夢の滑走路

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作者:フィッターRさん

 わたしは、ポケモンと旅に出たことがない。むしろポケモンは少し苦手な方だ。でも、ポケモンセンターのお世話になるようになって、かれこれもう3年になる。
 ……こう言うといつも、嘘でしょ、とか、またまたー、とか、何しに行ってるの、とかいう言葉が、頭の上にクエスチョンマークの浮いた屈託のない顔を添えてわたしに向かって飛んでくる。『旅をするポケモントレーナー向けの通信教育サービスが、不登校の子供にも活用されている』ということは最近テレビでもよく流れるようになったと思うんだけれど、まだまだ世間ではよく知られていないらしい。
 わたしは、そんな不登校の中学生のひとりだ。週に1度、教材を受け取ったり、テストの答案を提出したり、添削されたそのテストの教材を受け取ったりするためにポケモンセンターに通っている。
 ポケモンセンターに通い詰めるトレーナーさんたちに好奇の目で見られることには、まあとりあえず慣れることはできた。でも、時々好奇の目で見られるだけでは済まなくなることもある。その日のわたしは、まさにそんな状況に追い込まれていた。



「ねえアンタ、失礼でしょ? 人に向かって舌打ちしておいて、なんか言うことあるんじゃないの?」
 舌打ち? なんのことだかまるでわからない。窓口で通信教育の回答を受け取って、回答した時の手ごたえが悪かったのを思い出しながらため息をついて、ポケモンセンターのドアを出ただけなのに。こんな同い年か少し年下にも見えるような不良少年なんて、さっき声をかけられるまでこの世界に存在しているのかどうかだって知らなかった。わたしが因縁付けたみたいな言い方だけど、わたしは間違いなくそんなことはしていない。
 それにだ。仮にその犯人がわたしだったとして、こんな状況に追い込むのはいかがなものかと思うのだけど。
 相手はわたしの視界全部がそいつの顔でおおわれるくらい、すぐ目の前でガンを飛ばしている。一方のこちらは、ポケモンセンターの壁に背中をくっつけて立っている。
 つまるところ、逃げ場がない。なんのことだか分からないうちにあれよあれよと追い詰められて、こうなってしまったのだ。
 どうしよう。すごくまずいことになっている。
 体力はそこそこあるけど、この状況を切り抜けられるような武術の心得なんてない。大声を出せばセンターの中にいる人が気づいてくれるかもしれないけど、気づいた人がこっちに来るより先に、目の前のこいつがなにかしてくるほうがどう考えても先だ。誰かが運良く通りかかってくれないかとも思ったけど、今わたしが立っているセンター前の道は、車はたくさん通っても人はほとんど歩いていない田舎の幹線道路だ。
 でも、なにもしないわけにもいかない。なにかしなかったら、こいつが飽きるまでこいつの為すがままだ。せめて何か言おう。
「……あの、それたぶん違います。わたし――」
「うるせえよ!」
 わたしが口を開いた瞬間、不良少年は罵声とともに右手を動かしていた。
 襟元を掴まれる。とっさに右手でその腕を払おうとしたけれど、相手が掴みかかった勢いでわたしの身体を壁に叩きつけるほうが先だった。
 頭の後ろと、肩甲骨に鈍い痛みが走る。
「トレーナーでもない女のくせして生意気なんだよ! もっと他に言うことあんだろうが。ほら言えよ。言えってんだよオラァ!」
 目の前で眉を吊り上げてまくし立てる不良少年。一方のわたしはというと、身体も、口も、凍りついたように動かなかった。まだなにか言っているけど、その言葉の中身もまるで頭に入ってこない。
 だめだ。もうどうにもならない。こいつは私に何をするんだろう。わたしを殴るのか。刺すのか。大して持ってないけどお金でも盗むのか。それとも、もっと大事なものを奪う気か。
 怖いと思う事さえもはや恐ろしい。もうどうなったっていい。いっそ殺してくれたってかまわない。ただ一刻も早く、この恐怖を終わらせてほしい。そう考えることしかできなかった。それ以外のことはなにもできなかった。



