キマワリの笑顔

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作者:早蕨
読了時間目安:17分
 気づいたらそこにいた。
 二階にある自室の窓のサッシからちょこっとだけ顔を出すと、にこにこと大きな笑顔が視線の先にある。まただ。たっぷりの日差しを浴びた、満面の笑み。ひきこもりの僕でさえ、いつもは恨めしい太陽が気持ちよく感じられる。


◆      ◆


 昼間なのにカーテンが閉められた薄暗い部屋。ベッドの上。カビくさいポケモン図鑑が、僕の手の中にある。小さいころ、父親に買ってもらったものだ。よく見ていた。本物はほとんど見たことないけれど、その図鑑の中にあるポケモン達にいつもわくわくさせてもらっていた。
 いつからだろう。このポケモン図鑑を読まなくなったのは。それは遠い昔のようで、少し前のように感じる。僕が今十五歳。買ってもらったのが確か、六歳。思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。
 友人によくこの図鑑を見せた。まるで図鑑の中のポケモン達が自分のポケモンになったかのように、誇らしい気持ちで見せた。へえ、ほお、と関心を示した友人達の声が嬉しかった。そのことを、よく覚えていた。
 図鑑は思っていたよりボロボロだった。日焼けもしている。ちょっと湿った、古い紙のにおいがした。リザードンのページが破れかけていた。たしか、このページをよく見ていた。大きな体でかっこよく飛び、口から火を吐くこのポケモンが僕は好きだった。本物を見たことはまだない。
 目的のページへ、僕は紙をめくり続ける。ワンリキー、イーブイ、ポリゴン、ワニノコ、ポポッコ、とほとんど見たことのないポケモン達がそこにある。小さい頃は、本から飛び出してくるんじゃないか、と思っていた。それほどにわくわくしていた。僕はページをめくり続ける。あった。ここだ。
 窓の外にいるやつと同じ。
 
 キマワリ。太陽ポケモン。昼間はむやみやたらと元気に動き回るが、日が沈むとばったり動かなくなる。

 へえ、と僕は声をあげる。そんな自分に驚く。何かに関心を持つなんて久しぶり。ずっとひきこもってパソコンをいじるだけの僕が、図鑑を読み、関心を示している。昔の僕は、今の僕を見て嬉しがってくれるだろうか。きっと、くれないだろう。触るな、とさえ言われるかもしれない。ごめん、僕。と昔の自分に謝り、図鑑の文字を目で追い続けた。ふと気づく。綺麗だ。このページはさっきのリザードンのページとは違った。他にもこういうページはたくさんある。好きなポケモンと、あまり興味のないポケモンがいたからだ。
 このキマワリだって、興味のないポケモンとして僕は見ていたに違いない。だからこんなにもこのページは綺麗なのだ。しかしそれは昔の僕であり、今の僕はこのキマワリのページを見たかった。
 たいようポケモン。ふむ。キマワリの顔がひまわりのようだからか。いや、日中しか動けないからかもしれない。面白い。僕はあの満面の笑みを頭に思い浮かべた。
 ふと、カーテンの隙間から外を見たときにあったあの顔。それから僕は、たまに外を眺めるようになった。家の向かい側は小さな畑だった。住宅街の一角を、畑にしたものだ。近所の人が育てているのだろう。そこに、キマワリはいた。あのあまりにくったくのない満面の笑みが、僕の頭から離れなくなった。数時間に一回、僕は窓の冊子に手をかけ、ちょこっとだけ顔を出して外を眺めるようになっていた。それだけでは飽き足らず、いつの間にか僕は随分と長い間外を眺めるようになった。
 意外にも僕は進歩した。ひきこもりだった僕が、外に関心をもったのだ。キマワリというポケモンの笑顔には、不思議な力があった。
 特性はサンパワーと葉緑素。どちらも晴れのときにその効力を発揮するらしい。無意味に畑を駆け回るキマワリの姿を思い浮かべた。かわいい。そう思った。
 図鑑にはこうも書いてある。日が沈むとばったり動かなくなる、と。それが見たくなった。あんなにも元気に動いているキマワリがばったり動かなくなるところなんて想像できなかった。寝ているだけじゃないだろうか。
 僕はその夜、二年ぶりに自分の家を出てみようと決めた。夜だとキマワリの姿が見えないのだ。僕は近くでその動かない姿を見たかった。それに、どんな形でもキマワリが見てみたい。数少ない、実物のポケモンとして。
 パタン、と図鑑を閉じてケースにしまい、丁寧に棚に戻す。これからは、たまには見てみようと思った。父親に申し訳なくなった。父親だけじゃない、母親にも。この図鑑は、昔の僕をいつもよりずっと強く思い出させすぎる。
 もう一度外を眺めてみようと窓に近寄ると「ちょっといいかしら……スクールのこと、なんだけど」部屋の外から、母親の声。「うるせえ! 入るな!」声を荒げる僕。最近はスクールのことなんて何も言ってこなかったのに、何かあったのだろうか。怯える僕は、怒鳴ることでしか身を守れない。そうすることでしか、言葉を返せない。
 日が落ちるまで、キマワリを眺めつづけた。体をくねくねさせることもあれば、ぐーんと伸びをすることもあった。ただぐるぐると畑を走り回っていることもあった。たまにつまづいて転んでも、むくりと起き上がって再び走り回る。いつもいつでも、満面の笑みを浮かべていた。ときどきおじいさんがやってきて、モンスターボールの中からワタッコをだし、キマワリと遊ばせる。ふわふわと飛び上がるワタッコを、キマワリがおいかける。追いつけなくても、笑っている。ワタッコも自然と笑顔になる。おじいさんも笑顔で、たいようポケモンの名にふさわしいキマワリの姿がそこにはあった。
 僕のほうも、いつから笑っていないかわからない顔で、きたなく笑顔を浮かべそうになる。やめだ。僕は眺めるのをやめた。途端に笑みを浮かべることなど、できなくなっていた。

