さくらんぼと梅の化け物

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トリップ物、設定はアニポケ寄りです。全体的にふよふよした謎の話。ポケモンという存在がない世界からトリップなので少々特殊かもしれません。初投稿です、よろしくお願いします。
 梅之助さんがおぎゃあと泣いた時、梅の花が咲いたばっかで、それはそれは良い匂いがしていたらしい。生まれた時分のことなぞ梅之助に分かるはずもねぇもんだから、おっかさんのいうことをハハァそうですかい、と軽く流していた。梅之助さんには五人の兄ィがいる。兄ィたちは、いないおっとさんの代わりにおっかさんを支えるため、立派に働いている。梅之助さんは、立派でない。最初は兄ィのようにおっかさんを支えようと思っていたのだけれど、そう思えば思うほど気が重く、仕事に手がつかなくなってしまった。家に帰っても親不孝者と罵られ追い出されるだけなもんだから、梅之助さんはすっかり長屋の苔になった。自分が生活しているだけ稼いで、あとはのんびり暮らす。どうやら梅之助さんには、そっちの方がお似合いだったようだ。
 自分が自分の道を選び、家族への感謝を捨てたこと。それがどんなに罪深いことか、梅之助さんは何となァく分かっていた。どんな縁も大切にするってもんが人情。親兄弟なら猶のこと。それを疎ましいと思う梅之助さんは、自分で自分を人で無しだと思っている。
 だから見知らぬ森で目を覚ました時、ヤレ人で無しが人ならずにようやっと呼ばれたかと、驚きもせず思ったのだ。



「こりゃあ困った」
「ちぇり?」
「さくらんぼにも化け物が居るたぁ知らんかったね」
 己を覗き込む大きなさくらんぼを見て、梅之助はポリポリと頬をかいた。出会うならもっと恐ろしげな鬼かと思っていたものだから、こんな愛らしい顔をしたさくらんぼ来たらどうしていいのかわからなくなったのだ。ムクリと起き上がると、さくらんぼの化け物は楽しげに笑う。どうやら梅之助に怪我がないようなので、喜んでいるらしい。
「やれ、どうしようかね。おめぇさんは私を喰うわけでもなさそうだ」
 梅之助は学があるわけではないので、化け物にどんなのがいるのかは詳しく知らない。ただ漠然と恐ろしげな容貌をした鬼が出てくるのではと思っていただけだ。よくよく見てみれば、緑あふれる森は強い日差しを遮って、優しい木陰を生みだしている。こんなところに鬼や人食いが出るとは到底思えなかった。ヤレ困った、ともう一度呟き、未だ己の傍を離れないさくらんぼの化け物を見やる。興味深そうに見上げてくる円らな瞳が、どうにもむず痒い。
「ここはどこだろうねぇ……。おめぇさんは分かるんだろう?」
 ようやっとたどり着いた疑問をさくらんぼの化け物にぶつけても返ってくるのは、ちぇりちぇり、と楽しげな声だけ。どうやら言葉は通じないようだと分かり、大きくため息をつく。
 鬼にでもあったら己を喰らってくれよう。だからこんな見知らぬ場所に来てものんびりしていられたというのに、実際出会ったのは愛らしい顔をしたさくらんぼである。これからどうすればいいのか、梅之助にはとんと見当もつかなかった。
「お江戸に近けりゃいいんだけど……ハテハテ、ここが日ノ本の国とも思えない」
 神隠しだろうか。それならば、このさくらんぼの化け物は何かの神か神の使役か。
「……そんな大層なモンには見えないけどね」
 未だ、ちぇりちぇり、と周りを飛び跳ねるさくらんぼの化け物に、そっと触れてみる。つるりとしたその表面は、本物のさくらんぼのように瑞々しかった。少しだけひんやりとした体温が気持ちよくて手を動かせば、顔を輝かせて擦り寄ってくる。こんなところは犬猫のようだ。
