第121話 燐火

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 「......着いたっ!!」

 ぱしゃりと大きな水しぶきをたてて、ひとつの赤い影が立ち止まる。
 鬱蒼と生い茂る黒の森、その周りに咲き誇るのは青混じりの紫陽花。 大雨の中、先の見えないその秘境を前にして、アカガネははあはあと荒い息を整える。

 「『思考の残滓』......やっぱ、真面目に読むと疲れるもんだね......」

 ごくりと、乾いた口に溜った粘ついた唾を飲み干す。 けれどもそれだけでは収まらない喉の渇きが、彼女の言葉を重くさせていた。
 ......オロルが常に思考を回し続けるポケモンで助かったと、これほどまでに思ったことはない。 彼がもし無心で走っていたのなら、恐らくこうはいかなかっただろう。

 ここまでの道に尾を引いて残っていた、彼の絶え間ない思考の波──といってもうっすらと残っているに過ぎないそれを、持ち前の強いサイコパワーで必死に拾い集めることで、彼女はやっとここまでやってきたのだ。
 こんなことまで出来るのか、と思うかもしれない。 しかし実際はそうではなくて、寧ろかなりの力業だ。 とある兄妹の童話に出てくるような、いつ食われてもおかしくないパン以上の不明瞭な手掛かり。 それを絶えず探し続けてきたわけだから、当然ながら物凄く疲労は溜まる。
 ここからまた長い道のりが続くと思うと、正直暗澹たる思いがしたが。

 「......でも」

 アカガネは、汗とも雨とも見分けのつかない頰の水滴を雑に拭う。
 思考の残滓は、まだ残っている。 地面を静かに這う、氷の霧のように。
 彼は、オロルは──ここにいる。

 アカガネの赤い双眸が、前方を真っ直ぐ睨みつけた。
 怖気がない、訳じゃない。 だけど、それでも。

 「大丈夫、ここまで来たんだ......あたしは、逃げない!!」

 どうか、無事でいてほしい。
 それだけを願い、アカガネはまた一心不乱に森の方に向かって走り出した。










 「......謀ったな」

 冴え渡るオロルの宣言の直後。 ヨヒラはギルガルドの紫の1つ目を狭めては、どこにあるかも分からない口でそう言った。
 その金色の刃を前にしても、彼は動かない。 ケイジュの薙刀を真似て作った氷の鎖鎌は今なお、ヨヒラの身体目がけて掲げられている。

 「欺いたつもりが、欺かれていた、ということか。 随分と、小狡い真似をするじゃないか。
 だが、分かっているのだろうな? 状況は何1つ変わっていない。 私達の武器は、決してあの水晶だけじゃない。
 例えあの少女が守られようとも、貴様がここで倒れれば......その時は、私が貴様を『捕らえれ』ばいい。 そうすれば貴様の感情など、いつでも奪い取れるんだぞ?」
 「......」

 捕らえる。 その言葉に、彼の頭の中にとある赤と白の道具が浮かび上がる。
 そうして、歯を食いしばった。 勿論、予想はしていたけれど。

 「今の戦いを見ても、実力差は歴然だ。 貴様はあの相棒の少女がいなければ、何も出来ない。 何も為せない。
 ......笑わせる。 意思無き者が、この私に勝てるとでも?」

 持ち上げられた氷の狂器を前にして、しかし彼女はほくそ笑む。
 それは、この鎌を取るに足らないものと見ている証だ。 彼女はそれ以上の、こちらの抵抗を完全に停止させうる道具を持っている。
 きっとそれに比べれば、こんなケイジュの薙刀の「模造品」など、貧相な草刈り鎌に過ぎないのだろう。

 ──貧相とて、舐められたものだ。
 持ち手さえ成熟すれば、そんなもの関係ないのに。
 
 「舐めるなよ......お前とて、同類だ」

 そうだ、意思が無いというのなら、彼女だって同じなんだ。
 ケイジュの願いに盲目的に従い、自分そのものの願いを放棄している──つらつらとこちらの精神を削る言葉を並べ立てる彼女は、果たしてその事実に気づいているのかいないのか。
 気づいているのならば、彼女は実質今の自分と同じ土台にいる。 それはそれで勝機を考えればいい。 しかし、もし気づいていないのならば、それまでだ。
 自分は、気づいたんだ。 大切な仲間の、沢山の叱責を貰ってやっと。 故郷を滅ぼして、かつての友の心にこんなに恨みを積もらせて......そんな孤独かつ哀れな相手に、腕っぷしではともかく、心で負けるわけがない。

 軽く、深呼吸。 オロルは、背後にある氷のシェルターの方に軽く振り向いた。
 その中には、尚も苦悶の顔を浮かべて眠るライチュウ。 その苦悶はきっと、傷のせいだけではないんだろう。

 「......ライチュウさん。 僕には、貴方の悪意を否定出来ない」

 そう、彼は知っている。 その焼け付くような感情が、全くの異端ではないことを。
 皆を守るために自分の命を犠牲にするとか、太陽みたいになりたいとか、彼の周りにはそんな無謀かつ大それたことを考えるポケモンばかり。 彼女の悪意だって、異常なものとは、言えない。
 それ自体は認めつつ、けれど彼は。

 「でも、貴方の私刑を認める訳にもいかない。 ヨヒラを裁くべきなのは、そんな悲しいものじゃない、はずだから。
 ......これが終わったら、洗いざらい話してもらいますから」
 
 それだけ言い残して、オロルは前へと視線を戻した。 レオンがジュリに向けていた思いと同じだ。 眠っていてもどうか、少しは届いてくれますように。
 オロルは首元のスカーフを整え、得物を構えて、ヨヒラに集中する。 言うべきことは言った。 ならば。

