魔に殉ず

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作者:竜王
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読了時間目安:31分
 亀丸は厠に起きた。夜着の麻と畳の感触が心地悪く、幾たび寝返りを打っても眠りは深くならぬ。おまけに夜半に行われた宴会のために、妙に尿が近い。そう酒に弱くない体質ではあったものの、この人数が集まれば緊張して余計に酔いも回るというわけである。
 用を足すと、また足早に歩く。すでに丑の刻を迎え、あれだけ騒がしかった本堂からも音が聞こえなくなっていた。そんなことをつらつらと考えていたからこそ、曲がり角からやってくる影に気がつかなかった。
 あ、と気が付いた時には避けるに遅い。辛うじて身を引いたが、相手の躰にぶつかり、後ろ向きにどうと倒れた。尻餅をつき、痛みに顔をしかめながらぶつかった相手を見る。すると、痛みと頭の熱がすうっと引いていくのを感じた。そこにいたのは上様である。亀丸のように倒れることこそなきにすれ、痛みのためか顔をしかめていた。

「粗忽者め」

 ぎょろり、と黒い目が亀丸を見下ろしていた。ぷん、と酒に特有の匂いが鼻につく。慌てて亀丸は姿勢を正すと、その場で平伏する。

「ご、ご無礼の段、平にご容赦くだされ……っ!」

 仰々しい言葉を口にしながら、亀丸は床板に己が額を擦り付けた。はてさて、上様から飛んでくるのは叱責か、それとも蹴りか。
 折檻ならばまだいい。しかし、小姓の任を解かれたらという想像が動悸を早める。

「亀丸」
「はっ!」
「やかましい。静かに返事せえ」
「……は」

 汗が床の木目に垂れていくのが見える。上様の機嫌は読み取りづらい。そう小姓の間では噂されていた。吉報を持っていったときですら、姿勢がなっていないと殴打されることもあった。それは、亀丸ですら例外ではない。亀丸ができたことは、ただ上様の気分に合わせて声の調子を変えること。上様は気分によって静かさを求めるか否か変わる。とくに最近は上様の疲れからか、声の調子を聞いただけでもういいと蹴りつけられることもあった。しかし、今日はそこまでの不興を買っていないようだ。いつもならば、鉄扇の一つや二つ飛んできてもおかしくないが、今日は体調が良いということであろう。

「眠れぬ。碁の相手をいたせ」
「承知いたしました」

 出来るだけ静かに答えると、深々と頭を下げる。そして、上様の後をついてゆっくりと歩いた。先ほどまで酒を飲んでいたのか、上様はふらふらと歩いていた。珍しいこともあるものだと亀丸は思う。元より上様は酒を好まぬ方であるのだ。
 招かれるまま、寝室へと入った。部屋の中央には蚊帳が張られていたが、中の寝具にはしわがついていない。眠れなかったのか、と亀丸は推察しながらも、隅に置いてある碁盤を手に取った。わずかに盤にかかっていた埃を払う。じゃらり、と石が碁笥の中で動いた。

「では、失礼させていただきます」
「うむ」

 上様は短く答えると、黒の石が入った碁笥を手繰り寄せる。ややあって黒の石を優雅な手つきで摘まみ、指先をしならせて、ぱちりと小目へ打つ。碁石に月光がかかり、艶やかな色を放った。それは、まるで魔のように見えた。

 ーー上様は魔を操っている。

 ふと最近市井で立っている噂を思い出し、亀丸は心中で苦笑いを浮かべながら白の石を摘む。亀丸は心の底からこのような噂を信じてはいなかった。物の怪を見ては、柳の葉ということが何たびあったであろうか。そも、亀丸は神や仏の類に懐疑的である。切支丹に対しても同様であった。世は荒れ果て、食べるものも儘ならぬ人が多くいる中で、いえすとやらを信じる輩が、亀丸にはただの阿呆に思えたのだ。