 サテ、と梅之助はぼんやりとしていた思考を正す。ここでこうしていてもどうしようもない。鬼に会ったら大人しく喰われようと思っていたぐらいには生に頓着はないものの、飢えて死んでもいいと思っているわけでもないのだ。だとしたらすることは一つ。動くことだ。動いて、まずは言葉が通じる者を探そう。人だろうが鬼だろうが構わない。前者ならここがどこだか分かるだろうし、後者なら先に思った通り喰ろうてくれるだろうて。
 そこまで考えて、よし、と足に力を入れて立ち上がった。さくらんぼの化け物が、どうしたのかと不思議そうに梅之助を見上げる。
「私ゃ行くよ。ここでいつまでも寝ッ転がってるわけにも行かないんでね。おめぇさんはどうするんだね?」
 さくらんぼの化け物はここの者だろう。ならば心配することは何もない。それでも聞いたのは、見知らぬ場所で目覚めたことで生まれた寂しさ故か。まだ己にこんな心があったのかと、梅之助は妙に感心した。
「ちぇり!」
 そんな思いを知ってか知らずか、さくらんぼの化け物は梅之助の足に擦り寄り、嬉しそうに声を上げる。どうやら付いてくるらしい。何なら人が居るところに案内してもらいたいもんだけど、と梅之助は心の中だけで呟いた。
 ざくざくと地面を踏む。茂る草をかき分けて、ただ進んだ。こっちだという確証はないが。自分の勘が人並みであることは分かっているし、何かに導かれているなんて感覚もない。これでどんどん森の奥へと進んでいっていたら笑えるな、なんてどこか他人事のように思っていた。
 ただ歩く音だけが響く。そんな中で、梅之助はポツリと漏らした。
「おめぇさんは楽しそうだね」
「ちぇり?」
「本当に、楽しそうだ」
 何が楽しいのだというのだろう。無邪気に笑うさくらんぼの化け物は、自分より余程感情が表に出る。見知らぬ自分からくっついて離れないところを見ると、人懐っこいのか。何にせよ、情も幾分かあるのだろう。言葉が通じないのを除けば、梅之助よりも人らしい。姿かたちこそ異形だけれど、心だけで言えば梅之助の方が化け物だ。寂しいだなんて普通の人なら誰でも持っている――それこそ産声をあげたばかりの赤ん坊だって――感情があることに驚いて、それさえもどこか冷静な自分が端から見ている。
「私ゃね、疲れちまったんだ」
 気づいたら自分の前には細くて長い一本道があって、その両側には何もない。ただ暗闇が続いているだけ。長い長い一本道には、誰かが立っているように思えた。歩けば歩くほど、それが母であることが分かる。おっかさんに楽をさせてやらねばならない。おっかさんには色んな恩があるのだから。暗闇から聞こえてきた声は、恐らく兄たちの物だろう。歩けども歩けども、母の姿は一向に近くならない。姿は動いていないはずなのに、どうしてもたどり着けない。兄たちの声は、どんどん大きくなってくる。
 梅之助はそれに気づいたとき、とんでもなく面倒くさくなった。おっかさんのため、おっかさんのため。ただそれだけで歩いていって、何になるというのだろう。掴めぬものを掴もうと進み続けて、一体何が得られるのだというのだろう。延々と同じことの繰り返し。こうしなければと押し付けられた情は、こんなにも狭苦しい。人の情は損得ではないとは思うけれど、でも望まないままにこんなとこに押しやられるなんて。
 逃げたかっただけなのかもしれない。自由という言葉に惑わされたのかもしれない。たくさんの"かもしれない"の中で、これだけは確かに言える。――梅之助はどうしようもなく疲れたのだ。だから、情を捨てた。
「平気で捨ててしまって惜しむことすらなかったから、やっぱり私ゃ情無しの人で無しだねぇ」
 ふふ、と笑う梅之助に、言葉をかけるものはいない。さくらんぼの化け物はただ不思議そうに見上げるだけである。恐らく梅之助の言葉を理解できなかったのだろう。おめぇさんはそれでいいんだよ、と歌うように言い、梅之助は歩を進めた。そのあとは、ただただ無言で人を探す。



 梅之助さんはまるでお人形さんだなァ。
 いつだったか何某さんが言った言葉だ。梅之助さんはその何某さんの顔こそぼんやり思い出せれど、どこの誰かはとんと思い出せない。けど、その言葉だけは覚えていた。