 「ふん、終わりか。 貴様の望む終わりなど、来るとでも?」
 「......そんなの、やってみなきゃ分からないだろう!?」

 ──ならばあとは、恨みっこなしの実力勝負だ。









 「[はっぱカッター]!!」
 「[スピードスター]!!」

 また、ここにも迸る閃光が2つ。
 ユズがラケナに力強く宣言した直後のことだ。 ノータイムでほぼ同時に放たれた無数の葉っぱと星達が、小さな病室を駆け巡った。
 布団に潜って身を隠せるイリータはともかくとして、丸腰のラケナには逃げ場がない。 部屋そのものが狭いならば尚更だ。
 少し攻撃が苛烈さを増せば、行っては返ってくる刃の破壊力が何倍にもなって迫り来る。 カーテンに隠れようにも、薄氷のようなこの薄い布で一体どうしろと。
 となると逃げ場は、外にしかないことになる。

 「......にょおっ!!」

 攻撃から逃れるべく、ラケナは開いていた窓枠から外へと飛び移った。
 これを読んでいたと言わんばかりに、キラリが「よしっ!!」と言い放つ。 まずはイリータが狙われる状況を作らない、これが最優先事項だったから。

 「ユズ、追うよ!!」
 「勿論! ......イリータ、さっき言った通り!!」
 「え、ええ!!」

 イリータが焦りながらも頷くのを見届けて、ユズとキラリは続いて窓枠から外へと飛び降りる。
 すたっと華麗に着地を決めたと思ったところに、一足先に地面にいたラケナの攻撃が飛んでくる。

 「[いわなだれ]!!」

 着地地点に向かって降り注ぐ尖った岩の群れ。 2匹は飛び上がってはそれを回避して、各々光の刃を構える。

 「[リーフブレード]!!」
 「[スピードスター]!!」

 ユズは頭の葉っぱを、キラリは手に持った大きな星を、剣のようにラケナに向かって振り下ろす。
 しかし、キラリはともかくユズの技は他のポケモンの真似事に過ぎない。 ラケナのもふもふの手はあっけなくその光を遮っては、なんと弾き飛ばしてしまった。 それでもユズ達はめげずに、ラケナをイリータの元にはもう一度行かせまいと、奮起しつつ攻撃を仕掛けていく。

 「夜なのに元気じゃのう、まさか待ち構えているとは思わなんだ!」
 「......ライバル、舐めないでよね!!」

 キラリは力を込めてそう叫んでは、もう一度ラケナに技をぶつける。 今度は、ドラゴンに効果抜群の吹雪を纏った尻尾で。

 ......確かに、少し骨が折れる作業ではあった。 面会時間外の病院に張り込ませて貰うよう、医師達には何度も頭を下げねばならなかった。 イリータは割とすぐ納得してはくれたけれど、それでもまさかこんな静かな病院に敵が乗り込んでくるなんて、半ば信じられていない様子だった。
 当然だろう、それはそうだ。 「イリータを守って」──オロルのこの一言だけでここまでの経緯を想像するなんて、普通に考えてでっち上げにも等しい話だ。

 それでも、信じざるをえなかった。
 例えアカガネに止められたとしても、踏み出さざるを得なかった。
 強い願いが、炎のような感情がなびいていた、その言葉──それは疑いようもなく、彼が自分達に託した希望の光。

 だから、引き返した。 だから、彼の願いに準じた。
 もしかしたら本当に、イリータに未知なる危険が迫っているかもしれなかったのだから。
 あれは、彼なりの自分達へのSOSだったのだから。

 「大切な友達だもん、ライバルだもん!! 助けを求められたなら、私達はいつだって駆けつけるっ!!」


 そう、それはあまりにも彼女達らしい、単純な理由。 彼女達にとって、十二分に戦う理由になり得たもの。
 ──彼が自分達を信じて、頼ってくれたから!!


 「ライバル、のう......全く、青いもんじゃ!」

 ラケナは叩きつけられた冷たい氷の尻尾を、今度は少し苦しみつつもはじき返す。
 キラリが着地すると同時に、3匹の世界は一瞬停止する。 そうして、彼ははあっと、髭まみれの口から白い息を吐いた。

 「......ヨヒラちゃんの口ぶり的に、良い感じに裏をかけるんじゃないかと思ったんじゃがな」
 「え」
 「イリータちゃん、じゃったな? あの寝床にいたポケモン。 まともに動けず、かつ守りが最も手薄になっているのなら、標的としてはそれが1番丁度良いんじゃ。
 忠実な騎士は、今や遠い紫陽花の地じゃしの」
 「ヨヒラ......紫陽花......?」
 「──っ!? まさか、オロルはヨヒラと!?」

 ユズが驚愕の声を上げると、ラケナはくすりと微笑んだ。 しかし、そこから彼は冗談めいた風に肩を竦める。

 「そこはご想像にお任せするぞい。 正直、ワシはヨヒラちゃんの思惑は知らん。 興味がないと言った方が正しい。 自分と同じ駒の過去に、わざわざ首を突っ込む気はないんじゃ。 こんな長い首の持ち主でものう」
 「......っ」
 「だが安心するといいそい。 分かっての通り、あの子の元にあの黒の水晶はない。 お主らみたいに2つに割るとかいうチートはしとらん。
 つまり、奴の感情は奪えないということになる。 だから大丈夫じゃ、お主らの1番恐れていることは、すぐには起きんよ」

 それを聞いて、キラリはひとまずほっと胸を撫で下ろす。 1番恐れていること──自分達のいないところで、知らぬ間に感情が奪い取られればと思うと、気が気でなかったから。

 「でも、ラケナさん」

 でも、だからといって安心は出来ない。 その証拠に、キラリの表情もすぐさま引き締まったものに戻る。
 当然、それはユズも同じ。 彼女はひりつく口調で、ラケナにその理由を告げる。


 「......私達の邪魔がなければ、あなたは彼の感情を奪うんでしょう?」

 
 ──その瞬間、ラケナがにやりと嗤った気がした。

 2匹は身体を強張らせて構える。 ラケナは不気味な笑みのまま、その懐に手を入れた。 そこから、黒い靄が溢れているのが見える。 キラリの鼻には、つんざくほどの絶望の香りが伝わってきた。
 ......この黒は前と同じ、いや、下手したらもっと。

