クリスマスなんて嫌いだ

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作者:水上雄一
読了時間目安:76分
 クリスマスなんて嫌いだ。子供の頃、私はそう思っていた。

 三十年振りに帰ってきた故郷には、もう私の家はなかった。前庭の大きなサルスベリが伐られずに寝ずの番をしていなかったら、そのまま素通りしてしまったことだろう。五台仕舞えるだけの紺色の三角屋根を戴いた胴長の車庫と引き込み道路もなくなっていた。代わりにあったのは、駅の近くならどこにでも見られる月極駐車場だけだった。私の家だけではない。堤防で脇を固められたキマワリ川を挟んで向こう側、チェリンボ横丁は私が子供の時から寂れたシャッター通りだったが、遂に取り壊され、隣町に続くバイパス道路となっていた。街からは昔馴染みの瓦屋根が姿を消し、エノコログサが群生する川の土手はコンクリートで固められ、その裏で全く同じ面構えをしたプレハブ住宅が碁盤の目状に整列するようになった。もはやヒロセシティは私の故郷ではない――そう思っていた矢先、昔と何一つ変わっていない建物が見つかった。見渡す限りの稲田の海に囲まれて、酷く険しい大礼山を見上げるヒロセ消防南分署。白い漆喰が所々剥げた壁は全く当時のままだった。
 今日はクリスマス・イヴだ。夜は十時半を過ぎた。フレークのような大粒雪がばさばさと緑色の空から降り始めた頃、開放された消防車庫の中からダンボールを担いで外に出る物影が見えた。カメックスだった。その茶色い甲羅は未だに分厚く、いつ見ても立派で、あれから少しも歳を取っていないように見えた。消防署から二十メートルほど離れた道路沿いで見ていた私は、ふと彼と目が合ってしまった。最初こそ彼は私が誰か分からないようだったが、しばらくすると口をあんぐりと開けて驚いていた。それもそのはずだ。今の私はサンタクロースなのだから。

 贈り物を届ける予定の家は全部で三軒あった。少ないと言われるかもしれないが、別にサンタは私だけではないし、ヒロセだけをえこひいきしてもいられない。私は自分がサンタだと言ったが、人々の想像するところによる奇跡の運び屋とは少し違う。私は希望なきクリスマスを送る子供達のためだけにプレゼントを運ぶのだ。
 一人目のシュン君は地元の小学生二年生で、築四五年の木造アパートの一階に住んでいた。今では珍しい二層式洗濯機が外に設置されているようなアパートだ。シュン君のいる一〇二号室には灯りが点いてなかった。私は裏手に回って、部屋の窓に鍵がかかっていないことを確かめた。この国では、煙突のある家がほとんど姿を消すと、サンタが入れるように家の窓を一か所だけ開けておくという古い習慣がある。これは何ともありがたい話で、我々もそれに従うようにしている。招かれてもいないのに勝手に上がり込むなんて押し込み強盗もいいところだからだ。この少年がサンタを招くための慣わしを守ってくれたお陰で、私は家の中に入ることを滞りなく許された。私は部屋の中を見回した。土壁、ささくれた六枚の畳、虫が食った天井。シュン君はそんな一部屋の隅で寝ていた。縮んだ煎餅布団の中で身体をコラッタのように丸め、暖房も何もない中、この一時だけ寒さを忘れていた。彼の両親は共働きで、休む間もなく彼の学費を稼いでいた。だから、彼は俗にいうサンタの正体が各家庭の親だと早くも気付いていたらしい。それでもなお、彼は窓を開けていたのだ。私は腰の後ろから提げた袋からプレゼントの箱を一つ取り出し、彼の枕元にそっと置いた。それは私の片手に収まる大きさで、赤い包装紙と金縁の青いリボンでしっかりと閉じられていた。中身は私にも分からない。分かるのは、その中には子供の希望が詰まっているということだけだ。我々サンタや大人達が箱を開けても何も出て来ない。子供が開けた時だけ、その子が心の奥底で最も必要とする物が出て来るのだ。最新のゲーム機やお金というような、たった今欲しい物ではなく。
「誰……?」
 小さな布団がもぞもぞと動き、黒い頭が亀のように外に出てきた。その時はもう私は外に出ていた。音もなく窓を閉め、足跡一つ残さずに。

 二人目――もとい二匹目はヒロセの街を一望するアシタバ森林公園の崖際、朽ちた樺の中に棲むピチューの女の子だった。彼女は素敵なパートナーと巡り合うことを願いながらも、いざ人の前に飛び出そうとすると、怖くて逃げ出してしまう子だった。私は円くくり抜かれた空洞の中にプレゼントをそっと入れた。緑の包装紙と赤いリボンの箱。電気ねずみの子でも両手一杯に持てるような、小さな希望の箱だった。

 三人目はマサヒロ君という八歳の少年で、彼自身はサンタの存在を信じて止まなかったが、彼の古風な両親は違った。クリスマスなんてのは外国から侵略してきた文化と毛嫌いして、ショートケーキの一つを買い与えることもしなかった。新年を迎える彼らに必要だったのは、クリスマスツリーではなく門松だった。セイヨウヒイラギのリースと、エッグノッグと、壁に掛けた靴下ではない。除夜の鐘と、初日の出と、年賀はがきだった。だが私は知っている。マサヒロ君が“サンタさんへ”と題して、学習ノートの切れ端に願い事を一言だけ書いたことを。他の友達と同じ話が出来るように、何でもいいから、一つでもいいから、クリスマスの思い出が欲しいと願ったことを。私はそんな幼気(いたいけ)な少年の寝顔をしばらく覗いていたような気がする。彼はあの頃の私と半分ほど似ていた。クリスマスを嫌っていた頃の私と。
 私は狭い和室で川の字に寝ていた親子を起こさないようにして、水色の箱をマサヒロ君の両手に握らせた。それで十分だろう、坊や。後は君次第だよ。心にそう呟き、私は寝室の障子窓から風に乗って出て行った。

 * * *

 今年もまたクリスマスがやってきた。今日と明日ばかりは外に出たくない。出来ることなら、学校にだって行きたくない。そして誰とも口を利きたくない――ただ一匹の友達を除いて。
 僕はクリスマスが嫌いだ。いい年こいてモテない大人達が深夜のファミレスに集まって自虐で笑いを取り、傷を舐め合うようなクリスマス嫌いとはわけが違う。子供心に惨めで、不格好で、最悪な傷を負わされる。本題に入る前に、僕がこの聖なる二日間を憎むようになった経緯というのを、今からはっきりさせておくべきだろう。
 僕の父は裕福な大工だ。若い時に死ぬほど苦労したらしいが、実情は十年ほど前の地価高騰に乗じてチャンスをつかんだ成金の一人だ。彼は酒に酔うと、“あの時の俺は”という言葉を最初に言わないと気が済まなくなる。その後で彼が口にするのは、三割増しに誇張された武勇伝、袂を別った仲間への口汚い罵り、三割増しに誇張された武勇伝、袂を別った仲間への口汚い罵り――それが延々と続くのだ。話を聞かずによそ見でもするようなら、彼はたちまちオコリザルになって、灰皿やらジョッキに入った氷を投げつけて来る――それとも怒ったナゲツケザル、と言った方が良かっただろうか?僕は生まれた時から自分の部屋を持っていたので、父の口に酒が入るのが見えたらすぐに逃げるようにしていた。でも、一度だけ部屋に押し入ってきてまで説教をしたこともあった。その内容は確か、お前は親を馬鹿にしているとか、どうとか。僕はそんな彼を父とは見做さず、四十三歳だけ年上の兄さんと思うようにしていた。
 僕の母は元看護婦だ。父が工事現場で転落して頭を打った時、搬送された先の広瀬中央病院で知り合ったと言っていた。でも、それ以上のことは教えてくれなかった。どちらが先に告白したのか、とか聞いても“知らない”の一言で一方的に打ち切られた。そんな彼女は、ただでさえ山に近いヒロセよりも更に山奥のサルシバという場所で生まれた。放蕩して、無責任な母親を持ち、下に二人の妹を持った彼女は、子供の時から現実社会というものを誰よりもシビアに見据えていたようだった。父と結ばれた後、彼女は看護婦を辞めて、父の手伝いをするようになった。それが僕の生まれる十七年前のことで、その時に姉を三人産んだ。長女はこの地方で二番目に頭の良い大学のカロス語科に入った。二人目は双子で、南はカントーのリーグチャンピオンになるべく、武者修行に家を出てから十年以上経つ。つまりといえば、僕は彼女に遭ったことが一度もない。三人目は二人目の双子で、同じくトレーナー修行をしていたが、六つ目のジム戦で限界を知り、今は隣町にあるポケモン専門の美容師学校に通っている。
 そして僕は、そんな両親が随分と歳を取ってから生んだ子だった。ある意味、一人っ子のようにして育ったと言える。姉達は四乗一間の貧困に育ったが、僕は前庭、裏庭、車庫とドライブウェイまである三階建ての6LDKの中で暮らしていた。年齢も文化も違えば性別も違う。顔を合わせて会うこともあまりない。そうなると、まるで腹違い、畑違いの姉弟に感じてみては、そりゃそうだろうと僕自身でも言いたくなる。
 こう言っては何だが、僕は両親の期待とか、愛とかを一手に背負った子だったと言える。彼らは僕が物心ついた頃には色々と習い事をさせた。学習塾、水泳、ピアノ、剣道――ポケモンバトルも忘れてはならない。僕はホムラという名前のガーディと仲が良くて、バトルをする時はいつも彼女と組んでいた。先生にも筋がいい、ヒメカちゃん(僕の二番目の姉)にそっくりだ、と手放しに褒めてくれた。でも、一か月と持たずに辞めてしまった。僕はホムラが傷つくのを見るのが嫌だったし、自分のせいでそんな目に遭わせていると考えると、そんな自分が嫌になっていることに気付いた。先生は、僕が辞めたいと言った時、ホムラはそんなことを気にしていない、と言って僕を引き留めてくれた。君と一緒に戦えることを楽しみにしているんだよ、とも。それでも僕は辞めてしまった。その時は何故だか泣きじゃくって、駄々をこねていた。今思えば、あの時は自分が情けなくて仕方がなかったのだろう。辞めると言って聞かない僕を見るホムラの寂しそうな顔を目にした時、僕はどうしようもない奴になっていた。心の底から幻滅させてしまったことだろう。その時、トレーナーには絶対にならない、なるべきではない、と僕は進路の可能性の一つを早くも潰した。

