21-始まりの島で

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作者:円山翔
読了時間目安:26分
ふゆなみさんの作品、「海辺の汽車に乗れ」、きとらさんの作品、「SaatExplores」の展開を一部お借りしています。また、公式よりエゾキク博士、ioncrystalさんのキャラクター、マルベリーさんをお借りしています。ありがとうございます。





「明朝、日が昇らないうちにこの島を出ます」
 最後のマジックショーの公演が終わった後、控室で荷物を片付けながらカオルは言った。相変わらず仮面で隠された顔からは、表情の一つも窺うことはできない。
【行先はキナリ島ですね】
 少し間をおいて、カオルのすぐそばで自分の荷物を鞄に詰めていたムメイがノートを見せた。生まれつき言葉を発することのできない彼にとって、ノートは大切な意思疎通の手段だった。
「ええ。博士にお借りしたミミロルをお返ししなければなりません。それに」
 どこか遠くを眺めるように視線を部屋の隅に飛ばして、カオルは言った。
「この地方に来たからには挨拶しておかなければなりませんから」
 少しだけ、わざとらしく嫌がるような口調だった。



 それから夕食を済ませて宿泊施設に帰るまで、カオルはほとんど口をきかなかった。



【カオルさんは、前にサート地方に来たことがあったんでしたよね】
 二つ並んだシングルベッドの内側に腰掛けたムメイはノートの文字でカオルに尋ねた。部屋の明かりはつけずに、ベッド脇にある小さな暖色電灯だけを灯していたため、白い仮面がぼんやりと浮かび上がってどこかホラーな雰囲気と電灯の暖かい色がどこかちぐはぐな雰囲気を醸し出していた。
 カオルはすぐには答えなかった。物思いにでもふけっていたのだろう。しばらくして、思い出を懐かしむような口調で言った。
「もう十年も前の話です」
【エゾキク博士とはその時に?】
「ええ」
 闇を照らす優しい明りの中で、白い仮面が頷いた。
「正直、顔を合わせるのが気まずいという気持ちはあります。10年前の私は、博士に会うたびに悪戯をしていましたからね」
 声に同調するように、カオルの持つ三つのモンスターボールが揺れた。幻影を使うゾロアークのファントム。様々な人やポケモンや物に姿かたちを変えるメタモンのフォーゼ。それに、体色を周囲に完全に同調できるカクレオンのハイド。カオルがかつてサート地方を旅した時からずっと一緒にいたという三匹である。三匹の能力を考えれば、悪戯をしたという言葉にも頷ける上に、悪戯の内容も想像に難くない。
「まあ、あなたにはあまり関係のない話かもしれませんが」
「……」
「明日はいつもより早いので、早めに休むように」
 それだけ伝えると、カオルは明かりを落としてベッドに横たわってしまった。なかなか眠りにつけないムメイとは対照的に、カオルはいつでもどこでもすぐに眠ってしまう。既に寝息を立て始めたカオルを起こさないように、ムメイはベッドの反対側に腰掛けた。
 いつもと変わらない淡々とした口調。その中に、ムメイはどこか寂しげな色を感じ取った。普段はそんな雰囲気を微塵も感じさせない。いつだって、自信に満ちた佇まいでムメイを導いてくれた。そんなカオルにも時々、本当に稀にではあるが、雰囲気とは裏腹の感情を言動や行動に滲ませることがあった。それが意図的なものなのかそうでないのか、ムメイには分からない。カオルは演技が上手いということを考えれば大概が意図的なものなのだろうが、つい先ほどのように二人きりの時、本心をさらけ出してくれているのではないかと期待せずにはいられなかった。
そういう時に限って、どうしていいのか分からなくなる。苦しい時には泣いていいと言ってくれたカオルに、辛い思いを背負ってほしくはないと思った。苦しみや悲しみがあるならば吐き出してほしいと思った。しかし、カオルは「関係ない」と言った。自分にカオルの感情を受け止める資格があると自信をもって主張することはできなかった。伝説と向き合う器。人と向き合う器。そのどちらも、持ち合わせているとは思えなかった。
 ムメイは知らない。十年前、このサート地方で何があったのか。断片的には聞いているが、どれも観光ガイドに載っている程度の島の特徴くらいのものだった。あとは、フーパに笑顔を貰った事。カオルがこの地方に来て真っ先にハトバ島を訪れることになったのもそのためだと言っていた。

