3 どっちが本物?

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 当然、あまり眠ることができなかった。
 起きて一階へ降りると、恵太がポケモンたちに朝ごはんをあげているところだった。ポワルン、ドリュウズ、ドレディア、ゴチルゼル、ジバコイル。彼の最初のポケモンであるはずのピカチュウがいない。
 結愛と恵太の朝ごはんは、できたてほかほか、甘くてとろけるフレンチトースト。ポケモンたちの朝ごはんは、ポケモンフードとオボンが数個。おそらく毎日変わり映えしないのだろうメニューを見ていると、どうしても昨晩の話が思い出される――恵太はぼくらにお金をくれない。せいぜいごはんくらいのもの。でもぼくらは森の中で、自前でごはんを調達することもできるんだ。
「……ピカはごはんは食べないの?」
「ああ、ピカだけはいつも森で寝起きしてるし、飯も向こうで食べるんだ。森にはピカチュウの群れがいるって話しただろ。ピカはあの森で生まれたから、きっと親や兄弟もいるんだろうね」
 なるほどね。そして、彼を『ぴかちゅあぴいぴかちゃあちゅうぴ・ぴかかぴいぴい・ちゅうちゅうちゃっぴー』と名付けた長老もいるんだろうな。
 そう考えると何とも言えず、愛想笑いしか返せない。
 ピカの話をする恵太の顔は心から楽しそうだった。それがあのニヒルな笑みと重なると、どうしようもなく可哀想に思えて、昨晩のことを話せなかった。


 その日、目に映っているすべてのものが、胡散臭くてならなかった。
 事務所の一室で天気予報士がわりをしているポワルンは、ひどく退屈そうに空を見ている。草原を耕しているドリュウズはいかにものろのろしているし、伸びすぎた枝を剪定しているドレディアも、よく見ると仕事が大雑把だ。オボンを満載したトロッコを上へ下へと動かしているジバコイルも、飽き飽きとした目をしている。漢字練習帳に延々と同じ文字を書かされているときに、自分もこんな目をしているだろうな、という感じに。
 でも、どれもこれも、実は、昨日とよく似た光景で、昨日とよく似た表情なのである。
 みんな昨日は生き生きと仕事をしていたのに、いや、そういう風に見えていたのに。もしかしたらそうかもしれない、という色眼鏡をかけるだけで、こんなに違って見えるものだろうか? ポケモンの表情って人間相手より分かりづらい。ジバコイルの目の感じの違いなんて、どっちを見ているか以外に得られる情報はほとんどなくて、昨日今日出会ったばかりの結愛に本当のところは分かりっこないのだ。では、昨日抱いた印象と、今日抱いた印象と、どっちが本物なのだろう。
 昨日と違って見えるといえば、恵太自身もそうだった。
「やられた。リングマだ」
 農場の森際の端のほうに、太い枝をぼっきり折られたオボンの木が二本あって、恵太はかなり落ち込んでいた。恵太にとってみれば、オボンの木は大事に大事に育ててきた自分の子どもみたいなものだ。それを折られてしまったら、もちろんショックを受けるだろう。昨日までの結愛なら、恵太にまるきり同情して、一緒に落ち込んでいたはずだ。
 にもかかわらず、これ以上被害が出る前に対策しなくちゃいけないなという彼の言葉が、結愛は妙に引っかかった。
「……ピカチュウはよくて、リングマはだめなの?」
 幹を撫でる恵太の背に、気付けば結愛はそんなことを聞いていた。
「え?」
「だって……森に住んでいる野生のピカチュウも、農場のオボンを食べるでしょ? どうしてピカチュウのことは許すのに、リングマのことは許せないの? それはえこひいきじゃない?」
 どうしてこんなことを聞きたくなるんだろう。学校や家でだって、結愛は先生や両親に盾突くような子どもじゃない。いやらしい顔で笑うチャッピーが、結愛に乗り移っているんじゃないか。
 恵太はしばらくきょとんとして結愛を見ていた。
「えこひいきかあ……。やっぱり結愛ちゃんは賢いな」
 納得したように頷いている。変なことを言って怒られるかもしれないと身構えたが、恵太の声は優しかった。
「ピカチュウの群れは確かにオボンを食べるけど、この森にいるのは小さな群れで、個体数も少ない。あと体が小さいから、リングマと違ってきのみを食べる量も少ないよね。リングマは枝を折っちゃうけど、ピカチュウは折らないから、またオボンが実る」
「被害が少ないからいいってこと?」
「それと、ピカチュウに助けられているところが大きいからかな。ピカチュウの群れがいる森には、雷がよく落ちる。だからこのあたりには、電気が嫌いな鳥ポケモンが少ないんだ。いっせいに飛んできてきのみを突きまわす鳥ポケモンってきのみ農家にとっては敵なんだけれど、ピカチュウの群れがいることで、特別な鳥ポケモン対策をしなくて済んでる。ピカチュウたちはきのみを食べられる、おれは鳥害を防ぐことができる、もちつもたれつってところかな」
 それも、人間の勝手な都合でポケモンをえこひいきすることを言い訳されているようで、結愛はちょっと嫌だった。
 あとからやってきたピカは、折られたオボンの木を見て怒っていた。恵太と仲間たちと共に大事に育ててきたオボンを折られ、ここにいないリングマに対して、真剣に怒りをあらわにしていた。……ようにしか見えなかった。
 そのあとも、真面目に、楽しそうに、仕事を手伝っていた。恵太のポケモンたちの中でとびきり生き生きして見えるピカは、昨晩『チャッピー』と会話をした時の様子とは、まるで別人のように思えた。