 さて、そんな僕がクリスマスを嫌うのは、両親が僕以上にそれを嫌っていたからだ。サンタなんかいない、と聞いてもいないのに、クリスマスが近づくと毎日のように僕を牽制してくる父と母。分かった、それは認めよう。僕は彼らの子供なのだから。いないと言われれば、僕もいないと言うしかないだろう。でも、そのせいで僕は惨めになった。同級生がサンタさんに何を頼むかで盛り上がっている間、僕だけは会話の輪に入ることも許されなかった。先生でさえもホームルームでプレゼントの話を延々と続けた。外に出たところで、そこら中が豆電球と人形で飾りつけられ、ジングルベルはスーパーの中で一日中流れ続け、僕だけが名指しで参加出来ない祭りを見せつけられているようだった。姉達はどういう風にこの時間をやり過ごしたのだろう?聞けるものなら聞いておくべきだったのだろう。だがそうなれば、僕がサンタになることもなかったわけで。
 両親にクリスマスを嫌う理由を尋ねたことも当然ある。帰ってきた返答だが、ここはニッポンなのだからイッシュとかカロスとかガラルとかの文化は受け入れられない、と言っていた。分かった、とは今回はならなかった。受け入れられているからこそ、周りはクリスマスムード一色なのだから。念のために言っておくと、彼らは祭事の全てを嫌っているわけではない。正月やお盆には従順に従った。だが別に彼らは何とか宗の敬虔な信者というわけでもない。むしろ、神なんかいないと言って憚らないのだ。アルセウス伝説など酔っ払った学者の戯言だ、とかも平然と口にしたりする。クリスマスを毛嫌いする理由など最初からなかったのだろう。聞いてもっともな理由として、文化だとか神だとかを借りているだけに過ぎない。だから、更に突っ込んだ時は“うちはうち、よそはよそ”と親の特権で難なく逃げ切ってみせる。もしかしたら、彼らもまた同じことをそのまた親からされたのかもしれない、と僕は考えた。それか外国の文化に合わせて子供に何かを買い与えるのが親の務めだと思うと腹立たしくて仕方ないのか。でもそのせいで子供である自分もクリスマスが嫌いになったのだから、その子供もまた――ああ、あの時の僕は、そんな風に悶々としながら家に帰ったのだった。溜まりに溜まった雪を父の乗ったショベルカーが押しやり、その雪の塊を三角頭のスコップと足で切り崩して流雪溝に落とす母を見ながら。
「手伝いなさいよ!」
 雪の粒に繊維が絡まった赤いチェックのマフラーを胸元にぐいと下げて、母はそう叫んだ。僕は言われるがままに居間に上がると黒いランドセルとモンスターボールを居間のストーブの近くに置いた。そして、そのストーブの前でくつろぐ間もなく、車庫の一つから黒いプラスチックのスコップを持つと、僕は乱暴に雪を掬い上げるショベルカーから出来るだけ離れつつ流雪溝に向かった。

 僕は雪かきが終わると、その後すぐに塾に向かった。塾が終わると、すぐ帰って、すぐに夕飯を食べた。風呂に入り、歯を磨くと、そのまま寝床に就いた。
「おいで、ブイ」
 茶色くて、小さくて、暖かい。優しくて、素直で、愛らしい。イーブイはそんな奴だった。彼は僕が呼びかけると、すぐにベッドに上がって、するりと僕の布団の中に潜り込んできた。
「明日、二十五日か」
 学習机の上に張ったカレンダーが目に入ると、そんな言葉が出てきた。ベッドの左脇にある窓からは、満月から八日ほど過ぎた月が大礼山の左肩下がりの尾根に乗っかっているのが見えた。そのあまりの青白さに影響されて、空は紫色に輝いていた。
「聞いた、ブイ?大礼山の頂上の一つにはサンタの隠れ家があるって。マユミちゃん、今日はそんなことを言ってたっけ」
 耳元でブイ?という何気ない相槌が返ってきた。
「いるわけないのに、いつか探しに行くって言ってたね――いるわけないのにさ」
 ブイ……あからさまに暗い返事だった。そうだね、と言ったつもりだったのか。僕は枕に頭を寝かせ、仰向けになっていた。月の掛かった大礼山を見ていると、どうしても固く締まった窓の鍵が気になって仕方がなかった。
「今頃、みんな開けているのかな」
 クリスマス嫌いを公言しておいてなんだが、実を言うと僕自身もこの迷信を試してみたことが四回あった。去年と一昨年の二日ずつだ。当時は諦め半分、望み半分に試したが、二年も経つと、諦めは九割九分、期待が一分に再配分された。愚かしくも、僕はその一分に明日の命運を託し、鍵を開けて狸寝入りを決め込むことにした。上体を起こし、下半身は布団に差したまま、手が張り付いてしまいそうな冷たい窓を鼻息に曇らせつつ、ずるりと鍵を下に降ろした。そうしてまた布団に戻り、イーブイを顔のすぐ傍に寄せて一緒に目を瞑った。その時に聞こえたのは、近くを流れるキマワリ川の囁き、時計の針が一秒を刻む音、そして隣にいる小さな友達が出す細い鼻息の音だけだった。部屋の凍てついた虚無から厚布団一枚だけで身を隠し、僕達は互いの温もりを確かめていた。

 それからどれくらい時間が経ったかは分からない。せいぜい頑張ったつもりで、僕は眼を開けてしまった。エンドテーブルのルナトーン型置き時計を見ると三分しか経っていなかった。思わず大きなため息が漏れてしまい、イーブイの目も開けてしまった。
「そうだよな」と僕は長針の先にある数字の8を見ながら言った。 「いないもんね、どうせ」
 その後も僕達は寝付けなかった。夜の十一時を過ぎた頃、下の階で両親が電気を消す音が聞こえた。普段は気にならないのに、今日はやけに通りの良い“ぱちん”だった。その音を聞くと、何故だか怒りがむしむしと布団の中で込み上げてきた。こんなにどうでもいいことで悶々とさせられているのは、あの人達のせいだ、と。プレゼントなんて駄菓子だろうと、傷薬だろうと、一番安い首輪でも何でも良かったのだ。欲しい物なんて別にないのだから、それくらい融通を利かせても良かったじゃないか。クラスの中では僕が一番お金持ちの家に住んでいるのだから、友達がプレゼントとして必要とする物を既に持っている。プレゼントが貰えたという事実だけで十分だったのに、どうしてそれすらしてくれないのか。隣のセツコばあちゃんは、金があっても心が貧しいと不幸になる、とよく言っているが、どうして僕がそんな目に遭わないといけないのか。ふと、僕は窓の外を見た。チェリンボ横丁は静まり返り、誰も出歩いていないことは遠目からでも分かった。横丁だけではない。今ならどこにも、誰さえもいない――僕はまだ寝ないことにした。そして心に決めた。この短針が数字の1を超えたら、こっそりと居間のカロスドアから川の土手に出て、明るい月夜を独り占めにしようと。

