冒険のはじまりだ!

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作者:フィッターR
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読了時間目安:25分
 青い空。照りつける太陽。岩のようにゴツゴツした雄大な雲。そしてその下に広がる青い海と切り立った崖。
 まさにこの街の夏そのものと言っていい風景が眼前に広がる。もっとも、この景色を風光明媚と讃える人が全国から――いや、世界中から集まるこの風景も、この街に住んでいるわたしにしてみれば見慣れた風景でしかないのだけれど。



 海水浴場は今日も黒山の人だかりだった。
 自分が水着になったり泳いだりはせずに、砂浜で連れのポケモンを軽く遊ばせてただけだけど、森のように立ち並ぶ無数のビーチパラソルや、波音をかき消すほどの海水浴客たちの賑わいぶりは、何度見てもちょっと面食らうものだ。
 観光客が押し寄せる行楽シーズンの休日――ちょうど、今の季節の今日のような日だ――ともなれば、この街の海岸と表通りと寺社仏閣とその参道は、そこらのテーマパークにも負けないくらいの人でいっぱいになる。電車は平日朝の都心の通勤路線のようにぎゅうぎゅう詰めになり、道路はひっきりなしに走るバスにタクシーにマイカーの群れで渋滞が頻発する。
 海水浴場の駐車場からオートバイで出たところで、わたしたちはその渋滞に捕まってしまった。そのせいで、わたしたちは深刻な問題に直面していた。



 ああ、暑い。
 暑い!



「あつい!!」
 思わず声に出してしまった。
 今年の夏はひときわ暑い日が続いていて、今日も最高気温は35度に迫る猛暑になると天気予報は言っていた。
 しかも、わたしたちは今オートバイに乗っている。半袖短パンなんかでオートバイに乗るのは危険だから、夏だろうとジャケットにグローブを着込まなければならないのがライダーの宿命だ。風を切って走っていられればまあ大丈夫なのだけれど、そこにこの渋滞。最悪としか言いようがない。
 これでも地元の人間なんだから、こういうことくらい予測してなきゃダメじゃないか。今日はただでさえ遠くから来た連れがいるっていうのに……



「みっちゃん、大丈夫? 生きてる?」
 軽く後ろを振り向いて、わたしは後ろに座っている昔なじみのみっちゃんに声をかけた。
「なんもなんも! こんくらいで死んでたまるか!」
 とんとん、と背中を軽く叩きながら返事が返ってくる。
「暑いって思わないの? 今朝深奥シンオウから関東カントーに来たばっかでしょ?」
「そりゃまあ暑いけど……こっちの夏が暑いのは当たり前っしょ?」
「こんな暑さ当たり前じゃないよー! みっちゃんは涼しい深奥にいたからわかんないんだろうけどさ!」
「ああ、そういえばニュースで言ってたっけ」
 このクソ暑さとは裏腹な、涼しい顔が見えるようなみっちゃんのひょうきんな声。
 産まれてから今日まで一度も深奥を出たことがなかったらしいみっちゃんのことだ。"命に関わる暑さ"という概念をきっと彼女は持ち合わせていないのだろう。なんもなんも――標準語に翻訳するなら"心配しないで"というような意味の言葉だ――という言葉だって、どれだけ信用できるかわからない。
 ああもどかしい。動けばすぐ涼しいところに逃げ込めるのに。このシーズンじゃなきゃ、目的地に通じる曲がり角まで30秒とかからないんだぞ!
 心の中で叫んで視線を正面へ戻す。すると、手前に止まっている自動車のブレーキランプが消えた。
 よしいいぞ。動いてくれればどうにかなる。みっちゃんの手がしっかりわたしの腰に回っていることを確かめてから、わたしはアクセルグリップを回して愛車を発進させた。



