本作は、2015年5月に旧アカウントで投稿した拙作に、一部修正を加えた再掲載作品となります。
蒸し暑い朝だった。コンクリートジャングルの都市は、地表から熱を放ち続け、通い路をゆく人々をうだらせていた。その人混みに逆らうように、スーツ姿の男女が重い足取りで歩いていた。
「病院には行かれたのですか」
「行ってないなあ」
「行っていないって、もう3日も家にすら帰られていないのでしょう?」
隣を歩く女が驚いて、男に訊く。
「ご心配にならないのですか」
「何がだい?」
「奥様の事です」
「ああ、大丈夫だろ」
「大丈夫って、本陣痛が始まってから、もう丸一日が経ったのでしょう?」
女が目を丸くして、非難する口調で問いただす。
「病室で一人、初めてのご出産で、不安でしょうに」
「事件が立て続けに起きているからな。今回の件が無ければなあ……」
男が大きなあくびを一つして、眠たげに応えた。
「まあ、最近妙な殺傷事件続きで、我々は軟禁状態ですけども、警部は少し休みを取られて奥様のもとへ……」
「なんだか、すごい臭いだな」
男が女の忠告を遮るように言った。
「ベトベトンの死骸だそうですよ」
女が鼻を摘んで、くぐもった声で応えた。
――― 慈愛フィクサション ―――
繁華街と住宅地が幹線道路を挟んで向き合うような市街。その一画がバリケードテープで封鎖されていた。警察官が慌ただしく動いているが、野次馬の姿は皆無だった。
「ご苦労さまです。機捜のオキアミです」
「捜査五課のヤグラです。この子はハスダ」
「ご苦労さまです」
「少々臭いが酷いですが、確認をお願いします」
機動捜査隊のオキアミが馬鹿丁寧に頭を下げた。
二人はオキアミの案内で、封鎖線のテープをくぐり、しばらく先の裏通りに目を向けた。不気味な物体が鎮座しており、夏の熱気に伴って悪臭を放っていた。
「黒ずんだ紫色のヘドロの塊だな」
「言われないと、ベトベトンだとわかりませんね」
刺激臭がひどく、目視で状況を確認し終えると、すぐに場所を移動し、機動捜査隊による初動捜査の説明を受けた。
「第一発見者によれば、午前6時半頃にこの裏通りにいるベトベトンを見つけたそうです。巨大なヘドロから異臭がすると」
オキアミがメモを横目に話を続ける。
「このベトベトンは野生のポケモンです。性別はメス。死因はわかりませんね。外傷もありませんし」
「流動性の体だ。外傷なんてあるわけ無いだろ」
ヤグラの言葉に「ごもっとも」と言いたげにオキアミが頷き、話しを進める。
「しかし普通、ベトベトンが息絶える時は、ただのヘドロと化して風雨によって四散するそうです。ところが、このベトベトンは体液のヘドロが硬化しているんです」
「じゃあ、何らかの外因があるんだな」
「そうだと思いますが、ここから先はポケモン事件担当の皆さんにお任せします」
「了解した。お疲れ様」
ヤグラが、覆面パトカーに戻るオキアミをにこやかな顔で見送った。
「お疲れ様は我々ですけどねえ……」
ハスダが、パトカーで走り去った機動隊の男を羨ましそうに見送った。
鑑識官が到着すると、二人は防護マスクを拝借し、ベトベトンの死骸に再び近づいた。
「硬化した原因は『かたくなる』でしょうかね?」
「いや、死んだポケモンは技を使えない。だから、機動隊の言うとおりただのヘドロになっているはずだ。だから例えば、何らかの物質を混ぜられて体液が硬化したとも考えられる」
「薬品ですか?」
ハスダが興味深そうに訊いた。
「そうだ。そういう化学物質なんかがポケモンに異変を起こすケースは数多くあるんだ。以前、消臭剤を作っている工場から、出てはいけないドガースが発生したことがあってね。そのドガースを調べてみたら、体内のガスが酸化反応を起こしていて、無臭になっていた件があるんだ」
「へえ、びっくりです。じゃあ、似たような事例かもしれませんね」
「そうだと思う。あとはそれが、殺傷事件かどうかだな」
ヤグラが捜査官と検視官を呼び止め、ベトベトンを移動させ、体の成分を調べるように指示した。
「ベトベトンは鑑識に任せて、僕らは防犯カメラの映像を調べてみようか」
「そうしたいですけど、一度休息を取りませんか」
「そんな暇はないだろう」
「……警部は職務に没頭し過ぎです。生まれてくる子どもに会いたくはないのですか」
「生まれればいつでも会えるだろう」
ヤグラが、どこ吹く風といった声音で言葉を返した。
二人はポケモン関連事件を担当する捜査五課の本部に戻ると、十数本の映像データを送ってもらい、早送りのビデオを凝視した。
「頭を隠しているのが歩いているな」
防犯カメラの映像を血眼になって精査していたヤグラが、ようやく映像の異変を引き当てた。
「フードを被っていますね。でもこの画質だとご尊顔が見えませんね」
目にくまを作ったハスダが、画像を覗きこんで怪訝そうに言った。
「だが、こいつが怪しいな」
「そうですね。時間帯的にも一番怪しいですね」
「二課に協力してもらおう」
ヤグラが、捜査二課の画像解析に秀でた刑事に画像を送りつけ、鮮明化を依頼した。
「さて、これで我々は一度休息を……」
「ヤグラ警部、シキカです。鑑定結果が出ましたよ」
