。仮にコーチになるって道を進んでいくことに決めたって、バトルを通じて大好きなポケモンたちと運命を共にしていくことができる。じゃあ、「最強」に拘る理由って?

 なぜ最強のポケモントレーナーを目指すのか。それは、この世界の最奥へと突き進んでいきたいからなのだと少年ははっきりと思った。バトル山の最奥へ、あるいはさらにその奥、海を越えて遠くの地方のポケモンリーグへ。最強を目指せば、いずれは最奥の世界に到達することになる。最奥の世界。そこは天と山が調和して一つの色に染まるように、トレーナーとポケモンの心が真に一つになる境地なのだと思う。マグカルゴとギギアル、そしてそのトレーナー。3つの歯車が同じ調子で回り続けるのは、いつか最奥の世界に辿り着いて、お互いに調和することを夢見ているから。そこに至るまでの道は果てしなく遠いし、過酷だ。けれども山の最奥の峰が美しいように、最奥の世界に辿り着いてお互いに調和する、心が一つに溶け合うというのは、トレーナーとポケモンにとってこの上なく美しい関係。そう信じているからこそ、前に進んでいくことができる。そして、最奥の世界は、最も高い次元であると同時に、最も内側の領域でもある。

 最も強くなるということ。それは、最も強い炎を胸の最も内側で燃やして、その炎の運命を他者に伝えていけるようになることを意味する。ここでいう最も強い炎というのは、最も熱い炎とは限らないし、まして激しく燃え上がるわけでもない。霧がかかっても己の居場所を見失わない炎、雨に打たれても燃え移ろうとする炎のこと。つまり、最も強いというのは、外側を流れる運命に屈することなく、自分自身の内側から湧き出る闘志の炎によって自ら運命をつくり変え、その炎の運命を決して消え尽きさせないという究極の状態。自分自身の最も内側にある炎をポケモンたちに伝え、共にすることで、運命を切り開く。それが最も強いトレーナーのあり方なのだと思う。

 最強を目指すということは、最奥の世界へと突き進んでいくということ。自分自身の最奥で燃える最も強い炎を探しに行くということ。歯車の鉄の硬い部分がずっと奥にあるように、内面の根底をなす思いや価値観は胸の最も内側にある。最も強い炎は最奥で燃えているのだ。最奥で燃える炎を探し出し、その炎をポケモンたちに受け継いでいくことができれば、つまり最奥の世界に到達することができれば、真の意味でポケモンたちと心が一つに通じ合うことになる。

 最奥で燃える炎を成り立たせるのは、闘志だけとは限らない。それはトレーナーとポケモン相互間の要素、つまり友情であったり、愛情であったり、信頼であったりもする。これから、もっともっと深めていければいいな、と思う。課題はまだまだ山積みだ。

 外側では絶えず運命は流れている。日が高く昇れば、最奥の峰は、もっと硬度を増したような、空とは違うはっきりとした色に染まる。これからの長い道のりの中で、ポケモンたちとの調和を見失いかける瞬間だってきっとある。星の輝きもいつも見えるわけじゃない。それらは避けられない運命。そういった外側を流れる運命は、胸の内側で燃える炎を生きながらえさせ、その炎の運命を伝え歩くことでつくり変えていくもの。内に秘めた炎は外から降りかかる霧や雨にも屈しなかったのだ。闘志や友情や愛情や信頼の炎をポケモンたちにつないでいけば、どんな困難だって乗り越えられる。そんな思いを胸に。

「今日もがんばろうね、マグカルゴとギギアルっ!」

 あの星の熱火が、消え失せてしまわないうちに。薄明へと通じる道へ、高く、手を伸ばした。

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