以前投稿した短編、「奇術師の弟子」の続編です。
暗がりの中、フード付きの真っ黒な服に身を包んだムメイは手探りで持ち物を確認した。ズボンのポケットには鍵を解くための針金が左右に一本ずつと、解放の依頼があったポケモンのリスト。腰のベルトには、左に棒状のスタンガン、右には小型の工具箱。背負い鞄の中には、会話用のノートと懐中電灯、それに縮小したボールが六つ。全身の至る所に仕込んだ、様々な種類のナイフ。忘れ物はない。手の痺れもない。準備は万端だ。
ムメイがカオルのログハウスに居候を始めてから一月ほど経った日の夜に、カデンツァ他攫われたポケモンの救出作戦は決行されることになった。今宵はちょうどその夜である。
カオルによれば、ポケモン攫いの商人達は今宵、カオルのログハウスから数キロほど離れた場所にある洞窟に、攫ったポケモンを大型トラックに乗せて運び込むようだ。
「商人は頭が一人とボディーガードが二人、それにトラックの運転手が一人。手持ちのポケモンはボディーガードの一人がカイリキー、もう一人がローブシン……おそらく運搬要因でしょうね。頭はマニューラを連れています。運転手はポケモンを所持していません。邪魔者は私が請け負いますので、ムメイさんは運転手が後ろの扉を開けたら、運転手を縛り上げた上でポケモンの救出をお願いします」
涼しい顔でさらりと言ってのけるカオルに、ムメイは【大丈夫なんですか?】と書いて見せる。
カオルの手持ちのポケモンは、ゾロアークのファントムにメタモンのフォーゼ、それに、普段は人間の姿をしているラティアスのロンドの三匹である。ファントムとフォーゼは格闘タイプのカイリキーとローブシンには相性が悪い。ロンドはカイリキーとローブシンに対しては有利に戦えるであろうが、マニューラに対しては分が悪い。タイプの相性だけで勝敗が決まるものではないが、カオルのポケモンが、ましてやロンドが戦ったところを見たことのないムメイは不安を拭い去ることができない。
「勝つ必要はありません。ポケモンを出される前に制圧すればいいんですよ。それなら、タイプの相性はあまり関係ありません。それに」
一呼吸置いて、
「たとえ向こうがこちらに有利なポケモンを出してきたとしても、私や貴方を信じて戦うポケモンたちを信用しない理由はありますか?」
答えはすぐには出なかった。だが、落ち着いてよく考えてみれば、カオルの言う通りだ。トレーナーの迷いや疑いは、そのままポケモンの迷いに繋がる。そんな状態で戦ったら、相性が良かろうが悪かろうが良くない結果に終わることはなんとなく想像ができた。
それがトレーナーではなく自分の立場だったら。心配や迷いは、手元を狂わせ鍵を解除する時間を遅らせる。それがどういうことを意味しているのか、そしてどういう結果に繋がるのか、言われずとも分かっていた。浮かび上がるのは“失敗”の二文字である。
【ないですね】
ムメイの返答に、カオルは柔らかく笑った。まるでその答えが返ってくることを知っていたかのようだった。
「よろしい。では、任せましたよ」
【分かりました。背中は預けます】
カオルは少し意外そうな顔をした。今度は予想外の答えだったのだろうか。それからすぐに笑顔に戻って、
「任されました」
と言った。
別行動に移る前、ムメイはカオルに小さな丸い石を一つ手渡された。中に何かが入っているような、ガラス玉のような石だった。
【これはなんですか?】
「御守りです。今日の作戦がうまくいくように、持っておいてください」
訳も分からないまま、手渡された石を服の胸ポケットに入れる。何かあった時に心臓を守ってくれるのではないか、くらいにしか思えなかった。
そんなこんなで今に至る。今は洞窟の前に広がる森の茂みの中から、洞窟の入り口を覗いている形である。トラックはまだ来ていない。トラックが来て、別行動中のカオルの指示が聞こえたら、トラックの荷台に積まれた檻を開けていく手筈になっている。
隠す様子のない足音が聞こえたかと思うと、洞窟の中から恰幅のいい男と、その後ろからサングラスをかけたがっしりした体型の黒服が出てきた。おそらく、カオルの言っていた商人とボディーガードたちだ。
「今回も随分と儲けが出そうですねぇ。捕らえたポケモンの数はいつもより少ないですが、何と言っても、滅多に人前に姿を現さないという伝説のポケモン、ラティオスが私の手の内にある」