「ちょっときみー、そこで何してんの?」
 不良少年の口が、時間が止まったかのように動かなくなった。
 そりゃ、こんなことをしている最中で後ろからいきなり別の人に声をかけられれば、驚いてそうもなるだろう――とそこまで考えて、ようやく気付く。もしかしてわたし、助かった?
「いけないねえそんなことしちゃ。旅の途中でこんなことしてるの警察にバレたら、一発アウトでお家強制送還だよ?」
 挑発しているみたいな厭味ったらしい声は、少しハスキーがかった低めの女の人の声だった。
 不良少年の手が襟元を離れる。壁にもたれてようやく立っていられるくらい、腰が抜けている事にようやく気付いた。まずは落ち着こう、そう思って息を深く吸った。
「……なんだてめえ、やる気かぁ!?」
「おっと、私ポケモントレーナーだしねえ、喧嘩ならポケモンバトルで買うよ。きみだってトレーナーなんでしょ? いざ尋常に勝負勝負!」
 がなる不良に臆することなく不敵な笑みを浮かべている、わたしを助けてくれたヒーローの姿は……紅白のスタジャンに黒いチノパンを着て、ちょっと跳ねている髪の毛をポニーテールにまとめた、わたしよりも、不良少年よりも頭ひとつくらい背の小さい、小柄な女の人だった。
 顔つきらして、わたしや不良少年よりも年上であろうことは何となくわかる。でも、こんなことを思うのは失礼かもしれないけれど、力ずくで襲い掛かられたらわたしよりも簡単にねじ伏せられてしまいそうなくらいの体格で、本当に大丈夫なのだろうか? と思わずにはいられない。
「やるからには当然手加減しないよー。こう見えてお姉さん、リーグに3度は出てるからね。そんなお姉さんにケンカ売るきみの腕がどれほどのもんか、見ものだね?」
「なっ……!」
 不良少年の目の色が変わった。まずい、と彼の目が語っている。さっきまでの威勢が嘘みたいだ。
 ポケモンバトルなんてせいぜいスポーツニュースのコーナーでしか見ないけど、”リーグ”という名前の大会は開かれるたびにニュースで流れるから、結構大きな大会だということは知っている。それに3度も出ているとなれば、このお姉さん、見かけによらず結構強いってことは分かる。ハッタリじゃなければ、の話だけど……
「あっそうだ。念のため言っとくけど戦う前に私だけ張り倒そうったって無駄だよ。そしたらきみ自身が直接この子にボコられることになっからね」
 お姉さんは余裕綽々の表情を浮かべてしゃべりながら、右手でモンスターボールをもてあそんでいる。黒地に黄色の模様が入っているやつだ。モンスターボールなんてセンターの中にある売店の棚にあるものしか見たことがないけど、普通の赤白のやつよりだいぶ値の張るやつじゃなかったっけ、あれ。
「……てめえ、卑怯だぞ!」
「無抵抗な人間に乱暴する卑怯者が、人を卑怯呼ばわりするなんて世も末だねえ。さあ、ここは”男らしく”勝負に出てみろよ。そんで人を卑怯ってなじれるだけの人間だって器を見せてみな、ガキ!」
 言い返す不良少年。でもお姉さんは無慈悲にその言葉をはねのける。それもずっと、あの不敵な笑みを浮かべたまま。
 ……ハッタリかもしれないなんて疑った自分を恥じた。今ならわたしにもはっきりわかる。
 この人は、強い。凛としたまなざしから溢れ出ている気迫が、不良少年なんかとはまるで違う。たいして長く生きてもいなければ、たくさん人を見てきたわけでもないけれど、それでも、この人はただものじゃないということは、それだけではっきり理解することができた。



