クリスマスにまた……

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作者:フィッターR
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読了時間目安:46分
 しばらく聴いた覚えのない、聴き心地のいい音が耳をくすぐる。なんだろう、と思いながら私は目を覚ました。
 腕時計に目をやる。午前8時。冬空にようやく日が昇り始めたくらいの時間だ。本当はもう少し寝ていたいのだが、と思いながら、あくびをひとつ。
 寝不足と体温低下のおかげで鉛のように重い身体にムチを打って、くるまっていた毛布を畳み、体温を上げるために全身を無理矢理震わせる。からころ、と私の体を覆う鱗が乾いた音を立てた。
 ジャラランガは元々南の島に住んでいたポケモンだから、寒いのが苦手なのはしかたないんだよ、と冬になるたびぼやいていた母を思い出す。そんなジャラランガがどうしてこんな北の大陸で何世代も生き延びているのだろうか。私自身がジャラランガになった今でも、ずっと不思議に思っていることのひとつだ。
 少しは動きやすくなった身体を動かして見渡すと、狭苦しい塹壕の中だというのにずいぶんとポケモンたちが集まっている。いつも疲れ切っているような顔を浮かべている彼ら彼女らだが、今日はどことなく楽しげな様子に見えた。あの音を聞きつけてやってきたのだろうか。
 もしここに砲弾が運悪く飛び込んできたら全滅だぞ、そういうことを考えさせられる士官の身にもなってくれ……と考えていると、私をまどろみから目覚めさせたあの音が、また耳に飛び込んでくる。
 バイオリンのようなビオラのような、なめらかで透明感と深みのある音。楽器のようではあるが、鳴っている音にメロディはついていない。音合わせしているのだろうか。それにしても、こんな楽器を持ち込んでいたやつがこんなところにいたとは。いたら一度くらいは目にしていると思うのだが。
 音の鳴る方へ向かって、塹壕の曲がり角を曲がっていく。数歩歩くたびに誰かに肩をぶつけては頭を下げる。ただでさえ狭いくせに城壁のてっぺんみたいにギザギザと折れ曲がっているせいで、なおさら狭く感じられて仕方ないのが塹壕の嫌なところだ。
 角を3つくらい曲がったところで、音の持ち主は姿を見せた。背の低さゆえに頭が飛び出さないのをいいことに射撃用のステップをお立ち台のようにして、そいつは誇らしげに立っている。ナイフのように鋭くとがった両腕を弓にして、弦となる胴体で音を奏でる虫ポケモン、コロトックだ。
 なんだ、そういうことだったのか。
「……情けない」
 ポケモンである自分まで、ポケモンを戦闘単位としてしか見なくなってしまっていたことが恥ずかしくて、思わずひとりごちた。



「フランツ。お前だったのか」
 気を取り直して、私は見知った顔のコロトック……部下のフランツ二等兵に声をかけた。
「おや、小隊長殿もお目覚めでしたか。ちょうどいいところでした! 今から一曲披露したいと思ってたところで」
 いつも通りの憎めない小生意気な声で、フランツは返す。教会育ちなくせしてなにかと規律を乱しがちな困ったやつだが、どういうわけか嫌いになれない奴だ。統率が絶対の軍隊という組織の中でそれに黙って従わないしたたかさに、少しばかり憧れているところもある。
「一曲? なんだ、どういう風の吹き回しだ?」
「何言ってるんですか、今日はクリスマスでしょう? こう見えても教会じゃ賛美歌の演奏してて――」
「クリスマスだって?」
 思わず声を張り上げてしまった。
 今日はクリスマス。曜日感覚も狂いかけている心に、その言葉は槍騎兵の突撃のごとく深々と突き刺さった。
 こんな何気ない言葉に、こんなにも深く心をえぐられるなんて。自分の心の動きが、自分でもショックでならなかった。流れた時間が思いのほか長かったことを知って驚いたことは今までの人生で何度もあるが、今日のそれは別格だ。
「……あれ、どしたんですか? 」
「あ、いや……時間が経つのは早いな、と思ってな」
 怪訝そうにこちらを見つめるフランツの言葉のおかげで、驚く心は落ち着いた。だが、代わって今度はやるせなさが心の中に湧き上がってくる。言葉と一緒に出てくるため息を、私は止められなかった。
「……難儀なものだな、この世は。半年前はみんな『クリスマスには帰れる』なんて言っていたのに」
 思わずそんな言葉が口からこぼれ落ちた。
「難儀だからこそ、慰めも必要ってもんでしょう。だからまあ、小隊長殿も聴いてってくださいよ。気分だけでも、今日は故郷に帰りましょうや」
 故郷、か。
 フランツの言葉を聞いて、私は思わず空を見上げた。西の空。無人地帯を挟んで、その向こう側に敵陣が広がる方角の空を。母は、父は、昔なじみたちは今どうしているのだろう。