 でも、そんなに都合よく、別人になってはくれないものだ。
「どう? 分かったでしょ? ぼくたちはみんな、好きで働いている訳じゃないんだって」
 お昼ごろ、顔を覗き込んできたピカは、すっかり『チャッピー』に戻っていた。
 コンテナに詰められたオボンを荷台に満載して、恵太は出荷に行ってしまった。用意してくれていたサンドイッチを日当たりのいい場所で広げて食べる。間に塗られていたオボンのマーマレードは、昨日食べさせてくれた焼きオボンに近い味がしたけれど、砂糖で煮詰めているはずなのに苦みのほうを強く感じた。
 意地悪く笑うチャッピーの向こうで、恵太のポケモンたちも輪になって昼食を食べている。物珍しそうに結愛を窺ってはくるけれど、チャッピーが人間の言葉を喋っていることに驚いている様子ではない。
 はいどうぞ、と押し付けられたオボンは、こんがり焼かれている。甘ったるい匂いだけで胸やけを起こしそうだ。
「昨日の話、覚えてるよね? 二回目の答えを聞かせてもらおうか」
 ぼくパン大好き、交換ね、と言いながら、恵太の作ったサンドイッチを、チャッピーはちょっと嗅いでからぱくりと咥えた。
「その前に教えて。なんでチャッピーは、人間の言葉が喋れるの?」
「なんでって練習したからだよ」
 もごもごと籠った滑舌で、こともなげな答えが返ってくる。二本足で立ち上がり、両手で支えたサンドイッチを小刻みに口を動かして食べる姿だけ見れば、よくあるかわいいピカチュウなのだが。
「有名なニャースの話知らない? 人間が好きなメスのニャースに振り向いてもらおうとして、独学で人語を習得したってやつ。ぼくも、恵太に一発ガツンと言ってやろうとして、独学で勉強したんだよね」
「なんて言おうとして?」
「こんな地味でつまんない仕事、ぼくはしたくないんだって。オボンなんかもうたくさん、チャンピオンを目指す挑戦者としてのプライドは、いったいどこにやっちゃったんだよ、ってね」
 ぷくりと膨らんだほっぺたが、もぐもぐもぐと動いている。それにしてはオボンのマーマレードをおいしそうに食べるねと言ってやりたい気もしたけれど、怒られたら怖いから黙っておいた。
「チャッピーは、バトルするのが好きなんだね」
 なんとなく投げやりな気持ちで結愛は言った。チャッピーはそれには答えず、食べ終えた手のひらのパンかすを小さな舌でぺろぺろと舐めながら、さあ二回目の答えを、と促してきた。
 人間のことが嫌いなチャッピーが、恵太の仕事を手伝う理由。結愛は農場に来てからのことを思い返して考えた。トレーナーをやめてオボン農家になった恵太。バトルは長いことしてないと苦笑いした。チャッピーはそれが気に食わなくて、チャンピオンを目指していた頃に戻りたがっているらしい。でも、それだけなら、仕事を手伝ってあげる必要なんかないはずだ。
 チャッピーを含め、ポケモンたちはみな、健気に仕事を手伝っている。なぜだろう。チャッピーがバトルが好きというところに、どうもヒントがあるような……。昨晩チャッピーが持っていってしまったみどぼんぐり。事務所の棚に飾られていた、年季の入ったフレンドボール。その横に置かれていたかみなりのいし……。
「……けいちゃんの仕事を手伝っていれば……かみなりのいしを使ってもらえて、ライチュウに進化できるから?」
 思いつきのあてずっぽうだった。
 チャッピーはあからさまにぶすっとむくれて、また口の形を『へ』の字にした。
「ぶぶー、残念。もっと慎重に考えなよ。あと一回しかないよ?」
 チャッピーはくるりと背を向けて、手近なオボンの木に飛び乗った。結愛は慌ててお弁当を包んで、ぴょんぴょんと枝を渡っていく黄色い尻尾を追いかけた。大事なみどぼんぐりを返してもらわない訳にはいかない。ポケモンたちが、二人のことを不思議そうな目で見つめている。
「ねえチャッピー。ポケモンはみんな、人間に大切にしてもらえると幸せって、わたし、学校で習ったの」
 伸びた下草がスニーカーに絡まる。生ぬるくて湿っぽい風が、木の葉を乱暴に掻き混ぜている。
 青空と、緑と、たわわに実ったオボンの下を、全部無視するようにして、黄色と茶色の縞模様はどんどん先へ進んでいく。
「ポケモンは、大昔から、人間と一緒に生きてきた生き物なんだって。手を取り合って生きていくべきなんだって……チャッピーはそう思わない?」
 ぴょんっと高枝から飛び降りて、道の真ん中で、チャッピーは振り返った。
 ぞくっとした。
 結愛の足は、勝手に立ち止まっていた。
 他のポケモンたちの姿は、木々の向こうに見えなくなっていた。一対一。肌がひりひりと痺れつく。それ以上近づいてはいけないと思った。チャッピーの電気袋はあからさまに電流を見せつけているのではないのに、下手したら感電してしまいそうな、強烈な緊張感を放っていた。