「亀丸」
「は」
「近頃、余に関する噂がまことしやかに流れているそうな。話せ」

 さらりと上様が言う。思考を読んだのか、と思いどっと汗が噴き出して襦袢を濡らす。口手八丁である蘭丸ならば、うまく上様に殴られぬように接することができたが、亀丸はそんな器用な真似をできぬ。亀丸は正直な 性質たちである。箒を使って小姓仲間とちゃんばらに興じ、折ってしまったときも亀丸だけが出頭し、亀丸だけが怒られた。相撲大会でも、わずかに土俵から出たと思えば申告して負けにしてもらう。何も正直であろうとしたのではない。嘘をつきたいのだが、亀丸は平生より嘘をつこうとすれば胸が塞がり、本当のこと以外を話せなくなってしまうのだ。
 ーー馬鹿正直の亀丸。揶揄するように小姓仲間たちから言われることもしばしあった。

「上様は、魔を操っていると」

 辛うじて言葉を絞り出す。愚直なまでに正直に答えることが、唯一亀丸に取り得た術である。拳骨が飛んでくることを覚悟して肩を震わせる。しかし、上様は相変わらず盤面を睨んでいるだけであった。
 また碁笥に手を伸ばすと、こちらの陣地を荒らしてきた。左下隅の攻防は激しく、危うくすれば白は殺される。難しい死活であったが、亀丸の意識はそれを考えるほどの余裕はなかった。

「そちの番だ」

 人差し指で腿をせわしなく叩きながら、上様は不機嫌そうに言う。上様はかなりのせっかちで、長考を嫌う。慌てて亀丸は直感で思い浮かんだ場所に石を置く。本能で指した手ではあったが、中々いい手であったのか。今度は珍しく上様が腕を組んで考え込む番であった。ようやくそこで熱を持っていた脳が冷めていき、冷静さを取り戻していく。
 上様は碁笥に手を伸ばした。指されるのか、と一瞬思ったが黒の石を指の間で遊ばせるだけ。ややあって、上様がぽつりと言葉を漏らす。

「噂についてどう思う」
「下らぬ噂。大方上杉か毛利の手の者が騒ぎ立てているだけと思われます」

 すらすらと、まるで暗記した書物を諳んじるかのように亀丸は答える。しかし、これは紛れもなき本心であった。今や上様の威光は津々浦々に知れ渡っている。それに抗おうとしているのは、せいぜい上杉か毛利、長曾我部くらいであろう。

「で、あるか」

 上様は盤面を睨みながら静かに告げる。そして、手で遊ばせていた黒石を今度は右上隅に打つ。助かった。命も左下隅も、と内心で息を吐いて白の石を碁笥より取る。
 しばらくは、ぱちりぱちりと碁盤の上での戦いが続いた。黒の石が中央で厚みを築けば、亀丸の白は負けじと隅で活を求める。形成は互角、いや左辺が生きたことででこちらの方が少し良く思えた。
 局面は中盤の終わりに差し掛かる。頭の中でぼんやりと地の計算を始めた。上様はいつものように黙って盤面を見る。基本的に、碁の最中に話すことは好まれぬ方だ。そう亀丸は考えていた。上様はまた石をじゃらりと鳴らす。しかし、石を指に挟むことはなかった。

「亀丸よ」
「は」
「それは嘘ではない」

 薄く上様が笑った。碁盤から視線を外すと、おもむろに懐からきのみらしきものを取り出し、投げた。
 ーーそこで、亀丸は目を剥いた。立ち上がりかけた膝が碁笥にぶつかり、石がじゃらりと鳴る。
 割れたきのみから現れたのは人に非ず、さりとて獣にも見えない。初めは弥助のように肌が黒い人間かと思った。しかし、違う。確かに弥助は黒いが、こんなにも毛むくじゃらではない。加えて、刀のように艶やかに光るその爪は、これまで亀丸が見たどの獣の爪よりも鋭く思えた。そしてしなやかな四肢には無駄なく肉がついている。亀丸は、これが獣ではなく魔であることを直感した。獣というにはあまりに洗練され、あまりに美しい。雑穀が混じらぬ白米ですら、こんな輝きを放ちはしなかった。亀丸が逃げ出さなかったのは、その美しさに目を奪われていたからであろう。

「来い、〈羅刹〉」

 呼びかけると、しずしずと獣が近づいてくる。それを、上様は見ると愛おしげに〈羅刹〉と呼ばれた魔のほおを撫でた。

「これを知っているのは蘭丸と帰蝶のみよ」

 筆頭の小姓と正室の名を上様は告げる。共に身の回りにいることが多い二人である。それは、暗に他の誰も教えていないということを示していた。しかし、どうしてそれを教えてくれたのかという思考まで回らない。

