雨に歌えば......
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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
雨音は、空からワタシたちに贈られる拍手だ。
ある小さな島に、歌うことが大好きな小さな少女がいた。 暇さえあれば、人気のない小さな砂浜に歌を歌いに出かけていた。
ワタシは、その子の友達だった。 ワタシも歌は好きだった。 鼻からバルーンを出して遊んでいたような小さな頃から、群れでよく歌を歌っていたものだ。
母親の白いヒレに撫でられながら歌を褒められるのが、とても嬉しかった。 だからワタシも、成長した白いヒレで今隣にいる彼女の頭を撫でてやっている。 少し白い粉が見えるその茶色のぼさぼさ頭は、しかし柔らかくあたたかい。
彼女はきっと小さい頃のワタシと同じように、にかりと笑ってくれた。 そして、目の前の彼女は、目の前の何もない海に向かって礼をする。 彼女曰く、雨が観客に見えるのだと。 雨音が拍手みたいなのだと。
ワタシがきょとんとその言葉を聞くたびに、彼女はいつか本物のたくさんの拍手を浴びてみたいと、夢見がちに言っていた。
しかし家に帰れば、さっきまできらきらしていた彼女の顔はいつのまにか萎んでいた。 この家には「怖いおばさん」がいた。 目元にはいつもしわが寄っていて、黒い尖った目がぎろぎろしていて、どこか黒いオーラも見える悪人相。 白混じりの髪は彼女のものより更に小汚かった。
彼女に両親というものはいないらしく、ずっとこのおばさんにお世話になっているらしい。 しかし働き手にすらならない、食費がかさむばかりと、口を開けば文句ばかりらしい。
ワタシは海で身体をキレイにすることが出来るけれど、ニンゲンはそうでもないらしい。 ワタシが艶々の空色の髪を束ねて家に帰ってきても、彼女の髪は薄汚いままだ。
彼女がご飯食べた?と聞けば、ワタシはこくんと頷く。 ワタシはご飯も自分の手でどうにか出来る。 まあ、寧ろそうしなければならなかったのだけれど。
彼女曰く、おばさんにはワタシのことは言えないらしい。 きっと追い出されるに決まっているからと。 そうしたら本当に生きていけなくなるからと。 だからワタシは自分のご飯は自分で探して食べている。 この妖精めいた歌の力があれば、泡に獲物を閉じ込めるなんて簡単なことなのだ。
でも、彼女も同じようにとはいかないようだった。 半袖のせいで丸見えな腕は、みるみる細くなっているような。 お腹減ったなと、彼女は独りごちる。
仕方ないんだけどね、と言ってこちらの頭を撫でるのが、その後のお決まりだった。
ある日、島中に唸るような大きな音が鳴り響いた。 ワタシが今まで聞いたことのない声、いや、ワタシたちの声とは全く違う、異質な感じがした。 しかしそれは幾度もなく繰り返されるばかり。
奇妙だったのは、それを聞くや否や島中の人達が大慌てでどこかに隠れ出したことだった。 それは彼女とおばさんも同じで、家の下の方にすっぽりと潜っていた。 なんだろうと思いつつ、ワタシも海に出てから真似をしてみた。 深く深く、沈むように。その方がいいのだろうと思って。
しばらく経った後、そろそろいいだろうと海から上がり、彼女のことを探す。 彼女はひとりで家の中にいた。 にょっと現れた自分を見て、おばさんがいないと確かめるや否や、彼女はワタシに抱きついた。 小刻みにその小さな身体が震えていた。
すんと桃色の鼻を利かすと、どこかから炎の焦げ臭い匂いがした。 すると彼女は、みっつ隣の家が燃えたの、と言った。
何故そんなことでここまで震えているのか、ワタシには分からなかった。 炎なんてたいしたことないのに、この子やニンゲンはそんなものを怖がっていたのかと。