 冴え渡る夜だった。夜の空気はどこまでも混じり気がない。左下手から凍てついた川のせせらぎ。煌々とした月明りが土手に敷いた銀の盤面に青白い影を落とし、僕達はそれを追いかけながら川沿いを歩いた。ざら目雪の銀盤は、さながら固いアイシングケーキのようで、厚底のゴム長靴を匙に見立てて踏むと、ざくざくと小気味いい音がした。割れたザラメ層の中からは柔らかなスポンジケーキが現れた。片栗粉のような踏み心地で、一歩前に出る度にぎゅうっとした音を立てている。一方、イーブイはその固い面を壊すことなく、ちょこちょこと跳ねて歩いた。裏庭と土手の間に掛かったトタン板の橋から、力なく押したスタンプのような足跡が点々と続いている。
「寒いねえ」
 そんな何気ない僕の一言にも、ブイブイ、と肯定の相槌。イーブイとは本当に気が合う。もしそうでなくても僕に合わせてくれるので、やっぱりいい奴だということに変わりはない。お前は寒くないかい?僕は厚手の手袋をしていても、指先から冷えているよ。ゴム製の長靴というのもやっぱり底冷えするな。あ。これはキサラズ橋まで歩いたら、きっと急に帰りたくなるやつだ。でも、月を見るなら、サンタの影が棲むベッドからよりも寒空の中からの方がいいに決まっているよな。
 家を出てからどれほどの時間を彷徨ったかは分からないが、僕達は知らないうちに大礼山の登山道があるサカエダに来ていた。塾も何もない時、僕達はいつも夕食前にここを歩くようにしている。
 はっきり言ってヒロセは田舎だ。シティと呼べる一角は南のカントー地方と繋がる 新幹線が通る広瀬駅の周辺だけで、そこから一キロも歩けば田畑しか見る物がない。二キロ歩けば、こういう手つかずの大自然にも出くわす。三キロ歩けば、その大自然の中で迷子になっている。トレーナー達が修行のために山道を使うこともあるが、今は山に棲むユキノオー達が繁殖期を迎えているため、立ち入りは禁止されている。
 ヒロセが田舎なら、サカエダがもっと田舎なのは説明する必要もない。道を歩き、左手を見れば牛舎があり、小さな放牧場があり、段差式の田んぼがある。その繰り返し。右手を見ても同様。取り立てて目立つ場所があるとすれば、それは山で遭難した人達の慰霊碑が置いてある小さな神社だけだ。そんな辺鄙な場所だったが、僕はその辺鄙さがたまらなく好きだった。時折、ミルタンクの大きな寝言が空から降ってきて、イーブイはその声に尖った耳をそばだてるのも毎回のことだ。やっと僕達は神社が右手に続く三叉路の分岐まで辿りつくと、左手奥の丘の上にぽつんと立つ牛舎と、その隣にある家を見た。トモカちゃんの家だ。どの窓も灯りはついていない。あの家は寝るのも早ければ、起きるのはもっと早い。でも、学校に来るのは一番遅い。どの家庭も面倒事というものを一つは抱えているのだろう。そう思いつつ、三叉路を右に曲がる時、僕は彼女の家の窓から一つの人影が出てくるのを見た。男の人だった。僕の目にはフィルターが掛かり、彼が紅白の衣装を身に着けた老人に見えた。
 でも、それは紺一色のゴム長靴以外は完全な黒ずくめの男だった。肩幅が広く、少し猫背で、ニット帽で顎の下まで素性を隠した男だった。男はぶかぶかしたジャケットの下で身震いすると、丘の下を神経質そうに見渡し始めた。
 それを見た僕は咄嗟にイーブイを胸に抱えて、近くにあった家の車庫の陰に隠れた。どうしてかと聞かれれば、それは僕が七歳の子供でしかなくて、バトルもろくにさせないイーブイしか連れていなくて、相手は大人の泥棒だからだ。僕だって、漫画やアニメのヒーローのようになりたかったけど。残念。
 しばらく待ってみたが、その男が三叉路を降りて来る気配はなかった。イーブイは心配そうに僕の顔を見上げているだけだった。大丈夫、何でもない、すぐに終わるから、と彼の目を覆った。結局、男が降りて来る気配はいつまで経ってもなく、痺れを切らした僕は車庫の陰から顔を出してみた。彼は三叉路を通ることなく去っていた。よく考えると雪に足跡が残るのだから、それもそうだ。
 思わず壁にもたれて腰を下ろした。それから空に浮かぶ細長いレックウ座を見ながら、ほっ、と短い溜息をついた。
「そんなもんだよ、世の中は」
 それは僕の口癖だった。または母の口癖でもあった。冷たい空気に思わず漏れた独り言の意味を噛み締めると、僕は白い靄を突き抜けた大礼山を見上げた。もう帰ろう、と思った。そうして家の裏庭にまで来た時、居間に電気が点いているのが見えた。

 * * *

 四時間目の算数が終わって、給食の時間になった。今日の当番は二班だった。二班のマサル君は物臭そうに教室を出るも、昨日のロードショーで見たハチクマンの逆襲、そのラストシーンの再現を同じ班のタカシ君と始めると、それは随分と楽しそうに給食室がある一階に向かった。
 僕は母に打たれた右の頬をさすりながら、一か月の献立表を机の中から取り出した――クリスマスチキン、クリスマスコールスロー、クリスマススープ、クリスマスごはん。デザートはクリスマスゼリー。どうしようもない。何一つ食欲が掻き立てられない説明だ。国語のテストなら一点さえ貰えない説明だ。これならいっそ、ただのモーモーミルクもクリスマスミルクとして付け加えておくべきじゃないのか――モーモーミルクと言えば、トモカちゃんは今日お休みだった。泥棒に入られたことがショックだったらしい。先生は風邪だと言っていた。
「ねー、ユキちゃん、サンタさん何くれた?」
 始まった、と僕は心の中で毒づいた。
「あたし、ポケッチ!」。えー、いいなぁ!よく見せてよ!駄目、あたしのだもん!
 そんな会話が教室の隅々までピンボールのように跳ね回った。会話の熱気だけで室温は三度上がった気がする。朝ほど会話の勢いはなかったが、鬱陶しい暑さに変わりはなかった。一方で僕の机の周りは誰もおらず、窓からの冷気が差し込むばかりだった。いつも遊んでいるシンヤ君とリュウヤ君は僕を気遣って、昨日と今日は近寄ろうともしない。だが、その気遣いこそが何よりも僕を惨めにさせることだった。この惨めな一角に残された逃げ場は一か所しかなかった。僕はモンスターボールを取り出して、中の友達に話しかけた。 「頭、痛くない?」
 ボールはぶるぶると鈍く震えた。痛くない、ということらしい。昨日の夜、失意の散歩から帰ってきた僕達は、家の居間に電気が点いているのを見てしまった。今思えば、家からも逃げ出して良かったのかもしれない。それくらいすれば僕の苦しみが伝わったかもしれないから。でも僕にはそんな勇気さえなかった。良い子の演技を止める勇気が――

「何時だと思ってるの!」
 天井を揺るがす怒号。その後、鞭のようなしなりが僕の右頬を捉えた。
「この馬鹿ガキが、何考えてやがるんだ!」
 母の隣で、父は右手に握り拳を作っていた。頭か頬のどちらに飛んでくるかは分からないが、僕は顎を引き、目を瞑り、歯を食いしばった。
「ブイ!ブイ!」
 そんな声に目を見開くと、イーブイが父に立ちふさがっているのが見えた。尻尾はぴんと垂直に立ち上がり、小さな体を少しでも大きく見せようと腹を背中の方にせり上げていた。
「何だ、てめえは?」
 ブイ!――牙を剥いてまでした威嚇だった。
「この畜生が――この俺に――楯突き――やがって!」
 父は一言ずつ言い終わる度に、イーブイの頭をつかんで、平手でバシバシと力強く叩き始めた。
「やめて!叩くなら僕にして!」
「来なさい!」
 必死の抵抗も空しく、僕は母に袖を引っ張られて二階に連れて行かれた。僕が長靴を履いたままにも気づかずに。あの二人は頭に血が昇ると手が付けられないのだ。それに加えて、イーブイと父はいつでも水と油の関係だった。

 冷え切った教室の窓際で、僕はボールを指でなでながら言った。 「ごめんね、僕のせいで」。ボールは再び震えた。僕の手も震えていた。
「ねえ、トモキ。プレゼント、何もらったの?」
「やめなよ、マヤちゃん。トモキがかわいそうだよ」
「サンタさん、サンタさん。お願いだから僕に下さい、友達を!」
 その女の子二人と男の子は僕の頭上で下品な爆笑を炸裂させた。僕はちらりと教卓を見た。シガキ先生は見て見ぬ振りをしている。騒ぎが度を越すと、へらへらと場を収めに来るだろう。いつものように。
「悪いけど、今は話したくないんだ。あっち行ってよ」と素っ気ない声で、僕は窓の下縁にへばりついた黒カビを見ながら言った。
「今じゃなくていつもだろ」と男の子が食い下がった。名前はケイ君。スポーツが得意なマサル君とタカシ君をこのクラスのマンタインとするなら、彼はその下を泳ぐテッポウオだといえる。もっとも、彼はその二人にも相手にされていないのだけれど。
「ねえ、それより何貰ったの?教えてよ、あたしも教えるから」。マヤちゃんが言った。彼女は正直言って、僕が一番苦手なタイプだ。何か得意なスポーツや教科があるわけでもなく、隣のクラスのアリサちゃんのように可愛いわけでもない。いつかのポケモン図鑑で見たガマゲロゲのように、顔も体形もずんぐりしていて、困ったような垂れ目も憎たらしい。力が強くて、声も低い。わがままで、声がでかくて、すぐに被害者ぶる。彼女を一言で表現するなら“脳の代わりに肉を詰めた女ガキ大将”と言える。口に出したことは一度もないが、周りの子もみんなそう思っている。
「あたし、一輪車!サドルにピカチュウの柄が入っているやつ!」。聞いてもいないことを話した女の子は、ミキちゃんという一見パッとしない子だ。三つ編みで、度の強い丸眼鏡を掛けていて、キャラものの柄が入った赤いスカートを着ている――パッとしないから、外見のことしか僕には言えない(失礼な物言いは承知している)。前は雌のニドランみたいに大人しい子だったはずだが、朱に交われば――何だっけ?とにかく、そんなパッとしない子なのだ。
「僕の家がクリスマスを祝わないことは、幼稚園の時から知ってるでしょ?サンタさんは、サンタさんを信じない人にプレゼントをあげないんだ。ほら、もういいから。あっち行ってよ」。そう言って、僕はモンスターボールをランドセルの中に仕舞うところだった。
「じゃあ、そのイーブイは何だよ?」とケイ君が指を差す。
「学校に持ってきちゃいけないんだよ!」とミキちゃん。
 学校で“出したら”いけないんだよ、ミキちゃん、と僕が言う。
「嘘ついちゃいけないんだよ、トモキ。あたし、知ってるよ。幼稚園にいた時、サンタさんにそれ貰ったの」
 僕はシガキ先生の方を今一度見た。わざとらしい咳払い。目が合ったが、すぐに離された。