 クリスマス。神の子として生まれ、愛と慈悲を人々に説いたという大昔の立派なニンゲンが世に生を受けたことを祝う祭りの日。
 いつもなら、この日人々は教会に集まり、神の子が説いた愛と慈悲に満ちた平和な世界を思い、それを実現させるために祈りを捧げる。私も去年までは、ニンゲンたちに付き添って夜分遅くに教会に集まっては、共に祈りを捧げていたものだった。
 だが、神の子はどこまでいっても"子"でしかなく、神そのものにはなれなかったということなのだろうか。神の子の教えを、ニンゲンたちは何度も裏切り続けてきた。神の子がこの世に降り立ってから1914年の長い長い月日が流れたこの時代でも、彼の願いは人々に届いてはいない。
 私達の所属するオーデンス帝国と、隣国カロス共和国との間で半世紀ぶりに始まったこの戦争は、ニンゲンたちが果てしない戦いの歴史の中で進歩させてきた兵器技術と戦術によって進展を阻まれた。
 最初の半年だけで、半世紀前の戦争の犠牲者を優に上回る命が奪われた私たちオーデンス軍は、カロスの首都を目前にして歩みを止めざるを得なくなった。なんとか相手の側面に回り込もうとはしたが、そうしたいのは相手も同じ。気が付けば、回り込もうとする敵軍を迎え撃つために掘り続けた塹壕網が2本、海辺から山深くまでヨーロッパを真っ二つに引き裂くように作り上げられていた。
 私たちがクリスマスを過ごしているのは、そんな長い長い塹壕網の片隅にある最前線。塹壕を挟んで向かい合うカロスの同盟国、ガラル王国の海外派遣軍が何かを仕掛けてこないか、見張りをするのが私たちの役目だ。
 もはやかれこれ2か月は、戦闘らしい戦闘は起きていない。かといって、戦争そのものが終わったわけでもない。
 進むも退くも出来ぬまま、早くも迎えてしまったクリスマス。この戦争が始まり、徴用された兵士たちが戦場へ赴くこととなったとき、誰もが『クリスマスには故郷へ帰れる』と考え、故郷に残される人々との再会を誓ったという。現に、私自身もそうなるものだとばかり思っていた。
 だが、現実は非情だ。故郷へ帰るどころか、この塹壕を出ることさえいつになるのかもわからない。そんなクリスマスを、私たちは迎えることになってしまったのだ。



「小隊長そのへんにしてくださいよ! あたしたちゃ説教じゃなくて音楽を聴きに来たんですから!」
「そうそう、フランツ! 早く始めろよー!」
 集まっている部下たちからヤジが飛んでくる。
「ああ、すまない! ……フランツ、じゃあよろしく頼むよ」
 そう言って私は、舞台の脇から観客席まで――何しろ劇場ではなく塹壕の中なのでどちらがどちらなのかはっきりはしないが、とりあえずそれらしい境界線の雰囲気を感じる所までは――すごすごと引き下がる。
 何をたるんでいる、と士官の権威を使って叱りつけることもできなくはないが、今の私はそんなことをする気分にはなれなかった。
 ここで下手に締め付けをしてしまえば、部下たちの不満がたまって士気が余計に下がってしまうかもしれない。そして何より、私自身の心が慰めを欲していたというのもある。半年間のこの戦いは、開戦のわずかばかり前に軍務に就いたばかりの新米士官の私には荷が重いことだらけだった。今日1日くらい、緊張を解かせてほしい。
「ありがとうございます。それでは……」
 えへん、と咳払いをひとつして、フランツは両腕を胸元で交差させる。そして、ゆっくりと深呼吸をしてから、緩やかにその腕を引いた。



 ニンゲンの作ったバイオリンに引けを取らない、冬の空気にぴったりな澄み渡った音が『きよしこの夜』の調べを奏で始めた。
 ざわついていた兵たちの声が、ほんの一瞬でピタリと止まった。それだけじゃない。砲声も、風の音も、鳥のさえずりも。フランツの奏でるメロディ以外の音は、まるで天が彼のために舞台を用意していてくれたかのように静まり返っていた。世界の果てまでこの音は届いているんじゃないのか、と思えるほどに。
 何もなければ、世界はこんなにも静かだったのだな。兵たちの喧騒、銃声、砲撃の爆音、土を突き崩すシャベル……そんな喧騒に包まれながらこの半年を生きてきたおかげで、戦場以外の世界を忘れかけていた。
 ……いや、今日もここは戦場であることに変わりはないのだ。だが、昨日も一昨日も先週も先月もずっと見てきたものとほとんど何も変わらない、クリスマスツリーもアドベントリースもない殺風景な塹壕が、静寂の中に響くクリスマス・キャロルのメロディひとつで、全く違った世界であるかのように見えた。



 ふと、フランツが目を見開いた。
「……ねえ、誰の音?」
「知らないよ。こんな音出せるやつうちにいたか?」
 静かに音楽を聞いていた部下たちのひそひそ声もちらほらと聞こえ始める。コンサート中にしゃべりだすとは無粋な奴がいるな、と一瞬私も思ったが、そんな無粋なことをする理由はすぐに分かった。
 フランツの奏でるメロディが2週めに差し掛かったあたりで、唐突にフランツの音ではない音がどこからともなく聞こえ始めたのだ。
 バイオリンのようなフランツの音とは全く違う、クラリネットの音をもう少し高くしたような、管楽器に近い音。その音はフランツの奏でるメロディをしっかりとトレースし、即興ながらしっかりとした斉奏のかたちをとっている。フランツは少し驚いたようだったが、飛び入りが来たことに満更でもないような顔で演奏を続けている。
 どこかで聞いたことのある音だ、とふと気づく。2周めのメロディが終盤に差し掛かったあたりで思い出した。
 フライゴンの羽の音だ。女性の美しい声にもなぞらえられるフライゴンの羽音は、故郷にいた頃にはよく耳にしていた。フライゴンを連れた町の音楽家が、道端でフライゴンの羽音と共に一曲奏でている光景は、特段珍しいと思うようなことでもなかった。
 でも、そうだったのももう昔の話。故郷ではありふれたポケモンだったフライゴンだが、オーデンスには棲んでいないのだ。
 もしこちらの軍勢にフライゴンがいるとすれば、外国からポケモンを買ってこれるようないいイエガラのニンゲンに育てられた士官ポケモンということになるだろう。だが、兵よりずっと数の少ない私の上官や先輩士官の顔を思い出してみても、その中にフライゴンの顔はひとつもない。ニンゲンに飼われているのではないヤツだという可能性も考えたが、この辺の野山にフライゴンがいるという話は聞いたことがなかった。仮にいたとして、砲撃と銃弾が飛び交うこの最前線にあんな大きなポケモンが逃げることもなくそのまま生き続けている、なんて想定は非現実的すぎる。
 じゃあ、これは。もしかして。
 耳を立てて、フライゴンの羽音がどこから聞こえてくるかを探る。自軍の塹壕が伸びている方向ではない。後方の自軍陣地の方向でもない。まさか、と首を降ってもう一度耳を澄ませてみるが、音の聞こえる方角は何度聞き直しても同じだった。



