愛しの無名

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作者:笹霧かもめ
読了時間目安:17分
前回とは方向を変えて、本当の日常を描いてみました。
家族としての飼い猫という存在ならどう立ち振る舞うのかな、と考えた結果だったりします。
拙い文章ですが、お時間のある時に御一読ください。
 少し冬を含んだ春風が街路を吹き抜ける頃、私はある家を訪ねていた。石畳が続くエンジュの町を抜けていく。この辺りで鼻をくすぐるのは木の匂い。年月を経た老樹の少し香ばしい香りが漂っている。エンジュの中心街を少し北に歩く。やけた塔を右手にもう少し坂を上っていく。遠くにスズの塔。霧掛かって見えるのはスリバチ山だろう。閑静な高級住宅街を歩いていくと、目的の家が見えてくる。高めの生垣に囲まれているのは厚木張りの立派な門。その向こうには木造二階建ての旧宅風の家。門をくぐり、飛び石を使って白石を避けて歩けばすぐに玄関にたどり着く。私は普段通りにベルを鳴らした。引き戸はすぐに開けられた。
「堪忍ねぇ。また出掛けてしもたみたいで」
 玄関で出迎えた奥様は、申し訳なさそうに頭を下げる。人当たりの良さそうなご婦人。小太りで灰色のセーターの上に紫のストールを巻いている。もう還暦を迎えたようだが、頬は艶やかでしっかりと水分を蓄えている。それでも豊麗線を含めて、少しずつ皺が目立ち始めている。
「いえいえ、お気になさらず」
 一礼した私を、奥様は奥の座敷へと案内した。この家の主は、気分ですぐに出掛けていってしまう。事前に連絡したんだけどな。そう思いながらも、いつもの事なので慣れてしまった私がここにいる。
「すぐ戻ってくる思いますから、どうぞお上がりやす」
 お盆に急須を含めた一式を抱えて戻ってきた奥様は、私の前に茶托を押す。明かりを反射して綺麗な緑に染まったエンジュ茶は向かいに座る奥様の顔もぼんやりと写し出す。
「すみません。ありがとうございます」
 ちょうどよい温度のお茶は、するすると喉に流れていく。舌は熱いと文句をいうが、それだけだ。むせ返るような熱さではない。
「さっきまで書斎におったんに、もうどこにもおらんくて。うちのエネコみたいに気まぐれなんよ、うちの人は」
 口に手を添えて、おかしくてたまらない。といった様子で奥様はご主人の様子を語っていく。飼っているエネコは、今は台所で寝ているという。
「起こすとえらい怒るんも同じよ」
 目を細めて、愛おしいものを見る様子で奥様が笑う。可愛くて仕方がないといった感じか。細めた目が、エネコの眼に重なる。
「せや、せっかく来てもうたんやし、これもよばれない」
 地袋から取り出された箱の包みにはギャラドスの紋様。箱の表に書かれた、いかりまんじゅうはスリバチ山を挟んで向かい側のフスベシティで有名なお菓子である。そして、毎回これをごちそうになっている気がして、申し訳なさに頭が下がる。
「いつもすみません。頂戴します」
 奥様が一つ食べたのをみて、私も和紙包みを開ける。練られた白餡の風味がお茶とよく合っている。二つ目の包みを開けた奥様は、そのまま私に言った。
「ええんよ、うちの人が迷惑掛けとるさかいに」
 私は慌ててその言葉を否定する。私も仕事をもらっている立場だ。あまり大層なことは言えない。私の言葉をそのまま受け止めた奥様は、口元に手を当てて軽く笑う。
「ほんまにええ子やわぁ。うちの人が大事にするんも分かるわ」
 聞けば、私はずいぶんと気に入られているらしい。前の担当者とは仕事と割り切った関係だったよう。こうして伺うことは希で、原稿の受け取りを含めてほとんどは郵便で済ませていたようだった。
「うちの人も愛想悪いさかいに、伝わらんと思うけど。あんたさん、ずいぶん気に入っとるんよ」
 そんな話を続けるうちに、奥様が席を立つ。ため息一つ。だいぶしびれを切らしているようだった。
「ちぃと待ったってね」
 エンジュの女性は怒らせると怖い。それは、初めてこの家に来たとき、身をもって学んだことの一つだ。ご主人が私にチラリと言った言葉に反応した奥様の目。おそらく私は一生忘れることはないだろう。そしてその後に私に向けられた、確かめるような視線。一切の言葉を介さない圧と言うのだろうか。思い出すと、今でも背筋に冷たいものが走る気がした。
「堪忍ねぇ」