 「......弱ったのう、ケイジュには、もう何も言われなくなってしまった。
 ユズちゃんを取り戻せとも、魔狼の力を奪い取れとも。 結晶を渡されても、そこに明確な命令はなかった。 ......つまりはもう、ワシらの好きにしていいってことじゃ。
 結晶さえ無事なら、ワシがどうなろうと、ヨヒラちゃんがどうなろうと、奴の破滅願望は叶えられる。 フィニのようにいなくなっても、きっと咎められはせんじゃろう」
 「......おじいちゃん。 なら、なんで!!」
 「何故......? ふ、くはははは!! 今更ワシにそれを聞くか!!」

 ラケナは頭を抱えて大笑いする。 動揺する2匹に向かって、彼は大ぶりなアクションで問いかけた。
 そうだ、理由なんて、決まっているんだ。 彼の行動原理は、元より1つしかない。

 ──その溢れんばかりの、狂気にも繋がる好奇心。

 「奴も性格が悪い、ワシらがこれを捨てられないのを分かってて、この結晶を託してきたんじゃから。
 今ワシがここで全てを放棄したとしよう、しかしそれじゃあ、ワシの願いはどうなるっていうんじゃ? ワシの心は、どうしたら満たされる? なおも続く生の中で、ワシはどう悦楽を求めれば良いのか!」
 「そ、それは......」

 ユズ達は答えられない。 もっと言うと、彼にとっての正解の答えを、導き出せない。
 それを、彼は分かっているから。 これ見よがしに口元に弧を描いては、叫ぶ。

 「ワシは、ワシはただ見たいだけなのじゃ!! 命の、意地と意地とのぶつかり合いを!! 世界を賭けたそれほど大きいものが他にあるとでも!?
 お主らは答えられるのか? 狂気に手を貸すこのまたとない背徳感を、それにひたむきに立ち向かう者達の光を浴びる快感を、他にどのようにして得ようと言うのか!!」

 ──そうして掲げられた、黒い光。
 怨嗟と絶望が渦巻いた、知っている相手の苦痛も込められた、その結晶。

 「ワシは、個々の過去に興味は無い。 絶望も、世界も心底どうでもいい。
 ワシに悦楽を、これ以上無いほどの興奮を与えてくれるのは、ケイジュと......ユズちゃんキラリちゃん、お主らじゃよ!!」

 それを前にした金色の光を宿す瞳は、その闇に負けないぐらいに、とても生き生きと輝いていた。

 







 その頃、イリータは病室を飛び出しては病院の廊下を走っていた。 ユズ曰く人間の世界にはナースコールなるシステムがあるらしいのだが、あの世界の常識がこの世界の常識と同じとは限らない。 大人のポケモンを呼ぼうとするならば、遠くにある医務室にまで助けを求めに行く他なかった。
 しかしその最中、中庭の方の窓からどんと鋭い爆発音が聞こえた。 彼女はびくりと跳ねてはすぐさまその窓へと張り付き、遠くの方で立ち昇る土煙の方に釘付けになった。 すると小さいけれど、その煙から3つの影が飛び出してくるのが分かる。 同時にその周りで舞い踊る、見知ったライバルの技達も。

 やはり、ラケナは強い。 遠くからでも、ユズ達が時折押されているのがよく分かる。 時々大きな黒い稲光が見えるのは、あの黒に染まった虹色水晶だろうか。 もしあの土煙がそれによるものだとしたら、その力はもしかしたら、ジュリを取り戻そうと戦った時を上回っているのかもしれない。
 でもユズ達もユズ達で、彼をこの病棟に近付けまいと、追い出そうと一生懸命奮闘していた。 それが表すように、ここには火花の1つすら寄ってこない。

 「......私を守って、か」

 イリータは戦いを見つめながら復唱する。 それはユズを通して告げられた、オロルが残していった言葉だった。
 面会時間を終えてからユズ達が病室にやってきた時は、それはもう驚いたものだった。 それだけでも聞きたいことは山のようにあったのに、自分が狙われているやら、ここに今夜張り込ませて欲しいやら、訳の分からないことばかり口走って。
 ジュリの件もあったことだし、心配性になるのは分かるけど。 そうイリータが呆れて布団に潜りかけたその時、ユズは言ったのだ。
 ──「オロルに、イリータを守ってって言われたんだ」と。

 耳に突き刺さったその言葉、イリータは被りかけていた布団から抜け出しては、どういうことかと真っ先に聞いた。 しかし彼女達も、オロルの言葉の真意までは分からないらしい。 そもそも、今の彼の動向すらもまともに掴めていないのだとか。
 けれど彼女達は、このたった一言から彼の願いを察そうとしていた。 彼が何をして欲しいのか、彼が何を託したいのかも、全部。
 彼女らの焦燥と、彼の言葉の解釈。 それらの点と点とが鮮やかに繋がっていく様を感じ取っては、イリータは呆然とすることしか出来なかった。
 
 だって、つまりはこういうことになる。 彼は自身がどんな状況に置かれても、どこまでも自分のことを思ってくれていたのだと。
 仕方なくとか、嫌々とかそんなものじゃなくて。 本当の意味で、自分の身を案じてくれていたのだと。
 そしてユズ達はそんなことまで全部汲み取って、妄想かもしれないという疑念も念頭に置いた上で、自分を助けに来てくれたのだ。

 そうして、現実は本当に彼女達の言った通りになった。 彼女達は今、イリータを守ろうと必死に戦っている。 オロルの言い残した言葉を守るため。 これ以上、大事な相手の感情を奪わせないために。
 あんな、小さな一言。 それも、気が動転した中で発せられた言葉であっただろうに。 けれど、その真意を真っ先に理解したのは、ユズとキラリだった。
 ──ずっと彼の近くにいたはずの、自分じゃなくって。