「本当に、魔なのですか」

 辛うじて漏れ出た言葉はそれであった。亀丸の中にある常識が、それを魔と認識するのを拒んでいる。ましてや、上様がそれを従えているとは到底信じがたいものであった。
 ふむ、と声がする。そして、上様はするりと顎を撫でた。

「刀を」

 上様は一言で命じる。しかし、亀丸は足に根が生えたかのようにその場から動けぬ。

「疾く」

 こめかみに青筋を浮かべながら上様が言うと、亀丸の冷え切った足に血が流れ始める。畳をひっくり返し、中に収められていた脇差を渡す。
 上様はそれを受け取ると、するりと鞘から抜き放った。そしてまっすぐそれを〈羅刹〉に向ける。
 
「爪」

 呼びかけに応じ、魔は小さくしゃあ、と鳴く。そして、黒い爪を真一文字に走らせた。あっと言う間もなく爪は刀を捉え、二つに引き裂く。まるで、豆腐を包丁で斬るが如く。

「氷」

 上様がそう短く言うと、今度は口を開く。そして、火縄の空砲のような音が鳴ったかと思えば、口から何かが放たれる。水面に石を投げ込んだような音がしたかと思えば、ごろりと刀の先端部が落ちる。近くには、丸い氷が一つ落ちているのみ。
 亀丸が、それは魔であるとはっきり認識した瞬間であった。







「酒を持て」

 上様が命じられた。亀丸はその申し出に驚きながらも、口答えはせずに一つ礼をして部屋を出る。空を見上げれば、満月に一条の雲がかかる。平生と変わらぬ空の色に、亀丸は先ほど見た光景を疑い始めた。
 ぼうっと頭に霧がかかったような感覚の中で、女中から徳利と盃を受け取る。そして、またぼんやりとした足取りで襖を開く。
 腕を組み、盤を睨んでいた上様はちらと視線を上によこす。その横には、相変わらず魔が静かに控えていた。やはり見た光景は幻想でなかったのだ。思いつつも、無礼を働かぬように努めて徳利を傾ける。

「大和にて作られた僧坊酒にござります」
「で、あるか」

 上様は静かに呟く。そして軽く盃を傾け、すぐに下ろした。

「盃を持て」
「こちらに」
「違う」

 とん、と徳利を指で弾く。

「お前も飲め、亀丸」

 どこか上機嫌な口調で上様は言われた。亀丸は言葉も返せず、ただ淡魚のように口をぱくぱくと動かすのみであった。本来ならば謝辞の一つや二つも言わねばならぬが、上様に二人きりの酒に誘われたという事実に頭が追いつかない。

「不服か?」
「め、滅相もございません」
「ならばよし」

 徳利を上様が持った。そして、亀丸の盃に注ごうとする

「う、上様。そればかりは」
「よい」

 恐縮して自分で手酌しようとする亀丸の手を面倒そうに払うと、とくとくと盃に注ぐ。半ば夢心地で亀丸はそれを受け取り、盃を重ね合わせると少し口にした。亀丸がよく飲む酒とは舌触りからして違ったが、それをしっかりと味わう余裕はなかった。
 珍しく上様は上機嫌に盃を口へ運んでいる。思い返せば、廊下でぶつかった時から妙に機嫌が良かった。
 幾たびのどを湿らせただろうか。おもむろに上様が魔を手で合図した。魔は何も言わず、その横へそっとかしずいた。

「その昔、浅井に裏切られたことがあった」

 魔の顎を撫でながら上様は言う。上様は過去を語りたがらない。それよりも、常に現在と未来を作ろうとしている。特に、浅井朝倉に関しては徹底して口をつぐんでいたのだ。縁談を結んだ相手に裏切られたことは、上様にとってこの上ない屈辱であったのだろう、と亀丸は考えていた。