 にらめっこをしているみたいに、しばらく2人は向かい合っていた。
 不良少年は顔に脂汗を滲ませて、一方のお姉さんは余裕の表情を少しも崩さないで。
 音を上げるのはどっちか。そんなのは、誰が見ても一目瞭然だ。
「……畜生! 覚えてろこのブス!!」
 とうとう、不良少年が音を上げた。捨て台詞を吐くや否や、彼はお姉さんに背中を向けて一目散に逃げていく。みじめなその格好に、さっきの恐ろしさはもはやかけらも残っていない。
「私がブスたあてめえの目は節穴かあ! 二度と来んなこのタマ無し野郎!!」
 小さくなっていく不良少年の背中に向かって、お姉さんがとどめとばかりに悪態をぶつける。声にならなかったけれど、そうだそうだー! と心がお姉さんと一緒に叫んでいた。あんな素敵な顔のお姉さんをブス呼ばわりだなんて、言いがかりもいいところだ。
 本当は声も出せたらもっと良かったんだろうけど、思っているだけでも胸の中につっかえていたものが消えてなくなっていくように感じて、なんだか気分がよかった。



 不良少年の姿が見えなくなったところで、お姉さんのため息がひとつ聞こえた。そして。
「さてと……怖かったよね。怪我してない?」
 わたしの顔を見上げながら、お姉さんが歩み寄ってきた。浮かべる表情は笑顔。でも、さっきと違って不敵じゃなく、優しさに満ちた笑顔だった。
「……あ、だ、大丈夫、です……」
 不良少年に言葉をさえぎられてから初めて、わたしは口を開いた。唇が鉛みたいに重く感じた。まださっき感じた恐怖と緊張が、体の中から抜けていない。
 そんなわたしを見かねたのか、お姉さんは白い歯を見せた満面の笑顔で、わたしの右手を取ってくれた。
「立てる?」
 そう訊ねるお姉さん。お姉さんの厚意を受け取って、壁にもたれかかったままだった身体をゆっくりと壁から離した。
 ちょっとつんのめりそうになったけど、大丈夫。ちゃんと2本の脚で立つことができた。その瞬間、ようやくわたしの心に安堵の気持ちがわいてきた。よかった。助かったんだ。本当に。
「あ、ありがとうございます。助けて、くれて」
 お姉さんがわたしの手を放すのを見届けてから、わたしは頭を下げた。緊張が抜けきれていなくて、うまく動かない口と身体を頑張って動かしながら。
「人として当然のことをしただけだよ」
 ウインクをしながら、さらっと漫画の主人公みたいなカッコいい言葉を言ってのけるお姉さん。こんな言葉を面と向かって言われるなんて、なんだか恋にでも落ちてしまいそう――だなんて、柄にもなくそんな浮ついたことを考えてしまう。
「よし! んじゃアイツのこと、センターの職員さんにチクってこようよ。私も一緒に付いてってあげるから」
 お姉さんはわたしの右手に添えていた手を離して、今度は右肩にその手を添えた。
「えっ、いいんですか……? というか、そこまでするんですか?」
「当たり前じゃん。あんなクソ野郎にくれてやる慈悲なんて持つだけ損だぜ」
 さ、行こうよ。と続けて、お姉さんは肩に置いた手を下ろした。
 こんなに温かい手で誰かがこうして肩に手を添えてくれたなんて、どれくらい久しぶりだろう、とふと思った。わたしも中学生になって、家族とスキンシップすることもそうそうなくなっちゃったもんなあ。
 離されたその手を追いかけたい。そう思って、わたしは笑顔を浮かべるお姉さんに、首を縦に振って返したのだった。



 * * *



 職員さんへの通報は、お姉さんの手助けもあって難なく終わった。職員さんの対応が見るからに嫌々ながらといった感じで、あまり真剣に取り合ってくれなさそうに見えたのが心に引っかかったけど、そればかりはわたしにもどうしようもない。
 手続きが一通りすんだ後でどうしようか思索していたら、少し気晴らしでもしようよ、とお姉さんに誘われた。まだ午前中だしせっかくの機会だから、わたしはお姉さんをお気に入りの場所に案内することにした。