 ずどんと、また鋭い音が腹に響く。 物思いに耽って俯いていた顔を上げると、向こうには傷だらけになりながら立ち上がる小さな2つの影が見えた。
 ......多分、先に聞いたとか、直接言われたとか、そういう経緯の話じゃないんだ。 多分順番が逆だったとしても、自分はきっと気付けなかっただろう。 その理由が今、窓の向こうにある。
 それは外見の土汚れでは決して打ち消せない、強い意思の輝き。 自分を何が何でも守ろうとしている、決意の煌めき。 外見だけ綺麗で、中身は紙のように柔い自分とは大違い。
 必死に戦う彼女らは過酷な外の世界にいて、傍観するだけの自分はこの安全な籠の中。 こんなものおかしい、そう思わずにはいられない。

 守られて、大事にされて。 沢山の善意に囲まれているだけでも幸せなのに。 その善意が演技や仮初のものじゃないってことぐらい、自分なら分かるはずなのに。
 それなのに、自分はその善意に守られていたこともつゆ知らず、傲慢にもその善意の正体を勘繰っては、事情も考えずにただ1つの答えに決めつけていた。 そんなのまるで、頭だけがご立派な、狭い塔の中に閉じこもったお姫様みたいじゃないか。 外に足を踏み出さなければ、真の理解なんて出来っこないのに。

 一体、どうしてなんだろう?
 自分が1番、そうなることを嫌がっていたはずなのに。

 「......ああ、どうしてかしらね」

 イリータは、呟いた。 それはいつもの大人らしいどこか挑発めいた問い方ではなくて、本当に「分からない」故の問い方だった。

 悪いのは、彼だと思ってた。
 分からない、と思ってた。
 どうして、と思ってた。
 自分からは何も提案してくれないことに、苛ついてもいた。
 彼の心の何もかもが、自分とは隔絶された場所にあるようで、辛かった。

 だけど、違った。 彼が本心を曝け出すのを拒んでいたのは、元々自分の方だったのかもしれない。
 心は、決して1つじゃないのに。 死にたいの裏に生きたいがあるかもしれないように、分からないの裏には、分かるための努力の拒絶があるかもしれないのに。
 彼には彼自身の意思がない。 これは事実かもしれない。 でも彼は、もしそれに気付いていたとしたなら、それを見過ごすほどに薄情なポケモンだっただろうか?
 もしかしたら、彼の中にはもっと複雑な心理があったのかもしれない。 だったらあの時すべきことは、感情に任せて怒鳴り散らすことなんかじゃなかった。 ユズの言う通り、ちゃんと話し合ってみるべきだった。 テレパシーのことも、自分達のことも。 とことん話して、互いに理解を図るべきだったんだ。
 本当に信じ合う相棒だというのなら、そうするべきだった。 あまりにも独りよがりだった。

 ......本当に何も、何も変わってない。
 1匹きりで病室に引きこもって、物言わぬ本や庭の植物のみを友としていたあの頃から。

 「──そういう、ことなのね」

 すると、ふと過去の印象深い言葉が脳裏に浮かんできた。 きっとそれがこの胸の痛みの答えなのだと悟り、彼女はふっと納得の言葉を漏らす。
 なんて皮肉なものだろう。 これ以上ない言葉を、他でもない過去の自分自身が残してくれていただなんて。
 よりにもよって、彼に向けての言葉で。

 「[ドラゴンクロー]ッ!!」
 「[まもる]、[エナジーボール]!!」

 ──悪いのは、彼だと思ってた。

 「[スイープビンタ]っ......そっから、[トリプルアクセル]!!」

 ──彼が自分自身に盲目だったのが、全て悪いと思ってた。
 全部、全部、彼の責任だと思ってた。

 「......」

 嗚呼、でも違った。 自分は、なんて勘違いをしていたのだろう。
 その壮大めいた怒りは、単に自分が勝手に彼を1つの枠にカテゴライズしていただけのこと。 自分が出した、自己中な答えに過ぎないだけのこと。 自分はそんな勝手なものに、彼を知らず知らずのうちに縛り付けていた。 そしてそれに気付かれなかったから、自分達はここまでやってこれていた。
 けれど、その理解のズレが。 その独りよがりな考えが。

 それこそがこの埋め切れない溝を、致命的な間違いを生み出したんだ。


 「......凍っていたのは、私の方なのね」


 騎士の心に「完全」を求めた、高飛車で、しかし臆病なお姫様。
 ずっと守られ続けていたのだということにも気付けずに、自分はずっと、無意識のうちにそれに甘えたままで。
 ......それでいて、言葉と中身のない夢だけはずっと、達者なままで。

 イリータは、知らずと自分の口の中を噛んでいた。 綺麗こぶった白とパステルカラーの体色を、内側から汚れた赤で染めていく。
 握る拳もない中で自分に与えられる罰なんて、これぐらいしかなかったから。
 彼女は黙って、蹄を軽く窓に触れる。 せめて爆音による振動だけでも、感じたかった。 出来ることなら一緒に、戦いたかった。
 そうして彼女は暫く、激闘の繰り広げられる窓の外を見つめていた。 見つめることしか、出来なかった。

 ──その轢き潰された悲しみを癒すのは、窓から差し込んでくる、あの彼にも似た月光だけだった。













 状況は、あまりにも劣勢だった。

 雨の降る廃墟の中、その天候を利用して数多の雷が降り注ぐ。 崩れかけた屋根の上、小さな電気鼠が手を振り上げれば、それは狙い済ました場所に音を立てて落ちていく。 その様を形容するとすれば、それは槍。 神様が空から落とす、天焦がす光の槍だ。
 紫陽花と廃墟の群れに紛れ、ちょこまかとその雷撃の槍を躱し続ける白い影。 しかしその暴威に対抗しようと放たれる氷雪は、その荒れ狂う嵐と比べればお粗末で、ほんの些細なものだった。

