【うらみこえみらい①】「うらみ」

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作者:夏十字
読了時間目安:22分

この作品は小説ポケモン図鑑企画の投稿作品です。

であえてよかった いきててよかった
そういえたらいいなって
そんな よくあるはなし
『大丈夫 君が生きる意味はちゃんとあるよ』

 放課後寄り道した雑貨屋さんできれいな赤い石のネックレスを見ていたら、そんな歌の出だしが聴こえてきた。隣に居た同じ制服の子が友達と一緒にそれを口ずさみ始める。私は途端にスゥっと気持ちが芯から冷えてゆくのを感じて、棚に伸ばしていた手を引っこめた。
 目の前で美しくきらめく石に対して自分はひとり、なんて不釣り合いで惨めなんだろう。そんな思いがにわかに頭を支配する。流れている曲はひとりでに軽快な盛り上がりをみせてゆき、隣の合唱もそれに続く。居たたまれない。

 ――私が生きる意味。ないない。

 もう帰ろう。



「ただいま」

 返事はない。ただ、キッチンのほうから淡々と物音が響く。私もキッチンへわざわざ顔を見せに行くことはなく、脇の階段を上がってまっすぐ自室へ。ドアを開けると薄暗い部屋の正面にふたつの赤い眼が光っていた。

「ただいま」

 さっきより幾らも弾んだ声になる。駆け寄り、真っ黒なその身体を抱きしめる。私の胸ほどの大きさの「その子」は大胆なアプローチにも抵抗しない。そのうちに私の全身からぼうっと深い紫色の輝きが立ちのぼり、それはゆっくりと「その子」へと吸い込まれてゆく。少し固くなった、でもふかふかの綿の感触が心地いい。赤く鋭い眼光も、先ほどの赤い石のきらめきに比べて何と落ち着くことか。

「へへ。今日もいっぱい集めてきちゃったよ、ジュペッタ」



   *



 ぬいぐるみポケモン・ジュペッタ。私がこの子と出会ったのは半月前の雨の日。高校に入って初めての試験が終わった日の夜だった。家から少し離れたところに見つけた、寂れた小さな公園。そのブランコのそばに佇んでいたのがこの子だった。
 しとしと雨の中、この子は私を見かけるとひたひた歩み寄ってきた。ぎょろりとした赤い眼が私をとらえて、次の瞬間私は思わず傘も自分自身もすっかり放り出して――夜の闇と殆ど同じ色のべしゃべしゃに湿った身体へと抱きついていた。

 それからジュペッタは私と時間を共にするようになった。私はこの子をとても愛らしく思い何かと抱きついたりしているけれど、この子は嫌がらない。嫌がらないどころか身体を震わせ満足そうな反応すら見せてくれる。それには秘密があった。ネットで調べた情報によれば、どうやら私がジュペッタの餌となる感情を強く持っているかららしかった。

 私はクラスでひどく浮いていた。小中でも似たようなものだったけれど、高校生になってからは特にそうなった。
 何もかもにおいて深く思考を巡らせる癖があり、何かしら声を掛けられても言葉がとっさには出てこない。すぐゲームの「ロード中」のような状態になるのだ。それでいて私の返す言葉は相手にとって不可思議で的外れなものが多いらしく、意図せず相手を凍りつかせてしまう。さらにネットやテレビの流行に興味が薄く、皆と共通になるような話題も持たない。
 そんな私のことを不気味に感じるのは人としてまっとうな道理だろうなと思う。しかも高校生になって皆「何がまっとうで何がまっとうでないか」を強く意識するようになったと感じる。「まっとうでないもの」と共に居ることは、自身もまたまっとうでないと周囲に言い広めるようなものだ。まっとうなものとして、それは避けなければいけないことなのだ。

 こうして「まっとうでないもの」というラベルを貼られた私の日常が、私にとある感情を募らせる。決して快いものでないことは誰にだって想像がつくだろう。でもジュペッタは違った。ジュペッタは私のその感情を快いものとして引き受けてくれる。私の快くない日常こそが、この子にとっては命を続けるためのエネルギーになっているんだ。

「また明日も。……どうせ、たくさんあげられると思うからね」

 いいじゃないか。私はそれでいい。



   *



「ただいま」

 次の日の学校帰り。うちに入るなり、収納部屋から出てきたお母さんと目が合った。お母さんは何も言わずさっと顔を逸らして奥のキッチンのほうへと去って行った。
 これは何の変哲もないいつものこと。ふたり暮らしのお母さんとは殆ど会話はない、顔を合わせることもない。毎日の食事はいつも用意してくれているから、それ自体はありがたく思っている。