「このポケセン、空港が良く見えるんだねー。長いこと旅してっけどこんなとこ初めてだよ。面白いなあ」
 目の前に広がる滑走路を眺めながら、お姉さんが目を輝かせている。
 お姉さんが言葉にした通り、このポケモンセンターは空港のすぐ近くにある。そしてこのポケモンセンターには、空港を一望することのできるテラスもある。そのテラスが、わたしがお姉さんを案内したお気に入りの場所。
 天気がいい時、わたしはよくここに居座って、ぼんやり空港を眺めたり、読書をしたり勉強したりしている。血筋のせいなのか、飛行機が見えるところにいるとなんだか心が落ち着くからだ。
 そんな変わり者のわたしのチョイスなものだから、正直どんな反応が返ってくるか不安だったけど、興味を持ってくれたみたいで良かった。
「おっ、自販機あるじゃん。そうだ、なんか奢るよ。何がいい?」
 テラスの片隅に置かれた飲み物の自動販売機を見つけて、お姉さんが白い歯を見せながら言った。
「そんな、いいんですか?」
「今更ダメなんて言うかっての」
 そう言ってお姉さんは、すたすたと自販機の前まで歩いていく。慌てて私もついていく。
 私の話を聞いているのかいないのか、なんだかよくわからない人だ。考えるよりも先に身体が動くタイプの人なのかもしれない――などと考えているうちに、お姉さんは自販機に小銭を突っ込んで笑顔をこちらに向けている。
「じゃあ……これで」
「このコーヒーね。あいよ……っと」
 お姉さんがボタンを押す。がたん、と音がして、缶コーヒーが受取口に落ちてくる。
「はい、お待ちどうさん!」
 待ってた時間なんて5秒もなかったのに、律儀にそんなことを言ってお姉さんはわたしに缶コーヒーを差し出した。
「ありがとうございます、いただきます」
 わたしがコーヒーを受け取るやいなや、お姉さんはすぐにまた自販機にお金を入れて、今度は自分のぶんのサイダーを買っていた。何をするにも速い人なんだな、と思った。