「余は浅井と朝倉に挟まれ、一人でその場を脱した。撤退する中途で喉が渇き、落ちていたきのみを拾った。それがこれよ」

 上様は転がったきのみを見せる。それは丸く、亀丸がこれまで見たこともないような不思議な形をしていた。直径は三寸ほどのきのみであろうか。これより稚児ほどの大きさがある魔が出て来ようとは、到底想像もできなかった。

「余も流石に驚き、一度はこれを切り捨てようとした。しかし、これも腹を空かしていたようでな。こやつめ、焼き味噌を食わせたら目を白黒させて全部食べおったわ」

 愉快そうに上様は笑う。そして盃をまたぐいっと傾ける。慌てて亀丸は徳利を持ってついだ。今度は上様はゆっくりと盃を傾ける。

「さて、浅井朝倉がおってきているから長居はできぬ。焼き味噌を渡しておってから逃げた。が、千草でついに追いつかれ火縄で撃たれた」

 その話を亀丸は聞いたことがあった。浅井朝倉から逃げる途中で、わずか十二間あまりの距離から火縄の名手に狙われたと聞く。亀丸はその話を与太話と思っていたが、上様の声色には生々しい実感が込められていた。

「さて、この信長がどうやって火縄をかわしたと思うか」
「それは、上様の天運が……」
「違う」

 短く上様は否定する。そして、とんとんと魔の肩を叩いた。

「こやつが氷で弾丸を撃ち落としたのよ。飯の恩義を返すためか、数十里も余のあとを付けよったわ」

 上様が褒めてその頭を撫でると魔は気持ちよさそうに目を細める。

「さて、怒った雑兵どもがこやつを斬ろうとする。捨てるに偲びなく、余が敵を斬り捨てた」

 また盃を口へと運ぶ。顔は赤く、これまで亀丸が見たことないくらいに滑らかに話していた。

「この魔がなぜそうしたかは知らぬ。知らぬ、分からぬからこそ、これもまた一興。ゆえに、連れて帰ってきた」

 すでに亀丸は盤面を見ていない。いまやまじまじと魔の方を見ていた。きりりと結ばれた口に目からはその心情を計り知れぬ。だが、こちらの言葉がわかっているかのようにときおり耳をぴくぴくと動かしている。

「連れて帰ったはいいが、さてはて困った。朝廷の犬どもや生臭坊主がこれを嗅ぎつけてしまえば、信長が魔を連れて帰ったと声高に叫ぶ」

 上様は憎々しげに吐き捨てた。そっと亀丸は肯定するように頷く。荒れ果てた世を朝廷や念仏が救ってくれたことは一度もない。ただ彼らは古臭い利権にしがみつき、無知な大衆を騙して搾取しているだけなのだ。さりとて、彼らを皆殺しにすれば世の反発を受ける。
 時代の革命児と言われる上様であるが、闇雲に旧いものを壊せばよいのではないと知っている。
特に、朝廷は憎みながらもその力を認めているように亀丸には見えていた。

「帰蝶と蘭丸に世話をさせた。〈羅刹〉とは、そこで帰蝶が付けた名よ」

 はっとここで亀丸は息を飲む。毎晩のように蘭丸が上様に呼び出されていたのは夜の相手をさせられているからだと思っていたが、魔の世話をさせていたとは。

「此奴が何者か、それとなく識者に探りを入れたが誰も知らぬ。わかったことは妙な大食漢なのか豚を喰らわば丸々一頭、魚を喰らわば鮪の一匹をまるごと。おまけに果実までよう食べおったわ」

 亀丸はまた魔を見つめる。細くしなやかな体躯をしているが、底の知れぬ力が満ち溢れているように見える。

「走れば名馬より早く、数百里もの疾走をものともせぬ。げに面白き魔である。……しかし、そうも構ってはいられなんだ」

 上様は盃を置いて腕を組む、亀丸は黙って聞いていた。こんな時の上様は反応を求めてはいないのだ。

「信玄坊主に本願寺、上杉に雑賀が抵抗を続けておった」

 そのことを亀丸は昨日のように思い出した。当時は稲葉山城に上様はほとんどおられず、武田や一向一揆討伐に向かっていたのだ。上様は食事もほとんど取られず、顔も青かったと聞く。