 「......ぶはっ!!」

 オロルが跳び上がれば、さっきまでいたはずの地面に雷が落ちてくる。 彼自身は前に一回転して、焦るばかりの身体の勢いを止めた。 しかし、そうしている間にも次が来る。 痺れる静電気を感じながら、オロルは舌打ちをして逃げる他なかった。 その身体は、既に無数の傷に溢れている。 雷が掠って焦げた跡もそこには含まれていた。
 けれど、逃げるだけでは状況は好転しない。 雷の隙間を縫うように走っては、遂に崩れた家屋を通じてまだ辛うじて残っている1つの屋根に飛び乗った。 そうしてまた別の屋根を伝いながら、悠々とした様のヨヒラの元に滑り込む。
 足下を狙え。 本能が叫ぶその声に従い、オロルは再び氷の鎖鎌を手にしては、鎖で足場に沿うように円を鋭く描いた。

 しかし、身軽なヨヒラは跳んでそれを縄跳びの要領で避けるばかりか、鎖を操るのに必死なこちらに向かってエレキボールを撃ってくる。 鎖は屋根を這っている、両前足はそれで塞がっている。 自らを守る手段も得られないまま、その痺れる雷球はこちらへと迫ってきてくる。

 「......[エナジーボール]!!」

 球には球を。 自分の覚えている技を総動員して考えた結論を以て、彼は目の前の電撃を命の球で相殺する。
 だけど、その威力は当然ユズほどじゃない。 技を使う時の集中力だって、得意な氷技に比べれば何倍も要る。 疲労の溜った身体にとっては、それは大きな隙を生む選択肢に他ならなかった。
 ならどうするか。 その隙を感じさせないぐらい、早く動けば良い。

 「[こおりのつぶて]!!」
 「......っ、[みがわり]!」

 それはコンマ数秒の差。 オロルが放った氷の礫は、ヨヒラを直撃するぎりぎりのところで身代わりのぬいぐるみに当たっては、内側からその綿を散らす。
 するとオロルの背後に、黒い影が降りてくる。 咄嗟にオロルは刃の方を盾にして振ってくる殺気を跳ね返そうとする。 御名答、粗い刃は確かに何かを弾いた。 感覚からして、水の短い槍。
 気配は上、見上げると近くの木の枝には舌を首にスカーフのように巻きつけた水タイプの忍びポケモンの姿があった。 その手に持つのは感覚の通り、水のクナイ。

 オロルは反射的に飛び上がっては、氷の刃で直接その細い身体を狙う。 しかしゲッコウガはその素早さを1つの魅力とするポケモンだ。 ハイドロポンプを下に撃って枝から高く飛び上がっては、今度は上方向に撃って勢いよく急降下し、水の刃でこちらに向かってくるオロルを叩き落とす。 空中に浮いた身体、当然逃げ場などありはせず、突っぱねられた白い身体は地面に強く打ち付けられた。

 水浸しの身体で、オロルは辛くも起き上がる。 その目はまだ、光を失っていない。 それを知ってか、今度はヨヒラが彼の元へと襲いかかる。 彼に向ける、強烈な害意を握りしめて。
 けれど彼は怯まず、水だらけというこの環境を最大限利用する。 水はこんなにある、すなわち氷の材料は無限にある。 冷気を迸らせては、周りの地面を凍り付かせた。 氷の粉塵が、彼の周りで加速していく。 じわじわと広がる冷気は、雨すらも凍り付かせていく。 硝子のように舞う鋭い氷の風が、廃墟の片隅を覆い尽くしていく。 その冷気の範囲内に入ったヨヒラは、どこか背中をなぞられるような悪寒を感じた。

 「......これなら、どうだ!!」

 気合いの叫びと共に、オロルは渾身の吹雪を放つ。 雨で命中不安とはいえ、これだけ雨粒すら凍らせる冷気をあたりに張り巡らせればどうなるか。 雨の影響も、少しは消えてくれるだろう。
 すると、効果は覿面てきめんだった。 こちらに向かって真っ直ぐ突っ込んできてくれたヨヒラは、避けることも出来ないままその嵐をもろに受けた。 ここまで氷の特殊技をあまり使ってこなかったことが、彼女の油断に繋がったのかもしれない。 直接水晶を奪い返そうと躍起になっていた序盤の動きが、ここでやっと報われた。

 やっとのことで当たった攻撃を通して、オロルの思考がふっと鮮明になる。 大丈夫、大丈夫。 こいつは決して無敵なんかじゃない。 倒せるんだ、このポケモンは。
 こうしないといけないとか、余計なことは考えなくていい。 自分がこいつを、倒せれば良い!!

 「くらえぇっ!!」
 「......っ!?」

 勢いのままに、オロルは再び鎖鎌を手に取る。 刃を振り下ろしては、ぎりぎりのところで水のクナイがそれを防いだ。 でもまだだ、もしかしたら、この水を破ることも出来るかもしれない。
 冷気を再び鎖鎌を通して発しては、水のクナイは少しずつ凍り付いていく。 脆い氷になるように温度調整も加えれば、段々と切れ込みが入っていく。
 いけるかもしれない、そんな希望がオロルの心に入り込んだ、そんな時だった。

 ──ぞっと、聴いたことのない低い声が、彼の白い耳を舐めつけた。

 「......舐めるな、この、小童が......!!」

 ゲッコウガの声帯、いや違う。 もっと、もっと異質な声。
 彼女であり、彼女でない──ヨヒラという名の「メタモン」そのものの本質を示している、ような。

 ぐにゃりと、ヨヒラのその姿が歪んで消える。 半ば凍り付いていた水のクナイも砕け散り、鎖鎌を押しつけていた力も行き場を失った。
 どこに行った、と探し始めたその瞬間。

 「貴様などが、この私を、潰せると思うな......!!」

 丁度前方、形を為していく、灰色の暴威。
 大事なポケモンの感情すら奪いとった全ての黒幕の姿をとって、ヨヒラはオロルの前に現れ、接近しては。
 ──その白い毛に覆われた脳天に向かって、狙い撃ちを放とうとする。