 ベンチに腰掛けて、滑走路を眺めながらコーヒーを飲む。
 お気に入りのテラスのよく座るベンチだけど、こうやって別の人と並んで座るのは初めてだった。お姉さんはそんなこと知ってるわけないだろうけど、助けてもらった相手と一緒に座っているのがここというのは、なんだか運命的だな、とちょっと思っていた。
「よくいるんだよね。ああいうクズ野郎さ」
 空っぽになったサイダーのペットボトルをベンチに置きながら、お姉さんが話し出す。この人、サイダーを飲むのも速い。
「ポケモン連れてないヤツ狙って、金せびったり身体せびったりさ。学校に行けなくて通信教育のためにポケセン通ってる子は、詰め寄れば怖くて声が出せなくなるのも多い……ってね。
 人の弱さにつけ込んで、傷に塩塗るようなこと平気でしてさ。ホントに最低だよ、まったく」
「あの」
「ん?」
「……どうしてわかるんですか? ポケモン連れてないって」
 このお姉さん、センターに通信教育のために通っていることを知っているんだ、という事実に、嬉しさではなく驚きを覚えることになるなんて自分でも思っていなかった。
 だって、わたしはまだ自分がそういう学生だなんて一言も言ってない。それなのになぜ? そう思って、私は尋ねてみた。
「窓口で教材だけ受け取って、そのままセンター出てっちゃうトレーナーなんてまずいない。大概ポケモンを診てもらったり、ご飯食べたりするもんさ。クズ野郎はそういう子を狙うんだよ。
 全く困ったもんさ。力ってやつを持つと、弱いやつに向かってそれを振りかざさずにはいられないのかねえ、男ってさ」
 両掌を空へ向けて、困ったような笑顔を浮かべながらお姉さんは言った。もしかして、お姉さん自身にも男の人にあんなことをされた経験があったりするんだろうか。
「ああいうやつを野放しにしとくと、ポケモントレーナーみんながろくでなしだと思われるしな。だからほっとけなかったの。ああいうチャラチャラしたトレーナーを追い払えるくらいの腕はあるしね」
「腕も分かるんですか?」
「たった2つのジムバッジを堂々とバッグに着けてるのは、トレーナーが板についてきて調子に乗り出した駆け出しトレーナーの証みたいなもんさ。私もそうだったなー。もう15年以上昔のことだけどね!」
 そう言って、お姉さんは大きな口を開けて笑いだす。
 15年前。わたしが産まれるよりも前から、この人はトレーナーをやってるんだ。
 なんだか目が回りそうな時間のスケール。自分が生きてきた時間よりも長い時間なんて、全くイメージがわかない。ちょっと肩がすくんだ。顔つきからしてわたしより年上だろうなとは思っていたけど、そんなに年上だったなんて思ってもいなかった。
「リーグに3度出てるって言うのも、本当なんですか」
「ああもちろん。ま、最高戦績はベスト16なんだけどさ。トーシロの悪漢相手とはいえ正直ちょっと威張りすぎたかなぁ?」
「そんなことないです! リーグって言ったら結構大きな大会ですよね。出るだけでもすごいことじゃないですか。
 ……それに比べて、わたしなんてちっぽけですよ。理不尽に詰め寄られても、何もできなくて……」
「なーに言ってんの。きみはまだ子供、何かをできるようになるために勉強してる途中なんだから、できないことばっかりなのは当たり前だよ。子供のころからなんでもできる人間なんて、この世にいないんだから。気負わない気負わない」
 わたしの背中をとんとん、と軽く叩いて、笑顔でお姉さんが言う。
 本当によく笑う人だな、と思った。会ってせいぜい1時間くらいしか経っていないから当たり前かもしれないけど、この人が泣いたり怖がったりしている姿なんて、まったく想像がつかない。
「……きみさ、本当に立派だよ。ひとりでもちゃんとポケセンに来て、ちゃんと勉強してさ。なんか、目指してるものとかあるの?」
 右手を背中にそえたまま、お姉さんは続ける。
 ちょっと、答えに困る質問だ。答えたいか答えたくないかで言ったら、正直この手の質問には答えたくない。
 小さなころからずっと抱いている夢ならあるし、勉強も運動もそのためにしているようなものだ。けど、家族以外には笑われるか、もっと女の子らしい夢はないの? というようなことを言われるかのどっちかしかなかった。
「……ちょっと変な目標ですけど、言っても笑ったりしないって、約束してくれますか?」
 ここまで親身になってくれているお姉さん相手でも、このことにはさすがに予防線を張っておきたかった。そう思ってしまう自分が、なんだか情けなかった。
「……うん、約束するよ」
 そう答えたお姉さんは、真剣な目をしていた。
 大丈夫だ、きっと。ためらう気持ちはまだあったけど、お姉さんには話してみたかった。この人は、今まで話してきたよその人たちとは違う。この人なら、きっと。
 腹を決めて、深呼吸したその時だった。



 空港から、ジェットエンジンの音が聞こえた。旅客機のような穏やかで優しいエンジン音ではない。鼓膜を切り裂いてくるかのような、良く研いだ包丁みたいに鋭く、甲高いジェットエンジンの音。
「ちょっと待ってください」
 お姉さんとの話を一旦切り上げる。
「え、どしたの?」
 お姉さんは目を丸くしていた。
「今からだと、お話をしてても聞こえなくなっちゃいますから」
「どゆこと?」
「見てればわかりますよ」
 わたしは立ち上がった。空港の敷地を仕切る鉄柵の向こうの一点、視界の奥の方へ向かって伸びる、滑走路の端を見つめる。
 まもなくして、エンジン音の持ち主が滑走路に現れる。鮮やかな彩りに包まれたエアラインの飛行機とは似ても似つかない、くすんだ灰色の飛行機。目立たない飛行機だけど、派手なエアラインの飛行機なんかよりもずっと、わたしの心を捉えて離さない飛行機だ。
 灰色の飛行機が滑走路に進入し、こちらに尻尾を向けたその瞬間。
 甲高いエンジン音は、雷のようなけたたましい爆音に変わる。空気が震える。エンジンノズルからアフターバーナーの炎が伸び、飛行機は滑走路の上を加速していく。みるみるうちに小さくなっていく飛行機は、程なくして宙に浮き、煤煙の尾を残して飛び去っていく。
 続けてもう1機が滑走路に入る。エンジンノズルに炎が灯り、再びの爆音。先に飛び立った1番機を追って、空を駆け上がっていく。
 力強く空へと舞い上がる猛々しい翼。いつ見ても、心が踊る光景だ。この光景が時折見られるのも、わたしがこのテラスを気に入っている理由のひとつだ。