 フランツの演奏が終わる。塹壕の中に拍手が湧き上がった。
「どうもどうも……」
 その拍手を一身に浴びながら、フランツは上機嫌そうにお辞儀を繰り返している。フランツの演奏とともに止まっていたフライゴンの羽音のことはいったん脇に置いて、私もフランツの演奏に拍手を贈った。
「いやあ、まさか飛び入りが来るとは思ってなかったね。しかも無人地帯の向こう側からときたもんだ。まあ、クリスマスだもんね。敵さんも粋なことをするもんだ」
 ご機嫌な口上に、しれっとフライゴンの羽音の話を混ぜるフランツ。そんなフランツとは裏腹に、私はまだ心の奥底に潜むわだかまりを拭い去ることができずにいる。
 クリスマスとはいえ、今は戦争の只中だ。一緒に音楽を奏でたからといって、それを純粋に喜んでいいものだろうか?
 ――そういえば、こんな話を聞いたことがある。フライゴンは砂嵐の中に身を隠して羽音を奏で、その音に引き寄せられた動物を捕らえて喰らうのだ、と。
 この合奏が、そんな意図を孕んだ策略という可能性はないだろうか。こちらを油断させてその隙を付き、こちらを一気に攻め落とす腹づもりで、あんな事をしているのではないのか……?
 寝不足気味の頭を必死で回す。寝ぼけて馬鹿なことを考えているんじゃないのか、と自分でも思いはしたが、馬鹿なことだと一蹴できる根拠もない。
 なにせ、敵軍のやっていることなのだ。無人地帯の向こう側にいるのは、こちらを殺し、戦線を押し下げ、オーデンス軍をカロスの地から追い出すことが目的の集団だ。信じてはいけない。フランツのような兵卒ならまだしも、私は小隊長。この陣地と塹壕に集まる兵たちの命を預かる立場なのだ。ただ楽しんでなどいられない。フランツには申し訳ないが、のんびりと音楽と口上を楽しんでいるわけにはいかないのだ。
「さて、スペシャルゲストもお招きしたところで次行きましょうかね。お次は――」



「ガラルだ! ガラルの奴が来たぞ!!」



 フランツの口上が、見張りに立っていた兵の怒号に遮られた。
「迎え討つぞ! 配置に戻れ!」
 ほとんど反射的に私は叫んでいた。どうやら私の懸念は"馬鹿なこと"ではなかったらしい。
 コンサート会場が一瞬にして最前線の塹壕に逆戻りする。走り出す兵たちの足音、兵たちの手が小銃を握る音、安全装置のつまみをひねる金属音。静寂はたちどころに戦の音にかき消された。
 私もすぐさま手を動かした。左手は首から下げた双眼鏡を握り、右手は腰のベルトのホルスターから自動拳銃ランゲ・ピストーレを引き抜く。すでに小銃を構えた部下たちが立っている射撃用ステップに登り、縁に積まれた土嚢の影から無人地帯の方向を覗き見た。



「どういうことだ」
 思わず独り言がこぼれる。
 腹をくくって前線を覗き見たものの、目の前に広がる光景――鉄条網の先に広がる、うっすらと雪化粧をした無人地帯はどこまでも静かで、動く影は一つも見当たらなかった。こちらの塹壕の70メートルほど先、敵陣側の鉄条網の向こうに立つ、たったひとつの影を除いては。
 双眼鏡を覗き込んで、ただひとつの影の正体を捉える。朝のまだ低い太陽に真正面から照らされたその姿を捉えるのは容易だった。雪景色の中では目立つ緑色の身体に、蜻蛉の顔にも似た赤眼鏡の付いた顔。小さな両腕の後ろには1対の翼が伸びている。
 見間違えようがない。フライゴンだ。もしかして、あいつがフランツの『きよしこの夜』に合わせて羽音を奏でたやつなのか。
 目を皿にして相手の動きを見る。武器は持っていない。それどころか、小さな両腕を上げ、広げた手のひらをこちらへ向けていた。戦う意志はない? 降伏でもするつもりなのか。こっちは攻撃すら仕掛けていないのに、たったひとりで?
 フライゴンが、左脚を一歩踏み出した、そのままもう一歩、また一歩と、ゆっくりこちらの塹壕へ向かって歩いてくる。
「……小隊長、撃ちますか?」
「いや待て。両手を上げてる相手を撃つわけにはいかん」
 はやる部下をなだめつつ、固唾を飲んでフライゴンの様子を伺う。
 不意に、フライゴンの翼が動いた。まさか、なにか技でも撃ってくるつもりか!?
 隣に立つ部下が、銃床を握る手に力を込める音がはっきりと聞こえた。私も双眼鏡を降ろし、代わりに右手の自動拳銃の銃口を相手に向ける。震える手で照星にフライゴンを捉えながら、頼む、攻撃だけはしないでくれ、と願った。