商人はいやらしい声でクククと笑う。今からでも飛び出して殴り飛ばしてやりたい衝動をぐっとこらえ、ムメイは気配を風に溶かす。今気付かれては、作戦は台無しである。
「貴方達、しっかり頼みますよ。今日の商品は上玉ですからね」
ボディーガードらしき二人に話す商人の顔には、本来心の底にあるはずの私利私欲の塊が滲み出ているかのようだった。艶があるというよりは脂ぎった顔。今はそこに、どす黒い笑みが張り付いている。
草木を掻き分け、排気音が近づいてくる。洞窟の手前に姿を現したそれは、サーカス団でも来たのかと思える大きさのトラックだった。
『運転手が荷台の扉を開けたら、スタンガンで気絶させて縛り上げてください。私たちも動きます』
落ち着いたカオルの声が頭の中で聞こえた。ロンドがテレパシーを送ってくれたのだ。
洞窟に背を向けて停車したトラックから、運転手が降りてくる。荷台の方に向かって歩き出したところで、ムメイは音もなく運転手のあとをつける。ガチャガチャと鍵を開ける音がして、トラックの横からでも分かるように後ろの扉が開け放たれた。その向こうから顔を出した運転手の首筋に、スタンガンを叩きつける。「ギャッ」と声を立てて倒れる運転手に、心の中では
(ごめんなさい)
と言いながら、ベルトに括っておいたロープで手足を縛っていく。
ムメイのいる位置から見えるはずの商人とボディーガード、そしてカオルの姿は見えない。声や音すら聞こえない。だが、ムメイは見えない壁の向こうの緊迫感を感じ取っていた。おそらく、ファントムが創り出した幻影の壁がそこにはあるのだろう。荷台を開けたことを気付かれないようにというカオルの配慮に感謝しながら、ムメイは荷台へと飛び乗った。
荷台の中には頑丈そうな金属の檻が並べられていた。ムメイはポケモンのリストを取り出し、中にいるポケモンと見比べた。
(ミミロップ、タブンネ、ハッサム、ガルーラ、リザードン……)
リストにあるのはこの五匹。確かにそこにいる。そして、ラティオスのカデンツァ。彼も、前にロンドの夢うつしで見た通り一番奥の檻に閉じ込められている。だが、檻に入っているポケモンの数が、リストに書かれているのと比べて一匹多かった。
カデンツァの檻のすぐ隣、リストにも載っておらず、夢うつしで見たときにも確認できなかったポケモン、サーナイトがそこにいた。依頼の後にでも捕まったのだろうか。
ムメイは真っ先にカデンツァのところへ行った。懐中電灯とあらかじめ書いておいたノートを取り出し、ノートを照らして見せる。
【君がカデンツァ?】
ラティオスはこくりと頷いた。ムメイはノートのページをめくる。
【僕はムメイ。カオルさんの弟子です】
五秒ほど待って、次をめくる。
【ここにいるみんなを助けに来ました。順番に鍵を解いていくので、僕の持ってきたボールに入ってもらえるように説得をお願いします】
『頼む』
今度は頭の中に答えが返ってきた。カデンツァの赤い目がまっすぐにムメイの細い目を見つめる。それに応えるように、ムメイはポケットから取り出した針金を使ってカデンツァの檻の鍵を解き始めた。
「何ですか貴方は?」
商人は暗がりの中から現れた人間に尋ねた。商人とカオルの間に立ち塞がるように、二人の黒服が進み出る。
「貴方様の悪行の数々に対し、罰を下しに来た執行人、とでも言いましょうか」
真っ黒なマントに身を包み、フードで顔を隠したその人間––––カオルは、底冷えするほど低く思い声で言った。商人の男が少したじろいだ。
「悪行だと?フン、馬鹿げたことを。何を証拠にそんなことを……」
「ここに、ビデオテープがあります」
カオルがマントの下から一本の小さなカセットテープを取り出す。それを見た商人の顔色が、さっと青ざめた。体力を失ってダルマモードに変形したヒヒダルマのようだ。対照的に、カオルはフードの下で唇を歪めた。こんな簡単なブラフに引っ掛かってくれるとは、と。テープはまだ録画も何もしていないものなのだが、商人がそのことを知る由もない。
「後ろ暗いことがないと、そんな反応はしませんよね」
「貴様っ……!」
青くなった男の顔が、今度は次第に紅潮していく。怒りに震えながら、商人は数歩後ろに下がる。自分は手を汚す気がないという意思表示。
「ここで邪魔をされるわけにはいきません。貴方たち、やってしまいなさい!」