ニンゲンの抱えるその恐れを知らないまま、ワタシは子を慰める親の気持ちでまた細くなったその背中を撫でてやった。
それから、彼女とワタシが海岸に歌いに行ける機会はめっきり減った。 あの唸り声が、よく島に響いてくるようになったのだ。
その声を聞けば彼女は家の下に潜り、ワタシは海に沈む。 それにしても一体どんな化け物なのだ、出てきたらこの泡沫のアリアで仕留めてやれるのに──と、ワタシは水中で目を顰める。
しかしそんな化け物は海から現れることもなく、気付いた時には島のどこかが燃えている。 彼女の家も少しだけその被害を受けたらしく、割れた硝子が散乱している時があった。 おばさんのお小言に耐えながら、彼女は必死になって箒とちりとりだけでそれを集めていた。
けれど、ワタシたちは雨の日には出来る限り海岸に歌いに行っていた。 雨粒の拍手喝采が、どうしても恋しくなる時がある。 普段の苦しみを晴らせる舞台は、この海岸にしかなかった。 雨は優しい、そう思った。
聴くニンゲンがいなくても、ワタシたちはここで歌うだけ。 ただ、雨にこの音を聞いてもらえればいい。
それだけで、よかったんだ。
──何故歌など歌っている。
いつものように海岸で雨を浴びていると、後ろから低い声が聞こえた。 ふたり、さんにん、よにん。 同じ服を着た屈強なニンゲンが、こちらを鋭く睨んでいる。
彼女は答えられない。 さっきまで高らかに歌い上げていたはずの彼女の喉は、凍ってしまったように動かない。無論、ワタシも同じこと。
するとあるニンゲンが言った。
「オマエらが歌うから狙われるのか?」
びくっと、隣の身体が跳ねた。 それと同時に、自分達と彼らの間にあった境界線がふっとかき消えて、突破されて。
隣にあったはずの身体を、ひとりのニンゲンが蹴り飛ばした。
手始めとばかりに、彼女はまず喉を潰された。
彼女は悲鳴をあげようとするが、しかしそこからは掠れた息しか出てこないようだった。
ワタシは後回しだとでもいうのか、ニンゲンたちの悪意と鬱憤はとにかく彼女の方に向かっていた。 「ダカラサイキンアンナニ」、「ホカノヤツラハ」、「ウラギリモノカ」と、訳のわからないことばかりだった。 ワタシは恐怖で動けなかった。 泡沫のアリアで──とも思ったけれど、彼女と彼らの距離があまりに近すぎて、これでは彼女を絶対に巻き込んでしまう。 そうなったら、危険なのは彼らより手負いのあの子──
ワタシがそう逡巡している間にも、雨は降り続ける。 どんどん強さを増しては、視界を白い線が埋めていく。
雨粒と黒い足が、彼女の身体を余すことなく踏み潰す。
それは、彼女がいつも言っていた拍手なんかじゃなかった。
それは、彼らに同調したワタシたちへの罵倒のようだった。
──こんな、ことって。
「〜っ!」
すると、彼女はワタシに向けて指差した。 思わず振り向けば、そこは鉛色をした海だった。
彼女の指は、ぴんと弦のように伸びていた。 深い深い、何も見えない海の底まで──ワタシじゃなくて、海に向かって。
海に向かってと、彼女の口が動いた。 わたしは置いて遠く、とにかく遠くまで。
無理だと声を上げようとする。 しかし彼女は強く首を振った。 すでにふたりのニンゲンが彼女を抱えていた。 その細くて弱いからだを、血まみれのからだを、何のためらいもなく。 まるでこれから、彼女の命がものになってしまうみたいに。
でも、彼女はめいっぱい顔を前に突き出して。
赤い、しかし黒い喉を震わせて。
涙を必死に堪えながら。
──行って!と叫んだ。
もう、振り向かなかった。 振り向けばきっと、戻れなくなってしまうから。