 心が笑うでもない、泣くでもない、怒るでもない、梅之助さんの中にはなァんもない。能面だって中に人がいるものさ、けンどお人形の中にはなーんもない。梅之助さんと同じだァ。
 ハテ、その何某さんは笑っていただろうか、呆れていただろうか。どうでも良いことであったけれども、嗤ってはいたんだろう。バカにされてンなァとは思ったけれど、やっぱり梅之助さんは怒らなかった。そんなこたァねぇ、そう言い返せるほど、梅之助さんは自分を人とは思っていなかったから。



 バサリ、と羽ばたく音がする。鳥がいるようだ。遠かったその羽ばたきは、どんどんこちらへ近づいている。それに気づいた時、梅之助は足を止めた。ハテ、鳥が居るのか。見たことのある鳥ならば、江戸が近いかどうかが分かる。足からひやりとした感触が伝わる。見れば怯えたようにさくらんぼの化け物が身を寄せたところだった。近づいてる鳥はさくらんぼの化け物にとってはよろしくないもののようだ。まぁ、さくらんぼであるし、仕方ないのかもしれない。
「ヤレ、ただの鳥ってわけでもないのかねぇ」
 さて、と周りを見渡して、手頃な木の棒を見つける。少々細いけれども、鳥の一匹や二匹なら叩いて追い払えるだろう。喧嘩などしたことはないが、人並みに動けるはずだ。
 バサリ、バサリと音は近づいてくる。見られている、と思った。遠くからだが、確かに件の鳥はこちらを見ている。嗚呼これはマズイかもしれないなァ、なんて他人事のようなことが思い浮かんで消えた。
「ちぇりっ……」
 さくらんぼの化け物が身をすくめる。それに呼応するようにして、木の陰から影がにゅと出てきた。
 幼子ぐらいの大きさの鳥。羽を広げると、ますます大きく見える。たかが鳥と侮っていた梅之助は眉をひそめた。さくらんぼの化け物とはまた違った意味で、こんなものが来るとは思っていなかった。
「鳥の化け物かい。この妖しの世には、マトモな生き物がないと見える」
 馬の尾のように伸びた赤をなびかせて、鳥の化け物が声を上げる。ぐるり、ぐるりと旋回しながらも、こちらを睨みつけることを忘れない。
「私を喰うかい? あんたならそうしそうだ」
 クスリ、と笑えば鳥の化け物が止まった。そのまま宙に浮いて、こちらを見る。嗚呼、あれは獲物を見定める目だ。向けられているのは己だというのに、相変わらず梅之助には何の気持ちもわかない。
「ちぇり!」
 と、さくらんぼの化け物が梅之助の前へと飛び出す。
「ちぇええりっ!!!」
 さくらんぼの化け物の頭にある葉が不思議な色に光ったかと思うと、浮かび上がってきた光の刃が鳥の化け物へと飛んで行った。鳥の化け物は一瞬目を見張ったように見えたが、すぐに余裕の顔に戻って光の刃を打ち消す。さくらんぼの化け物は、怯えたように身を震わせた。
「なんだい、おめぇさんの妖術はあんまり強くないみたいだねぇ」
 不思議な光景に固まっていた梅之助だが、光の刃を消され、すっかり怯えたさくらんぼの化け物を見て一歩前に出た。
「まァ、私ゃ喰われようが気にしないんだが、ここまでついてきてくれたこの子を巻き添えにするのはちょいと忍びないねぇ」
 くるり、と手で回した木の棒は細くて脆い。あの堅い嘴でつつかれたらひとたまりもないだろう。まぁ、それでもさくらんぼの化け物が逃げるぐらいの時間は出来るんじゃあないかと梅之助は思うのだ。貧しい生活ではあったけれど、養うのは自分だけで良かったからそこまで困っていたわけでもない。仕事もしていたから、人並みの力はあるはずだ。
「どれ、ここは私がやろう。おめぇさんはどこへなりとも行っちまうが良い」
「ちぇり!?」
 驚いたようにさくらんぼの化け物は目を見張り、体ごと左右に揺らす。どうやら否の意を示しているらしい。
