その花の名は

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作者:円山翔
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読了時間目安:16分

この作品は小説ポケモン図鑑企画の投稿作品です。

 二度目の春を逃した私は、相も変わらず机に齧りついていた。
 自分はもう花開くことがないのではないかという不安を塗りつぶすかのように、過去問題集の問題を片っ端からさらっていた。もう少しだ。きっと、もう少しで手が届く。三度目の正直という言葉があるように、今度こそはきっと合格する。そうすれば、彼女はまた花を咲かせてくれるかもしれない。閉じたままの花弁を開いて、太陽のような笑顔を見せてくれるかもしれない。それが私の希望であり、勉強を続ける理由の一つだった。

 医者になりたいと思ったのは、家が医者一家だからでも、誰に言われたからでもない。人々の傷や病気を取り除く医者という職業は、私自身の憧れであった。医者が激務であることも、そのためには途方もない努力が必要であることも、調べたり人から聞いたりして知ったつもりでいた。そのうえでなお、医者になりたいと思った。
 待っていたのは想像していた以上に辛い道のりだった。どれだけ勉強しても、志望大学用の模擬試験や過去問でほとんど点が取れない。基礎固めをして、問題の傾向と高得点を獲得するためのポイントを押さえて、そのうえでまだ部分点の基準に達しない。解き方を分かっているつもりでも、いざ本番を想定した緊張感の中では、どうも本領を発揮できないでいた。とはいえ、そんなことは言い訳に過ぎなかった。普段からできているならば、本番でもできないことはないはずだ。本当に分かっている「つもり」でしかなかったのか。これまでやってきたことがちゃんと身についているのかという不安に襲われた。自分には勉学の才がないのではないかと思うことも、似たようなことを他人に言われることもあった。信じるつもりはなかったが、実際に得点を稼げていないということもあって、説得力を感じずにはいられなかった。しかし諦めるつもりはなかった。医者になるのは私の夢だ。医者になって、あらゆる病気を治すのだ。人々の苦しみを少しでも取り除くのだ。その一心で机に向かい続けた。
 そんな私を、彼女はいつも傍で見守ってくれた。
 晴れの日には薄桃色の花を開き、満面の笑みで踊りながら。日が落ちた後や天気の悪い日には、紫色の房で体を覆い静かに佇んで。予備校や模擬試験の朝には、笑顔で見送ってくれた。試験がうまくいかなかったときは、傍にいて私を慰めてくれた。くたびれて帰った日には、甘い香りのアロマセラピーで労ってくれた。いずれにせよ、彼女は存在は間違いなく私の励みだった。
 彼女が笑わなくなったのは、私が原因だった。
 一度目の試験に落ちた日は、まだ大丈夫だった。酷く落ち込みはしたものの、すぐにあと一年頑張ろうと気持ちを切り替えた。
 家に帰って落第を伝えると、母は「次頑張りなさい」と言って予備校のチラシを私に渡した。彼女はというと、私の肩に乗っかって小さな手で頭を撫でてくれた。ほんのりと漂う甘い香りに、くたびれた心が幾分か楽になった気がした。
 そこから一年予備校で勉強し、今までまともに解けなかった問題が、少しずつではあるが答えられるようになってきた。相変わらず模擬試験の結果はまずまずだが、昨年よりはよくなっている。今年こそは合格するんだと決め込んで、昼夜勉強に明け暮れた。沢山のことを詰め込んで頭がパンクしそうになりながらも、ただひたすらに鉛筆を持つ手を動かした。
 二度目の試験に落ちた日、結果を告げると母は仏頂面で言った。
「諦めて別の道を探したら?」
 無理もなかった。私はバイトをしているわけではない。したがって、予備校の授業料を払っているのは両親だ。大学に入ったら入ったで、学費を払ってくれるのも両親だ。バイトをすれば多少は稼げるだろうが、学業の合間にするアルバイト程度では生活費を賄えるかどうかさえ危うい。
「もう頑張らなくていいから。就職先を見つけるなり、別の大学を受けるなり、いろいろ方法はあるでしょう?」
「私はタマムシ大の医学部に行きたい。トップレベルの大学で学んで、医者になるって決めたんだ」
「受験に合格するためだけに勉強して、そのあとはどうなるの?」
 母が言うのも最もだった。分厚い過去問集には、医学に関することなんて全くと言っていいほど載っていない。今覚えたところで、受験が終わってしまったら使わなくなる知識ばかりだ。勉強して勉強して、最初の頃よりはましに問題が解けるようになってはいるものの、合格を勝ち取るには至っていない。それに、合格してしまったら、今度は全く別のことを頭に叩き込まなくてはならない。
「違うよ母さん」
 しかし私はきっぱりと言った。
「私は今、医者になるために勉強をしているんだよ。医者になる勉強をするために、受験勉強をしているんだよ」
 沢山の知識を得ることは、脳の容量を増やすことだ。それに、ある方法で解けなかったならば、別の方法で解けないか試してみる。一つの方法で解けたとしても、より簡単な方法はないか考えてみる。そういう考え方が大事なのだ。私はそう思っていた。そして、そのことを証明できていない今、それはただの正当化でしかなかった。
「それで今年も駄目だったんでしょ? このまま続けても、ずるずる置いて行かれるだけじゃないの? それならレベルを下げてでも別の大学で勉強した方がいいんじゃないの?」
 母は現実主義だ。夢のある狭き門よりも、堅実な道を選ばせようとする。そこで母の言葉を受け入れてしまうのは簡単だし、実際に今のまま頑張るよりは楽になるはずだ。心がそうしてしまおうと囁いている。自分の心を捻じ曲げてでもさっさと進路を決めて、両親に楽をさせてやろうと言っている。
 邪念を振り払うように、私は頭を思い切り下げた。ゴツンと机にぶつかって、鈍い痛みが頭全体に響いた。膨らんだ邪念が、すごすごと引き下がっていく。
「お願いします。もう一年だけでいい。もう一年だけやらせてください。それでだめだったら、別の道を探すから」
 ここで提案を受け入れたら、それこそここまでの頑張りが無になってしまうような、これから先も壁にぶち当たった時に逃げ出してしまうような気がしてならなかった。それだけは避けたかった。嫌だから今のまま頑張るというのは、見方によってはとても消極的な考え方だ。だからこそ、私は制限時間を設けた。あと一年で合格できなければきっぱりと諦める。それが私なりの妥協点だった。
 観念したように、母は言った。
「やれるだけやってみなさい」

