「カナミー。今夜こんなのどうかしらー」
階下からそんな声がした。てっきり夕食メニューの味見だろうと思っていたカナミは階段を降り、待ち受けていた母の姿にぎょっとした。
いつも通りの、我が町のジムリーダーとは信じ難い平和な主婦そのものの顔。くるっくるんのおばさんパーマ。その両脇に……
「えーと、角? 鬼ばば?」
「やーねえ耳よお」
「耳って……」
確かに耳と言われれば耳だろう。但し人間のものではない。
薄いベージュに近い黄色。スプーンのように湾曲し、先が尖った形状をしている。カナミもよく知るその本来の持ち主は。
「ガルーラ?」
「あったりー」
「いや、いやいや、あったりーじゃなくってね?」
カナミは改めてまじまじと、能天気な母の顔と作り物の耳を見比べる。うん、アウト。
「いい歳こいたおばさんが、ポケ耳のコスプレってないだろ!」
「あらいーじゃない、幾つになっても女は乙女よ?」
細い目尻にしわを作って満面の笑みな我が母に、カナミは頭を抱えたくなる。そこはせめてカビゴンだろう。
「ほら、これカナミの分」
油断した隙にかぽっと頭に被せられたそれを触ってみると、どうやら同じガル耳らしい。カチューシャにくっつけた作りのようだ。
「これでルーランやルルとおんなじねえ」
「そっすね。それで結局これはなんなの?」
「なにって、今夜やるでしょハロウィン?」
「シラナミ地方にバケッチャいねーよ!」
カナミはこれでも、自分は堅実な方だと思っている。遠い地方の見たこともないポケモンにまつわる祭りを見境もなく拾ってきては、その意味も知らずにきゃいきゃい騒ぐ最近の風潮はどうかと思う。デリバードがいるからクリスマスはまだわかるけど。
そもそもシラナミ地方には、最近まで他地方の文化などなかった。気象的に隔絶されてその存在すらろくに認知されていなかったらしいシラナミ地方は、まるで天の気紛れのように現れた航路により長い孤立から解き放たれた。
それから先はスポンジだった。次々と他地方の文化や技術を取り入れて、地方の様相は瞬く間に変わった。未だド田舎であることに変わりはないが、旅人や移住者も少しずつ増え外界と常識を共有できる程度にはなっている。
だからってこの母親は。
「ほらほらこれも着て。せっかくなんだし外出てお菓子もらってきなさい。あ、なんなら一緒に行こうかしらガルーラらしく」
「はしゃぐなおばガル。いやまじやめて頼むから」
こんなことでマルーノジムに妙な噂でも立たせてなるか。カナミはこれ以上母がその気になる前にそそくさと避難する。自室では追い詰められると思い外に出てから、母力作のガル耳をつけっぱなしだったと思い至る。
「ハロウィン、ねえ」
カナミは作り物の耳に触れながら、ふと思い付く。そうだ、これであの田舎者を驚かしてやるのも面白い。
▼
マルーノシティの中心、セントラルプラザ。その広場で待ち合わせた年下の友人の姿を見た途端、カナミは当初の目論見を忘れた。
「あれ、カナミもなんか変なかっこしてる」
落ち着きなくハネた明るい色の髪に、素直さを形にしたような真ん丸の目。間違いなくこの間知り合った旅人の少女そのものなのだが、その格好が異様だった。
耳飾りのついたふさふさの帽子。ふわふわした黄色いスカートに黒いタイツ、大きな尻尾。手には偽物の火が灯った木の枝を持っている。
「あー、あれだ。テールナー」
「てーるなー?」
「あんたのカッコ。どーしたのそれ」
「アイハさんに着せられた。このカッコしてたらお菓子もらえるんだって」
あーなるほど、とカナミは思う。面倒見のいいを通り越しているあの人のことだ、滞在者を可愛がるあまり着せ替え人形にして喜んでいる姿は容易に想像ができた。
「お菓子もらえたの?」
「うん。歩いてたら色んな人がくれた」
「フツーは脅して要求するもんなんだけどねー」
「そうなの?」
まあ、これを見たらトリックされずともトリートしてしまいたくなる気持ちはわかる。それくらいの完成度の上、一緒にいるのがこのエーフィだ。こちらは正当派魔女スタイルで、片耳にすっぽり三角形の帽子を被り、首まわりにはケープとひらひらのリボン。これが可愛くないものか。
けれどその魔女っ子エーフィは、カナミ自身とその隣に立つ姉妹をじっと見つめてやまない。その理由もわかった。
「カナミのカッコは、ルルとお揃い?」
「そ。ついでにママやルーランともね」
カナミが着ているのは、全身すっぽりつなぎ型の着ぐるみだ。もちろんモデルは若いガルーラ。
「いいなあ、あたしもそういうのがよかった」
「今度アイハちゃんに頼んでみたら。たぶん大喜びで作ってくれるよ」
エーフィのためにも、是非そうしてやっほしい。おとなしく控えめにしてはいるが、どう見てもこの視線はカナミとルルを羨ましがっている。心が痛い。
「まーじゃあ行きますか」
「どこに?」
「お菓子狩り」
本当はこの少女を異国の文化でからかう程度のつもりだったが、こうも本気の仮装を見せられてはさすがにその気になってきた。
そもそもカナミは、祭りで騒ぐのは決して嫌いではないのである。
▼△