商人の声に黒服二人が腰のボールに手をかけようとして、固まった。
「な、何をやっている!?早く、ポケモンを出してあいつらを蹴散らしなさい!」
「それが、ないんですよ、ボールが」
黒服達が訳のわからないことを喚く。
「ボール?ボールなら貴方たちのベルトに……」
言いかけて、商人達は亜然とした。黒服が腰に付けていたはずのボールがない。それだけではない。商人のボールすらも見当たらない。
「探し物はこれですか?」
カオルが掲げた右手の指の間に、縮小されたモンスターボールが三つ挟まれている。商人と黒服の動揺が、更に激しくなる。
「いつの間に!?」
「ほら、投げますよ」
カオルが右手を振るう。モンスターボールが、弾丸のように三人の男の手元に収まる。商人も黒服も、中身を確認しようともせずに開閉ボタンを押した。が、何も起こらない。当然だ。カオルが投げたのは、空のボールなのだから。
「私たちのボールを、どこへやった!?」
やっとボールが空であることに気付いた商人が、ボールを投げ捨てて怒鳴る。が、カオルが現れてからの不可思議な現象に萎縮したのか、それほど迫力はなかった。
「貴方たちがずっと持っているではありませんか。もう関係のないことですが。フォーゼ!」
カオルの鋭い声に反応して、商人の足元で何かが蠢いた。と思えば、次の瞬間には目に見えない何かが一瞬で、動けない男達を一網打尽にしていた。
種明かしはこうだ。カオルが商人たちを挑発している間にファントムがボールだけを見えなくする。その隙に、地面に擬態したフォーゼが、三人の男を縛り上げたのだ。
「くっ……トラックはまだ来ないのか……」
「トラックなら来ませんよ」
悔しそうに零す商人に、カオルはあくまで冷徹に告げる。実際はファントムの幻影で側にいるトラックを見えなくしているだけなので、これもブラフである。
「トラックさえ来れば……お前など……」
フォーゼにギリギリと締め付けられつつも、商人はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ始めた。チョロネコに追い詰められたデデンネが、反逆の一撃を叩き込む前のようだった。
「いいでしょう。運転手などいくらでも代わりがいる」
商人の背中で、カチリと音がした。何かのスイッチが押されたような、小気味のいい音だった。
「何をしたのですか?」
あくまで平静を装って尋ねるカオルに、商人は悪あがきでもするように答える。
「フフフ。実は、捕らえたポケモンにはメガストーンを特殊なリングに嵌めて持たせてあるんですよ。時間差はありますが、スイッチ一つでポケモンを強制的にメガシンカさせる装置でしてね」
商人の言葉を聞いて、カオルの背中を悪寒が駆け上がった。顔はポーカーフェイスを保っているが、商人の顔からして嫌な予感しかしなかった。
「ポケモンがメガシンカをする時、周りにはとてつもないエネルギー波が放出されます。強制的に行う分、エネルギーの放出量も通常よりも遥かに大きい。つまり、周りにあるものを巻き込んで大爆発を起こすというわけです。ポケモン自身も軽い暴走状態に入るので、どちらにせよ側にいるのは危険ですね。場所をバラすようなものですが、商品をタダで持っていかれるよりはマシでしょう」
トラックの方を振り返りながら、こんなこともあろうかと、ムメイに電波遮断機能付きのモンスターボールを渡しておいてよかったとカオルは思った。問題は、ムメイが全てのポケモンをボールに収めているかどうかである。
心の中でロンドに、トラックの周りに光の壁を張るように指示しておいた。これで仮に爆発しても、衝撃のほとんどは上へ逃げる。ムメイはカデンツァが助け出す。そう信じて、カオルは見えないトラックに背を向けた。
ムメイは随分と手間取っていた。檻や鎖の錠自体は難なく外せる。だが、囚われていたポケモンたちの首には、何かよくわからない丸い石のついた首輪が取り付けられていたのだ。
【この首輪は何?】
カデンツァに尋ねてみても、よくわからないといったように首を捻る。取り敢えずカデンツァに付けられたものを外そうとするのだが、特殊なロックが掛かっていてなかなか外れない。仕方なく、他のポケモンの檻と錠を先に解除し始める。リストに載っていたポケモンの檻と鎖の鍵を解除し終え、背負い鞄の中のボールに収めていく。残るはリストに載っていなかったサーナイトだけとなった。檻と足枷の鍵を解き、後は手錠を解けば終わりという時だった。