「そうは言っても、私もおめぇさんも勝てそうにないじゃないか。私は別に生きようとも思ってねェから、おめぇさんには逃げなって言ってるだけなんだがねぇ」
「ちぇり!!ちぇりり!!」
 必死に体を揺らすさくらんぼの化け物に、ううん、と梅之助は首を傾げた。どうしたら逃げてくれるだろうか。鳥の化け物が綺麗に丸呑みしてくれるとは思わないから、血生臭い絵になると思う。この無邪気な目をした化け物に、そんなものは見せたくなかった。
「ピジョォオ!!!」
 鳥の化け物が叫ぶ。感じる風は妖術か。鳥の化け物は、体勢を整えて真っ直ぐこちらに飛んでくる。あの速度でぶつかられたら、こんな細い枝など無いも同じ。嗚呼、これは終わった。そう思いつつも、梅之助は枝を構える。
「ピィカチュッ!」
 ほとばしる稲妻が、鳥の化け物へとぶつかった。鳥の化け物は目を回し、泡を食ったようにどこかへ飛び去る。呆気にとられていると、さくらんぼの化け物が嬉しそうに飛び跳ねた。
「ちぇりっ!」
「チェリンボ!!」
 がさがさと草をかき分けて出てきたのは、十ほどの年であろう少年たち。一方は梅之助より少し年下に見えた。
「どこ行ってたんだよ、心配したんだぞ!」
「怪我がなくて良かった……」
 これは奇ッ怪な、と梅之助は首をひねった。服装もそうだが、何より少年たちは髷を結っていないどころか月代ですらない。十になったばかりの少年はともかく、もう一人の少年はそろそろ元服だろうに。ひょい、と見れば、十ばかりの少年の足元に黄色い塊があった。さくらんぼの化け物と似たような黒い円らな瞳をしている。兎とも鼠とも称しがたいその姿からは想像できないが、どうやらコレが先ほど雷を放ったらしい。
「そこの黄色い化け物のは雷様のお使いか」
 どうやら本格的に妖しの国だなァ、とぼやくと少年たちはようやっと梅之助に気づいたらしい。小さい方がさくらんぼの化け物を抱え、黄色い化け物が毛を逆立たせる。
「黄色い化け物のってなんだよ! ピカチュウはピカチュウだぞ!」
「ぴかちゅう? なんだい、それは名前かい?」
 その言葉に、少年たちは面食らったようだ。顔を見合わせ、チラリと梅之助の方を見る。
「あなたは、誰ですか?」
「私かい? 私ゃ、梅之助。さっきそこで目が覚めてね、人がいないかと思って歩いていたんだよ」
 あくまで飄々とした態度を崩さない梅之助に、少年たちの眉間の皺が深くなっていく。さくらんぼの化け物が、不安そうに梅之助を見た。
「お前、そんなこと言って……ポケモンたちを盗もうとしたんだろう!」
「ぽけもん? 南蛮語は分からないんだが……」
 大きい方の少年の言葉に、梅之助は肩をすくめる。
「何にせよ、盗みだなんてとんでもないことだァね。私ゃ自ら死ににいくようなことはしないよ」
 ヤレ恐ろしい恐ろしい、と腕をさする様に、少年たちが揃って首を傾げた。どうやら、話が噛み合っていないことに気づいたらしい。ここが妖しの国だと分かっている梅之助は、やっとか、と心の中だけで呟く。
「ケンジ、こいつ何か変だ。ブーピッグのしっぽみたいな髪してるし」
「いや、髪は関係ないと思うけど……さっきから話が通じてないよね」
 ヒソヒソと交わしているようだが、生憎と筒抜けだ。江戸に帰れるとは思っていないが、せめてここがどういう世なのかぐらいは分かっておきたい。少年たちがこちらの話に応じてくれるといいのだけれど、このまま不信感を持たれたままではそれも出来ないようだ。サテどうしようねぇ、と口の中だけで言葉を転がす。
「とりあえず、研究所へ連れて行こう」
「そうだな……えっと、ウメノスケ、さんですよね」
 大きな少年の言葉に、小さい少年が頷く。そこでようやく黄色い化け物も警戒を緩めたようだ。
「一緒に研究所に行きましょう」
「そこでお話を聞きま……って、ちょっと泥だらけじゃないですか!」