 日が落ちる。朱に染まった日がカーテンの隙間から差し込む。もう少しでキマワリが動きを止める。僕はその瞬間が見たくて、窓の外をじっと見つめる。空が少しずつ藍色に変化するごとに、キマワリの動きは鈍くなった。朱がなくなる。塗りつぶされ、空には月が。キマワリは、止まった。その場から動かない。まだ薄暗い程度だからこうして見えるが、すぐに真っ暗になって見えなくなる。あのおじいさんは来ないのだろうか。キマワリを連れて帰ったりしないのだろうか。そもそもあのキマワリはおじいさんのポケモンなのだろうか。真っ暗になっても外を眺め続け、おじいさんを待ったが、いつまで経っても現れることはなかった。夕飯を知らせる母の声。わかっている、と返答。何もしないのに食べ物だけはしっかり食べる僕だった。部屋を出て、階段を降りる。リビングへ。父親のいない食卓。いつも帰りは遅い。外に出るのは深夜になるだろう。「今日はあなたの好きなコロッケよ」母が食卓に料理を並べた。椅子に座り、何の言葉もなく食べる。母が向かいに座る。駅前のなんとかって店がどうとか、隣のなんとかさんがどうとか、母はひたすら僕に言葉をかけ続ける。「うん」「そう」と気のない返事をしながら、僕は母が作ったコロッケに箸を差し入れる。サク、といい音。じゃがいものいい色が見える。ほわっと温かそうなそのコロッケをつかみ、口へと放りこむ。おいしい。母が作ったコロッケはこんなにもおいしい。その間にも、母はいろいろな話をしてくる。もうずっと、こんな風に食事をしている。白いご飯とコロッケ。サラダにゆで卵。それと野菜スープ。この暖かくおいしい料理達は、キマワリのように笑っている。唐突にそんなことを思い浮かべる。いつも怒鳴ってばかりの自分。キマワリの笑顔。昔の僕。申し訳なくなって、箸が遅くなる。まだどれも半分ほど残っている。こんなにもおいしいのに、箸が進まない。僕は一旦箸をおき、口の中のものを咀嚼してからのんだ。ごくん。母はこれを毎日作っている。家から出なくなった息子なんて恥ずかしいだろう。そんな僕のために作っている。「どうしたの?」と心配そうな母の声。うつむく僕。うっせえなんでもねえよ、と辛い言葉を吐きそうになる。しかし頭の中のキマワリの笑顔がそれを止める。かろうじて暴言を飲み込み、違う言葉を僕は吐き出す。
「これ、おいしいよ」
 それだけ言って、僕は再び箸をとる。残すわけにはいかなかった。恥ずかしいような照れくさいような、僕はさくさくとその晩御飯を食べ。食卓を後にした。「ごちそうさま」久々に言ったその言葉に、涙を浮かべる母の顔が僕の頭に焼きついた。キマワリの顔が、いっそう笑っている。