 「......っ!?」

 死にも直結する水の銃撃を、オロルはなんとか伏せることで回避する。
 が、そこにもまた黒い指が待ち構えていた。 今度は横に躱すが、しかしそこにも。 待ち構えていると言ったけれど、多分きっとそうじゃない。 彼女の動きが、速すぎる。

 気付けば、身体に知らない切り傷があった。 ふと横を見れば、棘を纏った長い水色の尻尾がある。 あれに切り裂かれた、と思う時には既に遅し。 次の攻撃が、頬を殴りつけた。 単純な打撃、でもそれでも痛いと思えるぐらいには、自分も弱ってきているし、何より相手が強さを増してる。
 何か、触れてはならないものに触れてしまった感覚を感じて、ぞっとする。 飛び回る水色の影は、雨の加護もあり、着実にオロルの身体に刻み込まれる傷を増やしていく。
 こちらは、何も出来ていないのに。 さっき与えられたたった一度のダメージの喜びが、煙のように消えていく。

 「──さあさあ、その程度か!! 彗星の残り滓め!!」

 あの冷静ぶりが嘘のように、こちらを煽る彼女の言葉。 それに挑発されて、攻撃を受けるばかりだったオロルの闘志は再び燃え上がる。 しかし、いざこちらが攻撃を仕掛けても一切彼女に当たる気配がない。 鎖鎌でフェイントをかけて遠隔攻撃を仕掛けても、お見通しと言わんばかりに狙いを外されてしまう。
 自分だって、頑張ってはいるんだ。 頑張っているのに、届かないんだ。 それが、とても悔しく感じる。 虚空を掠めるだけの攻撃に、苛立ちと焦りが加速する。
 彗星の残り滓、自分は確かにそうかもしれない。 だけど、他のポケモンからそう揶揄されるのを、受け入れる事なんか出来なかった。

 ──よくも、否定しやがって。 自分達の歩いた道を、全否定しやがって。
 こんなの、イリータへの侮辱にも等しいじゃないか。 自分はともかく、彼女は本気で探険隊になろうと頑張ってきたんだ。 病弱な自分を乗り越えて、互いに高め合って、努力しあって。 少なくとも彼女は、これからも輝ける。 自分とは違って、確固たる意思を持っている彼女ならば、自分がどうなろうとも、まっすぐ自分の道を進んでいくことが出来るだろう。

 それなのに、その果てが、残り滓だと? もう自分達が、砕けているだと? ......自分にとっての輝く彗星である彼女を、否定するだと?
 そんなの、許せない。 例えこれが単に自分に向けての侮辱に過ぎなくて、ただの曲解に過ぎないとしても。 それでも彼女への侮辱となりうる言葉だけは、許せない。 一発喰らわせてやらないと、どうしても気が済まないんだ。

 ......なのに、なのに!!
 
 「~っ、なんでだよっ!!!」

 届かない刃に、遂には投げやりな言葉すら口から飛び出した。
 あと1歩足りれば、しかし届かない。 あと数秒早ければ、しかし遅すぎる。 気まぐれに一筋の希望を見せられては、だがそれは少しもしないうちに消えていく。 まるで揺れ止まるを繰り返す猫じゃらし、または雲隠れした太陽のように。
 いや、希望なんてものはそもそも元からあっただろうか。
 だってこの場所は、青い血に彩られた紫陽花しかなければ。
 光すらも、望めないくらいに。

 ──こんなにも、こんなにも。
 空は明けることのない、厚い雲に覆われているのに。

 「うがっ!?」

 その焦りこそが、大きな隙だった。 今度は鋭いマニューラの蹴りが、オロルの身体を弾き飛ばし、幹へと背中を打ち付けた。 息を整える暇もなく、その幹に貼り付いた身体に彼女の尖った爪が迫るのを、オロルは咄嗟に氷の鎖鎌の鎖の部分で受け止める。
 めいっぱい張った鎖から耳に爪のぎりぎりという音が迫り、突貫工事の氷はみしりと苦しそうな音を上げた。 どこからどう見ても追い詰められている、もうどうしようもない絶望的な状況下。

 (負けたくないっ......負けたくない!!)
 
 だけど、見出すしかなかった。 外側に希望がないのなら、自分の内側から希望の断片を探し集めるしかなかった。
 潰されたでもない、外から均されてしまった訳でもない、けれど未開拓の白い荒野の中を、進んでは拾い、進んでは掴み──そんなことの繰り返し。 その断片がいずれ自分の中の光になると信じて、必死で彼はそれをかき集める。 戦う、諦めないその理由を。
 例えそれが、他から見てお粗末なものでしかなくても。
 ......例え、やけっぱちとしか呼べないものであっても!

 「〜〜っ!!」

 やるしかない。そうオロルが、強く歯を食いしばると。


 ──激しくうねる熱が、彼の口元を熱く燃やした。


 「......[めざめるパワー]!!」
 「っ!?」

 突如オロルの口元から吐き出された赤い火炎に、ヨヒラは防御の姿勢を取りながら面食らう。 まさか、炎タイプの技が飛んでくるなんて、夢にも思ってなかったみたいに。
 でも、そのまさかだ。 そもそもあの時ムウマージに、技マシン自体は貰っていたのだ。 うまく使えるかは別として、いつか役に立つ日が来るかもしれないと信じて、技だけは予め覚えておいてあった。
 ヨヒラの今の姿はマニューラ、紛れもなく氷タイプだ。 ゾロアークなんかと違って、メタモンは変身時にその対象のタイプをそのまま引き継ぐ。 不意打ちでもあり、効果抜群の打撃でもある。 ずっと劣勢だった中で掴んだ、恐らく最初で最後のチャンスだったかもしれないもの。
 だが、しかし。

