あの日からどれほど経ったのだろう。
みみは気まずそうな顔で自分のトレーナーの方を見つめていた。
視線の先のちえみはタマゴを抱えてベッドの端に腰掛け、その表面を掌でなぞっている。
『ちょっといい。』
みみはちえみの脳に直接問いかけた。
『タマゴは沢山歩くと孵るって話、まだしてなかったかしらね。』
「へえ…!」
それを聞いたちえみはそう感嘆の声を出して、晴天の霹靂のような顔をしていた。
二人は気を取り直してまた歩を進めることにした。
ここは預かり屋とはまた違う方向に行く道。
あまり丁寧な舗装ではないため、時折、足元をぐらつかせて歩く老人ともすれ違う。
そこにかかる一声。
「お前今、目合っただろう。」
二人が進もうと思った先の、向かって右端。
話しかけることで顔を見てしまう人間の癖を熟知しているそのトレーナーは、その悪知恵に反するせっかち具合で、今すぐにでも勝負をしたくて仕方がなかったようだ。
「うん、いいよ。」
そんな策略もつゆ知らずのちえみは、モンスターボールを投げた。
「バニラ!出番だよ!」
「ブー!」
ボールから放出されたルチャブルのバニラは意気揚々と飛び出した。
相手のポケモンはナゾノクサだ。
互いが互いに対して俺の相手じゃないねと言いたげな顔である。
「プッチー、どくどく!」
「バニラ、どくどくをみきりでかわして!」
ポケモン勝負は攻撃さえすれば必ず勝利を得るというものではない。
まずは一歩引いて相手の動きを見定めることも戦術である。
(どくどくで相手を消耗させ、自分はねをはるでやり過ごすつもりね…。)
みみは隅で腕を組んで手の甲を顎にあて観察していた。圧倒的なレベルの差があるみみは、今回はあえて不参戦である。
もちろん口を挟むようなこともしない。みみはトレーナーとしてもちえみのことを信用しているからだ。
「バニラ!つめとぎ!」
「プッチー!ねをはる!」
ナゾノクサの身体は地面と一体になった。
「ブブッ…」
『気味が悪いぜ…。』
バニラは思わずそう口走った。
「ナッゾー!ナゾナ!」
『これで君の一撃ぐらい耐えてみせるのさ!』
ナゾノクサのプッチーとやらも中々やり手のようである。
しかしバニラのはちえみと目を合わせ猛襲の合図をした。
「うん、私もそれがいいと思う。」
「バニラ、つばさでうつ!」
「プッチー!すいとる!」
「ブオーッ!」
「ナ、ゾゾゾ…!」
バニラの素早さと攻撃力は圧倒的であった。
効果は抜群だ!
そして…
急所に当たった!
バニラはナゾノクサのすいとるを受け付ける前に決着をつけた。
「お前のそのポケモン、強いな…。はあ、はあ…。」
「私はあなたのナゾノクサも良かったと思うよ!ふう…。」
この戦いで熱くなったのはポケモンだけではないようだ。
「バニラってすごいね!うん、タマゴちゃんのこと守ってたんだもんね!」
ちえみは思わず撫でようと手が出そうになったが、預かり屋の言葉を思い出して手を引いた。
バニラはなんだか照れくさそうに後頭部を掻きむしっていた。
ここによく落ちている木の実を拾ったりと色々していたら、辺りはすっかり赤く染っていた。
「もうこんな時間なんだ。タマゴちゃんも楽しかったかな。帰ろう、みんな。」
バニラは黙って頷くとボールの中に入り、みみは浮遊したままちえみの後を追って、無事家路に着いた。
「今日も楽しかったね。」
ちえみがそう言って椅子から腰を上げたその時であった。
パリ、パリパリパリ。
生まれる。
部屋にいたちえみ、みみ、バニラ、全員がそう察知した。
「どうしようっ!タオル!誰かタオル持ってきてっ!」
その声と同時にバスタオルがタマゴのすぐそばに置かれた。
みみがいつものように念力で持ってきてくれたのだ。
『うん、私達はこういう時は見ていることしか出来ないの。』
『…俺もそう思いまーす。』
そして、ブリーダーから育ったみみと預かり屋で手伝いをしていたバニラは案外落ち着き払った態度だ。
「ポ、ポ…?」
