26.5 ー Past

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作者:円山翔
読了時間目安:11分
 深い深い森の中を、男は走っていた。黒のスーツにスラックスという運動には不向きな服装ながら、そんなことを意に介さないようにすいすいと木立の合間を縫って走り続ける。その腕には、若草色の小さな妖精、セレビィがぐったりとした様子で抱えられていた。
「もう少しだからな……」
 男の声に反応してか、セレビィはぎゅっと目を瞑って祈るように手を組んだ。何かが起こるわけではない。セレビィは今、時渡りをするどころか得意の超能力さえ使えないほどに衰弱していた。
 息を弾ませて走る男の視界に、セレビィが祭られているとされる祠が見えた。そのすぐそばに、セレビィと似た色の光を放つ渦が浮かんでいた。時の波紋。セレビィが時渡りをする際に現れる、時間エネルギーの塊。男はセレビィを下手投げで、時の波紋めがけて優しく放った。セレビィは男の手を離れて渦に触れ、何事もなく時渡りの力を取り戻す――はずだった。
 男の手の指先が、時の波紋から流れ出る光に触れた。瞬間、バチンと音がして触れた部分が一瞬で黒焦げになった。
 波紋の渦の奥から、時間エネルギーが矢のように、そして波紋と男を繋ぐ糸のように空間を走った。
「っ……星見!」
 男の一言でゴチルゼルがモンスターボールから飛び出して、セレビィと波紋の周りに透明なバリアを貼った。男の手に流れ込もうとしていたエネルギーはバリアによって分断され、バリアの内側をバリバリと音を立てながら走り続ける。徐々にセレビィの身体に収まりつつも、今にもバリアを破らんと暴れ回るエネルギーを、ゴチルゼルは必死に抑え込んだ。バリアは時に歪み、時に捻じ曲がり、しかし少しずつ輝きを増しながら小さく収束していった。
 やがて若草色の光が全てセレビィの中に収まった頃、ゴチルゼルは息も絶え絶えにバリアを解いた。それから主人の方を振り向いて、息を呑んだ。スーツの男はゴチルゼルが最後に見た場所に倒れていた。
「おいおい、泣いてくれるなよ。私なら大丈夫だ」
そう言って笑う男を見つめるゴチルゼルの瞳からは、しかし大粒の涙が次から次へと溢れ出していた。ぼたぼたと零れ落ちる雫が、足元の地面に染みを作っていった。
「何が大丈夫なもんか。おいらがもっていくはずのエネルギーをごっそりと持って行っちまいやがった」
 すっかり力を取り戻したセレビィは腰に手を当てて男を睨んだ。最も、その空色の瞳が見つめているのは男の顔ではない。男の内側に渦巻く、人間が抱えておくには大きすぎるエネルギーの流れ。それが男の体を蝕んでいくのが手に取るように分かる。
「お前も無茶しすぎだ。おいらが中にいたからいいものの、そうでなかったらお前も巻き込まれてた」
 セレビィはゴチルゼルの近くまで飛んで行って、その肩をひっぱたいた。大した衝撃ではなかったにも関わらず、ゴチルゼルはふらりと男の隣に倒れ込んだ。
「森は壊れていないか」
 仰向けのまま、男は尋ねた。まだ、その目に映る光景が信じられなかったのだ。
「自分の身よりも他の心配か」
「森は、壊れていないか」
 最初よりもゆっくりと、力のこもった声で男は尋ねた。とても倒れている人間とは思えない声に、セレビィは目を見張った。
「何が見えるか言ってみな」
「今、私が見ているが現在のものだという保証はあるのかい?」
この男は、本来何が起こるはずだったのか分かっている。同時に、自分の身に何が起こっているのかさえも分かっている。面倒な奴だと言いたげにセレビィはぼやいた。
「いいから、何が見えるか言ってみろ。それが未来の景色か今の景色か教えてやるさ」
 少し時間を置いて、男はゆっくりと言葉を紡いだ。そこにある景色が、本物であることを確かめるように。
「私の目には今、私が来た時と変わらない景色がある。草も木も花も皆、瑞々しい色をしている」
 かつてグリングス・コーダイが引き起こした悪夢は、男の目の前では起こっていなかった。コーダイは機械の手で触れたとはいえ、彼が時の波紋に触れたクラウンシティ近郊の森は全て黒く枯れてしまった。だが今は違う。見渡す限り、滅んだと思しき場所は一つも見当たらなかった。
「その通り。蝕まれたのはあんた自身と、あんたの周りだけだよ。あんたが見ている光景に間違いはない」
 男が首を横に捻ると、確かに男がいる場所から半径1メートルにも満たない部分の草花が黒く枯れていた。
「よくやった星見」
 男は傍らで依然涙を零すゴチルゼルに言った。それから彼女をボールに戻し、黒焦げになった方の手で、同じ色の草を掴み上げた。瑞々しさの欠片も感じられないそれは、男の手の中でボロボロと崩れた。
「私は何ということをしてしまったんだ」
「たったそれだけで済んだんだろう」
「だとしても、これは私のせいで失われた命なのだ」
「……甘い奴だ」
 呆れたように小さく溜息を溢した妖精――セレビィは、まだ起き上がれない男を一瞥した。
「まってろ。おいらが薬を作ってきてやる」
 そして身を翻し、瞬く間に木々の隙間に消えていった。