突如、 サーナイトの首に取り付けられた首輪の石が、虹色の光を放ち始めた。膨大なエネルギーがサーナイトの周りに集まるのが、人間のムメイにも分かった。だが、それだけでムメイが鍵を解く手を止める理由にはならなかった。
『そいつから離れろ!』
鋭い声がムメイの頭の中で響いた。一足先にトラックの外に出たカデンツァの声だ。それでも、ムメイは鍵を解く手を止めない。
ムメイの手元で、サーナイトにかけられた手錠がガチャリと音を立てて外れ、目の前に透明な壁のようなものが現れたのと、サーナイトから放出されるメガシンカのエネルギーが爆発を起こすのが、ほとんど同時だった。
薄暗い荷台の中で、ムメイの目の前が文字通り真っ暗になった。
カデンツァは自らの体に起こり始めた異変に、いち早く気付いた。本来、対となる石を持った人間との絆の下に成り立つはずのメガシンカ。その力を、今は強制的に引き出されている。石と絆の力と均衡を保って存在すべき力が、その支えなしに解放されればどうなるか。たどり着くのは即ち、力の暴走。だからこそ、自らの力が解放される前に荷台から飛び出して、カデンツァは中に残った少年にテレパシーで叫んだ。
『そいつから離れろ!』
カデンツァの首輪が輝き始めても、少年は出てこなかった。カデンツァは心の中で念じて、少年の目の前に“ひかりのかべ”を張る。そうすることくらいしかできないほど、カデンツァ自身も余裕がなかった。自らの力が暴走する前に、止めなければならない。
自らの姿が変わっていくのを感じながらも、カデンツァは溢れ出る力を無理やり抑え込んだ。力が首輪に逆流して首輪が乾いた音を立てて割れ、はめ込まれていた石がこぼれ落ちた。同時に、変わりかけていた姿が元に戻っていく。
石を拾いに行こうとは思わなかった。現に、逆流した力に耐えきれなかった紛い物の石は、音もなく塵になって風に攫われていった。
数秒の後、荷台の中から爆発音とともに暴風が噴き出した。いくら“ひかりのかべ”で軽減されたものとはいえ、中にいる少年は……
恐る恐る荷台に近づき、開かれた扉の向こうを覗き込んだカデンツァは、思わず息を呑んだ。
眩んだはずの意識の中で、ムメイは忘れ去ったはずの小さい頃の記憶を見ていた。
五年前に引き払った孤児院で、幼いムメイは他の子供たちと遊んでいた。同じ歳の子も、年上の子も年下の子も一緒に、走り回ったり歌ったり踊ったり、とても楽しかった。みんな顔だけぼやけてのっぺらぼうみたいだったけれど、それは記憶が曖昧なせいなのだろう。
思えば、ムメイの普段の記憶に楽しい思い出はほとんど残されていなかった。代わりに、思い出したくもないような辛い思い出ばかりが心を占めていた。今見ている記憶も美しい夢のように過ぎ去って、何も残らないのだろう。そう思うと、何だか寂しく思えてきた。
場面が変わった。孤児院の誰かが、親戚に引き取られていく場面だった。家族というものを知らないムメイにとっては、血は繋がっていなくとも同じ場所で長い時を過ごした者はみんな家族同然だった。別れるのが嫌で、孤児院の院長らしき人物に散々喚き散らすムメイがそこにはいた。大人の事情を理解するに至っていない幼さが微笑ましくもあり、同時に悲しくもあった。
同じような光景が、次々と浮かんでは消えた。段々人数が減っていき、最後はムメイと孤児院の大人たちだけになった。ちょうど、ムメイが小学校に入学して三年が経った頃だった。ムメイはその孤児院に取り残された最後の子どもだったのだ。もっともその頃には、別れは仕方のないことだと割り切ってしまい、はじめのように誰かに当たり散らすようなことはなかったが。
「ショウタは寂しくない?」
大人の誰かが、ムメイに尋ねた。ムメイは自由帳を開いて何かを書き、その誰かに見せた。
【寂しくない。あと、僕はショウタじゃない】
その誰かが苦笑するのを見て、小さいムメイはそっぽを向いた。小学三年生には似合わない、むすっとした顔だった。
また場面が変わった。中学に入学する前に、学校から来た先生に特別支援学級に入るよう言われたのを、ムメイは強情に断っていた。その年に特別支援学級へ入るのは、ムメイだけだと言うのだ。意思疎通が声でできないだけで隔離されるのはまっぴらごめんだった。