 アフターバーナーの轟音が聞こえなくなったところで、お姉さんの方に視線を戻した。
「す、すげえ……こんなド迫力のポケセン初めてだ……」
 お姉さんは耳を両手のひらで塞いだまま、目を白黒させている。初めてなら無理もないだろうな。わたしも小さい頃はこんな感じだったし。
「ねえ、あれ自衛隊の戦闘機だよね?」
「はい。ここ官民共用の空港なんですよ」
「あんなうるさいのに、よく涼しい顔で立ってられんなあ……! 結構離れてんのに、すっげえ爆音だったじゃん」
「慣れてますから」
「マジ……!?」
 お姉さんが目を丸くした。この音に慣れるのって、そんなに難しいことかな? とちょっと思った。ポケモンバトルだってこれくらいの騒音はありそうなものだけど。
「こっちに住んで長いのかい?」
 お姉さんが続ける。
「そういうわけじゃないんですけどね。まだ1年も経ってないです」
「じゃあ、なんでまた?」
「……わたしのお父さん、あれに乗ってるんですよ。転勤であっちこっち引っ越しを続けてきたけど、パイロットが基地の近くに住まないわけにはいかないですから」
「マジ? そうだったんだ」



 息つく間もない言葉のやりとりが、そこで水泳の息継ぎみたいに、わずかに途切れた。
 お姉さんは変わらず笑顔を浮かべている。轟音を上げて飛んでいく戦闘機に見とれていたわたしを見ても、この笑顔を崩さないでいてくれるなら。
「あ、そうだ! さっきの話に戻りますけど……」
 思い切って、自分から口を切ってみる。
「え、なになに?」
「わたしもね、乗りたいんです。あれに。それが私の夢なんです。だから勉強は頑張らなきゃって思ってて……今よりもっと体力もつけないといけないけど」
 家族以外には久しく語っていなかった夢を、自分自身に刻み付けるように声に出す。滑走路の先に広がる、青い空と白い雲を眺めながら。
 ここでこのことを、こんな風に話すなんて。話してみたいと思える人に出会えるなんて、夢にも思っていなかった。帰ってくる答えは、わたしの望んでいるものか、それとも。
 手を固く握って、わたしはお姉さんのほうを振り返った。



「マジで!? 超カッコいい夢持ってんじゃん! 最高じゃん! 叶うといいね!」
 答えるお姉さんの目は、子供みたいに爛々と輝いていた。
 わたしが望んでいた、最高の返答。それが返ってきた。だけど。
「……まあ、そもそもなれるかどうかは分からないんですけどね」
 震える唇から出てきた言葉は、そんな言葉だった。
 わたしの夢をまっすぐに受け止めて、肯定してくれて、『叶うといいね』って言葉まで言ってくれて。そのことが嬉しくないわけではない。
 だけど、そのことが逆に、わたしの心の中にある傷の痛みを増しているように思えた。まるで、生傷に消毒液をかけたときみたいに。
「……どうしたの急にそんなこと言って。そんなに卑屈にならなくてもいいじゃん。まだ若いんだから夢はでっかいくらいがちょうどいいよ」
 ずっと笑顔だったお姉さんの顔が変わる。心配してくれている顔。
 本当に、どこまでも強くて、どこまでも優しい人。でもその強さと優しさは、やっぱりわたしには眩しすぎるのかもしれない。
「いや、卑屈とか……そういうのじゃないんですよ」
 話すことが怖かった。自分の抱く夢を、自分で壊してしまうようなことだから。でも、伝えなきゃ。そうしなきゃ、お姉さんはきっと、ずっと焼き尽くされそうなくらいに眩しい優しさを向けてくる。
 震える唇に力を込めて、わたしは語った。叶えたいとどれだけ願っても、その思いを根こそぎ奪い去って持っていく、非情な現実を。
「……今の制度だと、女は戦闘機乗りになれないんです。他の自衛隊の仕事は女でもできるけど、戦闘機乗りだけは今もずっと男しか採ってないんですよ。
 もちろんこれから制度がどうなるかはわからないですけど、わたしが高校を出るまでに、そこが変わってくれるかどうかもまだわからないですし」