 夜もとっぷりと更けたころ、父親は帰ってきた。もう何か月も前から、僕の部屋に入ってくるようなことはない。父は何も言わなかった。僕は父が眠るのを待った。暗い部屋の中、じっとベッドの上に座りこみ時間が経つのを待つ。日が変わろうとするところで、やっと二階へと上がってきた。母は先に布団に入った。これは父の足音。少しだけ緊張する。いつものことだ。何か言われ、責められることを、僕はとびっきり恐れていた。しかし、いつものように父は僕の部屋に来ることはなく、寝室へと入っていき扉を閉めた。ガタン、と今日の終わりを告げる音。申し訳ない。こんな息子で、ごめんなさい。いつもより自虐的な自分がいる。何もする気がおきず、あんなスクールになんか通いたくない。旅にでも出てやる、と思ったが、結局外に出ることはできずいつまでもひきこもり。ごめんなさい。心の中で父に謝り、膝を抱え頭を伏せ、時間が過ぎるのを待った。
 深夜一時。僕はベッドから降りる。パジャマにカーディガンをひっかけ、音を立てずに部屋を出た。両親は寝ている。抜き足差し足。僕はゆっくりゆっくり階段を降りる。息をするのもためらわれ、なるべく息を止めた。服が階段にすれる音さえ気になった。階段を降り、正面には玄関。随分とほこりをかぶったサンダルをひっぱりだし、足につっかけ、鍵をゆっくりゆっくり開けた。ドアノブを撫でるようにつかみ、まるでシャボン玉でも触っているかのように柔らかく回す。ドアが開く。二年ぶり。ひんやりとした空気が入り込み、僕の体に染みた。大きく息を吸う。僕は外へ出る。久しぶりに間近で見る家の庭。門は音が出やすいので慎重に。ストッパーとなる取っ手をひねると、キュ! と小さく音が響き、飛び上がりそうなほど心臓がはねた。一度だけ深呼吸し、小さな隙間から体をそとに放りだす。足が、コンクリートを踏んだ。何か起こるのかと思っていたわけではないが、僕にとって大きなこと。その大きいはずの出来事は、意外にもなんということもなかった。足がコンクリートを踏んだだけ。感動なんてあるはずがなかった。僕はすぐに向かいの畑へと寄り、キマワリを探した。暗くてなかなか見えない。懐中電灯でも持って来ればよかった。丁度通りの角に位置する畑の周りをうろうろ。キマワリの姿がなかなかみつからない。行ったり来たりを二回ほど繰り返したところで、僕はやっとその姿を見つけた。通りに面する角から、丁度対角線上。反対側の角にキマワリは突っ立っていた。病気か何かを思い浮かべ駆け寄ろうとするが、図鑑の説明を思い出して足を止める。ただ夜だから動かないのだろう。サンダルで畑へ足を踏み入れる。土が足にかかった。土を踏むなど、いつ以来だ。そのやわらかい感触をゆっくりと踏みしめながら、僕はキマワリの元へたどり着く。あの満面の笑みはない。顔を花びらでとじ、ただそこに立っている。とても、昼間ここにいたキマワリとは思えなかった。少しだけ触れてみると、すごくつめたくなっていた。死んでいるのではないかと思った。暗いところで、沈んだように佇み、明日にはしおれているかも。僕はそんなキマワリを見ながら、自分を思い浮かべた。今のこのキマワリは、僕じゃないのかと。暗い部屋でただ寝たり座ったり。生きているとは思えない。どこにでもある住宅街の片隅で、こんな風に佇むキマワリが僕と重なる。そして同時に、昼間のキマワリが昔の僕とも重なった。あのころ、僕は何でもできると思っていた。伝説のポケモンだって捕まえる気でいた。勉強して、ポケモンの博士になるなんて言っていた。友達とも遊んだ。母や父にもたくさんのことを喋った。そこには笑顔があった。暗いなんてとんでもない。たいようポケモンに負けない暖かな雰囲気がそこにはあった。暗いキマワリを見つめながら、僕はもう一度来ようと思った。くるりと反転し、家へ戻る。そっと門を開け、それからドアを開く。さっきよりもびくついているようなことはなかった。ゆっくりと鍵を閉め、サンダルを脱ぐ。土を落とすのを忘れていた。足をはたき、サンダルの足裏を合わせ軽く叩いた。手に土がつく。ちょっとだけ舐めてみる。まずい。サンダルを並べ、家の中へ上がり、階段を上る。土の味を感じながら、僕は自室へと入っていった。暗い暗い部屋のベッドへもぐりこむ。足を洗うべきだった。布団が汚くなる。けれどもなんとなく足を洗いたくなかった僕はそのままゆっくりと目を閉じた。とてもスッキリとした気分で意識が落ちる。僕の頭にはキマワリの笑った顔が、ずっと浮かんでいた。

