3-1.岸辺

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 生まれてから三度目の、遅い雪解けの頃に母さんを亡くしたぼくは、母さんから教わることができなかった全てのことを、自分だけの力で身につけなければならなかった。
 例えば、グラエナやファイアローに見つからない場所を探し出して寝床を作ること。例えば、縄張りをパトロールして守ること。例えば、安全に走れる場所と慎重に進むべき場所をよく見分けること。
 そして何よりも優先的に、完璧に覚えなければならず、何よりも難しいのが、狩りだった。獲物から適切に距離を取り、身を隠しながら近寄る方法も、飛びかかって前足で押さえつけた後、即座に急所に噛み付いてとどめを刺す方法も、自分で一から身につけなければならなかった。
 獲物を探す方法すら身についていなかった。今のぼくなら、風に木々がざわめく音を聞くのと同じくらい自然に、下生えをコラッタが駆けていく足音や、ホルビーが新芽をかじっている音を聞き取ることができるし、どんな風に忍び寄ってどれくらいの力で飛びかかればいいのか、四つの脚がすべて覚えている。「何が聞こえる?」遊びなら、物音を聞き分けた後は母さんに褒められておしまいだったけど、狩りではそんな甘いことはない。どこに何がいるか分かったところで、爪と牙で捕まえられなければ何の意味もない。
 ぼくは自然と鳥たちに目をつけるようになった。地面を這うように逃げる小さな獣たちよりも、始終騒がしく鳴き交わし、ぱっと空に舞い上がる鳥たちのほうがずっと見つけやすかったからだ。そんなわけでぼくは幼い頃からオオスバメ達をうっとりと見上げていた――憧れからではなく、食欲から。
 幸いにもぼくの獲物となる鳥は存在していてくれた。ポッポ達だ。ピジョンが食べ物をやっているひなポッポの中に、必ず一羽はどんくさいやつがいた。飛び立つのが他の兄弟より遅れたり、よろよろとしか飛べないようなのが。ぼくはそういうやつを目ざとく見つけ、仕留めた。捕らえてみればそういうひなは羽毛が不揃いだったり、尾羽根がやたら長かったりした。まぁ、落ちこぼれはいるものだ。何をしても捕まえられるような獲物だったので、隠れ方や距離のとり方、忍び寄り方なんかを覚えるのにはうってつけだった。
 成長し、できることが増え、静けさに耳を澄ますことを知り、この小さな縄張りを歩く様々な獲物たちの味を覚えたぼくは、次第に、ある思いを抱くようになった。
(この縄張りは、ぼくには狭すぎるような気がする)
 ハンノキの林のどこをどう走れば人間たちの住み家まで速やかに行き着くことができるか、もう分かりきっている。林と人間の住み家を隔てる小さな草原は、たった一飛びで越えられそうなくらい狭く感じる。住み家に戻り始めた人間たちはまだ遠くから眺めるだけの存在だったから、人間たちの住み家を探検して回ることはできなくなっていた。
 ぼくはハンノキの林の中をぐるぐると歩き回った。それに飽きればケヤキの森をうろついた。そうして毎日を過ごしていた。
 ところどころの幹につけられた、縄張りの内と外を隔てる小さなしるしからは、もう母さんのにおいはしない。何度も何度もぼくが傷を付け直したから、ぼくのにおいしかしない。そのにおいを嗅ぐとまるで森の木々の中にただ一匹で閉じ込められたような気持ちになった。実際、アブソルはぼく一匹しかいないのだ。この縄張りには。ずっと一匹で縄張りを守り続けてきたぼくは、そのことを分かりすぎるくらい分かっている。
(ぼくは一生、ここで一匹で暮らしていくんだろうか、誰にも知られることなく)
 ぼくの気持ちは日に日に、雪の積もった枝のように鬱々と沈んでいった。そしてその鬱屈に耐えられなくなったある時、ぼくはとうとうある一本のハンノキの向こう側へ足を踏み出し、縄張りの外へ駆けていったのだった。

