27杯目 「   」

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 石畳を歩く二つの色。
 大通りから、ふらりと横の道へ入った薄藤を。
 同じように夜闇も続く。
 入り込んだそこは、狭い路地の道が続いていた。

《おいっ》

 少し離れて歩く前方の薄藤。
 それに向けて発するのは夜闇で。
 発した声は、制止を促すもの。
 けれども。

《…………》

 その薄藤は止まる気配をみせない。
 それどころか。
 進む脚が足早になっていく。

《おいっ、ふう》

 名を紡いだら。
 その薄藤はぴたりと脚をとめて。
 何となく夜闇も。
 それに合わせて脚をとめた。

《…………》

 それっきりの薄藤に。
 眉間にしわを寄せる夜闇。
 聞こえるのは。
 遠くで聞こえる雑多な音。
 朝を通り、昼へ向かう時間。
 街が動き始めた気配がする。

《ふう》

 再度、名を紡ぐ。
 そしたら今度は。

《ボクは何番目なの?》

 そんな言葉が返ってきた。
 けれども。
 問いの意味が分からない。
 ブラッキーの眉間に、しわが一本増える。

《何の順番だ……》

 気のせいだろうか。
 ものすごく、面倒な気配を感じる。

《数多の女の子の中で》

《おい、待て》

《ボクは何番目なの?》

《増えてるぞ》

 ブラッキーの方へ振り向いたエーフィ。
 その彼女の紫の瞳が揺れていた。
 潤いを帯びて揺れるそれは。

《ボクがいない間に》

 彼女が瞬く度に。
 透明なそれは。
 はたはた、とこぼれ落ちる。

《星の数ほどの女の子と》

《増えてる増えてる》

《遊んで……っ》

 そこでエーフィは言葉を詰まらせる。

《―――っ》

 言葉にならない言葉を発する。
 それに対して。
 はあ、と。
 重い息を一つ吐くのはブラッキーで。

《お前、何が言いたいんだ?》

 それに。
 ぴくり、と身体を震わせたエーフィ。

《…………っ!》

 ブラッキーを一直線に見ると。
 涙で揺れる瞳に、鋭さを滲ませる。

《りんの、ばかっ!!》

 それだけ言い放つと。
 くるりと身体の向きを変えて。
 そのまま、ばっと走り去ってしまう。

《おいっ!ふう!》

 ブラッキーが呼び掛けるも。
 エーフィは直ぐに曲がり角へと消えてしまう。
 ぶっつり。
 鈍く重いその音は。
 ブラッキーの中で木霊する。
 彼の感情の昂りに呼応するように。
 夜闇の身体に刻まれた輪模様が。
 静かに明滅を繰り返し始める。

《本当に面倒だな、あいつ》

 金の瞳に鋭さが宿る。
 その瞳が見据えるのは。
 エーフィが消えた曲がり角。

《ふんっ》

 口の端が持ち上がった。

《俺から》

 にたりと笑みの形を作った口。

《逃げられると思うなよ》

 そう言って。
 ブラッキーは駆け出した。



   *



 とぼとぼ歩くのはエーフィ。
 石畳に目線を落としながら。
 やり場のない気持ちを燻らせていた。

《りんの、ばか……》

 どうして分かってくれないのか。
 何となく後ろを振り向く。
 けれども、何もなかった。
 あるのは。
 寂しげに置かれた木箱や樽。
 路地裏に当たるここは。
 人の気配も感じない。
 あるとすれば。
 ききっと鳴いては。
 自分の存在に驚いたコラッタが。
 逃げる気配だけで。
 それが一層、やり場のない気持ちを積もらせる。

《追ってきても、くれないんだ》

 気配を探っても。
 自分以外の生き物の気配はない。
 自分は空気の微弱な振動も感じ取れる。
 だから。
 それに触れないということは。
 彼はこの近くには。
 いないということで。
 視界が滲む。
 瞬けば落ちるそれが。
 石畳に染みをつくってゆく。