ハスダがヤグラに休憩を促したところで、若い女性鑑識官であるシキカが報告を持ってやって来た。
「待っていたよ、聞かせて聞かせて」
「ああもうっ、警部はお疲れですから、手短にお願いね!」
ハスダが、ヤグラの応対を遮るように、シキカに釘を刺した。
窓の外は既に日が暮れ始めていたが、尚も強烈な西日が照りつけていた。署内の一室。度重なる事件の対応で疲弊している二人とは対照的に、鑑識官のシキカは活き活きとした表情を浮かべていた。
「わかりましたよ。ベトベトンの体は固定されていたんです」
「固定?」
シキカの言葉に、ヤグラが疑問符を浮かべた。
「ええ。そうですね、酢酸オルセイン溶液はご存知ですか」
「ああ、子どもの頃に理科の実験でやったよ。タマネギの表皮細胞を染色しつつ細胞を殺すやつだろ」
「そうです。あれと似たようなことが起こっていたんです」
シキカが興奮気味に話す。
「そもそもポケモンというのは、特定の技を使用する際に内部構造に変化が現れます。それが今回の場合は『かたくなる』でした」
「えっ、でもポケモンは死んでしまったら技が使えないのでは?」
ハスダがシキカに尋ねた。
「ええ、そうです。だから死ぬ直前に技を発動していたのです。『かたくなる』というのは普通、細胞を急速に分裂させることで密度を高め、体を強固にする技です。ベトベトンは、細胞に似せた組織をヘドロの成分から作り出し、代用させています」
シキカが明瞭な声で話を続ける。
「おそらく、何らかの形で被害を受けたベトベトンは『かたくなる』を使い、細胞を分裂させて固めあげ、自身の防御力を極限まで高めたのだと思います」
「じゃあ、その作られた細胞もどきが壊死するような薬品か何かでベトベトンは殺され、そのままの形を留めたのか」
「その通りでしょう。残留物をもう少し詳しく調べれば、原因物質が特定できると思います」
シキカがヤグラの推理に頷き、応えた。
「なるほど、だが疑問が残る」
「なぜベトベトンが被疑者に反撃をせずに、補助技を用いたのか。でしょうか?」
「ああ」
「それでは警部、このエックス線写真を見てください」
シキカが抱えていた資料の中から、一枚のペーパーをヤグラに渡した。
「……、何かベトベトンの中心に核のようなものがあるな?」
「ええ、何だと思います?」
「いえ……、さっぱりです。ベトベトンには内蔵器官のようなものは無かったと思いますが」
「楕円形みたいですね」
ハスダが横から覗き込んで、そのままの感想を述べた。
シキカが好奇心を抑えきれないような顔で、返事を待っていた。
重いまぶたが閉じないように、写真とにらめっこをしていたヤグラだったが、はたと衝撃の表情を浮かべ、感嘆の声を上げた。
「まさか……、タマゴか!」
「その通りです!」
シキカの笑顔がはじけた。
「驚いた、タマゴを守っていたとは……」
「このベトベトンは生まれてくる子どもを守っていたんですよ」
「メスのベトベトンだから、お母さんだったんですね」
ハスダが驚きと慈愛に満ちた声を震わせた。
「子どもを守るために必死だったのでしょう」
シキカが感慨深げに喋る。
「先程、なんとかタマゴを摘出できましたよ。中から声が聞こえるんで、もうすぐ生まれそうですよ……!」
翌朝。署内は事件の捜査に追われて慌ただしかった。画像解析によって明らかになったベトベトンの事件の被疑者が、他のポケモン殺傷事件にも関与している人物であると判明したのだ。
「刺殺から劇物まで、色んな方法で色んなポケモンを虐待する愉快犯ですよ。酷すぎますよ」
「ええ。必ず捕まえてみせるわ。ポケモン関連事件の担当としてね」
署内に泊まりこみ、疲労でやつれ顔のハスダだったが、鑑識官のシキカに心強い抱負を述べた。まだまだ自宅に帰れない日々が続きそうである。
「そういえば昨夜、タマゴが孵ったんですよ!」
「ベトベトンのお母さんの?」
「ベトベトンのお母さんの」
シキカが嬉しそうに、おうむ返しに応えた。
「オスのベトベターでした。やっぱりベトベトンのお母さんの子どもでしたね」
「良い知らせね。でも、その子には親がいないのね」
「命あるだけでも素晴らしいことでしょう。しばらくは私達で面倒を見ますよ。それから野生に返します」
「頼もしいわ、頑張ってね」
「はい、頑張ります!」
シキカが満面の笑みで応えたが、ふと不思議そうな顔をして口を開いた。
「……そういえばヤグラ警部は?」
「警部なら、昨日の鑑定報告を受けてすぐに病院へ行って、今日は一日お休みするそうですよ」
「ええっ、とうとう体調を崩されたんですか?」
「いえいえ。電話の声は、人が変わったかのように元気そうでしたよ」
「そうなんですか、でもこんな大変なときに」
「いいんですよ。一日くらいなら私達だけでもへいちゃらです」
心配そうな表情を浮かべるシキカに対し、ハスダがこれまでの疲れを忘れたかのような笑顔で応えた。
「だから今日一日だけは、妻子を守る良き父親でいさせてあげてください」
お読み頂きましてありがとうございました。前回掲載時は多くの感想を頂いたのですが、無下にする結果となっていしまいました。この場をお借りしてお詫び致します。この捜査五課のお話はまた機会があれば書いてみたいと思います。