『あなたは、ひとでもポケモンでも、他人の弱さを感じるのがじょうずです』

 日時計の広場での一件の後、カオルは確かにそう言った。本心かお世辞なのかはよく分からないが、ムメイは言葉通りに受け取っていた。カオルは回りくどい言い方をすることはあっても嘘は絶対に言わない人だと、そう信じていたから。だからこそ、ムメイが感じたのはカオルの「弱さ」なのではないかと思った。そしてすぐに疑った。ムメイにとって、カオルは「強い」人間だったのだから。
『カオルにも悲しい事やつらいことはあるわ。それを、私たちに見せようとしないだけ』
『うん。僕もできるようになった方がいいって言われたっけ』
 ムメイの隣に腰掛けて、茶髪に黄色い目の少女の姿をしたラティアスのロンドがテレパシーを送った。対するムメイは、心の中で言葉を紡いでロンドに向けた。
ロンドと話す時には、ムメイはノートを使わない。ロンドの言葉はテレパシーで直接心の中に伝わり、ムメイの言葉はロンドがムメイの心を読み取ることで会話が成立する。ロンドが本当の姿をムメイに晒した時から幾度となく行ってきた会話の方法だった。
『まあ、必要な時以外は心を閉ざしているみたいで、読みたくても滅多に読めないんだけど』
 それはそれで割り切っているという風な顔でロンドは溜息をつく。
『あの子の師匠がいたら、まだ違ったのかもしれないけどね』
『師匠……』
『もしもカオルがいなくなったらって考えたら、分かるかな?』
『……』
 確かに、カオルが突然姿を消してしまったら慌ててしまうだろうとムメイは思う。いや、慌てるだけで済めばまだいい方なのだろう。果たして自分はショックから立ち直れるだろうか。考えるだけでも背筋が凍る思いがした。
 ムメイは今朝方に見た夢を思い出した。深い森の中の小さな祠の前で、カオルが誰かに手を引かれて光の中に消えていく光景。マジックショーに集中するあまり、カオルに話すのをすっかり忘れていた。
『……どうかした?』
『大丈夫。ちょっと怖い夢を見たってだけ』
 心配そうにのぞき込むロンドに、ムメイはできる限りの笑顔を作って答えた。が、それがまずかったらしい。ロンドは怪訝そうな顔をしてムメイにひとさし指を突き付けた。
『嘘。大丈夫って顔してない』
『……そう?』
『ムメイが心から笑ってる時は、そんな変な顔じゃないもの』
事実、今ムメイの顔に刻まれている笑顔はかなりぎこちないものだった。
ムメイは作り笑いが苦手だった。ただでさえ垂れた眉と細い目のせいで悲しげな顔だと言われる顔に、無理矢理笑顔を貼り付けようとするとどうしても引きつってしまう。せめてショーの間くらいは笑顔を保つようカオルに言われて、化粧で多少は誤魔化しつつも必死で笑顔を作っているが、少しでも気を抜くとすぐに真顔に戻ってしまう。
力を抜いたムメイの顔から、つくりものの表情が消えた。後には少し悲しげに見える普段通りの顔が残った。少しだけ口角を上げる。悲しげな顔が、少しだけ微笑みに近い表情になった。
『心配してくれてありがとう。多分、明日には忘れてると思うから』
『ならいいけど……』
ロンドに心を読まれる前に、夢の内容だけは辛うじて塞き止めた。ロンドは相変わらず唇を尖らせてムメイを見ていたが、そのうちベッドから立ち上がって自分のモンスターボールを手に取った。
『おやすみ、ロンド』
『おやすみ、ムメイ』
 モンスターボールが放つ赤い光が消えたのを確認して、ムメイはほっと息を吐いた。
 おそらく、明日になれば忘れてしまうだろう。今はそれでいい。ベッドに体を横たえて、目を閉じる。この日は珍しく、睡魔はすぐにムメイの意識を深淵へと誘った。





 まだ日の光の気配も感じられない早朝。二つの影が、ハトバ島を飛び立った。
 男が一人と、先の男よりも男らしい格好をした長髪の人間が一人。それぞれが、青い竜と赤い竜の背に跨って、矢の如く飛んでいった。