 フライゴンの翼が震えだした。
「……これは」
「音楽……?」
 部下たちがつぶやく。
 震えるフライゴンの翼から放たれたのは、攻撃ではなく音楽だった。さきほどフランツが奏でていたものとは違うメロディ。懐かしい曲だ。
 傍らの部下に目をやると、小銃を構えたまま、安堵とも困惑とも取れない顔を見せていた。もしかすると、このメロディが意味するものが彼らにはわかっていないのかもしれない。私もオーデンスに来てから、この曲を聞いた覚えはなかった。
「……『おめでとうクリスマスWe Wish You a Merry Christmas』か」
「……なんです、それ?」
「クリスマス・キャロルだよ。ガラルのな」
 首をかしげる部下たちに、フライゴンが奏でるキャロルのことを教えてやりながら、私はもう一度双眼鏡を覗き込んだ。
 フライゴンは鉄条網の隙間を通り抜けていた。荒れ地に積もった雪を踏みしめ、キャロルを奏でながらゆっくりとこちらへ向かって歩みを進めている。
 目を皿にして、フライゴンの様子をうかがう。身に付けているもの、手足の動き、表情……ありとあらゆるものに、敵意が潜んでいないかを探る。
 身に付けているのは、一般的なガラルポケモン兵用のベルトと、紅白の矢羽根模様で彩られたスカーフくらい。武器になりそうなものはナイフ一本も見えない。両腕は高く掲げられ、両足はこちらへ向かって歩みを進め、翼は相変わらず『おめでとうクリスマス』を奏でている。それ以外のなにかをしようとしているような動きは全く見られなかった。
 では顔はどうだ、と視線を移す。どんどんとこちらへ歩み寄っているおかげか、フライゴンの顔は思いのほかはっきりと見える。
 フライゴンは口元に笑みを浮かべていた。緊張を必死でこらえながら、それでも好意を示したい……そんな意思がはっきりと見て取れる表情だった。
 理屈で考えればはっきりとわかる。あのフライゴンに敵意は全くない。双眼鏡を下ろして両脇を見てみると、小銃を持った部下たちも次々と銃口をフライゴンからそらし始めている。
 でも、でも。
 自動拳銃の引き金に沿えた右人差し指は、凍り付いたように動かない。ガラル軍の奴らを例えバチュルひとりであっても通してはならないという、士官ポケモンとしての使命が私にはある。その使命が、引き金にそえた指を凍り付かせていた。
 撃ちたくないと願っていたはずなのに、相手を疑う自分も振り切ることができない。ちくしょう、どうすればいい。どうすれば――



「へーえ、あいつか。俺に合わせてくれてたのは」
 唐突に割って入る声。見ると、いつの間にかフランツが私のすぐ右隣にいた。立てかけられたはしごの真ん中くらいに立って、土嚢の淵から目を出している。
「なかなか肝が据わった奴っすね、あんなことするなんて」
 相変わらずの生意気声で、フランツは飄々と呟いている。こんな時にそんなんでいられるお前だって、なかなか肝が据わっていると思うぞ。
「……それがどうした?」
「決まってるでしょう。せっかくあんな素敵なことをしてくれてるんです。こっちも応えなきゃ」
 演奏前と同じように、フランツは咳払いをひとつする。そして。両腕を真上に掲げて、ゆっくりとはしごを昇り始めた。
「おいフランツ、待て!」
 思わず叫んだ。
 しかしフランツはどこ吹く風だ。いつもの小生意気な声でそう言いながら、フランツははしごをゆっくりと昇っていく。そして――



 静寂が、あたり一面を再び支配した。
 塹壕から完全に抜け出し、全身を晒したフランツを撃つものはいなかった。まさか同じように塹壕を飛び出してくるものがいるとは思わなかったのか、フライゴンも演奏を止めてしまっていた。
 互いに両腕を高く掲げたフライゴンとコロトックが、オーデンス軍が作った鉄条網を挟んで、50メートルの距離で静かに向かい合っている。戦いの最中とはとても思えない光景が眼前に広がっていた。これは夢なのか? 左手がおもわず左頬をつねっていた。痛い。
「……ほらね、大丈夫じゃないっすか」
 大きな安堵のため息と共に、フランツは言った。そして、私のほうを振り返り、続ける。
「さあ、ピストル握るなんて野暮なことはもうやめにしましょうぜ、小隊長殿。今日はクリスマスなんですから」



 フランツは上げていた両腕を下ろし、再び胸の前へ。
 フランツの奏でる音が、静寂を切り拓く。奏でているのは『きよしこの夜』ではない。ガラルのフライゴンが奏でていた『おめでとうクリスマス』のメロディだ。
 ゆっくりとフランツは歩き出す。それに合わせて、フライゴンも再び翼を振るわせ始めた。
 無人地帯を超えた不思議な合奏が再び始まる。重なり合うふたつの調べは、無人地帯の真ん中へ吸い寄せられるように近づいていく。
 ふと、フライゴンの後ろ、ガラル軍の塹壕に動く影が見えた。
 急いで双眼鏡を構える。塹壕から、いくつものポケモンの影が這い出していた。その全てが両腕を上げている。こちらを攻撃してくるようなそぶりを見せてくる奴はひとりもいない。
「……私たちも行こうよ」
「ああ!」
「なんか面白そう!」
 部下たちの話し声。周りを見回すと、わが軍の兵たちも、武器を塹壕に置いて次々と塹壕を抜け出していた。声をどれだけ張り上げても、腕が何本あっても止めるには足りなそうだ。
 ふと、右手が急に冷たくなったように感じた。どうした、と思って見てみると、相変わらず自動拳銃を握ったままの右手が目に入る。
 ――野暮なことはもうやめにしましょうぜ。もうずいぶんと先まで歩いて行ってしまったフランツの声がまた聞こえた気がした。
「……そうだな。フランツ」
 右手を凍り付かせていたものが溶けていく。安全装置をかけ、ホルスターの中へ自動拳銃を戻した。いや、これだけじゃ不十分だな。ホルスターをベルトから取り外し、なくしてしまわないように床の真ん中へ置く。
 片手で撃てるくらいの重さしかない自動拳銃を外しただけなのに、とてつもなく重い荷物を降ろしたような気分だった。さあ、もう躊躇う必要はない。フランツが昇っていったはしごに足をかけ、私は塹壕の外へと飛び出した。
 フライゴンとフランツは、ずっと先の無人地帯の真ん中で、もう数メートルもなさそうな距離で向き合っている。そしてそのふたりのあとを追うように、両軍のポケモン将兵たちがふたりのまわりを取り囲んでいく。
 無人地帯の真ん中にそこそこ大きなひとごみが出来たあたりで、最初から示し合わせていたかのように、完璧に息の合ったタイミングでフランツとフライゴンの演奏が終わった。
 湧きあがる拍手、指笛、歓声。もはやその場に、オーデンス軍もガラル軍もない。
 手を取り合ってお辞儀をするフランツとフライゴンに、私も惜しみのない拍手を贈った。



