心に染みついた匂いは、いつかあなたの涙を拭う。
やはり予報は外れて、雨が降ってきた。
朝の満員電車の中で押し潰され、よれよれになったリクルートスーツ。乾いた眼球に差した目薬が、垂れて跡が残った顔。落とした書類を慌てて拾ったせいで切れた、小指の皮膚。
小松美緒はしっかりした小雨の中小走りでタクシー乗り場へ向かった。過酷すぎるスケジュールとストレスのため体はふらついて、許されるものならこの雨の中車道で横になってしまいたい。もうすべてを投げ出してしまいたかった。
早くタクシーかバスに乗って家に帰りたい。ただの一歩も歩きたくはなかった。煙臭い雨を吸いながら、美緒はすっからかんの頭で前髪を押さえる。
「飴如何ですか」
人々が足速に雨水を蹴る中、美緒は一瞬耳の奥に通る女の子の声が聞こえた。早くベッドに潜り込みたい感情はあったが、不思議とその声に振り返る。
赤紫色の合羽を着た女の子が、ロリポップキャンディを差し出していた。
「どうしたの、こんな雨の中……。誰かに働かされているの」
女の子は飴を差し出したままふるふると小首を振る。周りを行き交う人たちにはこの子が見えていない気がした。美緒はほうけた顔を破顔させて、女の子と同じ目線に立つ。
「飴、もらっていい?」
「飴如何ですか」
女の子は向日葵のようににこりと笑って、先とおなじ言葉を言った。
「ありがとう」
女の子と別れてからもう一度振り返ってみたが、赤紫色の合羽は人混みの中に消えて見えなくなっていた。
濡れたバッグやアクセサリーを辺りに散らばせてシャワーを浴びた。今晩は炭水化物を取る気にもならない。シャツやタイツを洗濯機に放り込んで、轟々と唸る脱衣場を離れた。家賃の高い都会暮らし。美緒は狭い部屋のほとんどを占めているベッドに倒れ込んだ。
ふと美緒は思い出した。湿ったバッグを漁る。簡易的な包装に包まれた昔懐かしいぐるぐるロリポップは、天井の照明の明かりをピンク色にぐにゃりと曲げていた。封を解いて、仰向けのまま口に頬張った時、なにか懐かしいような香りがして目を閉じた。
(このあったかい匂い……、昔持ってたムウマのぬいぐるみに似てる。名前付けて……そうモモだ。モモは紫色で、目が黄色で、口が……)
「いつも笑って……あれ?」
「……モモ?」
美緒が小さな頃いつも抱いていたムウマは、美緒の目の前ににこりと笑って浮かんでいた。
美緒の前に現れたモモは、ぬいぐるみとはかけ離れた姿だった。体は半透明、触ろうとしてもあのふわふわな手触りは得られない。本当にゴーストになってしまったみたいに、美緒の目の前を浮かんでいた。
「モモ、モモだよね。だって私が子どもの時付けちゃったインクがここにあるもんね」
モモは嬉しそうにこくりと頷いた。
「でもモモがなんで……、あっもしかして」
舌の上に甘いイチゴ味が広がっていく。
「もしかして飴?」
モモは興奮したようにこくこくと頷いた。
美緒は起き上がりこぼしのように上体を起こし、モモの黄色の目を見つめた。モモは美緒がとても大事にしていたポケモンのぬいぐるみだった。寝る時も起きる時も、ごはんも散歩も幼稚園も学校にも、実はこっそり連れていった。ある雨の降る日、いつものようにモモを抱いて近所を歩いていたら通りかかった車に見事に雨水をかけられてしまい、モモと美緒は泥だらけになった。
「ごめんねモモ、あの時洗濯してあげられなくて」
美緒の母は泥だらけのしみになったモモを、泣く泣く処分してしまったのだった。美緒はたいへん泣き悲しんで、その後どんなぬいぐるみも気に入らなかったそうだ。
「モモ……、今日モモに会えてよかったよ。私ね、今年から営業の仕事をしてるんだけど、全然最初聞いていた内容と違って。最近なんてただの小間使いみたい。私、本当はもっとやりたいことできると思ってたんだけどね」
モモは視線が落ちていく美緒の瞳を追って、心配そうに下から顔をのぞき込んでいる。
「がっかりした。何も手につかないと思った。でもモモ、モモがこうして来てくれて、どういう理屈かもわからないけどモモがまた私のそばにいて、またこうして愚痴を聞いてくれて、少し元気でたよ。ありがとうモモ」
モモは美緒がまた笑いかけたのを見て、はしゃいでぐるぐると飛び回る。飛び回ってどこから見つけてきたのかペンと紙切れをテーブルに置いた。そして何かを書こうとしている。口の中のキャンディが少しずつ小さくなるのを感じながら書き終わるのを待っていると、モモが慌てて紙切れを持ってきてくれた。
「みおちゃに あいきた みおちゃげんきなた やた」
満足気なモモの顔と文を見て、美緒は久しぶりに心から笑った。モモがいるなら、これから先も頑張れる気がした。
「モモのおかげで元気になったよ。モモ、来てくれてありがとう」
モモはその言葉を聞くと、安心したように口を開けた。言葉は話せなくとも、モモの心の中が手に取るように感じられる。美緒は昔と変わらないモモの瞳の中に、小さな頃の自分が映っているような気がした。
「また何か書くの?」
すい、とゆっくりテーブルに向かったモモを背中を見て、美緒は笑って立ち上がる。外からは降りが激しくなった雨音が部屋の中まで入り込んできていた。
「私紅茶飲もうかな。今度はモモのこと聞かせてよ。砂糖は……要らないか」
ちょうど甘いもの食べてるし、と言おうとしたところで口の中にあったキャンディが溶けてなくなっていることに気がついた。なかなか字をかけないモモを待っていた間、だいぶ溶けてしまっていたようだ。
「私飴が溶けたことも知らないで、棒だけくわえてたみたい。ほら見て、モモ……」
「モモ?」
自嘲気味に笑ってキッチンから振り返った時、美緒の目にモモの姿はなくなっていた。ただモモの懐かしいあの匂いが、ベッドやカーテンや服に染みついている。ついさっきまでいたあのぬいぐるみは、もう部屋のどこにもいなかった。
「モモ……なんで」
くわえたキャンディの棒を左手に持ったまま、最後までモモがいたテーブルに近づく。乱雑に放り投げられたペンは、キャップもしないでただ転がっていた。その紙切れに書かれていたのはよれよれの字でなぞられたモモの言葉だった。
「みおちゃこれで だいじょぶ さよなら ありがと」
美緒は変わった。髪を切り、スーツを新調し、書類がばらけないファイルを買った。どんな仕事もすぐに手を付け、移動の時には一秒も無駄にすることがないよう心掛けた。なかなか思い描いていた仕事はさせてもらえないが、それでも少しずつ任される量が増えていった。
あの時から、突然降り始めるにわか雨が好きになった。
次の営業先へ行く時。帰宅する時。買い物をする休日。
相変わらず予報は外れてばかりだ。
それでも、青く染まる街を見るのはそれほど悪くない。
赤紫色の合羽を探している。