 私が学校へ行っている間、ジュペッタには悪いけど私の部屋で過ごしてもらっている。ポケモンのことを良く知らないお母さんにはジュペッタのことは「クレーンゲームで取った大きなぬいぐるみ」と言ってある。大きすぎるし、動くし、さすがにどう考えても無理がある。
 それでも何ら問題はなかった。お母さんは私の部屋に入ることなんてまずしないし、そもそもそんなことに興味はないから。私なんかに興味はないから。

 家事をしている時以外、お母さんは自分の部屋でじっとしているだけだ。じっと、遠い昔に出て行った人のことばかり考えて写真を眺めてはため息をついている。今となっては本当にそれだけだった。
 私が生まれてすぐの頃に別の彼女を作って消えたその人が今どこに居るのやら私は知らない。あの様子ではきっとお母さんも知らない。毎月お母さんのところに振り込まれてくるまとまったお金だけが、そんな人がここに居たことを未だに主張し続けている。いっそ切れてしまえば、と口にする強さも資格も私にはなかった。

「さて、と」

 あの子のところへ行こう。今日はだめ押しで良い感情を貰えたからきっと喜んでくれる。



   *



「アスミー!」

 翌日の昼休み、ずいぶん久しぶりに人に名前を呼ばれた。廊下で私を呼び止めたのは、ボブヘアをオールバック風にまとめたスラリと背の高い少女――ナバナだ。

「ナバナ。め、珍しいですん……ね」
「なんか変な敬語混じってるし。何言ってんの、あたしはいつだってあんたのこと気にしてるよ」

 ナバナとは小3の時に知り合った。暇さえあれば一人でむしポケモンを眺めては絵を描いていた私にわざわざ声を掛けてくれた人という風に記憶している。

「あんまり、私に関わらないほうがいいんじゃないかな」
「なんでよ? 小さい頃から一緒じゃん。今はクラス違うしあんまり会えないけど」
「なんでって……」

 確かにナバナとは知り合ってからよく遊んだ。絵を描いたりごっこ遊びをしたり歌ったり。たくさんの時間を一緒に過ごした。

「幼馴染でしょ」

 そうだけど、そうなんだけど。ナバナは私とはまるで違う。目鼻立ちがはっきりしてモデルさんのような整った外見。それでいて誰とでも、私のような奴とでも分け隔てなく話せる大らかでさっぱりした性格。おまけに勉強もスポーツも何でもこなす万能さ。彼女は男女問わず皆の人気者なのだ。

「時間使わせちゃ、申し訳ないよ」

 私がどうにかしぼり出した答えを、彼女はすぐからからと笑い飛ばしてみせた。

「だったらあんたにも時間を使ってもらうからいいよ。今度の日曜付き合って! 新しい帽子とか欲しいんだけど、あたしじゃ良くわかんないからさ。力貸してよ」
「うーん」

 そう言われると無碍にはしづらい。でもそんなの別に私じゃなくてもきっとナバナならもっといい友達が。でも。でも……。
 長い「ロード時間」に入った私の様子をうかがうように視線を定めてから、ナバナは一手を切り出した。

「実はその日さ。テンジ君が帰ってくるんだって! 旅の途中でちょっと用事ができたからって。アスミも久々に会いたいでしょ?」

 ――。

「ごめんナバナ。ちょっとその日、予定、あるんだった」
「ちょ、アスミ?」
「ほんとにごめん。お昼まだ食べてないから、教室戻らなきゃ」

 ぐいとナバナを押しのけるようにして歩き出す。彼女が私を追ってくることはなかった。



 放課後の帰り道、スマホにナバナから私を気遣う文面のメッセージが届いた。

『テンジ君によろしく』

 そうとだけ返信しておいた。
 その日のジュペッタはいつもにも増して、格別満足そうにしてくれた。



   *



 毎日を繰り返す、繰り返す。私は繰り返すばかりだ。ただし髪は伸びていく。

「いつもの髪形でお願いします」

 美容室には頻繁に通っているし、服なんかもよく買いに行っている。せめてきちんと身だしなみは整えておかないと、こんな私は皆に対して失礼過ぎて息をしてはいけないように思うから。
 お金の心配はなかった。お母さんのもとに振り込まれ続けているお金のうち幾らかは私に渡される。それは少なくとも私にとっては十分な額だし、お母さんがその使い道に何かを言ってくることもない。それが何に使われるかなんてことはお母さんには興味がなく、ただただ私が不自由を訴えて邪魔にならないために淡々と回されるお金だった。そんな風に文句を言うような娘ではないということすら、お母さんは知らない。