 * * *



 無人地帯の真ん中は、ちいさな祭りの会場のようになっていた。
 真ん中ではフランツとフライゴンが中心になって、クリスマス・キャロルの演奏が続いている。フランツが『もみの木』を奏でれば、フライゴンが『あめにはさかえ』で応え、そしてまたフランツが……といった形で、フランツとフライゴンが順番に演奏を始めては、もう片方が追いかけて合奏になっていくちょっと変わった演奏会だ。
 いつの間にか飛び入りも増え、オーデンスからはバクオングの笛とタブンネの癒やしの鈴が、ガラルからはゴリランダーのドラムとユキノオーの草笛が合奏に加わり、キャロルはより賑やかさを増していた。その周りでは、両軍のポケモンたちが酒瓶を回しあったり、トランプゲームに興じたり、プレゼントを交換したりと思い思いの時間を過ごしている。
 そんな中で私はというと、次々とクリスマス・キャロルを奏でているフランツたちの前に座り込んで、ひとり演奏に聞き入っていた。
 思い切って飛び出してきたはいいものの、どうにも気まずくてこの場の空気に馴染めない。あまり見知らぬ相手と話すのが得意ではないという性根の問題もあるのだが、なにより拳銃を手放すことがなかなかできなかった自分自身に、後ろめたさがあったのだ。
 微笑ましく語り合い、笑い合う兵たち。そんな輪の中に私は入っていい存在なのだろうか。誠意と愛を示した同胞に対して、自力で武器を収めることができなかった自分は。



 フランツがはじめた『もろびとこぞりて』の演奏が終わり、再び拍手が響いた。流石に持ち曲が底を尽きてきたのか、フランツと音楽家たちはなにやら話し合いを始めている。
 そろそろ演奏会はお開きかな、と思って席を立とうと思った矢先。
「ちょっとちょっと!」
 誰かが言いながら、駆け足で私の脇を通り抜けていった。新しい飛び入りだろうか。
 角ばった大きな銀白色の体躯に見合わぬな軽やかな足取りで、その飛び入りはフライゴンに駆け寄っていく。
 合金ポケモンのジュラルドンだ。大陸にはいない、ガラルのごく限られた地域にしか棲まない珍しいポケモンだ。フライゴンと揃いの矢羽根模様のスカーフと、手足に巻かれた包帯が目を引く。友達同士なのだろうか。話しかたも親しげだ。
 いつしかフランツらわが軍の音楽家も、フライゴンとジュラルドンを囲んでいる。どうやらあのジュラルドンが、次の演奏のアイデアを持ち込んでくれたようだ。
 ややばかり打ち合わせをしたところで、音楽家たちは再び散らばる。どうやら次の演奏が始まるらしい。
 飛び入りしてきたジュラルドンはというと、音楽家たちの手前――私の真正面に立ち、深呼吸をひとつした。これから何を見せてくれるのだろうか。



 演奏の口火を切ったのは、ユキノオーの草笛だった。聞く者の眠りを誘う時の音とは真反対の、鋭く力強い音が響く。続いて、ゴリランダーのドラムがリズムを、フライゴンの羽音が主旋律を、それぞれ奏で始めた。
 ガラルの音楽隊が奏でるのは、クリスマス・キャロルのものとはリズムもメロディもまったく異なる音楽だ。クリスマスという文化を創り出した大陸のニンゲン由来のものではない、もっと古くからガラルという小さな島に息づいてきた音楽。懐かしいな、と郷愁に浸っていると、音楽に合わせてあのジュラルドンが前に歩み出てきた。
 腰に手を当て、ジュラルドンは一礼した。そして、左腕を上げ、右脚を蹴り出し、リズムに合わせて片足で小さくジャンプを繰り返し始める。
 左、右、また左……と、軽やかにステップを踏むジュラルドン。時には大きく飛び跳ねたり、くるりと1回転したり……飾り気はないが、それ故にキャロルよりも心の熱いところをくすぐる音楽も相まって、見るものの心を嫌でも奪っていく踊りだと思った。とりわけ、私のような立場のポケモンにとっては。
 故郷の音楽。故郷の踊り。久方ぶりにそれらに触れた私の郷愁の思いは、もはや洪水のように心を飲み込みつつあった。旧市街を取り囲む城壁、天を衝くようにそびえる黒い城塞、街の外に広がる丘陵の原野。フライゴンも付けているあのスカーフだってそうだ。赤と白の矢羽根模様は、いつも城塞に掲げられていたあの街のシンボルマークじゃないか。
 士官としてガラル軍と戦うようになってから心の中に堅く封じ込めていた過去が、封じ込めていた私への仕返しとばかりに、私の中で暴れまわっている。
「ああ」
 思わず立ち上がる。立ち上がって、踊るジュラルドンへ歩み寄る。後先なんて何も考えていない。考えられなかった。せめて今このときくらいは、私をいつも縛り付けているものから自由でありたい。そんな気持ちを抑えきれなくなっていた。