 近づいてきた大きな少年が、ザッと飛び退る。さくらんぼの化け物は平気で擦り寄ってきていたもんだから、驚いた。そういえば昨晩は雨が降っていて、道はどろどろ。しかし特に上等な服を着ているわけでもなかったから、平気で泥道を駆けていたのだった。それは汚れもしようて。
「サトシ、とりあえずお風呂に連れて行こう!!」
「わ、分かった!!」
 必死な形相の大きな少年に、小さな少年がガクガクと首を縦に振る。
「……汚物みたいな扱いされるとはねェ」
 梅之助の声は、ぽとりと草の上に落ちた。


「どうですか?」
「うん……なんだ、この世の風呂は気持ちがいいね」
 じんわりと体にしみこむ温かさに、思わず息を吐いた。その様子に、一緒に入っていた小さな少年サトシは満足そうに笑う。
 長屋とは比べものにならないぐらい大きな家に連れていかれ、ここが風呂です、と通されたのは良いものの、そこは梅之助が想像していたのとは全く違っていた。丸い穴の開いた鉄の箱に、風呂にしては浅い白い受け皿のついた棚。後に聞けばそこは脱衣所だったようだが、己の知るものとは違ったため、分からなかったのだ。ぐるりと見渡して一言、どれが風呂だい、と聞いた梅之助を見かね、サトシが一緒に入ろうと提案したのだった。
「ウメノスケさんは記憶喪失なんですか?」
「いんや、生まれも育ちもハッキリしてるさね」
 あまりにも物事を知らなかったためだろう。サトシは梅之助にそう訪ねてきた。
「そうだねぇ、私にも分かってるわけじゃないけど……私はこの世ではないところから来たんだ」
「この世ではないところ?」
「江戸の街さ」
 エド、と復唱する少年に、梅之助は知らないだろうと断じる。少年は小さく、悔しそうに頷いた。断言されたのが癪だったのだろう。
「それより私はこっちの世界について教えてもらいたいね。その……ぽけもん、ってのは何なんだい?」
 聞けば、サトシは一瞬言葉につまりながらも己の持てる言葉で梅之助に説明してくれた。
 ポケモンは未だ解明が進んでいない、不思議な生物であるということ。この世界の人々は昔からポケモンとともに暮らしてきたこと。ポケモンには種々様々な力があり、それを駆使して戦ったり見世物をしたりするのだということ。サトシはより多くのポケモンと出会い、ポケモンマスターになるため、旅を続けているらしい。
「へぇ、そりゃあ楽しそうだ」
「はい! ツライことも苦しいこともいっぱいあります。でも、ポケモンたちと一緒に成長していくのは、本当に楽しいんです!」
 だよなピカチュウ、とサトシが声をかけた方に目を向ければ、曇って不明瞭な硝子の向こうで影が動いた。どうやら先ほどのピカチュウ、そしてチェリンボであるらしい。
「ぴっかちゅう!」
 サトシの声に応えるようにして影が手をあげた。その楽しげな声音に梅之助は、そうかいそうかいと頷く。サトシとピカチュウは、どうやら深いところで通じ合っているらしい。
 瞬間、梅之助の顔から色が抜け落ちる。己が捨てたものが、そこにあるのを見たからだ。
「ウメノスケさん! そろそろ出ましょうか!」
「うんうん、そうだねぇ」
 そんな梅之助には気づかず、サトシはざばりと上がる。梅之助もそれに次いで立ち上がった。ガラリと脱衣所との仕切り戸を開ければ、そこに先ほどの影の姿はない。どうやら上がるという声を聞いて、先に客間に戻っていったらしい。用意された柔らかな布で体を拭き、置いてあった服に袖を通す。梅之助が普段着ている服とは全く違った構造で苦戦したが、これもまたサトシの手助けによって無事に着ることができた。
 こちらだと先に立って歩くサトシについていけば、先ほど通った客間にたどり着く。そこには先ほどであったケンジという名の少年、そして初老の男が座っていた。
「初めまして、ワシはオーキド。ポケモンの研究をしておる」
「研究……あぁ、学者さん。なら先生ですねぇ」
 名を名乗り返して、勧められた通りに腰かける。椅子だというそれは柔らかく、普段床に座る身としてはどこか不思議な感覚に陥ってしまう。梅之助が何か言うよりも先に、サトシが声を張り上げた。