 髪を整えてもらっている間、基本的に会話はない。美容師さんも話しかけてこない。最初はそうじゃなかったけれど、黙っていたらそうなった。無視したいんじゃない。私に余分な労力を割いてもらうのが辛いのだ。

『大丈夫 君が生きる意味はちゃんとあるよ』

 前に聴いたあの歌が流れてきた。ないない、ないんだってば。だからせめて失礼はないように生きたい。
 ジュペッタの役に立てるのは、嬉しい。



   *



『6限終わったらすぐ屋上に来て』

 特にこれといって変化もないまま期末試験が終わり、夏休みが終わり、新しい学期が始まってしばらく経ったある日、不意にナバナに呼び出された。
 不安を抱きつつ行ってみるとまだ日焼け痕の見て取れる腕を組んで、でんと立つ彼女が居た。いつもは朗らかな笑みを崩さない口が今は真一文字に結ばれている。湿り気のある少し冷たい風が吹いていて、空には重い雲が立ち込めていた。

「最近、周りの様子がおかしかったでしょ」

 開口一番そう言われたが、思い当たる節がなく首を傾げざるをえない。何も返ってこないと判断するや、ナバナはさらに言葉を続けた。

「周りのクラスメートとか、あんたのことものすごく遠巻きにしてるよね」
「……それは、いつも」

 すぐ、自分でも間抜けな返答をしたような気がした。案の定ナバナは大きくため息をついた。

「全然気付いてなかったんだね……あんたらしいというか。あんなに噂になってるのに」
「うわさ?」
「あの呪いのぬいぐるみ。ジュペッタのこと」

 思わぬ名前に心臓が大きく跳ね上がった。誰にも言ってないのに、どうして。

「夏休みの夜、あんたが連れ歩いてるのを見かけた子が居るらしくてね。あたしのところにまで話が回ってきたんだよ」

 迂闊だった。いつもいつも私の部屋に押し込めておくのも忍びなくなって、一度だけあの子を外へと連れ出したのだ。人目につかないよう夜中に、ほんの10分ほどだったのに。私の大変な秘密が暴かれてしまった気がして、首筋に冷や汗が伝う。

「その様子だとまだあんたの所に居るみたいだね。いつから?」
「三か月と半分くらい。……最後に一緒に遊びに行った日から、だよ」
「やっぱりそうか……」

 珍しくナバナも深く考え込むようにしばらく黙りこくって、意を決した表情で再び口を開いた。

「一応テンジ君に相談したんだ。彼はポケモントレーナーだからさ。そしたら言ってた。ジュペッタは熟練のトレーナーでも扱うのが難しいって。もしアスミのところにそいつがしばらく居るんだとしたら、それは――」

 とっさに耳を塞ぎたかったけれど、ナバナの言葉のほうが速かった。

「――あんたが相当深い“うらみ”の感情を持ち続けてるはずだ、って」

 私を突き刺す彼女の瞳は、気のせいかそうじゃないのか、少し潤んで見える。

「あたし達――ううん。あたしのこと、そんなに……?」

 思わずその言葉に食らいつくように目を見開いてしまった。そうしたら、そこから逃れるようにナバナが視線を落とした。

「……わかってた。あれからあんた、ずっと余所余所しかったもん」

 とても彼女のものとは思えない消え入りそうな言葉。そんなのは聞きたくない。これ以上聞きたくない。そんなのは“あの日”と、同じだ。

「アスミ!」

 私は頭が真っ白になって。その場から逃げ出していた。



   *



 テンジ君。ナバナと同じ、小3の時に知り合った男の子。
 華奢で内気で男の子の遊びが得意じゃなくて、ポケモンが大好きな優しい子。
 私とナバナが一緒に遊んでいるのをじっと見ていて、ナバナが声を掛けて遊ぶようになったんだった。手先が器用で、難しい折り紙とか花冠とか、色々作ってプレゼントしてくれた。中学までは三人一緒だったけれど、彼はそこから近所のポケモンジムに通い始めて。高校へは上がらずにずっと夢だったポケモントレーナーの道を歩み始めて、今はあちこち旅をしている。