 舞台に踏み込んできた私に驚いたのか、演奏が止まる。
 眼の前には、きょとんとしながら私を見つめるジュラルドンの顔。
「……すまない、邪魔しちゃったかな?」
「ううん、そんなことないよ」
 ジュラルドンは笑顔で答えた。そして。
「オーデンスのジャラランガさん、あなたも踊りたいの?」
 私に向かって、角張った指を持つ手を差し伸べてくれた。
「……いいのか?」
「もちろん」
 恐る恐る伸ばし返した私の手を、ジュラルドンは包帯の巻かれた両手で受け止めてくれた。不思議なものだ。ついさっき顔を見たばかりの相手なのに、しばらく顔を見ていなかった旧友に再会したときのような気分だった。
「おい見ろよ! 俺たちの小隊長殿が飛び入りだ!」
「本当かい? こりゃ面白くなってきた!」
「よっしゃあ、うちらも張り切ってきますか!」
 フランツの声。それに続いて、囃し立てるようにバクオングとタブンネが声を上げる。楽しそうな声で随分と言ってくれる。こちらも興が乗るというものだ。
「いいよ! もう一度、最初からお願い!」
 ジュラルドンがガラルの音楽家たちを振り返って叫ぶ。フライゴン、ゴリランダー、ユキノオーのトリオは両腕を振って彼女に答えた。
 昔のように踊れるかどうかはわからない。でも、久しぶりに心からの楽しい時間を過ごせそうだ。まるでジャラコに戻ったみたいに、私は胸を踊らせていた。



 ユキノオーの甲高い草笛の音が、再び鳴り響く。
 ジュラルドンと私は向かい合い、両手を腰に当てて一礼する。
 ゴリランダーのリズムとフライゴンの主旋律が始まる。左手を上げ、右足を蹴り出して左足で小さく跳ねる。
 左、右、左……と跳ねる足を切り替えるステップを、リズムに合わせて繰り返す。両手を上げてくるりと回って。ジュラルドンが手本を見せてくれているおかげもあるが、意外に身体は動くものだ。
 そうそう、踊りながらこうするのが大好きだったっけ。昔を思い出しながら、私は尻尾を大きく揺さぶって鱗を鳴らす。ただ踊るだけでなく、こうして自分自身もビートを刻むのが楽しいのだ。
 まるで私のビートに合わせてくれたように、フランツがフライゴンを、タブンネがゴリランダーを、バクオングがユキノオーを、それぞれの音で追いかけ始める。一気に賑やかになった音楽に乗せて、ジュラルドンの左手を私の左手で取った。そしてそのまま、繋いだ手を軸にしてふたりでくるくると回る。いつしか周りの視線が、まるで北を向く方位磁針のように踊る私とジュラルドンに吸い付いているのがわかった。つまるところ、今の私たちは北極点というわけか。面白い。
 再び手を離し、向かい合ってのステップ。楽しげなジュラルドンの顔が目に写る。まだ目鼻の形も整いきっていない、遊びたい盛りの子供の顔だ。私も彼女くらいの歳だったら、自動拳銃を握ったまま逡巡するなんてまごついた真似などしないで、まっすぐに塹壕を飛び出していくことができたのだろうか? そんな考えが浮かんですぐに消えていく。
 今度は右手どうしをつないで回る。まわりのポケモンたちは皆笑顔だ。オーデンスだとかガラルだとか、そんなことはもう考えるのも馬鹿馬鹿しい。ニンゲンの作った難しい理屈なんて、手を取り合い共に踊るこの瞬間の尊さに比べれば屁のようなものだ。
 ああ、こう思っていられる時間がいつまでも続けばいいのに。でも、この世界に永遠はない。曲のテンポが緩やかになりだし、それを受けてジュラルドンもステップを緩やかに止めていく。名残惜しいが、もう終わりの時間だ。
 手を放し、今度は右手でジュラルドンの左手を取る。そのまま音楽家たちに背を向け、ふたりでそろって一礼する。尻尾の鱗をひときわ大きく揺さぶって、クライマックスを彩るのも忘れずに。
 無人地帯がまた拍手と歓声に包まれた。フランツの演奏のときよりも、大きく長くにぎやかに聞こえるのはうぬぼれだろうか?
 頭を下げたまま、隣のジュラルドンを流し目で見る。目が合った。ジュラルドンもまた、こちらを流し目で見ていたのだ。
 お互いまるっきり同じことを考えていたことがおかしくて、少し笑ってしまった。