 私が少し首筋を震わせたとき、申し訳なさそうに眉を落とした奥様が戻ってきた。どきんと心臓が跳ねたが、私が神経を減らす必要はなかったのだった。
「あるやないの。あんたさんがうちの人に宛てた手紙。時間まで書いてあったんに」
 手には私が送ったであろう花柄メール。ピカチュウの切手と共にヤマブキ局の消印。ジョウトでは見かけない切手らしく、ご主人が珍しく喜んでいたことは記憶に新しい。
「まぁまぁ」
 奥様の言葉遣い自体は普段と何ら変わらないが、その端々に不満が渦巻いているような気配がした。このままいけばご主人が帰ってきた時に大変なことになるので、この辺りで角を落とさねばならない。
「そういえば、先生の小説にはよくエネコが登場しますが」
 多少強引ながら話題を変えることにした。ご主人はちょい役としてエネコを小説に頻繁に登場させる。その事を伺うと、奥さんは笑いをこらえながら返事をした。
「そうなんよ、うちの人は素直やないから」
「というと」
 さっきのオーラはどこへやら。満面の笑みで色々と思い出話を始めた。娘の話をする時と同じ顔だった。きっと可愛がっているのだろう。その表情だけで、普段の接し方が見て取れるようだった。
「昔話になってしまうけどねぇ」
 この家のエネコは、ホウエンの親戚が飼っていたエネコの子供らしい。当初ご主人は、気まぐれで可愛げもない奴だと邪険に扱っていたようだ。なんだか想像できるようで、私の脳内では、エネコにそっぽを向かれてそっぽを向け返すご主人の姿があった。
「うちの人なりに可愛いんよ。せやけど、可愛いなんて言える人やないから」
 喋りながら吹き出した奥様はもう限界のようだ。しばらく声を上げて笑いだす。確かにそうかもしれない。あの気難しいご主人が可愛いなんてエネコを撫で始めたら、ご主人の方が可愛くて悶絶しそうだ。
「うちの人かて、気まぐれで可愛げもないし、よう似てはるのよ」
 バッサリと切られてしまったが、否定の言葉も思い付かない。困った表情で固まってしまったところで、奥様が少し顔色を変えた。
「せやけどね。うちの人もエネコの見方を変えたんよ」
 少し暗い声で続けた奥様の言葉には今でも残る不安が影を落としている。当時は相当の恐怖だったのだろう。エネコを飼い初めて半年ほどした頃に、サマヨールが家に現れたと奥様は語った。
「えっ、サマヨール!?」
 死の報せ等、不気味なあだ名で呼ばれるゴーストポケモン。どこともなく現れて、人魂を攫っていくと噂されている。一つ頷いた奥様は、思い出すように私のはるか後ろに視線を移した。
―――
「おいっ、大変だ!」
 夕食を終えて、居間で一服していた主人が突然叫び声を上げたのを聞いて、これはただ事ではないと直感した。何事かと、慌てて洗い物を置いて居間に駆け込むと、主人の指した壁から何やら手のようなものが浮き出ている。
「何ですんあれ」
 私の声もひきつっていた。その内に手首が見え始め、ぼろ布のようなものが垂れ下がった。壁など無いかのように相手は少しずつ距離を詰めてきていた。単純な怖さではない。人間としての危険意識よりも、生物としての危機感が上回った、とでも言うのだろうか。首筋から背骨にかけて走る危険信号が私を凍らせた。
「こっちに来るぞ」
 主人が震える声でそう叫んだのは、ほぼ全身が見えてから。サマヨールの赤い目がこちらをじっと見ていた。身動き一つせずに、相手は進んでくる。映画の画面を見ているようにそこには生物的な感覚はなかった。
「お、お迎えにはまだ早いぞ」
 私を守るように主人は立っていたが、一歩私を下がらせた後に死期を悟ったような声を出したので、思わず私は声を荒げた。
「何アホなことを」
 主人はあくまで私を背にサマヨールと対峙していたが、バランスを崩して私に抱え込まれるようになった。腰が抜けたらしい。死者の魂を集めるというのなら、私か主人の魂を拾いに来たのだろうか。主人の肩を掴んで立たせようとした時、主人は言った。
「お前だけでも逃げよ」
「何を言わてはんの!」
 主人がそんなことを言った瞬間に私は怒鳴りつけた。何のために、あんたさんと結婚したと思って。両脇を抱えるようにして何とか立たせようとするが、私も手が震えてうまいように動かない。その間にもサマヨールとの間隔は狭まっていく。
「あぁ、アカン」