 かくして、カオルとムメイがキナリ島についたのは、太陽が水平線の向こうに顔を出し始めた頃だった。降り立ったのは、エゾキク博士の研究所からは少し離れたところにある砂浜。研究所へ直接行くということもできたのだが、
「その方が、都合がいいのです」
と、これといった理由を語らないままにカオルがそれを拒んだため、この場所から研究所まで歩いていくことになった。
 研究所の前まで着くと、カオルは慣れた手つきでドアをノックした。中から「は~い!」と、若い女性の声が聞こえてきた。ドアがひとりでに開いて、出てきたのは肩まである赤髪、鳶色の目に眼鏡の女性。歳はムメイと同じか少し上に見えた。エゾキク博士は男性だと聞いているから、この女性は博士の助手だろうか。
笑顔で出てきた女性の顔が、カオルの仮面を目にした途端に引きつった。





 ドアを開けた瞬間、マルベリーは絶句した。無理もない。来訪者は白い無機質な仮面を被った、いかにも怪しい人間だったのだから。
「何ですかあなたたちは!ふ、不審者なら警察を呼びますよ!」
「落ち着いてください。エゾキク博士はいらっしゃいますか?」
 閉まりかけた扉の向こうからは、少し低い落ち着いた声が聞こえた。無理矢理扉を開けようという気配もない。が、それもマルベリーの疑いを晴らすには至らない。
「あなたみたいな怪しい人、博士に会わせられるとでも?」
「何があったんだね、マルベリー君」
 マルベリーの背後で優しい声がした。研究所で働き始めてから幾度となく聞いた頼もしい声。
「マルでいいって言ってるじゃないですか!」
なかなか呼んでほしい名前で呼んでくれない博士に対して、反射的にそんな言葉が飛び出した。が、今はそれどころではない。助けが来たと言わんばかりに
「それより博士、聞いてくださいよ。いきなり変な人が来て、博士に会わせろなんていうものですから……」
 ぽかんとした顔でマルベリーが指差す人物を見たエゾキクは、「ああ」と手を打って返す。
「なに、心配はいらないよ。彼はカリノカオル君さ。ほら、昨日までハトバ島でマジックショーをしていた」
「そうなんですか……って、ええ!?」
「お久しぶりです、博士」
 扉を自ら引き開けて、カオルと呼ばれた人間は何事もなかったかのように告げる。それからマルベリーに向き直る。
「申し遅れました。私、奇術師のカリノカオルと申します。後ろに控えますのはアシスタントのムメイ。ハトバ島でのマジックショーと、その後の休暇のためにサート地方を訪れた所存でございます」
 言い終えると、胸に手を当てて深々とお辞儀をした。後ろで細い目の青年が、仮面の人間に倣って頭を下げた。
 顔を上げた奇術師は、白手袋をはめたままの手でモンスターボールを一つ、博士に差し出した。半透明な殻の中では、雲のような毛を纏った茶色いウサギが目を輝かせていた。
「この子はお返しします」
「例のものは、彼らに渡せたかい?」
「ええ……確かに届けました」
「そうか。突然すまなかったね」
「いえ。丁度彼らと鉢合わせる場所にいたので、そのついでです」
「しかし、ドアを開けて君のその仮面を見たら、誰だって驚くだろう。せめて挨拶の時くらいは仮面を外したらどうかね」
「申し訳ありませんが、それはできかねます」
真っ白な仮面を、真っ白な手袋が撫でる。仮面全体を拭うように手が動いたかと思うと、仮面の表情がなくなった。怒っているとも笑っているとも言えない、無機質な表情だった。手が動く。そのたびに表情が変わる。笑った顔、怒った顔、悲しい顔、楽しげな顔。一通りの表情を経て、最初の薄笑いに戻った。
「今はこの仮面が私の顔のようなものなので」
 怪訝そうな顔の博士とマルベリーに一度ずつ視線を送ってそれまでよりも少し低い声で「それに」と続けた。
「私がこの仮面から解放されるのは、本来の持ち主に返すときになりそうですから」
「君は、変わらないね」
「ええ。そのようですね」
 紫の瞳と、仮面の下の黒い光がぶつかり合う。険悪な雰囲気ではないが、しかし穏やかとは決して言えない。かつてもそうだったのだろうか、などと考えてみたところで、それはマルベリーにとって想像の域でしかなかった。
「わ、私、お茶を淹れてきますね」
 博士とカオルの間に何とも言えない空気が立ち込め始めたところで、マルベリーは二人の邪魔をしないように一旦退避の道を選ぶことにした。キッチンへ向かおうとした時、眼前に文字の書かれたノートが差し出された。
【何かお手伝いできることは?】
 ここに来た時からずっと黙っていた、細目の青年だった。
「いえ、大丈夫ですよ。そこに座って待っていてください」
テーブルの周りの椅子を示してマルベリーは言った。細目の青年は小さく頷いて、椅子の一つに腰を掛けた。
聞き訳がいい人で良かったと思いつつも、再びキッチンへと向かう。お湯を沸かして茶葉をポットに入れる間にも、博士とカオルの会話が聞こえてきた。