 * * *



 ぎこちない足取りで歩くジュラルドンの手を取って、一緒に歩く。周りのポケモンたちから少し離れたところで、ジュラルドンを座らせてやった。だいぶ無理をしていたんじゃないだろうか……と考えながら、私もジュラルドンの隣に腰掛けた。
「お姉さんすごいね。オーデンスのひとなのに、あんなに上手に丘陵の踊りヒルズダンスを踊れるなんて。久しぶりだよ。あんなに楽しく踊れたの」
 無理をして作っているのがすぐにわかる笑顔で、ジュラルドンは私にそう語り掛けた。
 彼女相手にこんなことを隠す必要もないだろう。そう思って、私はため息をひとつつく。
「……私もね、生まれはシティ・オブ・ナックルなんだよ。丘陵じゃなくて街のニンゲンの家の生まれだけどね。小さい頃大人のポケモンたちに教わってたのさ。昔取った杵柄ってやつさ」
「本当? わたしといっしょだ! だからあんなに上手かったんだ」
 ジュラルドンの作り笑いが本物の笑顔に変わる。この話をして、こんな笑顔を向けてくれる相手に出会えるなんて幸運だ。このご時世、生まれがガラルのシティ・オブ・ナックルだなんてことをうかつにオーデンスの奴に話したら、猜疑と憎悪に満ちた目を向けられることは疑いようもない。だからずっと、故郷への思いは心の中へ閉じ込めていたのだ。
「一緒に踊れてうれしかったよ。おかげで久しぶりに故郷を思い出せた」
「丘陵の踊りはナックルのポケモンの魂だもんね」
「そうだな。ニンゲンの真似事で始めたダンスが、なんでナックル丘陵のポケモンの魂なんだろう、ってずっと思ってたけど、やっぱりこうして踊ってみれば分かるものだな。長いこと踊ってなければ、なおさらな」
 話をしているうちに、ややばかり頬も緩んでくるのが分かる。喜びだけではない、悲しみや虚しさも孕んだ感情ではあるが、それを解き放つことができるというだけでも、気は楽になるものだ。
「ねえ、ナックル生まれのジャラランガさんが、どうしてオーデンス軍なんかに入ってガラルと戦ってるの?」
「私が産まれたのは、ポケモンを育てて戦争に送り出して成り上がった子爵家の牧場でね。そこにオーデンスの似たような貴族様との縁談があったんだ。そんで、結婚相手へのプレゼントとして私がオーデンスに送られたのさ。『ガラルとオーデンスの友好の証』としてね」
「……そんなことって、あるんだね」
「ああ。ニンゲン様の都合で棲みかを変えさせられて、ニンゲン様の都合で戦わされてひどい目に合うのはポケモンの常だろ? それにしたって、私ほど皮肉なことになってるポケモンはそうはいないと思うけどね」
 自分でも不思議に思うくらいに饒舌になっていた。自分の抱える痛みをそのまま言葉にするのは、その痛みだけの苦痛を伴うものだ。それなのに、今は痛みを感じようと、それを言葉にしたいという思いのほうが強かった。
 でもやっぱり、痛いものは痛い。痛みを紛らわせたくて、ベルトに着けたポーチから煙草入れとマッチを取り出した。
「……ところで、足は大丈夫なのか?」
 煙草を咥え、マッチに火を付けながら私は尋ねる。
「うん、ちょっと落ち着いた。久しぶりに楽しく踊れたから、ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな……」
「塹壕足かい」
「似てるかもしれないけど、多分違うかな。手や足の殻が錆びてボロボロになっちゃってるんだ。塹壕はいつも水浸しだし、ここの岩は食べても栄養にならないし……で、こうなっちゃったんだと思う」
「……なるほどね」
 煙草の煙を吸いながら、彼女の受難に想いを馳せる。
 ジュラルドンの身体を作る軽金属の殻は、ジュラルドンが棲んでいるナックル近郊の山の鉱石を食べることで形作られるものだ。だから、ナックルから引き離されて鉱石を食べられなくなってしまうと、ジュラルドンの殻はすぐに錆びつき、弱って最後は死んでしまう……と言う話を聞いたことがある。
 彼女もきっとそうなりかけているのだ。ジュラルドンのことなんて何も知らないニンゲンが、頭数欲しさにカロスくんだりまで気安く連れてきてしまったのだろうな。そのせいで、この子はこんなつらい思いをしているのだ。こんな戦争を始めてしまったやつらのせいで。
「今は楽しければ我慢できるくらいだけど……踊ったり走ったりするのはもうすぐできなくなると思うんだ。いっそ歩けなくなるくらいまで悪くなれば、ナックルに帰れるかな? 脚を根元から切らなきゃいけないくらいまで悪くなっちゃえばさ……」
 ジュラルドンは悲しそうに笑う。年端も行かない子供がしていい顔じゃないだろう。こんな顔は……
「……すまない。私たちオーデンスがこんな戦争を始めたばっかりに」
「そんなこと言わないで。ジャラランガさんが始めたわけじゃないでしょ。むしろジャラランガさんだって被害者じゃない。故郷のポケモンたちとむりやり戦わされてるのは、オーデンスのニンゲンたちのせいでしょ?」
「それはそうさ。だけど――」



 私たちの会話を、爆音が引き裂いた。



 響いたのは砲撃の着弾音だった。幸い、近くではない。音の感じからして数キロメートルは離れている。撃ったのがガラルなのかオーデンスなのかもわからない。
 だが、ひとつ確実なことはある。この場にいては危険だ。次に飛んでくる砲弾が、このひとだかりのど真ん中ではないという保証はどこにもない。
 周りを見渡す。楽しく歌い、笑いあっていたポケモン達も次々と塹壕へ戻り始めている。別れを惜しみ、手を振りながら。
「……もう行かなきゃ。きみも早く帰れ。ここに砲弾が落ちてくる前に」
 煙草を捨てて私は言った。別れは惜しいが、惜しんでいる暇はない。惜しんでいる間に砲弾が落ちてきて、死んでしまっては元も子もない。
「待って!」
 踵を返そうとする私に、ジュラルドンが縋りついてくる。
「ダメだ! ここにいたら死ぬんだぞ!」
「少しでいいから!」
 縋りつく手を振りほどいて叱咤しても、ジュラルドンはそれを聞こうとしない。私の目の前で立ち止まったまま、首のスカーフに手をかける。
 あまり動かない指で器用に結び目をほどくと、そのスカーフをジュラルドンは私に差し出した。
「これ、わたしからのクリスマスプレゼント。受け取って」
 嘘だろ、と言葉に出しそうになって、すんでのところで飲み込んだ。
 紅白の矢羽根模様――シティ・オブ・ナックルの象徴たる文様の刻まれたスカーフ。それを私に渡すことがどんなことを意味するのか、まさか分からないと思っているのか?
「……ダメだよ、受け取れない。だって――」
「いいんだよ。ジャラランガさんだって、こんなことしたくてやってるんじゃないんでしょ」
 断ろうとするが、ジュラルドンはそれでも引かない。間違いない。ジュラルドンは私がこのスカーフを差し出されてどう思うかも考えて、それでもスカーフを差し出しているのだ。
「戦争はまだ終わらないみたいだけど、でも、忘れないでほしいんだ。ナックルのことも、今日のことも……わたしのことも」
 こちらをまっすぐに見据えて、ジュラルドンは言う。
 再び、炸裂音が響いた。さっきよりも近い。残された時間はもうわずかだ。



 差し出されたスカーフを、私は震える手で掴んだ。
 ジュラルドンと手が重なる。一度は重なったこの手を、また離さなければならない運命を呪った。もっと寄り添っていたいのに。この手に巻かれた包帯の下に隠した彼女の痛みを、もっと癒してやりたいのに。
 自らの子に愛を説かせた神は、どうして私たちが愛しあうことを許してくれないのだろう?
「きみ、名前は?」
 最後にひとつだけ、訊ねたかったことを訪ねる。
「……メアリー。ジャラランガさんは?」
「ティルダだ。ティルダ・ハインリッヒ」
「ポケモンなのに苗字あるんだ。不思議だね」
「いらないものを持たされてるだけさ」
 ああ、天にまします我らの神よ。あなたが慈悲の心をお持ちなら、どうか少しだけ、あと少しだけ、このジュラルドンを――メアリーを愛することを許してください。
『汝の敵を愛せよ』とは、あなたの子が説いた言葉でしょう?