 * * *



 幸いにも、果てしないほど長く感じた3分間を過ごしたあたりで、わたしたちは渋滞を抜け出して住宅街の中の小路に抜けることができた。細い道ばかりのこの街でも、裏道へ躊躇なく進むことができるのはオートバイのありがたいところだ。
 昼過ぎの日差しは本当にきつい。とにかく早く涼めるところに行って、みっちゃんを休ませてあげなきゃ。そう思って、ここからそう遠くないところにあるお気に入りのカフェに連れて行くことに決めていた。わたしも早く冷たいものが欲しい。
 小さな谷の底に肩を寄せ合う住宅を横目に、トンネルを抜けて隣の住宅街へ。山の上にあるそこそこ有名な神社へのルートになっているから、この辺の道も観光客が結構歩いている。
 そんな観光客の通るメインストリートから外れて、少し進んだところにそのカフェはある。小洒落たきれいなカフェなんだけど、狭い谷の合間の猫の額のような区画の中に、ひっそり建っているこの秘密基地っぽいロケーションがまた堪らないのだ。
 駐輪スペースに愛車を止め、エンジンを切る。みっちゃんと一緒に愛車を降りてすぐ、ヘルメットとグローブとジャケットを大急ぎで脱いだ。吹き出しに吹き出した汗でシャツが体に張り付いて、実に嫌な気分だ。早く冷房の効いた店内に入りたい……そう思ったところで、みっちゃんがわあっ、と声を上げるのが聞こえた。
「しーちゃんすごい! ヤシの木だ!」
 ヤシ? そんなのここにあったかな? と思って見てみると、道路を挟んで店の反対側、切り立った崖の下の路傍に生えた小さな野良ジュロに向かって、ヘルメットも脱いでいないみっちゃんが、足取りも軽やかに駆け寄っていくのが見えた。なるほどそういうことか。
「みっちゃん、これヤシじゃなくてシュロの木だよ」
 みっちゃんの隣まで歩いていって、彼女がヤシだと思っている木のことを教えてあげる。
「え、そうなの?」
「ま、シュロはヤシの仲間だから近いっちゃ近いけどね」
「そうなんだ。深奥じゃこんな木見たことないからびっくりしちゃった。すごいなあ」
 別に特別なものでもなんでもないシュロの木を、みっちゃんは穴が開きそうなくらいにまじまじと眺めている。その間も日差しは照り続け、玉のような汗がみっちゃんの額を流れていく。ああ、暑い……!
「……ねえ、そろそろお店入ろう。わたし早く涼しいところ行きたいよ」
 わたしは絞り出すみたいに声を出した。
 このままだとみっちゃんよりわたしが先にダウンしてしまいそうだ。もしそうなったら、自分の限界を知らないみっちゃんは倒れるまで炎天下に居続けるかもしれない。
「えー、しーちゃん生まれたのはこっちだったよね? それなのにあたしより暑いの苦手なんだね」
「みっちゃんは暑さのヤバさがわからないからそういうこと言えるんだよっ」
 からかうように言うみっちゃんに、わたしはツッコミを返す。
 こんな会話をするのも、本当に久しぶりだなあ。懐かしさで心が満たされていくのを感じながら、わたしはみっちゃんの手を引いて、カフェの中へと案内する。



 * * *



「しーちゃん、やっぱりコーヒー好きなんだねー」
 わたしが注文したアイスカフェラテを見ながら、みっちゃんが言う。"ヒ"ではなく"コ"のほうに高いアクセントが付く深奥訛りの"コーヒー"の発音に、わたしの中でまたサウダージが沸き上がった。
「みっちゃんも相変わらずだね。これからパフェ食べるってのにクリームソーダ頼む人なんてわたしみっちゃんしか知らないよ」
 懐かしさでいっぱいになった心で、わたしは返した。
 あのころも、多くないお小遣いをやりくりしてよくカフェにふたりで行ったものだった。頼むのもいつもわたしがコーヒーで、みっちゃんは外が吹雪になろうがクリームソーダだった。あのころと全く変わっていない光景を、わたしが今暮らしている街でこうして見ることができるなんて、夢にも思ってなかったな。
 みっちゃんと知り合ったのは、転勤族だった父さんに連れられてやってきた深奥のフリースクールだった。あのころは中学生だったから、もう8年くらいは昔の話になる。
 ひどいいじめを受けて学校に行けなくなった、という共通点があったわたしとみっちゃんは、同い年の女子がわたしたちふたりだけだったこともあって、同病相憐れむ仲になり、やがて親友同士になっていった。出会って1年半ほどで、わたしは今いるこの街に引っ越すことになったのだけれど、メールや年賀状、暑中見舞いを交換する付き合いはそれからもずっと続けている。
 そんなみっちゃんが、今度関東に行きたい、という内容のメールをよこしてきたのは、今年の梅雨入りのころのことだった。
 その話を聞いたとき、わたしは驚いた。昔のみっちゃんはとにもかくにも出不精で、フリースクールの帰りに寄り道をすることもなかったし、カフェや買い物に行っても長居は嫌がるくらいだった。旅行なんて行きたいと思ったこともない、という話もしていたくらいだ。
 8年も経てば人は変わるのが当然、とはいえ、なぜそんな変わり方をしたのか? その理由は、みっちゃんが連れてきた3人めの仲間にある。