「そんなのは、人間のエゴだよ」

 チャッピーはあからさまに怒っていた。

「そもそも、ぼくはもう今は、恵太のポケモンですらないんだから。恵太から聞いてない? あの緑のボールからぼくはとっくの昔に逃がされてる。人間に付き合ってやる義理なんかない、ぼくは野生のピカチュウなんだ」

 結愛は何も言えなかった。
 お腹の中が冷たくなっていくような感覚がする。何を言われたのか、すぐに受け入れることができなかった。けど、少しもしないうちに、恵太のポケモンたちの中でチャッピーだけが森に帰って眠る意味が、不意に、結愛にも分かってしまった。
 立ち竦んでいる結愛の頭の上でざああとオボンの木は揺れ続け、少し距離のある事務所の方向で、車のエンジン音が聞こえた。
「……なんで、けいちゃんは、チャッピーを逃がしたの……?」
「知らないよそんなの、ぼくが使えないからじゃないの。恵太に聞いてみれば?」
 恵太が軽トラのドアを閉める時の、ばん! という音がした。チャッピーはちらりとそちらを一瞥して、ふんっと鼻を鳴らした。皮膚を切り裂きそうな静電気に似た緊張が、残暑の風に、ゆらりと溶けて消えていった。だけどその残り香は、結愛の鼻から肺に入って、確かに胸にこびりついた。
「はあ、あっきれた。きみを見てるとイライラするな。いっそ畑ごと焼き払っちゃおうかな?」
「え、だめだよ、待ってよ」
 どこか気怠げな顔の恵太は、二人を見つけると、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。結愛を見て笑ったというよりは、『ピカ』を見て笑ったように見えた。こちらに向かって歩いてくる。結愛は思いっきり声をひそめた。
「それはやめて。ちゃんと答えを見つけるから……」
 頼むよ、と、チャッピーは捨てるように言った。
 それからいかにもピカチュウらしい無邪気な表情の『ピカ』に戻ると、ぴっかあ、と幾分高い鳴き声をあげながら、恵太へと走り寄っていった。

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