「そうだ。つい最近、君が夢に出てきたんだよ。あの時連れていたゾロアの進化形、ゾロアークともう一匹、連れていたかな」
 悪い予感が当たったと言わんばかりに、ムメイの目から見てカオルの動きがほんの一瞬だけ固まった。それでも慌てたそぶりを見せないのは、奇術師として何度もステージに立ってきた経験からなのだろう。おそらく、エゾキク博士もマルベリーも、そのことには気づいていない。
「それは興味深いですね。予知夢ですか」
「どうだろうね。でも、どうにも夢に思えなくてね。君ほどのトレーナーなら、一緒にいてもおかしくはないと思うんだけど」
「トレーナーとして旅をしていたのはもう十年も前の話ですよ。今はトレーナーではなく奇術師です」
「確か、あれは伝説のポケモンで、名前は――」
「そこまで分かっているのなら仕方ありません」
 あきらめたようにカオルは告げた。それから渋々腰につけたモンスターボールを一つ手に取って、開閉スイッチを押す。ちらりとムメイの方に振り向いたので、ムメイもモンスターボールを一つ解放した。
 赤い光の中から現れたのは、すらりと伸びた首に、三角形の模様が入った丸みのある胴体。額に五角形の模様がある赤い竜、ラティアスのロンドと、同じ場所に丸い模様の青い竜、ラティオスのカデンツァ。
「これは驚いた!まさかこんな短い期間に、伝説のポケモンに再び出会えるなんて!」
 博士が感嘆の声を上げると同時に、人知れず二つの溜息が零れ落ちた。


 一つは無論、カリノカオルの仮面の奥から。


 そしてもう一つは、人数分のティーカップを運んできたマルベリーの口からだった。


「皆さん、お茶が入りましたよ」
 控えめの声で言って、キッチンから戻ってきたマルベリーは4人分の紅茶の入ったカップをそれぞれ椅子の前に置いていった。細目の青年が声に反応して、カップが置かれた席についた。
【いただきます】
 そう書かれたノートをマルベリーに見せてから、青年はカップを両手で持って静かに紅茶を啜った。
「ムメイは生まれつき喋れないんです」
 背後で声がした。振り向けば、博士と話していたはずの奇術師がいつの間にかそこにいた。最初の仮面の衝撃があまりに強かったせいか、驚きはしたもののそれほど過剰に反応することはなかった。
「博士は相変わらずですか」
「ええ。伝説のポケモンの情報を見つけるたびに、それこそ子供みたいにはしゃぐんです」
「10年前と変わりませんね。でも、子供心を忘れないでいるというのは素敵なことだと思いますよ」
そうして話をしている間にも、エゾキク博士はペンとメモ帳を手に、ロンドとカデンツァにあれこれ尋ねている。二匹は時折考えるようなそぶりを見せながらも、頷いたり首を横に振ったりして応えている。通じ合う言葉がなくとも会話が成り立っているように見えた。博士も二匹も笑っていた。そのうちラティアスとラティオスがマルベリーたちの方にやってきて、細目の青年の腕を引いた。青年がカップの紅茶を溢さないようにソーサーに置く。それから一つ頷くと、一口でカップの紅茶を飲み干してから、ノートを手に博士のところまで歩いて行った。ラティアスはカオルの隣まで来て、何かを伝えるように一声鳴いた。
「ええ、構いませんよ」
 ラティアスの言葉を理解したように、カオルは言葉を返した。どうやってポケモンの言葉を理解しているのかは分からないが、ラティアスもラティオスも、仮面の奇術師と細目の青年を信頼しているように見えた
「ラティアスとラティオスが心を許した人なら、きっと悪い人じゃないですね」
「どうでしょうねぇ。あの子たちが私に操られているかもしれない」
 語尾でぼかしてはいるが、本当ではないような、しかし本当のことを言っているような、よく分からない感覚がマルベリーを襲った。カオルは紅茶のカップを手に取り、仮面の口に運ぶ。その仕草の一つ一つが洗練されているようだった。
「悪い人ぶるのが奇術師のお仕事なんですか?」
「私はただ、私という人間を演じているにすぎません。それがいい人なのか悪い人なのか、判断するのはきっと私以外の誰かですから」
 飄々とした口ぶりだが、マルベリーはその中に悪意を感じ取ることはできなかった。演じるということは時に見る者を欺くということである。そういう意味では、目の前の奇術師の何もかもが胡散臭く思えてくる。ただ、嘘を言っているようには聞こえない。むしろ、本当のことを嘘っぽく言っているだけのような気もする。
 考えれば考えるほど、カリノカオルという人間が解らなくなった。