「ポケモン勝負もいいけど、ポケモンばかりが傷つくのはちょっとね。悲しいなって思っちゃう。それより僕はポケモンと仲良くなりたい。誰よりもたくさんのポケモンに出会って、仲良くなりたいんだ」

 きらきら瞳を輝かせながら思いを聞かせてくれた、あの笑顔は未だに少しも忘れられない。

 テンジ君。私の大好きな男の子。
 私の、大好きだった男の子。



「雨だ……」

 ぽつぽつ、しとしと、降ってきた。傘のない私はキィキィ軋むブランコに腰かけて濡れるがまま。ちょうどあの雨の日、この公園でジュペッタと出会った日のことを思い返していた。
 あの日は高校最初の中間試験の最終日で。終わってからナバナに誘われるがまま街へ遊びに行ったんだ。雨は朝から降っていて憂鬱だったけれど、ショッピングしたりカフェに行ったり、憂鬱以上に楽しかった。――あの言葉を聞かされるまでは。



「あたし、テンジ君と付き合うことにした」

 からん、と。その時私は思わずチーズケーキを食べていたフォークを取り落としてしまった。たった今聞いた言葉もその音でかき消してしまいたかったけれど、いつにないナバナのこわばった声は続いた。

「昨日の夜テンジ君とビデオ通話で話して、決めたんだ」
「……うそ」

 私はもう、そう返すのがやっとのことだった。

「ごめんね、アスミ」
「そんな……ナバナに私、言ったのに、どうして……」

 息苦しくなっていつも以上に言葉がまるで出てこない。どうして。私がテンジ君のことを好きだってことはナバナに伝えていたのに。テンジ君が次帰ってきたら告白するよって、ちゃんと言ったのに。

「テンジ君からあたしに告白してくれたの。もちろんまず断ったよ? アスミの気持ちはきちんと聞いてたからさ。だけど……だけど」

 ナバナの声はみるみる震えて、今にも消え入りそうになっていった。

「あの内気なテンジ君が何度も『好きだ』って。画面越しだけどあのきらきらした目で言われたら……本当にごめん」
「……わかった。いいよ」

 良くないよ。

「それは、仕方ない」

 全然仕方なくない。
 だって私はその瞬間、「大好きなひと」を二人も失ってしまったんだ。



 その後すぐナバナと別れて、私は生ける屍のようにひとり雨の中を歩き彷徨っていた。
 もう心の中はめちゃくちゃだった。親友とすら思っていた彼女が急に醜い塊に思えた。そして何より、彼に選ばれなかった私はそれ以上に醜いのだと理解した。
 もとより知ってはいたんだ。生まれた時から、もしかするともっと前から。私は肉親にすら愛されることがなかったんだから。

『お前なんかが居るから』
『お前なんか生まれてこなきゃよかった』

 以前のお母さんの口癖だった。例の人が居なくなったのも全部私のせいらしかった。あの人は私を邪魔に感じたから出て行った、そういうことだそうだ。幼心に理不尽だなとは思っていた。でも妙に正しい言い分にも思えた。だって私はこんなに醜いんだものね。今はもう「お前なんか」って言うことすら、諦めてしまったくらいだものね。

 そう。私なんて初めからそんな風だったんだ。ただ一時、親友や彼のような形のものが私に見せていた笑顔に照らされて「私も輝けるのかもしれない」と勘違いしていただけだ。生ける屍となりながら、ねっとりと身を焦がすような感情が私の芯から湧き上がる。これを“うらみ”と呼ぶのであれば、その相手は親友でも彼でも他の誰でもない。私の、私自身の存在の浅はかさに対してだった。
 だからもう、こんなものは捨ててしまおう。ごく自然とそう思って、私は私を捨てられる場所を探し彷徨っていた。どこに私を捨てるのもおこがましい、結局そう感じられて日が暮れても彷徨い続けた。私には、すっかり自分が誰にも見えなくなってしまったように思えていた。

 そしたらあの子を見つけた。あの子が見つけてくれたのだ。



   *



「ジュペッタ、ただいま」

 思い出を辿りながら、うちまで帰って来た。私はずぶ濡れで、きっと玄関からこの部屋まで立派な水たまりが続いていることだろう。それでもお母さんは私に何ひとつ言わないのだろう。
 我慢できなくなった。濡れたまま、ジュペッタに思いきり抱きついた。きっと今日の感情は――“うらみ”は出会ったあの日以来の、いやそれ以上のごちそうだろう。思った通りジュペッタは私が濡れていることなど意に介さず、恍惚とした表情で私の身体から暗い炎みたいに激しく立ちのぼる深紫の輝きをむさぼるように吸い取ってゆく。これでいい。ジュペッタの様子を見て、私は心底救われた気持ちだった。

 ぱつん。ちょうど私が視線を落としていたジュペッタの右肩の縫い目が突如はちきれた。私はあっと驚いたが当のジュペッタは別段気に留める様子もない。でも、少しとはいえ中身のちょっと黄ばんだ綿が飛び出してきてしまっている。急に怖くなった。多分これは私が強い“うらみ”を与え過ぎたせいだ。私はこんな恐ろしいものを、この子に?