 初めて足を踏み入れた縄張りの外を、夢中でぼくは走った。燃えるような緑を輝かせるハンノキの林はどこまでも果てがないように見えた。時には足を止め、蔦を這わせた巨大なオークの木に見惚れ、時には興奮のあまりコケに足を滑らせて、ブルーベリーの藪に頭から突っ込んだりし、生まれて初めて見る本物のバッフロン(それまでぼくはこの巨大な獣の足跡しか見たことがなかった)に腰を抜かしながら、縄張りの拡大はあくまで慎重に行った。縄張りの内と外は一見同じように見えても、どこが安全でどこがそうでないのかは、縄張りから一歩出ただけでまるで見当がつかなくなってしまうからだ。
 特に、森の中のやや空が開けた空間や湿地帯に突然現れる、完全に打ち捨てられた人間の住み家は、どんなに隅々まで調べても安心できる場所にはならなかった。緑に飲まれかけた空間の中に、人間の使うものが不気味なほど静かに収まっているのを見ていると、どうしようもなく落ち着かなくなった。壁に引っかかっていたり、木の地面に整然と置かれているそれらがどういう使われ方をするのかは知らなかったけど、もういらなくなったから捨てていった、という風には見えなかった。絶対にそんなことがあるはずもないのに、今にも住み家の奥から人間が出てきそうな気さえした。恐らく、置かれているものは全て人間がここにいた頃のままで、人間だけが風のようにどこかへ去ってしまったのだ。
 ――人間は、人間の理由があってここを出ていったの。
 母さんの言葉が胸にこだまする。ここの人間たちもそうだったのだろうか? このような人間の朽ちた住み家に出会うたび、ぼくはそのことを考えずにいられなかった。こんな風に自分たちの使うものを何もかも放り出して逃げなければならなかった理由とはなんだろう、と。
 住み家の中でじっと耳を澄まし、鼻の感覚を研ぎ澄ませてもみたけれど、穏やかな風のざわめきと湿った木やカビのにおいの中に、頭を痛くするようなものは何も感じ取れない。
 ぼくはそこに、安心を見出した。
 ここから人間を追いやった理由が何であれ、少なくとも今、この場所には何の「災い」もない。全ては過ぎ去ったことで、今のこの森は安全で平和なところなんだ。ぼくはそう思いながら、人間の住み家から遠く遠く離れた、ぼくのもとの縄張りから真っ直ぐたどれる場所に生えたハンノキに縄張りのしるしを控えめにつけた。
 そうしてぼくの縄張りは、あちこちに歪な穴を残しながらも、ハンノキの森の端までたどり着いた。森の終わりは小川で、その先には草原が広がっていた。姿もにおいも知らない、角のないオドシシに似た土臭い獣が数頭で草を食んでいた。
 水のにおいはぼくの最も古い記憶を呼び覚ました。まだぼくが母さんのあとをついて歩くことしかできなかったあの頃、やはりぼくはこの小川に行く手を阻まれたのだ。そして、母さんの声にも。
「ぼうや、この小川を越えてケヤキの森の奥へ行くことだけは、絶対にしてはだめよ」
 ぼくの記憶にある小川は冷たく澄んでいて、岸の両側に生えたケヤキの木の枝の下を、涼やかな音を立てて流れている。今、ぼくの前にある小川は薄くにごり、底が見えず、ゆるゆるとした水に乗って流れてくるにおいだけが記憶の中のものと同じだった。
 そののろい流れを見ながらぼくは突然、こののどかな景色に見合わないほどの激しい衝動が胸の奥に湧き上がってくるのを感じた。ぼくの頭より高く伸びた草の細い葉が、母さんの尻尾に見えて仕方ない。母さんの乳のにおいまで思い出しそうだった。ぼくは毛を逆立ててうなり、空に向かってピンと伸びたその葉よりも高く、高く飛び跳ねて、飛び越して、飛び降りた草陰に隠れていたビッパの背に乗ると、その背骨を思いっきり噛み砕いた。川向こうで土臭い獣たちが悲鳴をあげて逃げ去っていく。
 仕留めた獲物を夢中で喰らい、毛皮と口の周りについた血を落とすことすら忘れて自分の住み家へと駆け戻ったぼくは、ハンノキの林を踏破した達成感とこの時の強い衝動のままに、母さんと交わした約束の残り二つを破ることになる。
 一つは、人間の前に姿を現すこと。
 もう一つは、小川を越えて、ケヤキの森の奥へ足を踏み入れること。
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