「そのころ、余は熱病にかかっていた。父上もかかっていたという熱病にな」
「ま、誠でございますか!」

 黙っておこうと思っていた亀丸だが、思わず叫んでしまった。いつも超然としており、まるで不死のように見えるが、小姓である亀丸は顔に以前にはなかった皺ができているのを知っていた。しかし、病に冒されているとは知らなんだ。

「少将に家督を譲ったのもそれゆえよ。余が死んで織田家が別れては、上杉の二の舞になるわ」

 皮肉げに上様が口元を歪めた。あれほど恐れられた上杉家も、謙信がなくなって以降は家督争いのために分裂し、力を弱めるのみ。
 不自然なくらい早い隠居に当時の亀丸は驚いていたが、それも上様の一手であったのだ。

「熱は引かず、医師は長からんと言う。それを一向一揆や毛利に余の死を悟られては困る。ゆえに、隠した」

 ここで話を切り、また上様は盃を口元に運ぶ。この話がこの魔とどう関連してくるのか。ごくり、と亀丸は生唾を飲み込んだ。

「厠にも一人で行けぬ余の近くにこやつは寄り添い、額に手を当ておった」
「手、ですか」
「人のものと思えぬほど冷たかったわ」

 冗談めかして上様は笑った。それは誇張でないだろう、と亀丸は思う。側に立っているだけで、魔からは冷気が伝わってくるのだ。

「熱は去った。峠は超えたと医師も腰を抜かしておった。……そこで気がついた。余はこの魔に求愛をされていた、と」

 ゆるりと魔のほおを撫でた。それは妙に艶かしく、あたかも惚れた女にするそれと酷似していた。

「不躾な質問でございますが、上様は、その」

 ここまで言って、流石の馬鹿正直者である亀丸も口をつぐんだ。亀丸は自身が言いかけたことの恐ろしさに躰を震わせる。しかし、上様は気を害した様子もなく上機嫌に笑った。

「この信長、女や男を抱けて魔を拒む道理はなかろう」

 上様の言葉とともに、御殿に風が吹き抜ける。梅雨と京の匂いが結びつき、妙な生臭さが鼻腔を微かにくすぐった。

「この世はつまらぬ。くだらぬ因習に雁字搦めにされ、変化を求めぬ。それでは、世の平和などいくら祈ったところでうまく行かぬわ。切支丹とやらも、所詮は宗教家。人の放縦を縛る、げにつまらぬ奴らだ。男色を異端と切り捨てる愚か者よ」

 つまらぬ奴らよ、と上様はまた吐き捨てるように言った。その声に亀丸は驚きで目を見開く。上様がこれほどに切支丹への憎しみを見せるのは初めてであった。

「魔すら公然と抱けぬ世に意味はない。ゆえに、この信長が世を作り直す」

 上様は言うと、碁笥から無造作に石を取り出して天元に打ち付けた。中心に立って四隅を睨む。その黒石が上様と重なっているようで、亀丸はしばし固まる。

「そちの番であるぞ」

 唐突に話は打ち切られた。これ以上は踏み込まず、黙って白の石を滑らせるように打つ。
 先程までの会話はなかったかのように対局は進行する。互いの手がさらに早くなり、間も無く対局は大詰めに入ろうとしていた。

「終局にいたしますか」
「待て」

 鋭い声で上様は言った。先ほどまでとはまるで違う声色だ。

「外の様子がおかしい。見てまいれ」

 火縄に特有の破裂音、悲鳴と怒号が寺中に響き渡る。そして、ばたばたという音と共に、ほおを上気させた蘭丸が駆け込んできた。その姿を見ると、上様は一言おお、と呟いた。

「何事か」
「上様、謀反でござります」
「少将が別心か」
「いえ、日向守様の軍勢にございますっ!」

 悲痛な蘭丸の声が、亀丸の脳に桔梗の像を結ばせた。浅井に朝倉、その両名に上様が狙われたとき、どの手勢よりも盛んに動いていたのは桔梗の旗であった。しばし上様は黙り込む。そして、ぽつりと言葉を漏らす。

「是非に及ばず」

 どうして上様がそのようなことを言ったのかわからなかった。いや、考える暇すらなかった。上様は俊敏に立ち上がると、控えていた蘭丸に言う。

「女を逃がせ」
「はっ!」

 普段は聡明で冷静な蘭丸らしからず、立ち上がった拍子に碁盤を蹴る。そのとき、黒と白の石がざあっと床に落ちた。しかし、誰も気に留めない。蘭丸は魔を一瞥すると、脇差を抜き放って、外へ向かって走り出した。
 