 みっちゃんの隣の席に、人間の赤ちゃんよりひとまわり大きいくらいの水色の鳥がちょこんと座っている。
 彼は自分に出されたオボンジュースをもう飲み干してしまっていて、手持無沙汰だからなのか、それとも印刷されている柄に興味があるからなのか、店員さんが持って行ったグラスに敷かれていたコースターを何度もひっくり返してはじっと見つめている。まるで神経衰弱でもやっているみたいだ。
「めんこいよねー、コースター見て何考えてるのかな?」
 わたしが彼に目を向けているのに気付いたのか、みっちゃんが話題を変える。
「さっきシュロを見つけたみっちゃんと同じじゃない? 初めて見るものだから珍しがってるんだよ。きっと」
「それだ、ポッちゃん連れてカフェ入るの初めてだし!」
 自分の名前を言っていることに気づいたのか、水色の鳥はこちらを一瞥する。でも、自分が呼ばれたわけではないことに気づいてか、またすぐにコースターに視線を戻していた。
 彼の名前はポッちゃん。種族はペンギンポケモンのポッタイシ。みっちゃんの旅のパートナーだ。
 みっちゃんと彼が出会ったのは去年のことだという。みっちゃんが何気なく出向いた保護ポケモンの譲渡会で出会い、"運命的なものを感じて"引き取ったのだそうだ。なんでも彼は、街中で残飯を漁りながら孤独に暮らしていた野良ポケモン――おそらくは、人間に飼われていたけど捨てられたんじゃないだろうか、ともみっちゃんは言っていた――だったそうで、そこにシンパシーを感じてしまったという。
 出不精だったみっちゃんの心に火を点けたのは、何を隠そうこのポッちゃんらしいのだ。彼を引き取ってから、みっちゃんは"ポッちゃんと冒険がしたい"という願望を持つようになったらしい。
 そんなみっちゃんの冒険の第一歩を手助けしたくて、わたしはみっちゃんとポッちゃんを関東のこの街へ誘った。ここはありきたりな観光地ではあるけど、そのぶん冒険の第一歩には向いているんじゃないかな、と思って。



 ポッちゃんがコースターをわたしが見る限りで8回くらいひっくり返したところで、お目当てのスイーツが運ばれてきた。
 わたしたちが注文したのは、毎年夏に出るこのカフェの名物メニュー、嫩葉ワカバ産マスクメロンのパフェだ。
 ポッちゃんにも、違う形の器に盛り付けられた同じものが運ばれてくる。ポケモン同伴OKのこのカフェは、全てのフードメニューがポケモンも食べられるようにできている。これも避暑地にこのカフェを選んだ理由だ。
「わああおいしそう……」
 くし切りになった皮つきのメロンに、小さな球形にくり抜かれたメロン。真ん中のソフトクリームを取り囲んで、グラスから溢れんばかりに盛り付けられた萌黄色の果肉を、みっちゃんは真夜中の猫みたいに目を輝かせながら眺めている。
「そう思うでしょ? さ、食べよう。ホントに美味しいから……いただきます」
「いただきまーす」
 スプーンを手に取って、まずはくり抜かれたメロンを掬って口に運んだ。みずみずしい果肉から溢れ出る果汁が、口の中を潤していく。と同時に、かぐわしい香りとさわやかな甘さが、口の中を満たす。ああ、たまらない。これぞ真夏の甘味。暑さを頑張って耐えてここまで来た甲斐があったというものだ。
「うーん、こっちのメロンもおいしいね!」
 破顔一笑しながら言うみっちゃん。喜んでくれて何よりだ。
「でしょ? 深奥のメロンよりは甘さ控えめだけど、このさっぱり感がいいでしょ?」
「そうだね。深奥の人は甘党が多いんだってお母さん言ってたしなあ。それが理由かな?」
「あはは、そうかもね」
 談笑しながらもパフェをつつく手は止まらない。わたしもみっちゃんもあっという間にグラスの上のメロンやソフトクリームを食べ尽くしてしまって、グラスの中に詰まっているメロン味のゼリーに取り掛かっている。
 このゼリーもまたくちどけが滑らかで、一緒にグラスに詰まっているホイップクリームとの相性が抜群なのだ――という感想は、ひとまず置いておいて。
 パフェを食べる手を停めて、カフェラテを少し飲む。
「ねえ、みっちゃん」
「ん、なに?」
 きょとんとした顔で、みっちゃんはこちらを見る。中学生だったときと変わらない可愛い顔。でも、目の輝きはあの頃と違って、誇らしげなたくましさをたたえているように見える。
「……頑張れよ。わたし応援してるから。みっちゃんの冒険」
 梅雨入りのとき以来ずっと言いたかったことを、わたしはシンプルな一言に込めて伝えた。