《りんの、ばか……》

 どうして分かってくれないのか。
 どうして追ってもくれないのか。
 どうして、どうして。

《どうして》

 分かっている。
 彼が浮気なんてしていないと。
 彼はそんなことしない。

《どうして》

 だって彼は。
 彼自身の中にある気持ちにも。
 気付いてはいないはずだから。

《言葉に出来ないのかな》

 自分だけが知っているであろう。
 彼の本当の気持ち。

《ボクが言葉にすれば、よかった?》

 彼もきっと。
 その気持ちに気付いてくれる。
 そう、思うのに。
 その一言が言葉に出来なかった。
 そして。
 彼と別れて。
 自分はパートナーと旅に出た。
 だって。
 その言葉は。
 彼から欲しかったから。
 自分から言葉にするのではなくて。
 彼から欲しかったから。
 それだけだったのに。
 視線を落とせば。
 目尻にたまったそれが。
 ぼとぼととこぼれ落ちて。
 石畳に大きな染みをつくった。

《ボクは》

 ずっと前から知っていた。
 彼の中に在った。
 自分と同じ、あたたかな気持ち。
 それを形つくったのが。
 きっと、あの白銀の幼子で。

《その気持ちを》

 ずっと待っていたのに。
 彼が気付いてくれる瞬間を。
 けれども。
 その瞬間は訪れることはなくて。

《ただ、向けて欲しかっただけ》

 自分は彼の傍から。
 離れてしまった。
 そして流れた、彼と娘の時間。
 それを感じてしまって。
 一気にさみしくなって。
 それを。
 どうして分かってくれないのか。

《りんの、ばかっ!!》

 全てを込めて叫んだとき。
 エーフィの鋭敏な感知能力の隙間から。
 にゅるりと滑り込んだ気配があった。
 瞳からこぼれ落ちていたそれ。
 熱いそれが、ぴたりと止まった。
 全身の毛が逆立つ感覚に。
 身体を駆け抜けた戦慄。
 見開かれた瞳に。
 額の宝玉がきらりと光る。
 低く腰を落とす様は。
 まさに警戒体勢で。
 相手の姿を視認出来ない状況下でも。
 飛びかかろうとする気配を。
 瞬時に察知して。
 後ろへ飛び退く様は。
 流石と言うべきものだろう。

《…………》

 飛び退き、警戒の唸りをあげようとしたとき。
 屋根から。
 音もなく飛び降りてきた影に。
 着地さえも、音一つ聞こえなかった影に。
 その所作に。
 思わず、見惚れた。

《見つけた》

 にたりと、笑みの形をつくる口に。
 きらりと煌めく金の瞳は。
 夜闇に散る星のようで。

《俺から、逃げられると思うなよ》

 そう告げた声音は。
 月のように静かだった。
 なぜ、彼に見つかってしまったのか。

《来ないでよ、ばか》

 どうせ、自分の気持ちなんて。
 分かってはくれないのに。
 ブラッキーが一歩近付く度に。
 エーフィは一歩下がる。

《ばか》

 一歩近付き、一歩下がる。

《ばかばか》

 金の瞳に、不機嫌な色が滲む。

《ばかばかばか》

 彼が近付く分だけ。
 彼女は下がる。
 それを少し繰り返していた。
 だが。

《!》

 先に動きを止めたのは。
 エーフィだった。
 背に感じた。
 ひんやりとした冷たい感触は。
 ちらりと背後を見やれば。
 それは石畳の塀だった。
 これ以上は下がれない。
 そう悟ったとき。

《追い詰めた》

 煌めく金が、眼前に迫った。

《…………っ》

 息が詰まる。
 紫の瞳が彷徨い始めて。
 あちらこちらに泳ぐ。
 そうだ。
 塀の上へ飛び乗ろう。
 そこから、屋根伝いに走れば。
 その閃きを実行しようと。
 身体の向きを変えたとき。
 どかっと。
 勢いよく突き出されたそれに。
 行く手を遮られた。
 それがブラッキーの片前足だと気付いた頃には。
 もう、動く気力も失せて。

《…………ふう?》

 そんな彼の声が。
 気持ちがあふれ始めた。
 きっかけだった。

《…………のに……》

《…………は?》

《向けて欲しかっただけなのに》

 きっと睨む紫の瞳。
 それが揺れて。
 目尻に熱いものがたまる。
 見上げる形になる体格差が。
 何だか悔しいとエーフィは思う。
 昔は、自分が見下ろしていたのに。