 主人が全て諦めたような落ち着いた声を出したのと、ピンク色の丸い塊が目の前に飛び出したのはほとんど同時だった。小さな犬歯を剥き出しにして、尻尾どころか全身の毛を逆立てて威嚇している。飼い主も驚くほどに低い唸り声を出しているが、肝心のサマヨールといえば丸で意に介さず、見えてもいない様子だった。
「おいっ、エネコ!」
 そのまま体当たりしようと飛び掛かったが、そこに存在しないようにすり抜けてしまった。受け身を取り損なって、床を一回転したエネコが再度飛び掛かろうとする。しかし、もう触れる程の距離までサマヨールは来ていた。サマヨールが私の視界一杯に影を落とす。心の中で手を合わせて、目を瞑った。数秒?数分?時間は永遠のように感じた。
「何じゃ?」
 主人の呆けた声がサマヨールの背中を追う。私達すら見えていない様子で、部屋を悠々と抜けていく。我に返って振り向いた私の視界には、廊下の壁に半分めり込みながら進んでいく後ろ姿がコマ送りのように写し出され、やがて何もなかったかのように静寂が訪れた。
「助かったんやねぇ」
 寿命が縮むかと思った。未だに心臓が跳ねるような感覚は続いている。一息ついて主人の方を見れば、気の抜けた声を出して転がっているエネコを撫でている。
「お前、守ってくれたんか」
 この子は気まぐれなようで、私達のことはきちんと心配しているのだ。あんな怒った声は初めて聞いたが、私達が家族であることを認めているのだろう。
「かいらしいこと」
 私も主人の隣に座ってエネコを撫でる。気持ちよさげにコロコロと喉を鳴らすこの子は、普段通りの甘えん坊に戻ったようだった。
―――
「そんなことが」
 ご主人がエネコを撫でている様子が想像できず、私はしばらく固まったようになっている。その間が絶妙だったのだろうか。私がフムと言ったのが余計に刺さったようで、奥さんの笑い声はついに止まらない。
「私も大変やったけど、あんなうちの人を見たんは初めてやったんでビックリしたわ」
 ずっと笑っている奥様の声に混じって、玄関の開く音がした。奥様がおかしさを噛み殺すような表情になる。靴音からして、ご主人が戻ってきたのだろう。
「何や、客か」
 その内に玄関の廊下を足音が近づいてきて、襖が少し開く。隙間から覗いたのは茶色い浴衣の袖。奥には紺の綿入れが顔を見せている。その頃には、奥様の顔から先程の笑顔は完全に消え、ほとんど外向けの表情のみが残る。
「あら、遅いお帰りやこと。こっちにいらしたら?」
 少し攻撃的な声色で奥様が呼ぶ。鋭い眼光を湛えた顔が襖から姿を現す。神経質そうな顔。目の下に隈ができている辺り、昨日も夜通し原稿を書いていたのだろう。
「先生、お久しぶりです」
 私が立ち上がって一礼すれば、ご主人、もとい先生は頭を搔きながら大きくため息をつく。髪は光沢のある黒と、完全に色の抜けた白が入り混じっている。
「来るなら連絡くらい」
 頭を上げた私と視線が合うと、先生は苦々しい顔で一言突いた。私に不手際が無いとはいえ、先生の語勢に思わず頭が下がりそうになる。
「あんたさんの部屋に日付も時間も書いてもろた手紙がちゃんとありましたんよ?」
 が、先生の言葉が終わる前に、奥様が割って入った。普段に増して丁寧な口調の裏には、怒りが牙を剥いたような黒々とした背景が描き出されるようで、私の背中がゾクリと震える。
「せやったか。それは堪忍」
 対して先生はと言えば、反省しているようだが口調は普段と変わりなく奥様の方を見ている。奥様と二言三言の会話を交わすと、先生は私に座るように促す。私が座ったのを見て、先生は一度部屋を出た。先程とは違い、奥様との間に気まずい空気が立ち込める。
「まぁ、うちの人も偏屈やさかいにねぇ」
 あぁ、これは。適当に愛想笑いをしては逆に火に油を注ぐ事になるので、必死になって取り繕う言葉を考える。背筋に冷や汗を這わせながら、奥様と会話していると先生が戻ってきた。この家は、楽しいが心臓に悪い。
「今回の原稿やろ」
 厚手の封筒に包まれたのは今回分の連載小説。持ち帰って校正に回し、とやることはいくらでもある。
「エネコ呼ばはったら?」
「何でや。あんな可愛げの無いもん見せたてしゃあないやろ」
 私が呆気にとられるなかで、先生は少し抵抗していたがやがて奥様の目力に気圧されて渋々立ち上がった。しばらくして、右人差し指にビニール袋を引っ掛けた先生に抱えられてエネコが姿を見せた。まだ寝ていたのだろう。不満げな顔で先生を見上げているが、下ろされるのを嫌がっている辺り満更でもなさそうだ。