 マヤちゃんが僕とイーブイとの出会いについて切り出したから、それについても触れておこう。当時僕が通っていた幼稚園では、毎年ド派手なクリスマスの催し物が開かれていた。それは園児達全員をステージ前に集めた帰りの会の途中で、大勢のサンタさん達が天窓を開けて“メリークリスマス、よい子の諸君!ホ!ホ!ホ!”と言いながらロープを伝って降りて来るものだ。このサンタ集団、実は地元の消防団のおじさん達で、僕はその正体に早々に気付いてしまった。その理由だが、白いあごひげと赤いナイトキャップを被っていたのが人間だけではなかったからだ。カメックスとおじさん――彼らは僕が地元のトレーナーズスクールに通っていた頃の臨時講師でもあった。サンタ姿のカメックスがボールから登場した瞬間、園児達は狂乱し、きのみを前にしたホシガリスのように群がった。実際、僕もそうしたかった。なのに僕ときたら、ホムラと先生の顔が頭にちらつくばかりで、一人だけ俯いて、持て余した両手を無意味にいじくっていた。
「みんな!サンタさんがやってきたよ!ご挨拶して!」
「こんにちは!」。“こ”と“ん”の間はニッポンの幼稚園児なら伸ばさなくてはいけない伝統でもあるらしい。僕は形だけ調子を合わせておいた。
「ホ!ホ!ホ!気持ちのいい挨拶だ!そんな良い子のみんなには、プレゼントをあげよう!さあ、一列に並んで!」
 園児達は圧し縮めた一列をステージ前に作ると、今か今かと足元を躍らせていた。帰りの会の主役だったファンヒーターの音はもう聞こえなかった。
 ぼうっとしていた僕も、やがて園長先生に促されてその一列に並んだ。当然、最後尾だ。もらったプレゼントだが、組み立て式のレゴか、こじんまりしたクッキーやらロリポップやらが詰め込まれた透明な小袋のどちらかのはずだったが、もう覚えていない。だが、その時の僕がえらく喜んでいたことははっきりと思い出せる。しょぼいプレゼントだと言われるかもしれないが、これが僕にとって人生初のクリスマスプレゼントだったのだ。あまりにも嬉しくて、家に帰ってから両親に自慢した。
 しかし、その私の嬉しい報告を聞いた母は怒り狂った。彼女はおじさん達を僕の目の前で一頻り罵ると、まだ開けてもいないプレゼントを無理矢理取り上げて、僕と一緒におじさん達のいる南分署にまで抗議しに行った。その時の様子は一部始終思い出せる。車寄せのど真ん中で、頭から鼻先まで白いかつらを被った黒塗りのワゴン。後部座席に散らかったゴルフの雑誌。エンジンが掛かった時のガソリンの匂い。四時過ぎの空は褐色の折り紙よりも深い褐色に染まり、そこから小雪がちらついていた。ワイパーが勢いよく滑り出すと、車の中に暗い空の色を侵入させた。母の運転は控えめに言っても穏やかではなかった。雪が降っているというのに。運転する母はずっと無言だった。
 五分も経たないうちに、僕と母はヒロセ南分署の駐車場に到着した。ちょうど雪かきを終えたばかりの若い所員さんが建物の中に帰っていくのが見えた。母は僕に降りるように言うと、車の鍵を閉めて、僕の右手を引っ張った。
 消防署の受付に着いてすぐ、母は受付の奥にいたおじさん達を大声で呼び出した。そして呼び出すなり、鬼のような剣幕で彼らを怒鳴りつけた。母が具体的に何を言っていたかまでは思い出せない。だが、彼女の言い分はおよそ予想が立つ。教育方針の邪魔だ、と言いたかったのだろう。クリスマスは必ずどんなプレゼントでも貰える日だ、と僕が思い上がるのが嫌だったのだろう。その一方で、困惑するおじさんとカメックスの顔はよく覚えている。ポケモンってあんなに人間らしい顔が出来るんだ、と場違いな感心をした記憶もある。彼はおじさんのパートナーで、困った時に右頬を指でかく仕草も全く一緒だったので、それでよく覚えていたのだと思う。一方的な抗議が終わると、母はプレゼントをおじさんに突き返し、僕の右手をぐいと引っ張って、黒いワゴン車まで戻っていった。

 それから翌日の昼休みのこと。昼寝の時間になる前、園長先生は引き戸の隙間から僕を手招きで呼び出した。外に出るとおじさんとカメックスがいた。カメックスはおじさんの左隣で胸の前の両手で何かを隠し持っていた。
「やあ、トモキ」
「おじさん、その、僕――」
「いいんだ。気にすることないさ。お前も分かってたんだろ?俺達がサンタだってこと」
 僕は目を床に落として頷いた。
「お前は頭がいい子だからな。度胸もあって、優しさもある。そういう五歳児がプレゼントの一つも受け取らないと、それこそばち当たりってもんだ。ほら」。そう言って、おじさんはカメックスに目配せした。
 カメックスは僕の前に立つと、その青い両手を広げて見せた。それは一個のモンスターボールだった。
「イーブイだ」とおじさんは言った。 「前に欲しいって言ってただろ」
「でも、お母さん達はまた怒るよ。お父さんはポケモンを嫌うし、それに――」
「親の言うことなんて聞かなくていいんだよ。お前、良いトレーナーになれるよ。トレーナーでなくてもブリーダーになれる。お前が世話すれば文句も言わないさ。それに、またお母さんが何か文句でも言ってきたら、今度は俺も本気を出す。カメキと一緒にな」
 ガメガメ、と野太い相槌が言葉を追った。カメックスとおじさんは僕を包み込むように微笑んでいた。それを見て僕は泣いたと思う。いや、間違いなく泣いていた。声を殺してボールを抱きしめていた。それと同時に僕は初めて理解したのだ。サンタさんって本当にいないんだ、と。
 家に帰った後、イーブイのことは両親に報告した。友達のお兄さんから貰ったと嘘をついて。僕はおじさん達にこれ以上迷惑を掛けたくなかった――というよりは、これ以上恥ずかしいところをおじさん達に見られたくなかったからだ。獣嫌いの父からは反対された。僕は家の中ではボールから彼を出さないし、面倒も自分で見ると言い切った。母は反対しなかった。サンタさんに貰ったと言えば結果は変わったはずだ。

 マヤちゃんは、そんなおじさんと僕のやり取りを密かに聞いていたらしかった。どこまで聞いていたかは知らないが、彼女は間違いなくサンタの存在を信じていたし、ボールを持って部屋に入ってきた僕が、サンタさんに二個目のプレゼントを貰ったということまでは想像がついていたようだ。
「見て、これ。サンタさんに貰ったの」。そう言って、彼女は新品のモンスターボールを見せた。透明度の高い赤い壁面の中に、ぷくりと丸い風船のようなポケモンの姿が透けていた。
「それで、トモキ。今年は何を貰ったの?」
「貰ってないよ」
「何で嘘つくの?」とマヤちゃんは机を両手でぴしゃりと叩いた。シガキ先生の尻が僕達を止めに入るべきかで教卓の椅子でそわそわしていた。
「貰ってないって言ってるだろ!」。僕はマヤちゃんよりも強く机を叩いて立ち上がった。椅子が後ろに倒れて派手な音がした。教室の中はさっきよりも半分ほど静かになった。
「おいおい、どうしたんだよ、トモキ。何かあったのか?」とシガキ先生。
「先生、マヤちゃん達がしつこいんです。プレゼントがどうとか僕には関係ないのに」
「トモキ、そんな言い方は良くないだろ。素直に教えてあげればいいじゃないか」
 そうだそうだ、とケイ君。僕は今にも感情が爆発しそうなのを必死にこらえていた。 「貰ってなんかいません。サンタさんはいないんです」
 その時、教室がしん、と完全に静まり返った。僕はクラス中の視線がこちらに集中するのを感じた。非難と抗議の視線が。
「サンタさん、いるよ」とミキちゃんがその刺々しい沈黙を破った。声には切な感情を帯びていた。
「いないよ」と僕は言った。 「サンタさんはね、お父さんとお母さんなんだ。お父さんに聞かれただろ、ミキちゃん。今年はサンタさんに何をお願いするの、って。一輪車って言ったんだろ?欲しい物をお父さんやお母さんに言ったら、何でわざわざサンタさんがプレゼントするんだよ」
「お父さん、言ってたもん!お父さんがサンタさんにお願いするって!」
「言ってないよ。だって、どうやってお願いするんだよ。電話番号も知らない、どこに住んでるのかも分からないのに」
「大礼山にいるもん!」。ミキちゃんの顔は梅干しのように潰れていた。
「立ち入り禁止だよ、大礼山。だいたい、お父さんはサンタさんにお願いする必要がないじゃないか。アオイ・モールで買ってくればいいんだから。嘘をつかれたんだよ、僕達は!」
 ミキちゃんはわんわんと大声で泣き出した。そして、その声をかき消すようにシガキ先生の怒号が唾と一緒に飛んできた。
「謝りなさい、トモキ!」
「嫌です!本当のことを言ってるだけなのに!」
「謝れ!」
 僕は泣いた。悔しくて泣いた。マヤちゃんとケイ君も泣いていた。だが僕とは泣く理由が違う。それはちょうど、マサル君達が給食室から食事を運んできた時の出来事だった。僕は無理矢理謝らされて、その後で給食を食べた。ただでさえ味気ない給食は、涙の味で更に薄れていた。