「聞いてくれよ、オーキド博士! ウメノスケさんって違う世界から来たんだって!」
 その言葉に、オーキドもケンジも目を見張る。隅っこで様子を見ていたらしいピカチュウとチェリンボも驚きの声を上げていた。まさかそのような事情があるとは、誰も思わなかったのだろう。
「どういうことか、詳しく聞かせてくれんかの」
 ぐっと身を乗り出したオーキドに梅之助は己が生きてきた世界を語った。緑が綺麗な故郷の村、賑やかな江戸の街、先ほど入ったのとは違う大きな大きな銭湯風呂。それら一つ一つを黙って真剣に聞いていたオーキドはやがて、ううむ、と唸った。
「嘘をついておるようには見えん……しかし、これはあまりにも」
「信じてくれないならそれでもいいさ。私が話せるのはこれだけさね」
 元より梅之助も最初から信じてもらえるなどと思っていない。サトシは純粋でまだ空想の世界に思い馳せることが許される年頃であるからすんなり受け入れられたようだが、こうして幾年も現実を見てきた大人からしてみれば突拍子もない話であろう。しかしどうしたって梅之助に語れるのはこれだけしかないのだ。いくら疑われようとも、否ということはできない。
「その話の真偽がどうであれ、お前さんは住むところがないということじゃな?」
「まァ、そうですねぇ」
 差し出された陶器に、ちゃぷんと白い液体が揺れる。どうやらこの世界にも牛が居るらしい。喉を通り体をほんのりと温める牛乳は、梅之助が今まで飲んだものよりも甘かった。
「ちぇり!」
「おや、おめぇさんは大層私がお気に入りだね」
 チェリンボが嬉しそうに梅之助の足に纏わりつき、その身を寄せる。履かされたズボンなるものの生地がこすれてくすぐったい。梅之助は落とさないようにと陶器を机の上に置いた。無邪気にじゃれついてくるチェリンボを見る目は、柔らかく優しい。その様子を見ていたオーキドとケンジがチラリと目くばせをしたのに、梅之助は気づかなかった。
「ウメノスケといったか、どうじゃこうしないかの?」
 オーキドの言葉に、梅之助がふっと顔を上げる。チェリンボもまたじゃれつくのをやめて、オーキドの言葉を待っていた。
「お前さんはまだまだこの世界のことが分かっておらん。恐らく生活文化が大きく違うのじゃろう。何より、ポケモンが分からんのは致命的じゃ。この世界の人々は、ポケモンとともにあるからのぉ」
 そこで、とオーキドは得意げに笑う。
「お前さんをここに住まわそうと思う」
 ハッキリと告げられた言葉に、梅之助はポリポリと頬を掻いた。
「そりゃ有難いんだがね……生憎私ゃ金は持ってないよ」
「ハハ、家賃などとは言わんさ。ただ、ちょいとワシの手伝いをしてくれれば良い。なに、そんな難しいことは要求せん」
 まず手始めに、とオーキドは足元のチェリンボを示した。一斉に視線が向いて、少しだけチェリンボが身をすくめる。
「そのチェリンボをゲットしてみてほしい」
「なんだって?」
 その時初めて、梅之助の顔に感情が出た。片眉を吊り上げて、どういうことだと驚いている。先ほどまでの自嘲的な笑みとも大袈裟な仕草とも違う、生の感情だ。
「手伝うのは吝かじゃないけどね、げっとってどういうことだい」
「ゲットは、ポケモンと友達になることですよ!」
 今までずっと黙っていたサトシが声を上げた。梅之助は怪訝そうな顔のまま、サトシを見やる。その目には剣呑な色が宿っているようにも見えたけれど、傍らの相棒を撫でるサトシは気づかない。
「俺とピカチュウみたいに、嬉しいことも辛いことも悲しいことも楽しいことも一緒に体験するんです!」
「助けられることもあるし、助けることもある。お互いを支える関係じゃ。そのチェリンボもお前さんを気に入ってるようじゃし、お前さんはポケモンを知ることが出来る。悪い提案ではないと思うがのぉ」
 サトシやオーキドの言葉を聞くうちに、梅之助の眉間にどんどん皺が寄っていく。
