石畳を歩く二つの色。
大通りから、ふらりと横の道へ入った薄藤を。
同じように夜闇も続く。
入り込んだそこは、狭い路地の道が続いていた。
《おいっ》
少し離れて歩く前方の薄藤。
それに向けて発するのは夜闇で。
発した声は、制止を促すもの。
けれども。
《…………》
その薄藤は止まる気配をみせない。
それどころか。
進む脚が足早になっていく。
《おいっ、ふう》
名を紡いだら。
その薄藤はぴたりと脚をとめて。
何となく夜闇も。
それに合わせて脚をとめた。
《…………》
それっきりの薄藤に。
眉間にしわを寄せる夜闇。
聞こえるのは。
遠くで聞こえる雑多な音。
朝を通り、昼へ向かう時間。
街が動き始めた気配がする。
《ふう》
再度、名を紡ぐ。
そしたら今度は。
《ボクは何番目なの?》
そんな言葉が返ってきた。
けれども。
問いの意味が分からない。
ブラッキーの眉間に、しわが一本増える。
《何の順番だ……》
気のせいだろうか。
ものすごく、面倒な気配を感じる。
《数多の女の子の中で》
《おい、待て》
《ボクは何番目なの?》
《増えてるぞ》
ブラッキーの方へ振り向いたエーフィ。
その彼女の紫の瞳が揺れていた。
潤いを帯びて揺れるそれは。
《ボクがいない間に》
彼女が瞬く度に。
透明なそれは。
はたはた、とこぼれ落ちる。
《星の数ほどの女の子と》
《増えてる増えてる》
《遊んで……っ》
そこでエーフィは言葉を詰まらせる。
《―――っ》
言葉にならない言葉を発する。
それに対して。
はあ、と。
重い息を一つ吐くのはブラッキーで。
《お前、何が言いたいんだ?》
それに。
ぴくり、と身体を震わせたエーフィ。
《…………っ!》
ブラッキーを一直線に見ると。
涙で揺れる瞳に、鋭さを滲ませる。
《りんの、ばかっ!!》
それだけ言い放つと。
くるりと身体の向きを変えて。
そのまま、ばっと走り去ってしまう。
《おいっ!ふう!》
ブラッキーが呼び掛けるも。
エーフィは直ぐに曲がり角へと消えてしまう。
ぶっつり。
鈍く重いその音は。
ブラッキーの中で木霊する。
彼の感情の昂りに呼応するように。
夜闇の身体に刻まれた輪模様が。
静かに明滅を繰り返し始める。
《本当に面倒だな、あいつ》
金の瞳に鋭さが宿る。
その瞳が見据えるのは。
エーフィが消えた曲がり角。
《ふんっ》
口の端が持ち上がった。
《俺から》
にたりと笑みの形を作った口。
《逃げられると思うなよ》
そう言って。
ブラッキーは駆け出した。
*
とぼとぼ歩くのはエーフィ。
石畳に目線を落としながら。
やり場のない気持ちを燻らせていた。
《りんの、ばか……》
どうして分かってくれないのか。
何となく後ろを振り向く。
けれども、何もなかった。
あるのは。
寂しげに置かれた木箱や樽。
路地裏に当たるここは。
人の気配も感じない。
あるとすれば。
ききっと鳴いては。
自分の存在に驚いたコラッタが。
逃げる気配だけで。
それが一層、やり場のない気持ちを積もらせる。
《追ってきても、くれないんだ》
気配を探っても。
自分以外の生き物の気配はない。
自分は空気の微弱な振動も感じ取れる。
だから。
それに触れないということは。
彼はこの近くには。
いないということで。
視界が滲む。
瞬けば落ちるそれが。
石畳に染みをつくってゆく。
《りんの、ばか……》
どうして分かってくれないのか。
どうして追ってもくれないのか。
どうして、どうして。
《どうして》
分かっている。
彼が浮気なんてしていないと。
彼はそんなことしない。
《どうして》
だって彼は。
彼自身の中にある気持ちにも。
気付いてはいないはずだから。