「君とは初めましてだね」
 エゾキク博士の言葉にムメイは一つ頷いて、【はじめまして ムメイ・ショウタといいます】と書かれたページを開いて見せた。博士は穏やかな笑顔をムメイに向けた。その瞳だけは、好奇心の色で輝いていた。
「カリノ君から聞いていたよ。口はきけないが、有能なアシスタントがいるってね」
【ありがとうございます】
 何と返して良いのか分からないまま、感謝の意を記したページを見せた。心の中では「有能」という言葉を打ち消していた。どうにかマジックショーのアシスタントをこなすことはできるようになったものの、自分が「有能」と思えるほどの自信をムメイは持ちあわせていなかった。サート地方へ来てからも、カオルだけでなく様々な人に心配と迷惑をかけている自覚があった。
 ラティアスのロンドが、ラティオスのカデンツァが、ムメイの背に手を当てた。大丈夫、自分たちがついている、と言っているようだった。服を通して伝わる、少しひんやりとした、しかし暖かい感触。
「聞かせておくれ。君の、物語を」
 博士の言葉と背後の二匹に後押しされるように、ムメイは覚えている限りすべてをノートに書き込んだ。

孤児院で育ったこと。

小中学校の思い出。

ロンドと出会って、カオルの元に連れて行ってもらったこと。

それから5年間の軌跡。

サート地方に来て、フーパに出会い笑顔を貰ったこと。

ホウオウを、フーパを巡る戦い。

どれをどういう順番で伝えていいものやら分からなくて、最初から最後までノートに書き綴るだけでも随分と時間を要した。
 伝えるべき内容を書いたページを破って博士に渡す。博士は時々頷いたり、「ふむ」と声を漏らしたりしながら、じっくりと時間をかけて読んでいった。
全てを読み終わったところで、博士は顔を上げて告げた。
「君は恵まれている」
 言われて少し困惑した。しかし、ムメイもその通りだと思った。
「喋れないのは確かに望まないディスアドバンテージかもしれない。でも、君はこれまでに多くの人と、ポケモンと出会ってきた。私がここまで生きてきてやっと今お目にかかれた伝説のポケモンにも何度も出会っている。私はそこに、何か運命的なものを感じるんだ」
 博士の言う通り。中学にロンドが編入してこなければ、カオルのアシスタントになることもなかったかもしれない。ロンドの弟のカデンツァや今の手持ちのサーナイト、ココロに出会うこともなかったかもしれない。カオルについてこなければ、サート地方なんて訪れる機会もなかったかもしれない。危険な目には遭わなかったかもしれないが、伝説のポケモンたちと遭遇することもなかったかもしれない。そして何より、彼に名前をくれた、名前の大切さを教えてくれた人に出会わなければ、ムメイは今「ムメイ・ショウタ」ではなかったかもしれない。
「君はこれまで出会った人やポケモンに出会うべくして出会っているような気がするんだ。君はどう思う?」
 ムメイはノートに目を落とした。思考だけは答えを探して頭の中を飛び回る。が、答えらしきものにはたどり着けない。
【正直、よく分かりません】
【運命なんて考えたこともなくて】
【確かに今ここにいるのはいろんな人やポケモンに出会ったからです】
【でも、僕が進む道があらかじめ定められているというのは】
【何だか違う気がします】
【出会うべくして出会ったというのは】
【今だからこそ言えることではないかと思うんです】
 立て続けに見せたノートの文字を、博士は頷きながら読んでいった。
「そうだね。これまでもそうだっただろうけど、これからもきっと、いくつもの分岐点に出会うだろう。その中から、君はたった一つを選んで進んでいかなければならない」
 聞き覚えのある言葉だ。しかも、つい最近までよく耳にしていた言葉だった。その人に言葉なのか、博士の受け売りなのか、それともどちらでもない、もっと前から言われてきたことなのかは分からない。
「君の人生の主役は君自身だ。いろんな出会いに感謝して、君らしく生きなさい」
 博士の顔が、かつて同じようなことを言っていたカオルに重なった。