 その日の放課後、僕はシガキ先生に職員室に呼び出された。理由は言うまでもない。
「トモキ、何であんなことを言ったんだ?」
「だって、本当のことだから」と消え入る声で僕は言った。暑過ぎる暖房。コーヒーの匂い。コピー機がせわしなく動く音。校長室から漏れる会議の声。僕が集中していたのはそっちの方だった。
「本当のことだから、何でも言っていいのか」
「僕だって言いたくありませんでした」。僕はシャツの袖を両手で握りしめた。 「でもサンタさんがいないのは本当です。僕は毎年プレゼントを貰っていません。今年だって一つも」
「お前が悪い子だからだよ」
 僕はこのシガキという男が前々から本当に嫌いだった。無知で、傲慢で、日和見主義。一年生っぽく言えば、卑怯な大人。それが今日、彼が先生とは呼びたくない人として僕の心に決定的に刻み込まれた。
「お前のポケモン、サンタさんに貰ったんだろ」
 僕は首を振った。 「消防署の人に貰いました。二年前のクリスマスで」
「それがサンタなんだよ、トモキ。サンタは人の気持ちなんだ。お前はみんなに、みんなのお父さんとお母さんは嘘つきだと言ったんだぞ」
 僕は上目遣いで先生の黒い目をきつく睨んだ。 「人の気持ちがあるなら、どうして先生はマヤちゃんを止めなかったんですか」
 そこでシガキとかいう大人の男は言い訳に詰まった。 「だって、お前達の問題だったから」。その黒い目は僕の背後で行き場を無くして、あちこちをうろついていた。
 僕はため息をついて、ワックスがけされた白い床を見た。ワックスに閉じ込められた紺色の糸くずが目に留まった。 「先生、僕、帰ります。これから塾なので」
「おい、まだ話は――」
 僕は脇目も振らずに職員室から走って逃げた。また別の一言が掛けられたような気がしたが聞く価値もなかった。シガキは追いかけても来なかった。

 玄関で上履きを履き替えて、窓付きステンレスの引き戸から外を見た。眩しいほど白い外だった。雪が降っていた。それも大きな雪の粒が。玄関前の考える人は白くなる生垣の中で考えるのをやめて、そろそろ暖房にあたるべきだった。それから考え直すべきなのだ。大人が平気で嘘をつく理由を。
 靴棚と引き戸の間にある傘立てから黒いビニールの紳士傘を引っ張り出して外に出た。耳たぶを痛くするほどの寒さに躊躇うことなく、あるいは雪玉を作ることもなく、僕は傘を開いてさっさと軒先から出て行った。傘の外はぱさぱさとせわしなく音を立て、するりとそれが地面に落ちていった。
「トモキ!待ってよ!トモキ!」
 そんな声が傘に振り掛かった時、僕は学校の前庭を出るところだった。声を掛けてきたのはマヤちゃんだった。ずしずしと怪獣のような足音を立てて、僕に追いついてきた。
「何か、用?」
 たった二十メートルで息を切らしたマヤちゃんは、呼吸を整えながら言った。 「交換、しよう」
 僕は彼女の言っていることが理解出来なかった。 「交換って何を?」
「イーブイと、あたしのプリン……交換しよう!」
 理解出来なかったというのはポケモン交換のことではない。何のつもりで交換を持ち掛けたかということだ。
「あたしね、本当はね、トモキのこと……好きなの!」
 言っていることが分からなかった。何一つ。
「トモキ、今年はもっとすごいポケモンをサンタさんに貰ったんでしょ?でも、あたし、イーブイのことも好きなの!プリンも可愛いけど、イーブイはもっと可愛いの!だから、お願い!交換して!」
「つまりイーブイが欲しくてそんなことを言ってるんだな」。僕は既に踵を返していた。 「何のためにプリンをお願いしたんだよ」
 危うく僕はまた悔しさを喉元から爆発させるところだった。爆発させて、また問題を起こす前に今度こそ帰ろうとした。
「サンタさん、本当にいるんだよ!」
 涙声がこうもり傘に弾けて飛んだ。
「それはマヤちゃんのお父さんとお母さんだ」
「あたし、頼んでない!だって、あたしのお父さんとお母さん、もう死んじゃったんだから!」
 僕は足を止めた。確かにそうだった。マヤちゃんの両親は去年の夏の土砂崩れで亡くなっている。自動車がガードレールを突き破って、キマワリ川の本流であるミヨシ河に転落したのだ。その後、マヤちゃんは父方の叔父の家に引き取られた。だが、そうなれば彼女の叔父さんか、その家族の仕業だろう。
「おじさんがね、教えてくれたの!サンタさんはずっとずっと昔から大礼山にいるんだって!このプリンはサンタさんに貰ったんだから!」
「サンタさんの話なんか、もうどうでもいい。僕は交換しない」
「これと一緒でも?」
 彼女はそう言って、薄汚れた赤いジャケットの右ポケットから青い鉱石を取り出してみせた。僕はその石に見覚えがあった。
 それは、ポケモンバトル界隈で“つめたいいわ”と呼ばれている石だった。正式名称はアズライトだが、ポケモンの扱う冷気をより長持ちさせる自然エネルギーが石の核に含まれているという点で、ただのアズライトではない。その昔、ヒロセはアズライト鉱脈を多く含む大礼山のお陰で栄えた、と塾で習った記憶があるが――
「これ、プリンが持ってたの!これもあげる!だから、イーブイをあたしに――」
「分かってないよ!」。僕は背中を向けたまま叫んだ。 「ポケモンは物じゃないんだ!」
 僕は本当に今度こそ帰ろうとした。マヤちゃんは追いかけて来なかった。その時、傘に重くて固い物がぶつかって地面に落ちて、それが彼女のつめたいいわだと気付いた。振り向いた時、マヤちゃんの背中はもう遠くにあった。

 ヒロセ駅の東口にある学習塾が終わって、僕はひっきりなしに車が行き交う環状交差点で母の迎えを待った。塾から帰る時、僕は先生に例の石を見せた。先生は驚いていた。どこで手に入れたんだと聞かれたが、サンタさんに貰ったと適当な理由を取って付けた。先生は釈然としない顔色で僕の嘘を聞き流すと、この石が何たるかの説明をした。曰く、この鉱石は大礼山に固有で、強力な冷気を保存出来る一級品だという――別名、フリーズロック。先生は僕に、誰にもこの石のことを教えたりせずに元の持ち主に返しなさい、と言った。
 それと、もう一つ聞いた。大礼山のサンタ伝説はいつから始まったのか、と。先生はしばらく悩んだ後、僕を資料室に連れて行った。そして高い棚から大学受験用の地理の教科書を引っ張り出してきて、色々調べてみたが結局分からなかった。もし興味があるなら郷土資料館に行けばいい、と少し投げやりに先生は言った。ふと、僕は隣のセツコばあちゃんの顔を思い出した。彼女は八十年もこの街で暮らしているのだ。難しい古文書を一人で読めるほど僕は頭が良いわけではない。
 やがて母の乗った黒いワゴンが汚れた雪を吹き飛ばしながら路肩に留まり、僕に向かってテールランプをちかちかと二回点滅させた。僕はニット帽を眉まで下げると、そちらの方に歩いて行った。

 * * *

「これ、どこで拾ったの?」
 赤いひざ掛け付きの樫のロッキングチェアに座ったまま、セツコばあちゃんは驚いたように言った。驚いたというよりは打ち震えていた。皺と赤シミだらけの手がぶるぶると震え、顔の皮膚には赤みが差し、額の皺の形が変わるほど強張っていた。
「友達が、サンタさんに貰ったって」
 それを聞いて、ばあちゃんは長く震える溜息を漏らした。テーブルに置いた煎茶の湯呑みに手を伸ばしていたので、僕はそれを彼女の左手に握らせた。
「ああ、おくばりさま……」と感激したように、ばあちゃんは言った。
 おくばりさま?と僕は聞き返した。
 セツコばあちゃんは煎茶を一口飲むと、よれよれの垂れ目を僕に向けて優しく言った。
「おくばりさまはね、サンタさまがこの国に来る前から、我々に贈り物をお与えになってきたんだよ。つまり、この国が刀とちょんまげを押し入れに仕舞う前からね」
「ばあちゃんが生まれる前から?」
 ばあちゃんは歯抜けた笑いを出した。 「あたしのばあちゃん、そのまたばあちゃんが生まれる前からよ。おくばりさまはね、本当に貧乏な子供とかね、つらい思いをした子供にだけお恵みを下さるのね。あたしのお友達、今はもうお墓の中だけど。彼女も貰ったの。ひもじい冬を耐え忍ぶために、雪っこ被りを、一匹」
「それとその石を」
 ばあちゃんはゆっくりと二回頷いた。
「そしてその年、一人、男の子がお山で遭難した」
 遭難と聞いて、僕はほんの少しだけ背中に冷たい気配を感じた。 「どうなったの?」
 ばあちゃんはゆっくりと首を振った。 「帰らなかった」
 会話はそこで途切れた。僕は次の話題を切り出そうとした。なるべく明るい話題を。だが、ばあちゃんはそのまま続けた。
「この石はね、その男の子がお山にいるおくばりさまに返しに行ったの。そのまた昔にも、同じことが。そうしないと、おくばりさまはお山から下りられないから」
 そう言って、ばあちゃんは石を僕に返した。暖房が強めに効いている部屋でも、その石は氷のように冷たかった。冷えた右手を湯呑みで暖めながら、ばあちゃんは言った。一つ大きな溜息を、今度は短くついた後で。
「この話は忘れてちょうだい」
「でも」
 ばあちゃんの垂れ目には厳しい光が宿っていた。有無を言わせない強さがあった。ただならぬ後悔と悲しみがあった。それに射竦められた僕は、はい、と返事をするしかなかった。

 その日の夜、僕は両親の部屋で寝させられた。僕がまた馬鹿馬鹿しい行動を取らないように。二人の大きな寝息に挟まれながら、僕は布団の中に仕舞った両手でイーブイのボールを暖めていた。そして考えた。セツコばあちゃんの言っていた話が本当なのかどうか。大礼山のおくばりさま。布団の中で、僕はもっと馬鹿馬鹿しいことを思いついていた。月夜の散歩よりもだ。冬休みになったら、大礼スキー場に連れて行ってもらおう。それが駄目なら自分で行く。ブイのことは――どうするべきだろう。彼がいいと言うなら、僕はおじさんとカメックスの教えを思い出す必要がある。そして彼が傷つく姿を見るのも覚悟しなければならない。