《言葉に出来ないのかな》
自分だけが知っているであろう。
彼の本当の気持ち。
《ボクが言葉にすれば、よかった?》
彼もきっと。
その気持ちに気付いてくれる。
そう、思うのに。
その一言が言葉に出来なかった。
そして。
彼と別れて。
自分はパートナーと旅に出た。
だって。
その言葉は。
彼から欲しかったから。
自分から言葉にするのではなくて。
彼から欲しかったから。
それだけだったのに。
視線を落とせば。
目尻にたまったそれが。
ぼとぼととこぼれ落ちて。
石畳に大きな染みをつくった。
《ボクは》
ずっと前から知っていた。
彼の中に在った。
自分と同じ、あたたかな気持ち。
それを形つくったのが。
きっと、あの白銀の幼子で。
《その気持ちを》
ずっと待っていたのに。
彼が気付いてくれる瞬間を。
けれども。
その瞬間は訪れることはなくて。
《ただ、向けて欲しかっただけ》
自分は彼の傍から。
離れてしまった。
そして流れた、彼と娘の時間。
それを感じてしまって。
一気にさみしくなって。
それを。
どうして分かってくれないのか。
《りんの、ばかっ!!》
全てを込めて叫んだとき。
エーフィの鋭敏な感知能力の隙間から。
にゅるりと滑り込んだ気配があった。
瞳からこぼれ落ちていたそれ。
熱いそれが、ぴたりと止まった。
全身の毛が逆立つ感覚に。
身体を駆け抜けた戦慄。
見開かれた瞳に。
額の宝玉がきらりと光る。
低く腰を落とす様は。
まさに警戒体勢で。
相手の姿を視認出来ない状況下でも。
飛びかかろうとする気配を。
瞬時に察知して。
後ろへ飛び退く様は。
流石と言うべきものだろう。
《…………》
飛び退き、警戒の唸りをあげようとしたとき。
屋根から。
音もなく飛び降りてきた影に。
着地さえも、音一つ聞こえなかった影に。
その所作に。
思わず、見惚れた。
《見つけた》
にたりと、笑みの形をつくる口に。
きらりと煌めく金の瞳は。
夜闇に散る星のようで。
《俺から、逃げられると思うなよ》
そう告げた声音は。
月のように静かだった。
なぜ、彼に見つかってしまったのか。
《来ないでよ、ばか》
どうせ、自分の気持ちなんて。
分かってはくれないのに。
ブラッキーが一歩近付く度に。
エーフィは一歩下がる。
《ばか》
一歩近付き、一歩下がる。
《ばかばか》
金の瞳に、不機嫌な色が滲む。
《ばかばかばか》
彼が近付く分だけ。
彼女は下がる。
それを少し繰り返していた。
だが。
《!》
先に動きを止めたのは。
エーフィだった。
背に感じた。
ひんやりとした冷たい感触は。
ちらりと背後を見やれば。
それは石畳の塀だった。
これ以上は下がれない。
そう悟ったとき。
《追い詰めた》
煌めく金が、眼前に迫った。
《…………っ》
息が詰まる。
紫の瞳が彷徨い始めて。
あちらこちらに泳ぐ。
そうだ。
塀の上へ飛び乗ろう。
そこから、屋根伝いに走れば。
その閃きを実行しようと。
身体の向きを変えたとき。
どかっと。
勢いよく突き出されたそれに。
行く手を遮られた。
それがブラッキーの片前足だと気付いた頃には。
もう、動く気力も失せて。
《…………ふう?》
そんな彼の声が。
気持ちがあふれ始めた。
きっかけだった。
《…………のに……》
《…………は?》
《向けて欲しかっただけなのに》
きっと睨む紫の瞳。
それが揺れて。
目尻に熱いものがたまる。
見上げる形になる体格差が。
何だか悔しいとエーフィは思う。
昔は、自分が見下ろしていたのに。
《りんのばかっ!》
結局は、その言葉になる。
あふれ出した気持ちも。
悔しい気持ちも。
怒れる気持ちも。
全部まとめて。
《りんのっ》