 「......けほっ、げほっ......!」

 技を出し終えた直後、オロルは激しく咳き込んでしまう。 当然のことだ。 氷タイプの喉に、燃え盛る熱の煙は堪える。 だからこその、自分自身へのダメージを覚悟しての起死回生の一手である、はずだった。
 しかし、ここでこの大雨が憎い。 降り注ぐ雨は炎の力を弱め、ヨヒラに燃え移った火炎はあっという間に消え失せてしまった。 あまりにも、代償に見合わないあっけなさ。
 ああ、なんてみっともない。 こうなることは、予め分かりきっていたはずなのに。 ここまで諦めたくない思いが先行すると、こんな無謀な行為にすら走れてしまうのか。
 
 ──そうだ、諦めたくなかった。 今確かに自分の中で、燃え盛っているこの熱。 それを捨てることなんか、出来なかった。 自分の未来を、命を捨てるなんてなおのこと。
 多分、ジュリはそうじゃなかった。 大事なみんなを巻き込まないために、みんなを守るために、自分の命を投げ打ってまでケイジュに1匹でも勝とうとした。
 だけど、自分は、死にたくなかったから。 生きていたいから、戦いたかった。 ちゃんと勝って、生き延びて、ライチュウを病院まで送り届けて。 そしてイリータに、みんなに会って──自分がいじけた故の不始末を、非礼を、真正面から詫びたかった。

 その上で、考えたかったのに。 探険隊をやりたいって意思もないくせに、どうしてこんな熱が胸の中で燃え盛っているのか。 なんで自分は、こんな面倒な性格なのか。 その答えを、どうしても導きたかったのに。
 この自分で設けた試練を通して、そのための力を身につけたかったのに。 自分はちゃんと1匹でも歩けるんだって、それでイリータを少しでも安心させたかったのに。 少なくとも彼女がもう、自分の勝手な願いに振り回されずに済むように。

 生きたかったのに。 自分は、死にたくなんかなかったのに。
 ──諦めたく、なかったのに。

 「......っ!?」

 ぴしっ、数センチにも満たないその皹を前にして、オロルは恐慌に目を見開いた。 しかし、同時にこれが自分の蒔いた種であることにも思い至る。 さっきの炎の影響で、鎖鎌の強度が落ちていたのだ。
 恐怖が白い身体を貫く。 それと同時に、目の前のポケモンがにやりと嗤った、気もした。

 ヨヒラはその鍵爪に強く力を込めては、その鎖ごとオロルの身体を斬り裂いた。 氷をも容易く砕く、効果抜群の鋼の斬撃......メタルクロー。

 「がっは......!!」

 胸から足下まで。 顔以外の全身に、焼け付くような痛みが走る。 これだけのダメージとしては死ぬほどじゃないのに、けれど今までの蓄積もあり、彼の身体はもう戦えるような状態じゃなかった。
 立つための力も取り戻せないまま、オロルは地面にくずおれる。 すると、ぬっと目の前に見覚えのある大きな影が見えた。 その影の不自然さ、まるで足と頭を「逆」にしたような感覚に、オロルはぞっとして顔を上げると。

 「いっ、あ゛......!」

 それとほぼ時を同じくして、いくつもの触手が彼の身体を絡め取る。 ぎっちりと固められた拘束の苦しさの中で目をなんとか開けると、そこには予想通り、カラマネロに変身したヨヒラの姿があった。 締め付けられる痛みと一緒に、ソヨカゼの森での絶対絶命の記憶が、頭を駆けていく。

 ──まずい、この弱った状況で、彼女の催眠術を喰らってしまえば......!!

 「さて......もう、前のように助けは来ないぞ?」

 仕留めた獲物を見上げて、ヨヒラは満足げに嗤う。 オロルは動かない身体でなんとか身をよじって脱出しようとするが、まず力も足りない。 至るところが締め付けられているせいで、技もまともには出せなかった。
 焦りばかりが募る中、ヨヒラはその懐から何かを取り出す。 今度ははったりじゃない、色も形もまさしく、本物のモンスターボール。 どうしようにも逃げられず、また活路の見いだせないこの状況では、それは彼にとって破滅の宣告に他ならなかった。
 
 それなのに。

 「......っ!」

 ヨヒラが、痛みで顔をしかめる。 何だと思って見てみると、触手に細かい氷の針が突き刺さっていた。
 こんなの、大したダメージじゃない。 それなのに、こんなにも弱々しいのに、けれどその根源にある意思は──
 ばっと、ヨヒラは顔を上げる。 眼前にて狭められた双眸には、その氷の根元たる光が小さく輝いていた。

 「......嫌、だ......」

 ──ああ、諦めたくない。 負けたくない。
 こんな、無様な姿をさらしても、なお。

 「──ッ!」

 その懇願にも近い感情の傍らで、ヨヒラの身体は憤怒でわなわなと震えていた。 最早、かつての二人称だけでも丁寧だった姿はその面影すら残っていない。
 ここまで実力差を見せつけたのに、行動まで制限して、絶体絶命の状況を与えたというのに。 それでもまだしぶとくも立ち上がるのが我慢ならなかった。 そんなふざけた有様を、認めることなど出来なかった。
 彼女はとうに諦めている。 自分の未来も、何もかも。 だからこそ虫唾が走った。 今目の前で、ひたすら生を希うポケモンの姿が。 それも、自分と同じように、意思を持たない空っぽな心で生きていたはずのポケモンが。
 許せない、許せない、認めたくない。 もし認めてしまえば、今の自分が惨めでならなくなる。

 その目を、輝きを失わないその目を、認めてしまえば。

 「ふざけるな......」

 信じたくない。 彼の願いが、希望が叶うだなんて。 それなら自分の今までの日々や、自分が辿ってきた運命は、一体何だったというのか? ......あの裏切りは、絶望は、一体、なんで起こってしまったというのか?
 