数秒もしないうちに、ワタシの視界は鉛色に飲み込まれた。 じゃぽんという液体の音と、未だ縋り付こうとする雨粒と、新たに纏わりつこうとする泡に追われながら。 深く深く、とにかく遠くに──不思議なことに、ここにきてワタシは彼女の願いだけに意識を集中させていた。 せめて彼女の安心する顔を見られたらと思ったが、それは終ぞ叶わなかった。
......あれから、どれぐらい時間が経ったのだろうか。
ワタシはしばらく島の海の深いところを彷徨っていた。 遠くまで逃げて、別の島にでも辿り着けば良かったのかもしれない。 でも、ほとぼりが冷めたら、彼女が無事だったら......その思いを、どうしても捨て切ることが出来なかったから。
しかしそれがいつかも分からず、確実かどうかもわからない以上、戻るタイミングも掴めない。 ......それに、今雨に打たれるのは、あの日を思い出して少し怖い。 お前だけ逃げたのかと、罵倒の矢印がこちらに向くような気がして。 もっとも、このままではいられないことを1番わかっているのはワタシ自身だ。
どうしたものかと呑気に苦心し始める余裕もやっとのことで生まれた、そんな頃。
長らく聞いていなかった唸り声の断片が、波を通し耳を掠めて少し経った後。
──急に後ろから、波に合わせて一際強い振動が伝わった。
沈んでいくばかりだった身体は、いつしか濃い暗色の世界にいたらしい。 しかしそこから新記録が更新されることはなく、ワタシは急いで垂直にどこまでも浮上していった。 何かも分からない、けれど取り返しのつかない気配に駆られながら。
段々視界が明るくなって、紺色が灰色になって──そして、顔を水上へと出すと。
雨の壁の奥、オレンジがかった赤の塊が、ずっと遠くの方に見えた。
そして、あれが自分のいた島だと、すぐにわかった。
降り注ぐ雨。 風のせいでちゃぽちゃぽと揺れる波。 意思もなくただ揺れる波。 ワタシはしばらく、それに身を任せてぼうっと虚無になるだけだった。
けれど、頭の隅っこでは理解が追いついてしまう。 彼女は炎が苦手だった。 ニンゲンは炎が嫌いだった。 その炎が、今島全体をおおいつくして、焼き尽くしている。 あの寂れた家も、いつもの海岸も、あの怖いおばさんも、あの屈強なニンゲンも──彼女も。
微かに抱いた希望が、可能性が音もなく崩れ落ちていった。 もっともそれは、雨を浴びればすぐに消えてしまう砂城のようなものでしかなかったけれど。
──そうだ、雨。 上を見る。 雨はなお、降り続いている。
しかし、島は依然として赤のままだ。 美しい緑は戻ってこない。 赤を打ち消そうという意思も、感じない。 何もない。
雨乞いを祈っても、きっと効果はない。 既に降っている雨は、ワタシの思いには応えてくれない。 否、雨が「思いに応える」はずがない。 自然に降るだけのそれをワタシの意思だけで自由に操る、そんな力は──ワタシには、ない。
──灰色。 それか、透明。 一切の色のないもの。
全てがただ灰色から飛び出して、見えないところに還っていくだけ。ただの世界に組み込まれただけのメカニズム。
ワタシはただ、そのメカニズムの中に在るだけ。 彼女も、そこに在っただけ。 それは決して、決して快い観衆なんかじゃなかった。
彼女が将来に願ったような豪華なコンサートの、ほんの一握りの要素にもなりはしない。
小さな海岸に、ワタシと彼女。 ワタシ達はずっと、ふたりぼっちだった。 ワタシ達は、空虚の中で、届かない歌を歌っていただけだった。
──そして、そして。
彼女がいなくなって、ワタシはこの意思なき世界で、本当にひとりになってしまった。
雨は、なおも降り続けた。
それは決して拍手ではない。
惨めなものたちへの、罵倒でもない。
そこに、わたしたちが望み、時には願うような意思など、どこにもないのだ。