「……そういうことか……そりゃ、辛いな」
 お姉さんの声。同情か、哀れみか、その真意はわからない。それを確かめるのも怖くて、わたしはうなだれていた。
「……わたし、思っちゃうんですよ。わたしがわたしじゃなかったらよかったのにって……ふつうの男の子だったら、叶えたいのに叶えられない夢を見て悩むことも、さっきみたいに気持ち悪いひとに付きまとわれることもなかったのにって。
 わたし、自分が嫌になるんです。女だから、そのくせに背が高いから、お母さんがいないから、ハーフだからって、みんなと同じ人間として見てくれないから……だから、髪も黒くして、伊達メガネで目の色も隠して、パーカーで体の形も誤魔化して……
 でも、やっぱり逃げられないんですよね。自分からは。わたしが女だって分かって、あの人はわたしを襲ったんだし。
 ……バカみたい。本当にバカで弱虫ですよね。わたしって。逃げられないことから逃げようとしてばっかり。逃げられっこないのに……」
 自分の中に抱えた傷を言葉に変えて、わたしはまるで機関銃みたいに話していた。夢のことを受け止めてくれたんだから、このことだって受け止めてくれ。そんな勝手なことを考えながら。
 話し終わって、頬に涙が流れていることに気づいた。ああ、こんなにみっともないこと言っておいて、その上これか。カッコ悪いなあ。わたし。



「ほら」
 悲しさと悔しさが堂々巡りになっていたわたしの右手に、手が添えられる。
 お姉さんの手。暖かい手。そのぬくもりのおかげで、強張っていた身体がほぐれていく。
「これで顔拭きなよ」
 うなだれていた顔を上げる。目の前には、優しい笑顔を浮かべるお姉さんの顔。力の抜けたわたしの右手を持ち上げて、掌にハンカチを乗せてくれていた。
 わたしは黙って、そのハンカチを受け取る。伊達メガネを外して、がむしゃらにあふれる涙をぬぐった。そうしていると、今度は左の二の腕を、お姉さんはとん、と軽く1回叩いてくる。
「弱虫なんかじゃないよ。きみは強い子だ」
「……えっ」
 言われた言葉が信じられなくて、わたしは目を見開いた。メガネの色付きレンズを通さずに見たお姉さんの笑顔は、なんだかより一層素敵に見えた。
「だってさ、スタートラインに立てるかどうかも分からない夢を、夢として持ち続けて頑張るって、そうそうできることじゃあないよ。
 少なくとも私には絶対にできないな。ポケモントレーナーになったのだって、ポケモン持って家を飛び出せばとりあえずなれるからでしかなかったわけだし」
 お姉さんは右を向く。わたしがさっきまで見ていた、空港の滑走路を見つめて。
「なんかさ、きみってあの滑走路みたいだよね」
「えっ?」
「どこまでもまっすぐだからさ。しっかりした芯が通ってる。きみみたいな子、私は好きだよ。夢が叶うかどうかは私にはなんとも言えないけど、きみはきっといい大人になれる。これだけは言えるよ」
 お姉さんには、あの滑走路の先に未来が見えているんだろうか、と思うくらい、お姉さんの言葉はとても力強かった。
 いい大人と言われても、正直ピンとこない。大人になんてなったことないし、いい大人と思えるような人なんて、家族くらいしか出会ったこともない。
 でも、言われて悪い気はしなかった。そういうことを考えられるくらいには、傷の痛みも引き始めていた。
「なれるようになるといいね。パイロット」
 お姉さんがこちらを向き直る。顔は、やっぱり優しい笑顔。澄んだ茶色の瞳に、空の青と雲の白が写り込んで、とても素敵な色に見えた。
「……はい、がんばります」
 顔からハンカチを離して、お姉さんの瞳をまっすぐ見つめながら、わたしは答えた。もう涙は流れていない。まだ目尻が少し腫れぼったい感じがするけど、それもじきに引くはずだ。
 お姉さんの目が、少しだけ細くなった。それと同時に、お姉さんは白い歯を見せて笑う。
「目、青いんだね。すごく素敵だよ」
 言われて、まだメガネを付けていないことに気づいた。いや、いいか。わたしの家族以外で初めて、この目をほめてくれる人に出会えたんだから。
「……ありがとうございます」
 顔が自然とほころんでいた。歯を見せて笑ったのなんて、どれくらい久しぶりだろう。