「とりっく、おあ、とりーと!」
「あーあーはいはい持ってきなー」
ゴルバットにランプラー、マスキッパなどなど、思い思いに仮装した子どもたちに囲まれて、カナミは景気よくお菓子をばらまいた。なにせ、大猟だったのである。
「結構あげちゃったけど、まだまだあるね」
「まーね、あたしにかかりゃこんなもんよ」
カナミは気分よく飴玉を口に放り込み嘯く。実際にセントラルプラザを一回りしただけで抱えきれなくなったのだから、あながち大言でもないが。
「でもさ、せっかく集めたのになんであげちゃうの?」
「これ全部食う気かあんた。太るよいやしんぼ」
「ちっ、ちがうよ、クロのおみやげ! それに、せっかくくれたのに勝手にあげていいのかなって」
「あーあーはいはい」
カナミは少し考えて、人差し指をたてて見せる。
「いいツバキ。社会に子どもは大事でしょ?」
「しゃかい?」
「そ。子どもが笑うのがいい社会」
「ふーん。それで?」
「大人は子どもにお菓子をあげます。あたしらでっかくなった子どもも、小さな子達にお菓子をあげます。するとどんどん子どもにお菓子が集まります。未来はハッピー。これをお菓子のピラミッドといいます」
「へえ……」
わかっていなさそうに首をかしげて唸るツバキ。カナミは棒つきキャンディの包みを開けて、ツバキの口に突っ込んだ。
「むぐっ?」
「糖分摂って哲学に思いを馳せなさい。それがハロウィンってもんよ」
そう言いながらカナミはポフレを二つとり、ガルーラのルルとエーフィのシロに食べさせた。これも遠い地方からやってきたお菓子だ。
そんな時だった。
――くれえ…………くれええ…………。
後ろから囁くような声が聞こえて、カナミはむっと眉根を寄せる。
お菓子をやるのはやぶさかじゃないが、そこは元気に「おかしくれなきゃイタズラしちゃうぞ☆」が常套句だろう。いくら未来を担う子どもでもくれと言うのにくれてやるのは気乗りしない。
――けちゃ…………けちゃちゃあ…………。
けちゃ?
それはいったいどうしたことか。
「ケチャップくれって、そんなあほなハロウィンがあるかあ!」
カナミが来るんと振り向くと、そこには誰もいなかった。よほど小さな子かと思って足下まで見下ろしてみたが、やはりなんの姿もない。
空耳だったか? そんなことを考えながら首をかしげていると、隣から上擦った声が聞こえた。
「かっ、カナミ……! 上、上……!」
上?
カナミはひょいと首を上げて、ぎょっとした。思わず数歩下がってしまう。
確かに二つのシルエットがあった。ただし地に足がついていない。そのまんまの意味で、浮いていた。
ひとつは全身真っ黒でひょろっちく、頭に枝の伸びた丸太を被っている。
ひとつはぷっくりまるまるとして、やはり黒い顔にピンクのパンツ。
確かに小さな子どものようだ。ただし人間のではない。
「脅かさないでよゴーストポケモン! いやいや違う、これでもノーマルポケモンの使い手、ゴーストなんて効かないんだからね!」
そう言ってびしっと指差してやると、二匹のゴーストポケモンはびくっとしてふわふわとたじろいだ。ふふん、ノーマルはゴーストに負けないもんねと、カナミはひとり胸を張って見せる。
「ご、ゴーストポケモン……? ホントに……?」
と、ここにも無意味にたじろいでいる友人がいた。ゴーストポケモンたちが不思議そうにふわりと近付くと、聞いたことのない悲鳴を上げて後退り、足がもつれて尻餅をつく。
「あんた……もしかして怖いわけ?」
見るとツバキにくっついて、エーフィのシロもがくがくがくと震えていた。その目には涙さえ滲んでいる。
「あー、まあエスパーだし?」
だからといってトレーナーまでこの様か。カナミは肩を竦めて見せる。ポケモンの弱点を補うこともトレーナーの役目のはずなのだが。
「ゴーストったってポケモンなのにねー」
「で、でも……ゴーストでしょ。怖いやつでしょ」
こいつもしかして、ゴーストポケモンとお化けをごっちゃにしてるクチか。いや、実際お化け同然の謂れのあるポケモンも多いが。
「確かボクレーにバケッチャだよねー。初めて見たよ」
「ぼくれー、ばけっちゃ……?」
「あんたのカッコと同じ地方のポケモンだよ。いい加減立ちなってだらしないなあ」
このポケモンたちがどこから来たかはわからないが、確かどちらもシラナミ地方では発見例のない種類のはず。ならばトレーナーがいるのだろうか。
「くれれえ」
「けっちゃちゃ」
彼らの視線はカナミの手の中。ルルたちにあげたポフレの残りだ。
「あーあーはいはい、これがほしいわけね。ほれ」
新しいポフレを出して差し出してやると、二匹はふわりとカナミの手のそばに近付いてきた。また小さな悲鳴を上げるツバキは無視する。
すぐに食い付いてくると思いきや、二匹はポフレを囲むようにして、手にも取らずにじっと見ていた。
「遠慮しなくていーよ。まだまだあるし」
そう言ってやっても、やはりじっと見つめるばかり。ふわふわと浮いて、手も口もつけようとしない。
その顔はどこか、寂しそうで。
その時。
――ぶみゃあああっ!