 みっちゃんが望んでいる"冒険"は、私の想像以上に壮大なものだった。梅雨入りのときのメールに、関東に来てどうするの、と返信をして、返ってきた返信の返信で初めて彼女の野望を聞いたとき、わたしは椅子ごとひっくり返りそうになるくらい驚いたものだ。
 観光旅行でもしたいのかなと思っていたら、みっちゃんは仕事をやめて、ポケモントレーナーとしてポッちゃんと一緒に関東のジム巡りをしてリーグをめざすと言い出したのだ。そんなことを言われたら驚かない人のほうが少ないだろう。10代の少年少女ではなく、成人した女の子が言っているのだからなおさらだ。
 "普通"の人生を過ごしてきた人なら、絶対に止めに入るような話だろうなと思う。わたしだってそうしたほうがいいかなと一瞬思った。でも、そんな無粋なことできるわけがない、と気づくのにそう時間はかからなかった。
 わたしだって、みっちゃんと同じように"普通"じゃないことだらけの人生を歩んできた。いじめられて、親を亡くして、パイロットになるために男だらけの世界にカチコミをかけて、挫折して、それでも傷だらけの身体を引きずって、今日まで生きてきた。我ながら最高の人生だと思ってる。
 そんなわたしがみっちゃんを止めるなんて道理が通らない。むしろ背中を押してあげるくらいはしなくちゃいけないだろう。彼女もまた、最高の人生を自分の力で始めようとしているところなのだから。
 だからわたしは、よかったらまずうちにおいでよ、久しぶりに会ってお茶でもしようよ、とみっちゃんをこの街に誘ったのだ。さっきの一言を、直接会って伝えたかったから。



「……なしたの? 急にカッコいいこと言っちゃって?」
 みっちゃんは目を丸くしている。
「みっちゃんがカッコいいからだよ。だったらわたしも負けないくらいカッコよくならなきゃ」
 とっさに返したその言葉は、半分は冗談、半分は本気の言葉だ。
「あはは、しーちゃんってほんとにカッコいいよね。昔とおんなじ」
 そう言って、みっちゃんはゼリーを口に運ぶ。冷房の冷たい風が、わたしたちの間から湧き上がる熱を冷まそうとしているみたいに吹きつけてくる。
「なんて言えばいいのかな、狭い世界に閉じこもってずっと生きてきたけど、そのせいで幸せ逃しちゃってたかもしんないな、って思ってさ。だから、遠いところに行ってみたいなって、ポッちゃんに会うちょっと前から思ってたんだ。いろいろ大変だろうけど、たいして楽しくもないし稼ぎもない仕事続けるよりいいんでないかい、ってね」
 笑顔で語るみっちゃん。その視線の先には、一足先にパフェを食べ終えていたポッちゃんの姿。
「ポッちゃんのトレーナー探しをしてたボランティアの人がね、こう言ってたんだ。『ひとりじゃできないことでも、ポケモンが隣にいてくれれば、なんでもできるような気持ちになれる』ってね。
 あたしもね、ポッちゃんと一緒になってから、そんなことを思うようになった。それで実際、勝負とかスポーツとか、いろんなことができるようになったんだ。だから、遠くへ行きたいって思ってたことも、実行しよう。やってみよう、って思えたんだよね」
 ポッちゃんは照れくさそうに笑っている。一方で、得意げに胸を反らせてもいることに気づいて、わたしは少し笑ってしまった。いやあそれほどでも、という自慢げな謙遜の言葉が聞こえてきそうだ。
「……ありがとね、しーちゃん。あたし、きっと頑張れるよ。しーちゃんがカッコいいって言ってくれるなら」
 ポッちゃんの顔を真似したみたいな、誇らかな笑顔でかえすみっちゃん。
 どういたしまして、と返して、スプーンを手に取る。わたしがグラスの中身をとっくに食べ尽くしていたことに気づいたのは、その1秒ほどあとのことだった。