 * * *



「もう、行っちゃうんですか」
「うん、今日は隣の町まで行く予定なんだ。まだ昼前だし、今からなら日が暮れるまでにはじゅうぶん間に合うしね」
 お姉さんは話しながら、駐輪場で自転車の鍵を外している。スポーツタイプのカッコいい自転車。ところどころが汚れていたり、ハンドルにちょっとだけサビが付いているところもあったりして、結構使い込まれているのが見て取れる。
 お姉さん、本当にカッコいい人だな、という気持ちがますます高まった。わたし、本当に恋しちゃってるのかな。あの人に。
「あの」
「なんだい?」
 自転車の荷台にバッグを縛り付けながら、お姉さんは答える。
「名前、まだ聞いてなかったですよね、何て言うんですか?」
 ハンドルを手に取り、スタンドを蹴りながら、お姉さんはわたしの問いに答えてくれた。何の変哲もないありふれた名前。でもわたしには、歴史の教科書に載っている偉人みたいにカッコいい名前に聞こえる。
 わたしもすぐに、わたしの名前を伝えた。やっぱりありふれた名前だけど、大好きなわたしの名前。
「素敵な名前ですね」
「きみだって」
 笑顔を向けると、すぐにお姉さんも笑顔を返してくれた。初めて会ったのがほんの小一時間前だとは思えないくらいの以心伝心ぶりが、なんだかとても不思議だ。



「また、どっかで会えたらいいな」
 自転車のサドルに、お姉さんがまたがる。話すお姉さんの声は、どこか寂しげだった。
「はい、今度からポケモンリーグのテレビ中継、忘れずに見ますね」
 どうせなら楽しげにお別れしたい。そう思って、私が言える精いっぱいのジョークを言ってみる。
 お姉さんの顔が笑顔に変わる。よかった。笑ってくれた。
「じゃあな! 元気でやれよ!」
「お姉さんもお元気で!」
 手を振って、笑顔で叫ぶ。お姉さんは地面を蹴って、自転車を進めていく。やがてお姉さんの足は地面を離れて、地面の代わりにペダルを踏みこんで、自転車を加速させていく。



 ……そういえば、いつもここまでは歩いて通ってるけど、時間は結構かかってるよなあ。
 そうだ、わたしも自転車を買おう。そうすれば、憧れのお姉さんに少しでも近づけるかもしれない。
 春風がそよぐ中、新しく生まれた小さな夢を抱えて、わたしも足を踏み出した。
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感想

お名前:円山翔 さん
これ、という夢を持てない私にとっては、とても眩しいお話でした。世界はいつだって理不尽だけれど、それに抗ってでも夢を持ち続けたり、夢を叶えるために努力したりする人は強いんだって、私の友人や周りの方々を見ていて常々思います。きっと、彼女もそうなのでしょうし、彼女を脅した少年にも夢へ向かって努力できるようになってほしいです。それができていない私がこんなことを言うのは不相応ですけれども……彼女がそうだったからこそお姉さんは彼女の背中を素直に押せた、応援したいと思えたのではないかなぁと。いつもながら、飛行機や戦闘機にかんする描写には感服です。
書いた日:2018年06月20日
   作品サブカテゴリ: 覆面作家企画7投稿作品