 それから私はネットで、ジュペッタについてまた念入りに調べてみた。縫い目がはちきれる現象については縫ってやればよいということ以外有力な情報は出てこなかったけれど、別のことがひとつ、私の目を惹いた。
 ジュペッタは大切にされると只のぬいぐるみに戻るのだという。



   *



 ろくに扱ったことのない針と糸で不器用ながらなんとか肩のほつれを塞いでやると、ジュペッタは上機嫌にケタケタと笑った。何とも愛くるしい。
 もともと大切にされず捨てられたぬいぐるみに強い怨念が宿って生まれた存在だそうだ。だから大切にしてやれば元のぬいぐるみに戻るということらしい。何をもって「大切にしている」とするかについては色々な考え方があると思う。ただ、事実としてこの子は三か月半ここに居続けていて、只のぬいぐるみに戻る気配は少しも感じられない。それはつまり、そういうことなのだろう。当然だ。私がこの子に与え続けているのは“うらみ”なのだ。“うらみ”が大切とは程遠い感情だと理解するのは実にたやすいことだ。
 けれど私が“うらみ”を与えてやるとこの子は喜ぶ。これも当然だ。“うらみ”こそがジュペッタのエネルギーなのだから。この子がポケモンであり生き物である以上、命を続けていくことを望むのは余りにも自然なことだから。

 “うらみ”――それは自らの身を暗く黒く焦がすような思いだ。この子がそれを求めるのは、この子がそれで生まれたから。だけどそもそもそんな風になったのは、捨てられたことが悲しかったせいだ。大切にされなかったことが悔しかったせいだ。なら、本来望んでいたのは“うらみ”なんかじゃなかったはずだ。なのにこの子の命を動かすものは、身を焦がすその思いのみだというのか。本来望んでいたものを手にしてしまえば、それで終わってしまうというのか。

 この子は、この子の命は大きく矛盾している。そしてこの子はその命自身である以上、それに気付くことはできない。

 ならば。ならば私は。その矛盾に思い至った私は、この子に一体何をしてやれる? 私の消えない“うらみ”でこの子を生かし続ける。この子を生かし続けるために私は“うらみ”を抱き続ける。それでいいのか。本当にいいのか。私の“うらみ”がどこから来ているものなのか、この子を見ていて私にはとっくに分かっているじゃないか――。

「……そっか」

 私は意を決して。

「ジュペッタ」

 真直ぐ、呼びかけた。赤い眼が私を見た。

「私は愛されたい。愛されて、幸せになりたい。そして――」

 そして。

「君にも“それ”を、あげたい」

 口にした。抱きしめた。キスをした。
 ありったけの自分勝手。初めてぶつけた、私からこの子へと向かう思い。“うらみ”じゃない想い。

 瞬間、眩い光が溢れて目の前が真っ白になった。両腕から綿の感触がするりと抜けてゆく。光が収まるとジュペッタが居たはずの床の上には、私の一抱えほどのくたびれたピッピのぬいぐるみだけがあった。

「ジュペッタ……」

 ぬいぐるみは笑っていて、私は泣いていた。



   *



 それから私の毎日は変わった。……と言ったら大嘘になる。
 相変わらずクラスでは浮いているし、お母さんとろくに顔を合わせることもないし、ナバナともあれ以来話をしていない。やっぱり自分のことは醜いと思うから、毎日息をひそめてなるべく失礼のないように過ごしている。一度ついてしまった染みは簡単に落ちるもんじゃない。単純な話だった。

 だけどね。

「そのネックレスいいね。赤い石、よく似合ってる」
「……へへ」

 古着屋のお姉さんに話しかけられて、思わずにやけてしまった。
 もっと何か言ったほうがいいかなと考えていたら、覚えのある歌が聴こえてきた。

『大丈夫 君が生きる意味はちゃんとあるよ』

 ないない。ないったら。

 でも、だったらいいな。

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