 カタリと音がして、ソーサーに空のカップが置かれた。マルベリーは音のした方に目を向けるが、そこには既に誰もいない。
「もう行くのかい?」
 いつの間にやらドアの前に移動していた黒スーツの背中に博士が声を掛けると、カオルは振り向いて答えた。
「ドクサ島へ向かいます。やり残したことをやらなければなりません」
 仮面のせいで表情が分からないが、その言葉にはなにか信念のようなものが滲み出ているような気さえした。
【紅茶おいしかったです。ありがとうございました】
【興味深いお話でした。また、いろいろ聞かせてください】
 細目の青年はマルベリーと博士にそれぞれノートのページを見せて笑った。垂れた眉のせいか、細い目のせいか、少し寂しげな表情に見えた。
「それでは」
 カオルが頭を下げると、隣でムメイもそれにならった。エゾキク博士が一歩進み出て、カオルの「仮の顔」を見て言った。
「何かあればまたいつでも来なさい」
「ええ。本当に必要に迫られた時には」
「次に会う時には、その仮面の下の素顔を見られることを期待しているよ」
「その時までに、私の中で何かが変わっていれば」
 最後まで素顔を見せることなく、最後まで本心らしき本心を見せることもなく、仮面の奇術師は赤い竜の背に跨った。続いて細目の青年が青い竜の背に体を預けると、二匹の竜は勢いよく飛び立った。

「また来る」とは言わなかった代わりに、「さよなら」とも言わなかった。





 エゾキクとマルベリーは、晴れ渡る空に飛び去っていく二つの影が見えなくなるまで見送った。その後、しばらく二人で空を眺めた。あの空の向こうには何があるのだろうと、子供心に好奇心をくすぐられた頃を思い起こさせる。空は目に見える世界の全てを包み込んで、どこまでも青かった。
「行っちゃいましたね」
「またどこかで会えるさ」
 そんなことを言いつつも、博士の顔には名残を惜しむような表情が刻まれていた。
 エゾキクの夢は、伝説のポケモンと友達になることだ。そういう意味では、夢は一つ叶ったことになるのかもしれない。しかし、出会いがあれば別れもある。これまでにも数多くのトレーナー達を送り出してきた博士なら分かるはずだ。しんみりした空気を少しでも和らげようとマルベリーは口を開いた。
「で、あの二匹とどうやって話していたんです?」
 言った途端に博士が俯いたので、これはまずいことを言ってしまったかもしれないと思ってしまう。白衣を着た肩がふるふると震えた……かと思えばそれまでの沈んだ表情が嘘のように顔を輝かせて、マルベリーの方を振り向いた。
「凄いんだよ!あのラティアスとラティオス、テレパシーで会話ができるんだ!」
「そうなんですか。……って、えぇ!?あれ、喋ってたんですか!?」
「故郷のこととか、カリノ君と出会った時、一緒にいた時のこととか、色々話してくれたんだ。この前うちに来たトルネロスのダズ君は普通に人間の言葉を喋っていたけれど、こういう形の意思疎通もまた趣があるとは思わないかい?」
やはり博士は変わらない、そんなことを思いながら再び空に目を向けたマルベリーの視界に、小さな二つの影がひらりひらりと舞い降りてくる様が映った。太陽の光を反射して七色に輝くそれは、マルベリーが差し出した手の平にゆっくりと着地した。
赤い羽根と青い羽根。見る角度によって色を変えるそれは――
「ラティアスとラティオスの羽根じゃないか!」
 博士がこの日一番の歓声を上げた。



 こういう時は、やはり子供のような人だとマルベリーは思った。

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