 そんな様子を見て、おや、とオーキドは首を傾げた。オーキドから見た梅之助は、低応力のとても高い青年であった。本人曰く、異世界に飛ばされたというのにそれに取り乱す様子は一切見られない。ケンジから聞けば、ピカチュウに威嚇されようともその態度が崩れなかったようだ。肝が据わっているのか、とんでもなく図太いのか。どちらにせよ、提案をつっぱねるような条件はなかったと思うのだが。
 つらつらと考えていると、梅之助が唸るように言葉を吐き出した。
「私は血のつながった親兄弟でさえ、疎ましいと捨てた情無しだよ。おめぇさんらにどう見てるかは分からんがね、私ゃ、恩を忘れ、愛を忘れ、ただ自分勝手に生きてきた。周りに泣かれようとも罵られようとも、何とも思わなかったような奴さ。笑うも怒るもどっかにやっちまった人で無しなんだよ。そんな奴に、友達なんざ務まるとは思えないけどねぇ」
 繋がりなど要らない、そんなものあっても大切に出来ないのだと、梅之助は言う。最初は歪んでいた顔だったが、喋るうちに平静を取り戻したのか、常と変らない作り笑いを浮かべる。それは己を馬鹿にしたようでもあったし、世界を嘲笑ったようでもあった。チェリンボが悲しそうに見上げるのにも、気づかない。
 梅之助の言葉が空に消える頃になっても、誰も何も発しなかった。どこか哀しい空気が漂う。
「そんなこと、ありませんよ」
 しばらくして、場を満たした沈黙を打ち破ったのは、ケンジの静かな声だった。
「そんなことありません。ポケモンは人の感情に敏感なんです。ウメノスケさんが本当にそんな酷い人だったら、チェリンボはそんなに懐きません。でもほぼ初対面にも関わらず、チェリンボはそうやってあなたにじゃれついてるじゃないですか。それは、ウメノスケさんが良い人だっていう、何よりの証拠なんですよ」
 梅之助が面食らったように大きく目を見開いた。何か言おうと、せわしなく口が動く。
 良い人などと今まで言われたことがなかった。自分のことだけを考えて生きていた己に、そんな言葉をかけられる資格なぞないとずっと思ってきた。それは仕方ないと思ってきたから、今更そう言われたって困るのだ。どう反応していいのか、梅之助は知らないから。
 ただ間抜けに空気の出し入れをするしかない梅之助の肩に、いつの前に目の前に立ったオーキドの手が置かれる。
「ウメノスケよ、お前さんは生まれ直したんじゃ」
「生まれ、直した?」
 こぼれそうなほど大きく目を見開いて言葉を繰り返す梅之助に、オーキドは大きく頷いた。
「そうじゃ、お前さんはこの世界のことを何も知らん。生まれたばかりの赤ん坊と同じでな」
「ウメノスケさん」
 サトシは優しく名を呼んで、足元に居たチェリンボを持ち上げる。そしてそのまま、座る梅之助の膝へと乗せた。
 チェリンボと梅之助の視線が交わる。チェリンボの純粋な、強い瞳が梅之助を捉えた。こうも強い瞳を見るのは、いつ以来だろう。梅之助はここ数年ロクに人と視線を交わしていないから、もう忘却の彼方に追いやってしまったらしい。見たような気もするし、見なかったような気もする。
「そのチェリンボも、まだまだ知らないことが多いんです」
 だから、とサトシは笑った。子どもらしい笑顔が、梅之助が胸の奥に追いやったものを照らす。
「一緒に知って行けばいいんですよ!」
「ちぇり!」
 応えるかのように声をあげたチェリンボは、笑っている。先ほどサトシが見せた笑みと同じだ。明るく無邪気で、とんでもなく無責任な笑顔。出来るという保証もないのに、出来ると確信している愚かな子どもの顔だ。あまりにも疎ましく、あまりにも眩しすぎる、子どもの。