 視界が渦に飲み込まれ、場面が変わった。





 同じ森の中、同じ祠の前。同じスーツ姿の男が、背の高い木にもたれかかって座っていた。傍らにはゴチルゼルがしゃがみ込み、一人と一匹を見下ろす位置にセレビィが浮かんでいた。男の顔はひどくやつれていた。単純に年月を重ねたから、というだけではないようだった。
「私はもう、死ぬんだな」
 ゴチルゼルは涙を流しながら静かに頷いた。白髪の男は目を伏せ、長い長いため息をついた。
ゴチルゼルには未来を見通す力が備わっている。時にその力は、望まずして主人の寿命を映し出すこともある。今回ゴチルゼルが感じ取ったのは、紛れもなく主人の死相であった。それも、何年も先のことではない。あとどれくらいの時間持つか分からない、直近のことだった。事実、男が嵌めた真っ白な手袋は、今は彼の吐いた血で真っ赤に染まっていた。彼が時の波紋に触れた時にゴチルゼルが涙を流したのは、この時のことを既に予見していたからなのだろう。
「言ったはずだぜ。おいらの作る薬は万能薬と呼ばれているけど、あんたのそれは完全には治らないって。今までは薬でだましてこれたけど、もうこれ以上は無理だ」
「ああ、解ってるさ」
 まだ乾ききっていない口元の血を手で拭いながら、男は言った。
 時の波紋に触れた時、男に流れ込んだエネルギーは、少しずつ男の体を蝕んでいた。定期的にセレビィの薬をもらって症状を緩和させていたのだが、ついに薬ではどうしようもない所まで侵食が進んでしまったのだった。
「たった五年……いや、私にとっては十分に長い時間だったのかもしれないな」
「おいらにとっては長い長い歴史の中のほんの一握りに過ぎないけれどね」
 憎まれ口を叩く妖精に、男は違いない、と返す。
「そして、おそらくここで終わりだ。今まで本当に世話になった」
 男はゴチルゼルの肩に掴まって、ゆっくりと立ち上がった。
「もうすぐカオルがここに来る。星見、私をあの場所へ」
 ゴチルゼルが頷くのを確認して、男はセレビィの方を向いた。くすんだ空色の瞳が瞬く。より澄んだ同じ色の、一回りも二回りの大きい瞳が揺れる。
「カオルを、よろしく頼む」
 その言葉を最後に、ゴチルゼルと男の姿が空間から消えた。





 同時に空間が渦のようにねじれて、全てが眩んだ。





    *





 セレビィに手を引かれ、カリノカオルは時間の渦の中から飛び出して森の祠の前に降り立った。無機質な笑顔が刻まれた仮面に滲む感情は、表情に似合わず無に近い。
「……そういうことでしたか」
「ああ。あんたの見た通りさ」
 傍らにできたばかりの若草色の渦に触れながら、セレビィは応えた。十数年前と、ちょうど十年前。二度の時渡りによって消耗した体が、見る見るうちに輝きを取り戻していく。これが、本来の時の波紋のあるべき姿。セレビィ以外が触れれば一次的に未来視の力をその身に宿すも、大きすぎるエネルギーは触れた者だけではなく周りの生命をも蝕んでしまう。
「残念ながら、あんたを師匠のところに連れていくことはできないぜ」
「構いません。どんな形であれ、あの人とはいずれまた会える。そんな気がします」
「あんたがそういうなら、そうなんだろうな」
 あんたはあの男の影響を強く受けている。その一言を、セレビィは言葉には出さない。彼の傍にいたカオルが、彼が取り込んだ時間エネルギーの影響を強く受けているということは、彼の過去を見たカオル自身がよく分かっていることなのだろうから。
 おそらくカオルは無意識に未来を見ていた。そしてそれを予感という形で認識していたのだろうとセレビィは結論付けた。それが本当のことなのかどうかは、セレビィにも分からない。カオルの師匠に時間エネルギーが宿った時とは違い、カオルの中には何も見えないのだ。しかし、彼女に内緒で過去を覗いた限り、彼女の予感は予感というには不自然なほどに的中していたのだった。
「取り急ぎ、今はアイネズ島とユウオウ島のコスモ団を排除しなければなりません」
「他の島はいいのかい?」
「キナリ島、エンタン島、ハトバ島は既に別のトレーナーが戦っています。この島は私が掃除しました。それに」
 そこで言葉を切って、カオルはもう一つ、名を告げていない島の方角を見て言った。
「ウツブシ島にはムメイさんがいますから」
「それも予感(・・)かい?」
「どうでしょうね」
 仮面の口元に手を当てて、カオルは笑った。仮面に隠れて見えないが、きっとその目は信頼に満ちているのだろうとセレビィは思う。
「頼みましたよ、フォーゼ」
 カオルは腰につけたボールを一つ放った。飛び出したメタモンが、見る見るうちにその姿を変えた。額から伸びる二色の飾り羽を持つ、ピジョットと呼ばれるポケモン。カオルがその背に跨るのを確認して、ピジョットに化けたメタモンはその大きな翼をはためかせ、大空へと飛び立った。

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