「さすがの可愛さです」
 畳に下ろされると、不満げな声を上げて机の下へ潜っていく。私が手を振るも、エネコは尻尾を振るだけでこちらに来ようとはしなかった。ついで、先生が座ると、うろうろしていたエネコは迷わず膝の上で丸くなる。その姿がかわいくて、エネコの丸い顔を見つめてしまう。
「そういえば、今日はどこへ?」
「これや」
 先生がビニール袋からオレンの実を取り出すと、奥様からさっきよりも更に低い声が出る。多少の殺気を含むような声色に、私の肩が跳ねる。
「あなた」
 私の鼓動が早まる中で、先生はオレンの実にかぶりつく。もう慣れてしまっているのか、それとも鈍感なのか。
「お医者様も言わらはったんに。甘いものは控えや、て」
 匂いに連られてエネコが先生を見上げると、呆れたような声と共に袋に手をいれる。一方でその声には愛着にも似た優しさが含まれていた。
「なんや、仕方のない奴やな」
 親指と人差し指に挟まれたモモンの実を見つけたエネコは、口を緩ませながら前足を上下させて捕まえようとしている。あまりの可愛さに私から上擦ったような声が出た。
「写真撮ってもいいですか!?」
 私の声にギョッとした表情の先生は、すぐさま腫れ物を見るような顔に変わった。よほど私の顔が輝いていたに違いない
「うちの娘を思い出したわ」
 化石や遺跡の出土品を見ては先程の私のような顔をしていたという。学術雑誌に掲載された写真を奥様から見せてもらったこともある。
「何が楽しいんかまるで分からんかったけどな」
 そんな言葉とは裏腹に、先生の声は懐かしさを含んだ父親の表情だった。何を言っても自慢の娘。そんな自信が見え隠れする。
「エネコちゃんの写真を貰っても?」
「なに言うたて撮るんやろ。好きにせぇ」
 先にスマホを構えた私に対して、半ば諦めに似た声と共に可哀想なものを見る視線が私に飛ぶ。
「もうちょっとにこやかな表情で!」
「注文の多い奴やな」
 眉が寄って、いつもより気難しい雰囲気が出たような気がする。だが、その方が先生らしいと言えばそうだろう。ストップの合図を出して私はシャッターボタンを押した。長押し、連写モードで。
「何枚撮るねん!」
 先生が怒号を上げたのと奥様が耐えきれずに笑いだしたのは同時だった。
「やっぱりお似合いやわぁ」
 涙目になりながら、奥様は拍手した。それがよほど気に食わなかったのか先生は立ち上がろうとしたが、エネコが膝を抱えて離さない。
「どいつもこいつも」
 不機嫌の極みといった先生と上機嫌の奥様。これはこれでいつもの光景といえばそうだろう。
「物書きの文章よりもエネコの方が人気とは何たることか」
 先生は心底納得いかないようだが、現実そうなのだから受け入れてほしいとも思う。ただ、私も編集した記事よりポケモンの方が人気なら反応に困るかもしれないが。
「うちにも気まぐれで可愛げもなくて偏屈なポケモンがいましたねぇ」
 割と冗談になっていない一言を奥様が投下すると、いよいよ口をへの字に曲げた先生は私に帰れの合図をする。
「まぁ」
「原稿は渡したやろ。また手紙でも寄越せ」
 私より先に立ち上がった先生は、うちの娘みたく強情な奴だ。と残していった。その後ろ姿を見送って、私は玄関まで奥様に見送られる。
「またおいでやす」
「はい。また来ます」
 帰路、コガネシティに向かう私の足取りは少し軽かったかもしれない。少しずつ春へ向かう町並みを眺めながら携帯を取り出す。
「編集長ですか?はい。原稿は頂けましたので、これから戻ります」
 この数ヵ月後に文豪ソーセキ先生とエネコの写真が若者の間で流行するのだが、それはまた別のお話である。
飼いエネコは、飼い主の性格をそのまま反映してそうだったのでこのような形となりました。
エンジュシティは京都?のようなので、喋り方も似せてみましたが、文章場だと読みづらいかもしれないですね。
話中の先生の娘は、皆様のご想像のままに。
ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

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