バブルこうせん

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作者:セイ
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 バブルこうせん(約2,100字)




 一つ一つに息が満たされる。ぷくうっと、夢に膨らんで。繊細な膜の中に不思議な幻を思い描きつつ、浮かび上がる。一本の孤独な麦藁、その先で幾多もの泡が縺れ合う。数多の足跡をつけた砂浜の上を飛び交い、角立つ波に浸食された沖の岩群を掠め。目指すは群青色の水平線の彼方。熟柿のように赤らんだ朝焼けの空の下、漂う泡は無数の情熱に燃え立っていた。
「上手じゃないか、坊や」
 滅紫地の紗をかけたようにぼんやりと広がる波打ち際。麦藁のストローを片手にシャボン玉を吹く少年に、一人の老人がそんな言葉をかける。すると裸足の少年の足元、泡立つ渚で砂を食べていた一匹のクラブが、ぴょいと跳躍。少年の頭の上に乗ってみせる。磯の香りがつんと鼻をついたところで、老人は破顔して続けた。
「坊やのこの子も張り切っているみたいだね。“バブルこうせん”の出し方も、すぐにマスターしてくれるんじゃないかな」
「えへへ。おじいさんが教えてくれたおかげだよ。ねっ、クラえもん」
 少年の言葉に、両のはさみを自慢げに持ち上げてみせるクラブ――クラえもん。目一杯のダブルピース。足下の海藻のようにふやけていた鉗脚が、しゃきーん、と天高く向けられた。「よーし」と、少年は大きく息を吸った。
「クラえもん、今度こそ成功させるよ。“バブルこうせん”、僕の真似して、シャボン玉みたいにやってみるんだ。いち……にの……さん、それーっ!」
 ふうと、麦藁の中に吹き込んだときだった。クラえもんの口から白い飛沫の奔流が放たれた。飴釉で焼いた陶器のような光沢を放つ海を突き進む。途端、黄金色の雲間から朝日が覗いてきて。ひときわ淡く煌めく海の道から、無数の泡が方々に広がっていった。老人は思わず横を見た。少年の頭の上、小さな泡を吐き続けるクラえもんを、一つの大きな泡が包み込んでいた。さわがにポケモン、クラブ。危険が迫ると、口から吐き出す泡で全身を覆うことで体を大きく見せようとする種族。何とも不思議な幻をつくり上げるものである。老人は思う。クラブたちにとって、“バブルこうせん”を習得することは生きる上で欠かせない。朝の散歩の途中、浜辺で“バブルこうせん”の練習をしていたクラえもんとそのトレーナーである少年の姿を見かけ、軽く挨拶を交わしたのだった。初めて会う子だから、お互いによく知っているわけではない。けれどもわざの習得のアシストとして、少年にシャボン玉の吹き方を教えることもした。トレーナーである彼が心のありたけを込めて吹けば、そのポケモンも真似してくれると思ったから。幸いにも功を奏したようだ。今、クラえもんを包む泡は、繻子のように幾重もの光を反射して。中にいるものを大きな幻として映し出している。少年も、老人も、本当のクラえもんの姿を見ることは叶わない。本当の彼を知るのは、泡の中の本人だけ。そうやって泡を創造することで、自らを虚構の中に表現することで、どれほど多くの輝きが得られるのだろう――





 昼の海岸というのは、ものを書くのにふさわしい場所ではない。
 荒削りの天井の梁を見上げながら、老人はそんなことを考える。島で一人暮らしをするようになってから学んだことだった。思うに、浜辺はあまりにも居心地がよすぎる。暖かく、湿気がありすぎて、自分の著作と向き合うだけの頭が働かない。滑らかな砂丘の上でかいがらのすずを探したり、浜に打ち上げられた流れ木に足を取られたり、松林を吹き抜ける風を感じたりして、いつもなら一日の大半を外で過ごすところ、今日に限って早々に家に戻ってきたのは、そのためである。目の前には、鮮やかな青磁色の海などなく。せいぜい削りたての鉛筆と、快晴の空と同じような状態の原稿用紙と、禿げちょろの藁籠に敷き詰められた本くらいのもの。こうやって書斎に籠るのも久方ぶりのように思う。机の端、埃かぶった写真立ての中で笑う妻とポケモンたちが、やけに遠く感じる。
 藁籠の中に手を伸す。背表紙の剥がれかけた古びた冊子があった。黄ばんだ紙の上に綴られた印字を追うたびに、水耕栽培したバニラのような古本特有の匂いを感じ取るたびに、色褪せたあの頃の思い出が蘇ってくるかのよう――未完の長編小説である。趣味として創作活動に没頭した青年時代、少年の頃の生活の様子を半ば自伝的に、半ば空想を交えて書き記したのだった。大成されずに文字通りお蔵入りした、いわば幻の著作。価値があるかも定かでない夢の物語の一端。けれども、もし。複雑に縺れ合った思索の泡の中に、晩年の知恵と情熱を紡ぎ込んだとしたら。不思議な幻を創造することで自らを知ることができたとしたら。そこでは、どれほど煌びやかな光が微笑みかけてくれることだろう。
 幻を思い描くことにほかならない。ありもしない物語を紡ぐことも、繊細な泡の膜に自分自身の虚像を映し出すことも。“バブルこうせん”を出すクラブたちは、つくり上げた幻を内部から観察することで、現実の自分の姿を認識する。内的な領域から自己を表現することで、自分自身の把握に努める。そうやって己と向き合い、また己が残してきた足跡を辿ることなしには、この人生は終われない。
 虚構の物語でもいい。もう一度、息を、吹き込んでみようと思う。
 

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