何だこの四足のポケモンは…。またもや全員がそう思った。
白い体にオレンジと黄色の炎を纏い、脚を折り曲げて座ったままちえみのことをじっと見つめている。
そして、何かに気づいたかのような顔で立ち上がり、ちえみの元に向かおうとぎこちない脚で必死で歩みをはじめた。
――その時、ちえみの脳の奥底にあったなにかが記憶として蘇った。
それはまだちえみが赤子だった頃。
両親はちえみにポケモンで彩られた『メリー』をベビーベッドに取り付けた。
そのメリーは今は家のどこかで眠ってしまったが、五歳の頃のちえみの部屋には確かに残っていたし、今のちえみの中にもある。
「ママ、あれはなんていうポケモンなの。」
「うん、ちえみ、これはポニータといってね、隣のお母さんのギャロップに歩き方を教えてもらっているのよ。」
「そっか。ポケモンもはじめからなんでもできるわけじゃないんだね。」
そして今正に目の前にいるポケモンが、あの時の形をしている…。
「メリー。」
「ポ…。」
そのポニータはよろよろとちえみの元に歩み寄り、ちえみの体に顔を擦り付けて甘え始めた。
気がつけば口から発せられた言葉、メリー。それがこのポニータの名前となった。
その時、メリーはちえみ寄りかかりそのまま床にへたり込んでしまった。
「えっ!元気がないの?大丈夫?」
そう言って寄り添うちえみを見てバニラはメリーのそばに駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「ブ、ブブ、ブチャッ。」
『おい、おまえ、俺だよ俺。覚えてるだろう。お前こんな姿だったんだな。』
「ポ…。」
『ああ、あなたがおにいさんなのですね。そしてあのひとがおかあさん。』
メリーは顔をまたちえみの方に向けた。
そして視線を感じて後ろを向いた。
「…。」
『精々他のポケモンの足を引っ張らないようにね。』
そのポケモンから発せられた祝福の言葉は、あまりにも辛辣であった。
「ブーッ!」
『みみさん、それ言い過ぎだって!生まれたばっかだぜ!そりゃないぜ!』
バニラのその言葉を聞いてみみはにこりとした。
その顔を見たバニラは一歩引くことしか出来なかった。
ちえみは何が起こっているのかよく分からないので、きょとん顔であった。
「こ、こうして歩くんだよ、メリーよく見て!」
ちえみは夜遅くにも関わらずメリーに自身の四足歩行を見せている。
「ポ…ポヒ…。」
トッ、トッ。
「そうそう!」
震えるメリーの歩みは足がもつれそうになりながらも少しずつ進んでいる。
トットットッ。
メリーは歩行の喜びに浸り、駆け出した。
しかし。
グキッ。
バランスを崩した前足は全く制御出来なかった。
「危ないっ!」
ちえみが叫ぶように言ったその時。
「ポッ…?」
『なんだろう…これ…。』
メリーは不思議な感覚に包まれていた。
無重力。柔らかい空気感。
みみは無表情の中で全てが分かっていたかのような雰囲気を見せ、先程ちえみが座っていた椅子に座り、片手をメリーの方に向けて読書に耽っている。
そして安全に着地したメリーはみみの元に向かった。
「ポ、ポヒ、ヒー。」
『あの、あの、ぼくなんかのために、どうもありがとうございます…。』
メリーは堪らない気持ちになり、感謝の心を込めてみみの体に顔を擦り付けた。
「チーッ!」
そこにいた全員が驚いた。
「みみ、大丈夫?」
ちえみも数年ぶりに聞いたみみのポケモンとしての声。
「ヒッ、ヒェ…。」
(えっ、これ、嬉しかったのかな。)
「ブー…。」
(みみってこんな声出せるんだ…。)
――みみは少し取り乱したが、その後は顔をくしゃくしゃにしながらなんとかメリーの善意に何分か耐え抜いた。
そして…。
「…。」
『そろそろいい。触られるの嫌いなの、私。』
「ポピーッ!」
『あああ、ごめんなさいっ!す、すいませんでしたっ!』
新しい仲間がまた増えた。しかしみみはいろんな意味で一等賞なのであった。