 * * *

 大礼スキー場は山の中腹に作られており、山の五合目に相当する高度にある。評判は上々で、カントーのヤマブキ、タマムシといった大都会からわざわざ滑りに来る客も多い。滑るといえば、ポケモン達もなかなかレジャーには堪能だった。カイリキーは子供一人を抱えたままボーゲン蛇行を成功させていたし、華麗なパラレルで平地に降りて来た赤いスキーウェアの人は、よく見るとゴーグルを被ったバシャーモだった。そんな冬を楽しむ者の陰で、寒さには滅法弱いのか、ピジョットとガバイトが一本の長いピンクのマフラーを首にぐるぐる巻きにして、ロッジの窓からゲレンデを半目開きで眺めていた。
 両親が共にスキーを好んでいたことは幸いだった。好き以上に得意だった。僕もまた両親の血を引いて、雪を滑り降りることに関しては天性のものがあった。だが、今日は別に遊びに来たわけではない。僕の黄色いスキーウェアの内ポケットには、石とボールが入っている。ロッジに置いたバックパックには、アウターウェアとゲイターがある。登山靴と替えの下着類がある。魔法瓶の水筒と応急道具がある。ライターと懐中電灯がある。ヘアスプレーとカイロがある。コンパスと地図がある。缶詰五個と鞘付き包丁がある。準備出来なかったのは幸運だけだ。代わりに僕は祈りを持っていくことにした。
 僕はまず先に両親を楽しませた。遊びに夢中にさせて注意を引いたのだ。僕がゲレンデの真ん中で立ち往生する子でないことは彼らも知っている。興が乗った時は大体、それぞれが自分勝手にゲレンデを走ることになる。そして今回もその例外ではなかった。そうして独りになった時、僕は一人ロッジに戻って、貸しロッカーからバックパックを引っ張り出した。靴とウェアをトイレで取り替えて、誰にも見られないように駐車場奥の登山道に向かった。
 立ち入り禁止の縄を潜ると、そこは雪の洞窟だった。陽は差さず、重みでしなった木々が道に覆い被さるように倒れ込んでいる。僕はその洞窟に大蛇の口を連想した。今から僕はその怪物の口の中に飛び込んでいくのだ。幸先は良く、雪の深さは膝丈にも及ばなかった。
 僕はボールからイーブイを出した。小さな顔の中に、大きな決意を帯びた目が二つあった。
「本当にいいんだね?」
 ブイ!――力強い返事だった。僕は本当に良い友達を持った。それで十分だ。この目で確かめよう、と言って、僕達は大礼山の頂上に向かって歩き出した。

 * * *

 正直、僕達は早くも参っていた。五合目の中盤からは雪が思った以上に深く、僕の背丈では一メートル進むのも三十秒掛かった。歩いていたというよりは雪の中を這っていたのだ。重いバックパックを背負っているせいで身体の自由も利かず、雪が服の中に入ったせいで、じわじわと体力を奪われていった。それでも、僕は何とか木にしがみつきながら、時には先を進むイーブイの励ましを受けながら、ゆっくりと歩を進めた。
 大自然の試練に直面していた僕だったが、悪いことばかりではなかった。野に生きるポケモン達の姿をこの目に収めることが出来た。雪原のど真ん中で、繫殖期を迎えたユキノオーの雄達が雌を巡って相撲を取る姿を見た時は素直に感動した。興奮したユキノオーは身体の周りに吹雪を纏うとは授業で聞いたが、実際に見たのは初めてだった。使い捨てカメラを持って来なかったのが悔やまれるが、そのために来たのではないから仕方がない。それに、見惚れているうちにこちらに気付かれたら何をされるか分かったものではない。一応、イーブイにはいくつかの技を教えたが、出来れば使わずにおきたかった。何しろ彼はそこまで力強くないし、それもこれも僕がバトルに参加させなかったせいなのだ。ここにはポケモンセンターの一つもなければ、重傷を負えば命取りになる。だから、僕達は常に本能を研ぎ澄ませ、野生動物のように注意を欠かさなかった。
 やがて六合目の登山道に入った時、ヘリコプターの音が空からばりばりと響きだした。僕達はすぐに身を屈め、近くの獣道に身を隠した。あの二人が僕の不在に気付いたのだろうか。だが僕には引き返すつもりなど更々なかった。ここで戻れば前の自分と同じになる。良い子の振りをしながら不平不満を抱えて生きていく人生だ。臆病者に戻るのはごめんだ、と口に出して言い聞かせ、僕はまた登山道を進んだ。
 六合目を過ぎて七合目が見えてくると、空が暗くなり始めた。両親が間違いなく異変に気付いて僕を探している頃だ。出来れば少しでも進んでおきたかったが、暗い登山道を歩くことほど無謀なことはない。僕達は今日の寝床を探しつつ、焚き木となる枝を集めながら辺りを歩き回った。
 火を起こすのは決して楽ではなかった。湿り木にライター。焼け石に水と同じ意味のことわざ。雑誌でも何でもいいから、焚き付けを持ってくるべきだった。だが、イーブイがこの抜け毛を使え、と自ら口に毛玉を咥えて僕に渡してくれた――ああ、僕のブイ!お陰で今日は凍えずに眠れそうだ。束ねた焚き木はゆっくりと燃え始め、あっという間に大きな火に変わった――ハイタッチ!僕達は温めたミネストローネの缶詰を一緒に味わった。
 早々に夕食を済ませると、僕はポケットに入れた石を取り出してみた。驚くことに、この石の冷たさは冬山の空気を凌いでいた。厚手のグローブ越しでも指先の感覚が無くなっていくのを実感した。
「これを持ってたから寒いのかな」と僕はそれを傍の地面に置いた。 「いるかな、おくばりさま」
 そう言った後、言い知れない恐怖と不安が急に襲ってきて、僕は慌てて訂正した。 「いや、まだ六合目じゃないか」
「ブイ!ブイ!」
 イーブイは相槌を打っていなかった。石に向かって吠えていた。よく見ると石の青い結晶にはみるみるうちに霜が張り付き、やがて氷となって全体を覆っていった。
 僕はその摩訶不思議な石を再び手に取ってみた。フリーズロック。聞いたこともない名前だ。山に住まうおくばりさまが、下界に降りて来られるようにするための石。これを山に返しに向かった男の子が七十年前に遭難した。その男の子は無事に頂上に辿り着けたのだろうか。それとも道半ばで倒れたのだろうか。昔は防寒具もまともになかった。きっと、彼はヒトカゲやガーディを連れて登ったのかもしれない。
 僕がそんな風に物思いに耽っていると、近くで低い唸り声が聞こえた。僕は咄嗟に背後の雑木林を見たが何もなかった。唸っていたのはイーブイだった。全身の毛がトゲデマルのように逆立ち、愛くるしい顔が怒りに歪み、僕から後退りしていた。
「ブイ?」
 イーブイは僕の呼びかけに獰猛な吠え声で返した。その小さな背中から冷たい風が吹き、僕を後ろに吹き飛ばして火も消した。僕は斜面に這いつくばって、何とか転げ落ちずに済んだ。イーブイの方を見ると、彼は息を切らして首を振っていた。
「どうしたんだよ、ブイ?この石、嫌い?」
 そう言った後、僕は顔がやけに痛くなっていることに気が付いた。手で顔を払うと、茶色い毛が何十本もグローブに貼り付いていた。毛は冷気で固められ、文字通りの針になっていた。
「ブイ、ブイ!」、我に返り、イーブイは必死に僕に謝っていた。僕は傷のことなど少しも気にしていなかった。気になっていたのは、この石に秘められた可能性の方だった。