「亀丸」
「はっ!」
「弓矢を持て」

 聞いたことのないくらいの上様の厳かな声に、亀丸は少し足をもたつかせる。しかし、今度は失態を犯すことなく、畳をひっくり返して隠されていた矢筒と弓を渡した。そして、亀丸も脇差を抜きはなった。
 襖を開け、まずは慎重に廊下を見渡す。所々で悲鳴は湧き上がっていたが、まだこちらまでは誰も来ていなかった。

「お供つかまりまする」
「うむ」

 まるで厠に行くかのような足取りの軽さで上様は外へ出る。その後ろを魔が続こうとしたが、上様はそれを片腕で押しとどめる。

「〈羅刹〉」

 上様が短く告げる。

「控えておれ」

 そのときだ。先ほどまでに見たことがないような形相で魔は鳴いた。恐ろしく、心の臓を震わせるような叫びである。しかし、亀丸には稚児が駄菓子屋の前で泣きわめくのと同じに見える。
 どうしようもないくらいに亀丸の心は揺るがされる。それは、魔でありながら魔ではなかった。無礼とは知りながら、亀丸は上様を正面から見た。

「恐れながら上様っ! 〈羅刹〉様の力添えがあれば、日向守が軍勢など恐るに……」
「この信長が妻に戦えと頼む、と?」

 ひんやりと冷たいものが背に流れるのを感じた。本能寺は熱気で包まれてなお、上様の覇気よりも雄々しくは燃え上がっていなかった。
 出過ぎた真似を、と喘ぎ喘ぎ言う。しかし、上様はもはやこちらに関心を持っていなかった。

「あとで参る。そちはそれまで控えよ」

 上様が言うと、今度は魔も抵抗はしなかった。ただ無言で、部屋の奥へと入っていく。反対に、亀丸と上様は襖を開けて外に出る。
 又九郎がほおを紅潮させながら槍を捌いている。鍋丸とその弟が二人で一人と戦っているのが見えた。誰も具足を身に纏っていない。ただ我武者羅に、上様が自刃するに必要な時間を稼ごうとしていた。
 上様に矢を渡す。それを無言で受け取ると、優雅な手つきで弓を構えた。下弦の月のように弦が張られる。それをひょうと放つと、足軽の喉仏を貫いた。続けて放たれた矢は、交戦中である足軽の血走った目を居抜いた。
 これほどまでに上様の弓が上手いと、亀丸は知らなかった。今度は亀丸も脇差を抜き放って、そばにやってきた足軽の懐を切りつけ、もう一人の足を切って転ばせ、喉笛を刺した。だが、見渡せど見渡せど、見えるは桔梗の旗のみ。矢筒の中が尽きたのか、上様も槍を手にしていた。そして向かってきた足軽の頭を槍の柄で殴りつけたあとに突き刺した。
 しかし、多勢に無勢。鬨の声と黄色の桔梗は尽きそうにない。