《りんのばかっ!》

 結局は、その言葉になる。
 あふれ出した気持ちも。
 悔しい気持ちも。
 怒れる気持ちも。
 全部まとめて。

《りんのっ》

 そこで言葉が途切れた。
 いつの間にか太陽は動いていて。
 それが真上を過ぎ、傾きを始める。
 その傾きが、二匹の影を伸ばして。

《―――っ!》

 影が、重なった。
 直に触れる彼のそれ。
 驚いて瞬いた紫の瞳から。
 ぽたり、と。
 透明なものがこぼれ落ちた。
 あたたかく、柔らかな感触に。
 彼女は頬の火照りを自覚して。
 息をするのも忘れる。
 否。
 出来なかったのだ。

《…………》

 どのくらいそうしていたのか。
 それはよく覚えていない。
 そっと。
 彼が顔を離す。
 口元に残ったその感触に。
 少しだけ名残惜しさを感じて。
 彼がそっと呟いた。

《これじゃ、だめか?》

 伺うようにして。
 彼女は見上げた。
 そこにあったのは。
 頬を朱に染めた彼で。
 あ、可愛い。
 彼女は素直にそう思った。
 あの彼が、照れている。
 けれども。

《…………なんだ、その顔は》

 ブラッキーの眉間にしわが刻まれた。
 思わず膨らむそれを。
 つん、と前足でつついたら。
 彼女の口から空気が抜けた。
 膨らんだ両頬をつつかれたエーフィは。
 口をへの字にして。
 そして、ふいっと顔を背けて。

《ボクが欲しかったのは》

 嬉しくなかったわけじゃない。
 それだけで、彼の気持ちを感じた。
 でも。欲しかったのは。

《それじゃないもんっ》

 ちらりと横目で見やれば。
 うっ、と。
 言葉を詰まらせたブラッキーがいて。
 その金の瞳が泳ぐ。
 その様子にそっと嘆息する。
 別に難しいことではないのに。
 そう思う。
 だって、気持ちを言葉にするだけ。
 それだけなのだ。

《ボクに会えて嬉しかったのは分かるけど》

 ぴくりと彼の耳が跳ねた。

《それで身体が動いちゃったのも分かるけど》

 彼を正面に見据えて。
 紫の瞳は愉しそうに瞬き、笑う。

《言葉にしなきゃ、伝わらないよ?》

 彷徨う金が、紫に捕まって。
 ブラッキーはエーフィから。
 視線をはずせなくなる。
 今度は。
 エーフィの口の端が持ち上がった。

《さあ、りん》

 詰め寄る彼女に。
 詰め寄られた分だけ下がる彼。

《もう、知っているだろ》

 瞬く金は、戸惑いの色。

《俺の気持ちは》

 なおも抵抗しようとする彼に。
 エーフィの口が笑みの形を作る。

《星、みっけ》

 ふふっと小さく笑う彼女の声に。
 彼は敗北を悟って。
 がくりと項垂れた。

《お前、やっぱり》

《ん?》

《あの時、押し付けたよな》

《何のこと?》

 顔を上げたのはブラッキー。

《別れたあの時だ》

《さあ?》

 ブラッキーが半目になる。
 いや、そうだ。
 押し付けだ。
 そう思った。
 自分でも気付いていなかった想い。
 それを彼女はもう。
 ずっと前から知っていたに違いない。
 そしてあの時。
 別れる間際のあの時だ。
 彼女は一つ。
 自分に波紋を作った。
 波紋を作ってから。
 そのまま傍を去って。
 残された自分は。
 拡がり始める波紋に気付かされた。
 自分の奥底に在った気持ちを。
 それは押し付けではないか。

《ねえ、ないの?》

 にやりと笑う彼女のその様は。
 あの時の白銀の幼子と重なって。
 やはり、彼女の子なのだなと。
 どこかで関心する自分がいた。

《…………》

 一つ瞑目したブラッキーは。
 こてん、と。
 そのままエーフィの首もとへ。
 自分の顔を埋めた。
 そして。
 ぽそりと言葉を紡いだ。
 それが何と紡がれたのか。
 うまくは聴きとれなかった。
 否。
 エーフィの耳には。
 確かに届いたそれに。
 彼女の瞳が嬉しそうに瞬いた。

《全く仕方がないなあ》

 ふふっと笑う声に混ざって。

《ボクもだよ、りっくん》

 と返した彼女の声に。
 顔を埋めたままのブラッキーは。
 尾だけをわずかに揺らして。
 彼の身体に刻まれた輪模様が。
 ゆっくりと、照れたように。
 明滅を繰り返した。

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