 * * *



 カフェを後にして早々に、わたしたちはみっちゃんの今夜の宿でもあるわたしの家に向かった。
 お風呂に入って汗を流して、着替えて夕飯の支度をして、食べて後片付けをして――という流れをみんなでこなして、ようやく落ち着いた頃には時計の針は6時半を回っていた。
 西の空に明るみが残るブルーアワーの空を、みっちゃんは縁側でポッちゃんと一緒に眺めている。
 爺ちゃんがみっちゃんといっしょに食べなさい、とスイカを切ってくれた。せっかくだから自分のぶんのバドワイザーも冷蔵庫から出して、一緒に台所から縁側まで持っていくことにした。



「みっちゃん、爺ちゃんがみっちゃんにってスイカ切ってくれたよ。一緒に食べよ」
「あっ、ありがとう!」
 朗らかに答える縁側のみっちゃんは、団扇を一心に振っている。日差しはなくなっても、蒸し暑さはなかなか収まらない。本当に嫌な暑さだ。
「こっちは日が暮れても涼しくならないんだねえ。なんか不思議だな」
「部屋の中ならエアコン効いてるよ。戻る?」
「うーん、それはいいかな。今は涼しさより風情を味わいたいし……」
「なんかお婆ちゃんみたいなこと言うんだね、みっちゃん」
「だってしーちゃん、縁側だよ? 深奥じゃこんなのどこにもないもん。今の日本にはもう存在しないものだって思ってたくらいだよ」
 スイカの乗った皿を縁側に置いて、みっちゃんと皿を挟んで並んで座り、他愛もない会話に興じる。どこか遠くから聞こえるヒグラシの歌に伴奏をつけるみたいに、軒先に下がった鉄の風鈴が澄んだ音を奏でる。なるほど、言われてみればけっこう風情のある情景だ。
「じゃ、いただきまーす」
 団扇を床に置いて、みっちゃんがスイカをふたつ手にとった。左手に持った方を、左隣に腰掛けているポッちゃんに手渡す。ポッちゃんはフリッパーで器用にスイカを持つや否や、口を大きく開けて真っ赤な果肉にかぶりついた。カフェのときもそうだったけど、いい食いっぷりだ。みっちゃんが食べさせすぎて太ってしまいやしないか、とちょっと不安にもなるくらい。
 ポッちゃんに負けじとスイカにかぶりつくみっちゃんを横目に、わたしはバドワイザーの缶を開けてそのまま傾ける。
 ほのかな酸味と炭酸の刺激が口の中をくすぐる。水みたいにぐいぐい飲めちゃうほど刺激の少ないすっきりさわやかなこの味は、暑い夏にぴったりの味だ。
「しーちゃん、それ何?」
 みっちゃんが訪ねてきた。
「ビールだよ。バドワイザー。みっちゃんも飲む?」
「あー、あたしお酒全然だめでさ」
「そっか」
「大人になっちゃったんだねえ、あたしたち」
 また、他愛のない話。みっちゃんとこんな話を、関東のわたしの家でできるようになったんだ。歳を取るのも悪くない。
 スイカを食べ終えたポッちゃんが、大きなあくびをひとつした。そのあくびがうつって、みっちゃんも、そしてわたしもあくびをする。その様子がなんだかおかしくて、みんなでけらけらと笑いあう。