 メアリーの身体を、私は最後に力いっぱい抱き寄せた。
「クリスマスおめでとう。メアリー」
「……よいお年を。ティルダ」



 炸裂音がまた響く。もうすぐ近くにまで砲撃は迫っている。時間切れだ。
 突き放すように、私はメアリーの身体を離した。
 メアリーはすぐに振り返った。私もそれ見て、すぐに踵を返して走り出す。
 塹壕の中から、部下たちが手を振って私を呼んでいる。砲弾が降り注がんとしている無人地帯に残ろうとしていたのは、どうやら私が最後だったようだ。
 溢れ出る感情を言葉にならない声に変えて叫びながら、私は走った。絡みつく有刺鉄線も無理やり乗り越えて、塹壕に飛び込む。
 砲撃の音が激しい連続音となったのは、私が塹壕に飛び込んですぐのことだった。泣き叫ぶ私の声をかき消してくれたことだけは、砲撃を撃ち込んだ空気の読めないクソ砲兵どもに感謝したかった。
 それから先、砲撃が止むまでの間のことはよく覚えていない。



 * * *



「そのスカーフどうするんすか小隊長? 上の奴らに見つかったらなんて言い訳するんです?」
「……簡単だよフランツ。『倒した敵から奪った戦利品であります』、って言うまでのことさ」
「なるほど。いやあー、しかし惜しかったなあ。あのまま戦争を終わりにしてくれれば、あの子をデートに誘えたのに」
「あの子って、フライゴンのことか? 現金なやつだな、お前も」
 泣き腫らした目がまだ痛い。そんな私に、いつもと変わらないくだらない話をしてくれるフランツの不真面目さが、今は嬉しかった。
 首に巻いたメアリーのスカーフを撫でながら、私はメアリーのことを考えていた。
 彼女は今どうしているだろう。無事にガラルの塹壕へ帰ることができただろうか。帰れたとして、彼女はこれからの世界を生きていくことができるだろうか。そして何より、私たちの前に敵として立ちふさがるようなことが起こりはしないだろうか。
 ……考えたくはないが、そうなる可能性はきっと、メアリーとまた一緒に丘陵の踊りを踊れる可能性よりもずっと高いだろう。そう考えてしまう自分が嫌だった。無人地帯の真ん中で一度は振りほどいた鎖が、また私を雁字搦めに縛り付けようとしている。
「……にしても、いいクリスマスでしたねえ、小隊長。手を取り合うってのは、案外簡単にできちまうもんなんですねえ」
「そうだな……でも、その案外簡単なことが、簡単だと気づくのは難しいんだろうな」
 ベルトに付けなおした自動拳銃のホルスターを見ながら、私はつぶやく。最後まで猜疑心に囚われて手放せなかった自動拳銃と、メアリーが私を信じて託してくれたスカーフ。このふたつを一緒に持ちながら、私はこれからどう生きればよいのだろう。



「……ま、難しく考えることはないんじゃないすか。俺たちは例え戦わされてる敵同士でも同じポケモン、一緒に音楽やってバカ騒ぎできる。それがわかっただけでも、めっけもんでしょう」
 そう言いながら、フランツは傍らに置いていた酒瓶を引き寄せる。ラベルに書かれているのはガラル語だ。
「それはなんだ?」
「『倒した敵から奪った戦利品であります』。なかなかうまいジンですよ。小隊長もどうですか?」
 器用に脇で瓶の口を抱えてラッパ飲みをしながら、フランツは言う。なるほど、フランツもちゃっかりガラルからのプレゼントを受け取っていたようだ。
「……ああ、少しもらうよ」
 フランツが置いた瓶を手に取って、自分もラッパ飲みをする。甘ったるくて薬っぽい、独特の香りが口いっぱいに広がった。
 目を閉じて、ガラルの酒の味を味わう。瞼に浮かぶのは、心の中に封じ込めていたはずの故郷の黒い城塞。そして、その下で丘陵の踊りを踊るメアリーの姿。
 これからもきっと、この光景は折に触れて私の心によみがえるのだろう。そしてそのたびに、私の心に痛みをもたらすのだろう。でも。
「今日のことは忘れられないな……いや、忘れてはならないんだろうな。きっと」
 瓶から口を離し、目を開ける。見えるのは相変わらずの塹壕に切り抜かれた空。あの向こうにいるのは敵だと、昨日までは思っていた。でも、今は違うと分かる。あの向こうにいるのは、喜びも悲しみも、私たちと分かち合うことのできる友なのだ。
「ですね。忘れなければ、また一緒にバカやれますよ」
「ああ。次のクリスマスにも、またあいつらに会いたいものだね」
「今度は俺達から音楽を聞かせに行ってやりましょうぜ。ま、そのころまでには流石に戦争も終わってるかもしれないすけどね」
 けらけらと笑いながら、フランツは答えた。そうだな。こんな戦争はさっさと終わってしまうのが一番いい。なんならオーデンスが負けになってもいいくらいだ。
 泣き腫らした目から、また涙があふれる。
 ちくしょう、これじゃあずっと腫れが引きそうにない。こんな顔じゃあ、あの子にまた会ったときに恥ずかしいだろ。
 涙を振り払おうとして、身体を震わせる。かららころろ、と私の体を覆う鱗が澄んだ音を立てた。

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