けたたましいポケモンの鳴き声。びくりと二匹が震え出す。
――にゃごおおおっ!
たかたかと多くの足音を鳴らし、現れたのは数匹のポケモンたち。ニャースにブニャット、双子らしい小さなエネコ。みんなただならぬ雰囲気で、ひどく気が立っているようだった。
「なに、こいつら!」
ツバキたちを見て、一瞬ニャースたちの動きが止まる。その隙にと、二匹のゴーストポケモンたちは風に乗るように逃げ出した。はっとしたニャースたちも直ぐに追っていく。
「なんだったの、あれ」
「ツバキ、行くよ!」
「えっ、あっ、カナミ!?」
返事を聞く前に、カナミは駆け出す。ルルが並走し、ツバキとシロがついてくる足音も後ろから聞こえた。
「カナミ、どうしたの急に!」
「あいつらたぶんみんな野良だ」
見えてしまった。
さっき、あの二匹の寂しそうな横顔を見たときに。
あの二匹は、遠い遠い地方から来たのだ。
愛するトレーナーに連れられて来たのだ。
そのトレーナーはいなくなってしまった。
二匹は野良になってしまった。
けどこの地には先住のポケモンたちがいた。
ポフレは彼らのふるさとのお菓子。
彼らの愛するトレーナーが、彼らのためにいつも作ってくれたお菓子だ。
行く宛もなくて。
寂しくて。
全部ただの妄想だ。
事実はまるで違うかもしれない。
そんなことは、どうでもいい。
「なんかね、放っとけなくなっちった」
それだけだった。
ポケモントレーナーのカナミには、それだけでよかった。
▼△▼
セントラルプラザを出て、ノースストリートの裏路地に入った。寂れた空き地に、二匹のゴーストポケモンたちは追い込まれていた。
二匹を取り囲んでいたニャースたちが一斉に振り向く。
理由は知らない。
彼等に非は無いのかもしれない。
そんなことはどうだっていい。
ニャースたちが爪を立てて鳴く。
カナミは構わず、つかつかと彼等の間に入っていく。
「カナミ? 危ないよ!」
止めに入ろうとするツバキを、ガルーラのルルが片手で制した。その目はカナミをまっすぐ見ていた。
毛を逆立てて威嚇するニャースたちを無視して、カナミは二匹のゴーストポケモンの前に立つ。
「あんたら、ちょっとあたしに付き合え」
二匹は戸惑ったようにふわふわと浮いて、互いに顔を見合わせる。カナミは構わず、二匹の後ろに仁王立ちした。
ニャースたちがじりじりと間合いを測る。カナミは表情を変えないまま、挑発するように手招いた。ニャースたちはがりっと爪を立て、怒りの形相で一斉に飛びかかってきた。
ボクレーとバケッチャがびくりと震える。カナミははっきりと指示を出した。
「バケッチャ、“ハロウィン”!」
バケッチャが一瞬驚いたように振り返ったが、カナミと目が合い、前を見た。次の瞬間、ニャースたちの動きが止まり、四ひきとも不自然にふわふわと浮いた。
相手をゴーストにする技、“ハロウィン”。ニャースたちは突然起きた自らの異変に適応できず、ばたばたと空中でもがいている。
「ボクレー、“シャドーボール”」
ボクレーもやはり戸惑って一度振り返る。しかしカナミはそれ以上は何も言わない。ボクレーはおどおどしたままニャースたちを向くと、両手の間に小さな黒球を生み出した。ボクレーはもう一度頭を回してカナミを見る。カナミは何も言わなかった。
ボクレーは小さく震えたまま、目を閉じて黒球を投げつけた。自由がきかず避けようのないニャースたちは慌てたように暴れたが、黒球はニャースの体をすり抜けて呆気なくどこかへ飛んでいった。
「やっぱり、触れられるようになる訳じゃないんだ」
カナミは呟く。
予想はできていた。けれど確認してみて、少しだけ小さな溜め息をつく。
ノーマルとゴーストは、互いに触れることができない。
だから互いが怖いのだ。
ニャースたちはボクレーの技が当たらないとわかると、また鳴き声を上げて騒ぎ出す。ボクレーとバケッチャがびくりと震える。