 早朝。目覚ましの音なしに僕は目を覚ます。昔から、起きよう起きようと思っていれば起きられる体質だった。スクールに行っていたころも、目覚ましなんて使ったことがない。ベッドを抜けると、足が少し黒い。土だ。ああ、汚しちゃった。これじゃ、家の中も少し汚れている。後で謝って掃除しよう。いつもとは違った気分で部屋を出る。階段を降りた先の玄関には、スーツ姿の父。とても驚いて、目を丸くして僕を見た。「おはよう、父さん」「あ、ああ、おはよう」僕の両親はやさしい。こんな僕のために、我慢強く辛抱し、優しくしてくれる。待っていてくれる。「図鑑……久しぶりに読んだんだ」驚きを隠せない様子だった父だが、すぐにいつも通りの様子で「そうか。どうだった?」と返してくる。「よかったよ。ありがとうね、とうさん」「今更なんだ。あれは随分前に買ったものだろう?」「そうだけどさ」「父さん仕事だからね、悪いけど、行ってくるよ」そう言った父の顔が綻んだ。玄関で父さんを見送り、リビングへ。母が父と同じように目を丸くして僕を見る。しかし毎日毎日長い間ずっと僕に付き合ってくれた母さんは、すぐににこりと笑顔を作り「おはよう」「おはよう」「朝ごはん、あるわよ」「うん。でも、前の畑に行ってから」「え?」流石に驚きを隠せなかった母に背を向け、リビングを後に。玄関でサンダルを履き、ドアノブに手をかける。「畑って……外に出るのね?」「うん。前の畑。ちょっと、見たいものがあるんだ」後ろを振り向き、僕は一生懸命に笑ってみせた。「いってらっしゃい」母の顔も、綻んだ。
 玄関の外は、明るかった。昨日とは違った。寒さが体に染みたが、心地よい寒さだ。空は快晴だった。門に手をかけたところで、既にキマワリが動き始めていた。おじいさんも一緒だった。いっちに、さんし。ふたりで体をゆらして体操している。いっしに、さんし。いっちに、さんし。掛け声のもとへ、僕は近寄る。「おはようございます」いっちに、さんし。体操を続けるおじいさんとキマワリ。「おはよう。どうしたんじゃ?」と、おじいさん。「外はこんなにも寒いんですね」「そりゃあそうじゃろう、冬なんじゃから」キマワリはにこにこしながらおじいさんと同じ動作を続ける。前屈、後屈、ぐねぐねと。「このキマワリ、おじいさんのポケモンなんですか?」「いやあ、違うよ」「では、このキマワリは?」「わしの畑にある日突然居座りはじめてのう。面白いやつじゃからそのままにしとるんじゃ」「夜、とっても寒そうにしてますよ」「キマワリは、ずっと外にいた方がいいんじゃよ。自然のままに、そのままに。家の中にずっとひきこもってちゃいかんからな」僕はその通りだと思った。僕も、ひきこもっていてはいけない。「おじいさん。毎日こうやって体操を?」「ああ、もうずっとじゃ。特にこのキマワリがいついてからは楽しくてたまらん」「僕も、明日から混ぜてもらっていいですか?」「勝手にせい」おじいさんはにこやかにそう言った。「勝手にします」僕も、不器用に笑って見せた。キマワリの笑みをもう一度頭に焼き付け、「またね」と小さく呟くと、母さんの朝食が恋しくなった。


【了】

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