 母にああは言って許可はもらったものの、どうも釈然としなかった。手放しで応援してくれとまでは言わないまでも、母の声には小さな棘が感じられた。本当は無理やりにでも別の方法を取らせたかったのだろう。母は母なりに妥協をしているのかもしれない。そう思うと胸が詰まりそうだった。
 本当は今にも挫けてしまいそうだった。それまでの努力が無に帰したのは二度目で、既に折れそうな心を保つのに精いっぱいだった。今すぐに何もかも遮断してしまいたかった。今日だけは勉強もせず布団に潜って、何もかも忘れてしまいたかった。
 部屋に帰ると、彼女は机の上でくるりくるりと踊っていた。甘い香りが鼻をくすぐる。アロマセラピーだ。いつもならばこれで少しだけ心が安らぐのだが、その時は違った。
 彼女の応援を、慰めを、その時ばかりは疎ましく思ってしまった。
 私を見つけた彼女は、机を蹴って私にしがみついた。私が帰ってくるのを待ちわびていたかのように、輝かしい笑顔だった。私はそっと彼女を抱き上げて、机に降ろした。ベッドに倒れこむ。そのまま眠ってしまおうとしたところに、背中に重みを感じた。彼女が私によじ登って、背中を踏もうとしているのだ。
「うっとおしい! 疲れてるんだからそっとしておいてよ!」
 言ってからすぐに口をつぐんだ。なんてことを言ってしまったのだろう。
「ごめん、言い過ぎた」
 私は背中に手をやって彼女を抱き寄せ、できるだけ優しく撫でた。それまで開いていた花弁が、しゅんと閉じていた。小刻みに震える彼女の体は、いつも以上に縮こまっているように感じられた。
 うまくいかなかったからといって彼女に当たるなんて。「ごめんね」という言葉で満たされた胸の奥がきゅっと締まる。息を止めて、大きく、ゆっくりと吐いた。
 不意にノックの音がした。
「入っていいか」
 父の声だ。何も言わず、ノックさえせずに入ってくる母とは違い、父は必ずノックをして私に確認を取る。
「ん」
 生返事を漏らすと、ガチャリと扉が開いた。
 いつも仕事で帰りが遅く、朝は朝で私が早く家を出るせいで、父の顔は休日の食事の時間以外でほとんど見ることはない。こうして早く帰ってくるのも、私の部屋に顔を出すのも、随分と久しぶりだった。
「母さんから聞いたよ。もう一年、頑張るんだって」
「……」
 体を起こしてベッドに腰かける形を取る。そうして見上げた父の顔には、喜怒哀楽どの表情も見られない。基本的に父は私のやることなすことに干渉しなかった。悪く言えば放任主義、よく言えば私のやり方や考えを真っ向からは否定しないでいてくれた。それでも、これからまた父に負担を掛けるのは事実。その顔で何を言われるのか、つい体がこわばってしまう。
 父の口から出たのは
「お前の納得がいくように頑張ってみなさい」
という穏やかな声だった。その言葉を聞いた時、私の心を奇妙な感覚が満たした。父の言葉には、一切の圧力を感じなかったのだ。放任主義ゆえと言えばそうなのかもしれないが、期待とも失望とも違う種類の言葉は、私の心の奥底にすとんと落ち着いた。
「……うん」
「それから、たまには外へ出て散歩でもするといい」
「歩くのは予備校の行き帰りで事足りてるって」
「それとは別に、何も考えない時間を作るってこと」
「……」
 それだけ言って、父は部屋を出た。