 ずしん、という足音が地面を揺らしたのは、そんな不幸な行き違いが起きた直後だった。一歩ごとに枝が踏み折られ、アイドリング中の大型車にも似た音が雑木林の奥から近づいていた。
 現れたのは、腹を空かせたリングマだった。
 その大熊の目は真っ黒に濁っていた。ねばねばとした白いよだれが滴り、頭を揺らす度に腹の円輪模様にべたべたとくっついた。穴持たずという、冬眠し損なった熊。立ち上がった時の体長は僕の二倍か、三倍の大きさはあった。それは山のように大きく、真っ黒で、暗闇の中で目だけが光っていた。
 僕は背を向けて走りたくなる衝動を何とか抑えて、リングマの目を見ながらゆっくりと時計回りに後退した。そうしつつイーブイの方に近づき、斜面の上方を取った。
「ブイ、雪を目に掛けろ!」
 ブイブイ!――イーブイはリングマに背を向けて、後ろ脚で雪を蹴ってリングマの顔に掛けた。リングマは咄嗟に顔を伏せて雪をかわすと、またゆっくりと僕達の方に歩いてきた。
「狙いは良かった。後はタイミングだ――ブイ、スピードスター!」
 ブイー!――バック宙をしながら、イーブイは後ろ足を白く光らせると、そこから星型の光を両足で蹴るように放った。リングマはその巨体に見合わない素早さで跳躍し、光を避けようとした。だが、スピードスターという名前の通り、この技はどんな反射神経をしていようと避けようがない。光線はリングマの右肩に命中し、白い火花を散らせた。だが、肝心の威力は擦り傷一つ作った程度で、相手を怒らせただけだった。そいつはぐるぐると低く唸ると、僕達の方に怒りの目を向けて、凄まじい速さで突進してきた。
 僕はイーブイに右に避けるよう言って、自分自身は左に避けた。そうして常にリングマより高い位置を取りつつ、今度は挟み撃ちにした。 「スピードスター!」
 イーブイが気を引いている間に、僕はバックパックからヘアスプレーとライターを取り出して、即席の火炎放射器を作った。引っ込み思案だと前期の通信簿には書かれたが、僕は危ない橋を結構平気で渡れる。そうでないと、夜中の散歩には行かないし、こんな冬の山奥になんかやって来ない。
「こっちだ、リングマ!」
 僕の呼びかけに反応して、リングマはこちらを向いた。それに合わせて、僕はスプレー缶とライターの引き金を同時に引いた。射程距離は三メートルほどで、分厚い毛皮を焼くほど強力ではないが、火に慣れない獣を驚かせるには十分だった。
「今だ、ブイ!雪掛け!」
 イーブイは今度こそリングマの顔に雪を命中させた。リングマは四つん這いになって頭を振り回していた。目に入った雪を払う以外にも、急所である首、鼻、目に狙いを定めさせないためだ。僕の狙いはリングマの鼻だったが、狙いを変更した。
「後ろ脚にスピードスター!撃ちまくれ、ブイ!」
 ブイブイブイ!――イーブイの放った光線の雨はリングマの丸太のような後ろ脚に集中して浴びせられ、眩い花火を雪に散らした。リングマは痛みに耐えかねて、五合目の登山道に逃げていった。脚を引きずりながら。
 全てが終わると、僕は力なく尻もちをついた。全身汗だくで、そのせいで身体が冷えきっていた。心臓は弱々しく脈打ち、糸が切れたように頭がうなだれた。何かが間違っていたら確実に死んでいた。また背後で枝でも折れたら、僕はわっと泣き出したに違いない。
 ブイブイ!――やったね、と言わんばかりに、イーブイは僕の頬に顔をこすりつけた。それを見て、ほんの少しだが僕は満足感も覚えていた。イーブイは僕が思っている以上にずっと強かった。トレーナーズスクールでの最後の試合で、僕は上級生に負けた。その時のホムラの痛ましい姿は忘れられない。自分の間違った指示のせいで、と考えると、僕は自分が情けなくてたまらなかった。だが、今分かった。あの時の僕は敗北したという事実を単純に受け入れられなかった。自分だけが楽になりたかったのだ。そうして自分のせいで仲間を傷つけるのは見たくない、ともっともらしい理由を盾に逃げ出した。それが全てだ。ホムラの信頼を裏切ったとも知らず、僕は駄々をこねて最後まで逃げ通した。そんな子供に、一体誰がプレゼントなんか与えたがるだろう。プレゼントが欲しいなら、自分で取りに行くべきなのだ。
「ホムラ、ブイ。僕、少しだけ強くなったよ」
 僕は立ち上がって、剣先のように鋭い山頂のシルエットを見上げた。サンタさんはいる。いるのだ。

 その時だった。山の頂上に青い稲妻が一筋だけ落ちて、どこからともなく大粒の霰(あられ)が降り注いできたのは。
 興奮冷めやらぬ僕は、愚かしくも激しい天気に心を揺さぶられ、一刻も早くその場を離れることしか考えられなくなっていた。バックパックに荷物を詰め込み、空いた缶詰は捨て置き、石がアウターの右ポケットに入っていることを確認してイーブイと一緒に七合目を目指した。そこには登山客が休憩するためのコテージが一つだけあった。距離にしても八十メートルしかない。だが、この勇み足が全ての間違いだった。
 懐中電灯を点けて見えた物は何もなかった。霰はあっという間に地吹雪に変わり、僕達は外界から完全に孤立した。手を前に出すと五センチ先で見えなくなる。大声を出したつもりが何も聞こえない。身動きも出来ず、永遠に立ち止まって、ただ自分が倒れるのを待つしかない時間だった。
 それでも、僕は進むことにした。だが、イーブイは僕の足を引っ張った。
「駄目だ!行くんだ!」。吹雪の中で、僕はそう叫んだはずだった。
 イーブイの姿は見えなかった。声も届かない。だが僕の左足の裾に食らいついて、力の限りに踏ん張っていることは分かった。僕はイーブイの身体を暗闇の中から拾い上げた。まつ毛は全て白く凍り、目はほとんど開いていなかった。
「ブイ!ブイブイ!」、顔を鼻先二センチまで近づけて、ようやく声が聞けた。
「このままだと、ここで死んじゃうんだぞ!ケンカしてる場合じゃない!」
 そう叫んで、僕はイーブイを抱えて先に進もうとした。だが、イーブイは僕の手の中で目一杯暴れて、僕を歩かせてもくれなかった。
「いい加減にしてよ!」
 そう言って、僕はボールを取り出してイーブイを無理矢理に仕舞った。次の瞬間、背中に岩のような重い物がぶつかってきて、僕はどこかに吹き飛ばされた。
 何が起きたのか見当もつかなかった。吹き飛ばされた直後、今度は胸に重い物が当たった。それは太い木だった。打ち倒れて、仰向けかうつ伏せかも分からず、バックパックの中身がぶちまけられて白い暗闇に消えていく様だけが目の端に映った。
 僕は立ち上がろうとした。だが、いくら足に力を入れても全く動かなかった。打ち付けた胸が燃えるような痛みを帯びて、息を吸うことも出来なかった。正直泣きたかった。だが、胸の炎は泣くことすら許してはくれなかった。
 暗闇の中から何か黒い物体が出てきた。さっきのリングマだった。吹雪の中にいても、リングマの両目は光って見えた。
「だ、ま、し、う、ち……」。一言ずつ声を出すと、口の奥に苦い味が広がっていった。
 僕は最後の力を振り絞って、ポケットに仕舞ったはずのボールに手を伸ばそうとした。だが、ああ、そうだった。ボールはさっきの騙し討ちの衝撃で手を離れている。代わりに入っていたのはあの石だけだった。
 生まれて初めて、僕は走馬灯というものを見た。たった七年しかない、浅はかで無価値な勇者の命の記憶を。

“らくになると おもいだす にんげんはみな おはかのなかで”

 そんな詩がまだ習っていない教科書のページに書かれていたことを思い出していると、リングマが暗闇の中で吠えていたことに気が付いた。それが何かは僕にも分かった。イーブイだ。ボールをこじ開けて出てきたのだ。
「スピード……スター!」
 僕はそう叫んだつもりだった。だが、何も起きなかった。

 それから何が起きたかは覚えていない。気が付くと、吹雪は止み、リングマもいなくなっていた。僕は自分の呼吸が完全に止まっていることを自覚していた。瞼を動かそうと思っても、ちっとも動かなかった。僕の身体は、斜面の下を眺めるように横倒れになっていた。
 少しして斜面の下の方から、イーブイがよたよたと歩いてきた。全身傷だらけだった。僕と同じように。
「ブイ」。僕は心の中で彼をそっと呼んだ。
 イーブイは僕の方に近づいてきた。そして、何かを探すように、僕の全身の匂いをくまなく嗅ぎ始めた。
「僕、生きてるよ。死んでないよ」
 イーブイは呼びかけに応えることもなく、僕の身体をまさぐっていた。
「あった……!」
 聞き覚えのない声だった。誰かすぐ近くにいるのだろうか?イーブイは助けを呼んでくれたのだろうか?お父さんか、お母さんか?それとも救助隊のレンジャーか?それか僕と同じように羽目を外してしまったトレーナーか?誰でもいい、助けて欲しい。僕はまだ、あの山の向こうに行かなくてはならない。
 そう考えていると、イーブイは僕の胸ポケットを口でこじ開け、あの石を口に咥えていた。
「ブイ?」
 イーブイは僕に目もくれず、一目散に山頂に向かって走り出した。
「待って!ブイ!ブイ、行かないで!僕、まだ生きてるんだ!どうして置いていくんだ!助けてよ、ブイ!こんなところで死にたくないよ!」
 あの山の向こうで、星の海が瞬いていた。