 こんな時代があっただろうか、と梅之助は思い出す。父親は最初から居なかった。兄たちは父親の記憶があって、それぞれどんな遊びをしてもらったかということを良く話してくれた。けど梅之助にはそんなモノはない。幼い頃の梅之助は、ただひたすら兄たちに、母のため母のためと呪いのように聞かされていただけだ。母も親孝行な息子たちを誇り、梅之助にも兄たちのような人間になることを求めた。それだけが己の生きる道なのだと。サトシたちのように無邪気に無責任に笑うことは、なかったように思えた。
 あぁけど、と梅之助はそこで息を吐いた。
 笑った記憶が無くたって構わないのだ。彼らはそれもまとめてこれから知っていけば良いと言ってるのだから。この世界は未知で溢れている。そして己は、今まで知ることが出来たであろうことすら知らない。それも合わせれば、己が知っていくべきことが膨大な量になるはずだ。退屈することなんて、きっとない。
「それも、悪くないねぇ」
 梅之助は笑った。今までのどの笑みよりも人染みた、下手くそな笑顔だった。




 梅之助さんが人で無くなったのは、おっかさんを初めて否定した時だった。
 おっかさん、おっかさんのためではなく、自分のために生きてみようと思います。そう言った梅之助さんを、兄ィたちは口々に罵った。親不孝者、お前にはおっかさんへの恩はないのか、おっかさんは女手一つでお前を育てたのに。そんなこと言われても、と梅之助さんはほとほと困ってしまった。だって、梅之助さんはこれ以上おっかさんのために生きられるとは思ってないのだ。これ以上こんなせまっくるしい道に居たら、息が詰まってしまう。そう思いながら兄ィたちの言葉を聞き流していると、おっかさんが呻いた。
「あんたは、私を捨てるんだね」
 泣いてる、と梅之助さんは思った。思ったけれど、どうしようもなかった。もうその涙に何かを想うことが、梅之助さんには無かったから。
「だったら、私もあんたを捨てるよ」
 しぃん、となった部屋の中。おっかさんの声だけが、響いた。
「あんたは私の息子じゃない。私はあんたなんか産まなかった!」
 出ておいき、という声とともに、梅之助さんは家を出た。そうして人で無くなったのだ。
人は人から生まれるもの。おっかさんとおっとさんが居て、初めて人として生まれるのだ。おっかさんに産んでないと言われた梅之助さんは、この世に生まれていないことになる。じゃあ、こうしてここに居る梅之助さんは、一体何なのだろう。そこらかしらに生い茂る草とて、親がある。動物にもちゃぁんと親がいる。親も種もなく生まれてくるのは、化け物のみだ。
 だから、おっとさんもおっかさんもいない梅之助さんは化け物なのだ。化け物になってしまったのだ。
 梅之助さんには、今もまだ親はない。これからも現れない。だから、今もこれからも、梅之助さんは化け物のまま。
 けれど、ちょっとずつその化け物は変わろうとしている。化け物は人になれやしない。そう言って人を諦めた化け物が、ちょっとずつ人に成ろうとしているのだ。
「あ、ウメノスケさん! 折角だからチェリンボに名前つけませんか?」
「名前? ちぇりんぼじゃあないのかい」
「えーと……僕とウメノスケさんは同じ人ですけど、それぞれケンジやウメノスケって名前がありますよね。そういう名前をつけてくださいってことです」
「ハハァ、そういやでっかいのもちっさいのも犬は犬だな。ちぇりんぼってのは犬と似たような意味か。そうだねぇ、名前ねぇ」
 自由に生きたいと願ったせいでその身を堕とした化け物は、今も変わらず自分勝手だ。自分が求めるもののために、生きている。
 それでも、今までとは違う。化け物は今、本当の笑顔を浮かべることができている。また始めれば良いと言った人がいるから、一緒に生きようと隣を歩く存在があるから。
「んじゃあ、りん。おりん、なんてどうだい?」
「ちぇりー!」
 情を無くした化け物は、もうここにはいない。
時代考証等は適当なので、不自然な点があってもスルーしていただけると嬉しいです。

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