 異変に気付いたのは翌日のことだった。日光が窓から差し込んでいるのに、彼女は花を開かなかった。
「おはよう」
 声を掛けても、小さな目をぱちくりさせるばかり。一向に咲く様子を見せなかった。不気味に思ったものの、休んでばかりはいられないと机に向かって問題を解いた。彼女はそれまでと変わらず、机の上で私を見守り続けた。
 それ以降どんなに日当たりのよい日でも、花を開くことはなくなった。医者に診せても、体には何の異常もないとのこと。状況から察するに、私が突き放したことによる精神的外傷が原因だった。それでも変わらず私の傍にいてくれる彼女に、私はやりきれなさを感じた。私のせいでそうなったというのに、まだ私を応援してくれるというのか。はたまた、こんなことになった原因となった私を恨んで、呪っているのだろうか。
 次こそは何としても合格しなければならない。私の心に火が灯った。最初に決意した時よりも、一度試験に落ちて再始動を誓った日よりも大きく燃え上がっていた。

 そうして今に至る。

 それから変わったことといえば、父の助言に従ったことくらい。それ以外は特に変わりのない生活を過ごしていた。朝早く起きて前日の見直しをし、軽く問題に触れる。それから朝食の前に、咲かない彼女を頭に乗せて散歩するようになった。
 いつも机に向かっていただけの生活で、どれほど視界が狭まっていたことだろう。何も考えないというだけで、今まで気にも留めなかったことが次々となだれ込んできた。電線の上で鳴き散らすポッポたちの声。道行く車の音。人々の声。道端に咲く花の色。見上げた空の色。予備校への行き帰りには、そんなことには目もくれなかった。勉強のことばかり考えていたせいで、こんなにもたくさんのものを私は見落としていたのだ。たったそれだけのことに気づいただけで、私の一日はがらりと色を変えた。
 それまでは予備校にいって授業を受けて、家に帰って夕飯を食べて風呂に入って、気が付いたら一日が終わっている。感動なんてこれっぽっちもない。あるのはできない自分を責める私だけ。それが、今までよりも少しだけ外の世界に触れて、少しだけ彼女といる時間を増やしたことで、これほどまでに変わるなんて。
 心の中で、決意が姿を変えた。「合格できるろうか」「合格しなければならない」が「合格できるかもしれない」に、更には「合格できそうだ」に変わった。そこで勉強をやめてしまえば、また振り出しに戻ってしまう。「合格する」という決意を「合格した」という結果に変えるためには、結果を得られるその日まで勉強を続けなければならない。そして、私の心にはもう、義務感はほとんど残っていなかった。