初めはなかなか馴染めなかった。普通の人から見れば、ノートで会話をする僕は奇異の存在だったからだろう。馴染んでからもいざこざは少なからずあった。思ったことを口に出さずにノートに書き込んでいくので返答までのタイムラグが生じ、答えようとした時には話が先に進んでいることもあった。それでも、一人だけ別の場所で授業を聞くよりは遥かに良かった。
そこから急に、場面が移り変わるスピードが速くなった。掛け声の出せない体育祭、文化祭の合唱コンクール、そして、人間の姿をした、ロンドとの出会い。
早送りのボタンを押したように流れていく記憶を眺めながらふと、これが走馬灯というものなのかとムメイは思った。ちゃんとカデンツァの警告を聞いていれば、こんなことにはならなかったのだろう。あれだけの爆風が生まれるのなら、手錠すらも吹き飛ばしてしまえたかもしれない。それなら、自分も、鞄の中のポケモンも、誰も傷つかずに済んだのかもしれない。
後悔してももう遅かった。心なしか、暖かい光に包まれて、体が軽くなって宙に浮き始めた気がする。これで、自分は終わりなのだ。そう思って、そっと目を閉じる。
ところが、その暖かい感覚はいつまでもなくならなかった。それどころか、今度は体のいたるところが酷く痛み始めた。
生きている。そのことに気付くのに、随分と時間が掛かった。
痛みが徐々に消えていく。薄目を開けた先に、爆発の中心にいたはずのサーナイトがいた。しかも、先ほどまでとは姿が大きく異なる。
メガシンカ。その言葉はムメイも聞いたことがあった。どういう原理で起こることなのかも、耳にしたことがあった。
何故、出会ったばかりのポケモンと繋がることができたのか、ムメイには分からない。
だが、カオルが何故、御守りとして石をムメイに渡したのか。それだけは、今になってようやく分かった。
石を入れた胸ポケットが、淡い光を発しながら熱を帯びている。その光に呼応するように、サーナイトの首輪に付いている石が輝いていた。
カオルは今回の作戦の成り行きを、一体どこまで読んでいたのかを計り知ることは、今のムメイには到底できそうもなかった。
カデンツァの目に飛び込んできたのは、柔らかな光に包まれて宙に浮かぶムメイと、メガシンカした姿のサーナイトだった。サーナイトが、目を閉じてぐったりとした様子のムメイを超能力で浮かべつつ、ムメイの全身に必死で“いやしのはどう”を送っているのだ。
(解放された余分な力を、回復に回したのか……)
咄嗟の行動に感心していると、ずっとムメイを見つめていたサーナイトがふと顔を上げた時に、カデンツァと目が合った。何かを訴えるような瞳。本来ならテレパシーで何か伝えてくるところなのであろうが、そんな余裕もなさそうに見える。カデンツァは静かに一人と一匹に近付き、サーナイトと同じようにムメイに“いやしのはどう”をかけていった。
ムメイの帰り道は空の上だった。“いやしのはどう”は自己治癒能力を高めて自らの治癒力での回復を促す技であるため、多少の傷は回復するものの、失った体力までは回復しない。身体中の痛みは引いたがぐったりとして動けないムメイを、カデンツァが背負って帰ることになった。サーナイトは、元々カデンツァが入る用に持ってきた六つ目のボールに入ってもらった。
【全く……何故あの時離れなかったんだ】
(一人だけ置いていくなんてできないよ)
呆れ声のテレパシーに、ムメイは心の中で答えた。あの場面で手錠を解くことをやめていたら、サーナイトと繋がることができなかっただろうとムメイは思う。正直なところ、死ぬつもりはなかったにせよここまで危険な賭けになるとは想像もしていなかった。ただ、意識を取り戻す直前に心に抱いた後悔は、もうどこかに消え去っていた。
夜が明けて、カオルが警察に通報したことで、ポケモン攫いの商人一行はジュンサーたちに連行されていった。保護したポケモンはムメイが首輪を外して、カオルの手によってそれぞれの依頼主に返された。二匹を除いて。
元々カオルと一緒にいたカデンツァはもちろん残ったのだが、もう一匹––––サーナイトは元々野生だったところを無理やり連れて行かれたのだと、カデンツァが教えてくれた。ムメイはポケモンを連れていなかったため、カデンツァとサーナイトが彼の手持ちになることが、ムメイの作業中にカオルとの話し合いで決まったのだ。