カナミは小さく、よく通る声で指示を出す。
「ルル」
ガルーラが頷き、跳躍する。そしてニャースたちの目前に着地し、その拳を降り下ろす。ずしん、と。乾いた地面にめり込んだ。
「ルルは“きもったま”。今のあんたらも殴れるよ」
ニャースたちはその威力に息を飲み、ようやく騒ぐのをやめておとなしくなった。
その時ちょうど、バケッチャの技の効力が切れた。とすんと、ニャースたちが次々地面に着地する。けれどニャースたちは、もうボクレーとバケッチャを追い回そうとはしなかった。ただそそくさとその場を去っていこうとする。
「待ちな!」
それをカナミの一喝が止めた。ニャースたちはおずおずと振り向き、カナミの顔色をうかがおうとする。
「怒っちゃないよ。あたしが怒る道理もないしね」
ニャースたちは首をかしげる。
カナミはにかっと笑って見せた。
「バケッチャ、もっかいみんなに“ハロウィン”!」
バケッチャは疑問符を浮かべふわふわしていたが、カナミが頷くと頷き返した。そして眼を閉じ、その力を広げていく。
「え、わ、わわっ!?」
ニャースたちが、そして今度はツバキたちも浮かび上がる。シロは大慌てでばたばたしていて、ツバキは姿勢を保てず空中で回転し始める。
「わ、わああ、とめてーっ!」
「あはははっ、こりゃいーね!」
カナミ自身も浮き上がっていた。体に重さがなくなったかのような不思議な感覚。幽体離脱なんてものが本当にあるなら、こういう感じだろうと思った。
ボクレーとバケッチャはそんな人間とポケモンたちを見ていた。
ふわふわと浮くニャースたちと、同じ高さに目線があった。
「よーっし、ついで! ボクレー、“もりののろい”!」
「え!? わっ、ええええっ!?」
今度はボクレーが力を広げる。するとツバキの髪が植物の蔓のように伸びて、葉をつけた。全員に同様の異変が起きて、ニャースたちも一様に慌てふためいた。シロはもはや思考が止まったように固まっている。
「あはっ、あはははっ! これでみーんなおんなじだ!」
ボクレーとバケッチャは目をぱちぱちさせ、互いに顔を見合わせる。それから少しだけ、小さく笑うのがカナミにも見えた。
▼△▼△
夢のような呪いが解けて。
カナミたちは地上に降り立つ。
まだ少しふわふわしたような感覚が残って、少し足下がふらついた。
ニャースたちはぶるりと震え、自らの毛をぺろぺろと嘗めた。その顔にはもう、怒りも戸惑いも消えていた。
「カナミは、あの子達をこらしめようとしたんじゃないんだ」
ツバキが尻餅をついたまま、ぼんやりしたような声で言う。まだ夢見心地から抜けていないようだ。
「野良には野良のルールがあるっしょ。そこには入り込んだりはしないよ」
カナミはうーんと伸びをした。ボクレーとバケッチャが夕陽に眩しい。
「あの子らはあの子らでやっていかなきゃ。そのための力は、争うようなもんじゃなくてもいいってね」
自分と同じ仲間を作る。
そんな力が彼等にはあるから。
「うん。あたしも、もうお化けだからって怖がるのやめる」
「言ったね。よーし、じゃあこれもみんなで食べちゃおっか!」
カナミはバッグをひっくり返して、お菓子を全てばらまいた。ニャースたちは目の色を変えて、大喜びで食い付いていく。
「あーあ、全部あげちゃった」
「まだお祭りはこれからっしょ。いくらでも巻き上げてやるっての」
ボクレーとバケッチャは、美味しそうにポフレを頬張る。
カナミとツバキは顔を見合わせ、にかっと笑った。
――……ありがとう。
ツバキの笑顔が、凍りつく。
「え……え、あれ? え? 今の声って……」
ツバキはぐるぐると周囲を見て、何度も誰もいないのを確認する。シロは顔を真っ青にして、目に涙を浮かべて戦慄く。
「どーいたしまして、お化けさん」
カナミがにかっと笑って言うと、ツバキとシロは悲鳴を上げて逃げ出した。