 * * *

「起きて、トモキ……起きるんだ!」
 また聞き覚えのない声に僕は起こされた。眼を開けると、遠近感の失われた分厚い木目のある丸い天井があった。起き上がれる気もしなかったので、僕はそのまま動かなかった。
「良かった……みんな、間に合ったぞ!」
 おおっ、とどよめきの声が周りからあがった。
「僕、どうなったの?」と僕は頭を動かさず、その見知らぬ人に聞いた。
「死にかけていたんだ。胸を打って、骨が折れて、動けなくなっていた。だから、僕達が助けたんだ」
「僕達?レスキュー隊なの?」
「まさか。こっちを見てごらん」
 言われた通り、僕は顔だけを声のした方に向けた。 「君達はおくばりさまと呼んでいた」
 そこには、サンタの恰好をしたような鳥ポケモン達が十二匹、木で出来たステージの上にずらりと横に並んで立っていた。その檀下、僕の近くにはもう一匹いた。彼が僕に話しかけていた。腰の裏に抱えた、袋のような白い尻尾は後ろにいた誰よりも大きかった。
「デリバード……?」
「そう呼ぶことも出来る」と僕に話していたデリバードは目を細めた。
「喋れるの?」
「目覚めてから最初に気になったのが、よりによってそれかい?まあいいさ。自分の体をみてごらん。そうすれば分かる」
 僕は首を起こして全身を見てみた。髭のような羽毛が顎から生えていた。赤い服に見えたものは全て身体の一部だった。お尻の先には、何かがぶら下がるような感触があった。
「ようこそ、同胞。我々は君を仲間に迎えられて光栄だ」
 目が覚めると、僕はデリバードになっていた。くり抜いた大木の中に出来た一室で。
「僕、どうなって――」。混乱して、危うく金切り声を出すところだった。
「落ち着いて」とその尻尾の大きなデリバードは、僕のベッドに堂々と歩いてきた。堂々かつ、穏やかな足取りで。 「セイタロウと呼んでくれ、僕のことは」
「セイタロウ?」と素っ頓狂な声が出てしまった。 「人間みたいだ」
「昔はね」とセイタロウは言った。
「ここは夢の中?」
「いや、大礼山だよ。人間が辿り着くことのない断崖絶壁の奥に、霧の中の秘境があってね。僕達は今、その秘境にある枯れたヒイラギの大樹の中にいる」
 それを聞いて、僕は現実的に考えるだけ無駄だと気づいた。 「何が起きたの?」
「ふむ」と言って、セイタロウは長い顎髭のような羽毛を右手でいじった。 「実を言うと、僕達が君を呼んだんだ。あの青い石はね、僕達が次の仲間を選ぶためのコンパスだったんだよ。君だけじゃない、みんな石に導かれてここに来たんだ。もちろん、この僕もね。もう七十二年も前のことだ。だから、君がこうなったのは偶然じゃない」
「七十二年?じゃあ、君は――セツコって人、覚えてる?」
「セツコちゃん……!」とセイタロウはその丸い目をキラキラと輝かせた。 「彼女、元気にしてたかい?」
「おばあちゃんだけど、元気だよ。僕におくばりさまのことを教えてくれたのもセツコばあちゃんだった」
「そうか」と彼は一転して物憂げな口振りになった。 「元気ならいいんだ、それで」
 僕はもう一度自分の身体を見てみた。人間ではなくなったと自覚した時、両親の顔が瞼の裏で鮮やかに輝いていた。今になって、僕は何もかも失ったことに気が付いた。
「僕は、これからどうすれば」
 セイタロウは僕の平たい両手を、同じくらい平たい両手で持ち上げた。
「君にしか出来ない仕事がある。だから君を呼んだ」
「僕にしか?」
「そうだ。僕達は年に一度、山の下に希望を配ることにしている。恵まれない子供達のためにね。でも、時代が変わると、その時に生きる子供達の希望も変わるんだ。そうなると、僕達はプレゼントの中に正しい希望を詰められなくなる。僕が人間だった頃はね、みんな貧乏だった。だから、願う物は決まって食べ物やお洋服だったんだよ。それか、高望みする子はブリキのおもちゃとかね。でも、そんな時代も終わって、食べ物とかおもちゃは簡単に手に入るようになった。そうなると、子供達はだんだんと形のない物を欲しがるようになった」
「形のない――」
 そうだ、とセイタロウは真剣な口調で言った。 「君も、お父さんとお母さんの愛が欲しかったんだろう。一方的じゃない、君に向き合った愛を」
 お父さん、お母さん――その言葉で僕は遂に泣き出してしまった。どうしようもなく、涙が止まらなかった。
「君なら、そういう子達の希望が分かる。だから、僕達は君をここに呼んだんだ」
 そう言って俯くセイタロウの顔も、どこか悲しそうだった。彼も同じ道を通ったのだ。みんなそうだ。その孤独は決して僕だけのものじゃない。泣く資格などない。僕は頑張って涙を飲んだ。
「いいよ」
 セイタロウははっとして顔を上げた。
「僕、サンタさんになる。僕、頑張るよ!」
 その言葉の後、セイタロウは僕を力強く抱きしめた。 「これからは、僕達が家族だ」
 僕も同じくらいに強く抱きしめ返していた。身体を離した時にはもう、深い孤独は雪のように解けて消えていた。
「そういえば、石はどこに?」
「君の友達が持ってきた」
 今になって、僕はイーブイのことを思い出して叫んだ。 「ブイは!ブイはどこ!?大丈夫なの!?」
「落ち着いて」
「生きてるんでしょ!?ねえ!?」
 セイタロウは再び俯くと、重々しく口を開いた。 「彼は――」

 * * *

 仕事を終えた私は、再び実家のサルスベリの前に来ていた。幹に降り積もった雪の下では、来年の晴れ姿に向けた新芽が冬の寒さをじっと耐え忍んでいた。
 セツコさんは私が失踪してから三ヶ月後に亡くなった。彼女の家もまた取り壊されて、見る影もなく駐車場の一角に姿を変えた。
 私の両親だが、母はまだ健在だ。老人ホームで新しい友達を作ったらしい。歳のせいで頭のネジが大分外れたらしいが、幸せならそれでいい。ただ、面と向かって謝ることが出来なくて残念だ。それは亡くなった父やセツコさんにも同じことが言える。
 サンタになった直後、セイタロウは私が街に降りることを二日だけ許した。大人達、そして大人の階段を登り始めた子供達には、もう私の姿は見えなくなっていた。山岳救助隊は一週間掛けて私を捜索したが、結局見つかることはなく、当時の持ち物と衣服の破片だけが見つかった。セツコさんは亡くなる直前まで、おくばりさまのことを私に教えたことを悔やんでいた。母は僕がいなくなってからの一か月間ずっと乱心し続け、私の部屋に引きこもるようになった。父は毎年になると大礼スキー場に花を供えに来ていた。何だかんだ言っても、私を愛していたのは事実だったのだ。
 私は夜空を見上げた。満点の星空には雲一つなかった。ただ羽毛のような純白の雪だけがヒロセの街を優しく覆っていた。あの日も同じ雪が降っていた。仲間達に頼んでヒロセに降らせた、はなむけの雪だ。私がこのサルスベリを見に来ることはもうないだろう。達者でな。昔みたいに綺麗な顔をみんなに見せろよ。私はそう言い残して、最後に残された知り合いに別れを告げた。
 夜は十一時を回った。そろそろカントーに行かないと、朝までに配達が間に合わなくなる。だが、私はもう少しだけこの街に留まることに決めていた。この街の子供達が何を望んだか、プレゼントの中身を見届けておきたかったのだ。
 シュン君は寒さと私の気配に目覚め、枕元のプレゼントに気付いて開けていた。中には何も入っていなかったが、その直後に両親がクイタラン・バーガーのテイクアウトとクリスマスケーキを持って帰宅した。そして、今年こそ一緒に初日の出を見よう、と彼に約束した。
 ピチューの女の子はまだ目覚めていない。だが、箱の中には穴持たずのリングマにも立ち向かえる勇気が詰まっていることだろう。
 そして、私にそっくりなマサヒロ君。彼のプレゼントばかりは私にも予想がつかない。だが、その方が面白くなりそうだ。サンタさんが本当にいることを信じてくれれば、後の人生は彼の思うままだ。それこそが彼の望んだことなのだから。

「ねえ、ママ!これ開けていい!?」
「いいよ。でも、サンタさんに感謝するのよ」
「はーい」
 横丁の近くで通り掛かった一軒家の表札には、シノミヤと書かれていた。そのやり取りは前庭に出るガラスの引き戸から漏れている。居間の中では、個性的な顔と体形をした女の子と、綺麗なお母さんがクリスマスツリーの前に座っていた。乱暴に赤い包装紙を破るその子の姿に、私はいつかのガキ大将の姿を重ねた。
「何だ?もう開けさせたのか、マヤ?」
「だって、早く開けたいって聞かないんだもの」
 私はマヤと呼ばれた女性を見て酷く驚いた。マヤって、あのマヤ?私は前庭に忍び込んで、その女性の顔を観察した。よく見ると、確かにあのマヤだった。スタイルも、顔も全くの別人に見えたが、困ったような垂れ目だけは昔のままだった。なるほど、歳月は人を変身させるものだ。他の皆は今頃どうしているだろう。彼らが私を見ても、それが私だと気付くことは決してないだろう。私がマヤだと気づけなかったように。人間としての私は三十年前で凍り付いたままだ。今後も解凍されることはないだろう。それも永遠に。
「あ!」と女の子は私の方を見て指差した。 「サンタさんだ!」
「え?」
 私はもう家の前を離れるところだった。
「あれ?いない」
「サンタさん、恥ずかしがり屋なのよ。だから言ったでしょ、寝てる時にしかやってこないって」
「もう。ママとパパの分も置いていって、ってお願いしたかったのに」
「いいのよ。あたし達はミユがいれば、それだけで。ね、あなた」
「ああ。さあ、今日はもう寝よう。残りは明日開けなさい」
「はーい」

 もうすぐクリスマス・イヴは終わる。明日は喜びが空に満ちる日だ。プレゼントを与える者は、貰った者の喜びを分かち合って心を満たす。我々はその喜びを糧に生きている。私はクリスマスが嫌いだったが、それも昔の話だ。
「トモキ!」と背後に声が掛かった。
 振り向けば、そこにブイが進化したグレイシアがいた。石に蓄積した大礼山の冷気で進化した彼は昔以上に逞しく、美しい。 「時間がない。早くマサラに向かわないと」
「待ってくれ、ブイ」と私は言った。 「ヒロセのクリスマスは美しい。そう思うだろう?」
「ああ。でも、どうして?」
「思い出していたんだよ。お前が石を咥えてセイタロウを呼びに行った時の話をね」
「またそれか」とブイは苦笑いした。 「何回も謝ってるじゃないか。悪かったよ、死んだ振りなんかして。言葉が通じるようになったと知って嬉しかっただけだ」
「いいや、許さんぞ。この罪は一生消えないからな」
「じゃあ」、ブイは微笑みを返した。 「どうやって償えばいい?」
「当然、僕の側を離れるな。ずっとだぞ」
「言われなくたって」
 僕は両手を広げて胸を開けた。ブイが額をひしとつけてきた。
「大好きだよ、ブイ」
「俺も」
 深い雪の中で、私達はずっと抱きしめ合っていた。仲間達の急かす声が南風に乗って、頭上を通り過ぎるまで。
 行こう、とブイが言った。
「ああ」。もう私達は北風に乗って、南に向かうところだった。 「悲しみを消しにな」
良い子のみんな、プレゼントを貰った時は感謝を忘れずに。

善良なる大人達、プレゼントをあげる時は真心を忘れずに。

それでは、良いクリスマスを!ホ!ホ!ホ!  ――サンタさんからの言葉

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