その後、ムメイは一日中ベッドに寝込んでいた。急激な治癒能力の活性化による副作用で、全身が鉛のように重たかったのだ。重い体に鞭打って首輪の解除作業をしたこともあって、その後すぐに布団に倒れこんだかと思うと、すやすやと寝息を立てて眠ってしまった。カオルはロンド、ファントム、フォーゼを連れて、依頼主を訪ねていた。
ムメイが目を覚ましたのは夕方だった。重りが少しだけ取れた体を起こすと、部屋にはカデンツァとサーナイトがいた。枕元に置いてあったノートとペンを手に取り、ムメイは自己紹介のページを開いた。
【僕はムメイ。よろしく】
それからペンを数回ノックして、
【カデンツァはそのままでいいとして、サーナイトにも名前をつけないとね】
と書いて見せた。ムメイの書いた字を見て、カデンツァは何も言わずに頷いたが、サーナイトは首を傾げる。
実はこのサーナイト、テレパシーが使えないようだった。そのため、ポケモン同士の会話は鳴き声でどうにかなるが、カオルやムメイとの意思疎通はロンドやカデンツァを介して行っている。話せないためにノートや手話で会話をしていたムメイは、よく似た境遇のサーナイトに親近感を覚えていた。
【テレパシーが使えなくても心で繋がり合えるから、“ココロ”。今日から君は“ココロ”だよ】
ムメイが微笑むと、サーナイトの胸元の赤い部分が柔らかな光を帯び始めた。周りにいる人の気持ちをキャッチする器官は、正常に働いているようだ。何も言わなくても、気持ちが分かってもらえる。少し怖い気もしたが、それまでなかなか思いを伝えられなかったムメイにとっては嬉しいことだった。
【よろしく、ココロ】
ムメイは頭一つ高いサーナイトの顔を見上げながら、手を差し伸べた。サーナイトが差し出した手を、優しく握る。友情の握手。
【改めてよろしく、カデンツァ】
『こちらこそ』
そばに寄り添ってきたカデンツァとも、しっかりと握手を交わした。
「仲がいいのはいいことですね」
部屋の外から聞こえた声に、ムメイはどきりとした。振り返ると、ニコニコ顔の仮面を被ったカオルと、人間に変身したロンドが部屋の入り口から顔を覗かせていた。
【おかえりなさい。いつ帰ったのですか?】
「つい先ほどですよ」
【いつから見ていたんですか?】
「ココロさんと手を握り合っていたあたりからです」
カオルが答えた途端に、ムメイの顔が真っ赤に染まる。扉を開けていたとはいえ、まさか見られていたとは思わなかったのだ。
「今から夕食の支度をしますが、動けますか?」
沸騰した頭で、なんとか言葉を紡いでノートに書く。
【ええ。だいぶ楽になりました】
「では、手伝ってください。その代わり、無理をしてはいけませんよ」
【はい】
カオルが部屋から出て行ったところで、ムメイはベッドからゆっくりと立ち上がった。頭の血がすーっと引いて目の前が真っ白になる感覚を、一度ベッドに座ってやり過ごす。そのまま階段のところまで歩いて行って、下の階へ降りようとした時。薄い寝間着を着ているだけの背中を、何かが駆け上がった。体が強張って、段を踏み外してしまう。
浮遊感を感じたのは、一瞬だった。背中からがっしりと抱えられ、足は宙に浮いている。顔だけを後ろに向けてみれば、変身を解いたロンドがにっこり笑っていた。
慌てて追いかけてきたカデンツァとココロが降りてきた時には、ロンドはムメイを床に下ろしてそのままの姿でカオルのところまで飛んで行った。何を言っているのか、カオルは何度か頷くと、
「まだ無理そうですね。ムメイさんは椅子にでも座って休んでいてください」
とムメイに告げた。言い返そうにも、言いたいことをノートに書いている間に、カオルはキッチンに消えてしまった。
『昨日は無茶したんだから、今日はゆっくり休んで。明日からまた頑張ろうよ』
いつの間に背後に戻ってきたのか、ロンドが耳元で囁いた。無論テレパシーである。
【さっきのは、ロンドがやったの?】
『さあ、何のこと?』
質問をはぐらかすロンドの笑顔に、まだ疲れているのだろうかなどと考えながら、ムメイはリビングのテーブルにつく。カオルを追ってキッチンに向かうロンドが、悪戯が成功した時の子供のような笑顔を浮かべていたことに、ムメイは気付かなかった。