 三度目の合格発表日は、腹立たしいほど綺麗に晴れていた。朝早くから車も人も多い中で、風に揺れる木々の音やポッポたちのさえずりが時折耳に届いた。そういう周りの物事に目を向けられる程度には、心に余裕があった。
 私は少し早めに家を出て、いつも通り彼女を頭の上に乗せて大学へと向かっていた。インターネットが発達したこのご時世に掲示板で合格発表を行う大学は、今では珍しい部類だ。昨年、一昨年と辿った道を、期待と不安に胸を躍らせながら歩いた。彼女は私の頭の上で揺れるだけ。冷たい風が吹いているとはいえ、暖かさどころか暑ささえ感じそうな陽光を浴びて尚、その姿を変えることはない。そうしてしまったのは私だ。そして、今日はその罪を清算する日だ。とはいえ、合格したから罪が消えるというわけではない。これは彼女と一緒にいる限り、あるいは彼女のことを覚えている限り、私が一生背負い続ける罪だ。
 そんなことを考えているうちに、大学の正門の前まで来ていた。既に何人もの学生らしき人々が、合格者番号が張り出されるのを今か今かと待っていた。掲示板の傍で立って待つ者、丁度いい場所を見つけて座って待つ者、時計やスマートフォンとにらめっこする者、友人らしき人と話す者、祈るように空を仰ぐ者、そわそわと落ち着きなくその場を行ったり来たりする者。待つ方法は様々だが、そこにいる誰もがこの場所で自らの受験番号が掲示されることを願っている。私もその一人だ。
 大学の職員らしき数人が、大きな模造紙を持ってやってきた。
 各々の方法で待ちわびていた学生らしき人々が、こぞって掲示板の周りに集った。出遅れた私は、少し離れた場所からその様子を眺めていた。
 掲示板に張り出された模造紙には、合格者の受験番号がずらりと書かれていた。それを見た学生らしき人々の中で、歓声と悲痛な声と両方が聞こえてくる。この光景も、今回でもう五度目。他の同級生からは随分と出遅れてしまったが、そんなことはもう気にしなくなっていた。
 自分の番号の有無を確認した学生らしき人々が次々と散っていき、疎らになったあたりで私は掲示板の前まで歩いて行った。

 私の番号は――

 息を吐いた。それだけしかできなかった。
 涙も出なければ喜びや悲しみの声もない。あるのはただ、口から吐き出される白い息だけ。

「咲いてる!」
 誰かの声が聞こえた。私の方を指さしていた。後ろを見たが、誰かがいるわけでも、珍しい何かがあるわけでもない。
 正確には、その誰かは私の頭上を指さしていた。
「お前……」
 視線を送らずともわかった。そこにほのかな温もりと甘い香りを感じたのだ。
 頭上に手をやって、彼女を優しく抱えてやる。寒さにかじかんだ手がじんと温まる。
 薄桃色の花びらを揺らし、黄色い笑顔で私を見つめるその花の名は――



 その花の名は
 副題 サクラサケ
 完
 私は浪人を経験したことがありません。なので、この物語はあくまで想像の範疇です。実際、この物語に書かれている以上に辛く苦しい道のりだと思っています。私が書きたかったのはそういう苦しさを乗り越えて頑張った人。そしてそれまでの努力をたたえるかのように花開いた「彼女」の姿。構想だけは随分と前から頭にあったのですが、今になってようやく形にできました。受験生の皆様に素敵な春が訪れますように。

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