「上様。御自らの槍働き、畏れ多し」

 汗で髪を振り乱して亀丸が言う。

「かくなる上は、ご自害を」
「うむ」

 悠然と上様は笑い、額の汗を拭う。死の間際でありながら、その姿は一層美しかった。

「のう、亀丸」
「どういたしましたか」
「魔は〈羅刹〉よりも人間であったではないか」

 乾いた、あまりにも乾いた声で上様は言う。まるで三千世界を見通してきたかのような、達観した様子で。

「戸をしめよ。決して誰も入れるでないぞ」
「は」
「それと、だ」

 薄い顎髭を上様は一つゆるりと撫でる。

「いい対局であったぞ」

 亀丸は返事をすることができなかった。一瞬の隙を縫うようにして、足軽が槍を突き出してくる。それを、亀丸は辛うじて脇差で払う。ちらと外を見れば、先ほどまでは獅子奮迅の働きで敵を追い返していた小姓たちが、土気色の顔になって倒れているのが見えた。そこには亀丸と釜の飯を同じくした友の姿も見える。今、戦場に立っている味方は十の指で数えるに足る。対して、敵は功を求める数千の足軽だ。そして、無事に立っている亀丸の姿を見るや、目を血走らせて襲いかかってきた。
 対して亀丸はただ無心に脇差を振るい、目の前の敵を倒していく。元来力がある方ではない亀丸であったが、この時ばかりは無限の力が湧いてくるように思えた。かわし、捌き、喉笛を脇差で貫く。さらに亀丸は廊下を走り、すれ違いざまに足軽を斬った。しかし、数人斬ったとて数は減らぬ。
 具足を身につけた武士が一人、こちらに走ってきては力の抜けた格好で刀を無造作に振るう。それを辛うじて亀丸は受け止めた。先程までの足軽とは違い、一太刀がずっと重い。引いて距離を取ろうとするが、それよりも早く向こうの太刀が走る。今度こそ亀丸は受け止めきれず、肩が血に染まる。
 
「信長公がどこにいるか言えば逃がしてやるわ」

 精悍な顔をしたその武士は、亀丸よりはるかに身長も高く、立ち振る舞いも洗練されている。きっと勝てる相手ではない。情けなくも命乞いをすべきであったと理性では判断がついた。だが、しかし。
 
「それはできぬ話よ」

 言い残し、大声をあげて、勝てぬ相手に踏み込んでいく。馬鹿正直と笑え、と亀丸は心中で叫ぶ。上様の最後の逢瀬を邪魔するわけにはいかなかった。







 燃え上がる本能寺から少し離れたところに、軍配を持ち具足を着た男がどっかりと床机に座っている。男は目をまんじと見開き、燃え落ちようとする本能寺をしかと見つめていた。
 その男の前に、苛立たしげに爪を噛む武士がいる。そして、おもむろに一人の旗本をおいと呼びつけた。

「上様の首は」
「それが……どこにもその姿は見つからず」

 呼びつけられた旗本が情けない声を出す。早く探してこい、と苛立った様子の武士が近くにいる足軽たちに向けて怒鳴った。慌ててかけていこうとする足軽。それを、光秀は片手で制した。

「よい」
「殿、しかし」

 にきび面に不満そうな表情を浮かべた気位の高そうな武士は露骨に不満そうな顔をする。

「よい。上様もこの大火からは逃れられぬはずだ」

 ですが、となおも何か言いたげな武士を、光秀は眼光によって黙らせた。そして、手にした軍配を外へと向ける。

「二条城の周囲を固めよ。少将を逃すな」
「はっ!」

 命令された武士は供回りのものに合図をすると、馬に飛び乗り走らせる。光秀は後に続かず、床机に座り直した。
 光秀は自分の額を撫で、そして髪が薄いことに気が付いて苦笑する。気持ちだけは若者のつもりであったが、朝廷と上様の板挟みで心労が髪に行っていたのだろう。だが、そんな苦労ももうしなくていい。少将こと信忠は逃げずに抵抗を続けているが多勢に無勢。逃げ切ることは不可能と言ってもいいだろう。

 ーー朝廷より密使が入ったのは数ヶ月前である。 右府のぶなが殿は魔と親しく交わっている。太平のためにこれを誅せ、と。

 馬鹿馬鹿しい、と最初光秀は一笑に付した。大方、信長を過剰に恐れる輩がが帝に吹き込んだのであろう。
 しかし、これは好機でもあった。もとより、四国を巡って自分の立場が危うくなっているのを光秀は肌で感じていた。このままでは、佐久間のように失脚を免れないだろう、と。
 本能寺の場は朝廷が用意すると聞いている。羽柴や柴田、滝川も遠征に出て、信長は僅かな馬廻りと一緒にいるだけ。
 魔に魅入られ、もし裏切られたらと考えなかったことが運の尽きであっただろう。そしてまた自分も心中の魔に身を任せたのだ。天下という甘い魔に。きっと、自分も極楽浄土には行けないだろう。
 だが、死後のことより光秀には考えねばならぬことがいくつもあった。まず、二条城にて信忠を誅したあとに、家康も捕らえねばなるまい。そして、仇打ちにやってくるであろう織田家重臣をどうするか考えねばならぬ。
 不安なのは羽柴の動向であった。他の愚物ならともかく、羽柴筑前守という人物には妙に底の知れないものを感じていた。だが、斥候の報告によれば毛利と睨み合っていて動けないとのこと。すぐに帰れないのは間違いなかった。
 く、ふと光秀は笑う。歴史に名を残すであろう男が死に、自分のような男が天下を取る。これを喜劇と言わずして、何を喜劇というのか。
 もう一度本能寺を見る。京の空を赤く焦がす壮大なる葬送であった。