 顔を上げると、あの輝く目が映ってしまう。 ヨヒラはかっと顔を熱くしては、触手に更に力を込めた。
 うっとうめき声が漏れ、その目が鋭く閉ざされる。 それでも諦めずに戦おうとする彼の心を、彼女は今度は言葉で潰そうとする。

 「......何故足掻く? 貴様に助けなど来ないのに。
 奇跡は起こらない。 こうしていれば、貴様はいずれ力尽きる。 ケイジュ様が世界を滅ぼせば、あの少女もいずれ後を追ってくる。 それなのに、何故生を頑なに求める?
 その先には、何もないのに。 貴様の綺麗事など、叶わないのに」

 これならば、と思った。 しかし予想に反して、オロルの抵抗は止まない。 ぐぐぐ、と身体を触手からせり出しては、片方の前足だけがそこから脱出する。
 青白い、血色の失せた顔。 視界はもう、はっきりとしているのかも分からない。
 それでもオロルは目の前にある触手をその前足で掴み、微かに開いた喉で反論する。

 「それ、でも......!」

 しかし、その決意が。
 その決意こそが、ヨヒラの心を粉々になるまでに砕き壊した。

 「──やめろ!!」

 そしてオロルは、再び不自由を思い知る。 更に太い触手が、二重になって脱出しようとする身体を締め付けた。
 痛みに叫ぶ眼前のポケモン、きっと、精神をいたぶるどころの話ではない。 しかしヨヒラの頭に、最早そんな思考はなかった。
 ただ、否定しなければならない。 その思考のままに、彼女は言葉を吐き散らす。

 「.....やめろ、その目をやめろ!! 貴様の綺麗事にはもううんざりだ!!
 諦めなければ? こちらの手を取れば? 馬鹿馬鹿しい、それに何の意味がある!? 綺麗事は単なる綺麗事でしかない!! 希望だと!? 未来だと!? 奇跡だと!? そんな不確実なものに、何故縋らなければならない!?
 例え手を取ったとしても、願いなんて叶わなかった!! 思いなんか通じなかった!! 他者と分かり合うなんて、出来る訳がなかった!! どんなに希望を願っても、そんなもの一度も叶わなかった!! 全部、無意味なものでしかなかった!!
 
 ......私は、私は!!」

 背後、偶然にも、それは目と鼻の先。
 氷に守られて眠る、かつての友が与えたノイズに苦しみながら。


 「......私は今ですら、それに裏切られたんだッ!!」


 言い終えては、ヨヒラははあはあと荒い息を吐く。 雨の中で呼吸を整えては、歯を強く食いしばった。 もう戻れない、希望の道を唾棄して。
 自分とは違い、抱いた願いを叶えられる者がいる。 この世界で、自分以外の者が幸福を知り、謳歌している。
 その事実が目の前にあることが、あまりに許せない。 それが自分がこんな種族に生まれたためだというのなら、もっと許せない。
 世界も、ポケモンも、何もかも。

 ──だから、貴様も。

 「......ケイジュ様による破滅への計画は、着実に進行している」

 ヨヒラは俯いたまま、低い声で呟いた。

 「あのポケモンは、実験台としては最良の役割を果たしてくれた。 あの結晶は今も尚、ポケモンの感情を奪っては取り込み続けている。 貴様を、貴様の相棒を狙ったのは、その一環に過ぎない。 ただの役割分担に他ならない。 私『達』は計画をつつがなく進めるためにこそ、ここに集ったのだから。
 もう誰にも、私達の滅びは止めさせない。 止められない。 ──だから」

 フィニとラケナ、ケイジュの影が、両者の頭の中に過ぎる。 ああ、それがただ悲しみを利用されているだけのことなのか、それとも本当に自分の意思で、彼女は滅びを選び取っていたのか。
 血の気の失せた頭では、もうそれすらも、分からない。

 「貴様も、私と同じになる。 貴様の願いは叶わない。 ──私が、叶えさせない」

 そう、彼女は宣言する。 その激情に染まった闇色の瞳が、影の中で潤んでは揺れていた。
 言葉には表れない、雷のような脅迫。 ヨヒラはその言葉を体現するように、手に持つモンスターボールを構える。 もう待つ理由など、ここにはない。

 「......ケイジュ様からやり方は教わった。 このまま貴様を、ボールに閉じ込めることも出来る。 しかし、そこから感情を奪い取るには、恐らくそれだけでは不十分だ。
 貴様は、あまりにも諦めが悪い。 あのポケモンの時のように、自身の1番望まぬ光景を見せるだけでは足りないだろうな。 ......仲間とやらに、強い信頼を置いているならば」
 「......っ」
 「ならば」

 ぎしっ、自分の前足から嫌な音が鳴り響き、それと同時に電撃のような痛みが身体を駆け巡る。 悲鳴を上げれば、なお締め付けられる痛みも一緒に声として流れ出してきた。 これは、確実に、どこかが折れた。
 苦しい、痛い、離してくれ。 最早痛みしか届かないその瞳に、ヨヒラの闇が移ろった。

 待つ理由などここにはない、はずだった。
 しかしヨヒラはモンスターボールを一旦引っ込めては、「......そうだ」といいことを思いついたかのように不気味に笑う。

 ......そして、その目が輝きだした。
 逃れられない黄色の光が、必死に抗うオロルの眼孔を捉えてしまう。 それこそが、命取りだった。


 「......絞め潰してやろう、私の記憶で。 それこそ、起き上がることすら出来ないまでに。 自らの無力に、打ちひしがれるまで」
 「っ!! や......め......」


 私の記憶。 その言葉にオロルは一瞬抵抗するが、それも束の間。

 掠れるような制止も届かないまま、ぐにゃりと捻れた視界を最後に。
 ──オロルの小さな心は、彼女の催眠に瞬く間に引きずり込まれていった。













 ──そうして次に見えたのは、紫色の紫陽花が咲き乱れる、小雨の降る小さな集落。

 そしてその隅っこにある、昏い洞穴と......微かに蠢いた、紫色の粘体だった。













 流れ込む、承認も、当然拒否などなく。
 青い紫陽花に焼き付いた、紺碧の影の記憶が。

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