そこで言葉が途切れた。
いつの間にか太陽は動いていて。
それが真上を過ぎ、傾きを始める。
その傾きが、二匹の影を伸ばして。
《―――っ!》
影が、重なった。
直に触れる彼のそれ。
驚いて瞬いた紫の瞳から。
ぽたり、と。
透明なものがこぼれ落ちた。
あたたかく、柔らかな感触に。
彼女は頬の火照りを自覚して。
息をするのも忘れる。
否。
出来なかったのだ。
《…………》
どのくらいそうしていたのか。
それはよく覚えていない。
そっと。
彼が顔を離す。
口元に残ったその感触に。
少しだけ名残惜しさを感じて。
彼がそっと呟いた。
《これじゃ、だめか?》
伺うようにして。
彼女は見上げた。
そこにあったのは。
頬を朱に染めた彼で。
あ、可愛い。
彼女は素直にそう思った。
あの彼が、照れている。
けれども。
《…………なんだ、その顔は》
ブラッキーの眉間にしわが刻まれた。
思わず膨らむそれを。
つん、と前足でつついたら。
彼女の口から空気が抜けた。
膨らんだ両頬をつつかれたエーフィは。
口をへの字にして。
そして、ふいっと顔を背けて。
《ボクが欲しかったのは》
嬉しくなかったわけじゃない。
それだけで、彼の気持ちを感じた。
でも。欲しかったのは。
《それじゃないもんっ》
ちらりと横目で見やれば。
うっ、と。
言葉を詰まらせたブラッキーがいて。
その金の瞳が泳ぐ。
その様子にそっと嘆息する。
別に難しいことではないのに。
そう思う。
だって、気持ちを言葉にするだけ。
それだけなのだ。
《ボクに会えて嬉しかったのは分かるけど》
ぴくりと彼の耳が跳ねた。
《それで身体が動いちゃったのも分かるけど》
彼を正面に見据えて。
紫の瞳は愉しそうに瞬き、笑う。
《言葉にしなきゃ、伝わらないよ?》
彷徨う金が、紫に捕まって。
ブラッキーはエーフィから。
視線をはずせなくなる。
今度は。
エーフィの口の端が持ち上がった。
《さあ、りん》
詰め寄る彼女に。
詰め寄られた分だけ下がる彼。
《もう、知っているだろ》
瞬く金は、戸惑いの色。
《俺の気持ちは》
なおも抵抗しようとする彼に。
エーフィの口が笑みの形を作る。
《星、みっけ》
ふふっと小さく笑う彼女の声に。
彼は敗北を悟って。
がくりと項垂れた。
《お前、やっぱり》
《ん?》
《あの時、押し付けたよな》
《何のこと?》
顔を上げたのはブラッキー。
《別れたあの時だ》
《さあ?》
ブラッキーが半目になる。
いや、そうだ。
押し付けだ。
そう思った。
自分でも気付いていなかった想い。
それを彼女はもう。
ずっと前から知っていたに違いない。
そしてあの時。
別れる間際のあの時だ。
彼女は一つ。
自分に波紋を作った。
波紋を作ってから。
そのまま傍を去って。
残された自分は。
拡がり始める波紋に気付かされた。
自分の奥底に在った気持ちを。
それは押し付けではないか。
《ねえ、ないの?》
にやりと笑う彼女のその様は。
あの時の白銀の幼子と重なって。
やはり、彼女の子なのだなと。
どこかで関心する自分がいた。
《…………》
一つ瞑目したブラッキーは。
こてん、と。
そのままエーフィの首もとへ。
自分の顔を埋めた。
そして。
ぽそりと言葉を紡いだ。
それが何と紡がれたのか。
うまくは聴きとれなかった。
否。
エーフィの耳には。
確かに届いたそれに。
彼女の瞳が嬉しそうに瞬いた。
《全く仕方がないなあ》
ふふっと笑う声に混ざって。
《ボクもだよ、りっくん》
と返した彼女の声に。
顔を埋めたままのブラッキーは。
尾だけをわずかに揺らして。
彼の身体に刻まれた輪模様が。
ゆっくりと、照れたように。
明滅を繰り返した。