 ーーそこで、光秀は立ちはだかる影を見る。距離は数十間、されど光秀は総毛立つのを感じる。影は、飛んだ。そして、来た。

「曲者ー!」

 叫び声が陣中を駆け巡る。声をあげたその旗本は、叫びが終わるや否やばったりと崩れ落ちる。
首が宙に浮かんだのだ。
 馬廻りが光秀を守るかのように、周囲を取り囲む。叫び声を聞きつけた武士が刀や槍を片手に駆け込んでくる。
 しかし、彼らは。いや、彼らだけでなく光秀を含めた全員が固まった。そこに立つは黒き獣。月光と炎に映える鋭利な爪を持ち、それより鋭い目で周囲を睨む。獣でないと光秀は直感する。荒々しき野生の極地がそこにいた。
 一人が怯えながらも雄叫びをあげながら獣に向かって走り出す。だが、獣は軽々とそれを避けると爪を走らせ、首を飛ばす。続けて向かってきた足軽は、具足ごと切り捨てられた。
 なれば、もはや戦闘ではない。場に響くは狂乱する足軽の叫び声と黒き獣が舞う姿だけ。光秀は、根が生えたかのようにその場から動けなくなっていた。

「殿ぉ!」

 慌てふためいた叫び声と火縄の焦げた匂いが遅れてやってくる。見れば、利三が火縄を片手にして魔を撃ち抜いたのだ。だが魔は何事もなかったかのように銃弾を払う。毛には数滴の血が滲んではいたものの、重傷を負ったようには見えなかった。
 周囲を見渡し、魔はまっすぐに爪を光秀に向け、目にも止まらぬ速さで飛んだ。
 死んだ、と一瞬光秀は覚悟した。しかし、その鍵爪は光秀の喉笛を貫くことはない。まるで獲物に刻印をつけるかのように、軽く引っ掻いた。そして、何事もなかったかのように悠々と逃げ去っていく。
 呪いが解けたかのように馬廻りのものが、怪我はと叫び始める。利三は恥辱で顔を真っ赤にさせて震える声で言った。

「殿、あの魔を追い、右府殿と魔が繋がっていた証左として世に示しましょう」
「捨て置け」
 
 光秀は払う仕草でそれを制する。

「しかし、あれさえあれば我らの大義名分は……」
「魔がごとき謀反人が、例え魔を晒したとて、天下の笑い者にしかなるまいよ」

 自嘲気味な光秀の声に、はっとした顔で利三は黙り込む。

「げに恐ろしきは魔より人間であろうな」

 光秀は、魔が去っていった方向を見て呟いた。








 (前略)
 
 明智光秀の最後については多くの研究者が探っているが、山崎の戦いで敗れたあとどうなったかは、はっきりとわかっていない。近年では◯◯氏が「明智光秀試論ーー本能寺の変から山崎の戦いについて」という論文で、坂本城跡地より出土したといわれる日誌を援用しつつ次のように主張しているので引用する。

 天正十年、光秀は山崎の戦いで敗れたとあるが、これには疑問がいくつか残る。確かに秀吉の
反撃はかなり早かったものの、長引く毛利との戦いと急な撤退により軍備が十分であったとは 言えない。対する光秀軍は精強かつ光秀の下で統制されており士気も高かった。

 上記の文で〇〇氏が指摘するよう、光秀があっさりと山崎で敗北したことは確かに疑問に残る。しかし、〇〇氏が引用した日誌によれば、「光秀の本陣に、信長に惚れていた鋭い爪を持った魔が乗り込んで惨殺し、それゆえに戦闘の指揮を取れなかった」という荒唐無稽な記述が残る。よってこの資料の信ぴょう性は疑わしい……(以下は割愛する)

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