「ねえ、しーちゃん」
 笑いがひとしきり収まったところで、みっちゃんが口を切った。
「……旅を始めて1日も経ってないのにこんなこと言うのもアレだけどさ、あたし、冒険を始めてよかったなって、今思ってるよ」
 えっ、という相槌が口から出ていた。当人も言っているけど、いくらなんでもそういうことを言うのはちょっと気が早いんじゃないか。そう言いたくなる気持ちを抑えて、みっちゃんの言葉に耳を傾ける。
「昔はね、どれだけ遠くへ行ってもさ、山があって川があって町があって海があって、それがずっと続くだけで、どこへ行っても世界なんて変わり映えしないんだろうなって思ってたんだ。でも、旅をしてた人の話をきいて、もしかしたら違うのかもしれないって思って……実際に旅してみたら、本当に大違いだったんだってすぐわかった。
 バカみたいに日差しが強くて、シュロの木があって、狭い谷底に建ってる家があって、深奥と違う味のメロンがあって、縁側があって……深奥とは全然違うものを、今日1日だけでたくさん見つけられたもん。これからもこういう事がたくさんあるんだ、って思うとね、今からすごくワクワクするんだ」
 暮れなずむ空を見上げながら、感慨をたっぷり込めた声でみっちゃんは語る。語っているみっちゃんの目は、宵の明星みたいにキラキラ光って見えた。
「……ああ」
 そうか、そういうことだったのか。
 わたしの目から、バリバリと大きな音が響くくらいの勢いで鱗が落ちていく。
 夏の強烈な日差しも、シュロの木も、谷底の家も、嫩葉のメロンも、縁側も、わたしにとってはすぐ近くにあるのが当たり前のもの。でも、深奥から初めてこっちに来たみっちゃんにとっては、見るもの全部が新しいもの、未知のものだったんだ。
 自分にとっての当たり前は、別の誰かにとっては未知の世界。それは人生も、身の回りの風景も同じ。みっちゃんは旅に出た人からの話でそれを知り、今日の旅でそれを確かめていたんだ。
 ちょっと考えれば分かりそうなことなのに、今の今まで気づかなかったことがちょっと悔しい。わたしだって"普通"じゃない人生を過ごしてきたし、みっちゃんと一緒にいたころは転勤族の子供だったんだから、むしろこっちが先に気づくくらいじゃないとダメだったんじゃないのか。環境が変わることに慣れすぎてて、そういう感覚が麻痺していたのかもしれない――
 そう考えていると、早くもスイカを食べ終えて皮を皿に戻そうとしているポッちゃんと目が合った。みっちゃんを旅へといざなった彼に、わたしよりずっと長くみっちゃんの隣にいることができる彼に、ちょっと嫉妬をしてしまいそうだった。
「誘ってくれてありがとね、しーちゃん。おかげですごくいい旅が出来そうだよ」
 考え事で頭がぐるぐるしている所に、みっちゃんの声。見ると、アサガオみたいに晴れやかなみっちゃんの笑顔があった。
「……うん、どういたしまして」
 溢れそうになる考え事にいったん蓋をして、返事をする。何はともあれ、みっちゃんの人生を彩る旅の手助けができたんだ。それはわたしにとっても嬉しいことだし、ちょっと誇らしくもある。
 考え事ならあとでだっていくらでもできるさ。今はひとまず置いておいて、みっちゃんと過ごす久々の時間を存分に楽しもう。そう思って、わたしも彼女に笑顔を返した。



「ところで、明日はどうする? どっか行きたいところとかある?」
 気持ちを切り替えたくて、別の話題を振ってみる。
「えっ? そうだなあ、お寺とか神社とか見てみたいし……そうだ、母さんからポッポサブレーおみやげに送って、って頼まれてたんだった! そうだ、メモ帳取ってくる! ちょっと待ってて、ええとカバンは――」
 せわしなく立ち上がって、縁側を小躍りしながら歩いていくみっちゃん。そんなに慌てなくてもいいじゃないか、とでも言いたげに、ポッちゃんが2つめのスイカをかじりながらその背中を見送っている。
 やれやれ、明日も忙しくなりそうだ。今夜はしっかり休まないとな。
 酒焼けした喉を潤したくて、わたしは皿の上のスイカに手を伸ばした。

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